中世におげる日蓮教学の展開

 

 

 茂田井 教亨

 

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 ここにいう「中世」とは、一般にいわれている12世紀末から16世紀後半に至る、鎌倉・南北朝・室町・戦国時代を指しての称呼である。

 また、ここにいう「日蓮教学」とは、日蓮(1222−1282)の「教学」とその末流によって承継された「教学」と、両者を含めた称呼として用いている。わたくしは元来、「日蓮教学」と呼ぶときは、日蓮のオリヂナリティーの教学を指すべきだ、と考えているが、ここでは敢えて日蓮のものと、その後歴史的に展開したものとの総称とした。したがって、「中世」といえば、日蓮の元初的な思想・教義から、室町・戦国の時代に降るまでのその末流によつて展開発展した教学の総称であり、その展望である。しかし、僅かな時間に以上のような企てはむつかしいので、ここではその巨視的な展望と私見の開陳に止めたいと思う。

 周知のごとく、日蓮の法華教学の本質は「本門」性にあつた。日本仏教の思想・教学の中枢的基調をなすものは本覚思想にあるといわれるが、日蓮の教学の基本概念は「本門」であつて、これは明らかに「本覚」とは区別さるべきものである。「本門」と呼ぶ語義にはいうまでもなく[釈門]と簡ぶ意味があつて、きわめて教相的概念をもつている。だが日蓮がみずから「本門の本尊」等と呼称(本尊抄)する場合の「本門」には、その教相的概念を否定した純一的性格を持つ人法一元の「教」の概念が附与されているのである。もちろん、『観心本尊抄』の″四種三段”や『法華取要抄』の″逆読法華″等の教相的立場で立言される「本門」には比較論的教相の意味合が強いが、「本門の肝心」等と用いられるときの「本門」は、もはやそれを越えた次元に立つているのである。このような独自の法華経受容は、法華経を「教」として受け止めしめると同時に、その「教」は、日蓮の主体的内面性において相互否定的に自己化せしめられている。こういう宗教的実存の世界の自覚が、いわゆる「法華経の行者」であつて、その追求と反省を表明したものがいうまでもなく『開目抄』である。このような日蓮的実践法華の世界は、いうまでもなく法華経迹門の流通分から出発している。然るにその実践を原理的に支える教義的理念は、本門の一念三千といわれる妙法蓮華経の五字が、末法の機を選択しているという神関係的絶対*である。法華経は妙法五字七字という形においては、みずからが機・時・国・師を選択するという志向を持つている、というのが日蓮の法華経理解である。しかし、かくのごとき理解は、迹門が本門を媒介とするからであり、同時に本門が迹門を媒介とするからである。そうなると、開目抄的実践法華の世界は、更にその特殊性を翻転して一般化せしめる個の世界が要求されなはればならない。ここに『開目抄』の翌年に『観心本尊抄』の撰述される所以があるのである。

*この用語はキェルケゴール的だが、日蓮の「法華経」の中には、法華経みずからが教として己れ自身を末法という選択された時代・社会に投影して行かうという志向を持っている、という概念がある。これを、法的な概念が、同時に人格的概念をもって、相対的時と処とにその相対を媒介しながら自己実現を遂げようとする志向を持つものと解し、神関係的絶対という語を用いた。

 これをいい換えると、日蓮という個の宗教的実存による主体性の内面における真理の実現という事実を、一つの定型化せしめることにおいて、他の個の神関係的絶対を実現せしめ、それがやがて晋遍の場に一般化されるとき、法華経が予見としてもつ当来の歴史の実現でもあるというのが、『開目抄』から『本尊抄』への展開なのである。

