第20章 予言はなぜ当たらないのか

 

 

1970年代になされた予言を検証すると、みな悲観的でしかもそのほとんど全てが間違っていた。

2012年の時点の予言も悲観論よりは楽観論のほうがずっと根拠がある

 

 未来を予言することについて、期せずして最も深遠な発言をしたのは、知性を売りものにしていたわけではないふたりの運動選手だった。アメリカの野球選手ヨギ・ベラいわく「わたしはぜったいに予言はしない。特に未来については」。イギリスのサッカー選手ポールーガスコインは、もっと上を行った。「わたしはぜったいに予言はしないし、これからもぜったいにしない」。

 予言など、徒労にすぎない。これまで未来を予測した者たちの誰にも予言の才がなかったことが立証されたし、これから先も例外はあるまい(と、わたしは自信満々で予言できる)。そう、優れた先読み師と評判の者たちでさえ、実際にはほとんどの場合、無能ぶりをさらした。例えば、アーサー・C・クラークは静止衛星を予見したが、(1962年の発言では)水陸両用艇が陸上交通を支配するようになった結果、1990年代の時点で「本公道における車輪付き輸送機関の走行禁止」という標識が見られるようになるだろうとも言っている。

 だから、わたし自身の予言を公表する前に、予言がはずれる理由をいくつか挙げておこう。第一に、世の流れの多くは直線状ではないので、ある年代に水平線上の霞でしかないもの(例えば、1980年代後期の携帯電話とインターネット)が、次の年代にはハリケーンと化しうる。第二に、経済学者のティム・ハーフォードが著書の『アダプト思考』で論じるように、世界を変える新機軸の大半が、理知的な構想や計画ではなく、やみくもな試行錯誤の賜物だということだ。第三に、ジャーナリストのダン・ガードナーが著書『専門家の予測はサルにも劣る』で論じるように、現状維持バイアス(訳注;変化を回避し現状維持を志向する心理傾向)の影響で、予測屋はじつは未来というより現時点についてずっと多くを語っているものだ。20世紀半ば、それまで50年のあいだ通信技術にほとんど変化がなく、輸送分野に驚異的な変革が起こったあと、未来学者たちはみな宇宙旅行の日常化、個人用ジャイロコプター(訳注;ひとり乗り回転翼式プロペラ機)、ジェットパック(訳注;背嚢型ジェット噴射飛行装置)についてしゃべり立てたが、インターネットや、どこからでも接続可能な携帯電話網を予見した者はひとりもいなかった

 

 

予言はこれまでことごとく外れてきた

 今後40年で終わりを迎えるものはないだろう。歴史も、科学も、石油も、戦争も、資本主義も、本も、愛も…ごくまれな例(投石機、枝角製の石器加工用具)を除き、古い技術や発想は新しい技術と共存し続ける。投石機でさえ、ロック・コンサートの演出で炎上するピアノを投げるためによみがえった。人間社会の特質は、発想を入れ替えるより積み重ねることにある。さらに、物理学者アーネスト・ラザフォードの原子力に関する見かた(原子力のエネルギー利用は「絵空事である」)、あるいはスプートニク打ち上げの2週間前に英王室天文官が宇宙旅行について言ったこと(「ほら話」)のように、どんな目標であれ不可能と決めつけるのは誤りだ。ここでふたたびアーサー・C・クラークの言葉で、今度は的を射たものを引用しよう。

 「名高い科学者が……何かが不可能だと明言しても、それはほぼ確実に間違っている」とはいえ、特定の技術の盛衰を予報することはほとんど不可能だ。わたしがテレトランスポーター(瞬間輸送装置)の発明を予言できたからといって、それを発明できるというわけではない。

  過去の予報からはるかに鋭い教訓を引き出すとしたら、それは地球規模の悲観論がたいてい間違っているということだろう。未来学の分野には、大変動にまつわる的外れな予測がごろごろ転がっている。40年前の1971年にさかのぼり、当時10代になった者たちが以後40年にわたって聞かされた、悲惨な運命へのやむことのない嘆き節を思い出してほしい。

