純粋宗学と現代

 

室住 一妙

 

(1) 

これは与えられた標題である。が、私にとっては、ありがたい、喜ばしい。喜んで応するだろうとの予想に応えたいだけ、いろいろと考えて却って書きにくい。それが大きな問いであり、重要な課題であるだけに、おいそれとは応じられない。心ひそかに、宗門にとっても日本及び世界にとっても、現代にとってもひいては将来永遠にとっても重要なイミあるものが書かれるように、またそのように読まれることを祈る。そういうほどのカチがあるかどうか? いわゆる市場価への自信はないにしても、たしか観念的主観的な希望をもった感想文であろう。それにしても一の祈りはすでに標題が一種のユニークさを示してると思う。そのイミは「純粋宗学はもともと現代を志向して構えていた」ことと、「今日的現代は実に日蓮の純粋宗学を渇仰し叫喚している」のではないかと思う。そういう大それた思わくはともかくとして、「純粋な日蓮宗」を世界人類の名に於いて求められている。わらをもつかもうとする切実さに応えようとするための、ただそのための何かである。その何かとは論文でない、ただのメモにすぎない。気軽な随想である。問題提起か或いは又多少解決への試行でもあり得れば幸いである。

 

(2) 

現代とは何か? 私は思う、現代をよく泳ぐものが必すしも善くも良くもない。ただ良く対決することが善いのではないか。現代の問題を、いや問題性をみとめ、お互いが自己の存在をかけた対決にこそ、そこからある光が閃く、それが「現代人間性」の最高のカチあるものだろうか。

人間存在にはいつでも、それがその人にとって現代である。自分自身の人間性に真に忠実であるかぎり、悠久の昔から、永遠の将来にわたって現代性(社会性・が史性・自然性をふくむ)は問われ、とりくみ対決していかねばならぬ。そこにこそ、その人なりの宗教が生れ、或いは生き生きとうけつがれていく。宗教の純粋宗学は、正に東西古今はたらくべきものと思う。釈尊もそうであった。日蓮もそうであった。わたしもそうでありたい。そのように誰でもそうであらねばなるまい。但し実はその在り方が重要問題なのである。

 

(3) 

現代とはわたしたちが今生きている自覚をもっている意識の刹那に充実している。喜怒哀楽しつつ消えていく。イミのあるようでないようで、ナンセツスらしい。朝夕見聞しているTVも新聞も、自分自身の生活もみな現代との対決である。中にも「70年代」という、ふしぎな活字はそれこそ、いうにいえない不思議な生きものであろう。「69年」にはやった「断絶」につづく年代である。――現代という、このマスコミ時代に、肝心の人間お互いの話しことばに、断絶があろうとは? その砂漠の中のことばにナンセンスというのがはやる。断絶時代はすべてがナンセンスだろう。そのエリートたちは狂ほしく破壊・怒号・殺傷する。そのコンモンのとれたセンスが、かれらの生きがいのセンスなのか。

昔からのことば「通信」がある。文字通り、通は通でも人間相互間の信が欠けたら、まさにナンセンス。信とはコトバとココロの形象字。今や、通は、はるか気圏を超え、月や星にまでのびているのに、信は普通の人間空間の生活史の中で昧わうている心とココロがくいちがっている。之はどうしてこうなったのだろうか。えたいのしれない混線が起きたらしい。宇宙世紀が始まった。何かはげしく感覚はされてもそのイミがわからない。その宇宙感覚は複雑な情緒にはなってもイミのある今までの情感とはちがうらしい。早くコンモンをふまえてのコスモスセンスをもって、全一宇宙の道理にめざめて欲しいと思う。

 

(4) 

現代とは何か、とそれはいつの時代でも刻々に問いつづけられてきたし、これからはなをさらのこと、70年代・80年代というよりも、各々前半後半期と、4・5年区切りにしたくなろう。親子世代より兄妹世代の語りつぎ、同じ川などあり得ぬほど激しい時流である。「厳粛な生き方」としての現代学が要請される。国史・東洋史・西洋史あり、歴史学が出た、世界史も出た、世界史学も出よう。未来学もまじめに考えられている。そして、さらに緊要なのは「現代」の学である。即ち現代を対象として考え、そこから考え、それと対決する。そういう現代性が純粋宗学の五義中の時なのではないか。今、そういう現代がここに呼ばれている。今そのほんの試みである。

