第52回中央教化研究会議 基調講演

 

歴史から見た日蓮聖人

 

中 尾 尭 文

 

司会 これより、お2人目の基調講演に入らせていただきます。中尾尭文先生は、現在、立正大学名誉教授、勧学院副院長、宗宝霊跡審議会副委員長、学階詮考委員会委員にご就任されております。経歴といたしましては、立正大学学監・同人文科学研究所長、文部省学術審議会専門委員、文化財保護審議会専門委員、日本古文書学会会長等を歴任され、平成25年春の叙勲におきまして、公共的な職務を果たしたということで、瑞宝中綬賞を受賞されております。

 著書には、『日蓮宗の成立と展開−中山法華経寺を中心としてー』、『日蓮信仰の系譜と儀礼』、『日蓮真蹟遺文と寺院文書』。編集では、図説の『日蓮聖人と法華の至宝全七巻』など、多数ございます。ご購入もいただければと存じます。

 それではどうぞ、よろしくお願いいたします。

中尾 では、恒例に従いまして、お題目三唱に移ります。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。

ご紹介に預かりました、中尾でございます。今日は三原所長から、歴史学者としてご降誕をどう捉えるか、とのご

 下命がございました。しかし、私にしましては、歴史学者として、と改めていわれますと、刃を胸の前に突き付けられたような感じがいたします。なぜなら、日蓮聖人の御伝記につきまして、非常に難しい面がありすぎるからでございます。改めて、歴史学者として、という言葉の裏には、「本当の日蓮聖人はどうだったのか」、そういう一つの暗黙の要求が、いつも横たわっているのです。そういう点につきまして、私は一生、日蓮聖人の御伝記を取り扱いまして、悩み抜いて参りました。私は、人の前であんまり深刻な顔をしたり、怒ったりしないで、できるだけにこにこしているのですが、本当は悩み抜いているのです。

 若い時分に、研究生として東京教育大学に在籍し、学位論文は東京教育大学から頂いております。そのような関係で、東京教育大学の学生と随分議論をいたしました。東京教育大学の学風というのは、とにかく上下関係を考えないで、互いに意見を言い合うことです。大変な議論の場でした。私は立正大学で気楽にしていたのですけども、東京教育大学に行ってからは、いろいろな専攻の方から意見を言われたり、私も言ったりしておりました。

 その際に、学際的研究という話をしました。学際的というのは、学問と学問とがお互いに協力して、何か共同作業していこうということです。

 学際的研究というのは、その方法として、例えば仏教は、まず仏教学、宗教学、それから歴史学、民俗学、社会学などをみんな一緒くたにしてしまうのです。

 私どもが話をしますと、目の前で聴いていて、いろいろ質問したり、注文したりするのが、実は倫理学科の学生であったり、あるいは、美術の学生であったりして、非常に刺激的な世界でした。その中で、日蓮聖人をどう捉えるか、が私に投げ掛けられた大きな問題です。

 しかし、日蓮聖人を歴史学的に使うということは、至難の業です。特に皆さんから、「このような伝説があるけれども、本当はどうなのか?」という質問をされるのが、一番厳しいのです。というのは、日蓮聖人の御遺文のどこを抑えてみても、客観的に日蓮聖人がどのようであったかということを、歴史的に言い切るには困難があるのです。なぜかというと、日蓮聖人はご自分の御一生にわたる、事績というものを、ありのまま話をしようとは夢にも思っていらっしゃらなかったからです。

 先ほど、鈴木隆泰先生のご講演を、「ああ、こういうことをお話しされなくては、信仰の側からは受けとめ難いな」と思いながら聴いておりました。要するに、日蓮聖人は客観的な事実をそのまま述べないで、それをご自身の教義、ご自身のご生涯の深刻な体験として宗教的に意義づけて、法華経思想のもとで読んでいらっしゃるのです。よって法華経の土台がないと、日蓮聖人の御伝記は、実際読めないのではないかと思います。そのため、実際に日蓮聖人がどうであったかということは、客観的には分からない。私はそのことについては、初めから断念しております。断念しながらでも、やはり客観的に捉えるのは、一体どのような方法によってであろうか。それが私の一生涯においての、日蓮聖人の御一生についての見解です。

