第16章 次なる科学

 

 

人類の知への探求は新たな領域に入り、そこでは上下関係に苦しむ東洋より、リベラルで序列にとらわれない欧米諸国のほうが、より多くを研究し、より多くの実りを手にする。

 

 

 科学的に言えば、未来は生物学にある。

 知的学問としての化学は、すでに枯渇した。周期表は今も伸長を続けるが、その領域は原子の寿命がほんの数秒で計測され、化学結合の本質が解明された世界に及んでいる。化学にもはや驚きはない。とはいえ今後も実用的発見が多くなされることは、誰もが願うところである。

 物理学も希望が持てないことには変わりない。字宙の基本的構造について学ぶべきことはまだまだ多いのに、研究に必要な装置は巨大化、かつ高額化の一途をたどっている。収穫逓減の法則が作動し始めたのかもしれない。巨大化の象徴ともいうべき大型ハドロン衝突型加速器(ジェネーブ近郊に設置された最新式の科学玩具)が世紀の大発見でももたらせば、この分野がまた息を吹き返して、政治家や納税者の支援を得られる可能性もあるが、その一方で、人類の日々の快適な暮らしに役立つ科学が、字宙の基礎研究から派生してくる望みはほとんどない。

 ところが、生物学は違う。それは現実に、まだ未知の領域であり、人々に夢も与えれば恐怖も与える。この分野からは今後、数多くの発見がもたらされるだろう。また、従来の科学とは毛色の異なるふたつの分野と結びつくことで、生物学に対する一般の理解が深まり、新たな技術も生まれる。その分野とは、ナノ科学と情報科学だ。生物学はその両分野にまたがっている。というのも、細胞が機能するのはナノ領域――化学の世界よりは大きく、従来の応用力学の世界よりは小さな領域――であり、また、生きとし生けるものはすべて本質的に情報処理系だからだ。生物学とナノ科学、情報科学が具体的にどう結びつくか。その結びつきかたによっては、これから2050年までのあいだに多大な革新が起こるだろう。

 もうひとつ科学の世界に大きな変化があるとすれば、知的なものではなく地理的なものだ。非欧米諸国が経済面で欧米諸国上肩を並べるようになると、その多くが科学の面でも追いつこうとするだろう。その努力が成功すれば、知的集団がどっと科学界に流れ込んで活躍を始め、科学の世界は変貌する。しかし、成功するという保証はない。というのも、そういう国が科学の面で欧米諸国に並ぶには社会的代償を支払わなければならず、それを国の指導者が好まないかもしれないからだ。

 

 

生物の遺伝子を解明し、生命誕生の謎に迫る

 生物学が今、隆盛の波に乗り始めたのには、いくつか理由がある。第1に、近年の技術の進歩により、大量のDNA情報を迅速に解析できるようになったこと。第2に、顕微鏡が高性能になるにつれ、細胞内プロセスをより完璧に理解できるようになったこと。第3に、生体としても既知の世界に存在するものとしても、おそらく最も興味深い対象である脳を調べる技術が向上したこと。第4に、生物学者のあいだに進化論信奉者が増えたばかりか(もはや進化論に異議を唱える者はほとんどいない)、信奉者には生物学の研究手法を伝える必要があるという理解が広まったことが挙げられる。

 19世紀には地上の生物種リストがたちまちのうちに埋められて、分類学の黄金時代が築かれた。今後2、30年はそれに似た勢いで、遺伝子の切手アルバムが満たされていくだろう。2030年ごろまでには、わたしたちの知る生物のほとんどが遺伝子のサンプル化を終え、またサンプリング過程そのものが、多くの未知の生物の存在を明らかにするだろう(例えば多くの生物学者が、地球の奥深いところには膨大な数の特殊なバクテリアが存在し、発見される日を待っていると考えている)。

 当然ながら、この課題は知的興味をかきたてる。地球の生命の大半を占めながら、いまだほとんど研究されていない単細胞有機体の、万を超える類型を互いに正確に関連づけることで、生物学者は生命の歴史をひもとくことができるはずだ(最近、遺伝学の手法を用いてその予兆ともいうべき発見があった。生物分類の最上位段階にあたる古細菌、真正細菌、真核生物という3つのドメインと同等の位置にある、まったく新しい生き物のドメインらしきものが見つかったのだ)。