 おとなたちは恐ろしいまでの確信をもって、わたしたちに語った。人口爆発は食い止められない。全世界的な飢饉が必ずや起こる。作物収量の増加が衰える。インドヘの食糧援助は効果がない。環境中の農薬による癌の異常発生が、人間の寿命を縮める。砂漠が年に2マイルずつ進出している。核降下物の危険は高まるばかりだ。必ずや起こる核戦争の結果、核の冬が必ずや訪れる。エボラウイルス、ハンタウイルス、豚インフルエンザの全世界的流行の機は熟した。市の荒廃は覆せない。酸性雨が森林をまるごと破壊するだろう。石油の流出が増加している。経済成長は頭打ちだ。全世界の不平等度が上昇する。石油とガスは間もなく枯渇し、銅、亜鉛、クロム、その他の多くの天然資源も同様。都市の大気汚染が深刻化する。5大湖が汚染で瀕死の状態だ。毎年多数の鳥類や哺乳類が絶滅するだろう。新たな氷河期がやってくる。精子数が減りつつある。狂牛病で数10万人が死ぬ。遺伝子組み換え作物が生態系を荒らす。ナノテクノロジーの悪影響が広がる。新たな千年紀に入るとコンピューターが誤作動し、それに伴って文明の一部が崩壊する。冬に雪が降ることがめったになくなる。ハリケーンの発生頻度が増す。マラリアが蔓延する。気候変動で種が全滅する。気象災害で死ぬ人が増え、海水面の上昇が加速する。

 ここに挙げた説はすべて、主要メディアで何度か大々的に報じられたもので、知名度の低い説は取り上げていない。

 わたしが話を誇張していないことを示すために、いくつか引用しよう。元国連事務総長ウータントの1969年の発言。

 「もしこのような全世界的協力関係が今後10年以内に成立しなければ、わたしが述べてきた諸問題が人間の管理能力を超えた驚異的な規模に達してしまうことが、非常に懸念される」(協力関係は成立しなかった)

 1972年のベストセラー『成長の限界』の表紙の惹句。

 「これは孫たちに感謝されるような世界と言えるだろうか? 工業生産がゼロに落ち込んだ世界。そこは人口の破滅的な下落に見舞われ、大気も海も陸も取り返しがつかないほど汚染され、文明は遠い記憶になっている。これがコンピューターが予測する世界なのだ」。

 高名な経済学者ロバート・ハイルブローナーの1974年の発言。

 「人類の見通しは痛ましく、困難で、おそらく絶望的なものだとわたしは確信しており、人類の前途にいだきうる希望はごくわずかと思われる」。

 世に名高い生態学者パウル・エールリヒの1974年の発言。

 「存続可能な国家としてのインドの消滅につながる一連の事象が、すでに動きだしている」。

 『ニューヨークータイムズ』紙が1980年に、石油価格の下落直前に掲載した記事。

 「予見可能な未来のエネルギーについて、楽観論などというものはありえない……エネルギー価格はひたすら上がっていくだろう」。

 アル・ゴアの2006年の発言。

われわれは複数の”臨界点”に近づきつつあり、そこに――わずか10年以内に――達すと、人類の文明にとっての地球の居住適性に取り返しのつかない損傷が生じることを回避できなくなると、多くの科学者が警告している」。

 まだ結論の出ていない少数の例は別にして、列挙した予言はことごとく間違っていた。予言と現実が数年ずれていたという話ではなく、まさに正反対、180度間違っていた。1971以降の40年で、人口成長率は半減した。飢饉はめったに起こらなくなり、平均作物収量は2倍になり、インドは食糧輸出国になった。寿命は全世界で25パーセント延び、年齢調整癌死亡率は下落した。サヘル地域(訳注:サハラ砂漠南緑部に広がる半乾燥地域)の緑化が進み、放射性降下物レベルは90パーセント落ち、核兵器の3分の2が取り除かれた。ウイルス性感染症の全世界的流行は発生せず、数々の都市が繁栄し、森林被覆度がやや増した。海洋に流出する石油の量は90パーセント減った。空前の全世界的好景気が起こり、貧困国が富裕国よりはるかに急速に豊かになるにつれて、不平等度が急激に下がった。石油とガスの備蓄量が膨らんで、しばらく価格が下落した(ただし、石油価格は2009年以降ふたたび跳ね上かっている)。金属価格は急落した。都会の大気汚染は開発途上世界全体で迅速に改善され、5大湖は浄化され、氷河期は到来せず、鳥類・哺乳類の絶滅率は低いままだった。精手数は減少を免れ、狂牛病による死亡者は20年間で172人程度だった。遺伝子組み換え作物は生物の多様性の増加につながり、ナノテクノロジーは害をもたらさなかった。Y2K問題になんの対策も講じなかった国々(例えばイタリアや韓国)でさえ、千年紀の際もコンピューターには些細な問題がわずかに生じただけだった。北半球の平均積雪面積は増加し、熱帯低気圧の強度指数は記録的な低さに落ちた。マラリアはなりをひそめ、気候変動の結果としての全世界的な種の絶滅は一件も起こっておらず(オレンジ募蛙は蛙壷撒菌で滅んだ)、異常気象による被害で死ぬ人は減り、海水面の上昇は加速しなかった。

