本 尊 論 の 根 本 課 題

 

 

――特に霊断教学の所論を中心として――


                 執行 海秀

 1

 大崎学報104号の本尊特集号に、望月歓厚教授の「日蓮聖人の本尊について」の論文と、鈴木一成教授の「祖書に示された本尊の種々相」の論文が発表された。ところがそれらの所論に対して、故山川智応博士の高弟高橋智遍氏が、昭和33年4月「本門本尊論正義」を著わし、両教授の一尊四士本尊論は、単なる意楽にもとづくもので「遺文に何等の根拠なく、宗義をみだす妄論です」ときめっけ、自己の主張する曼荼羅本尊こそ、聖意を得た正義であると強調された。ついで同学報107号の「日蓮聖人の曼荼羅について」の拙論、並びに「日蓮宗読本」に対しても、併せて反論を加え、「驚くべき誤謬に満ちた」ものであると酷評されている。

 また一方、これと時を同じくして、九識霊断の総裁、高佐日煌師は、「宗門改造」73号より「望月執行両教授の謬義を批判し大崎宗学の歪曲を是正する」という、ものものしい論題で、いわゆる大崎宗学に対して、全面的な反駁を開始されたが、それ以来、今日に至るまで、4年有半の長さに亘り、縷々として批判の筆を進め、その論議の結着が未だに尽きない有様である。そこで本来なら、その結末を見てから、反論にお答えするのが礼儀であろうかと思うが、しかしその論旨は大体尽きているようであり、またその霊断教学なるものは、霊断の機関誌「よろこび」誌上において発表されているところでもあるので、ここに敢て一往お答えしておく次第である。

 ただここでお断わりしておきたいのは、総裁の反論は本尊論の域を越えて、師一流の霊断教学の立場から、宗学全般に亘って論議されているので、この小論では到底、弁明の意を尽すことができない。そこでいま本論では、議論を本尊論の問題に絞り、しかもその本尊論の根拠となるべき、本仏論について述べて見ることにする。

 なおまた「宗門改造」では、「日蓮宗読本」の本尊論をも、その責めをわたくしに負わせられているが、これは実はわたくしの分担でないので、ありがた迷惑である。しかし読本には一々分担の筆者を明記してないので、「大崎宗学」というような題名のもとには、わたくしもその責任を負うべきであるので、その本尊論の論旨には、責任を遁れようとするものではない。

 さて高佐総裁の教学が大崎宗学と相容れないのは、なにもいま初まったことでなく、故清水竜山学長時代からのことである。そしてその淵源は、師の学説が、故清水梁山師の学説を踏襲されているところに由来する。もっとも師自らは、その学説は、清水梁山学説を継承するものでなく、自解仏乗によるものと自任されている。しかし、かつての天皇本尊論といい、今日主張されている種脱論といい、本仏論といい、また本尊論にしても、それら教学思想の根底は、梁山学説に由来するものである。

 ただそれらの学説を説明するに、好んで近代科学的用語を適用し、しかも大崎宗学を訓話宗学ときめつけることによって、自己の学説の斬新性を誇示しようとするものにすぎない。もっとも見方によっては、近代科学のすばらしい発展に眩惑されて、宗教の科学性を強調し、科学を宗教の奴隷として、駆使しようとする意図のもとに、宗学の科学化を計らんとする、憂宗の念に基づくものとも見られよう。ところでそのため、宗学の本領が、科学の領域を超えた心霊界の解明であったり、また霊断の功徳として強調されている「人間の知覚を超えて秘密を見破る」不思議な「探知器」の説明となっては、創価学会の宣伝する「幸福製造機」と、何ら選ぶところのないものと見ざるを得まい。もしそうだとすれば、師の主張される、曼荼羅本尊観は、かの学会の板曼荼羅本尊観と、軌を一にするものではなかろうか。

 

 

 

 師は、曼荼羅本尊を主張する根拠として、教法観、成仏観、仏陀観、浄土観のいわゆる四種相開を論じられている。そして大崎宗学の主張する、一尊四士本尊観については、次のように批評している。

法華経の教相に依れば、一尊四士は釈尊の久遠本仏たることを証明する仏陀観であって、寧ろ久遠の師、久遠の弟子の越え難き関係を示すことにはなるが、十界皆成の本覚思想は明示されていない。宗祖大聖人独特の成仏観である五字仏種に依る、仏位相続の妙義は、全く文底の観心に出ずるものだぐらいのことは、大崎の宗学者にも判らぬ筈はあるまい、と思うのだが、三大秘法の本門の本尊を、教相の一尊四士に持ち込んだ所を見ると、やっぱり其の辺がアヤフヤなのである。一大秘法が観心所成の仏種であって、それを開出した三秘が文上であるという論理はどうして成立するのであるか。また一秘の仏種が成仏説であるのに、その成仏観を具体化して信門に移した本尊が仏陀観の単観であるという論理はどうして成立するのであるか。……
一尊四士本尊論から即身成仏を割り出して御覧あれ、みごとに出来たら拙者は筆を折って身を肉橋とすることを辞するものではない。
   

