芝川 16号 1999年8月
正信正法の行方
高橋 公純
「芝川」は20数年前、大坊在勤の時、神屋・広田の両師と私と3人が中心となって作ったもの、未だ続刊しているとはうれしい限りである。
創刊号は、ほとんど文学的なもの、今にして思えば未来の宗門を背負う若人としては恥かしいばかりの内容であるが、それでもお仲居さんより発刊禁止の処分と、送ったものは回収せよと云われた。
時に最も正義感を表に出したのは広田師、こんな事に負けず続刊しようと、私もその腹づもり、当時のお仲居さんと3人は2、3時間話し合い、最後にお仲居さん、カン高い声で「君達わかりましたか。」
「わかりました」と柔道2段の勇者、大学時代応援団の団長(記憶違い)していた神屋師は流石スポーツマン、素直である。
ところが、通称、怒りの頼チャン事、広田師はすかさず「わかりません。」
今度は「年の功」の私、「あの〜、私達の意見がわかれましたので、意見を調整して次の機会に、ハイよろしく。」
貌下の意を受けたお仲居さんの説得を水に流したのだ。
歴代在勤者中最も悪と云われた五十年同期会の面目躍如というところか、今本山でこんなことをしたのならどうなるだろう。
だがその数日後、奥番していた大物寅道師、私のところに来て、「貌下がこれ以上続けるなら下山させろとお仲居さんに云っているから、公純さん、あなた方の正義感も熱もわかったから、一時この辺でやめた方がいい」その御助言で一時休止。
数ヶ月後に、私は広田師に「頼さん2号は俺にまかせろ」と一人で作った。
但し、1頁に3行ほどの活字の他は白紙。
例えば、
「釈尊は11年の修行の後悟られたという。信仰の最終目的が悟る事にありとすれば、現代社会で忙しく働く人々は、信仰の目的はほぼ絶望となる。これをどうするか。」
あとは白紙、その次の頁も白紙、その次の頁には又そんな事を書く。そんな第2号を作って大坊の寮に釘を何本か打って第2号をブラ下げた。
これを見て、謝罪しろとか、下山しろと云ったらこんな腐った宗門に未来はない。さあ何とでも云え、案の定何も云ってこない。
「んじや頼さん、3号は1面の3行を5行ぐらいにふやしましょう。3号は任せます。」
かくして、1年間で5号ぐらいまで結局は発刊したのだろうか?
私達が大坊の茶の間でお仲居さんと話し合った時、私はこう反論した。
「お仲居さん、芝川は文学だけで宗教の匂いはありません。それが何故いけないのですか。」
「高橋君、文学は恐い、そうだろう、俳句だって五七五のわずか十七文字だけどそこには人間の感情がぎっしりこめられている」と、流石お仲居である。
あの頃、第一次宗創戦争がボッ発する前年だ。心ある僧侶は学会のいいなりになっている宗門のふがいなさに、誰もがいきどおり、宗門の未来を憂いていた。
我々も憂いていたからこそ芝川を出した。だがどのようにしてその憂うる心を表現するか、それを私達は文学とした。
魯迅の阿Q正伝、中国社界の腐敗堕落を一人のアホーを主人公にして痛烈に非難し、人々が革新を促した。
そういう例もあるが、一応私達は質は、はるかに低い文学のよせ集め、それでも当曲はそれを禁正した。
今思うに、まもなく宗創戦争が始まるという戦雲暗き日に、当局は一体何を恐れたのであろうか。
○ ○
大坊在勤終って頼さんは広島に、私は仙台に行った。
まもなく、創価学会の信徒団体としての行き過ぎが問題となって、その為の宗会が本山で開かれ東北出身の宗会議員が仙台に来た。
私はその前日、そういう資料を宮城と福島県の住職分一日コピーさせられた。
何故ならばその頃宮城県にコピー機のあったのは私の在勤する寺にきりなかったからである。
私は翌日そのコピーを持って行き配った。宗会議員は学会の非なる事を力説する。結論としてどうするか。
「正は正、邪は邪である、闘う以外にない」と闘いを主張したのはだったの3人のみであった。福島県で当時(今でも?)日本一貧乏であると云われた寺の住職と私達師弟のみ。
私に学会の非なる資料を一日中コピーさせた住職も、本山から来て学会の非なるを力説した宗会議員も闘う意志力はなく、妥協案でもさぐるかの如きであった。
やがてそのくすぶりは日蓮正宗の正信への覚醒運動として燃え盛った。
ここに言論は自由となったというより、正義の言論の急務と共に、芝川も又息を吹き返したのである。
