日蓮聖人の曼荼羅について

 

――特に本尊との関係に於て――

 

    立正大学教授 執行 海秀

 

 1

 日蓮聖人の真筆の曼荼羅は。山中喜八氏の御本尊集によれば、123幅現存していることになっている。これを年代別に見れば、文永期(約3年半の間)に属するもの25幅、建治期(約2年10ヶ月の間)に属するもの21幅・弘安期(約4年3ヶ月の間)に属するもの77幅で、弘安期のものが過半数を占めている。

 更にまたこの他にも、まだ所在不明のものや、或は既に湮滅したものもあろうと考えられるので、それらを加えると実際にはもっと多くの曼荼羅が書かれていたことになるわけである。そしてそれらの曼荼羅が全部真筆であるとすれば、日蓮聖人はかように多くの曼荼羅を何故書かれたのであろうか。またその曼荼羅は如何なる意図のもとに書かれたものであるか、すなわち日蓮聖人の図顕された曼荼羅は、何を意味するがという問題について研究する必要がある。

 ところでこの問題を明かにするには、順序として、まず曼荼羅に図顕されている儀相について一瞥しなければならないが、この儀相についても多くの問題が含まれている。一体、日蓮聖人はいつ頃から、曼荼羅を図顕されたのであろうか、という点についても明かでないが、真筆現存のものでは、文永8年10月9日、相模の依智で書がれだのが、一番早いようである。これは聖人が、依智を立って佐渡の配流に向われる10月10日の前日に書がれたもので、首題の七字に、不動、愛染二明王の種子が添えられ、その下に年月日、場所、並に署名花押があるだけである。

 ついで翌9年6月、佐渡で図顕されたものには、首題の両側に釈迦牟尼仏、多宝如来が附け加えられている。そして前の依智に於ては、「書之」を認められたが、佐渡では「図之」と認められている。したがつて佐渡在島の初期に至つて、初めて曼荼羅を図顕する意味が表わされていることになる。しかしこれらはまだ、いわゆる一辺首題、または一辺首題と両尊に、不動、愛染の種子が添えられている程度で、厳密な意味では、曼荼羅の様式が具備されていない。

 そこで曼荼羅としての様式を整えて、図顕されたものとしては、交永10年7月8日の、いわゆる佐渡始顕の曼荼羅に俟たねばならないのである。しかるにこの始顕の曼荼羅については、真筆が現存しないのであつて、今日では、身延に伝えられていたものを、遠沾日亨師の模写された、総帰命の曼荼羅が存するに過ぎない。もつともその他にも所伝としては、佐渡一ノ沢妙照寺の四聖帰命の曼荼羅を初め、数幅が数えられている。そして四聖帰命の始顕曼荼羅の如きは、田中智学氏がこれを模範の曼荼羅として、制度上、宗定の本尊とすぺきであると、提唱されているほどで、国柱会の本尊とされている。しかしそれらは、いずれも真筆とは認め難いものであつて、四聖帰命の始顕曼荼羅については、山川智応氏も「現在のものは、今日の如く真蹟が明かになった時代ではこれを真蹟とすることはできない。」と言明している。

 しかるに日亨模写の総帰命の始顕曼荼羅の様式は、久遠成院日親の本尊相伝抄や、行学日朝の元祖化導記等に伝える始顕曼荼羅の記録に合致し、また身延所伝の真筆を模写したものといわれるので、日蓮聖人の曼荼羅としては、この始顕曼荼羅が文字通り最初のものであろうと見ることが出来る。もっとも、この始顕の曼荼羅を図顕されるに当っては、いろいろ異った様式を試作せられたものと考えられるが、それらは伝わらないので、その様式を窺うことは出来ない。しかし幸にして、始顕曼荼羅の模写が伝えられているので、これによって日蓮聖人が、始めて顕わされた曼荼羅の様式を知ることが出来る。

 すなわちそれは、中央の首題を中心として、左右の上段には、釈迦、多宝の二仏、並に善徳等諸仏・分身等諸仏と上行・無辺行・浄行・安立行の四菩薩を配し、中段には文殊・弥勒等の迹化の菩薩の代表と、舎利弗等の四大声聞の代表、並に大梵天王・釈提桓因・大日天・大月天等の天部の代表と、四輪王・天照・八幡、阿修羅を配し、下段には十羅刹女を具さに羅列し、その中間に鬼子母神を配し、更に下段の両側に天台・伝教の両師を配してある。そしてこれら諸仏諸尊の外郭に、四天王と二明王が配せられており、更に上下に教証があり、また下部には年月と讃文署名花押とがある。

 なおこの曼荼羅で注意すぺきは、諸仏・諸尊を初め、二明王の梵字を除く外は、すぺて「南無」が冠せられていることである。そこで古来から、総帰命の曼荼羅と称せられている。