 20年前に、日蓮聖人の御伝記を書きました。吉川弘文館から、歴史についての観点から日蓮聖人を捉えてくれと要請されました。私の担当編集者は、立正大学の出身者なのですが、「日蓮聖人ではなくて、日蓮を書いてくれ」と言われた。この言葉に、刃を突き付けられたようでした。例えば、竜の口法難です。竜の口法難を見ますと、歴史学者はほとんど、その事実はなかったと言っているのです。東北大学の佐藤弘夫先生が、同じときに日蓮聖人の伝記を書いた。内容はちゃんと整理されており、歴史学者の中ではほとんど、竜の口法難を実話として扱っていないという点で、半分非難めいた話をしておりました。

 歴史学者に本当か、作り話か、実像か、虚構かという話を持ってこられるのは、非常に厳しいものです。しかし、これに応えていかなくてはならない。そういう運命があります。

 それに対して、私の基本的な回答は今申しました、日蓮聖人は、ご自分のご生涯を法華経で読んでいらっしゃいますので、これが客観的な事実であるかどうかということを聞くのは筋違いではないだろうか、そう考えております。よって、実像を描き上げることは困難なことです。

 さらに日蓮宗の信仰の場で語るには、聖なる話をさらに進めた形で、法華経によって荘厳された聖話になっています。日蓮聖人は説話の中でも、おおいに教義を神秘的に荘厳されるわけですが、ご生涯の事績についてもさらに大きく荘厳されて語られております。それが現在、日蓮聖人の、祖師信仰として語られる聖話です。

 私は、昭和26年に東京に来まして、池上本門寺の随身をいたしました。そのときの世話役は、伊藤海聞執事長(後に貫首)でした。そして私に、執事長付の随身になれとおっしゃいました。ある日、私と二宮將泰師とで繰り弁の説教を聞いていました。皆さん、物静かに語っていらっしゃいましたが、伊藤海聞執事長は、身振りが激しいため、説教台がミシ、ミシ、ミシというので、転げ落ちたら大変だと思って、心配しながら眺めたことがございます。そういった説教に、人々は非常に感激をして、涙を流しながら、由比浜の別れだとか、竜の口の折に振りあげた刀が一段二段三段と飛び散り・・・・:など聞いておりました。そのように「繰り弁」というのは、日蓮聖人の事績を荘厳していく、一つの到達点ではないのかと、後で私は思いました。

 現在、日蓮聖人についての御伝記というのは、無論、例外はありますけども、まず、身延山第11世の日朝上人の身延文庫に伝来している『元祖化導記』と、日澄上人の、『日蓮聖人註画讃』、この2つがもとになっているかと思います。

 『元祖化導記』は、日朝上人が実際にあちこち歩いて集めたものが、基本となっているのですが、その多くの叙述は、日蓮聖人御遺文の深い読み解き、読解をもととしています。身延文庫に行きますと、日朝上人が「朝師本」という、一つの御遺文の枠を作っていらっしゃいます。後世において御遺文の研究が非常に進んだ、その原動力のひとつになられたのが日朝上人です。

 それから『日蓮聖人註画讃』は、本国寺一門の日澄上人が編集されました。しかし、原本はございません。原本は失われておりますが、天文5年、天文法華の乱の年に、福井県小浜市で書写されました。それが、現在本圀寺に伝わっておりまして、今年(2019)の5月に、京都府の指定文化財になりました。私ども、指定については随分協力したのですが、現在これは随分傷んでおりまして、どう直すかということが、火急の問題になっております。この『元祖化導記』と、日澄上人の『日蓮聖人註画讃』の写し、これが基となって日蓮聖人伝が広がってまいりました。