現代はカチ喪失の時代とも西哲の誰かが云った。断絶とも疎外とも大キカイ化とも砂漠とも、結局人間不在の文明文化である。人間不在ならまだしも大自然まで荒掠侵略されていく。緑もなく清水も青空もなくなる。烏も雀も蝶やとんぼも螢も蛙もいなくなる。そして人口と食料、開発と戦争、民族と権力とが相加わらず、もたつきごたついていく、自由・平等・平和が、うるさく叫ばれる。一番大切な人権とか尊さとは言葉化思想化法律化しても、各自の人間性に果して主体化するのはいつのことか。現代とは、その哲学的定義でなく、抽象や具体をこえて、その見方の前提として感じ方がある筈、とらえ方がある、個人個人全休にわたっての生きる魂の生き方にかかわっている。そうした汎主体的が確立しない限りは、現代的ナンセンスに違いない。ましてイミある問題としての現代と対決はできない。

 

(5) 

現代のイミはたしかに生活に直接する、生き方に即している。

食うために慟く。慟くために食う。どちらでもある。つながっている。幸福なことに今日は食うということよりも「エンジョイするため」に働くこととなっている。

そのエンジョイにも、いろいろの次元があるし、それだけのイミがある。さらにそれらを超えた最高次の真実のイミが問われよう。人間としてのイミ、生きガイとはいうても、その高さ深さが、かかわっているからである。そういう生きガイある生き方を求める時、道を求めるという。求道心・道心は必ず時代に触れる筈。道心は当然、前世代から産み育てられながら何かをせ負はされる、そして当の現代に於いて、何かと対決して次の世代にゆづる。運命的使命ともいえる。仮りにいう

69年度のゲバ学生さわぎは、食うための米よこせ連動でなく、はたらくための失業問題でもない。数の上ではイヤガテセもヤジウマも相当まじっていたろうし、安定した平和に対する退窟さもあろう、たしかにいうにいえない、あるやるせなさが不満がある。むしろ、あの「ナンセンス」ということばを、リトマス用紙で検出してみるがいいかもしれない。本当のイキガイ、生き方のイミを求めているムイシキ的狂乱といえようか。和製ヒッピイーとみなしても、それは神聖な姿であろう。つまり、人間性一般の尊さを充実させるあるイミを求めているのであろう。それはいつの現代でもそれなりにたしかに生きガイの系につながっているのだが、今日只今のいわゆる69年度の現代は宇宙時代という。月の砂浜に人間の足跡を印した、いつという月日を記録した年度。その人間・人類とは何か? ただ、個人や国民や民族の某々ではなく、≪生きてる人間≫≪人間のはたらき≫の両項関係の宇宙的意味が問われているのである。

いわば、昔の人々が月を仰いで「兎の餅つき」と風雅にも空想したように、今や逆に、≪月から地球をみていた月が、ぢかに地球人を感触した≫のである。同時にそこに人間の宇宙的意味が問われていることはたしかではないか。

人間の真価は是である、と示す者は誰か。何時のことだろう。ひそかに思う、それこそ釈迦牟尼仏であると。

 

(6) 

今の我々は仏をどう感じとめているか。通俗にいう、「死人のホトケ」などは、まさに迷信的大なるものとしてそれこそ現代文化の精粋を動員して、真の仏の本質を堀り出さなくてはならぬ。仏はたしかBC5・6世紀ころ生れた人間。釈尊とか無上尊とか云われる尊の中核は実に仏にある。仏(ブッドハ)のイミ内容は「めざめた人」という。自覚者・大覚者と古来いわれてきている。それを今ごくすなおにみとめて、まじめに考えていこう。我々の正しいと信じられる限りの常識良識、情性知性、現実理想、社会歴史、自然文化等の事情をふまえて、とらわれることなく外れることなく、しっかりと人格的に認め、我々が真剣にとりくめる対手でなくてはならぬ。そこで始めてまた絶対的に帰命することもできるのではないか。(今ここにあらためてと、いうまでもないが、用語についてなるべく、平常のすなおな、たしかなイミををさえて使っていきたい。之が純粋宗学の肝要な方法論の一つだと思う。)仏の人格内容をみるに便宜として、十号について考えていく。

仏とは現実的な自意識の様態のこと、我々が朝に眠から覚め、酔が醒めたように、本心に帰り、正しい判断ができ責任がもてるような状態。それをもっとくわしく規定してその範囲の時間空間と明了度正確度を、正遍知という。意識の光の照らすもの(主体)・、照らされるもの(客体)、ともに正確な全一宇宙体系に在るという。小さくいえば世界観宇宙観の徹底したる人。その内証をもっと誠実に追究するとき、現識の当の処から、遠く遡って由来した根源をみとめたとき、その系譜を指して如来という。その人は無上の理想を目ざして進んでいる、いや已に到達している無上士である。また絶対の安全の境地だから善逝ともいう。

