第9章 おぼつかない自由の足取り

 

 

民主主義は、先進国において縮小し、新興国において亢進するだろう。

ツイッターなどウェブ世界の進展は、民主化に一定の役割をはたすが、民主化された後の影響は限定的だ。

 

 

 民主主義など忘れてしまえ。代わりに自由と正義を心配しろ。うまく事が運べば、2050年のあなたは、電子政府の楽園を享受しているだろう。〈アマゾン〉があなた好みの本を薦めてくれるように、国家があなたの望みに応じて、至れり尽くせりのサービスをしてくれるのだ。うまく事が運ばなければ、未来の世界は、シルヴィオ・ペルルスコーニのイタリアと、ウラジーミル・プーチンのロシアとの中間に位置しているだろう。世論の操作と批判派の抱き込みに長け、世間を嘲笑う体制内部者たちに支配される世界だ。

 どちらの結果になるかは、技術進歩と公共心が決めるだろう。いずれにせよ、最初の一歩は、”民主王義”という言葉を捨てることだ。1989年、民衆の力がベルリンの壁を崩し、当時のチェコスロバキアで共産党支配が覆されたのを皮切りに、この動きは南と東へ広がっていき、歴史の終わりが視界に入ったように思えた。あのころから毎年のように、民主主義という言葉は流行語となってきており、民主主義の流行は、全般的な自由の普及と歩みを同じくしていた(図9.1を参照)。

少数の例外を除き、かっては暫定軍事政権が政治制度の基本だった中南米でも、民主主義は勝利を収めた。今では一党独裁の砦を守っているのはキューバだけだ。ベネズエラのウーゴ・チャペス大統領でさえ、複数政党制をあからさまに拒絶してはいない。アフリカでは、無競争選挙が普通だったが、今では当たり前のように競争選挙が行なわれている。そして、2011年の”アラブの春”は、大西洋からペルシャ湾までの国々に、政治的多元論の期待をもたらしてきた。

 しかし、2050年までの歳月は、民主主義の物語に矛盾を混ぜ合わせるだろう。民主主義を持っていない国では、民主化が進み、民主主義を持っている国では、民主主義が縮小するのだ。独裁国では民主王義が前進し、自由主義国では民主王義が後退する、と言い換えてもいい。中国のような硬直した政治制度のもとでは、解き放たれた政治競争と情報の自由化の切望に対し、統治者たちは脆弱性を持ちつづける。最善の方法を知っているのは自分たちだ、という考え方を正当化することはむずかしくなるだろう。消費者が支出に関する選択権を行使し、労働者が国内国外を問わず、居住地に関する選択権を行使するようになれば、国家が国民の見るものと聞くものと読むものを決める、という考え方を維持することもむずかしくなっていくだろう。

 しかし、民主主義の勝利には、その脆弱性を覆い隠す効果がある。自分が持っていないものは、盲目的な崇拝の対象になりやすい。民主主義を求めて活動することは、民主主義を実践することより簡単だ。じっさい、民主主義は以下のものに弱い。体制内部者による操作。金の力による腐敗。有権者の無関心。失望をもたらす制約だらけの実生活……。もともと、民主主義の概念そのものが、意思決定に時間がかかるという脆弱性と、利益集団がのさばるという脆弱性を抱えている。人口で世界第1位と第2位の国は、2050年までのあいだに、良い知らせと悪い知らせをもたらすはずだ。中国は、一党独裁国家ならではの脆弱性に直面しなければならないだろう。インドは、複数政党制ならではの欠点と挫折に苦しめられるだろう。

 結果として、2050年の民主主義は、風変わりで不慣れな味がすると予想される。そして、過去数10年間に流行った食事(たとえば、スパムとマヨネーズのサンドイッチを、子供ならオレンジエードで、大人ならスコットランドのキャンプコーヒーで流し込む)と同じく、不完全な取り合わせであることが証明されるだろう。流行は、おおむね紛らわしい安易なマーケティングを通じて創り上げられており、多くの場合、標準以下の原料と不健全な添加物で水増しされている。