 じつに興味深い話ではないか。だが、新たな生物学がもたらすものは学問上の魅惑ばかりではない。周期表が考え出され、化学反応の本質が解明された19世紀の化学界と同様に、生物学界でも、莫大な量の遺伝子情報とそれに伴う生物学上の知識が、産業利用の門戸を開くことだろう。

 それを可能にするのは、部分的には生物学とナノ科学および情報科学の相互作用である。ナノテクノロジーはここ2、30年のあいだ、大いにもてはやされてきたが、振り返ってみるとスタートはフライングぎみだった。物質の特性を向上させるために微粒子を振りかければ、当面はそれなりの働きをするだろうが、1990年代のナノテク夢物語で約束された”いっせいに協働する極微小マシン”のイメージからはかけ離れている。しかし、それも細胞のふるまいへの理解が深まれば変わる。巨大な分子構造を持つたんばく質とDNAが、伝統的な化学ではなく、ナノ科学の領域にのうのうと収まっているのは、近距離静電効果の支配が強すぎて、従来の応用力学では扱いづらいからだ。

 ナノテクノロジーを夢物語に仕立て上げたのは、静電効果のようなエネルギーである。初期のナノテク技術者が夢に描いたナノ歯車が作動しなかったのは、あまりの小ささゆえに、フアンデルワールスカや、その他の誤って理解されている静電効果などが働くからだった。ところが、生命体のシステムは、明白に作動する。いったん適正に分析されれば、高度に遺伝子組み換えが行なわれた生物であれ、生物学の知識を応用した完全に人工的なシステム――例えば、チェコの劇作家カレル・チャペックが創造した、人間そっくりのロボット(ロボットという語も、チャペックが1921年に発表した作品から取られた)――であれ、あらゆる分野での工学的応用が可能になるだろう。

 そういうロボットを実現するには、情報科学と生物学がひとつになることが必要だ。脳機能がどのように、より高性能な人工演算能力と結びつくかを、もっとよく理解しなくてはならない。新しい脳スキャンの技術を駆使すれば、脳のどの部分が身体各所の細胞レベルとどう連携しているか明らかになるだろう。高速化し、高機能化したコンピューターなら、そういう発見をソフトウェアでモデル化できる。そうなれば脳の仕組みが明らかになり、同じ原理を使った人工知能の組み立ても可能になる。これはロボットエ学を進歩させるだけではない。今のところそれらしい糸口がなく、手つかずになっているひとつの自然現象である”意識”の壁が、科学の力で打ち破られる公算も高い。

 

 

遺伝子操作で何ができるか

 意識を理解することは究極の自己認識につながる。しかし、たとえ自己知覚という特定の領域で2050年までに画期的な進展が見られなかったとしても、ほかの方面で数多くの発見がなされるだろう。遺伝学での発見がある。化石記録でも、おそらく新たな発見がある。そして、もし意識の問題が解明されなくとも、脳の理解が深まることによってもたらされる成果がある。すべてひっくるめれば、人類の自己観を変えるかもしれない――それも、政治的な爆発力をはらむ方向へ。

 例えば人類はまもなく、自分たちとネアンデルタール人を分けた遺伝子、言いかえれば、ホモ・サピエンスをホモ・サピエンスたらしめる要の遺伝子を特定するだろう。ほかの旧人類の化石から抽出したDNA、および生きた類人猿から抽出したDNAが、そのヒントになるはずだ。地球のさまざまな地域に生まれた個体群――政治的に含みの多い言葉を使うなら”人種”――のあいだには、本質的な精神構造の重大かつ系統立った違いがあるのか、それとも、人類はほんとうに”ひと皮むけばみな兄弟姉妹”なのか、そういうことも、いずれ明らかになるだろう。

 研究者たちはまた、人生の成功のどこまでが個人の遺伝子構造に組み込まれたもので、どこからが教育によって得られるものかを解明するだろう(教育分野そのものが、新しい脳科学によって生まれ変わるはずだ)。もしかすると技術的に複雑すぎることが判明するだけかもしれないが、子どもの遺伝子を操作して子孫によりよいチャンスを与えてやれるようになる可能性もある。

 遺伝子をいじって知能を高めることが無理だとしても、健康と長寿のための遺伝子操作ならできそうに思える。この分野の論争は近ごろすっかり影をひそめた。遺伝学が当初の願い、というか期待よりずっと複雑であることがわかったからだ。しかし、遺伝子が細胞をコントロールし、身体をもコントロールするプロセスが解き明かされていけば、論争は再燃し、いずれ新聞の見出しを飾る日も来るだろう。

