第70回日蓮宗教学研究発表大会特別記念講演

「日蓮学の構築」(平成29年11月10日)

 

近代日蓮教学の回顧と展望

 

 

渡邊 賓陽

 

 記念講演に、米国プリンストン大学のジャクリーヌ・ストーン教授とともに、愚生が担当することとなった。ストーン教授が日蓮聖人の凡夫成仏論を論じたのは、身延山大学国際日蓮学研究所長の望月海慧教授の要請によるものと聞く。望月教授は、ハーハード大学での講義を担当するなかで、国際的な動向を感じ取り、ストーン教授の来日を切望したものという。

 それに対して、愚生は近代における「日蓮教学」研究の動向を顧みることとした次第である。先師に対して不遜のそしりを得るかも知れないが、日蓮宗における教学研究は、時代状況の中での苦闘であったとしみじみ思う。これから、日蓮教団が今後の時代の動向にどのように対処していくのか?ということが、大きな課題として迫って来るのではないか?と愚感する次第である。今回は簡単なスケッチに終わるが、後学の諸氏の健闘を心から念願するものである。

 

 

1.「新居日薩師は、なぜ優陀那日輝教学を讃えたのか?」

 初代日蓮宗管長・新居日薩は、明治新政府体制のなかで、「如何に日蓮宗の対応を図っていくか?」が最大の関心事であったのではないか。

 日本社会(だけでは無いかも知れないが)はある程度の知的レベル・社会的レベルでないと認められない。現在でも、日蓮宗の諸派では、きわめて原初的形態の運営がなされているケースがあるようであるが日蓮宗が、今、他宗と肩を並べる「法要式」を有しているが、これらの源泉が、新居日薩にあるのではないかと愚感する。近代の「宗学研究」というと、小難しいことをすぐに連想するが、実は優陀那輝師は、諸種の「法要式」を調え、『開経偈』も調えている。ところが、これらがもともと無かったのが、日蓮宗ではなかったのではないか。そうした現実的・具体的な様式を調えつつ、その背後となる「宗学理論」を整備していった輝師の「宗学」をもって、明治新体制に呼応したのが、新居日薩等の一連の宗門運営ではなかったかと愚感する。

 

 

2.【田中智学居士十本多日生師らの教学行動】

 〈田中智学の大教院離脱〉新居日薩は、大教院を基幹とする「宗門態勢造り」を進めた。それに対し、智学は大教院から離脱する。(その背景には、諸種の事情があるのではないかと考えるが、) 一般には、日薩に反発して大教院を辞したとするのが定説となっている。あるいは、日薩が僧侶中心の宗門組織を維持するため、政府主導のルートに乗る姿勢に反発をしたとも考えられるかと思う。すなわち、「在家主導の組織化」路線である。近代社会形成の動向を察知して、寺院中心の組織に即応する組織としての信徒組織をイメージしたものかとも愚感する。

 また高山樗牛と姉崎正治(帝国大学宗教学科主任教授)による『法華経の行者日蓮』に対して、山川智応の綿密な指導が、新たな活動体としての「立正安国会」から「国柱会」を押し出して行くなどの面に注意したい。特異な例としては、宮澤賢治との関係についても熟考する必要があろう。

 さらに真宗主導の「仏教統一論」にもとづく活動を期した本多日生(顕本法華宗管長)は、千葉県下・七里法華信徒の猛反発に遭い、顕本法華宗独自の「統一運動」に転化する。その運動は、右翼的と評価されるが、本多自身の内奥は、かなり広い視野に立ったものではないかと愚感する。たしかに右翼的傾向も強いが、後に「法華会」を創始する山田三良や、平民病院の加治時次郎なども、最初は本多の指導を仰いでいるとも感じる。教義論を鍵とする独白な「布教方式」。その信仰指導にもとづく「教義体系」の構築が、宗門に与えた影響も忘れてはならないであろう。

 

 

3.【小川泰堂の『日蓮大士真実伝』『高祖遺文録』】

 藤沢の医師・小川泰堂は、日本橋の書店で「日蓮聖人遺文」に出会い、日蓮聖人の教義研鑽に挑む。上記の両著は広く日蓮聖人讃仰者の間に普及し、大きな影響を与えた。

 元来、日蓮宗は権力機構の配下となることを避けた。徳川政権には従属したものの、その支配下となる事を避けようとする「不受不施」の気分も、広く受容された。庶民は、いわば、そうした反骨の精神に基づく「日蓮信仰」に支えられて生きて行った。そうした気分の信仰的「ささえ」となった小川泰堂への憧憬は、よく日蓮信徒に弘まって行ったものと愚感する。つまり他宗の多くが、権力機構に依存していたのに対し、日蓮宗は(寺院の信仰活動を含めて)、抵抗信仰を背後にした気分を包み込んでいたと見る。