 戦国時代を過ぎて、江戸時代になる少し前、秀吉が天下統一したときに、日本国中にほとんど関所がなくなり、日本全国が無条件ではなくとも、基本的には自由に、行き来できるようになりました。従って、日蓮宗の信仰も商工業者の発展により、全国的な広がりを見せるようになりました。日蓮聖人の御伝記がずっと広がっていくのは、その頃です。各地域では、日蓮宗のお寺が大きくなり、特に祖師の木像が急に大型になりました。つまり、お会式に語られるような参詣、習俗が全国的に広がったのが、江戸初期と考えてよろしいかと思います。

 無論、京都周辺ではさらに200年ぐらい前から、盛んな参詣習俗が見えますが、全国的な規模で祖師信仰が広がったのは、天下統一の頃から江戸時代初期のことです。その動きに従って、『日蓮聖人註画讃』が広く普及していきます。現在、私が把握している註画讃は、5セットあります。ご存知の方がいらっしゃると思いますが、一昨年に、図説『日蓮聖人と法華の至宝』という写真集が全7巻で出版されました。第7巻には、私が今集めることのできる『日蓮聖人註画讃』を全部、註釈も入れて、掲載しました。どうぞ、ご覧になっていただければありがたいです。

 江戸時代になり、『日蓮聖人註画讃』を基にして、全国的な伝承を広く集めたのが、小川泰堂の『日蓮聖人真実伝』です。また、『法華霊場記』という冊子本も出て、日蓮聖人の事跡を巡って歩いていく、団参の初期の形が生まれてまいりました。文化文政の頃には、身延詣が盛んになってまいりました。当時は、団体で身延山参詣する人たちは、道中で使用する必要最低限のお金しか持っていかなかったため、お参りする人が多くても、お賽銭が少ない。そこで、これではいけないというので、江戸で出開帳を開催したり、身延山別院を新たに始めたりして、江戸でお賽銭を頂こうというような動きがあり、祖師信仰が大きな広がりをみせます。また、歌舞伎においても、日蓮聖人が演じられるようになってまいります。

 立正大学を中心として、日蓮聖人の伝記を研究するにあたり非常に労力をかけたため、現在では他の鎌倉新仏教の祖師の中で、最も研究が進んだのではないかと思います。日蓮聖人伝の研究によって、日蓮聖人の御真蹟、御遺文の研究が盛んになり、『昭和定本日蓮聖人遺文』のように、編纂が早くから行われました。

 とにかく日蓮宗は、日本の各宗の中で、宗祖の研究が最も進んだ宗派である。このことは間違いございません。しかし問題点は、『元祖化導記』や『日蓮聖人註画讃』の記述が神秘的な叙述に終始していますので、虚像に対しての疑問を持つことが広まってまいります。「実はこうであったのだろう」という、疑問が出てまいりました。私は少し批判をしているのですが、日蓮聖人の御真蹟を、残っているものか、残っていなかったものか、あるいはかつてあったものかということで、価値を分けて捉えているのです。もし、御真蹟が残っていなかった、あるいは今はないけども、かつてあったというもの、それ以外のものは、無視する傾向がありました。私は行きすぎであると思っています。しかし、私もその中におりますので、自分が乗っている木の枝を自分で切り落とすようなことは、今のところしておりません。

 その結果、宗学では、本当の日蓮聖人のお姿を描いて、一般の伝承は二の次にしようという考え方が支配的です。立正大学で、この日蓮聖人伝を聴いた方は、御自坊に帰って、いよいよ檀信徒を引き連れて霊場を訪ねるというときには、再び『日蓮聖人註画讃』の世界に引き戻されますので、皆さんはそのギャップに、随分困惑していらっしゃるのではないでしょうか。

 私は立正大学の歴史学を専攻ですから「一般的にはこう言っているのですが、先生はそうは考えないでしょうね 一え」と、註釈付で問いかけられることが、結構多いのです。そういった日蓮聖人伝、あるいは日蓮聖人の歴史に対する、原則として習った立正大学での教育と、布教の実践の中で立ち向かっていかなきゃいけない日蓮聖人伝のイメージ、そのギャップの違いというものが、やはり顕著であることを、申し上げておきたいと思います。

