年中行事

 

葬儀本来の意義を確認する

 

 

本文は埼玉県所沢市の行善院・初代主管である、松本格道師が同院講中のために作成した「講員心得」からの抜粋転載です。新聞紙面の都合で原文を補足、加筆などにより編集しています。    (編集部)

 

 

◇葬儀について

 「生死の意義」

仏法では「生死不二」といい、生と死は一体のものと説きます。いいかえれぱ、生と死には同等の価値があり、そこに優劣や吉凶をつけて区別することは、間違いであるといえます。

 私たちが人生をよりよく生きるためには、まず死の意味を知ることが大事なのです。人は誰でもいつか死ぬ、と気がつけば周囲の人を愛する心も生れ、もっと今を大事に頑張ろうという気持ちになります。

 そして「死んだらすべて終り」などという、今しか見ようとしない短絡的な考え方が変わり「死んだ後にも未来がある」と気づきます。それが過去・現在・未来の存在を認めて常に明日を信じ、次の世代や世の中のために生きる宗教的な人生観となり、臨終の時に満足する生き方ができるのです。

 仏様は「私と同じように妙法蓮華経を信じて生きるならば、このように有意義な人生と臨終を迎えることができます」と、お手本を示して下さいました。講員各位には、このことをしっかりと肝に銘じなければなりません。

 以下、臨終・通夜・葬儀などを営む心構えについて、少々お話しいたします。

 

 「危篤の通知に際して」

 現代人は病院で死を迎える場合がほとんどですが、家族や近親者はその時になって、いたずらに嘆き悲しむことがないように、日頃からきたるべき事態にいつでも対処できるよう、備えておくことが大事です。これは自宅で死を迎える場合も同じです。

 医師から危篤を告げられたら先ず菩提寺に連絡し、近親者に知らせて最後のお別れに臨み覚悟をします。その時に臨終を迎える当人の呼吸にあわせて、耳元で穏やかにお題目を唱えます。

 周囲の者は、決して当人の心を散乱させるような言葉や行為は控えましょう。それらのことで当人が生に執着し、臨終正念の心を迷わせてしまうからです。

日寛上人は「臨終の一念は多年の行功に依ると申して不断の意懸けに依る也。樹の先ず倒るるに、必ず曲がれるに随ふが如し」と仰せです。

臨終はこれを迎える当人だけではなく、見送る介添人の心構えが大事なのです。なぜなら見送る人も必ずいつか、自身の臨終を迎えるからです。

 

 「葬儀の準備」

 臨終を看取ったならぱ、関係者へ死亡の通知をしますが、先ず初めに役所に知らせると共に菩提寺へ連絡をします。一般的に、火葬する斎場や時間帯を決めて、そこから逆算して通夜・告別式などの日取りと、菩提寺の都合とを調整して決めるからです。

 地域によっては、必ずしもこの手順とは限りませんが、菩提寺への連絡は早めにすることが大事です。

 

 「枕経」

 臨終の後、ご遺体を納棺する前に故人の枕元で読経・唱題する儀式を「枕経」といいます。本来はまだ危篤状態の時に、僧侶が当人の枕元で読経をし、引導を渡して成仏を願う儀式でした。最近は臨終の後に導師と共に身内だけで行われることが多く、服装も普段着でかまいません。

ご遺体を納棺する時、故人に帷を着せます。昔は生前に自分の帷を縫って用意していましたが、最近は葬儀社で用意することもあります。

またご遺体の両手には、生前に使用していたお数珠を必ずかけ、お棺の中にお経本をそえるようにしましょう。

 

 「通夜」

葬儀の前夜には「通夜」が営まれます。通夜とは文字通り、夜を通した読経・唱題を意味します。しかし、現代社会の生活事情は必ずしもその通りにはゆかず、時間を決めて読経・唱題をします。

 今でもご僧侶の通夜などでは、何人もの僧侶が代わる代わる交代で、繰り返し読経・唱題をする姿を見ることがありますが、通夜本来の形に近いといえます。

 

 「他宗の葬儀参列について」

 親戚や縁のある友人の葬儀が他宗で営まれることはよくあります。それらの方の通夜や葬儀、法事などに参列することが謗法に当たらないか、という質問をよく聞きます。

基本的には参列、お焼香することになんら問題はなく、むしろ積極的に参列しお題目を唱えてあげるとよいでしょう。ただし、信仰のけじめはハッキリさせなければなりません。

斎場に安置された仏像や本尊を拝むのではなく、あくまでも日蓮正宗の数珠を手に掛け、故人の成仏を願って心の中でお題目を唱えることが大切です。

また、他宗の寺院によっては経本を配布して「故人のためにみなさんも一緒にお唱え下さい」と案内されることがあります。その場合にも本宗の御本尊を思い浮かべ、正宗のお数珠をかけて心の中でお題目を唱え、故人の成仏を祈念します。それが故人の供養になるのです。

一般に、葬儀の形態は時代によって変わり、近年は通夜葬儀を行わずに直接、火葬場で荼毘にふす直葬や、その遺骨を海や川へまく散骨もあれば、個別のお墓を造らず樹木を墓石替わりにした樹木葬なども、広く受け入れられつつあるようです。詳細については、6面に連載中の「送るためには」をご覧ください。

葬儀や法事の形式が変化することは自然でもあり、また地域の風習や時代の流れは尊重します。しかし、葬儀本来の意味とそれをあらわしている当家の化儀を基本に判断することが大事です。それを黙止しては、仏教が形骸化して本来の意義が失われてしまいます。

 その責任は私たちにもあることを自覚し、わからないことは菩提寺や指導教師に相談して正しい供養、回向の方法を守っていきたいものです。

 

 

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