(宗門改造87号)

 この反論は、師の教学が、石山教学と同様、種脱勝劣判に立脚する、種本脱迹の思想に基づくものである。すなわち法華経の教相をすべて脱迹とし、久遠実成の釈尊もなお、迹仏と下し、この本門の釈尊の外に、一重立ち人った文底観心の仏を認めて、これを久遠の本仏と見るのである。すなわち久遠実成の釈尊は、始覚に即する本覚仏であるから、まだ教相の域を出でない。文底観心の本仏は、かかる教相の釈尊の本地身であって、それは無相の霊在にして自然法爾の本仏である。したがってわれわれ五官の対象を超えた常住不滅の神秘の実在者であり、しかも一切の生命を創造する、根元の大生命体である、というのである。

 ここにおいて、師は「易経繋辞伝」の「陰陽測らざる之を神と謂う」などの文を引用して、寿量品の本覚仏は、一言にしていえば、「神」と同意語である。そこで法華経では「仏力」といわないで、「神通之力」とか、「神力」とかいう用語で表わされている。だから従来の久遠の如来とか、本覚仏というような名称が、その表現に不当であって、将来適切な用語に改めるとすれば「それはやはり『神』と作る以外はないであろう」(宗門改造97号取意)と言って、人間に非ざる「神」の観念を登場せしめ、かかる神の立場から、人格的仏陀を無常の権仏と排するのである。

 「始覚仏の抹殺は、同時に歴史上の釈尊の仏陀としての権威の否認である」(改造90号)と言い、また本尊鈔の「能変の教主涅槃に入りたまえば、所変の諸仏も随つて滅尽す」の文を引いて『寿量品の教相の久遠実成の釈迦牟尼仏』を主体とする一尊四士論は『滅度不常住の教主を拝めと、強要するものである』と言って、寿量品に現われた久遠実成の仏に絶対性が認められてないのである。

 このようにして師は、寿量品に示された、始覚即本覚の久遠実成の意義を認めずして、本門の教相をなお方便と見倣し、直ちに観心に約して本覚を論じ、本覚仏を主張する。そして始即本の仏陀観は「本覚法門恐怖症」に基づくものとされている。

 

 

 3

 それではいったい、師のいう本覚仏、すなわち「無相霊在の本仏」の実体は何であるかといえば、それは宇宙の大生命であり、その生命体に主体的意識を付与して、九界の衆生の生命の根元であると見るのである。

宗祖大聖人は仏界だけを実存の本地世界と見、他の九界は本地開顕に至る過程現象と見て居られるのである。過程現象であるから絶対の意味を有たない。因縁成熟に依って生起し、また消滅する仮観中の現象である。

仏界はそれと違って、それらの九界現象を、生命の可能として盛り上げつつも、四徳波羅密多の満足を永遠に実存させている、生命の綜合体、総和の人格の上に是れを仰ぐのである。故に本因本果ということは、九界の「能性を所有する、本有無作三身の本覚の如来が、生命の実体として永遠に実在して居られることであり、我々衆生は、それがいかなる界の表現者であっても、本覚の如来の生命の有限時間的且つ有限能力的の、部分的表現者である。   

(改造95号)

 つまり生命の総合体、総和が、久遠の本仏なのであると言い、生命体そのものは常住不滅なるも、現象に現われた個体生命は無常であるとして、そこに九界を認められている。そこで師は更に生物学的生命論を援用して、上行等の本化の四菩薩は、A、B、O、ABの四種の血液型を表象するものとし、

人類の生命体は四大性格系統に依って表現せられて居り、四大菩薩はその象徴的人格に他ならぬという意味になる。そうして四者共通の意識主体が空大に当る本門の教主釈迦牟尼仏に他ならぬ、という割り切り方が出来るのである。意識主体とは、生命の本源であり、また人格の本質であって、摂論派の唯識の説く第九識阿摩羅識と称するものと同義である。

と言い、ついで

此所に至って、寿量品の仏陀観は、歴史を超え、現象を超えて四次元の世界の秘奥に探り入って、歴史上の釈迦牟尼仏を通じて、不生不滅の如来の実体たる本有の覚体を仰いだものである。故に本門の教主釈尊とはいうけれども、それは人間的な個人格を指すものではなく、晋遍人格たる意識主体を指すことは極めて明瞭である。而して此かる大霊仏は、宛然自爾であるから、始覚仏の如き因位の修行は無い。従って果位の成仏も無い。   