 しかし、脳を操作することは、遺伝子の一枚目の青写真に手を加える以外の方法でも可能だ。人間の脳がどう機能するかをほんとうに理解すれば、脳が何のためにあるのかという理由のひとつを知ることができる。それは従来の哲学者や神学者、経済学者やその他、科学以外の分野の知識人が考えた理由と必ずしも同じではない。生物学が生まれる前の考えかたでは、人間の特異性が強調されてきた。神による創造を信じない人でさえ、植物や他の動物とは切り離された存在として人間を区別する傾向がある。しかし、今後ホモ・サピエンスの進化論的、遺伝的な祖先が明らかになり、人間の特異性が、つまるところ生存と生殖の機能でしかない”進化論的適応”のひと言でかたづけられると、そういう考えかたは受け入れられなくなるだろう。

 その過程で、人間の善いところと悪いところ、両方に光が当たる。特に善いところ(従来の哲学ではいつも説明に苦労した)の追究が進むだろう。人間が利己的であることの生物的由来は想像しやすい。それに比べて、人間ならではの特質であり、高い精神性への推進力である相互扶助や、ときとして発現する並みはずれた自己犠牲の生物学的由来となると、そうたやすく解明はできない。それでも、研究の努力は続けられている。同様に、単純化された(そしてしばしばイデオロギーにまみれた)経済学者のモデルが人間のふるまいをどう決定づけるかという方向より、むしろ複雑な現代経済の中で人間が実際にどうふるまうかという方向での探究が進んでいる。人類の進化を研究する者にとっては、宗教でさえ聖域ではない。今後40年間は間違いなく、そういう分野のすべてではなくともその多くで進展が見られるだろう。新しい知識にもとづいた善意ある政治理語と、その知識を駆使しようとする機略縦横の政治家の出現が期待される。

 

 

天文学も生物学へ向かう

 基本的知識はほかの分野からももたらされる。字宙時代の終焉(車輪のような形状の字宙ステーションを造り、月面には宇宙基地を、火星には植民地を建造するという1950年代から60年代にかけてのグランドプランは、おいそれと復活する見込みはない)が、そのまま字宙探索の幕引きにつながるわけではない。ただし、今後は探索のほとんどが、地上から、もしくは地球の周回軌道上から、高性能望遠鏡を遠隔操作することで行なわれる。そういう機器が、「なぜ人類はここにいるのか?」「人類に仲間はいないのか?」という問いへの答えを模索する。

 粒子加速器を用いた素粒子物理学は終わりを迎えそうだが、それが基礎物理学そのものの終わりとはならない。これからの物理学は、自然な状態では存在しないクォークやヒッグス粒子などの風変わりな粒子をゼロから創ろうとするより、自然に存在するものを研究する(アーネスト・ラザフォードやポール・ヴィラールがα粒子やβ粒子、γ線を研究したように)ことで学問としてのルーツに立ち返るだろう。それはつまり、目を字宙に向けることを意味する。とりわけ暗黒物質(他の物質とはもっばら引力を介して作用する基本素粒子)と重力波(重力、つまり目下のところ物理学で栄光の孤立を続けるアインシュタインの一般相対性理論で説明される力と、それ以外の物理現象を説明する量子論とを結びつける働きをすると思われるもの)の探索には熱が入るだろう。暗黒物質も重力波も、少なくとも最新式で巨大な粒子加速器と比べればかなり安価な、地上設置型の装置で検出できる。もうひとつ、未知の物理事象として知られるのが、字宙を押し広げる暗黒エネルギーと呼ばれる力で、この場合、新たなデータよりそれを説明する斬新な理論の出現が求められている。それがいつになるかは、まったく予測できない。あなたがこれを読んでいるこの瞬間にも、世界のどこかの町で、暇を持て余したアインシェタイン似の特許審査官が、この問題に頭をひねっているかもしれない。