 独裁政権に反抗する人々からすると、”民主主義”は便利な速記文字のようなものだ。一世代前に資本主義打倒を掲げた人々は、同じ効果を得るために”社会主義”のレッテルを用いた。抑圧の代わりに自由を、欠乏の代わりに潤沢を、搾取の代わりに自己実現を……。「各人はその能力に応じて働き、各人にはその必要に応じて分配する」というスローガンは人々を魅了した。問題が生じたのは、スローガンを実行しようとしたときだった。マルクスは19世紀の産業資本主義を痛烈に批判したが、彼を含む左翼の偉大な思想家たちは、社会主義社会が実際に機能する仕組みをきちんと定義していなかった。じっさい、結果はどれも期待はずれだった。結果のひとつとして挙げられるのは、恐怖を燃料とするソ連型の計画経済だ。第2の例は、資本主義社会を修正したヨーロッパ型の福祉家。第3の例は、負債を抱えて消えゆく運命にあるユーゴスラビアのような修羅場だ。

 民主主義にも同じような問題がある。民主主義の歴史的根源は、社会主義よりも込み入っており、19世紀の”民主主義”は、衆愚政治の意味を含蓄していた。その50年後、”民主主義”は共産主義の語彙となっていた。第2次大戦後のドイツでは、米英仏の占領地が”ドイツ連邦共和国”として独立したのに対し、ソ連の占領地はみずから”ドイツ民主共和国(GDR)”を名乗った。さらに言うと、”民主”はしばしば”人民”との組み合わせで用いられる。アルジェリア民主人民共和国、ラオス人民民主共和国、朝鮮民主主義人民共和国がその例に当たる。おそらく将来も役立つ経験則を言うと、正式名称に”民主”を戴く国々は、居座りつづける少数の体制内部者によって運営される。

 ”民主主義”が競争選挙と(どちらかと言えば広義の)政治的自由の同義語としておおむね受け入れられたのは、つい最近のことだ。競争選挙も政治的自由もすばらしいものである。1989年末の東欧の状況では、2011年のアラブの春と同じく、自由選挙だけに要求を絞るのは筋が通っていた。充分条件ではないものの、自由選挙は変化の必要条件だからだ。国民に応える効率的な近代国家の構成要素がひとつもないとき、自由選挙は最優先事項となりうる(優先リストに含まれるのは、独占禁止を行なう政府機関、金融監督官、消費者保護組織、国の治安機関を監視する組織、そして言うまでもなく法の支配だ)。自由選挙はこれらを構築するための環境を創り出してくれるかもしれない。もちろん、その保証はどこにもないが……。

 

 

民主主義の2つのアキレス腱

 ”民主主義”は紛らわしさと曖昧さを帯びており、失政を覆い隠すために使われやすい。お祭り騒ぎの選挙をことさら強調して、”民主主義”の是認を得たと主張すれば、統治者は人々の目を欠陥からそらすことができる。民主主義はいともたやすく、公明正大な政治に必要な唯一の成分――競争選挙――だけに倭小化されてしまい、残った唯一の成分でさえ、ほとんどの価値が失われる危険がある。事がうまく運べば、自由かつ公正な選挙が実現される一方、事がうまく運ばなければ、体裁だけの選挙が行なわれることとなる。狭いゴールを目指すことをきっちり理解したうえで、より厳密な”政治的自由”という言葉を使ったほうがいいかもしれない。

  民主主義には二つのアキレス腱がある。現時点で両者はともに姿がよく見えており、今後数10年のあいだ同じ状況が続いていくと予想される。第一のアキレス腱は金。政党の資金集めは、アメリカの政治だけでなく、ほかの多くの国々でも、悩みの種となっている。苦しみが最も大きいのはおそらくインドだろう。政治家、政党、マスコミ、シンクタンク、政治に関わるその他諸々を買収するのは、企業の立場からすると理にかなっている。ここでは”囚人のジレッマ”が働く。企業は政治を避けようとしても、それができないことに気づく。自分が手を汚さなければ、ライバル会社が手を汚し、自分は不利な立場に追い込まれる、と考えてしまうからだ。〈マイクロソフト〉や〈グーグル〉などは、ワシントンDCと関係を持たないことを誇りにしてきたが、結局は、ロビー活動用の事務所を首都に開設する必要性を認識させられた。EU域内でビジネスをする企業は、欧州議会を無視するのがいかに危険かを思い知らされてきた。EU法の一条項――たとえば、製品安全性のルール――が少し変わっただけで、ある企業は金のなる木を手に入れ、別の企業は破産に追い込まれるかもしれないのだ。