 

 

4.【御遺文集の編集・刊行】

 周知の通り、「日蓮聖人御遺文」編集・刊行には、先師の尽力が積み重ねられた歴史がある。小川泰堂は、明治13年(1880)に『高祖遺文録』(木版30巻)を発刊。明治18年(1885)(活版20巻)を身延山の助力を得て発刊。

 明治35年(1902)の日蓮聖人立教開宗650年を期して、加藤文雅(承教寺)が『霊艮閣版日蓮聖人御遺文』(縮刷遺文)を企画。稲田海素(後に立正大学教授)による御真蹟との対校を経て、明治37年(1904)発刊。日露戦争に出征した山田日真(戦後、日蓮宗管長)は、鉄砲を胸に受けたが、『縮刷遺文』が弾を止め、一命をとどめたという。田中智学監修『類纂高祖遺文録』(大正3年 1914年)をはじめ、実に多釈の「遺文録」が刊行されている

 

 

5.【『昭和定本日蓮聖人遺文』刊行の背景を思う】

 昭和27年(1952)の日蓮聖人立教開宗700年を記念して、立正大学宗学研究所編『昭和定本日蓮聖人遺文』全4巻(昭和27年・1952〜昭和34年・1959)《身延山久遠寺蔵版》が刊行された。『昭和定本』が基準遺文となっていることは周知の通りである。監修・望月歓厚(宗学研究所長)。編纂主任鈴木一成(宗学科主任)であるが、身延と立正大学を繋いで、刊行を現実化したのは、坂本幸男(立正大学仏教学部長)であった。

 

 

6.【日蓮聖人真蹟遺文の研鑽】

 明治以降、写真技術とともに、ドイツから輸入された美術印刷がさかんとなった。大正2年〜3年(1913〜1914)にかけて、浅草(入谷田圃)「幸龍寺」の神保日慈(後に中山法華経寺貫首・日蓮宗管長)は、こうした複製技術により、『日蓮聖人御遺文集』20冊を刊行した。しかし、大正12年(1923)9月の関東大震災により、御真蹟のフィルムを水に漬けてしまった。

 そこに駆けつけたのが、親戚の片岡随喜であった。本多日生のもとで、青年会活動に従事していた片岡が神保と対面し、御真蹟集刊行の大事業を委嘱されたのである。爾来、戦争時代のなかで、事業が粛々として継続され、昭和27年(1952)に二分の一の影印本を刊行。昭和34年(1957)、ついに全48巻22冊の影印本を完成し、刊行した。

 (但し、100部ほどで、個人蔵はきわめて稀という状態と聞く。そのなかで、上原専禄(一橋大学学長)は、個人で求めたようである。その後、中尾 尭(立正大学名誉教授)の世話で、欧米の13の博物館・美術館に寄贈された。渡邊も北京図書館への送呈に関わったことがある。

  この間、山川智応は、『現存日蓮聖人御真蹟』(影印本)全13巻を昭和24年(1949)、同刊行会の名で刊行。次いで、山川智応虔修『日蓮聖人御真蹟』(北望礼)全10冊(昭和40年〜昭和44年・1965〜1969)を刊行。

 なお、その後、山川智応・山中喜八対校『現存真蹟写真対照 日蓮大聖人標準御書』(北望者発行・非売品・昭和43年)で、さらに山川智応編、稲葉与八山川百男増補『日蓮聖人御真蹟大集』(影印本・全2冊)が国書刊行会(昭和51年・1976)など多数が出版されている。

 その後、文化庁の協力により、大石寺所蔵の真蹟遺文を含めて、法蔵館から、ハンディーな装頓により『日蓮聖人真蹟集成』全10巻の影印本が刊行され、現在、「影印本」の標準図書となっている。

 ※ これらについては、『宗学科生のための研究ガイドブック』(立正大学仏教学部発行)に負うところが多い。なおなお、多くの書名が見られるが、大筋を認めることを主眼として、細目は省いた。