以来、歳月の流れの中に私は芝川を去ったから、芝川に対し何ら意見等を云う資格もないしその意志もない。
唯、近刊に見る芝川の論述の中に、正信への道が途絶え歩むに歩む方向がないようにすら感ずる。
正信の道を歩んで来た人々は今後どこにゆこうとするのだろうか。
私が正信会発行の機関誌「継命」の編集長になった頃、覚醒運動は大きな山を登り詰めていた。山を下ってどこへ落ちつくのか、その方向性を定めねばならないはずであった。
私はもともと御宗祖の仏法に2つの大義があると思っていた。
「正義」と「救済」の正意である。
正義に限らず新しい思想というものは旧い思想を追い払う。旧い思想はそれによって生活し、権力を維持している者もいるから、思想戦は権力と権力の闘い、武力と武力との闘いが人生や現実の生活をかけて行なわれる。
況んや正義というものは一切相手を認めないわけで、相手も全力をこめて反発してくる。
私は数度、宗創問題で一般書店から出版した。その時、ある宗門僧より手紙を頂いた。
「君の本を読んだ。確かに正義であり、現段階で必要であろう。しかし、日蓮正宗に関する本である限り、日蓮正宗の恥を社会にさらす事になり、日蓮正宗にキズがつく。今後やめたらいい」と。
確かにその通りであった(もちろん今、そういう人を含んで日蓮正宗が社会にまき散らした汚泥やキズが100年の歳月をかけても消えそうにもないが。)
相手にキズをつけようとすればこちらもキズをつけられる事は覚悟しなくてはならない。
そろそろ山を越えた。今度は正義の剣をふりかざすのではなく、救済の旗をふる時である。
私は心の中でそう思って、継命の編集長の任にあたった。
脱会者は学会の非を知って脱会したわけでそういう人々に、これでもかこれでもかと学会の非を説いてもそれは修羅の心が強くなるだけで、今や御宗祖の慈悲を説く時、若し正義というならそれは正信会の正義ではなく、御宗祖の正義を説くべきである。
救済を柱として進まねばならない。
しかし、その頃の継命社は正信会有力な僧によって経営されていたらしく、
「公純は何を生意気な事を云う、俺達は学会の非を正す為に立ち上ったのだ。その為の継命であり、金を出している。経営者の意に逆らうやつはでてゆけ。」
直接こう云われなかったが、こんなふうであった事を後に聞いた。
藤村詩集の序に「噫ついに新しき詩歌の時は来りぬ、そは美しき曙のごとくなりき、いずれも名声と光明とに酔えるが如くなりき」ではなくも、人々は学会の非をつくのが正義と錯覚し、小さな正義に酔っているとしか私には思えながった。
私の出家は昭和40年の4月、その夏行学講習会に参加した時「一期会」なるものを提唱した。宗門の未来の為に俺達は団結して人材になろうと。
それは私は学会青年部出身で少々の役職もやった。而るに宗門に身を投じてガク然とした事は、学会の現実に対してあまりにもひどい宗門の実情であった。これでは宗門は10年にして学会に負けるであろう。何とかしなくてはという思いである。
(その後10年して50年路線はおこったのだが)
私が出家した頃、僧階という身分制度がうるさかった。
だが私は出家したその日から、僧としての正義と救済とに生きるべきであると思っていた。
現に私は所化と云われる2等学衆の時、学会本部に呼ばれて当時の副会長北条氏と韓国問題で話し合っている。宗門の非一人前のくせにやりすぎたのだ。
私のそんな過去をふり返る時、正義正義と云っている人々は、チャンチャラと云っては申し訳ないがおかしかった。
「あなた方、所化時代何してたの、住職になって何の苦労もなく入ってくる金でどれほど遊んだの、私皆知ってますよ、正義なんていうのはねえ、出家したその日から云うもんなんだよ、出家して10年も20年も経って云うなんて恥かしくないかい」
日興上人が御宗祖の門下となったのは13歳の時、御宗祖伊豆に流罪になった時、急いでかけつけ、時に金剛院行満を折伏した。わずかに16歳、私の僧歴からすれば3等学衆にもならぬ沙弥小僧の時代である。
正義というものは世にも人にも晋遍の真理である。学会があろうがなかろうが宗門僧として叫び続けるべき命題である。それをあなた方は今までぬるま湯にどっぶりとつかっていて、今ごろ何を云うのか、そんな心境もチラチラした。
だが私はその頃無任所と云われる身分、教師となったものの、住職の任ではなく、宗門の縦形の組織の下の方でうごめく他になかった。
(続く)