 ところでこの総帰命式は、交永年間の曼荼羅に限っているのであって、建治初年頃からは、四聖帰命式に変化している。四聖帰命とは、仏・菩薩・声聞・縁覚の四聖のみに「南無」を冠したものである。しかし四天王は、その後、建治2年4月頃から他の天部と同よう「大」の字が冠せられるに至っている。かように始顕の曼荼羅を初めとして、文永年間の曼荼羅が総帰命式であるのに対比して、建治以降の曼茶羅がすぺて四聖帰命式になっているが、これは日蓮聖人の曼荼羅図顕の変化を、意味するものであろうか。

 

 2

 由来、総帰命式は観門の本尊であり、四聖帰命式は教門の本尊であると称せられている。すなわち総帰命は、十界皆成仏の姿を現わすので、十界本有の諸尊を勧請したものであるとし、四聖帰命は、六凡四聖の対立の上から、迷悟を現わすのであると解されている。しかし果して曼荼羅に於ける、総帰命より四聖帰命への変化は、観門より教門への展開を意味するものであるか、否かは問題であろうと思われる。

 それにはまず、佐渡始顕の曼荼羅図顕の聖竟について、考察しなければならない。ところで聖人自ら、この始顕の曼荼羅についての解説なり、相伝なりを示された確実な資料は伝わらない。もっとも、曼荼羅一般についての相伝はこんにち身延より出版されている本尊論資料によれば、日興門流や、日常門流中には、高祖直伝と称するものがあるが、それらはいずれも資料として確実性がない。だいたい、曼荼羅に関する相伝類は各門流通じて、その門祖の法孫時代の頃成立し、そして諸門流の確立した室町中期、すなわち日蓮聖人滅後15、60年以降、唯授一人の秘伝書として大成したもののようである。これらの曼荼羅相伝の成立、並に系統については研究を要するものがあるが、ここでは本論の趣旨ではないので、省略して置くことにする。

 がように、始顕の曼陀羅に対する、聖人自らの解説はないが、しかし室町中期頃から、観心本尊抄が曼荼羅の儀軌である、というように伝えられている。たしかに観心本尊抄と始顕の曼陀羅とは、年代の上から見ても、また両者の表現内容からみても、相関連するものが認められるのである。

 観心本尊抄は、文永10年4月25日、「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」として脱稿されたものであり、始顕曼荼羅は、同年7月8日、「此法華経大曼荼羅、仏滅後二千二百二十余年、一閻浮提之内、未曾有之日蓮始図之」と認められている。ところで、ここで問題となるのは、本尊抄には、「観心本尊」と題し、文中には「一閻浮提第一の本尊」という文はあるが、曼荼羅の用語が全くないということである。そしてまた始顕の曼荼羅には、曼荼羅として図する意味はあるが、これを直ちに本尊とするという意味が明らかでない。そこで観心本尊抄で述べられたる本尊と、始顕の曼荼羅とが、直ちに同一内容のものと断定するわけにはいかないであろう。すなわち両者によって、本尊と曼荼羅とを同一視することは出来ないので、本尊抄をもって直ちに曼荼羅の儀軌であり、解説書と見ることは出来ない。

 しかしそれだからといって、始顕の曼荼羅が、観心本尊抄と、全く無関係であるというのではない。少くとも始顕の曼荼羅は、それが真筆である限り、観心本尊抄の思想を基盤として、図顕されたものと見るべきであろう。そこで両者の思想的な関係について、考察してみよう。

 始顕の曼荼羅の儀相については、既に述べたところであるが、しからば、そのような儀相は如何なる意味をもつか、またその曼荼羅全体は、何を表現せられたものであるか、という点について明かにする必要がある。本尊抄にはまず十界互具、一念三千を明らかにするに当って。

経云、提婆達多乃至天王如来等云云、地獄所具仏界也、経云、一名藍婆乃至汝等但能説持法花名者福不可量等云云、此餓鬼所具十界也。経云、竜女乃至等正覚等云云、此畜生所具十界也。

 といい、ついで阿修羅王、人、大梵天王、舎利弗、縁覚、地涌千界を挙げ、一々教証を引いてそれらの十界具足を述べ、更に「或説己身・或説他身」の文によって仏界所具の十界を論じてある。これは九界所具の十界と、仏界所貝の十界を論ずるのであるが、その主眼とするところは、いうまでもなく、衆生の九界に仏界を具することを、明かにせんとするもので、殊にわれわれ人界に仏界を具すること、すなわち成仏を論ぜんとするものである。

 そこでこれらの文を述べてから、「但だ仏界ばかりは現じ難し、九界を具するを以て、強て之を信じ、疑惑せしむることなかれ。」といい、また「我等が劣心に仏法界を具すること、信を取り難し。」とも、或は「人界所具の仏界は水中の火、火中の水、最も甚だ信じ難し。」といって、しばしば、人界に仏界を具することの信じ難きことを繰返されている。

 そして仏界においても、爾前・迹門・本門によつてその異りがあることを述べ、「本門を以てこれを疑はば、教主釈尊は、五百塵点已前の仏なり、因位もまたかくの如し、それ已来、十方世界に分身し、一代聖教を演説して、塵数の衆生を教化したまう。」といい、しかもかかる尊高なる仏界を己心に具することは、まことに難信難解の法門であつて、爾前諸経に説かざるところである。いな爾前のみならず、法華経の中でも迹門に説かずして、ただ本門に於て顕説せられたものである。