(改造85号)

 と論じられている 要するに師のいう無相霊在の本仏は、宇宙の生命体の本源であり、その生命体に意識主体があるというので、それはいわば、神的意識とも見るべきものであり、しかもまたそれは個的ならざる「晋辺人格」というのである。そこで、種概念に対する、類概念的な関係にあるものというべきであろう。また見方によっては、師の本仏論は、「自然即神」の思想に帰着するものである。

 師はしばしば、自己の本仏論を真言密教の地水火風空の五大による大日法身論と区別しようとされているが、しかし師の四種血液型論の如きは、真言の元素論的説明を、生物学的生命論に置き換えられたにすぎない。また師は真言密教の大日法身仏や、浄土の弥陀如来は、神話的所産であると、きめつけられているが、師の主張される本覚仏の如きも、その実体は大日法身如来と何ら異なるところがない。つまり真言密教でいう、「晋門の本尊」を、寿量品の本仏と見られている。

 そこで「本覚仏は個人の上に顕現することはない」とか、「釈迦牟尼仏という個人格が、久遠実成なのではなく、久遠実成の本覚仏が、本果の姿を釈迦牟尼仏として表現せられたのだ」と言い、或は「久遠の如来の常住相は、九界の衆生であるとする」などといって、法華経の本門の教法を説示された釈尊の人格体に、絶対の帰依を仰げることを忘れられている。そして自然現象としての自然の神秘に額づき、釈尊はかかる神秘の存在を発見し、自覚されたものにすぎないとされている。

 そこで、師がどんなに近代的学術用語を駆使して、新宗学を提唱されても、その実質においては、自然宗教の域を出でないのではなかろうか。いかに神秘を論じても、それは自然としての神秘で、これを解明するのが、宗教であると見る限り、仏教とはほど遠いものであって、かかる宗教は近代科学と対決するよりほかあるまい。

 師は、自己の霊断教学が、科学性に立脚するものであることを強調しようとされているが、それでは宗教の科学性とは、どのようなものであろうか。

大崎宗学者は、法華経の教相を鵜呑みにして、一尊四士を荐りに呼号するけれども、その実存に対する認織は、いかようにして成立したのであるか。・・・教相を鵜呑みにすることは、科学のメスの前に非常な脆弱さがある。・・・宗祖大聖人に於て法華経全篇は、霊山八年の御説法であり、本門虚空会の神話は、其儘歴史的事実であった。だが原子力時代に入った現代に、宗祖大聖人当時の認識を其の値押付けようとすることは、宗教の世界だからと云って、許さるべきではない。真実を離れて知識の価値は有り得ないのである。若し実証を裏付けとする科学知識の照射を浴びて、影を消して仕舞うような不安定なものを頼みとするならば、それは自殺的行為以外の何ものでもないと老えるのが、現代人の常識でなければならんのである。だが幸いにして、宗祖大聖人は、教相に依って、宗を立てておいでにならない。 

(改造90号)

 と論じられているところを見ると、宗教を科学的真実の追求であると、解されているのであろう。ここに師が、寿量品の仏の常住不滅と、十方周辺の力用を、「実在」的に把え、しかも「超認識」の対象とされる所以がある。また心霊科学や、超心理学をもち出して、無相の霊界を説明するのに、エクトプラズム現象など、援証されるのも、もっともなことである。かように師が、久遠の本仏を、科学的に実証しようとされるところに、新宗学の特色があるわけである。

 

 

 4

 更に翻って、師の本仏論の教学的根底となっているものを見れば、その種脱論に由来している。師は大石寺日寛の「六巻抄」に傾倒し、その種脱論に敬意を表されているが、この点では、石山教学の種本脱迹論を継承するものである。そしてこのような種本脱迹論は、法華経本門の教相に、絶対性を確立しないで、直ちに観心の世界に絶対性を認めようとするので、釈尊の背後に、釈尊にあらざる本仏を立てざるを得なくなったものである。真言宗が顕密判の立場から、釈尊の本地に大日如来を認めたのも、浄土宗において釈尊の背後に、救済主の弥陀を設定したのも、また、石山教学の日蓮本仏論の如きも、要は、法華経を説かれた宗教的人間性とでもいうべき人格体に、絶対性を認めることができなかったがためではなかろうか。

 師は、「久遠の如来は常に、九界の衆生の当相の上に、常住不滅の生命を表現して居られること、それが諸法実相である」(改造81号)と論じ、仏界は九界の総称であると見倣して人間界における、九一、迷悟の対立を確立することなく、直ちに、仏凡一如の立場で、信仰の対象を論及されている。もっともその反面には、師もまた教相を重視すべきを説いて、