その歩みは智徳具足して堂々としているから明行足。以上が仮りに個としての自行体系、根幹とせば、化他のための枝葉がある。世間解は現実の歴史社会の事情・人間の生類の機微をよく昧識解了されていること。よって良く人・天の大導師としての資格が具わり、現にその力量として能くいかなる人物の残凶猛悪も調え御し得る大丈夫である。さればこそ、全人類が心から敬重すべき世尊である、国の上下あげての供養に応じ得る資格があるのである。――(み仏を真正常人と拝みます。妖しき文化のうづまく中に。)

 現代は、ともかく、そういう人にこそ、素直にきこうではないか。

 

(7) 

今便宜上ここに仏陀の性格定義をこれ以上述べることは省略させてもらおう。又その仏の教説に聞こうとして、その要頒紹介も一時保留させてもらおう。実は私の力のばないせいもあるが、又ヒマも余白もなし、又本宗の特異な理由あっての保留である。

あたまから通仏教概説を避けるのでも否定するのでもない。いわば現代性に当るためである。現代性とは前述(2)のように、いつでも万人その人にとっての当時が現代である。それはたしかに重要な広義である。が然し、ここにいう現代性とは狭義の、仏教一般に古来いわれている末法のこと、それは仏教それ自体が衰微し滅尽する時期、またその内容事情である。仏の予言とされている。今考えれば、それに内外の2つの事情があろうが、その1は世間通俗の歴史的変遷である。なるほど世は発展進化という半面は変化複雑になるほど危険も加わる。従来の風習も道徳も秩序も権威も失われていく、棄てられていくのが必然、脱皮現象だから、人間の欲情はつのり権力は強大になり、古い聖賢の教や訓誠など却って足手まといとされ、嘲笑の代物ともされる。すでに今まである四苦八苦の上にさらに時弊の積み重ねは加わる。その濁悪の極めて重い感が末法性といわれる。見濁命濁煩悩濁衆生濁等を時代を積乗して劫濁とされよう。その3は教団内の事情で、フハイ・ダラク・邪見・謗法がそれである。以上内外重なり合うて、のっぴきならぬ接合点が、仏の滅後15世紀から20世紀の間とされている。この末法時限についての異説も恐らくは、時間空間にわたる生活・文化・宗教時情のシワヨセされていく経過をものがたるものではなかろうか。

ともかく、三世了達の大智の仏なればこそ予言されたのだ。大慈大悲の仏なればこそ救護の対応施設されたのだ。即ち当然のこと、通仏教ならぬ特別仏教(別頭の大秘法)である。而も教法と導師と行動と、宇宙的規模の構想が麗々しくおゼンダテされている。又しかも約10世紀にわたって歴々それを相承伝持されてきた教学的史実がよく物語っている。(外相承といわれるもの)。しかも亦、良医の内診善断良く末法の時点をよみとって応生された。そしてこの使命と事業と一身もって体得し行動し実証し了えた人が外ならぬ吾が日蓮大聖人である。その人が、只今のいわゆる20世紀的「現代的実証主義の旗のもとに」それを論明されたものがある。それに素直に聞こうではないか。それがそのまま、仏陀釈尊にお聞きする所以にも当ろう。私はその御真情をきいてみる。それをそまつな詞ながら翻訳する。

 

いのり それは 自分のためは みじんもない。だが全身全霊 祈り一ぱい、いや一生 だけでない 生々世々かけて、たった一つの祈り、日本のために? そうだ 日本に生れた以上 それが至誠だ。人類のために? そうだ 人間に生れた以上 それが至誠だ。ああ 万有のために祈る。私はただ 本仏のお心もちをつぎたいから。

 

私をどうか みじんにくだいても、みてくれ。

この気持にイツワリがあったら、私の主張にムリがあったら、どうか みつけてくれ。

私の念うたこと言うたこと、してきたこと すべて、そこに少しでも ごまかしがあったら、アイマイがあったら マチガイがあったら、誰でもいい つきとめてくれ。

よし、そのために 私も手を貸す、私自らを俎上にのせる、私自身の手で生体解剖もする。臓腑の断片もつかみ出そう。

今、絶大の光りのもとに照射されている。さあ どうとも批判してくれ。

 

私は誓う。この主張が正しいかぎり、あらゆる脅喝や誘惑は断然さける。八風に動かぬつもりだ。ましてゴマカシヤお追従はマッピラだ。(そんな弟子や信者は私の敵だと思え)。

 

ああ この大自然の 聖なる祭壇の上、(北海佐渡の冬塚原の三昧堂)、私はイケニエとして、ささげられてる。

私は 血の叫び 永遠の祈りと誓いとを こめて、この訴状をたてまつる、一切の神々に、三世十方の諸仏の前に、久遠本仏の大御前に!