 しかるにこのような、法華経本門の一念三千の名目は、天台によつて初めて明かにされたのであるが、天台はまだ時が至らなかつたので、また付嘱を受けていなかつたが故に、その意義を内鑑しながらも、これを弘めなかつたのである。故に十界互具・一念三千の名目は、既に天台がこれを宜べたが、その法体ともいうべき、本門の肝心たる妙法蓮華経の五字は、未弘の法として残されたものである。すなわち一念三千の法体である妙法蓮華経は、末法の衆生のため、本化の上行に付嘱せられたというのである。

 したがつて、聖人の場合は、天台の如く、一念三千の観法をこらして、仏界を現成せしめるのではない。それは一念三千を内容とする、妙法蓮華経を受持することによつてのみ、仏界が現成せられるのである。すなわち妙法蓮華経は「釈尊の因行果徳の二法」であり、また「一念三千の仏種」である。故に衆生の内観に現われる観心ではなく、仏の世界に現われた観心であつて、これは信によつてのみ得られるものと見られている。この点、開目抄に、「但天台の一念三千こそ仏になる道と見ゆれ、此の一念三千も、我等一分の慧解むなし。しかれども一代経々の中には、此の経ばかり、一念三千の玉をいだけり。」とある思想と、全く同一であるということが出来る。

 そしてわれら衆生は、妙法を信受するところに、

妙覚の釈尊は我等が血肉なり、因果の功徳は骨髄に非ずや。・・・釈迦・多宝・十方の諸仏は、我等が仏界なり。其の跡を紹継して、その功徳を受得す。

 るのである。かように本尊抄に於いて。十界互具を論ずる主眼は、われら衆生に仏界を具することを明かにせんとするにあると、いうことが出来よう。そしてその仏界は、爾前・迹門所顕の仏界ではなく、本門寿量品に現われた、「五百塵点乃至所顕の三身にして、無始の古仏」なのである。

 しからば、その仏は、十界の中では如何なる位置にあるかといえば、「十方世界の国主、一切の菩薩・二乗・人・天等の主君なり。行の時は梵天左に在り、帝釈石に侍り。四衆八部後に従い、金剛後に導く」のであって、しかも本門の立場から見れば、弥陀・薬師・大日等、十方世界の諸仏もみな、この釈尊の垂迹分身であり、したがってそれら諸仏の弟子もまた、釈尊の弟子に他ならない。況や梵天・帝釈・日月・四天・四輪王等はいうに及ばず、劫初より釈尊の弟子である。故にこのような仏こそ九界の衆生の仰いで主とし、師とし、親とすべき存在なのである。

 そしてわれら衆生は、かかる尊高なる仏の血肉と骨髄を受けた仏の子であって、仏の一切の因果の功徳を受得することが出来るのであるから、ここに衆生としての、尊厳性が存するのであるとせられている。

 

 3

 すなわち本尊抄によれば、われら衆生に十界、殊に仏界を具するということは、われらが仏の子として、仏に直結することである。仏の無限の慈愛は、われらの上に絶えず注がれているのであって、本化の菩薩を初め、二乗・梵天帝釈・日月・四天等もまた、その仏のみ子である衆生を護念せられているのである。

 そこで開目抄には、衆生は、このように主師親三徳の久遼の仏、すなわち寿量品に現われた仏を本尊とすべきである。しかるに爾前諸教による諸宗においては、三十四心断結始成の釈尊を本尊とし、或は大日や阿弥を本尊とし、或は自己を直ちに本尊とするが如きは、「天尊の太子が、迷惑して我身は民の子と思い」或は「我が父は侍と思い」、或は「種姓もなき者の法王の如くなるにつき」、或は「下賤の者、一分の徳ありて、父母をさぐる如」くであるといい、「寿量品を知らざる諸宗の者は、畜に同じ、不知恩の者なり。」と論ぜられている。

 そして日蓮聖人のかような本尊観は、本尊抄に於ても、全く同一であるということが出来る。ところで由来、開目抄は本門の教主釈尊を本尊とする、教門の本尊を明かにせられたのであるが、本尊抄にはこれに反して、教門の本尊を自己の主観に摂する、つまり己心の具足として論ずる、一念三千の観門の本尊であるという説が、わが宗学界の潮流を可なり強く支配しているのである。そしてかかる観門の本尊、すなわち十界互具、一念三千の本尊を図示せられたのが、いわゆる始顕の大曼陀羅であつて、天台の観心が、内観的であるのに比し、これは十界互具の相を直ちに紙上に図してあるが故に、事一念三千の曼荼羅であると称せられている。