宗祖大聖人は、同一観心の上に立ちながらも、堅固に教相を押え、教主釈尊を通じて、本因本果を紹継する立場に立って居られることである。・・・教主釈尊を離れて仕舞うと、本果仏なき本因本果論になり、仏陀救世の悲願、つまり化導の始終が有名無実になり、宗教としての実践面が失われて仕舞う。 

(改造102号)

 と述べられている。けれどもその続きに、

宗祖大聖人の内相承に於ては、釈尊因行果徳の相続となり、法華経の行者が、仏種による相続人、連綿たる教主釈尊の常住相になり・・・ここに於て譲与せられる五字は、本果仏の仏位のバトンであり、王冠に該当する登極のシンボルである。

 と言い、更に密在の世界と顕在の世界を対立させて「仏種」を論じ、この仏種は、顕在の釈尊に先行する、本有の種子であって、久遠の本仏は、この仏種に内在するもの、いなむしろ仏種こそ、本仏そのものであると見倣されている。

 それではその本仏としての本有の仏種とは何であるかといえば、妙法蓮華経の五字であり、一念三千であって、いわゆる一大秘法の題目であると見るのである。そしてこの仏種こそ、「不生不滅の如来の実体たる本有の覚体」で、「人間的な個人格を指すものではなく、晋辺人格たる意識主体」(改造85号)であって、寿量品の仏陀は、かかる晋辺的意識に名づけたものとするのである。かくして師は、仏種即本仏と見倣し、この仏種に能動的な、意識を認めている。そしてこれを信仰の対象たる本尊とする。

 ところで、ここにいう晋辺人格と言い、意識主体といったところで、これが個的な現実の人間の上に、人格化されなければ、それは一種の類概念であり、意識主体も人間の意識ではなく、自然的存在にすぎない。師は「他の宗教は、人間ならざる無相の霊格を仰いで神とするに対して、寿量品は、人間仏陀たる釈尊を通して、その不生不滅の御本体たる本覚仏を仰信する所による」(改造85号)といわれているが、人間仏陀たる釈尊の自覚の当体に、直ちに不生不滅の本覚仏を仰ぐことができないで、その背後に、本源に「人間ならざる神格仏陀」を仰ぐのは、師のいわれる他の宗教で論ずる「人間ならざる無相の霊格」と何ら異なるものではない。

 師はつねに、本宗の信仰は密教である、といわれているが、確かに、その説く「無相霊在の本仏」なるものは、大日法身に他ならない。無相霊在の本仏が、人間釈尊の主観的な覚体として包摂されたものでなく、それが釈尊の覚りを離れて、客観的に存在するものであるとすれば、かかる本仏は単なる自然的存在にすぎないのであって、それは科学の対象として、科学的に立証されるに至るであろう。

 師は「我々人間には、超知覚の無相霊在者を、信ずることの出来る能力を所有しているし、その手掛りとなる認識も亦可能である」(改造97号)といわれているが、これは、師が、無相霊在の本仏を、釈尊の自覚の内容のいかんにかかわらず、認識の対象として実在するものと、認められているがためである。

 

 

 5

 しかるに法華経の寿量品に示された、久遠の本仏は、超心理や、九識で認識されるような、客観的実在仏ではあるまい。それは人間釈尊が、その宗教的自覚を、法華経の本門において、如実に説きたまうた時の、人間釈尊の主観的覚体である。だから日蓮聖人は、同一の人間釈尊を、爾前教を説かれた釈尊、迹門を説かれた釈尊、本門を説かれた釈尊、というように、いわゆる昔、迹、本の三段に分って、取捨を論じ、「本門の教主釈尊」を本尊として選ばれているのである。そこで「本尊鈔」に説示されている「観心の本尊」は、本門を説きたまうた人間釈尊の、主観の世界で、いわば釈尊の自覚内容である。

 生仏一如、人法一体というも、それは釈尊の自覚に現われたものであり、また仏身の常住不滅、十方散体周遍の力用も、それは釈尊の自覚体であって、現象的存在ではない。仏の立場からは、一切衆生悉く仏の子であるが、衆生の立場からは、仏を離れようとする自然の子にすぎない。自然現象の本源として、その背後に、超自然的無相の霊在を設定して、一切の現象が、その密在より顕在したものというような思想こそ、仏法に非ざる外道の思想である。