 わたしが自論に沿う例ばかり選び出したとお思いだろうか? では、代わりにどんな凶運の予言がお好みだろうか? 北極海の夏期海氷範囲は、21世紀最初の数年で予想より急速に狭まった。しかし、南極の夏期海氷範囲は同時期にわずかに増えた。南極上空の季節的なオゾンホールの解消に失敗したのは確かだが、その結果パタゴニアやニュージーランドで皮膚癌や白内障が異常発生するという説は、まったくのえせ科学であることが判明した。地球温暖化は全体的に見てどうかというと、1970年から2010年のあいだの温暖化は摂氏約0.5度で、その40年間の最後の10年間は変化が最も緩やかだった。最初に地球温暖化を有名にしたNASAの科学者ジェームズ・ハンセンなどの面々が1980年代に予言した値には、とうてい届かなかった。ハンセンの1988年の発言によれば、現在までに「地球上で10万年のあいだに経験されたどんな気候レベルをも優に超える」 1.4〜2.8度の気温の上昇が見られるはずだった。それから4半世紀のち、気温はその約10分の1しか上かっていない。

 そういうわけで、現代の教科書やメディアを通じてわたしの10代の子供たちに浴びせられている悲観論者の陰影な嘆き節を、わたしが額面どおりに受け取らなくてもお許し願いたい。そういう嘆き節のおかげで、圧力団体や補助金交付法人の業界が資金を得続けているのだ。この ”世界終末論業界”の能力、すなわち、こういうなりゆきはわかっていたとわけ知り顔で、メディアから以前の予言の何か間違っていたのかという単純きわまりない質問さえ受けないまま、みずからの誤りに知らんぷりを決め込む能力が今後も維持されるということこそ、確信を持って予言してもよさそうだ。2050年になっても、メディアが(どんな形態をとるにしろ)悲観論者たちに支配されているのはほぼ確実だろう。その時点でもまだ、今にも大災厄が起こると言われているはずだ。

 

 

良いニュースは目立たない

 凶運の予言がなぜ1971年に間違っていて、2012年にも、2050年になっでも間違 っているのか、その単純な理由がふたつある。第1に、悪い話はよい話まりずっとニュースにしやすいからだ。よいニュースは凪、悪いニュースは時化のようなもので、人類の生活水準の全般的な向上が進んでいてもほとんど目立だないのに対し、戦争、景気の後退、地震、小惑星の地球への衝突などは、青天の露震のごとく世を騒がせやすい。だからいつも新たな恐怖が話題にのぼり、穏当あるいは楽天的な声は、もっと極端で後ろ向きな予言にかき消される。世界で2〜5パーセントの経済成長率が年々続いているのに、そのことはほとんど報道されない。

 第2の理由は、もっと根本的なものだ。恐怖の筋書きはどれも、人が何も対策を講じないことを前提にしている。つまり、人間とは線路に突っ立つたまま逃げようともせず、列車が迫り来るのをただ眺めているものという想定だ。2000年代最初の10年間に干魃、洪水、嵐で死んだ人の数は、人口がはるかに増えたにもかかわらず、1920年代に同じ原因で死んだ人の数より93パーセント少ない(図20.1参照)。

それは気象災害が昔ほど危険ではなくなったからではなく、住まい、輸送、通信、薬剤ほかの技術のおかげて、人々が死の危険性を削減できたからだ。もし食糧が不足すれば、食糧価格が上がり、農家は栽培量を増やし、収穫高を上げるためにもっと肥料を使うか、さらなる実験に取り組む。もし石油が不足すれば、価格が上がり、新しい掘削技術が開発される。もし鉄や銅が高価になれば、代用品が見つけ出される。汚染が深刻化すれば、大気汚染防止法が制定される、などなど。ヴィクトリア朝の経済学者ウィリアム・スタンレ・ジェヴォンズが、その令名にもかかわらず「ほかのなんらかの燃料を石炭の代用品にすることを考えてもむだである」と発言してから6年後に、最初の油井が掘られた。人類と、人類が必要とする資源との関係は、人が山積みのチョコレートを自由に食べて減らしていくというようなものではない。自然の制約を人間の創意工夫でうまく緩めていくという関係であり、そこでは価格シグナルが努力を実り多い方向へと導く。