 かようにして、開目抄は教門の本尊を述べて、未だ観門の本尊を現わさずといい、本尊抄に至つて、初めて観門の本尊が明かにせられたというのである。そしてしかも、久遠の釈尊を本尊とする教門の本尊は、爾前・迹門等の諸仏相対の本尊で、まだ本門寿量品所顕の実義の本尊でないといい、事一念三千の観心の本尊こそ、究竟の本尊であると主張する。したがってかかる立場から、本化の四士を脇士とする本門の釈尊、つまり一尊四士の教門本尊よりも、事一念三千の法体を現わした大曼荼羅こそ、日蓮聖人の真の本尊で、観心本尊抄は、正しくこの一念三千の曼荼羅本尊を顕わされたものであるというのである。

 ところで佐渡始顕の曼荼羅は、果してこのような意味に於て、寿量所顕の本尊の主体として顕わされたものであろうか。前述の如く、本尊抄には、十界互具を論ずるに、提婆、十羅刹女、竜女、阿修羅等の成仏によせて、四悪趣に仏界を具することを述べ、更に梵、天、二乗、菩薩等の九界に仏界を具することを述べ、また仏界にも九界を具するが故に、十界互具である旨が述べられている。このようにして、更に衆生の己心に十界を具することの不審を反問して、

かくの如き仏陀、何を以て我等己心に住せしめんや。……其の他十方世界の断惑証果の二乗、並に梵天・帝釈・日月・四天・四輪王、乃至無間大城の大火炎等、此等は我一念の十界歟、己心の三千歟、仏説たりと雖も之を信ずるべからず。

 といい、このような難信難解の一念三千の観門は、本門の教法たる妙法蓮華経の五字に具足しているのであるが故に、ただわれわれはこの妙法を信受すべきであるというのである。ここに於て「一念三千を識らざる者には、仏大慈悲を起して、妙法五字の内に此の珠をつつみ、末代幼稚の頚に懸けさしめたまう。」と結ばれている。

 したがって、本尊抄に説かれている一念三千は、釈尊の悟りの世界、すなわち精神界を示されたもので、これがいわゆる本抄の題目の法体であるということができる。そしてまたこれが、本化の菩薩に付嘱せられた要法である。ここに於いて本尊抄には、此の本門の肝心、南無妙法蓮華経の五字に於ては、仏猶文殊薬王等にも之を付嘱したまわず。何況やそのすでに已下をや、但地涌千界を召して、八品を説て之を付嘱したまう、とある。そして

その下に、

その本尊の体たらく。本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏、多宝仏、釈尊の脇士上行等の四菩薩、文殊弥勒等の四菩薩は眷属として末座に居し、迹化他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して、雲閣月卿を見るが如し。十方の諸仏は大地の上に処して迹仏迹土を表する故なり。

 というのは、正しく、曼荼羅の儀相を示したものと見ることができるが、その曼荼羅の主体をなすものは、いうまでもなく、釈尊の精神界を表わした一念三千の法であり、本門の題目である。そこで始顕の曼荼羅が、本尊抄のこの文を図顕したものであるとすれば、それは八品の儀相によるものであって、釈尊が妙法蓮華経を説かれた時、十界のすべてが、この妙法を信受して、成仏した姿を顕わされたものとみるべきであろう。それと同時にまた、一面から見れば、その本門の題目を受持するものを諸仏諸尊、諸天が守護し、護念せられている姿であるとも解せられる。更にまた本尊抄に説く、一念三千と妙法五字の関係からすれば、仏の悟りの世界に現われた、十界互具の相を示されたものともいうことが出来よう。

 ところで、本尊抄の文面には、既に二言した如く曼荼羅の用語が無いばかりか、それに対する明瞭なる解説が加えられていない。そこでそれはただ、本尊抄に現われた思想を基調して、曼荼羅を解すれば、以上のような解説か可能であるというに過ぎない。しかしそれにしても、本尊抄の思想を基調とする限り、曼荼羅そのものを直ちに、正境の本尊とするのではあるまい。況や、この曼荼羅を観心の本尊として、本門の教主釈尊を本尊とする、教門本尊より勝れたものと見るが如きは、本尊抄の思想に反するものといわざるを得ない。

 既に述べた如く、本尊抄に於ては、妙法蓮華経にたいしても、また十界互具、一念三千にしても、それは仏の悟りの世界であり仏の精神界なのである。そこでわれら衆生は、これを、自己の観心として、信受するところに成仏が実現せられる。すなわち「一念三千の仏種」を、下種することによってのみ、成仏が可能である。いわばこの仏の法を媒介として、仏に一如するのである。故にわれらの行の正境は、仏そのものでなければならない。法は取つて、自己の行法とすべきものなのである。本門の題目は仏そのものではなく、仏の属性であるということができよう。

 したがつて、始顕の曼荼羅を本尊抄の思想によつて解すれば、上述の如く八品の儀相によつて十界の成仏の相を示されたものとも、域は題目受持による諸仏諸尊の守護を示されたものとも、また題目と一念三千の関係を、図示されたものとも見ることが出来る。そしてもしこの推定が許されるとすれば、曼荼羅は釈尊の法、すなわち本門の題目を中心として示されたもので、しかもこの題目を直ちに、本尊として示そうとされたものでもなく、一念三千による十界の諸尊そのものを本尊とするのでもない。