 法華経に示された「妙法」すなわち、釈尊の覚りに表われた「妙法」が、日蓮聖人のいわゆる「本門の題目」である。そこで「題目」としての妙法は、天然自然の「存在の法」ではあるまい。それが存在の法であれば、釈尊の個人格を離れて存在し得ることになる。釈尊の覚りは、人法一如であると見る限り、釈尊の自覚体を離れて妙法のみが存在するのではない。妙法の人格的顕現が「仏」であり、仏の一念にのみ妙法が存しているのである。

 釈尊の覚りの妙法は、客観的に存在する自然法でもなく、また単なる道徳法でもない、しかるにややもすれば、釈尊の妙法を、客観的存在の関係において、見出される科学的真理と同一視しようとする傾向がある。それはあたかも、ニュートンが引力の法則を発見したように、釈尊は、それ以上の絶対の事実としての真理を悟られたというのである。

 そして妙法、すなわち題目を、このように客観的存在の真理として信ずるものは、科学者が科学的法則を利用して駆使するように、題目を自己の利益のために利用し、これを秘術として、自己のものにしようと試みるのである。

 霊断教学では「人間仏陀たる釈尊を通じて、その不生不滅の御本体たる本覚仏を仰信する」と言い、その帰依の対象が、釈尊をして釈尊たらしめたと見る本覚仏に、絞られている。そして、その本覚仏そのものは、無作三身、自然法爾の存在であり、言辞の相を絶したものであるから、妙法蓮華経と称すると言い、これを久遠の釈迦牟尼仏というのは、ただこれが釈尊によって、顕示された仏であるから、強いて釈尊の名を冠じたにすぎない、と見るのである。そこで、

寿量本仏の広博身は、十界皆成の大曼荼羅列座の諸尊に依って書き現わされるけれども、その主体である無相霊在の本覚仏には御名がない。故に本因本果の仏の仏種を其値無作三身の宝号に用いられた。

(改造87号)

 というのである。しかしそのような霊在仏は、たとえその仏名を妙法蓮華経という法号で称したとしても、その実体は、妙法ではなく大日法身に他ならないことは、既に一言したところである。法華軽に説く妙法は、自然本有の法ではなく、釈尊の自覚体であり、精神である。

 久遠実成の釈尊もなお、久遠本仏の一変化身の迹仏で、九界に相対する、仏界を現わしたものであると見倣し、十界総体の本源に本仏を仰ぎ、これによって十界皆成の理論を樹立しようとするのが、霊断教学の主張する曼荼羅本尊観の根底をなしている。これは師が、「宗門改造」に、

久遠実成の本仏たる釈迦牟尼仏は、分身迹仏に相対する一尊四士像だけでなく、更に九界を摂取する大曼荼羅の広博身を示現しなければ、寿量仏を本尊とする、成仏観の義は成立しないのである。故にこそ宗祖大聖人は、一尊四士を以て、本門の本尊とせられず、法華経の仏陀観、浄上観を一埓に収めた、本門虚空会の儀相を大曼荼羅に写して、御本尊とせられたのである。

(86号)

 と述べられていることによって窺われる。けだしそれは、三世十方分身の諸仏を統摂し、九界を摂取する本仏の実体は、人間仏陀としての、釈尊の自覚体であることを忘れたものである。そして徒らに、久遠悠久の時間にこだわり、十方周辺の広大なる世界に眩惑され、九界即仏身を実存的に把えたものである。そこでまた「寿量本仏は、生死を超えて存在し給う万有の御本体であるが、同時に無作三身の相を九界生死の上に顕現せられている。(改造79号)とも言い、無相霊在の本仏の実存を強調し、更にこの本仏を「仏種」とすることによって、十界の密在せることを説き、もしこれが顕現の釈尊によって本仏を表わそうとすれば、十界の互具が不可能だとし、釈尊という個体の占める同一空間に、いかにして他の九界の個体を占有せしめるかとか、また

借問する、互具とは何であるか、釈尊久遠の人格を十界に割り振られていることであろう。歴史上の釈尊をコマ切れにする術はないから、別に本体的人格を理念しなければならない。それが無作三身の本覚の如来である。         

(改造101号)

と、いうような、借問を提出されている。

 もっともこのような曼荼羅観はも何も霊断教学特有のものではない。現代科学に立ち向って、宗教の優越性を強調しようとするものの中には、日蓮聖人の宗教は、宇宙の真理を解明したものであるとか、法華経は、宇宙の大生命の力用と永遠性を説いたものであるとか、或は森羅三千の諸法は、宇宙の大生命体より流出し、またその生命体に還るのである。そこで迷悟、生仏共に、同一生命の顕現であるから一体であり、不二である、というようなことを主張している人が少くない。今日の創価学会の如きも、

大聖人さまの生命というもの、われわれの生命というものは、無始無終ということなのです。これを久遠元初と言います。始めもなければ、終りもないのです。大宇宙それ自体が、大生命体なのです。われらの本地は、大宇宙それ白身なのです。