 しかしここでも、大文学がいちばん貢献できそうな分野は生物学ではないかと思える。字宙が生命体であふれているのか、それとも生命体の存在は非常にまれで、地球に人類が誕生したことを特異な事象と見るべきなのかという問いに、2050年までには明確な答えが出るだろう。その鍵となるのが、近年数多く発見された、太陽以外の恒星の軌道を回る惑星だ。そういう惑星の研究は、基礎科学の一環として未来への大きな投資になる。字宙に生命が存在するのかという疑問に、真の答えをもたらすからだ。手法としては、スペクトル解析が用いられるだろう。太陽やその他の恒星の構造が、その星の発する光から読み取れるように、惑星の大気中の成分は、大気が吸収した光から読み取ることができる。太陽系外の惑星が親星の前を通過する際、じゅうぶんな性能の望遠鏡で観測すれば、答えとなる信号を地球上から読むことが可能だ。

 たいていの恒星が惑星を持つことは、すでに明らかだ。地球から観測可能な惑星だけでも、2050年までには延べ何千回も親星の前を通過するだろう。大気中に遊離酸素が含まれていれば、それはその惑星に生命体が存在する決定的証拠となる(酸素は反応性が高く、欠乏させないためには恒常的に供給する必要があり、生物を媒介させずに供給する方法はまだ見つかっていない)。逆に言うと、酸素が存在した形跡、もしくは、酸素がなくても他のなんらかの方法で化学平衡を抜け出そうな形跡(訳注:生命体が存在しない星では、大気は化学平衡を保って変動しない)が大気に認められなければ、その星にはおそらく生命体は存在しない。

 ここで、地球上の生命体はどのように誕生したのかという難問中の難問に突き当たる。他の惑星を見れば生命の誕生が簡単か否かはわかるが、どのように誕生したかという具体的な説明は得られない。しかし、地球上での実験がそれを説明する。

 答えは現代人の細胞の仕組みを掘り下げることでわかる。すなわち、細胞の中の真に原始的で、したがって最初に生命活動が始まったときに発生したと思われる部分を見きわめ、実験室内の実験で、原材料とエネルギーを注入するだけで忠実に自己再生できる最も単純な化学反応システムを見つけるのだ。

 遺伝情報を伝達する核酸と働き者のたんばく質をもとに、生物をわたしたちの知るそのままの姿で再生できれば、大きな前進になる。それはまた生物学者に、これまでと異なる新たな生命体を誕生させる道(おそらくは異なるタイプの遺伝子、あるいは同じ働き者でもたんばく質ではなく高分子化合物を用いるなどして)を模索させることになる。そういう正真正銘の人工生命体の代謝作用は、今度は、字宙生物学者の望遠鏡が酸素以外のどんな気体を字宙空間に探せばいいのかという問いに答えてくれるかもしれない。

 

 

中国で科学は発展するか

 未来の科学が”何”かを語じるのは、このあたりでやめておこう。しかし、次に、”どこに”向かうかという第2の問いが立ちはだかる。科学の表舞台では今後も、欧米諸国の活躍が続くのだろうか、それとも日の出の勢いのアジア諸国が台頭してくるのか?

 これは奇妙な設問に聞こえるかもしれない。人種差別的な響きを感じる向きもあるだろうが、それは本意ではない。趣旨はむしろ、どんな社会であれば、好奇心を原動力にした研究が花開くかというところにある。

 科学に関して、今までひとつ真実であり続けたのは、それがもっばら現代西洋社会の産物だということだ。昨今の多文化の時代、バグダッドのカリフや中国の宋主朝を、革新的な科学を奨励した為政者として賛美する風潮がある。同様に、ヨーロッパの科学革命は古代ギリシャに負うところ大だという説もある。さらには、コロンブス到来以前のアステカやインカ、マヤ王朝の科学までが、一部では褒め称えられる。しかし、そういう歴史上の先達の存在は、まやかしの後光にくるまれている。

 ギリシャ思想の再発見は、確かにルネッサンスの科学的な面に刺激を与えた。しかし、数学的な発想を別にすると、ギリシャ人の自然観がほぼ全面的に的はずれだったことは記憶しておく必要がある。プトレマイオスの天動説に始まり、四体液説をもとにしたガレノスの医学に至るまで、ギリシャの学説はいずれも実効性に乏しく、西洋科学の黎明期には、ほんものの真理に迫るべく、古来受け継がれてきたギリシャの叡智のしがらみを脱却することに多大な努力が注がれた。コロンブス以前のアメリカの科学についても、プトレマイオスの天文学と同様、数学的には見るべきものがあるが、正確な暦を作ったこと以外はやはり的はずれだった(おまけに、その技術力はお粗末で、インカ帝国は車輪の発明にすら至らなかった)。