 

 

低価格が鍵

 従って、低価格化が鍵となる。経済成長は、人々がみずからの需要と欲求を満たす資力を獲得するのに必要な時間を減らすことでなされる(図20.2参照)。完全に自給自足の人が食糧、住まい、衣服の基本供給を得ようとすると、独力では毎日何時間もかかるところを、国際分業に参加する現代人で平均賃金を得ている人なら、質のよい食糧、ファッショナブルな衣類、そこそこの家の賃料に必要なお金を稼ぐのに毎日ほんの数時間しかかからない。1950年代には、平均賃金の人がハンバーガー一個の代金を稼ぐのに30分かかったが、今では3分だ。19世紀後期の悪徳資本家たちは、世間から好かれはしなかったものの、商品のコストを削減することで大金持ちになった。1870年から1900年のあいだに、コーネリアス・ヴァンダービルトが鉄道貨物の価格を90パーセント削減し、アンドリュー・カーネギーが鋼鉄の価格を75パーセント切り下げ、ジョン・D・ロックフェラーが石油価格を88パーセント削った。1世紀のち、マルコム・マクリーン、サム・ウォルトン、マイケル・デルが、それぞれコンテナ輸送、ディスカウント販売、ホームーコンピューティングでほぼ同じようなコストの削減をなし、やはり世間から好かれなかった。技術が人間の生活水準に作用するのは、技術が発明されたときではなく、何10年ものちに手ごろな価格の技術になったときなのだ。

 では、今後40年でどんな商品やサービスが低価格化するのだろうか? おそらく、エネルギーだ。新技術のおかげで、天然ガスと太陽光発電はどちらも2050年の時点でずっと安く顧客に届けられるようになりうる。ガスは現在の低価格を今後何十年も維持できそうだし、太陽光発電は着実に安くなりつつあり、間もなく補助金なしでも手ごろな価格になるだろう。ガスを燃料とするタービンは比較的効率よくスイッチを入れたり切ったりできるので、天然ガスと太陽光発電は、夜間はガス、昼間は太陽光のようにうまく協働しうる。原子力は、もし安全設備のコストを抑えられ、草創期に幅をきかせたウラン燃料の水冷式の設計から脱却し、かわりに安全性の高いトリウム溶融塩炉に移行すれば、エネルギー価格の低下に貢献するかもしれない。常温核融合のような未知の要素がいきなり浮上するかもしれないし、高温超伝導体が実用化されるかもしれない。しかし、どんな技術であれ重要な点は、エネルギーがおそらく高価にではなく安価になることだ。風、木、水のような旧来の再生可能エネルギーには(今と同様に)将来も、価格競争をしたり、必要量のエネルギーを産出したりする見込みがまったくない。なぜなら再生可能エネルギーはあまりに広大な土地を必要とし、その上地を買ったり保有したりすることを望む人の数を考えれば、地価が下がることはなさそうだからだ。2、3の適所への応用を別にすれば、2050年の時点で再生可能エネルギーは金食い虫になるだろうから、昨今わたしたちがそこに熱心に補助金を注ぎ込んでいることに、孫たちの世代はびっくりするだろう。

 バイオテクノロジーも低価格化すると見ていい。過去40年間の遺伝学や分子生物学上のあまたの大発見は、患者や消費者より研究者たちのほうにはるかに役立ってきたが、状況は間もなく変わっていくだろう。幹細胞の最も心躍る特徴のひとつは、ひとたび技術がうまく機能するようになれば手ごろな価格になりうることだ。つまり、幹細胞を抽出する機械を患者につなぎ、幹細胞のプログラムを書き換え、再移植するだけでいい。臓器修復の方法としては、幹細胞のほうが外科手術より痛みが少ないばかりか、コストが低くなりうる。同様に、癌治療も大発見がなされる寸前で、それはおそらく細胞内の高分子を必要な場所に届ける方法として、癌ワクチンや遺伝子組み換えウイルス療法を使うというものになるだろう(細胞膜を通過して癌細胞を攻撃できるような低分子の探究という、旧来の薬学的アプローチは停滞しつつある)。こちらも放射線療法や化学療法より効果的であるだけでなく、安価さも見込める。過去10年の最も期待をそそる流れのひとつが、すべての癌による年齢調整死亡率が、少しずつだがはっきりと下降傾向にあることだ。2050年の時点で、癌死亡率は現在の心臓病や脳卒中での年齢調整死亡率並みの速さで下がっているかもしれない。