 

 

7.【日蓮教学研究者の群像】

 傘寿を過ぎて、過ぎ越し、宗学者の群像を思い起こすと、「近代仏教学」専攻者と、伝統的な仏教讃仰者との間に、大きな特色があることが見えて来る。

 伝統的な仏教讃仰者と、「近代仏教学専攻者」とを対比すると、前者は日本仏教の伝統的な信仰にささえられているのに対し、後者は、明治以降、西欧学者のインドを中心とした研究という新たな手法による事が明らかである。

 とは言え、現代日本において欧米文化の影響が強いところから、後者の視点に立つ啓蒙書も多くを数えるようになっている。今後、「仏教研究」がどのように展開する事になるのか。想像を絶するが、いずれにしても今後の「仏教研究」は多くの可能性を秘めていると愚感する。

 さらに、「宗学者」においても、故・清水龍山(元、立正大学長)の優陀那日輝の祖述というスタイルに対して、故・望月  歓厚(元、立正大学長・日蓮教学研究所長)は、『日蓮宗学説史』に見られるように、信仰継承の責務を負いながらも、先師の所説を客観視する姿勢が基本となっているように思われる。

 試みに、これら宗学者のタイプについて、愚考を示すと以下のようになる。

@【宗学者の原点】

 @ 宗学者は、原体験として、熱狂的な「宗祖への帰依」が必須。

 A 優雅な環境にある方は、仏教学等、客観的視座に向かう傾向があるのでは。

A【宗学者の二つのタイプ】

 @ 熱狂的な宗祖帰命の論理化を目指す、清水龍山先生や山川智応居士など。

 A 冷静に「日蓮宗の学説の歴史」を検証。望月歓厚先生など。

 

B【宗学後継者】

 @ 清水龍山先生から破門された 茂田井教亨先生室住一妙先生など。

 A 望月歓厚先生『日蓮宗学説史』(大正14年〜昭和6年)。

   執行海秀先生『日蓮宗教学史』(昭和27年)他宗にはみられないタイプ。

 

 

8.【浅井要麟先生『日蓮聖人教学の研究』出版についての支援に関する疑問】

 同書は、昭和20年(1945)、京都・平楽寺書店からの出版である。戦後混乱期の昭和20年の出版はどうして行われたのか。大きな疑問であるが山田三良(東大法学部長)の「はしがき」があるところからみると、「法華会」の山田三良理事長の支援があっての出版かと愚考する。

 浅井要麟は、須原屋刊行の『日蓮宗全書』(版本の祖書註の活字化)の計画に際し、若い時代から、校正に従事したと聞く。そして日蓮聖人遺文の研究を「祖書学」として位置づけ、「宗学」の方法として、キリスト教神学に倣い、「根本宗学」「組織宗学」「応用宗学」を提示するなど、伝統を継承しつつ、新たな視点を顕示された。

 先生は、立正大学付近に寓居を構えて、学生をこよなく愛し、勝手に珈琲を入れて御馳走になることが出来たという(宮崎先生からの伝聞)。

 

 

8.【望月歓厚先生の宗学の方法】

   望月歓厚は、津田日厚に見出され、勉学「研究」一途の環境を与えられた。これらを振り返ると、

  ‘『観心本尊抄』(『日蓮聖人御遺文講義』18巻のうち・昭和6年=1931)

  ‘『法華経講話』(大林閣・昭和10年=1935)⇒(平楽寺書店・昭和57年=1982)

  ‘『日蓮教学の研究』(平楽寺書店・昭和33年=1958)

東洋大学藤原猶雪教授・審査により日蓮教学最初の「博士」。坂本幸男教授『華厳教学の研究』(東北大学・博士論文)によって、立正大学大学院文学研究科仏教学専攻が認可される

