近代日蓮宗における「充洽園教学」の意義

 

小  野  文  b

はじめに

 

 ここでいう「近代日蓮宗」とは、明治維新期の廃仏毀釈の嵐の中で、いちはやく近代化を成し遂げた日蓮系の受不施一致派教団をいう。近世江戸期初頭に各日蓮門流が合流して再編成された日蓮門下の主流受不施一致派は、江戸時代を通じて本派として展開したが、維新の混乱の中で存亡の危機にみまわれた。他の既成教団もそうであったが、『神仏分離史料』等によれば未曾有の大事件であったことがわかる。平田篤胤から特に「神敵二宗」と名指しで罵倒され目の敵にされた日蓮宗である。その平田派の復古神道を背景とした新政府の神道国教政策が断行されるにあたり、日蓮宗が恐慌状態に落ち入ったのも無理はなかった。ちなみに、平田鉄胤・延胤、大国隆正、矢野玄道、福羽美静等多くの篤胤門下が新政府の神祇官に任ぜられ、明治初期の宗教政策を遂行したことは桜井匡著『明治宗教史研究』に詳説されている。日蓮宗に対しては早くも明治元年10月に日蓮の大曼荼羅本尊の書式にまで干渉した太政官布達が出され、神敵意識が露骨に示された(1)

 ところがこの廃仏の危機に惰眠を貪っていた仏教界も覚醒し、各教団で憂宗護法の指導者が教団改革を断行し、時代の進展に対応していった。神敵二宗の真宗には島地黙雷が、日蓮宗には新居日薩(1830-1888)が頭角を現し、新政府の宗教政策と対決したのである。

今コノ排仏ノ国家ノ大害タルコトヲ知ルハ誰力僧侶二及フモノアランヤ故二僧徒ノ弊ノ改ムヘタ仏教ノ益ノ用フヘキ所以ヲ別本二詳細二之ヲ論ス、コノ趣旨領知シ玉ハルコ卜満朝急務タルヘシ因テ忠告シ奉ルトコロナリ(2)

 46歳の新居日薩が中心となって、当時の各宗の代表者、浄土宗福田行誠(72)、真言宗密道応(70)、曹洞宗諸嶽奕堂(71)、臨済宗荻野独園(58)が連署して政府に提出した明治8年1月の建白書である。真宗がこの「諸寺院連名建白書」に参加していないのは、島地黙雷の提唱によって大教院分離運動の別行動をとっていたからである。翌月大教院が解散するや、受不施一致派管長日薩は日蓮宗教団を統合し、宗会を開催して宗内規約十ヶ条を発布、翌明治9年、現在の身延山を総本山とする教団の、単称、っまり派名の付かない「日蓮宗」という宗名を公称した。本論考では、この再出発した「日蓮宗」の原動力とみられる明治維新期の日蓮宗教団の思想的特質を検討しようとするものである。

 

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 近代日蓮宗の特徴的な活動をいくっか具体的にあげてみると

 @ 明治初期の仏教連合運動である「諸宗同徳会盟」に参加し、積極的に仏教の改革運動を展開していったこと。関東の「同徳会盟」は明治2年4月25日に芝増上寺で初会合があり、浄土宗の鵜飼徹定を盟主とし、浄土の福田行誠、真言の高岡増隆、釈雲照。曹洞の諸嶽突堂。臨済の今川貞山。天台の多田孝泉等33名が参加した。日蓮宗からは河田日因、新居日薩等が加盟していた。明治2年5月17日、仏教改革運動の中でも特筆すべき「日蓮宗建言」が、日薩等によって新政府に提出されている。

「寺院僧侶ノ多キハ却テ其法衰廃ノ基ニモ相成候得バ、合寺ノ沙汰、度牒ノ法、厳シク成シ下サレ侯様存奉侯」

と述べて、釈迦の本旨を取り失い、狐狸の巣窟となった寺院、無学遊民の僧を淘汰し、仏教の弊を一掃すべきであると断じ、具体的に五ケ条の試験問題を作って、これを全国の僧侶に課して選抜することを建言している(3)。政府には容れられなかったが、その反響は大きかったようで廃仏の弾圧の中の自己改革として、「会盟」ハケ条のうち、旧弊一洗の論に拍車をかけたのである。

A 新政府の神道国教化政策に反対して抗議行動を起していったこと。明治元年、参議大久保利通に朗惺寺河田日因は短刀を隠して決死の覚悟で談判にいき、廃仏の暴挙を戒しめている。日因の伝によると大久保は5年以内に是正を約したという(4)。池上本門寺山内新居日薩は明治2年5月「池上学寮建言」を奉呈し、神・儒・仏三教鼎立論を主張して、新政府の、「中世以降人心偸薄外数(仏教のこと)コレニ乗シ皇道ノ陵夷終二近時ノ甚シキニ至ル」という仏教排斥の「皇道興隆」御下問書に反駁している(5)。この三教鼎立論は「会盟」ハケ条の4項にあげられている。古田久一氏の近代仏教の整理からすれば、先の「日蓮宗建言」や「池上学寮建言」は保守的な仏教国益論の範躊に入れられるかもしれない。確かに現在の時点から見れば、時代に阿諛する仏教の弁明論に終始しているように思えるが、廃仏論を仏教の堕落が引き起したものとの痛切な反省に立って、仏教の自己改革をまず内外に訴え、その上で仏教の国益を主張して、新体制への転換期に切り捨てられようとした危後を脱がれようとした意識は、実際その主後が実行に移されていったことで、日本仏後の近代化の推進力になっていったと考えられる。