 過去40年間で華々しい低価格化が進んだ通信は、今後40年で確実に価格が底を打つに違いない。いったん超広帯域携帯動画の1分あたりコストが、現状がほぼそうであるようにゼロも同然となると、もっと安くしたところで生活水準にはたいして資するところはない。ここ数10年、技術より低価格化に力を注いできた輸送分野は(格安航空会社はいまだに40年前と基本的には同じエンジン設計を採用している)、おそらく今後数10年でもっと手ごろな価格になるよう懸命の努力をするだろう。そして、渋滞は人口過密都市のインフラの改善が不可能なことから生じているので、将来も輸送分野のコスト削減のあらゆる試みを邪魔し続けるだろう。

 

 

もっと安くつく政府に?

  では、政府はどうだろうか? 過去40年にわたり、政治的指導者とその官僚制の執行者たちはおおむね、自分たちが提供するサービスのコストを減らす努力をほとんど、あるいは何もしなかった。じつのところ、平均的な納税者が政府のサービスの代価を稼ぐのにかかる時間はかなり増えているのに、サービスのコストにはほとんど改善が認められない。独占事業にはよくあることだが、公共部門では生産性の向上による利得が、内部の高い給与と年金に吸い込まれるからだ。これには言いわけがあり、少なくとも部分的には説得力がある。すなわち、政府が提供するサービス・インフラ、保健医療、社会福祉事業、防衛、法と秩序などには、もともと低価格化を受けつけない性質のものであるという論だ。さらに言えば、(民間部門による)ひとりひとりの衣食、通信、娯楽がどんどん安くなるとともに、手のつけようのないもの、すなわち保育や税務など、生活の中の容易には低価格化できないものがますます目につくようになっている。農業と製造業は今やはかばかしいほど安く、わたしたちの需要を満たすためのコストのほんの小さな部分しか占めていないので、この2分野をもっと低価格化してもさしたる違いはないだろう。進歩がないといけないのはサービス分野であるという説が、(経済学者タイラー・コーエンの著書『大停滞』でほのめかされたように)真理だとすると、そこには収穫逓減の時代がついに到来するという意が含まれている。

 収穫逓減の到来は、久しく遅れている。経済学者たちはジョン・スチュアートーミル、デヴィッド・リカード、さらにはアダム・スミスの時代からずっと、技術の収穫逓減を覚悟してきた。ところが実際には、成長は加速し続け、収穫逓増が見られる。だから、生産性を向上させる技術が尽きたとたんに全世界的な成長が鈍り始めるとしたら、それは1800年以来続いている流れとは逆になってしまう。それが、わたしが収穫逓減が起こらないと予期する理由のひとつだ。もうひとつ、世界のどこかで誰かが医療、家屋建築、輸送、飲食店経営のような分野の質を上げつつ価格を下げるやりかたを考案するからという理由もある。そういう新機軸が、孤独な天才たちの意見交換会からではなく、数々の発想の集合と交配から生まれると考えると、インターネットが新機軸の発生率を加速させ、それゆえ低価格化の方策を見つける機会を増やしたと言えそうだ。

 経済成長のあまり注目されることのない特徴、それは政治的実体が大きくなるほど成長が安定化することだ。国は市より、大陸は国より、景気の浮き沈みが起こりにくい。地球全体の成長率は、なかんずく惑星単位では借金ができないという理由から、さらに安定的だ。第2次大戦以来、全世界のGDP成長率がゼロを下回ったのはたった1年だけだ。それは2009年のことで、マイナス0.6パーセントの成長率だった。実社会のひとりあたりのGDPは、1970年の2倍になっている。もし今後40年で同じことが起これば、地球の平均的市民の年収は今のドルに換算して約2万2千ドルとなり、これは現在のEU数力国の平均的市民の年収より高い。

 

 