(小平芳平著、創価学会210頁)

と言い、また「折伏教典」には、

宗教とは、人類最高の欲求であり、生命の本質的要求である処の「幸福」を追求し、生命の特質を解明して、生命の真実の相を知ることに依り、「真の幸福」に達する唯一絶対の方法を確立したものである。

(1頁)

 と論じ、ついで、この生命の実相は御本仏日蓮大聖人によって「より深く、より本源的に考えられ、遂に生命の真実の相を完全に衆生に示されて居る」(2頁)と言い、更に

「根元の生命」はあるとも言えず、無いとも言えず、然も宇宙全体に充満して無始無終に活動する大本であり、「本源力」というべき「実在」であって、それ自体生じもしなければ滅しもせず、増えもしなければ減りもしない所の「無始無終・不生不滅の生命」そのものである。御本仏日蓮大聖人はこれを指して「南無妙法蓮華経」と銘名され…… 

(同書55頁)

 といって、根元の生命体が題目であり、仏種そのものであると見倣している。そして生命そのものは、生死を越えて常住であるが、その変化として生死の起滅があり、その変化に十界三千の相を現わすというのである。それではその変化はいかにして生ずるかといえば、「一念の心が決定する」のであって、その触れるところの「縁」に随って、次の生命の種々相が生ずると見るのである。

そこでかかる立場から、

日蓮大聖人が、一切衆生に給わった処の大御本尊は、非情の紙、又は板に仏界を示現遊ばされ、非情の生命に、仏界の力を固定して下さったものであります故に、この大御本尊の縁にふれて、大御本尊の仏界と、信ずる人の仏性と感応し、遂に正報が変るのである。

(同66頁)

 といって、板曼荼羅本尊の絶対性を強調するのである。

 このようにして、創価学会でも、予宙の大生命体の根元に本地を論じ、これを妙法蓮華軽とも、また「久遠元初の本仏」とも称している。そしてこの本源の理は、日蓮聖人によって示されたものであるから、聖人の本地こそ、久遠本仏であって、根元の生命体をそのまま、聖人の生命とされたものであると、いうように見倣している。

 かように見てくると、霊断の無相霊在の生命論は、学会の根元生命論と、軌を一にするものということができよう。もとより両者は、必ずしも同一基調の上に立つものではない。けれども久遠の本仏を宇宙の根元として見倣し、これを生命体によって科学的に根拠付けようと試みる点、またこの久遠の本仏を直ちに妙法蓮華経と称し、釈尊の当体に、本仏の実義を認めない点、更に仏種を本有の本仏とし、これを自然的な実在と見倣して、しかもこれに神秘性を付与するが如き、共に相通ずるものがある。

 ところで学会では、「久遠の本仏である釈尊とは」その実体は日蓮聖人であるとし、曼荼羅は日蓮聖人の精神を表わしたものであるから、曼荼羅即本尊たり得るとし、人法一如なるが故に、法に約すれば曼荼羅が本尊であり、人に約すれば、日蓮大聖人が本尊であるというのである。しかるに霊断教学においては、本尊の当体である無相霊在の本仏を、覚体としての個人格の上に認めないで、しかもその相貌として、事相的に時空を超えた常住と周遍性を表わそうとする。そこで、その曼荼羅観は、密教の大日法身仏によって現わされるような、汎神観に帰着している。この点、また高橋智遍氏の「本門本尊論正義」の主張も同様である。

 

 

7

 高橋氏は、本門 の本尊である本仏は、曼荼羅によってのみ、表現することができるのであって、一尊四士では不可能であるという。そして曼荼羅本尊は、生仏不二、人法一体の本門の本尊を表現するのに、もっともふさわしく、しかもこの人法一体、法仏相関は、能生所生、能覚所覚、能成所成、能説所説の四方面の関係から、理に約する理一、智に約する人一、乗に約する行一、教に約する教一、の四一の一体が論ぜられると言い、四種の法仏相関を振りまわすことによって、自己の曼荼羅本尊観の正義を論証されている。また大曼荼羅本尊は、本体、体性、形相、力用の四方面から解することができるとし、体についていえば、久遠本仏、教主釈尊であり、性についていえば、本法の要法であり、五字・七字である。形相についていえば、八品所顕・虚空儀相であり、力用についていえば、即身成仏であるというのである。

 ところで、ここで問題となるのは、氏が大曼荼羅を法仏一如であるとはいっても、法の妙法を能生とし、仏の教主釈尊を所生とし、この関係を三秘の行法にも、適用されていることである。しかるに日蓮聖人の本仏観の立場からは、かかる法仏の関係は、始覚の迹仏に対してのみ許されることであって、本門の立場から見れば、法は定んで、仏の法であって、自然の法ではない。霊断教学における本仏にしても、また高橋氏の本仏論にしても、それは共に自然的存在の法に、ただ「仏的名称」として本仏の名を附したものにすぎない。