 冒頭に私の専攻は歴史学と申しましたが、文学部に所属していました。日本史の全体像のなかで考える時、日蓮聖人だけをとり出して見ているだけでは、当然、学界では問題にされません。周囲の、例えば鎌倉幕府の動向だとかをいろいろ考えながら、自分の論を進めていくのです。今頃は随分研究も進みまして、例の有名な元寇について、水中考古学が盛んになった影響で、台風が発生したときに、どちらの方向から、どちらの方へ向かって吹いたかということが、大体見当つくのです。なぜ気が付くかといいますと、沈んだ蒙古の船がどちらへ向いて沈んでいるか、それを調べているのです。この辺の船は北東の方に向いているから、その逆の方から風が吹いたのだろうとか、そういうような研究もなされているそうです。これは『気候で読む日本史』という書が、最近出版されています。ちょうど買って、今読んでいる最中なのですが、これもやはり、「正嘉の大地震はどうであったか」、「その飢饉は日本だけではなくて、世界的な気候変動であった」と書いてあるので、今面白く読んでおります。以上のような、今まで考えることのできなかった史実が、語られております。

 余談でございますが、日蓮聖人がお手紙の中で、蒙古の襲来について、非常に詳しく書いてらっしやるのです。これは大変な史料です。蒙古が、一夜のうちに敗れ去った。7万ほどの軍勢が、博多湾でみんな、海の藻くずと沈んでしまったと言われているのですが、このような情報は現在否定されています。考えてみると、7万人乗せた船が博多湾に入って、大風が吹いたから、さあっと全部博多湾に沈んだということは、気象学的にも、物理的にも成り立たないのだそうです(前掲書)。しかし、日蓮聖人の蒙古襲来についての記述は、非常に珍しく、当時としては、本当に貴重な記述であるということを申し添えておきたいと思います。

 もう一つ、私は戦後の時代の中で、歴史学を専攻する一人として生きてきましたが、鎌倉仏教には民衆史という問題が常に意識されてきました。何でもかんでも民衆救済でなくてはいけない。「親鸞さんは、民衆のために法を説いたんだ」、と強調されるのもそういうことなのです。東国における親鸞の研究は、やはり笠原一男先生が随分進められて、私も随分影響を受けました。ところが今、東京教育大学で、私と一緒に研究していた人に、今井雅晴先生という方がいます。彼は、親鸞の宗教が民衆救済を第一にしてしまったと断定するのは幻想だ、として説き回っておりまして、今、鎌倉仏教を見直す時期がきています。

 ここにおいでの中でお年を召した方は、高校生のときに歴史の教科書で、「鎌倉新仏教」と習ったはずです。それに対して、今の教科書は「鎌倉仏教」と「新」をとっています。なぜならば、私どもは「鎌倉新仏教」というその新の字は、果たして意味があるのかどうか話し合いました。古代仏教というものがあり、新しい大陸文化が、仏教の影響を受けて、どのように展開していったかということが問題なのです。その受け止め方によって内部的な変革があり、外部的にも文化変容という問題がある。そういう問題を随分議論した結果、現在は新仏教という言葉は使いません。

 いま再び、教科書の中で日蓮聖人がどう記述されているかということを、一所懸命勉強しております。各教科書の中で、一番よくまとめられているものもあります。実教出版という、大阪の出版会社で、平雅行先生という方が書いたと思われる教科書です。なかなか良い記述がなされており、私はそれが一番妥当と思っています。

 これから、研究方向としてどういうことをしたらいいのか。研究者ばかり目の前にして問いかけるような考え、感じをお持ちの方がおいでかと思いますが、私は日蓮宗の教師は、みんな研究者でなくてはならないと思います。ただ、決められたことをやるのではなくて、新しい天地を開いていこう。そして、その成果を世の中に広めていこう、そういう情熱を持った方だと、私は考えております。