もっと維持可能な未来へ

  より高い生活水準はより多くの資源を使うことを必然的に意味するという、マルサス学説の前提は間違っている。有限かつ必須の資源である土地を例にとろう。人間ひとりを養い、住まわせ、燃料を与え、衣服を着せるために必要な土地の量は、人々がより豊かになるにつれて増えるのではなく減り続けている。農産物収穫率の向上、ウールの代わりに合成フリースを使うこと、薪の暖炉をガスの集中暖房装置に替えること、さらには木材の代わりに鋼鉄や炭殻コンクリートブロックのような新建材を使うことはすべて、人間の生活様式を支える占有土地面積を削減する。人々が徐々に都会へ移住することで、都市生活者の生活様式を支える内陸の農地面積を計算に入れても、各人に必要な土地面積が削減される。ほかの数々の資源にも同じことが言え、各資源はより現代的な生活様式によって、よりつつましく使われる。1ドルあたりの出力ジュール数から見た世界経済のエネルギー強度は、20年間下がり続けてきた。野生動物の生息地にとっての最大の脅威が、富裕国ではなく貧困国で発生しているのも偶然ではない。例えば、ハイチはほとんどの人に化石燃料を買う資力がなく、エネルギーの大半を木材に頼っいるーーパン屋でさえ木炭を使うーーので、その結果として国内の森林の98パーセントが失われた。ハイチよりずっと富裕なお隣りのドミニカ共和国では、逆に森林被覆度が増しつつある。

 HANPP(生態系資源の人間による占有率)という略称の、際立って実態を反映させる測定法がある。ウィーン大学のヘルムートーハーベルの計算では、人類は自分だちと家畜のために陸上植物の14.2パーセントを摘み取り、道路の敷設や山羊の放牧でさらに9.6パーセントの植物の成長を潰すか阻害しつつ、残りの76.2パーセントを手つかずにしている。しかし、それは全体像の一部にすぎない。総体的に見ると、人類は植物の成長を妨げてはいるものの、一部の場所では土壌に肥料を撒いたり濯漑を行なうことで成長を促している。複数の広大な地域では、この成長促進の効果があまりに大きいので、人間の占有による影響度にほぼ匹敵するか(北欧の多く)、上回りさえしている(ナイルーデルタ)。つまり、人間が占有したあとも、人類がそこにいなかった場合と同じか、より多くの生態系資源が自然界に残されるわけだ。従って、HANPPの正味の影響度は、最も工業化された区域で最も低い。ここで、世界のほかの地域もだんだんそちらの方向に進んでいくと想像してみよう。人類が植物原料の消費量を絶えず増やしつつも、ほかの動物のために残す量も着実に増やし、ついには90億人の人類が野生植物や動物の数量に少しも正味の影響を与えることなく豊かな暮らしをする、と。 信じられないだろうか?

 エネルギーと水の両方が潤沢であるかぎり、この見通しの実現性が著しく高いことを、あらゆる根拠が示している。言い換えれば、土地以外のなんらかの源からエネルギー(そして、水)を得ることで、土地を使わずにすませられるわけだ。人工肥料や濯漑を利用できなかった原始的な初期農業による地表の環境破壊とは、対照的だと言える。

 だからここで、2050年の世界について楽観的な予言を述べたい。2050年は、広範囲にわたる環境復興の時代になるだろう。現代の富裕国が猛烈な勢いで森林を再生させているように(例えば、ニューイングランドはかつて70パーセントが農地だったが、今は70パーセントが森林地帯だ)、2050年の世界も、今より大きい人口を養いつつ同様のことをなしているかもしれない。アフリカ、アメリカ中西部、中央アジアの”再野生化”地域は、ふたたび野生哺乳類の渡りの群れの生息地になるかもしれない。現代の富裕国が、いくつかの種を絶滅の危機から救いつつあるように(ヨーロッパ原産の繁殖鳥―大海鳥―が全世界で絶滅してから160年、渡鳥の一亜種の色彩変異型が絶滅したものの、白腹中杓鵡や頬赤朱鷺はまだ絶滅していない)、2050年の時点でアジアの多くの国々と、もしかするとアフリカのいくつかの国々も同じことを行なっているだろう。いくつかの種にとってはもう手遅れかもしれないが、絶滅を免れる種もあるはずだ。たとえ野生の虎が死に絶える運命にめったとしても、未来の富裕なインド人による保護飼育でふたたび数を増やせる公算は大きい。また、2050年の時点で実現が大いに見込まれるのが、絶滅種の復活だ。その最初の例はおそらくマンモスで、理由のひとつは冷凍標本の保存状態が優れているから、もうひとつはマンモスの良質な細胞を抽出する努力がすでに始まりつつあるからだ。抽出した細胞のプログラムを書き換えることで胚にし、その胚をインド象に移植して、胎児を出産にまで持ち込むというのは、非常に難度の高い注文だろう。しかし、”試験管ベビー”も1970年にはかなわぬ夢物語と思われながら、そのわずか8年後には実現したのだ。

 

 

 

 

 


 

第20章のまとめ

 

 

 

 

 

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