 政治汚職の仕組みは、保護貿易の分野にも当てはまる。うまくまとまっている圧力団体の凝縮された利益は、表明することもたやすく、実現させることもたやすい。対照的に、社会に広く行き渡るはずの利益は、結集させることも防御することもむずかしい。5年ごとの選挙というなまくらな刀では、カルテルや利益団体に雇われたロビイストが、毎日毎日かけつづける狡猾な圧力に対抗できる見込みはほとんどない。強力なコネを持つ体制内部者たちが、大多数の人々を犠牲にして、自らに有利な意思決定をしているという感覚は、政治に対する無関心を育んで疎外感をかき立てる。

  このような状況は、2050年までにどう変化するのだろうか? プラス面では、IT技術によって厳しい監視が可能となるはずだ。ロシアで1キロの道路を建設するコストが、なぜフィンランドの5倍も高いのか? 両国の気候と地質は似通っている。賃金と地価とエネルギー価格は、フィンランドのほうが高い。ロシアの道路建設に金がかかる理由は単純だ。昔から定量化のむずかしい腐敗である。しかし、問題に関心を持つ市民は、マウスを数回クリックするだけで、公共セクターの効率性に関する世界銀行やOECDの報告書を、いやと言うほどダウンロードすることができる。インターネットのTEDトークス(”広める価値のある発想”を流布させるために創り出されたシステム)を使えば"医療と教育と輸送手段を世界じゅうの人々に無料で提供する"というような問題について、世界有数の語論家たちの意見を動画で視聴することができる。情報を持つ市民は、強力な有権者となる。

 しかし、悲しいかな、ここで民主王義の第2のアキレス腱が登場する。操作に対する脆弱性だ。選挙と選挙のあいだに起こる出来事は、投票や開票という物理的行動と同じぐらいの重要性を持っている。表現力と情報量で誰にも負けない選挙参謀は、善良な政府に雇われた場合でも、ロシアのような制度――批判派のエネルギーを四散させるよう設計された制度――の中でも、選挙で絶対多数を達成する。かつて選挙を怖がっていた統治者たちは、今では選挙を心待ちにしているのだ。

 マスコミを味方につければ、選挙に勝つのはたやすい。編集者や経営者を籠絡するのに、公共広告の出稿は強力な武器となる。本来同じ志を持つ者たちが集まっているはずの政党は、強力な後援者ネットワークに支えられた準営利団体となってしまっている。権力側に有利な選挙区割りは、体制内部者のための無風選挙区を創り出し、結果として、口うるさい有権者たちが政権を転覆させることをはばんでいる。

 

 

権力者の情報操作は、民主化されたウェブを上回る

 旧共産圏が残した教訓は、微調整すべき点をいくつか示唆してくれており、これらを実行すれば、最悪の展開を未然に防ぐことができるかもしれない。議院内閣制は大統領制度よりうまく機能する。カリスマ性が本物にしろ偽物にしろ、元首の個人崇拝を避けられるし、独断専行より妥協が促される。また、連立の必要性が”勝者独り占め”の手法を妨げるため、結果として公共サービスの政治化が防止される。政党の新規参人のハードルを低くしておけば、競争原理の圧力を高めることもできる。

 しかし、EU圏外の旧共産国の教訓は、向上ではなく悲観をもたらす。統治者は遠回しに”行政的資源”と呼ばれるものを頼りにできる。公務員や、囚人や、学生や、その他の従順な集団に、自分への投票を強制したり、有権者名簿を偽造したり……。

 このようなシステムも、民主主義を名乗ることができる。人々は実際に票を投じ、なんらかの選択をしているからだ。もちろん開票も行なわれ、勝者が権力の座に就き、ビジネスは従来どおりに継続される。確かに、世論調査で退陣に追い込まれるリスクは、政治家たちに賢明かつ善良な統治を促すかもしれない(少なくとも、明らかに愚鈍かつ邪悪な統治は防がれるかもしれない)。しかし、このような状況は、情報の操作から投票用紙の改竄まで、さまざまな不正手段の使用を促す効果もある。

