第2章 人間と病気の将来

 

 

高齢化と肥満化が世界的な趨勢となり、途上国にも慢性疾患に苦しむ人が増える。

急速な都市化もそれを後押しする。

一方で、医療技術の進歩は疾病の治療法に革命をもたらす。

 

 

AIDSは混乱と恐怖から行動と希望へ

 1980年の時点で、後天性免疫不全症候群という病気を知っている人はいなかった。この用語自体が存在していなかったのだ。しかし、長いあいだチンパンジーを苦しめてきた後天性免疫不全症候群ウィルス、すなわちAIDSウィルスは、1980年の時点で人間に対する感染力をすでに有していた。1981年6月、アメリカの疾病対策センター(CDC)は、口サンジェルスの男性同性愛者5人に珍しい肺炎が観察された、という数段落の報告書で控え目な警告を行なった。一部の記者は。”ゲイの癌”の危険性を警告し、1982年、CDCはこの病気をAIDSと名付けた。同じ症状の患者は、オーストラリアやメキシコ、南アフリカや中国でも報告された。 1992年、25〜44歳の米国人男性では、AIDSが死因の第1位となった。1990年代には熱心な研究が行なわれ、感染防止のキャンペーンが張られ、社会は閉塞感に包まれた。ワシントンDCのナショナル・モールは、AIDS犠牲者を追悼するメモリアル・キルトで覆われた。2001年には、世界の指導者たちが国連に集ってAIDS撲滅を誓った。

 幸いにも、状況は好転してきた。2009年、新たな感染者数は10年前と比べて19パーセント減少した。抗レトロウイルス療法(ART)によってAIDSは不治の病から慢性症状に変わり、医薬品の改善によって感染率は下落を続けている。HIVワクチン、が開発されれば、世界は興奮に沸き立つこととなるだろう。2009年の時点では、HIVと共存する感染者の数は3300万人超。しかし、世界がまんべんなくAIDS禍を背負っているわけではない。南アフリカでは成人の約20パーセントがHIVに感染しているのに対し、アメリカは0.6パーセント、イギリスは0.2パーセントだ。治療を受けられる患者はきわめて少数で、新規感染率もいまだ高水準にある。しかし、過去数10年のあいだに、AIDSに関するグラフは、恐怖と混乱の曲線から、行動と希望の曲線に変わってきた(図2.1を参照)。今後40年間には、どのような脅威と発見がもたらされるのだろうか?

 

未知に対する恐怖はまだ残っている。新たに出現する強力な伝染病やスーパー耐性菌は、既存の薬剤というわたしたちの剣を爪楊枝に変えてしまうかもしれない。気候変動や都市化など、一見すると健康と関係なさそうなトレントが、とりわけ貧困諸国では深刻な影響をもたらす可能性がある。富裕諸国では、子供の肥満を抑制するための困難な戦いが繰り広げられており、この戦いに負ければ、該当世代は死ぬまで慢性病との共存を運命づけられるだろう。そして、政治家たちは老人医療費の捻出について、苦々しい論議を続ける必要に迫られるだろう。

 不安がコインの表なら、コインの裏は興奮だ。21世紀の医療分野は、すでに希望で満ちあふれている。企業が開発している新技術は、医療をより良く、より安く、より身近にしてくれるだろう。科学者たちは遺伝子の秘密を解き明かそうと努力している。今後40年間に、悪魔の軍団が人類を襲ってきたとしても、科学と勤勉が敵を撃退してくれるはずだ。

 

 

撲滅される病気

 21世紀前半に、世界は数多くの健康問題に直面するだろうが、今すぐに対応可能な問題もある。富裕諸国では絶滅したものの、貧困諸国ではまだ流行がやまない病気に対しては、すでに行動の準備は整っている。これらの病気を治療する上での障害は、科学の欠如ではない。ビル&メリンダ・ゲイツ財団によると、既存の技術を広めていきさえすれば、2025年までに幼児の死亡数を半減させられるという。