  「正義」に「日蓮聖人が本尊として、大曼荼羅を図顕されたものは、本仏の心、本仏の観心、本仏の精神」(47頁)を示したものであると言い、また「本仏の観心は妙法蓮華経として、神力品に本仏より本化菩薩に御付属になられたもの」とあるが、これは明らかに、本仏の覚りである観心を、本尊の実体と見るものであって、この観心の法を説かれた教主釈尊そのものを指すのでない。しかるに氏は、この観心の法を、人格仏し絶対化して本仏の名称を付しているので、ここに本門の教主釈尊の外に、久遠の本仏を認めざるを得なくなっている。

 そこで氏の学説においては、霊断教学と同様、その久遠の本仏は言慮の名相を絶したる存在で、釈尊の名は必ずしも必要でないので、妙法蓮華経仏と見倣すものであろう。けれども日蓮聖人においては、久遠実成の本仏は、定んで釈尊のみ名に依って、表現されなければならない仏なのである。妙法はその釈尊の観心であって妙法仏なのではあるまい。霊断教学の主張する本仏といい、「正義」の本仏観といい、それは共に一種の汎神論に基づく本仏で、いわゆる密教の大日法身仏に他ならない。

 だから「正義」には、久遠本仏の精神界を、直ちに形相として把え、大曼荼羅のみが、本仏釈尊の全面内容を、円妙具足して表現し得るといい、一尊四士の如きは、本因本果の二妙を現わすにすぎないと言い、しかもその二妙の表現すら不可能であるというのである。

元来、八品会座における久遠本仏は、三身常住、三世益物、十方晋遍、法界同体の仏身にあっても限量のある形像でこれを顕示表現することがもともと出来ない……顕色形色の木画では、どうにも手のくだしようがありません。         

(123頁)

 と言い、また

三世の諸仏をどう彫刻しますか、十方の諸仏をどう絵画にかきますか・・・無量の諸天をどう造るか、六万恒河沙の本化菩薩をどう画きわけるか。・・・それ故にこそ文字式となったものです。八品儀相は文字式より外に表現のみちがありません。

(84頁)

 などと、借間されている。これは八品の儀相を本仏釈尊の形相と見倣し、本尊の当体と解するところから生じたものである。氏はこのような立場をとるので、

事相の上に互具一体をみるとは、法界全体をあげて、久遠本仏の体遍であるとすることで、すなわち当体全是、法界の一草一本一礫一塵、みなことごとく久遠本仏ならざるはなし。・・・そのように、天地万物はことごとく妙法本仏であると観照しうるは、久遠本仏ご白身か、本化菩薩ご白身かしかありません。

(165頁)

 と言い、法界三千の諸法がそのまま久遠本仏であるが、われらは、これを観照する能力がないので、日蓮聖人の図顕された曼荼羅を通して、ただ信ずるのみである、と論断されている。これは曼荼羅を、久遠本仏の観心であると言いながら、しかもそれを本仏の当体、形相として、法仏一如を論じようとする論理的矛盾に基づくものである。

 

 

 8

 日蓮聖人の宗教は、「観心本尊鈔」に示されているように、その行法においては、人法一如、教観一体の一大秘法を、人法、教観に分ち、本門の教相と本門の観心を明らかにし、本門の教相に現われた教主釈尊を本尊と仰ぎ、その釈尊の観心の妙法を、本門の題目として信受することである。したがってその間に、人法、教観の勝劣を認めるものではない。

 すなわち「本尊鈔」には、まず「観心」を論じて、これを釈尊の因行果徳の功徳聚とし、更にこの観心を「塔中妙法蓮華経」の題目として示されている。故に「本尊鈔」から見れば、曼荼羅は、本尊としての本門の教主釈尊を直ちに表わさんとするものではない。それは釈尊の観心である妙法、つまり神力付嘱の要法としての本門の題目を中心として、示されたものである。そして九界の衆生が、本仏釈尊の心に摂取され、この妙法に帰命している姿を現わしたものと見ることができる。

 要するに本尊鈔は、四十五宇の法体段といい、これにつづく本尊段といい、共に教法として、また付嘱の要法としで示されている。すなわち四十五字の法体を、「本門肝心妙法蓮華経」の五字に結び、

仏猶文珠薬王等不付属之……但召地涌千界説八品付属之、其本尊為体、本師娑婆・・・表迹仏迹土故也、如是本尊在世五十余年無之

(昭和定本日蓮聖人遺文1巻722頁)