 2050年までを見通したとき、政治における不正の物語は、世の中を意気消沈させるリスクを秘めている。確かに、市井の活動家たちの戦術は急速に進化している。動きの鈍い独裁政権の官僚組織を出し抜くとき、ツイッターやフェイスブックはすばらしいツールとなる。これらの技術は、ニュースを広め、怒りを集中させることに適しており、24時間放送のニェース報道と相まって、公的活動のテンポを加速させている。政治上の目標を持つ人々にとって、活動のハードルはどんどん低くなってきた。デモの告知を拡散させたい場合にも、ネット上で署名を集めたい場合にも、政治家の演説を検証する場合にも、選挙の公正性を監視する場合にも・・・

 しかし、体制派の進化はその先を行っている。彼らは商業用マーケティングのツールを駆使する。選挙キャンペーンは新製品の発表と変わりなく、あとは市場シェアを獲得するための策を打つだけだ。最先端の人口動態分析を用いれば、今までにない高い精度で、重要選挙区の浮動票をターゲティングできる。イメージやスローガンやテーマ音楽を使ってもいいし、もっと人をばかにした手口――狙いの有権者層に公共財や賄賂をばらまく――を使ってもいい。このような状況下では、非体制派の勝ち目はどんどんなくなっていく。2050年までの数10年間、体制派の権益が拡大するスピードは、それを止めようとする人々の力が拡大するスピードを上回るだろう。

 

 

ブロガーの影響力は限定的だ

 技術進歩がマスコミ業界の参入障壁を低くしたため、ブログやツイッターを主宰する小市民は、国内外の聴衆を獲得できるようになった。しかし、この成功は非対称性を持っている。個人が一般大衆に意見を届けられても、世論の形成を促せるほど、一貫した接触を、もしくは幅広い接触を持てるわけではない。他方、大多数の人々が読んだり観たり聴いたりするマスコミは、政治家と公的機関に説明責任を果たさせる、という本来の仕事でお粗末な成果に終始している。この傾向が顕著なのは貧困諸国だ。”古いヨーロッパ”と英語圈の大部分では、優れた取材に多額の報酬を支払う仕組みが成立しうる。売上高と広告料と税金(公共放送の場合)によって、必要な編集予算が確保できるからだ。旧共産圏と貧困諸国では、このような予算はどこからも出てこない。

 結果として生まれるのは、18世紀イギリスのコーヒーハウスのような文化だ。ネット上の噂話はリスクを伴わず、小規模な煽動は手軽なうえに楽しい。同好の士がこれほど気楽にタパコをふかせる環境は今までなかった。実際に煙は出ないとしても……。こそこそと愚痴をこぼすのではなく、公の場所で堂々と不満を表明できることは、市民の尊厳にとって必須の要素だ。しかし、これまでのところ、政府高官と政治家の説明責任の履行に関して、ブログが大きな成功を収めてきたとは言いがたい。

 体制内部者たちによって牛耳られ、ロビー活動によって動かされる政治制度は、それでもなお民主主義を名乗ることができる。このような状況下でも、ある程度の競争が行なわれているからだ。ウォール街が民主党を支持し、石油業界が共和党を支持し、勝ったほうが頂点に君臨する……。アメリカ建国の父たちが思い描いたものとは違っていても、競争の一形態には変わりがないのである。とはいえ、実際に行なわれる選挙は、民主主義を長期的に育む栄養素とはなっていない。現在の選挙は、純粋な政治的選択というより、安物の代用品という表現が似合っている。ほかの抑制要因がなければ(いや、ほかの抑制要因が増えなければ)、選挙は不正な国民投票に成り下がるだろう。そして、単独もしくは複数の利益集団が権力にしがみつくための道具として利用されるだろう。

 競争の要素が完全に失われてはいないものの、パルト海から黒海へ至る旧共産諸国では、これが過去20年間の実態だった。民主主義が勝利を収めたと見なされているほかの地域でも、状況は同じようなものであり、悪く言えば権力の独占、良く言えば政治的経済的カルテルが幅をきかせてきた。体制派にとっては居心地が良く、その他の人々には厳しい環境、と言い換えてもいい。しかし、”昔ながらの民主主義”の一部も胸を張れたものではない。イタリアの”ベルルスコーニ化”は、マスコミと政治と商業の力を融合させ、国家機関による権力の濫用を招き、腐食作用のある冷笑主義を蔓延させた。旧共産世界はまさにこのようなプロセスを通じて、後ろ向きの考え方を根付かせ、”欧州的価値観の主流”からの乖離を引き起こし、非体制派の人々に悲しげな舌打ちを発させたのである。