 最もわかりやすい殲滅目標は、すでにワクチンが開発済みの病気だ。ワクチンを接種すれば予防できる病気で、毎年およそ200万人の子供が死亡している。歴史が示唆するとおり、このような事態は止めることができる。ワクチン接種プログラムの成功により、1980年、世界保健機関(WHO)は天然痘の撲滅を宣言した(現在、天然痘ウイルスは研究所の中にしか存在していない)。ポリオで麻疹もしくは死亡したアメリカ人は、1952年には年間24000人以上いたが、今日では、ポリオ患者が呼吸を維持するための、”鉄の肺”は、吸血鬼と同じように時代遅れに見える。富裕諸国は数10年前にポリオを根絶した。貧困諸国でも2050年のかなり前までに根絶されているはずだ。過去20年間でポリオ患者の数は99パーセント減少し、毎年3000人を割っている。

 ほかのいくつかの病気も、同じように衰退していくはずだ。WHOによると、2008年における5歳未満児の死因の第1位と第2位は、肺炎と下痢であり、前者は18パーセント、後者は15パーセントを占めていた。これらの疾患に対しては、幅広いワクチン接種で甚大な効果が期待できる。課題となるのは、必要としている人にワクチンと医療措置をどう届けるかという点と、ワクチン接種のコストをどう抑えるかという点だろう。

 それには新しい技術が役立つはずだ。常温で輸送可能なワクチンを開発すべく、科学者たちは今まで血のにじむような努力をしてきた。2050年には、このようなワクチンが一般的になっているだろうし、製薬企業は取り扱いの簡単なワクチンを開発しているだろう。ひょっとすると、一回のワクチン接種で複数の効果が得られ、いくつも病院を回らなくても済むようになるかもしれない。サプライチェーンの変革が続けば、医薬品のコストは低下し、現在の途上諸国にも研究と生産の場が広がっていくはずだ。

 このような進歩は、医療に劇的な変化をもたらすだろう。貧困諸国の乳児死亡率はさらに低下し、平均余命は上昇すると予想される(図2.2を参照)。

 多くの病気に対して最も効果的な戦術は、古い武器と新しい武器を両方使うことだろう。蚊によって媒介され、原虫によって発症するマラリアは、数000年のあいだ人類を悩ませてきた。人類は小さな攻撃をかわすため、さまざまな方策を試行してきた(『熱病(The Fever)の著者ソニア・シャーによれば、1930年代には、イギリスに棲息する蚊が人間より豚の血を好むと判明したため、ベッドの下で豚を飼うことが推奨された)。もう少し現代的な戦術としては、蚊帳の使用や、壁への殺虫剤塗布や、マラリア治療薬の開発が挙げられ、それぞれが相応の効果をもたらしてきた。マラリアによる死亡者数は、2000年の985000人から、2009年には781000人まで減少した。同時期にアフリカの11力国では、マラリアの発症者もしくは死亡者が5割以上減少している。マラリア撲滅というゲイツ財団の目標は、今の勢いなら実現可能かもしれない。財団が資金援助をしているマラリア・ワクチンの研究は、成功の見込みを示しているからだ。この研究が成果をあげれば、長年の敵との戦いは転換点を迎える可能性がある。

 比較的新しい敵、AIDSとの戦いは一筋縄ではいかないだろう。最初の難関は、既存のHIV感染者の治療だ。治療費が現行本準のままなら、AIDS患者3300万人の治療には毎年400億ドルが必要となる。貧困諸国だけでなく富裕諸国も、これだけの負担をする用意はできていないだろう。第2の難関は、新たな感染の防止だ。感染率を抑制するには、コンドーム包茎手術、殺菌剤を含有する新開発の腔用シェルなど、さまざまな方法が効果をあげるかもしれない。