《序論》日蓮教学の前階

(1)法華経題釈の変転 (2)本覚法門の成立と法華経の二門 (3)日本仏教の末法思想の超克

《本論》日蓮教学の研究

零・序章 (1) 日蓮聖人の宗教に於ける「事」の本質的構造

     (2) 一念三千と妙法五字      (3) 三大秘法の成立と組織

     (4) 日蓮聖人の本尊        (5) 開目・本尊両抄の関係

     (6) 法華経の如説修行と日蓮聖人  (7) 日蓮聖人の往詣思想

         (8) 本迹論と日蓮宗の分派     (9) 本因果妙論の考察

     (10)日隆の顕本論         (11) 優陀那日輝の宗学

  ※いずれも、各学会誌などに寄稿した論文

 威厳のある先生であった。若い時に、師匠の津田日厚の厳命で、ひたすら勉強することを命じられたとのこと。『行学綱要』(昭和19年)の執筆を鈴木一成師に命じ、日蓮教学研究所長として、宗議会の提議にもとづき『日蓮宗読本』(昭和30年、日蓮宗から刊行丿のち平楽寺書店刊行)の監修にあたり、さらに片山日幹日蓮宗宗務総長からの要請にもとづき、「日蓮宗 宗義大綱」を制定(昭和40年代)。

 日蓮宗は、その後、茂田井教亨に「宗義大綱 解説」執筆を依頼。宗議会に於いて、片山総長提案が承認された。

 

 

9.【鈴木一成の祖書学】

   『日蓮聖人正伝』は今でも平楽寺書店刊行。(もともとは他の出版社からであった)

   『日蓮聖人遺文の文献学的研究』(山喜房仏書林・昭和40年=1965)

    「前篇」 序説/遺文の真蹟/遺文の蒐集/遺文の編纂

    「後篇」 遺文の系年推定の根拠と方法/遺文の系年について

    (余論) 花押の変化と御消息の系年

 先生は、終始、「祖書学」に専注。昭和6年(1931)から10年間大学勤務からはずれるも、江戸川区「妙泉寺」で研究を継続。立正安国会を訪問して「御真蹟」の写真を拝見することを願うが、拒否されたとのこと。その後、「法華会」会員でめった加治さきが、片岡随喜から譲り受けた「御真蹟」の写真を参照して、昭和27年〜34年(1952〜1995)刊行の『昭和定本日蓮聖人遺文』全4巻の編纂王任をつとめる。先生が苦労していた頃、「一輪指し」に、白身で詠んだ左の句を印していたことを思い起こし、目頭が熱くなる。

   一輪挿しに 水仙活けて 今日も一日暮れにき》

 

 

10.【影山尭雄教授の教団史研究】

  『新編日蓮宗歴史』(自費出版・大正10年=1921)

  『日蓮聖人教団略史』(自費出版・昭和7年=1932)

先生は、貝塚昇研師(帝国大学史料編纂所員)らの指導により、ひたすら「日蓮宗史」研究に明け暮れた。上記2冊は、出版事情が整わない時代に、自坊(市川市中山「泰福寺」)から自費出版して、テキストとしたもの(恩師は、柴又「題経寺」の影山佳雄師)。

   (『日蓮宗宗定法要式』編纂者のひとりでもある)

   『日蓮宗不受不施派の研究』(古稀記念論文集・望月歓厚編)昭和31年(1956)伊豆七島などの調査を主体とした論文集(『大崎学報』特集)。

   『日蓮宗布教の研究』

80歳代の執筆。『布教史』研究により、学位を取得。

   『中世法華仏教の展開』編著  平楽寺書店 昭和49年(1974)

文部省科研費による研究の集成

 

 

11.【塩田義遜教授の『日蓮宗宗学概論』『法華教学史の研究』】

 現在の「身延山大学」の前身は、同短期大学。その前は、「祖山学院」。遡れば「西谷檀林」であり、その間、多くの学匠を輩出した。

 塩田義遜は、大正8年(1919)、日蓮宗大学研究科を卒業。大正14年(1925)に祖山学院教授となり、終生、身延山短期大学の教授を務めた。昭和25年度(一九五。1950)には、立正大学仏教学部教授に就いている。立正大学仏教学部が、昭和24年(1949)に新制大学の学部として発足した直後である。望月歓厚と坂本幸男学部長(当時)の信頼の厚さを思わせる。

 塩田教授の著書『日蓮宗宗学概論』(昭和18年=1943・平楽寺書店刊)が著名であるが、その他多くの優れた論放を世に問うている。教授は、仏教学の広い視野に立ちつつ、『日蓮宗宗学概論』を編んだものと思われる。『日蓮宗宗学概論』は、従来の教理の説明が、天台系の教理を基礎にしかものと批判し、日蓮聖人の示した結論を明らかにしようとする視点に立つものであったように感じる次第である。同書の構成は以下の通りである。