 

 

法の力はどこまで有効か

 2050年までの大きな問題は、理想の新たな守護者たちが、先任者たち以上に民主主義を実現できるかという点だ。正しく機能する政治制度では、強欲と野心を抑え込んで市民の権利を守るため、抑制と均衡の仕組みが導人されているが、選挙は抑制と均衡の一要素に過ぎない。法の支配や、自由な報道や、公共心などの諸要素が、競争選挙と組み合わさったときに初めて、西側諸国(この言葉はオーストラリアや日本を含む)を世界で最も生活しやすい場所にした政治制度と、同等のものを築き上げることができるようになるのだ。しかし、この組み合わせを簡単に”民主王義”と呼んでしまうと、過小語価の危険性が生まれる。公生活と政治生活を特徴づける重大な要素の多くは、”民主主義”のレッテルの下にたやすく押し込められるものではないからだ。

 最も重要な特徴としては、法の支配が挙げられる。実効性と独立性を持つ迅速な法廷がなけれぱ、そして、公正な裁判官と権力に屈しない弁護士がいなければ、投票の前も最中も後も、選挙プロセスに人々の意志が反映される可能性は低くなるだろう。制度の面だけから見ても、この指摘には理がある。政党が不公正な選挙ルールや、選挙管理当局の独断的運用を、裁判所に訴え出られないなら、最後の手段として、不安定かつ予測不能な市民の大規模抗議デモに頼るしかなくなる。2004年から2005年にかけて、冬のウクライナで展開された”オレンジ革命”のように、抗議デモが高い効果を示す場合もあるが、当事者たちの不正直さを矯正することはできないだろうし、実効性の高い近代的政府の形成を促すこともないだろう。じっさい、ウクライナでは”民主派”が勝利を収めたものの、その後の状況は民主王義とは程遠いものだった。

 いずれにせよ、法の支配そのものは、民主主義の充分条件ではない。イギリス統治下の香港は、公正かつ精緻な法制度を持ち、言語の自由と、契約履行の強制と、当局者の高水準の説明責任が実現されていた。しかし、香港の人々はみずから統治者を選べず、首長はイギリスの女王によって選定された(技術論を言うと、実際は女王陛下の政府が選定)。法の支配の行く末については、それだけで一冊の本が書けるが、手際よく要約すれば、正当な理由で市民(もしくは企業)が国を訴え、実効的な損害賠償を勝ち取れるかどうかが、将来の展開の鍵を握るはずだ。卑近な例では、公務員――制服を着た連中が強面であろうと、どれだけ大きな銃を持っていようと――と向き合ったときの市民に、尊厳を保証できるかどうかが鍵となるだろう。

 しかし、忘れないでほしい。法の支配とは、正しい法律を持つことではないし、正しい法的機関を持つことでもない。遵法とは第一義的に、心の状態として存在している。具体的に言うなら、裁判官を買収し、裁判所命令を無視し、法制度の原則と手続きに背くのは、無駄なだけでなく間違っているという信条だ。ストラスブールの欧州人権裁判所とルクセンブルクの欧州司法裁判所は、加盟各国の国内裁判所の欠点を補う重要な役割を果たしているが、国内裁判所をすっかり代替できるわけではない。市民が自信を持つためには、法の下で権利が保障される必要がある。悪いやつらを選挙で追放できることを、極端な例では、平和的な街頭デモの最中に警官から銃撃されないことを、市民は知っていなければならないのだ。

 法の支配は、弱者だけでなく強者にも享受されている。おそらく大企業は、金で買えないものはほとんどないと考えているだろうが、どれほど冷笑的で無慈悲な経済界の大物でも、裁判官の判決が最高値を出した側に傾くような制度を望んではいない。敵に最高値をつけられるリスクがある不正直な制度より、ときどきは敗訴を余儀なくされる正直な制度のほうが好ましいのだ。ロシアの新興財閥は、自国の政治制度が気に入っている。熟達した不正操作と職権濫用によって、天然資源の採掘権を手に入れたり借り受けたりできるからだ。しかし、法律上のいざこざを解決するとき、彼らが決まって選ぶのは、ロンドンの商事裁判所やストックホルムの伸裁裁判所である。