そしてまたこれを遠く将来の人類に贈る。

南無妙法蓮華経。(以上)

 

(8) 

その開巻一閃、目を射る字句は、

 「夫れ、一切衆生の尊敬すべきもの三つあり。所謂主・師・親これなり。又、習学すべきもの三つあり。所謂儒・外 ・内これなり。」

 これは我々現代っ子一般を見すえての宣言である。之に対して、とやかく云う者があったら、思い切り一つ、ぶんなぐってやったら、どうだろう。怒るだろう。その怒ってくる所が尊いのだ。いわは自尊の深い根源地に、実はこの三徳者が実在ましますのではないか。なをもまだ、もやもやしているとせば、はたして自分の頭かどうか振ってみるがいい。胸に手を当てて考えてみるがいい。純粋宗学とは実はイミの学である。ただ文字章句をめぐる義学ではない。ついでに純粋仏教学というのがあるとせば、その方法論が、かの法四依とみなされよう。「法に依って人に依らざれ、義に依って語に依らざれ、智に依って識に依らざれ、了義経に依って不了義経に依らざれ」。この四句は必ずバラバラではいけない。順よくそろうて進展しなくてならぬし、了義経にも当然前三を具して成仏に至らねばならない。だから義というのは、そういう風に生きているすじ道のことである。智というのは生命人格に即する自覚のこと、了義経とは一切衆生成仏のすじを完了する経(一大事因縁・仏知見・開示悟入の経)である。その仏知見の義が一念三千である。開目抄前半は、こうした趣旨の究明で、まさに了義・不了義の真剣決斗のすさまじい公場である。その中央に立ったお姿に「彼々の経々と法花経と、勝劣浅深成仏不成仏を判ずん時、爾前迹門の釈尊なりと、物の数ならす、況んや等覚の菩薩をや。まして権宗の者どもをや。法花経の大梵王の位にして、民とも下し、鬼畜なんどと下しても、そのあやまちあらんや。」

開目抄後半は、この人が法花経の行者として、現実に実証してみせようとする。謗法の諸宗のをちゆく先きの無間地獄の道を、 一身投げ出してふさごうとしたのである。

「日蓮が法花経の智解は、天台伝教には千万が一分も及ぶことなけれども、難を忍び慈悲のすぐれたること、畏をもいだきぬべし。」

「法花経の行者あらば必す、三類の怨敵あるべし。三類はすでにあり。法花経の行者は誰なるらん。求めて師とすべし。一眼の亀の浮木に値ふなるべし。」

 

(9) 

求め得たその師とはどういう人か?

「日蓮といゐし者は、去年の九月十二日、子丑の時に頸はねられぬ。此は魂魄、佐土の国にいたりて、返る年の二月、雪中にしるして有縁の弟子へをくれば、をそろしくてをそろしからず。みん人、いかにをぢぬらむ。此は、釈迦多宝十方の諸仏の、未来日本国当世をうつし給ふ明鏡なり。かたみともみるべし。」

法花経の現文の釈迦多宝十方の諸仏は、虚空会上大宇宙的規模の儀式のうちに、三箇の告勅・六難九易・此経難持が宣せられ、勧持二十行の偈をささげて四・五・六衆の発誓をみる。止迹召本して地涌の本化、本仏の開顕となり、本法付嘱よろしくあって、末法の初に向って発遣された次第である。その人が今しもここに、かの経説の大瑞に匹敵する世界的宇宙的実証をまのあたり示されている。たしかに、「未来日本国当世をうつしたよう明鏡」には、700年間のことも、いわゆる60年・70年の現代も、21世紀のさきの未来の日本及世界史、みんな写ってくるであろう。そういう尊い、「おかたみ」を、只文化財的に人語識の装いで扱うてはならない。当に法義智了の手続きでみがかねばならない。大地はつながっている。空間も天と地と通っている。語は意義を伝えもする。その人が竜口を越えて依智の梅の木のある庭で一拶された月、700年後にその月からのカタミの石が、この地球に届いた時代の今である。そういう人類のドキューメントとしてトクイゲに笑うてすまされる時代ではない。その人の宗団にとって、いや人間そのものにとって、あらためてふかく考えねばならないのではないか。