 理屈っぽくなりますが、歴史学として個人の名を挙げる時は、「日蓮聖人」ではなくて「日蓮」です。日蓮の営みを客観化して、体系的に理解するのです。そして、それを基にして、各宗の宗祖なら宗祖で結構、――もちろん宗祖でない人たちもたくさんおりますが――、そういった人々の宗教の営みを体系的に提示することによって、鎌倉時代の仏教史を構築していこうじゃないか、それが私どもの考え方です。

 2つ目には、宗教学の立場からは、荘厳された日蓮聖人伝を内的に究明する。「それは違う」と言うのではなくて、先ほど申しました、法華経の信仰によって読み直し、意義付けられることの意味を問うことが大事なのです。ある現象に対して、それをどう意味付けるのか。その問題点がどこにあるのかと問います。

 歴史学では、日蓮像を歴史過程の中に位置付けて、そしてその役割を評価する。鎌倉時代の中で位置付けられた、日蓮聖人の姿をきちっとつかんでいく。宗学においては、後世の荘厳された祖師像から、日蓮聖人の宗教を逆に遡って考えていこうとするように思えます。

 私はこれを、学生諸君に話をするときには、万華鏡という話をするのです。万華鏡というのは、きれいに見えます。宗教学だとか仏教学、宗学もそうですが、現在到達した立場からもう一回、その万華鏡を見ていくのです。ですから、その日蓮聖人61年の営みというものを、横から年代的に見るのではなくて、全体として見る。どこに、どの時点に焦点を当てるか、そこが問題なのです。

 ところが歴史学というのは、逆にこれを横に2つに割って、三角のプリズムになっておりますと、それに映った姿を横から眺めるというような立場だと思います。言うならば、その両方の立場を一つにしながら、どこで折り合いをつけて、自分のイメージを作っていこうとするのか。それが、宗学での研究だと思うのです。

 今、私どもは、宗宝調査に走り回っております。宗宝調査というのは、本来、日蓮聖人の御遺文を集めることから始まりました。

 日蓮聖人の御遺文を集めるというのは、「古いものがあった」、「日蓮聖人の真筆だ」と、それで満足するやり方ではありません。日蓮聖人の御遺文がそこにあるということは、これは客観的な事実です。それに対して、我々がどう意味付けていくか。その意味付けをしないと、本当の宗学にはならないと思っております。宗学というのは今日的意識に立った意味付けなのだということを、私どもはいっも申し上げております。宗宝でも、文化財でもどう意味付けるかが問題です。

 私は明日、少し早く失礼しまして、愛媛県の宇和島に参ります。宇和島で、教育委員会の仕事が待っております。それは、宇和島の文化財の指定にっいて、根拠を示すことなのです。その中に、昔の話ばかり書いたのでは、文化財指定にならないのです。これが今、宇和島の社会に、文化にどういケ意味を持っているのかを報告書に書かないとなりません。単に集めてきたものを、「はい、文化財」というわけにはいかない。この文化財が、宇和島の歴史の中にどのような意味を持ったのか。そういう話をすることが要求されます。

 現代における日蓮聖人伝の構築は、このような考察の中から可能ですし、今を直視しながら題目を唱え、法華経を信仰する立場から、日蓮聖人が指示された宗教的な営みを意味付けていくのです。私は京都妙顕寺の宝蔵を、30年ぐらい、毎年何回も行って、調査させていただいております。その中で、建治2年に、日蓮聖人が新しく入門した経一丸に与えられた一幅を、「玄旨本尊」と呼んでおります。それには、『讐喩品』の有名な一節、「而るに今此の処は諸の患難多し。唯我一人のみ能く救護を為す」が書かれています。その最初の「而今」という言葉に私は注目します。而今の「而」。つまり、今ということ、これが問題なのです。

