山川博士の本門本尊論附録14頁に、大石寺日寛師を評して、

 (459 )この人の流儀は大石寺の法燈を大成したものであるが興師門流の正統だといふ主張は決して是認できない。足利初期あたりから発達して来た特異の思想とは認められる。

と言ってゐる。叉創価学会批判には、

(460) 釈尊の因行と、それによって成就せられて(たヵ)果徳とを区別して、果徳は因行によるが故に因行を本とし、果徳を迹するといふやえ考へ方に立って宗祖本仏論が成立ってゐる。――いはば釈尊の時代は、その在世を中心とし、正像二千年を最後として終りを告げたのである。末法萬年の闇を照すのは、上行菩薩即ち日蓮聖人に俟たねばならない。宗祖こそ末法に於け主師親三徳有縁の救済主である。既に脱仏として救済力の無い釈尊を、今日持ち出すことは全く無益であり、時代錯誤であると見るのである。

と紹介し、更に日寛師は、

種脱をその実体に於ける本質的な勝劣による絶対的な相違とする説であり、

その以前の日有、日精等は、

時機による相対的な勝劣説

で、両巻血脈書も後考に属するとし、寛師教学の特質を強調する。そして、時機による種脱説は理論的に不徹底を免れず、過去脱益現在種益説までに変化して来るから、順応日教が類聚翰集私に書いたやうに、

(461)末法の本尊は日蓮聖人にて御座す。然るに日蓮聖人御人滅有る時、補処を定む、其の次、其の次ぎに仏法相続して当代の法主の所に本尊の体、有るべきなり、

六人立義破立抄私記の、

462)当時の上人は日蓮聖人なり

といって遂に宗祖冥益、当住顕益の思想にまで及び宗祖又脱仏として隠居される時機が来ることになる。それではおかしいから寛師は種脱の勝劣を法体に求め、因勝果劣の思想を確立したのである。と、やはり寛師に独自の法門の開展が有ったことを説き、

(463)かかる本仏観は――寿量品に於ける本果の顕本を以て単に文上塵点有始の仏であると見做し、この塵点有始に即して無始久遠本果妙の顕本を認めずして、これを直ちに本因妙の顕本と見做すのである。

然るに宗祖の寿量顕本観は、塵点始成に即して、本果の久遠本仏の顕本を明らかにせられてゐる。即ち塵点始成の果に依って、久遠元初の本因妙を顕はさんとするのでなく、塵点始成の迹果に即して、久遠の本果妙を顕はすにあるのである。そしてかかる寿量品観こそ法華経の真義であって、かの本因妙顕本説の如きは、法華経の精神に悖るものであるといはざるを得ない。

と本果正意説を主張する。こちらの方が山川博士より詳細であるが、どちらにしても、富士門徒の日蓮本仏論に対する、権威ある批判と考へて良いであらう。富土門徒は之に対して何と答へるであらうか。先づ何よりも、差当って批判の対象になってゐる堅樹院日寛師に聞いてみる必要が有らう。

大貮阿闍梨聖樹院覚真房日寛師の俗姓は酒井雅楽頭の家中伊藤氏。寛文五年生、総領でなかったと見えて江戸に出て旗本の家来となり、十九才天和三年下谷常在寺(今は雑司谷に在り)精師の化に帰し、同年永師に従って薙染、元禄二年細草檀林に入って修功を積み、化主に昇り、正徳元年大学頭、享保三年五十四才で大石寺の大坊に直る。在位三年、檀林の先輩養師に位を譲り、享保八年養師遷化に依って再任、十一年五月大学頭詳師に預め血脈を付属し、八月十八日遷化。六十二才。

師の土木の功は常唱堂(今寛師堂とも呼ぶ)、石之坊等に過ぎぬが、天台末抄御書の注釈等著迹甚だ多く、殊に六巻抄は有名である。辰師が学古今に亘り東奔西走の活動家だったに比較して、師は年礼の為に下江した以外は殆ど大石寺に篭り、専ら著迹と弟子の養成に当り、その弟子には細草の先進廣宜院日養師を始め、守真院日詳、妙尭院日東等大石寺瑞世の諸師有り、其他富土門徒全体に深大の影響を及ぼした。唯摩の一黙声雷の如きもの歎。

 

 

 

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