 このような日蓮の教義の基本的理念は、いわゆる本門法華経的世界として弟子達に引継がれて行つたのである。ところが、日蓮の著述における表現が、おおむね対他的・啓蒙的・破折的・教相的であつたため、亜流の多くには宗教的真理実現としての日蓮の実存的内奥が理解できず、その表面的一角が模倣的に引継がれるか、またはその教義が公式的にしか理解されぬという結果を来たしたのである。直弟達でも上老には見るべき著作がなく、中老の天目(延慶元年1208化)に始めて自覚的に本迹を問題とする傾向が見え**、さかんに日蓮を「本門大師」と称してその独自性を強調するところがあり、明快な本迹勝劣論を示してはいるか、教義の公式的論理の展開に終つた感がある。かつて望月歓厚博士は直弟の伝持時代を概観して、「総てその問題とする所は深く宗義に徹せず、広く教学に亘らざる現世的問題なりとす。五一論争の問題の如きは之を証して剰りありといふべし」といい、又「教学は権実相対に於ける諸問題にして、縦令本迹問題に渉るも台当相対に過ぎず。日向の「金綱集」の如きはこの時代の代表的著述といふべきか」(「日蓮宗学説史」98)といわれたのは妥当しているといえよう。

*「円極実義抄」本書は「日蓮宗宗学全書」には日弁の著とされているが、いまは「日蓮宗宗学章疏目録」の説に従う。

** 今法華宗弁律師日昭大国阿闍梨日朗民部阿闍梨日向白蓮阿闍梨日興此等人々不知教法流布時機上迷惑仏法邪正浅深故執近迹以失遠本本迹尚迷況不思議一耶。進失釈迦多宝十方諸仏御本意退失本師本門大師弘通之本意云云(宗学全上聖部71)。

 日蓮滅後100年に近づくに至つて、いわゆる分派確執時代を迎える。すでに日興(1246−1333)の門流は富士を中心として五老僧の門流と対立していたが、日蓮滅後110年(明徳3年)に寂した日什は中山系から分立し、その27年後の応永26年に寂した日陣は本圀寺系から分立し、続いて日隆(寛正5年1464寂)は妙顕寺系から分立した。分立した諸師はその独自性を主張して個性的教義を宣揚するし、旧門流にある人々も自然対向的に教学の発揚に努めるから、ようやくここに宗学勃興時代なるものを現出したのである。

 後の顕本法華宗の祖となった日什(1314―1392)には重視すべき著書はない。晩年は本勝迹劣を主唱したが、勝劣のための勝劣でなかったことは『日運記』の記述に窺える。彼の1381年6月上洛して宗義を上奏し、1389年3月には妙顕寺日斉(1349−1405)を諌めるべく再び上洛し、八月書状を以て日斉に不受と謗施受用とにつき質問している行実からみて、彼は日蓮の信仰を正統に履まえようとの志向が真剣であったと思えるのである。

*又本迹ノ法門モ或方ニハ本迹一致卜云テ勝劣ヲ申方ヲソシリ、或方ニハ勝劣ノ辺ヲ以テァル匕トスジヲ忘失シ、経文書釈御抄ノ本意ヲ失歟卜聞ヘタリ、是皆什上人ノ歎キ有シ事也(宗学全5―102、)

 日陣(1339―1419)には『撰要略記』『本迹同異決』『本迹勝劣集』『偏強観破』『消息』数10通等があるが、本圀寺日伝(1342一1409)の55ヶ条の難問に応えた『本迹同異決』を主著とすべきだろう。日伝の約宗勝劣約体一致説に対する応酬だが、24条の未完であるのは惜しい。要するに「寿量品に説き極する処の題日を一部の神と為す」という信解に立ち、たとい「文文皆真仏」と判ずる等の祖判があつても、その内証は「独本門寿量品之智慧也」と断定するところに日陣の本領があるといえよう。

 分流諸師のうち、その著述の規模、体系の整備等からみて、宗学の名に値するものは慶林日隆(1384−1464)である。彼には「述作三千帖」と称せられるほど尨大な著書があるが、『私新抄』13『本門弘経抄』113『十三問答抄』2『四帖抄』4『開迹顕本宗要抄』66を宗義部の主著とすれば、他に台学に関するものとして三大部を註したもの数篇がある。故望月博士はその著『日蓮宗学説史』に彼の学説を体系づけ、本迹論・顕本論・教主論(本仏論)・本尊論・題目論・下種論・修行論・六即論・戒壇論・成仏論・摂折論の11項目に分別して概説されている(p168〜p210)。それによれば、彼が分派した理由は法義に根ざしたものでなく、妙顕寺の後継問題に端を発したものであったため、再度の分離後、日陣の教学に接して本迹致劣、台当相異の問題を自覚し、完全なる独立を見たもののごとくである。