 しかし、結局は患者の治療がいちばんの予防策だろう。母親に生殖補助医療技術を施せば、少なくとも、感染ルートのひとつである母子感染をほぼ防ぐことができる。患者を治してしまえば、性生活が盛んな成人による感染拡大も防げるかもしれない。2011年5月、アメリカの国立衛生研究所は驚くべき数字を公表した。診断直後に治療を受けたHIV感染者は、性交渉の相手にウイルスを感染させる確率が96パーセントも低かったのだ。

 しかし、最も影響力が大きいのは、ワクチンの発見だろう。現在、ケニアからメリーランドまで世界じゅうの研究者が、無我夢中でワクチンの開発に打ち込んでいる。

 医療における進歩は、山あり谷ありの道をたどるはずだ。ほんの些細な力がかかっただけでも、正しい軌道から外れる危険性を秘めている。2003年、欧米諸国がポリオワクチンでナイジェリア女性を不妊化しようとしている、という噂が広まると、ナイジェリアにおけるポリオの発症率は急上昇したのである。

 最も懸念すべきなのは、世界が関与をためらうことだ。富裕諸国における経済問題は、貧困者を助ける意欲を減退させるかもしれない。たとえ手が差し伸べられても、無益な努力に金が費やされてしまうかもしれない。しかし、世界がキャッシュを賢く使えば、技術の進歩を通じて、いくつかの病気が撲滅できるだけでなく、ほかの病気の犠牲者が減少する可能性は高い。今後数10年間は、1部の疾病にとっては受難の時代となり、残りの疾病にとっては繁栄の時代となるだろう。

 

 

スーパー耐性菌の登場

 伝染病はどれも時代の産物である、という学説は2世紀のプルタルコスにさかのぼる。マデリーン・ドレクスラーは著書『猖獗を極めようとする病』の中で、モンゴル軍に帯同してきた鼠が、アジアからヨーロッパに腺ペストをもたらしたと説明している。スペインの征服者は新世界に天然痘を解き放った。バクテリアが引き起こす結核は、不潔な環境を好み、産業革命の中で繁栄を謳歌した。21世紀の前半は、その時代にふさわしい疾患をいくつも生み出すかもしれない。

 新しい疾病が生まれる原因としては、都市化の進行が挙げられるだろう。2010年の時点では、都市部に住む人□は全体の半分強だったが、2050年には、途上国の巨大都市を中心に70パーセント近くまで増加すると予想される。人□が過密で衛生が不充分なスラム街では、感染がみるみる広がって間題を悪化させるだろう。気候変動に関しても同じことが言える。温暖化によって蚊の繁殖可能期は長期化するはずだ。

 世界における接続性のさらなる向上は、微生物の地球制覇の野望に手を貸すこととなるだろう。また、食糧のサプライチェーンの国際化が進めば進むほど、海外の病原菌が国内市場へ入り込む確率は高くなるだろう。現在でも航空業界は年間20億人以上の乗客を輸送し、大陸から大陸への疫病の伝播を可能にしている。じっさい、1999年には、ボーイング747に搭乗してきた蚊が、西ナイル熱ウイルスをニューヨークに持ち込んたと見られている。

 最も懸念されるのは、未知の病気の発生た。WHOによれば、1970年代以降、毎年ひとつ以上の新しい疾患が登場している。次に発生する疫病は、自然界に存在していたウイルスが、野生動物から人間への感染力を獲得したものかもしれない。SARSも、HIV/AIDSも、エボラ出血熱も、西ナイル熱も、すべて起源は野生動物たった。

 世界的流行を引き起こすインフルエンザも、最も警戒すべき対象のひとつた。インフルエンザの危険度は、2つの主要素によって大きく跳ね上がる。第1に、ウイルスの中で最大級の変異性を持っていること。ひとつの種が突然変異を起こし、ウイルス同士で遺伝子が交換されると、ときとして、人間がまったく抗体を持たない種に生まれ変わる場合がある。第2に、新種の感染力がきわめて高くなりうること。マラリアは媒介として蚊を必要とするが、インフルエンザはそのような非効率性を持たず、くしゃみを通じて人間から人間へ伝染していく。豚インフルエンザとして知られるHINIは、2009年4月に北米で観察されると、6週間後には69力国に広まっていた。