 かように曼荼羅は、寿量品所顕の題目を中心とし、表として現わされたのであるから、その本門の題目を現わされた、本門の教主釈尊を本尊とする面が内につつまれているということができよう。故にもし本門の本尊を明示する場合は、本門の題目は、釈尊の精神とし、因果の功徳として内面につつまれて、このような本門の題目を説かれた本門の教主こそ、本尊とすべきであるとせられている。ここに於て後の報恩抄には、曼荼羅に於ける中尊の妙法蓮華経は、本門の教主釈尊として表現せられているのである。すなわちこれは本門の本尊と題目を表裏一体とせられるものである。つまり題目は、本門の教主釈尊の法でなければならないのであつて、この釈尊を離れた法ではない。それと同時にまた本尊は、本門の題目を説かれた釈尊でなければならないのであつて、題目を離れた爾前・迹門の教主ではない。

 かように本門に於ける仏と法、本尊と題目は内面的には一体であるが、しかし、仏と法とを区別し、本尊と題目を分つ場合は飽くまで本門の妙法蓮華経と、久迹の釈尊とに分つのであつて、両者を混同せられていない。故に本尊抄においては、一念三千の妙法蓮華経を説き、しかもこれを地涌に付嘱せられた、すなわち本門の教主釈尊、それは本化の四菩薩を脇士とする久迹の仏をもつて本門の本尊とせられている。しかるに曼茶羅は、かかる久迹の仏を表面に現わすものでなく、その久迹の仏の本質と、その属性ともいうべき、一念三千の妙法蓮華経、すなわち本門の題目の内容を示されたものである。したがつて曼荼羅は直ちに、本尊として現わさんとせられたものでなく、それは久迹本仏の精神界を図顕せられたものである。そしてそれはまた、同時に諸仏諸尊の妙法信受の相を示されたもので、いわば輪円具足の功徳聚の世界を図顕せられているということができよう。そこでこれを更に要約すれば、曼荼羅は本尊の原理を示されたものである。

 しかし既に一言した如く、日蓮聖人に於ては、本門の仏とその法とは、内面に於て実質的には一体である。ゆえに題目を信ずることが、本尊への帰命となるのであつて、題目を離れて本尊への帰命はありえない。したがつてまた久迹の仏への帰命がなくては、本門の題目の法は成立しない。このような意味において、日蓮聖人は、本尊としての仏と、題目としての法とを同一に取扱われているのであって、その間に軽重を分つのでない。曼荼羅に於ける中央の首題は、衷面は法として現わされていても、それは久迹の仏の法なるが故に、その久迹の仏と対立せしめて、勝劣を分つ意味ではない。そこで曼荼羅が、もし諸仏・諸尊の首題への帰命を表わすものとすれば、それは同時に、本仏釈尊への帰命となることを現わすものである。そこでわれわれは、この曼荼羅によって現わされゐところの、本門の題目を受持することによって、久迹の仏へ直結することができる。そしてその仏こそ、われらの主師親三徳の仏であって帰命すべき唯一絶対の本尊なのである。

 

 4

 しかるに曼荼羅が、久迹の仏の精神界を現わしたものであることを忘れて、曼荼羅の相を直ちに本尊として、曼荼羅本尊を主張するものは、久迹の仏を本尊とするのはまだ教門であり、曼荼羅こそ証迹の本尊であり、観門の本尊であって。教門の本尊に勝れた究竟の本尊とする。そしてかかる曼荼羅本尊を主張するものの中に於ても、妙法を信受して、これに一如した十界の諸仏諸尊のすべてを本尊と見倣すものと、ただ中央の妙法蓮華経だけ、すなわち題目だけを本尊と見る説と、また人法両者を合せた首題と十界、すなわち曼荼羅の全体を本尊と見る説がある。

 すなわち本尊の純一性を強調せんとするものは、十界勧請の諸尊を廃して、ただ一辺首題のみを、曼荼羅の本質と解せんとするものがある。これに反して汎神的な立場から、曼荼羅の全体を本尊とするものは、一辺首題はなお、教門の本尊であり、十界勧請の曼荼羅こそ、観門の本尊でありと主張する。或はまた同一曼荼羅中に於て、中央の首題を教門とし、傍らの十界の諸尊を観門とし、これを合して教観具足の本尊と称する説もある。

 或はまた曼荼羅に於いては、十界の諸仏諸尊が、凡て妙法を中心として、一幅の紙上に統一図顕せられているが故に、本尊の統一性を妨げないで、しかも諸仏諸尊を同時に帰命することができるとの主張もある。しかしこのような諸説は、いずれも後世の本尊相伝や、本尊論によつて展開した学説であつて、日蓮聖人の曼荼羅図顕の真意ではあるまいと思われる。