 例えば日蓮聖人の御遺文に、「わが門家は昼は暇をとどめ、夜は眠りを断ちて案ぜよ」というような言葉があります。よく立正大学では、「学生というものはね、暇を持て余しちゃだめだ。よう勉強せえってことだ」と、簡単におっしゃるのですが、そうではないと思います。今を我々がどう見るのか、今を中心に考えてみよう、「今」をもとに法華経の教え、日蓮聖人の教えを考えてみよう、というような意味合いです。


 さて、抽象的な話ばかりで、3分の2ぐらい話をしてしまったのですが、日蓮聖人の御誕生をどう考えるかは大切なことです。実は私は、大変大事な場に立ち会ったことが幾度かあります。その一つは、誕生寺の片桐海石貫首から、お訪ねするよう要請があり、早速行きましたら私は目を疑いました。抜魂された日蓮聖人の御木像が御宮殿から移座されておいでです。まさに誕生寺のお祖師様です。

 誕生寺は、江戸時代の初めに津波によって全部流されてしまい、正直なところ、古いものは何も残っていないと思っていました。そのため、ほとんど深くは研究していませんでした。しかし、祖師像の胎中から古文書が出てきたのです。(「日静上人願文」を示しながら)日静上人という方は第3世です。この中の2行目の記事で、日蓮聖人が貞応元年にお生まれになったことが、はっきり分かります。残念ながら、日にちのところが、すり切れているのです。もったいないことです。そして、お生まれの場所は、東条の郷の片海です。そこは間違いございません。これは恐らく、日蓮聖人のご出世を確言する、一番古い史料ではないのでしょうか。しかも、お生まれになった地元の人がこれを書いた。我々は、史料を一等史料、二等史料と分類いたしますが、これはまさしく一等史料です。

 貞治2年(1363)日蓮聖人が亡くなってから80年ぐらい後、南北朝時代です。日静は73歳で立願して、御影堂を作りました。なお、貞治2年の3月6日には、最初のおの鑿をカーンと入れて、8月29日に開眼供養した。この木像が見つかりましたら、早速文化庁の知人のところに電話しまして、「日蓮聖人の古いご尊像が見つかった」と言って、話をしました。すると国から技官の方がすぐに来寺されました。ところが大正の頃に、誕生寺が皇室から信仰された際、お公家さんによく似合うように、ずんぐりとした日蓮聖人の木像に鑿を入れまして、身延山の鏡の御影をモデルに歯が二枚前へ出ていて、耳も細く削りおとし、頬を細くして、体幹も細くして、随分手を入れているのです。お経本を持つ手もきれいに刻んで、細くされました。現在は鴨川市の指定文化財です。

 相い次ぐ災難のために傷みも進んでいましたので、早速修理をすることになりました。修理は、まず、全部を解体した上で、再びきれいに組み直すのです。その工程は、お坊さんといえども、外には見せません。本当に限られた人だけしか見られません。その上できれいにして、色を塗るのです。彩色ができたときに、片桐貫首と一緒に工房へ行きました。そうすると、きれいに塗ったお姿に古色を付けるのです。古色を付けるという言葉を、専門家は汚すといいます。ご尊像に墨を垂らしていく。それを聞いたときに、貫首さんと目を見合わせ、「このままで結構です。汚さなくても結構です。自然に汚れていくのを待ちましょう」ということでそのまま修理を終えたのが、今のご尊像です。

 これは余談ですが、日蓮聖人の御木像の、向かって右側の額、日蓮聖人からすれば左側の額に塗ってある木粉を全部はがしましたら、大きなくぼみがあるのです。それをこくそで埋めて、その上に彩色がしてありました。本当は、ここに大きな傷があるのです。小松原法難の折に切りっけられた傷の跡です。今日、明日でも終わりましたら、お参りなさるといいです。池上のお祖師様も、額に傷跡があり、反対側のまぶたが少し下がっているのです。小松原法難の後、額に傷跡を残されたのが、実際の日蓮聖人の御姿です。