 をうけなくも、この現代を救うものは誰か。導き得る者は何人か? 私は、それこそ、ここに在るといいたい。仏である。生きた仏である。

 

(10) 

ここにこのごろの詩のまねである。題して青年仏とする。

 ――よんでるよんでる

 タレかがワタシをよんでいる、

 ミンナがワタシをよんでいる。

 仏を、仏を、よんでいる。

 仏よ、仏よ、仏よ出でよ、とよんでいる。

 仏も仏も石仏、金仏、木仏でない、ナマのホトケだ、生きてる仏だ。

生きてる仏 生身の仏老成じみたのじゃない――壮んな仏、若い仏、青年仏、少年仏、幼年仏・・・思い切っていえば、

人間の仏ではなくとも・・・畜生でも、・・・劫臈を経なくとも、幼少の者の現証が、すでにある。(みんながとっくに知っている)。

智積菩薩も舎利弗尊者も、一切大会、黙然信受せしめた、竜のむすめの八才になったものが、仏と成ったという。

仏よ、今こそ仏よ、誕生したまえ。

よんでるよんでる、みんながよんでる。

ワタシの中の、ホントのホトケを宇宙全体が よんでいる。

青年仏は生れた。

十二月八日です。

教主釈尊が、仏としてお生れになった、その日です。

ふしぎに生れたのですここに、生れてみると、たしか、日蓮大聖人さまの お手にいだかれその乳房をすっていました。

青年というのは くちばしの青いという青さです。年はふしぎな年令です。人間の青年は前途が長いです。

なんでもやれるか どうか 楽しいです。仏の青年はなをさら 寿命長遠です。自由に 自在にはるかに大きい 至極の楽しさです。

しっかりとお題目の乳房をはなさずに(ちぶさには本仏の血 と乳とが、たしかに流れています。)

青年仏は 堂々と行進いたします。

かがやく 八正道

どこまでも

日蓮大聖人と倶に。

 

(以上)

 ――これは、ばかばかしいをどろくべきマンタク的作品でしょうか。次に設問してみよう。

 

(11)

△そんなように仏に成ることが、今どうして必要か。

○前述してあるが、科学技術を超えなくちゃならぬから。

 科学者はコムピューターのドレイなり、人間性の泥感覚のまばゆさやイルミネーションの花のかげ、親子も吾も忘れはてなむ。

 なにもかもコムピューターにまかすとも、たよりになるはまごころ一つ

△成仏が今の我々にそうカンタンにできるか。

〇寿量品の是好良薬の替えがある。仏さまが責任とる。その保証が現代にとって日蓮聖人である。(前述の如し。)

△どうして今まで仏に成った人もなく、そう努めようという人もなかったのか。

〇聖訓(開目鈔) 「無道心の者の生死を離るることなきなり。」

 むちゃくちゃにのむが子供の善さ悪さ

     くすりをのまぬ あわれ学者か

 純粋に日蓮に即いて宗学す 

      みんな仏と成るためにのみ

 

(12) 

もう少し、つっこんで問題を追究してみる。

仏に成る。とは、目ざめること、気がつくことである。本宗は一体、現代人をすくうのか? どのようにして? 救うてどう成ったのか? わが日本の国はどうなってるのか。いろいろやらねばならぬこと、気がつかねばならぬこと沢山あろうが、例えば25年を経て、ようやくにセンゴヲワリとし、70年安保さわぎの年をオメデタク迎える。世俗の人はともかく、日蓮門下の我々だけでも少し考えてみようではないか。

そもそも日本の国は、亡国か興国か? わからないというのか。どちらでもいいというのか。どうしてこうなったのか? 我々の住む家は? 国土は? 何となく平和ムードの春風にアクセサリーの「立正」を冠してなびかす旗もカッコイイだろ。しかし立正というからには立正安国論を思う。日蓮聖人を追憶するかぎり、日本国の有るか無いか、興亡の因縁も知らないで、立正平和の運動というからには、ほんとに無限にオメデタイではないか。台風の吹きまわしの靖国・安保・核禁等々、 一寸コマーシャル向きで面白いが誰でもやれることと、やれないこととがある。