 重視すべきは、新たな伝染病が出現するかどうかという点ではなく、世界がいつどのように対応するかという点だ。長期的には技術革新が役に立ってくれるたろう。インフルエンザワクチンの旧来型の開発方法ー−大量の鶏卵を使って数力月がかりで開発するーーは、植物や細胞培養を用いたもっとサイクルの早い方法に置き換えられるはずだ。最も期待できるのは、万能ワクチンの開発だろう。将来は、ひとつのインフルエンザワクチンを接種すれば、一生のあいた身体が守られるようになるかもしれない。

 それまでの課題は、大流行が発生する前にウイルスを封じ込めることた。すでに〈Google.org〉は、インターネットの検索件数のデータを、大流行の早期警戒警報として利用しはじめている。世界ウイルス予測イニシアティブの創始者、ネイサン・ウルフが思い描いているのは、分散型の”免疫システム”とでもいうようなものた。具体的に言えば、各地の実験施設から研究データを集め、珍しい疾病の発見につなげようとする試みである。安価なDNA解析技術も、危険な新型ウイルスの早期の特定に貢献するたろう。

 新型ウイルスと同じぐらい恐ろしいのは、ありふれた病原菌が無敵になることだ。科学の進歩を寄せつけないスーパー耐性菌は、60年以上前から知られている。1928年に偶然ペニシリンを発見したアレクサンダー・フレミングは、1945年((ワード・フローリーとエルンスト・チェーンが大量生産にこぎつけたのは、第2次世界大戦中)、抗生物質を濫用すれば、耐性菌への進化を加速させかねないと警告を発した。この予言はすぐに現実のものとなった。1946年、イギリス国内のある病院からの報告によると、黄色ブドウ球菌の感染例のうち、14パーセントにペニシリン耐性が認められたのた。1990年代には、この数字は80パーセントを超えた。21世紀に入ってからは、大規模な工場式畜産が細菌の進化を加速させてきた。手っ取り早く家畜を太らせる目的で大量に使用される抗生物質は、突然変異と遺伝子交換を起こさせる完璧な環境を、抗生物質に対する抵抗力をつけさせる完璧な環境を、わざわざ細菌に提供してしまっているのである。

 カサンドラなら不吉な未来を想像するだろう(病原菌の側からすると、耐性の穫得には犠牲が伴うため、進化にはおのずと限界があると主張する生物学者もいるが…)。膝をすりむいただけでも、深刻な医学的症状が発生しかねない。ありきたりな外科手術も、命取りになる危険性がある。細菌のみならず寄生虫とウイルスも耐性の獲得を狙っている。わだしだちは将来、治療薬が効かないマラリアとHIVの新種を、目の当だりにさせられることとなるかもしれない。

 この不気味な厄災を科学者だちがどう鎮静化するかは、いまだ闇の中だ。病原菌の監視を強化すれば、新種を早期に発見できるかもしれないし、新種の情報をもとに、特定の抗生物質の誤使用を防ぐ指針を、当局が提供するようになるかもしれない。製薬会社が新しい武器を創り出し、使いものにならない古い抗生物質と置き換える可能性もある。残念ながら、今のところ企業が率先して行動する気配はない。WHOによれば、新しい抗生物質の研究に投資をしていだ大手製薬企業15社のうち、8社が研究プログラムを中止し、2社がプログラムを縮小してしまっだという。21世紀になって10数年が過ぎた現在、大手製薬企業は既存の病気の治療に興味を失っているのだ。

 

 

高齢化と肥満化が進行する

 スーパー耐性菌にしろインフルエンザの大流行にしろ、未知のものはほんとうに不気味だ。しかし、100パーセント予測可能な二つの趨勢も、恐ろしさでは引けをとらない。第1の趨勢は、世界が大幅に白髪化すること。2050年の時点では、60歳以上の人口が20億人を超え、21世紀初頭からの3倍増を記録するだろう。第2の趨勢は、世界が深刻な肥満化の道を歩むことだ。