 ところで、日蓮聖人のご降誕を考える際に、まず問題にされるのが出自についてです。『日蓮聖人註画讃』などの記事によりますと、遠江図の貫名氏がその先祖で、安房国に流された貫名重忠の子息といわれます。しかし、今日ではこの説はあまり信じられなくて、有力漁民の子として出生したというのが通説となっています。しかしながら、この貫名説を否定するにはしかるべき根拠が必要です。

 50年ぐらい前、中山法華経寺聖教殿から、「ぬきなのおっぼね」という文書を見つけました。これは「貫名の御局」のことで、日蓮聖人の有力な信者の多く居る下総国に貫名姓をみることは一考の余地があるもとの思います。この事につきましては庵谷行亨先生の『古稀記念論文集』の中に、論文を出さしていただきましたので、ごらんいただければありがたいです。そこには、全文を挙げて解説しておきました。

 先ほど、上行菩薩の話がありました。御遺文のうち『千日尼御前御返事』の中に、「亡き夫阿仏房は、多宝仏がいらっしゃる多宝塔の東向きに座っておいでです」、そういう表現があります。つまり、多宝仏がいらっしゃる、その虚空会の中に、亡き阿仏房はおいでになるのだ。無数の菩薩を代表する四菩薩の中心の菩薩、上行菩薩が、虚空会の場にいらっしゃった。虚空会で、お釈迦様が法華経本門の説法をなさったときに、その場に現れられた上行菩薩が虚空会の場から降誕されたと、日蓮聖人のご降誕を意義づけて考えるべきだと思います。

 そこで、降誕だとか再誕ということについて、有名なことですが、『立正安国論』に降誕や、再誕のことが述べられています。専修念仏を唱えた法然上人の教えを、「あまねく見、ことごとく見、深く思い、遠く思い、遂に諸経もろもろのお経を投げ打って、専ら念仏を修する」と、専修念仏を語られています。専修念仏というのは、念仏を一生懸命唱えることと単純に解釈しがちですが、念仏以外のお経を全部捨て去ったうえで称える念仏なのです。だから、法華経も当然捨て去ってしまう。念仏ただ一つだけなのです。その点では、日蓮聖人と共通している。法華経を一つだけ。お題目を一つだけ。だから、一を選ぶというのは、鎌倉仏教の一つの大きな特徴です。

 その法然を時の人々は「あるいは勢至菩薩の化身と号し、あるいは、中国浄土教の祖である善導の再誕と仰ぐ」と、再誕の言葉を用いて尊んでいるのです。これは法然上人が亡くなってからの言葉です。法然上人は自ら、自分は善導の再誕というようにご言っていたわけではありません。日蓮聖人も、御在世のときには一言も、自分は上行菩薩の再誕であるとおっしゃっていなかったのです。例えば、『阿仏房御書』の中には、「阿仏房、しかしながら北国の導師とも申つべし。浄行菩薩はうまれかわり給てや」と書かれている。浄行菩薩の生まれ変わりとして、そこに阿仏房がいるという述壊です。

 この御遺文の原本は失われていますが、恐らく御真筆であったと私は思います。しかし、御真筆ではないが古くから「御筆」として扱われていますので、少なくとも鎌倉から南北朝、室町ぐらいのときには、生まれ変わりという観念があったのだろうと思います。自分が生まれ変わりというのではなく、他から見ての観念です。

 いよいよ再来年は、日蓮聖人の御生誕800年、大変重要な年です。今年の一月に、関戸尭海先生が勧学院でお話をされました。日蓮聖人が上行菩薩の降誕であるとするならば、日蓮聖人の御誕生は、まさに上行菩薩の降誕と考えて良いでしょう。これは実に大きいことだと思います。今まで、関戸先生がおっしゃったように、日蓮聖人の誕生日を、上行菩薩の出現のときだと位置付けた人はないはずです。