 アラブと中国も、同じくらい買いかぶられてきた。どちらも多くのデータとかなり実用的な技術を生みながら、たいした理論を(ここでもまた数学は例外として)生まなかった。さらにどちらも、致命的な欠点として、実験によって理論を検証し、必要ならば旧来の学識を排していくという姿勢を持たなかった。優れた科学は、それとは正反対に統制をきらい、権威ではなくデータのみを尊重する。

 そして、そこにジレンマが生じる。アジア諸国、特に中国は科学の振興をめざすことを言明している。科学振興は実際、ケ小平の中国近代化四大戦略のひとつだった。ところが科学は、権威に従うのではなく挑むことで進展する。今のところ非西洋では随一の技術大国である日本でさえ、本格的な基礎科学の研究は立ち後れている。日本人研究者で科学部門のノーベル賞を受賞したのはわずか15人。それは、例えばオーストリアの受賞者数よりひとり多いだけ――オーストリアの人口は日本の人口の7パーセント以下――で、その理由のひとつとして、日本の若手科学者が先達の理論に迎合しがちなことがしばしば挙げられる。これに対して欧米では、旧来の理語を否定することでキャリアが築かれる。権威の軽視によってもたらされるものは、個人のキャリアにとどまらない。西洋科学の隆盛に伴いリベラルな思考様式が広まって、やがて世の中に政治的変容がもたらされ、ガリレオからダーウィンに至る科学者たちは、当時の権力者が長らく依存していた社会規範を覆してきたのだ。

 アジアの新興国はこれまでのところ、革新につきものの破壊思考に手を焼くこともなく、4世紀にまたがる西洋の科学革命がもたらした実りだけを享受してきた。そして低雇用層の活性化に資金をつぎ込み、先行諸国が目にしたこともないような経済成長率を達成している。しかし、いったん欧米諸国に追いついたら、アジアの新興国は次に何をめざすのだろう?

 この問いに対する答えの中に、科学の未来、および人類の未来がある。欧米諸国が苦労してやっと獲得した、科学の繁栄につながるリベラルで知的な環境を新興国でも実現できるなら、その国は科学の面ばかりか社会的、政治的な面でも繁栄するだろう。もし実現しないなら、あるいはできないなら、彼らの行く末には日本と同じ運命が待ち受ける。つまり、ぬるま湯のような暮らしの中でぼんやり日を過ごし、真に新しいことには気持ちが向かなくなるのだ。日本のこの現状に鑑みれば、科学者たちが民主的で序列にとらわれないインド(伝統的に数学に強いもうひとつの国)のほうが、永遠のライバルである権威主義的な中国より前途有望だと言えるだろう。

 ウィンストン・チャーチルはかつて、科学者はふんぞり返るな、常時即応態勢にあれ、と言った。政治という黒魔術が、科学に必要な天真爛漫な誠実さと相容れないことは事実だ。しかし、現代科学が創った飽くことなき知的興奮が、欧米諸国の社会的、政治的優位性と快適な生活の実現に大きく関わったことも、また事実だ。とすれば、科学の動向の中で最後まで目を離せないのが、科学者自身の行動だということになる。科学者たちは反リベラリズムの息苦しい抱擁にあらがうだろうか、それとも政治的権威に取り込まれて、科学と社会の双方に害をなすようになるのだろうか?

 

 

百花繚乱の論文

科学大国にならんとする中国の試みが、紙と電子の出版ブームを引き起こしたことは間違いない。2000年の学術論文出版数で、中国は世界第8位だった。今は合衆国に次ぐ第2位である。データから推測(優れた科学者なら誰でも言うことだが、この手の推測には危険が伴う)すれば、2015年にはアメリカに追いつくだろう。

 学術論文の多さが即、その国の影響力につながるとは限らない。論文中に引用される頻度(学術上の著作物の影響力を測る通常の指数)で測ると、中国はまだなんの基盤も築けていない状態だ。歴史上最も頻繁に引用される科学論文100傑の中に、主要執筆者として名前が挙がっている中国人研究者はひとりもいない。

 この傾向がこのまま続けば中国は、2050年には論文執筆者の数で世界トップの科学国家となるだろう。それが、スウェーデン国主から招かれて金メダルを受賞することにつながるかどうかは、また別の問題だ。

 

 

 

 

 

 


 

第16章のまとめ

 

 

 

 

 

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