 上述の如く、曼荼羅は本門の仏の精神界、すなわち妙法蓮華経の一念三千を現わされたものであるが故に、いわば信仰の対策とすべき本尊の原理に他ならない。そこで信仰の対策としての本尊は、この曼荼羅の精神を具現化されたところの久遠の仏でなくてはならない。つまり曼荼羅に於ける中央の首題は、本仏釈尊の具徳として内含され、本門の題目を説かれた、本門の教主釈尊としての本仏の相が表面に打ち出されてくるのである。そしてこの場合は、この本門の教主釈尊一仏のみが本尊であつて、諸余の諸仏諸尊は本尊ではない。

 ところで曼荼羅を本尊とするものは、往々にして、妙法に一如した諸仏諸尊はいうに及ばず、自己そのものを本尊とみる、いわゆる自己本尊論を主張するものさえある。またこの曼荼羅の全体を妙法を中心として造立し、これを本尊とせんとする説もある。そしてかかる立場から、一塔両尊四士の如きは、曼荼羅の中核体を造立した略本尊と称せられている。或はまたこの一塔両尊四士によって、仏法僧の三宝本尊説が生じている。

 しかしかかる説は、日蓮聖人の本尊の真意を現わすものではない。日蓮聖人に於いては、信仰の所対としての本尊は、久遠の一仏に限るのである。そしてこの久遠の仏は、「五百塵点実乃至所顕の三身にして無始の古仏」といわれている如く、報応の二身に即する法身、すなわち三身具足の仏で、しかもそれは法華経の本門を説かれた釈尊を離れた仏ではない。いま久遠の仏は、この本門の釈尊に全現せられているものと見られている。けだし単に釈尊といえば、爾前・迹門等と混同せれるので、ここに「本門の教主」とか、或は「寿量の仏」といって区別せられている。

 しからばかように、同一釈尊が、その所説の法の内容によって、規定せられるとすれば、釈尊を規定する法、すなわち妙法蓮華経こそ、本尊ではないか、との疑問も生ずるであろう。しかし題目をもって、釈尊を規定することは、その仏が爾前述門等の仏と異なることを明かにせんとするものであつて、その法を本尊とするのではない。そしてこのことは題目の場合も同ようであつて、われらの受持する題目は仏によつて規定せられているのである。すなわちそれは迹門に説かれているが如き、衆生の己心内在の法でもなく、また宇宙法界の理法でもない。それは釈尊の因果の功徳であり、仏の精神なのである。そこで仏によつて規定せられざる単なる法ではない。

 それでは本尊が、そのような本門の仏であることを、いかにして表現するかというに当つて、それは本化の四士を添えるべきであるとせられている。このような形式が、いわゆる一尊四士である。しかし一尊四士が本尊であるといっても、四士はどこまでも脇士であつて、本尊そのものではない。また一塔両尊四士では、前述の如く、法中心の本尊となって、久遠の仏を表現するのに相応しない。また二尊四士では本尊が久遠の一仏であることを表わす事に適当でない。況や報恩抄には、

月氏には教主釈尊、宝塔品にして、一切の仏を集めさせ給うて大地の上に居せしめ、大日如来計り宝塔の中の南の下座にすえ奉りて、教主釈尊は北の上座につかせ給う。此の大日如来は、大日経の胎蔵界の大日、金剛頂経の金剛界の大日の主君なり、両部の大日如来を郎従と定めたる多宝如来の上座に、教主釈尊居させ給う。

 といい、また呵責謗法抄には、

二千二百余年が間、教主釈尊の絵像木像を賢王聖主は本尊とす。しかれども但小乗、大乗、華厳、涅槃、観経、法華経の迹門、普賢経等の仏、真言大日経等の仏、宝塔品の釈迦多宝等をば書けども、いまだ寿量品の釈尊は山寺精舎にましまさず。

 と述べて、本門の釈尊の優位性を確立せられている点からみても、本尊の形式として釈迦、多宝二仏並座を、認められるのでないことが知られる。かように本門の釈尊は、迹門の釈尊と異なって、三世十方の諸仏と肩を並べるところの相対的な仏ではなく、それらをすべて分とし、所従とする本仏である。かように考察してくれば、久遠の本仏を本尊として表現する形式は、一尊四士をもって表わすことが、最も当を得たものということが出来る。

 ところでここに問題となるのは、遺文中には、法華経も、題目も、また曼荼羅の相をも、本尊という名称のもとに呼ばれているのであって、日蓮聖人にあっては、その間に区別がなかったのではないかとの、疑いがあるということである。しかしこれは、本門の釈尊を本尊とするところから、その釈尊の法である題目も、またその精神界を現わされた曼荼羅も、釈尊のものとして、広い意味で用いられたものと見るべきであろう。しかし本尊と題目を区別して、行法としての所対を論ずる場合は、飽くまで能顕の仏と所顕の法に分ち、前者を所対の境として本尊とし、後者を能観の智として、受持の法とするのである。

 しかしまた翻って考察するに、真に仏を渇仰して、信心の境地を体得せられた日蓮聖人に於ては、法華経の文字が一々金色の仏と見え、自己の法華読誦の音声は、仏陀世尊の説法として受け取られたことであろう。このような信仰の立場からすれば、大曼荼羅はまた、本仏果海の縁起の相であるということができる。ここに於て法華取要抄に。