 第一編 宗史概説

   第一章  宗祖の生涯

   第二章  滅後の教団

 第二編  宗学概説

   第一章  所依と祖書

   第二章  教判概説

   第三章  教理概説

   第四章  三秘総論

   第五章  本門の本尊

   第六章  本門の題目
   第七章  本門の戒壇

   第八章  本門の三益

   第九章  四海帰妙の翼賛

 

 昭和35年(1960)、古稀を迎えるにあたり、『法華教学史の研究』が同出版会の手により上梓されたが、部数はわずかに200部ということである。いかに戦後とはいえ、恵まれなかった教授のご苦労を思う。『法華教学史の研究』は、つぎのような構成である。

 序章   法華の実相義と三国讃仰の大系

 第1編  印度源流史

   第1章  龍樹の法華経観

   第2章  堅慧の法華経観

   第3章  世親の法華経観

 第2編  中国讃仰史

   第1章  法華経の漢訳とその讃仰

   第2章  中国初期の註家

   第3章  実義開顕時代

   第4章  顕教交流時代

   第5章  密教交流時代

 第3編  日本讃仰史

  第1章  聖徳太子の讃仰と日本文化

  第2章  最澄の弘通と上古三聖の讃仰

  第3章  中古天台の本覚思想

  第4章  日蓮の法華本門の教学

 教授が、印度・中国・日本の三国にわたる『法華経』讃仰に、いかに心引かれていたかを追慕するものである。

 

 

12.【『純粋宗学を求めて』に集約される 室住一妙教授の学績】

 近代の宗学研究は、望月歓厚『日蓮宗学説史』、執行海秀『日蓮宗教学史』、塩田義遜『法華教学史の研究』という三種の著述によって知ることができるように、客観的視座に立って行われている。これは、それ以前の清水龍山師の論述の姿勢を異にするものと言えよう。それに対して、茂田井教亨教授の宗学論は、哲学的思索に基づく『日蓮聖人遺文』解釈に彩られており、清水龍山教授の影響が見られると言えようか。さらに同教授の心友であった室住教授は、文献学的批判などよりも、日蓮聖人の信仰世界に同化しようとする「純粋宗学」の究明を基本としている。とはいえ、『日蓮聖人遺文』の文献学的批判が常識となった状況を咀嚼しつつ、その上で、「純粋宗学」究明に打ち込んだ生涯であったと言えようか。

 仙人と呼ばれた室住先生への評価は、身延山内では必ずしも高くなかったのかも知れない。しかし、僧籍もなく宗門を冷静に見ていた高木 豊教授は室住先生を高く評価していた。先生の御遷化後、先生の全遺稿を集成した『純粋宗学を求めて』が刊行されたことは、心友・茂田井教亨先生の熱望によるものであるが、その背後に高木教授等の熱い思いがあったと想定する。同書の刊行はまことに奇跡的というべきで、この書の刊行がなければ、室住先生の宗学究明の生涯はほとんど知られることなく、葬り去られたであるうと痛感する。室住一妙教授が、井戸がなく、雨水ですべてをまかないつつ、日蓮聖人の世界をひたすら純粋に求め続けた全容をまとめた「純粋宗学」究明に生涯を捧げた全記録が同書に集約されていると言うべきであろう。全体の構成は以下の通りである。

 第1部 純粋宗学の体系と認識  (18編)

 第2部 日蓮聖人讃仰      (13編)

 第3部 純粋宗学の課題と実践  (18編)

 ※ 各部の解説を、高木 豊・上田本昌・渡逞賓陽が担当している。

 この他にも、『中論』の研鑽を怠らなかった里見教授などなど、身延山大学の系譜に多くの学僧の活躍を見ることができよう。あらためて、西谷檀林の伝統を継承し、身延山大学に至る祖山の教学の伝統を思う次第である。

 

 

13.【執行海秀教授の日蓮宗教学史研究】

 戦時中に『御義口伝の研究』が執筆されている。きびしい時代の中での研究成果である。ちなみに『大崎学報』等の研究誌は、すべて『立正学報』などに統括されてた時代で、紙も統制令による配給を受けねばならなかった。そうした苦難の中、先生はひたすら各派の教学と宗団の様相の展開を「日蓮宗教学史」の視点から研究された。