「日蓮によりて日本国の有無はあるべし。」とは、たしか日本の国家国土のことでもあるが、それを超えた真価のことでもある。人間に生き甲斐、国にクニガイがあるように、世界人類コンリンザイ気のつかない大事のことを、 「日蓮によりて」といわれたのではないか。それがホントの立正の正味正真ではないのか。

思えば今から7・800百年前から末法に入っている由。世界史的現代性が始まっている由。末法の定義の煮詰まった時点、現代性的現代の原点で問われている。人間とは何か宇宙的イミで答えよという。

「仏と成ること」。

成仏とは古来、仏教全体の大事とされていることは万人周知。「諸仏世尊一大事因縁」の経王ある所以。成仏道を無上甚深微妙法と讃するゆえん。百千万劫難遭遇たる所以。その成仏の即身の道が、奇しくも、はるか2000年すぎて末法・現代に直結されたのである。その大事業こそ「日蓮によりて」なのである。

「道心あらん人々は此を見ききて悦ばせ給へ。正像三千年の大三よりも、後世ををもはん人々は、末法の今の民にてこそあるべけれ。此を信ぜがらんや。彼の天台の座主よりも南無妙法蓮華経と唱うる癩人とはなるべし。」1009)

幸か不幸か今の我々は王ではなく、昔から平民である。しかし幸福にも癩人でなく常人である。しかも今、「我今見聞得受持。」そんなら「於我滅度後応受持此経是人於仏道決定無有疑」とある、そのまま信じよう。

 「今此三界皆是我有其中衆生悉是吾子而今此処多諸患難唯我一人能為救護」

とあれは大安心である。「毎自作是念以何令衆生得人無上道速成就仏身」とは久遠本仏の絶えざる御祈念である。特に速の一字をつつしんで味わう。一生成仏疑いない。

その一生も、臨終正念や霊山往詣もありがたい、うれしい。「あらをもしろや法界は皆寂光土」の感見も尊い。しかしこれも亦、この世から去ったあの世のことだ。少くも老年に、いや壮年のうちに。それもなお、現代のスピード化に応じてこの全宇宙をせ負うて行くには青年仏を期待したい。さらにさらに幼少年仏も期待し得る妙法秘法ではないか。――というイミのが、かの青年仏という詩、それは私の力ごアのセ。カチかもしれないが、それはともかくとして、之は聖訓である。

「されば三世の諸仏も妙法蓮花経の五字を以て仏に成り給ひし也。三世の諸仏の出世の本懐、一切衆生皆成仏道の妙法と云うは是也。是等の趣を能々心得て仏になる道には我慢偏執の心なく南無妙法蓮華経と唱へ奉るべき者。(14330)

「されば我弟子等、心みに法花経のごとく身命もおしまず修行して、此度仏法を心みよ。南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経。」 1059)

実に我々自身の「道心」そのものの姿勢が大切である。そのイミで、このごろ拙作の詩をかかけて、この随想を結ぶ。

 

 

飛 行 蜘 蛛

          (これはTVをみての偶作)

――くもたちよ、しっかりやれ。

たしか、ふけばとぶよなものだが、えらばれたお前たちである。(或いは過密対策のおりんさんか、種族開拓めパイオニヤか、ともかくも、それは必死になって「吹けばとばう」と身構えてる。幾度か幾度か、仕切り直ししているのは、そのふけばが、なかなかであるらしい。

ちょうどいい方向と、上昇気流の強さとを感じとって、はかっている、えらんでいるそうだ。

それこそ、いのちがけのしんけんさで、真面目の目で、えらんでいる。

――大きな決断と飛躍。

かれらが、地上最良とみとめた山頂の岩頭の原点、そこにふまえた六本の手脚。(つかまる、放つ、ける)の弾みつけて、天上大凰にのるかまえ。

君たちは、自分の本能に忠実である。また大自然に素直である。

大気の一弾指によって、とんだらさいご、全身全霊! わからないほどの空間を超え、はかられない未米にむかつて、文字通りに、迎命するのである。

神風にハコバレル資本は、自分の尻から吐く糸である。それこそ生涯かかって精練した生粋の糸。

まさに一世一代の一張羅!

すみわたった秋空に、なびかせながら。

かの大宇宙の虫は かがやいて善逝するのである。

たとい、その効果は、百万分の一パーセントをねらうとしても、

ああ、その努力の姿勢は何と尊いものだろう!

 

 

合掌

 

 

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