(3) 田中智学居士の本仏本化同体論

 

日蓮本仏論と良く似た説に、山川博士の直師でもあり且明治の教傑と言はれた日謙田中智学居士の本仏本化同体論が有る。富士門徒ではないがまことに富士法門に近い事を言って居られるから、一寸紹介しておかう。所依は本化妙宗教学大観で、略号を「観」とするが、一々は記さない。乞ふ御遺文の「艮」と混同せざらん事を。住持三宝の立分けは諸派に同一だが、

(523)大聖人をば或は仏だのイヤ僧だのと定計すべきではない、三宝ことごと(く)宛然として聖祖の御身行中に具し且影現して居るので、聖祖直に三宝の体ともいへる、外用は且く措いて内証においては、聖祖は直ちにこれ法の大勢力である

とし、御遺文を引いて聖人に仏法僧の三宝蘊在してみることを証し、

(524)霊山付嘱の要法の根元たる「常住本法」を「法主」とし、

本法の能証者たり果法の体現たる「常住本仏」を「仏宝」とし、

本仏の化現たり因法の体現たる「常住の本化」を僧宝とす、

――この三、本来一体であるから三即一体、これを「別頭三宝」といふのである、即ち常住の本法には自らその霊力の活動力がある、その活動力中且く果法を表にしての現れを本仏とし、因法を表としての現れを本化とするのである――大菩薩は本仏と全て異ったものではない、一体三宝の故に本化大菩薩の中には本法本仏の功徳は円満に含まれ体現せられるのである、吾人はこの本化を通じて本法本仏を認めるのである、斯の如く解したならば、宗祖本仏論、釈尊本仏論もともに他を否するときは偏執たることがわかるであらう。――久遠本法が本化の菩薩によって所持せられて居る――本法と切っても切れない因縁を持って、つねに本法の徳を身に体現しつつあるのが本化の本地である――妙法専門の菩薩、本仏と一体の菩薩である。端的にいはば本法の本因面の活現、本仏の因行面の化現というても可いのである――法界に遍満せる最根本の真理即ち第一義諦をば真性軌といふ、本化菩薩本因の位においてよくこの徳を顕して自ら法身の妙体を証したまふ――よく真性の理を照す所の第一義空をば観照軌といふ、本化菩薩本因の位においてよくこの徳を顕して自ら報身の妙智を証したまふ――前の理智相資るとき其内に無量の功徳を含蔵する所の如来蔵を資成軌といふのである、本化菩薩本因の位においてよくこの徳を顕して応身の妙功徳を証したまふ――本化は本仏同体の大士であるから、斯の如く因位ながらに本有の三徳を持ってあらせられる

と言ふに至っては殆ど本因妙の教主とも言はんばかりの語勢であり、更に日本を論じて、

(524)深く神秘的に論ずるときは、日本こそは本仏が世界統一の大経論の実行の為めにとて、天祖となって建国せられたものである

と、先には口伝相承を否定しておきながら、諸派口伝と同じことを展開する。更に唱題について論じなから、

(526)題目を唱へて即身成仏するその所契の本仏は即ち聖祖の御実体であらせられる、若し聖祖の内容が本仏であらせられなかったら、下種の法門は成立しない、聖祖が絶対的に本仏でないといふときは、釈尊もお題目も何も無くなる。三つ一体であるからである。故に「宗祖本仏論」も「釈尊本仏論」も互に畢寛してその外はないといふなら、ともに僻論である、その呼吸は七分三分の兼合でいづれも真理であるのだ、どうも中古からわが宗団の情弊として、わかった議論もわからぬやうにして反目嫉視して居る、ともに一大聖祖に帰し奉ることを忘れたからである。

 

であらせられる、かく見奉らねば本仏も本法も本化も土崩瓦解して了ふ。

 

 

のでその内容本体は一つである。下種の時と脱益の時とで、本因本果その活現の方面が異ふのである。

ここへ来ては聖人に関しては唯立名の異が有るだけで、実体は富士の法門と少しも異らないといふべきであらう。唯、本仏をあくまでも果としてみるのが富士と違ふやうにもみえるが、居士はここでは久遠元初の本仏と寿量顕本の釈尊を同じものと見てゐるから違って来るので、この本果を「今の本果」たる脱益釈尊なりと見れば富士家と殆ど異らない。

(527)九識心王即本門の本尊、本尊即日蓮が魂、日蓮が魂是九識心王の本尊である、しかもこの御本尊は大聖人の御自作てない――本仏所顕上行付属の御本尊である――大聖人の己心中所行法門である、日蓮が魂とはこの故である、御本尊の中柱に御名がなければ役に立たぬといふのはこの故である