 2050年までの懸案は、法の支配が拡大するかどうか、深化するかどうかという点だ。果たして、法治システムの予測可能性と透明性がもたらす長期的利益は、最終的に、政治の意思決定を不正操作した場合の短期的利益をしのぐのだろうか? もしも、小市民が権力を訴えて勝てるような政治制度ができあがるなら、選挙制度の欠陥は二次的な問題と見なされることとなるはずだ。

 

 

公共心と経済第一主義との戦い

 政治生活において、重要性で選挙をはるかに上回るもうひとつの柱は、専門用語で”シビル・ソサエテイ’と呼ばれるものだが、ここでは、もっとわかりやすくてもっと正確な”公共心”という言葉を使いたい。選挙をしても何も変わらない場合、裁判に金と時間がかかるうえ判決が偏向している場合、そして、マスコミが飼い慣らされている場合もしくは噛みつく力を失っている場合、非体制派を勝ち目のなさそうな戦いに赴かせるのは、公共心だ。世話好きとお節介焼きが集まって、圧力団体や慈善団体を作ることもあるだろうし、あきらめるのは自尊心が許さないからと、一匹狼の頑固な個人が立ち上がることもあるだろう(このような人々の大多数は、共産主義時代には、反体制運動の摘発に手を貸していた)。

 公共心を持つ人々は、家族や友人や趣味という個人の殼に閉じこもることはできない。彼らは、スピード違反は自分の子供(もしくは他人の子供)を危険にさらすと考え、公害は自分の好きな風景(もしくは他人の好きな風景)を台無しにすると考え、(たいした額の税金を払っていなくても)政治家が公の金を盗んでいると考え、結果として何か行動を起こすべきだと考える。公式ルートで容赦なく不平不満を訴えつづけ、当局側の精神力がくじけるのを待つ場合もあれぱ、市民的不服従に打って出る場合もあれば、両者を併用する場合もあるだろう。彼らの健康と神経には、かなりの負担がのしかかるかもしれない。しかし、法の支配や道徳的報道と同じく、公共心がなけれぱ民主主義は滅びゆく運命にあるのだ。

  公共心と”経済第一主義”との戦いの帰趨は、2050年における政治制度のありようを決定づけるだろう。経済第一主義の観点は、合理主義的な幸福と物質主義的な幸福のみを重視し、利他主義の原理原則と集団行動を信用しない。企業の仕事は、”法律の範囲内で”株主のために金を稼ぐこと。法律の制定者である政治家の仕事は、選挙に通って自らの幸福を最大化すること。具体的に言うと、資金を集め、イメージを創り上げ、可能なかぎり自分に都合の良いルールを構築するのだ。マスコミの仕事は、可能なかぎり魅力的なメディア商品を提供し、指導力と聴衆の数を最大化すること。裁判官の本質は、単なる”法的サービス”の提供者だ。彼らが公正だとすれば、その理由は、抽象的な倫理観に由来するあやふやな義務感を果たすためではなく、ほかの司法管轄区に対する競争優位性を維持するためである(もしかしたら、不正がばれた場合の厳罰が理由かもしれない)。

 経済第一主義の観点からすると、国家間の競争は、統治の基準を形作っていくはずだ。企業間の競争によって、イノベーションが生み出され、付加価値が高められるように……。この結果には”民主主義”のレッテルが貼られるかもしれないが、関係者全員の賢明な私利追求が全体を満足させる結果につながるという意味で、優良経営の企業に似ていると言えるだろう。

 しかし、政治哲学としての経済第一主義は、掘り下げるとどんどんぼろが出てくる。実践上の成功のように見えるものが、弱点をわかりにくくさせているのだ。たとえば、ドパイは貿易の中継地として、基本的に商業の面で成功を収めてきた。居住者の過半数は外国人だが、豪奢な条件で働く者もいれば、悲惨な条件で働く者もいる。ドパイが気に入らなかったとき、彼らはロビー活動をしない。ただ国を去るだけである。