 昭和27年(1952)(日蓮聖人立教開宗を期して)『日蓮宗教学史』(平楽寺書店)が刊行され、内外に大きな影響を与えた(愚推するに、先生が講話を通じて親交のあったくしのだ寿司》主人等の支援があったのではなかろうか?)。諸先生共に、熱烈な信仰に生きた方々との御縁を痛感する次第である。

 先生は、惜しくも昭和43年(1968)12月2日、遷化された。

 と同時に、立正大学大学院より、博士の学位が贈られた。ちなみに主査・坂本幸男教授。副査・金倉円照教授・松濤誠廉教授であった。先生の没後、先生に私淑していた小野文統師の尽力により、相次いで、遺著が刊行された。

 

『興門教学の研究』海秀舎    昭和59年(1984)

『御義口伝の研究』山喜房仏書林 平成18年(2006)

 

 

14.【宮崎英修教授】

 『波木井南部氏事蹟考』孔官堂出版部  昭和23年(1948)

   『禁制不受不施派の研究』平楽寺書店  昭和33年(1958)

   『不受不施派の源流と展開』平楽寺書店 昭和43年(1968)

   『日蓮辞典』東京堂出版  (編)    昭和53年(1978)

   『日蓮宗事血こ日蓮宗   (編)    昭和56年(1981)

 先生の研究論文は、広範にわたる。

 お聞きしたところによると、『昭和定本』編纂の際、編纂に貢献したとのことである。

 影山先生を師と仰ぐ宮崎先生は、南部家の芳情によって、南部家の資料に基づく、『波木井南部氏事蹟考』を、昭和23年(1948)に公刊したが、敗戦直後の社会状況で、あまり顧みられなかったかと思われる。

 その後、不受不施派の釋日学上人より、坂本幸男学部長に要請があり、宮崎先生は、高木助手とともに、岡山に赴いて新たな研究に転じた。

 (実は、この頃、影山先生を中心とする伊豆七島に流罪された不受不施僧の調査などが行われ、昭和31年(1956)に、『大崎学報』特集「日蓮宗の不受不施派の研究」が刊行されている)。

 『禁制不受不施派の研究』は大きな反響を呼んだが、さらに『不受不施派の源流と展開』と合わせて、博士の学位論文となった。その後、『日蓮辞典』『日蓮宗辞典』の編集にあたり、また『講座日蓮』(春秋社5巻昭和47年〜48年=1972〜1973)などの編集にあたっている。

以上、戦前から、宗学科教員職にあった諸先生のプロフィールを誌した。

 

 

15.【茂田井教亨先生の宗学研鑽】

 茂田井教亨先生は中学生の段階で、清水龍山先生の『開目抄講義』『観心本尊抄講義』を受講し、室住一妙先生を同講義に誘導したが、思弁型の先生は、その後、文学に進み、西田幾多郎氏に教えを請うなど、広く思想的究明几思弁の世界に遊んだ。立正大学宗学研究所に誘われたのは、昭和25年(1950)のことである。そうした経歴がやがて昭和30年代以降に順次花開いて、宗門教学を担うこととなる。

 先生は第一回「日蓮宗布教研究所」主任に任せられ、「五義の体系的考察」の名論攷を世に問い、次いで「観心本尊抄」についての論攷を著し、両論文を中心とする『観心本尊抄研究序説』(山喜房仏書林)を刊行した。その後、宗門の顕職に就き、「『宗義大綱』解説」を全国に講じた。言わば、戦後の宗義体系についての中心人物となったのである。『開目抄講諧』『観心本尊抄講諧』(いずれも山喜房仏書林発行)をはじめ、多くの著書がある。

 

 

16.【浅井圓道教授の『法華本門思想史の研究』】

 浅井圓道教授は、東京大学印度哲学梵文学科を卒業後、身延の「祖山学院」で教壇に立ち、室住先生の薫陶を受けたと聞く。その後、鈴木修学師に乞われて、「中部福祉短期大学」設置に尽力。転じて、昭和29年(1954)から、立正大学仏教学部宗学科専任講師となった。教授は学問専心の方で、最初に学生に筆記させた内容が、『法華品類日蓮遺文抄』(山喜房仏書林・昭和63年=1988)として出版されている。実は、それ以前に、学位論文『上古日本天台本門思想史』(平楽寺書店・昭和48年=1973)が世に問われている。以下、多くの著述・論文を執筆。それらは、『浅井圓道先生著作集』3巻として山喜房仏書林から刊行されている。初代立正大学仏教学部長・坂本幸男教授はでもともと岡山の不受不施派の出身であるが、島地大等らの指導の下に学問研究に挺身した方である。