 うらやましくない2つの面で、富裕諸国は貧困諸国をリードしている。2000年の中位数年齢は、先進諸国が37歳で途上諸国が24歳。成人が肥満化する可能性は、富裕諸国のほうが貧困諸国の2倍以上高い(図2.4を参照)。これらのトレントは、数多くの健康問題を引き起こすこととなる。肥満による損害は、糖尿病と心臓疾患の形で現われるだろう(図2.5を参照)。

 

 高齢化は肉体の虚弱化をもだらすだめ、老年層は癌などの疾患への対処に迫られるはずだ。最も困難なのは、脳の病気かもしれない。支援団体のアルツハイマー病協会によると、現時点で540万人のアメリカ人がアルツハイマー病を患っており、2050年には1600万人まで膨れあがると予想される。高齢化が進んでいけば、ほかの形態の痴呆症も同じような広がりを見せるだろう。このような状況は、結果として各国政府に財政的圧力をかけるはずだ。そして、製薬業界には緩和薬や予防薬や治療薬を開発する強大なインセンティブが働くはずだ。

 しかし、これらの問題に取り組むのは、富裕諸国だけではないだろう。21世紀の最も印象的な出来事のひとつは、慢性症状が富裕諸国から貧困諸国へ広がることだ(図2.6を参照)。

 2050年の時点では、60歳以上人口の約85パーセントが、現在の貧困諸国に住んでいるはずだ。2030年までに癌の発症率は、富裕諸国で40パーセント上昇するのに対し、貧困諸国では82パーセント上昇すると予想される。WHOの推計によれば、アフリカでも2030年までに、非伝染性の疾病が死亡原因の第1位になるという。

 途上諸国では、都市化が慢性病のリスクを高めるだろう。新たな都市住民は、農村部に住んでいたころより運動量が減り、煙草や公害やジャンクフードとの接点も増えるはずだ。これらに伴う不可避な健康被害は、都市のスラム街で増大すると予想される。すでに富裕諸国では、貧しい区域ほど慢性病が発生しやすくなっている。スペインの都市の場合、貧しい地区と豊かな地区では、糖尿病の罹患率は前者のほうが約3倍高い。掘っ立て小屋が立ち並ぶ貧困諸国の巨大都市は、間違いなくスペインと同じ道をだどるはずだ。

 これらのトレンドは、貧困諸国を窮地に追い込むだろう。なぜなら、伝染病と慢性病の両方を相手に戦わなければならないからだ。すでに1部の大都市は、2重の負担に苦しんでいる。コルカタのスラム地区では、幼児の死因は伝染病が第一位だが、40歳以上の主な死因は心臓疾患と癌である。

 貧困諸国の現行の医療制度は、対策を打つための武器に乏しい。富裕諸国の国民一人当だりの医師数は、貧困諸国の10倍。海外から貧困諸国への援助プログラムは、HIV/AIDSなどの限定された分野に集中しがちで、医療制度全般の強化にはつながっていない。健康保険の制度がないため、多くの患者は医療費を全額自服で払うしかなく、家庭の財政状況に壊滅的な影響を与えている。

 21世紀の新たな難題に取り組むためには、富裕諸国と貧困諸国の両方で、医療制度を強化して保険を拡充しなければならない。それができたとしても、高齢化と慢性病と伝染病の問題を克服するのは、現在の技術水準ではむずかしいだろう。しかし、幸いにも2050年の時点では、科学が病気治療そのものを変革してくれているはずだ。

 

 