ここまで押し詰めたが本仏の語を出し憎みしたので中柱を直に仏様だとは言ひ難かったか、半歩手前で止ってゐる。この智学居士の主張を富士門徒から見たらどんな事になるであらうか。大体に於ては変りないから、唯、

一 本因妙教主本化本因の立名の当否

二 本仏因果何れなるやの事

三 富士の日蓮本仏論は釈迦本仏を認めないか。認めるなら僻論といふ破は当らぬ。

の三項となるであらう。

第一に居土は相伝を依拠とせず、寛師我師等は専ら相伝に依る。相伝には下種仏、本因教主等の明かな名目が有るが、通行の御遺文には諸法実相抄《114》御義口伝《90》顕仏未来記の不軽と名字日蓮と佐渡御書の不軽行成仏などに意が見えるけれども殆ど明説は無い。従って居士は専ら御書御義向記等の意に依って述べざるを得ず、従って意に於て同しでも名は別とならざるをえなかったのだ。

依文既に異るから文証に依って両者の当否を論することはできない。理証を取るとすれば、富士の法門は本因に本果を包む仏を新しく設定し、居士は本化の内包を法華経文上よりも拡張解釈してゐる。下種本因仏の名目を作るのは不可だとあらば富士の法門は不可であり、本化は唯薩捶にして仏にあらずと強調すれば居士の立論は不可である。しかし何れにしても御書の意の赴く所は同一で、違目は唯相伝の用否に在る。唯、本化に内証本仏を許し乍ら仏名を与へない為に、本尊を論ずるに当って日蓮御判に適当な術語を与へ得ないのが居士の苦しい所だ。

二に迹仏は相好荘厳四教八教ありとは寛師の言ふ如く既に天台の説である。若し天台の本極法身、本地自受用等は居士も指摘する如く、尊いにはちがひないがつかまへ所が無く、十観十乗の修行に堪えぬ機類の前には素法身に過ぎなくなり、像法過時と斥はれる。日蓮宗の説く本仏は天台の本仏を人格的実在者とし、其の三身常住三世益物を論ずるのだから、無荘厳随自意説法の仏身でなければならぬ。相好荘厳で随自意説法するとでは、相性不通となる。御義向記等に説かれる本仏はすべてかうした出尊形無荘厳仏だ。著しそれ本果も無荘厳と言ふなら本行菩薩道の修因が感果とならない、有因無果の仏になる。本果にして無荘厳と言ふたら、久遠元初自受用身に内在外隠する所具の仏界とならざるを得ず、本因自受用の得分となる。依って本仏は本果身となし得ない。

三に富士で言ふ釈迦は前述の如く一様ではない。今霊山出現寿量顕本の釈迦は文上他受用迹仏、文底応仏昇進の自受用だ、教師の類聚翰集私に

(233 )脱益の仏果をば必ず他受用身なりと定むるなり(儀一310)

と言ってゐる。末師の説だから依文にはならないが、師の引用するものは、

脱益妙法教主本迹 所説正法本門也能説教主釈尊迹門也法自不弘人弘法故人法トモニ尊シ脱五大尊本迹 他受用応仏本普賢文珠弥勒薬玉ハ迹也(要相20)

下種五大尊本迹 久遠本果自受用報身如来本也 上行等四菩薩迹也(同30)

であって、明かに脱益は他受用としてある。他受用では自受用に劣る。劣る仏は本仏ではない。そして所説の正法は内証題目を含むから本勝、能説の仏は之に対して迹劣となる。

下種の題目を付属する儀式となって、本果自受用の仏身となり、本因垂迹の地涌を迹として本法を授与する。この場合は果勝因劣のやうだが、地涌は本仏の本地身でなく、外用菩薩の垂迹身だ。この仏は与へて言へば本仏だが奪って言へば応仏昇進の自受用で、本因自受用身の垂迹である。

そこで久遠の元初に騰れば本地自受用身は内包する本果に約して言へば釈迦だし、表に出た本因に約して言へば日蓮で、両者に通じる名号は南無妙法蓮華経となる。又本因唱題世々番々の御出現に約すれば釈迦、本因唱題行を末法に移した仏身に約すれば日蓮だ。即ち本仏は因表果裏の一面以て見れば日蓮本仏に親しいが、釈迦日蓮一体の異名(産湯相承)の線ではその何れを本とすることもできなくなる。

然らば釈迦本仏を有作荘厳身と解した時は、日蓮本仏、釈迦迹仏といふのが富士の義でこれなら居士の破に当るが、その代り居土の方も本仏は荘厳身と言った事になって御義口伝に違する。無作三身とする時は釈迦日蓮一体が富士門徒の立義で居士の破には当らず、これ亦逆に上行に仏の内省を認めながら仏号を出し惜しみする居士は、釈迦本仏論に僻する者となって自らの破に当るわけである。

 

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