法華経本門の略開近顕遠に来至して、華厳より大菩薩・二乗・大梵天・帝釈・日月・四天竜王等、位妙覚に隣なり、又妙覚に入るなり。若ししからば、今我等、天に向つて之を見る、生身妙覚の仏の本位に居して、衆生を利益したまう是なり。

 とある如く、法華経本門に来つて、十界の諸仏諸尊すべて成仏得果の益を得たのであつて、曼茶羅は十界成仏の相を示したものであり、また久遠の本仏が、種々に身を現じて、衆生を教化利益せられる姿に他ならないのである。そしてかかる意味に於て、佐渡始顕の曼荼羅では、総帰命と称せられるが如く、十界のすべてに南無を冠せられたものと思われる。

 

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 しかるに曼荼羅の儀相は建治の初め頃から、従来の総起命より四聖帰命へと展開していることは、既に一言したところである。そして文永式の曼茶羅に於ては、中央の七宇の題目が極めて大きく書かれていて、十界諸尊の如きは小さく書かれているが、建治の頃より題目と十界との大きさの均合いが目立ち、弘安に至つては題目と、署名花押並に四天王と二明王の梵字が均等化して十界の諸尊を内に包むかの如く詔められている。そしてこれらの変化については、種々の推測が加えられているが、いまここでは省略しておくことにする。

 ただその間に於て、最も注意すべきは首題の書式が、時代が降るに従つて光明化されていること、また弘安式に至つて、従来の花押のバン字が、ボロン字に変化し、また善徳如来とか、大日如来とかの諸仏等が除かれているということである。その他また建治の頃より、十羅刹女の羅列が総名となり、天照、八幡の二神が首題の両側に接近し、弘安に至つては鬼子母神、十羅刹女、と共に首題を保護するが如き形式となり、署名と花押は融合して首題の直下に認ためられている。もちろん例外もあり、また紙面の都合で、様式の変化したものと思わるるものもないではない。しかし大体に於て弘安の曼荼羅に至つて、その図顕の様式が、一定するに至つていると見ることができよう。なおまた、提婆と明星天子が、加えられていることも見逃がせないことである。

 ところでこれらの様式の変化は、何を意味するかというについては、先師によつていろいろ推測されている。殊に首題と天照、八幡、日蓮との関係を中核体と見ようとする、いわゆる中柱説の思想は、既に室町中期の本成日実の相伝等に見出すことが出来る。その後やや降つて、室町末期、保田の日我(15.8〜1568)は宗祖本仏論と法華神道の立場から、その著の本地見聞抄等に妙法五字と、天照、八幡と、日蓮の三者一体を説き、曼荼羅は下種本尊を現わしたもので、観心とは妙法五字であり、本尊は日蓮聖人であるという。すなわち妙法五字は、日蓮聖人の観心であり、魂であるから、妙法の人格化が日蓮聖人に他ならないといい、更に天照、八幡と日蓮とは同体で、天照、八幡は現証には、末法万年救護の大曼荼羅であると論じている。

 更に江戸中期には、陣門の本有日相(1688〜1756)は本門本尊義を現わして明かに三妙中柱説を主張している。すなわち曼荼羅に於ける中尊の首題は本果を表して本仏の正体を示し、天照、八幡は本国土を表して身土一如を示し、日蓮は本因妙を現すのである、故にこの三妙が曼荼羅に於ける「中柱」でありというのである。そしてわれらが、このような人法一如の人本尊を知ることは日蓮聖人の賜であって、日蓮聖人を離れては、到底かかる深義を知ることができない。そこで日蓮聖人の教を奉ずるわれらの立場からすれば、日蓮聖人を一体三宝、三秘具足の妙法蓮華経の正体と信受渇仰することが、本宗の観心本尊の儀表相貌であると論じている。

 これは日蓮聖人が曼荼羅を現わされた立場から見れば、本仏釈尊の本果妙と、天照、八幡の本国土妙と、日蓮の本因妙の三妙具足を表わされたものであるが、しかし、これを更に日蓮聖人門下としてのわれらからみれば、日蓮聖人こそ、曼荼羅の主体であると信仰すべきであるというのであろう。

 しかしかかる三妙中柱説が果して日蓮聖人の真意を伝えるものであるか否か問題である。いま本論で儀相の問題を一々述べる余裕がないが、天照、八幡は初期の曼荼羅では大体、天部の諸尊と同類な系列で、第二段または第三段の外側に配されているが、その後位置は種々変化し弘安式に至つていわゆる中柱の形式に一定せられている。

 その他、鬼子母神、十羅刹女の位置にしても、また伝燈の系列とも見るべき天台、伝教両大師の配置にしても、大体弘安式の曼荼羅に至つて一定せられた観がある。そこでこのような意味からいえは、文永、建治、弘安の諸式に於て弘安の曼荼羅形式が、いわは形式としては完成されたものと見ることができる。