 浅井教授もまた、学問研究に魅せられた方で、地道に仏教典籍を解読するという手法で研究を進められた。その成果についての評価は、今後、大きく展開していくものと思われる。

 

 

17.【高木 豊教授の日蓮研究】

 高木 豊氏の立正大学仏教学部宗学科助手の就任は昭和27年(1952)である。先生は、東京文理科大学で史学を専攻するなかで、「日蓮」に心を引かれた学究である。縁あって宗学科で活躍された。『日蓮とその門弟』(弘文堂・昭和40年=1965)を世に問い、『日蓮−その行動と思想ー』(評論社・昭和55年=1980)は、後に増補版が(太田出版・平成14年=2002)から刊行され、多くの研究者に影響を与えた。が、その後、『鎌倉仏教史研究』(岩波書店・昭和57年=1982)や『平安時代法華仏教史研究』(平楽寺書店・昭和48年=1973)など、広く仏教史研究に関わり、晩年には、『法華経和歌集』を編むなどしている。

 専門は歴史畑であるが、現代の思想動向にも目を向け、宗門内外におおきな影響を与えた。

 なお、日蓮聖人七百遠忌を数年後に控えて、高木教授が音頭をとって、『研究年報 日蓮とその教団』を企画し、平楽寺書店から刊行した(編集員は、高木豊十川添昭二十藤井学十渡逞賓陽)。いわゆる宗学研究の枠からはみ出た構想で、外部の研究者の執筆を乞うた企画は、反響を呼んだが、4号で企画は中止となった。

 

 

18.【『講座日蓮』の刊行】

 昭和46年〜47年(1971〜1972)、春秋社から『講座日蓮』全5巻が刊行された。(監修・坂本幸男。編集・田村芳朗‘宮崎英修)。第1巻「日蓮と法華経」。第2巻「日蓮の生涯と思想」。第3巻「日蓮信仰の歴史」。第4巻「日本近代と日蓮主義」。第5巻「日蓮語録」である。それまで、個別の論著や論攷はあったが、俯瞰的に日蓮研究の全容を網羅するこの講座の試みは、その後の日蓮研究に大きな影響を与えたのではなかろうか、と愚感している。

 

 

19.【「法華経研究シリーズ」の刊行】

 乏しい研究費を補うべく、塚本啓祥仏教学部長が相次いで「総合研究」を企画し、文部省から科学研究補助費「総合研究」を得ることが出来た。さらに、その成果を相次いで刊行した。これにより、計13巻の出版が実現し、日蓮教学関係の論攷も世に間われた。塚本教授は、さらに『梵文法華経写本集成』13巻を世に間うた。これらの研究活動に、多くの若手研究者が稗益されたのであった。

 

 

20.【仏教学関係の学術書】等の研究活動

   これらについては、別途、御検索願いたい。

※ なお、日蓮教学関係を中心に編まれた『宗学科生のための研究ガイドブック』(立正大学仏教学部編)に、細大漏らさず、諸研究の著書・論文がまとめられている。

 思い出すままに、諸先生の代表的著書を列記する。

【【布施浩岳先生】 『法華経成立史』他。

A【石川海浄先生】『阿含経成立@研究』他。

B【坂本幸男先生】『華厳教学@研究』他。

C【兜木正亨先生】『法華経と日蓮聖人』『法華写経の研究』『法華写経の研究』他。

D【野村耀昌教授】『周武法難@研究』他。

E【中村瑞隆教授】『究竟一乗宝生論の研究』他。

F【勝呂信静教授】『日蓮思想の根本論』『法華経の思想と形成』『唯識思想の形成と展開』他

G【塚本啓祥教授】『インド仏教における虚像と実像』『インド仏教碑銘の研究』他。

H【田賀龍彦教授】『法華経@受容と展開』他。

 

 

21.その他諸氏の学術書について

 以上は、戦後間もなくまで@学術研究について@メモである。それ以降に多数の研究者の活動が展開されるが、それらについては、現役諸氏の整理に任せたい。

 想い出すままに、2,3について、記す。

@【河村孝照教授】 『仏教学概論』『法華経概説』他。

A【今成元昭教授】 『法華経・宮渾賢治』『説話と仏教』他。

 

 

 

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