 日蓮聖人を上行菩薩の再誕、あるいは降誕として考えるとするのは、日蓮聖人ご自身がおっしゃったのではなく、我々がそう仰ぎ尊ぶのです。それは、日蓮聖人の信仰を相続して、今ある我々が日蓮聖人に対して、日蓮聖人の御一生を、まさに上行菩薩の降誕にふさわしいのだと、我々自身が意味付けるのです。我々が、日蓮聖人を上行菩薩として仰ぎ、そしてその御生誕の年を、上行菩薩のご降誕として意味付けていく。それは、我々の問題です。他人が仰ぐわけではありません。そのため、難しい言葉で言うならば、我々の信仰の中に主体を置いての意義づけです。

 先述の通り、妙顕寺の日蓮聖人真蹟本尊に、『讐喩品』の一節「而るに今此の処は諸の患難多し。唯我一人のみ能く救護を為す」とあります。つまり、それは「今」であるということ。そして、考えてみるならば、他人事ではなくて、我々今を生きている、生きとし生きる人たちに、「法華経」の究極の力が備わっている。そういった自覚に、達することができないでしょうか。

 ただ私も、宗学の先生方によく申し上げますが、上行菩薩の「自覚」という言葉は、分かっているようで分からないのです。イメージできないのです。日蓮聖人は観念的にそう思われたのかなど、いろいろな取り方があると思いますが、そういうことではないと思います。自分は法華経の信仰に立って、上行菩薩として、この末法の世の中に、衆生済度の歩みを続けるのだ。このように、一人ひとりが決意をしていく。そして、実際に行っていく。そういう中に、日蓮聖人の御生誕を上行菩薩の御再誕とする意味があるのではないでしょうか。

 私ももう88歳でございまして、山寺に生まれて、あちこちの随身をしながら、学校を卒業して、ここまでやってきました。たくさんの友達や、先輩、先生方には自分でも本当にびっくりするぐらい、すばらしい方々にご厄介になりました。いい友達にもたくさん恵まれました。その中で、一生にわたつて自分の身を、日蓮聖人と法華経の研究にささけることができたこと、こんな幸いはございません。そして、私が目指した研究、宗門史といいますと、みんな日蓮聖人のお弟子だとか、その系統を継ぐお坊さんの話ばっかりなのです。私はそういうものではないと思います。僧俗共に、特に物言わぬ民衆が、どのように法華経信仰の中に集ったかということを、考えようかと思ってきました。先ほど申しました民衆信仰のことです。しかし、結果的に、日蓮宗は民衆を主客として興ったとは言えない。それは、私どもの大きな反省でございます。にもかかわらず物言わぬ民衆の言葉を聞くのが、私の使命だと思いました。

 私が全国をあちこち回るとき、本日参加者の小松靖孝師も、よくもついてきてくれました。どうもありがとうございます。何人も出ていく中、このような貧乏学者に交じっていただける幸を深く感じます。またその中で、日蓮宗の幾人かの方々と共に行動できたことを、生涯の喜びに思っています。どうか、私の志を受け継いでいただいて、まず自分の足元から、信仰の痕跡を探し出して、文章で書き、写真に写して、まとめながら、各地方から法華経信仰を育て上げていく。つまり、我々の先人が行いました営みを、どうぞ継承していただきたいと思います。

 最後にお題目を三唱していきますが、一つだけ申し添えさせていただきます。池上本門寺に学生として入った頃、執事さんが、「中尾、おまえ、お題目を唱えてみろ。南無妙法蓮華経の唱え方が違う」、「え? どう違うんだ」と思いましたら、「日蓮聖人のお曼荼羅にあるお題目の文字は、南無が小さくて、妙法蓮華経とだんだん大きくなるから、これと同じように唱えるんだ」と教えられたのです。ところが私は広島から来たばかりの学生でしたから、御曼荼羅そのものが分がらなかったので、池上本門寺にある御曼荼羅の写真を見せていただきました。それからというもの、南無から経までを少しずつ大きくして唱えていくのです。日蓮聖人の宗教は、法華経という「経」が中心で、その文字は最も大きいのです。その点をお考えいただいて、お題目を唱えさせていただきます。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。

 ご清聴、ありがとうございました。

 

 

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