 と言い、その下に爾前、迹門、本門の釈尊の相違を論じ、本門寿量の釈尊を指して、「未有寿量仏、来人末法始此仏像可命出現歟」と結ばれている。そこでこの本尊段の前後の文体から見れば、「其本尊為体」というのは、観心の妙法蓮華経を事相化したものではなかろう。むしろ教主釈尊が、妙法を付属せられた時の、八品虚空会上の傲然たる有様を示すものである。そしてその下の「如是本尊」というのは、八品の儀相の全貌を指したものでなく、虚空会上に現われたまうたような、本化四菩薩を脇士とする、釈尊を指したものと解せられる。

 そこで「本尊鈔」の末段に至って、遣使還告の地涌が、釈尊の使として末法に出現し、付嘱せられたる本門の題目を弘める時、久遠の本仏たる釈尊は、題目を信ずるものの信仰の世界に、現われたもうとせられている。そして結文の「仏起大慈悲五宇内裏此珠、令懸二末代幼稚頚、四大菩薩守護此人」この文は、われら幼稚に与えられる仏種としての題目は、仏の因行果徳を具足せる法であることを表わし、本化の四大菩薩は、本僧として、われらにわれらの主であり、師であり、親であるところの真実の仏を知らしめ、その法を信ずることを勧める使命を、持つものとせられている。

 だから信行の立場からすれば、本門の釈尊をもって本仏と仰ぎ、その題目を本法とし、本化の四菩薩は本僧として、本門の三秘が確立する。そしてこれを三大秘法の行法とするとき、本仏釈尊は、帰依の対象として本門の本尊となり、本化の四菩薩は、本尊の脇士として、本化の化導を扶け、本法が受持の題目として、仏種となるのである。

 しかるに霊断教学では、仏種を直ちに久遠の本仏と見倣し、しかもそれを宇宙の大生体として、無相霊在を論ずる。ここにその本仏は人間ならざる神秘的存在と化している。また「正義」の所論では、本仏を本門の教主釈尊という名称で許してはいるが、その実体は人格身ならざる、円融三千の諸法を当体とする汎神的存在にすぎない。だから一尊四士では、本仏釈尊の実体を表現することはできないのであって、それは、コケシにも劣るものだと酷評し、森羅の諸相、即本仏であり、本尊であると言って、久遠の本仏は、人間にも及ばない宇宙神に空中分解されるに至っている。

 この点、創価学会では、帰依の対象として、釈尊を脱仏とし、宗祖を本仏と仰ぎ、師弟の本末を誤まっているとはいえ、本門の題目である妙法蓮華経は、日蓮聖人の観心であり、魂であるから、日蓮聖人こそ本仏であるとし、日蓮聖人以外に、本仏を認めようとしない。そこで本尊においても、人法一如なるが故に、法の立場からすれば題目を本尊と見るが、しかし人の立場からは日蓮聖人であると論じて、曼荼羅所顕の本尊は、日蓮聖人の魂であると見倣し、信仰の雑乱が避けられている。

 けれども創価学会では、寿量品の「我本行菩薩道」とは、本化の菩薩によって行ぜられる、三大秘法の行法であるとし、釈尊をして仏果を感ぜしめたのは、この菩薩道に他ならないので、久遠実成の釈尊とは、日蓮聖人の本地であると見る。

日蓮大聖人はもともと三大秘法をお持ちになっている本仏であらせられ、釈迦をはじめ一切の仏は、みなこの三大秘法を修行して仏になったのです。ですから日蓮大聖人が御本仏であらせられる。

(創価学会 55頁)

 そこでこのような立場から、「本門の教主釈尊を本尊とすべし」という本門の教主は、時間、空間の上に現われた印度の釈尊のことではなく、本因行の菩薩である、日蓮聖人の本地の異名であるというのである。

 学会ではこのように、釈尊の当体に久遠の本仏を認めず、その菩薩道の因行に、本仏を認め、日蓮本仏論を主張する。これに比して、霊断では、宇宙の大霊たる無相の霊在に本仏を認め、これに久遠本仏釈尊の仮名を付して、本尊と仰ぐのである。「正義」では、宇宙の森羅三千の事象を直ちに本仏の相貌として把え、その仏的名称として久遠実成の釈尊というのである。そしてそれらの本仏の形相を余すところなく、表現したのが日蓮聖人の曼荼羅であると見るのである。

 ここにわたくしは、本宗における本尊論は、その本尊論の由って来たる寿量品の仏陀観、すなわち日蓮聖人の観られた「本門の教主釈尊」の性格を明らかにすることが、根本課題ではなかろうかと思うのである。

(37.10.01)

 

 

 

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