 しかしかかる形式の変化をもつて、直ちに曼荼羅の内容の変化であるとはいえないようである。もつともそれら諸尊の変動には、何等かの意味があることとは推定されるが、根本的には、始顕曼荼羅の意味と異なるものであるまい。

 これを要するに、曼荼羅は本門の題目に十界互具、一念三千を具することを現わさんとされたものであると推定される。そしてその十界は法華経会座の諸尊によられておるので、これはまた同時に十界皆成の意図が含まれているのであつて、題目によつて十界のすべてが救われることを意味するものである。そしてかかる題目が、本門の釈尊の精神界を表わしたもので、いわば本仏の本質であることを示すのである。更にまたかかる曼荼羅を、日蓮聖人が信徒に、本尊として授与せられた点から見れば、それは題目を受持するものを、法華経会座の十界の諸仏諸尊が、すべてこれを守護せられることを示したものとも見られる。

 かように曼荼羅図顕の意図は、他方面からいろいろ推考されるのであるが、厳密な意味では、久遠の本仏尊とする意図のもとに図顕されたのでなく、それはその久遠本仏の精神界、いわば仏界に具する一念三千、つまり本尊の本質ともいうべき原理を、示されたものと解せられる。そしてそれは同時に、十界のすべてが、この仏界に帰命している姿を現わさんとせられたものであろう。したがつて、曼荼羅を具体的に、本尊の相として表現する場合は、本化の四士を脇士とする久遠の本仏を造立することが、曼荼羅図顕の意図に契うものである。一塔両尊四士を中心として、其の他の十界の諸仏諸尊を造立するが如きは、曼荼羅図顕の真意を失つて、ただ図顕の形相にこだわるものに過ぎない。何となれば、それらの十界の諸仏諸尊は、仏界に具せられているものであつて、それらがそれぞれ独立した諸尊として、これを本尊とするのではない。

 ところで古来、妙法の中尊と、釈尊並に本化の諸菩薩を地水火風空の五大に配して五大を本尊の体となし、諸余の諸仏諸尊は、その五大の現われた用の仏、すなわち普門の妙法蓮華経の本尊に対して、十界は一門の本尊であるとし曼荼羅に体用を論じ、真言の胎蔵界、金剛界の曼荼羅を摂取統一せんとする見方もあるが、これは日蓮聖人の曼荼羅を真言流に解したものであろう。

 もっとも日蓮聖人の遺文中にも、日女抄や、諸法実相抄等には、十界本有の尊形をそのまま本尊とする説がないではない。殊に日女抄には、妙法の光明に照された十界は、本有の尊形となり、それがそのまま本尊であり、曼荼羅であるとの意味が述べられている。日蓮聖人に於ては、八品会上の儀相は久遠の仏を中心として、その妙法を信受し、成仏した姿であるが故に、その全体が仏に摂取された本仏果海の姿として、これを広い意味で本尊と解されているのである。そこで日女抄の如きは、かかる意味に於て、曼荼羅を本尊と称せられたものであろうか。しかし信仰の所対として本尊を明かにされる場合は、久遠の釈尊一仏に限られていることは、既に述べた如くである。

 由来、曼荼羅にしても、一塔両尊四士にしても、一尊四士にしても、共に同一内容の本尊であって、ただそれは紙木の相違であり広駱の相違であるといわれている。しかし私は上述の如く、曼荼羅は久遠の仏の精神である一念三千すなわち本尊の本質を図したものであって、それは直ちに本尊の実体を現わしたものではないと思う。極言すれば、曼荼羅は本尊である久遠の仏の内容の解説を、図示したものといえよう。もしそれが一尊四士と、同様の表現であるとすれば、本門の教主釈尊を中央に大書し四菩薩を傍書すれば、こと足りるのではなかろうか。

 しかるに曼荼羅には首題を大書し、十界を配せられているのであるが、これはその図顕の意図が、直ちに本尊の実体を表現せんとするものでないことを現わしているのである。また一塔両尊四士の如きは、既に一言した如く、曼荼羅の中核体をそのまま、造立したもので、しかもこれを駱本尊というのは、曼荼羅を広の本尊として、実は曼荼羅の図顕の相の如く、全体の諸仏諸尊を造立して、その全体を本尊と見る思想に他ならない。つまり曼荼羅図顕の真意が本尊の本質を明かにせんとしたものであることを忘れて、図顕の儀相をそのまま造立せんとしたものであつて、本尊の実体を表わすものとしては誤まつた表現方式であるといえよう。かかる意味に於いて、日蓮聖人に於ける本尊表現の形式は、ただ一尊四士に限るといっても、極言ではあるまいと思う。

 なおこの問題を明かにするには、遺文に現われた人法本尊の間題や、後世展開した教観本尊の問題等について、詳論すべきであるがこれは後の機会に譲り、ここではた曼荼羅と本尊の相違について述べるこことにとどめて、本論を結ぶことにする。

   昭和32年12月 大崎学報107号所収

 

 

 

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