 おそらく、ドパイのような成功を、もっと大きな規模で実現するのは不可能だろう。巨大な首長国の代わりに、ロシア型のシステムができあがってしまう可能性が高い。このシステムでは、シンジケート――元KGBとその仲間たち――が支配を行ない、ピラミッドの頂上より下の公職は売り買いされる。公職の価値は、在職中に搾り取れる収益によって決まる。職権が及ぶ範囲内の公務(たとえば交通違反の罰金)や、企業(税金)や、天然資源(無線周波数帯や鉱物)からのあがりと言い換えてもいい。このシステムでは、独裁主義的な一枚岩が作られるわけではない。じっさいロシアでも、エリート支配層の内部では、ある程度の政治的競争が繰り広げられている。しかし、競争は管理されており、重要な場合には演出が行なわれる。選択が存在するように見せかけ、一般大衆の不満をガス抜きするのだ。

 

 

怯えるのか、それとも、悦に入るのか?

 過去20年のほとんどの期間では、このような傾向を市場主力が相殺しているように見えた。確かに、世界の善政ランキングで下位になる恐れや、外国人投資家のあいだに悪評が蔓延する恐れは、政治制度の腐敗を食い止めてきたと考えられる。しかし、残念ながら流れは変わった。現在のところ、国際社会の悪評は、国内の効果的な政治主力に変換されていないように見える。上手に変換してやれば、現政権にとっても利益となるはずなのに……。実績をあげた国々が自画自賛する一方、お粗末な結果しかあげられない国々の統治者は、低いランキングを単に無視したり、外国人嫌悪という切り札を切って、外国人の敵意や無知に責任転嫁をしたりする。このような政治家の多くは、リスクを冒して大きなケーキの小さな取り分を目指すより、小さなケーキの大きな取り分を、リスクなしで手にすることを好む。

  公共心を育むのはむずかしい。公共心を最も必要とする場所は、まさに、公共心が最も少ない場所だからだ。公共心が繁茂しやすいのは、変動の少ない非階層社会で、政治的安定と政治的自由の長い伝統があることが望ましい。イギリスの村落やアメリカの田舎町では、公共心はいつ窒息死してもおかしくない。頭を低く下げていないと、首をはねられる危険性がある場所では、市民の勇敢な行動は稀少な存在となってしまうのだ。

 今後はどうなるのだろうか? 西側の政治制度は、継続的な東進と南進に失敗しただけでなく、内部でも二つの大きな危機に瀕している。パニックの危機と自己満足の危機だ。パニックは人々を臆病にさせる。彼らは強い指導者と手っ取り早い方法を望み、未来ではなく現在を懸念し、公益より私益を気にかける。しかし、正しい指導者を戴いていれば、国難は驚くほどの公共心をもたらす可能性がある(イギリスの特定の世代は、1940年に国家滅亡の危機がのしかかってきたとき”ダンケルク魂”が発揮されたことを今でも憶えているはずだ)。エジプトの夕ハリール広場も、感銘深い魂を見せつけてくれた。非暴力を貫く抗議者たちは、警官隊から銃口を向けられながら、散らかしたゴミを良心的に拾い集めていったのだ。とはいえ、長期的に見た場合、不確実性と大変動は腐食作用を発揮し、人々の視点は、最も近い存在と最も大切な存在に集中することとなるだろう。パニックの原因として挙げられるのは、戦争や、テロや、あらゆる形の自然災害と経済危機。これらが発生したとき、政治制度は増強される代わりに、容赦なく弱点をさらけ出すこととなるだろう。

 自己満足はもっと危険だ。使われないと生物の免疫系が弱体化するように、脅威を感知しない政治制度も、軟弱化と脆弱化を免れない。自己満足が蔓延すれば、市民たちの積極行動主義は、自治体レベルでの雑事に呑み込まれていき、退屈な国政は優れた思索家たちを惹きつけられなくなる。理想主義者たちのエネルギーは、文化や教育や宗教や国外の大義へ振り向けられる。民主主義的な西側諸国に残された人々は、手続きの細部をどう変えるかについて、もしくは、税金をどの得意先に多く分配するかについて、果てしない押し問答を強いられることとなる。本物の民主主義を、もっと大きな民主主義を、もっと良い民主主義を切望する残りの数10億人から見ると、これは見習うべきモデルにはなりえない。

 

 

 

 

 


 

第9章のまとめ

 

 

 

 

 

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