医療機器の進歩が治療を激変させる

 医学の歴史は、平坦ならざる道を歩んできだ。18世紀の天然痘ワクチンの発見は、2世紀後の天然疸撲滅につながっだ。19世紀の公衆衛生の向上は、富裕諸国におけるコレラの脅威を縮小させだ。フレミングによるペニシリンの偶発的な発見は、感染症の治療を一変させた。今日でも、スーパー耐性菌のように、新だな脅威が前進を阻むことはありうる。バイオテロによって天然痘ウイルスがまき散らされる懸念もある。しかし、本章ですでに説明したとおり、新しい技術が新しい敵の撃退を手伝ってくれるはずだ。ネイサン・ウルフの。免疫システム・構想や、AIDS用やマラリア用のワクチンを通じて……。

 医療における大きな進展は、二つのカテゴリーに大別されるだろう。第1は、医療の提供方法に関する革命。2011年の状況を見ると、患者は手術後に何日も病院で過ごし、看護師は老人の自宅まで介護に出向き、途上諸国の母親だちは単純な医療サービスのだめに何時間もかけて病院を訪れている。糖尿病患者は血糖値測定器とインシュリン注射器を持ち歩き、定期的に人工透析に通わなければならない。しかし、2050年の世界では、これらの機器はありえないほど時代遅れに見えているはずだ。

 貧困諸国においては、操作と運搬がたやすい安価な機器が、医療関係者の不足を補うこととなるだろう。ひょっとすると、1台の機械でさまざまな病気――例えばデング熱やマラリアや結核ーーを検査できるようになるかもしれない。自分で診断を下せるマシーンが登場するかもしれないし、患者と遠方の医療チームとを結び、遠隔診療を行なうシステムが登場するかもしれない。富裕国と貧困国の両者を悩ませてきだ医療格差は、劇的に縮小すると予想される。医療関係者は簡単かつ継続的に、医療ガイドラインを参照するようになるだろう。そして、このガイドラインは医療知識の進歩に応じて絶えず更新されるだろう。

 急性疾患と慢性疾患の治療については、大幅な労力の低減が実現されるはずだ。外科手術が行なわれることは稀になり、超小型の機器が体の中に入り込んで、腫瘍を切除しだり臓器を修復しだりする。糖尿病患者の体内にはポンプが埋め込まれ、必要なときに自動でインシュリンを放出してくれる。独居老人は尊厳ある一人暮らしが可能になり、部屋の温度を測るのと同じように、健康状態がモニターされる。患者がベッドから落ちだかどうかたけでなく、正しく薬を服用したかどうか、睡眠をよくとっているかどうかも、センサーで感知できるようになる。体内に埋め込まれだ機器は、血糖値と血球数を測定してくれる。そして、異常な数値が出てきだ場合は、看護師や医師に知らせが届く。そういうシステムは新たな医療の形を創り出すだろう。高齢者と病人の数が増えだとしても、新しい医療機器の登場はそれを感じさせないはずだ。

 

 

新しい心臓? 問題ないよ

 今後40年のあいだに、今からは想像もつかないイノベーションがもたらされるだろう。

 しかし、現在の進歩のようすには、未来に関するヒントが隠されている。

 これ以上ないほどエキサイティングなーーもしくは物議を醸すーー分野は、幹細胞の研究だ。胚性幹細胞(ES細胞)は驚くべき能力を持っており、人体のあらゆる種類の組織に分化できる。幹細胞のスイッチを入れる方法を確立できれば、わたしたちの人体の治癒能力は根底から変革されるだろう。科学者たちは成長後の細胞を変化させる実験も行なっており、損傷した心臓を修復する道が開けるかもしれない。

 損なわれた身体機能を回復させることは、ほかの技術によっても実現が可能だろう。本物の腕を動かしていた神経で義手を動かす手法は、すでに導入されている。四肢切断患者が新たな四肢を制御する手法は、将来的にはもっと進化し、もっと広がっていき、四肢麻痺患者の機能回復にも利用されるはずだ。新しい腎臓が必要な患者は、従来より格段に負担が減るだろう。3D印刷のような新しい製造技法は、微小な細胞を積層させ、複雑な臓器を創り出すことができる。いずれは体内に臓器を"印刷"することも可能になるかもしれない。