 彼は『四帖抄』において本迹を論じたが、その本勝迹劣論は日蓮宗のレエソンデエトルを主張したもので、全篇ことごとく台当の異目といつてよい。しかし、彼の本門主義は、まさに字の如く本門主義であつて、天台中古の本覚偏重に陥ることを努めて警戒したものである。その点、宗学の自覚的成立として功の大なるを認めるべきだが、その顕本論はいわゆる「チリチリ常住、サクサク常住」という繰返し顕本論となつて、日蓮の本義からはいささか逸脱の感があるのである。彼の教学の特色は、日蓮の『観心本尊抄』における「一品二半」と「八品」との語から両者の比較を試み、前者を教ー在世−脱益−本果−顕本−理―難行−止観−一致。それに対し、後者を観−滅後−下種−本因顕本−事−易行−信行−勝劣と相対せしめて八品為正本因下種の宗教を言一言した点にある。

 この分派の諸師はいわゆる六条門流(木圀寺)・四条門流(妙顕寺)といわれる本圀寺と妙顕寺の系譜から出たものだが、これと前後しながらこれに対向して身延と中山の両山の系譜からそれぞれ逸材が出て、別個の教学を示している。すなわち、身延の日朝(1622−1500)と中山の日親(1407−1488)がそれである。日朝は日隆に匹敵するほどの夥しい著者を残したが、学風の従来と異なった点は、論議風の学風を興したことと日蓮遺文に綿密な註解を試みたことである。すなわち、『例講問答』40『三日講問答』123『立正会問答』49は前者を代表し、『御書見聞』25は後者を代表する。その他、日蓮の五義の法門から『弘経用心記』を著わし、広く本経を講じた『法華草案抄』36『法華講演抄』36は彼の博覧宏学を知るに足る。特に遺文の講義において『見聞』が『日朝見聞』の名の下に後世に与えた影響は莫大である。たゞ問題とすべきは、彼が叡山や仙波に学んだためか、中古天台の観念的学解をもつて祖書を注したところがあるため、往々日蓮の意に反した解釈がみられることである。しかし、そのような瑕疵があつても、本書の祖書講義に与えた功績は永久に没しないであろう。

 日親は学解の人というよりも信仰の人、実践の人と呼ぶべきであるが、彼の学問的特色は『埴谷抄』『伝灯抄』等教団史に関する著書を残した点で、これがため教団に史的反省史的自覚を促進せしめた功績に在るといえよう。この日親や日朝の出た1400年代の後半は、まさに日蓮宗における学問興隆時代で、この時代の教学的特色を一言でいえば、祖書註解時代ともいうべく、日朝の前述の著書を代表に、知られざる篤学者として、中山浄光院の日経(応永31年1424化)の『秋元抄見聞』『法華取要抄見聞』『法華題目抄見聞』『真言見聞見聞』、また、平賀の日意(1421一1473)の『本尊抄見聞』、真如日住(1408一1486)の『本尊抄見聞』、京都妙蓮寺の日忠(1438一1503)の『本尊抄見聞』『当体義抄見聞』『如説修行抄見聞』、保田妙本寺日要(1436一1514)の『立正安国論』『開目抄』『本尊問答抄』『三大秘法抄』『当体義抄』『顕仏未来記』『一代大意抄』『四信五品抄』『新池御書』『法華取要抄』『治病抄』等祖書11篇の『見聞』等が数えられる。これらがやがて遺文講義の風潮を高め、永正3年(1506)弘経寺日健らによる『御書鈔』の共述となり、遂に江戸時代の『録内啓蒙』『録内扶老』『同拾遺』等の先鞭をつはたことになるのである。

 以上を要約すると、日蓮の思想や教学はきわめて宗教的実存性の深いものであつたにも拘らず、その表現が教相的であつたため、末流によるその継承は、宗教的本質の面ではその要素に乏しく、行動においては僅かに安国論奏上に模した形式的天奏が繰返され、教学においては公式論的本迹論が教団を賑わしたのである。15世紀から16世紀の初頭にかけて、ようやく本格的祖書の注釈が行われ、これかやがて宗学的自党を促し、近世初頭における不受不施問題に展開していくのである。

 


          (昭和45年度文部省科学研究費による)

 

 

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