 それまでのあいだは、躍進めざましいワクチン研究が、癌や薬物中毒などの仇敵を退治してくれる希望の星となる。もちろん、手に負えない敵も出てくるだろう。これまで科学者たちは、痴呆症患者の脳内にあるアミロイド斑を攻撃することで、アルツハイマー病との戦いに勝てると考えてきたが、数億ドルの研究費が注ぎ込まれたにもかかわらず、治療法の確立には至っていない。新たな検査方法でアルツハイマー病を早期に発見できれば、そして、発症リスクを持つ健常者を特定できれば、状況は確実に改善されるだろう。しかし、最も期待が大きいのは、2010年に実施された措置かもしれない。世界の大手製薬企業は共同で、失敗した研究のデータの共有を行なうと発表した。理解を深めるために挫折から学ぶ姿勢は、未来の成功につながるかもしれない。

 

 

ゲノム解析によって何が可能になるか

 第2のカテゴリーに分類される進展は、病気に対する理解を深めることで、第1のカテゴリーより大きな影響を与えるたろう。医学の進歩にもかかわらず、多くの病気はいまだ謎を抱えており、原因がはっきりとは解明されていない。しかし、ゲノム解析はこの状況を一変させるはずだ。

 2000年、2つの研究グループがヒトゲノムの解析を完了したと発表した。この成果は、人間の遺伝子コードをあからさまにし、記者たちはこぞって書き立てた。ゲノム学が病気の秘密を暴き、オーダーメイド医療の新時代が到来する、と。残念ながら、現時点で記者たちの予想は実現されていない。ゲノムに貴重な情報が集積されていることを科学者は理解している。しかし、米国ブロード研究所のデイヴィッド・アルトシェーラー所長の説明によれば、ゲノムは「わたしたちが読めない言語で書かれた本」なのである。

 やがては、科学者たちもより良い解読者となれるはずだ。ハーバード大学とマサチェーセッツエ科大学の共同事業であるブロード研究所は、世界の遺伝子研究の最先端を行っており、各地の研究所は矢継ぎ早に成果をあげてきている。ゲノム文書の解読内容については、厄介な問題も発生するだろう。現在でも、珍しい遺伝病を持つ母親が妊娠した場合、胚の検査で病気の有無を確かめられる。将来的には、子供のさまざまな資質を事前確認できるようになると予想される。どの胚が明敏な頭脳に成長するのか? この小さな胚が大きな鼻を持つのか? もしかしたら、両親が自分の好みに合わせて、生まれてくる子供の特徴をあつらえるようになるかもしれない。

 これらの問題は真剣な議語を促すだろう。しかし、ゲノム解析の主たる成果、すなわち病気の原因解明を目の当たりにすれば、議論などどこかへ吹き飛んでしまうはずだ。すでに新世代の癌治療薬は、特定の癌を引き起こす特定の遺伝子変異を攻撃することができる。この分野では進歩が続き、ほかの多くの病気についての理解も深まるだろう。ほとんどの疾患は原因が入り組んでおり、さまざまな要素が複雑に絡み合って引き起こされる。未来の世界では、アルトシェーラー所長が予言するとおり、血液検査やレントゲン検査と同じぐらい手軽に遺伝子検査を受けられるようになるだろう。そして、遺伝子検査は病気の原因を特定して治療法を発見するための強力なツールとなるだろう。

 とはいえ、ゲノム解析に――いや、科学の進歩全般に――過剰な期待をするべきではない。「この次に開発される技術が、人類共通の厄災を極めてシンプルな問題に変えてくれる、という希望はどんなときにも存在する」とアルトシェーラー所長は語るが、おそらくそうはならないだろう。わたしたちは歳をとりつづけ、ウイルスは進化しつづけ、病気は人間と国家を苦しめつづけるだろう。しかし、新旧の疾患と立ち向かうとき、より多くの武器を持っているのは、過去の人間ではなく未来の人間のはずだ。

 

 

 

 

 


 

第2章のまとめ

 

 

 

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