 B 会盟に参集した英明な指導者達は、仏教の復興は教育にありと、一様に改革の主眼を定めていた。(三自宗後書研覈の論、六新規学後営繕の論、七宗々人材登庸の論)。日蓮宗も全国に学制を敷いて人材養成、人材登用を実行していった。明治5年に宗門教育後関を統一整備し、新しい文明開化の時代にふさわしいカリキュラムや後科書が定められた(7)。とりわけ英語学が重後され、コルネルの地理書、グードリッチの小合衆国史、バーレーの万国史等が学年によって読まれていた。この芝に設立された本校が、日蓮宗大後林、日蓮宗大学、立正大学と変遷していく。この日蓮宗の近代後育の出発点で特に注目されるのは、宗学の課程でテキストが幕末の後陀那日輝という宗学者の著書で統一されていることである。すなわちここで思想の統一が計られているのである。これについて考究するのが課題である。

C 対社会的には、明治初期の仏教社会後後事業として大きな評価を受けている「福田会」に創立時より日蓮宗が中後となり、各宗協調してこの事業を発展させていったことである。管長新居日薩は福田会育児院初代会長に就任し、3度重任して経営に腐心している。その他幹事・評議員に多くの日蓮宗住職が就き、私費を投じて孤児の扶養を行った。

「夫天下之博貧児之夥悉後之而尽養之亦太難矣。雖然為山基於一簣行遠必自一歩。今此育児院続開業於東京日未九旬而後育之已至幾許児。呱々之声聞于各地然則数年経従府至県于郡于国漸遍海内而救育之(8)

 日蓮宗の本格的な福後事業としては700年の歴史の中で唯一のものといえるであろう。また、明治6年千葉監獄が設けられるや、日蓮宗の指導者は監獄布教を志して県内各宗派の寺院と協力して監獄説教を開始した。東奔西走した新居日薩は教誨師の始後とよばれている。

D 明治12年1月和敬会が各宗融和と仏教振興運動を目的として各宗の高僧を集めて創立された。日蓮宗が管長を始めとして参加していることに注目しなければならない。各宗の僧侶と並んで大衆の仏教啓蒙運動を行っているのである。仏後各宗共立の高等普通学校の設立に発起人となって一般の子弟の教育にも乗り出し、楽善会盲唖後育に全面的に後援していったのも当時の日蓮宗幹部であった。仏教教団の中で最も閉鎖的で狂信的頑迷教団と見られている日蓮宗が、なぜこのような柔軟で開明的な行動がとれたのであろうか。

 

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 明治維新期の日蓮宗の動きをみていくと、「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」の四箇格言を教印に、逆化折伏、国家諌暁により教線を張ってきた過去の日蓮宗教団との著しい相違に途惑わざるを得ない。事実、この四箇格言については、神仏合併大教院時代、非常時に仏教徒は互いに他宗を攻撃するのは慎もうとの約定を交わした際問題になったという。その時、各宗の周施役大内青巒(1845-1918)が、(仏を念ずること間(ひま)無ければ、天魔も禅(しずか)なり。真(まこと)に亡国と言って、国賊を律すべし」と読み方を変えればお互いに手を握れるではないかと提案したところ、日薩が苦笑しながら「よかろう」と言ったという。これは大内青巒の息子の思い出の記(10)であるが、この話題は大変な関心をよんだようで、当時はまだ若輩で大教院に詰めていた真宗の硯学南条文雄博士が、その『懐旧録』の中で、「法華宗の日薩という人が四箇格言の新訓点を発明した。仏を念ずれば間(ひま)無く、天魔禅(しずか)たり。言(げん)真(まこと)なれば国を亡す、国の賊律(おさ)まる」と、この逸話は苦しまぎれの戯語が一人歩きをしたと思うが、当時の日蓮宗の指導者の本音も表していると思う。では宗祖の四箇格言に目をつぶっても時代に適応しようとした、日蓮宗の思想がどこから生まれたのであろうか。

 

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 新居日薩を始めとする維新期に輩出した日蓮宗の指導者は、主に「充洽園」という学塾の出身者である。充洽園は1833年(天保4)、近代日蓮教学の祖と称される優陀那院日輝(1800-1859)が、加賀金沢立像寺に設立した私塾で、長州の松下村塾に比されるほど、教団再生に大きな教割を果した(11)。宗教的な面のみならず、教等は師日輝の宗学を継承発揚し、優陀那宗学が日蓮宗教学とならねばならぬとの信念に燃え、教育教関を掌握し、ついに教団の正教教学に定めることに成功したのである。現在日蓮宗教団で第2中興の三師と尊称される新居日薩・吉川日鑑・三村日修が、この充洽園学派を代表するものである。因に第一中興の三師とは、前述した近世初頭の教団の教革者日重・日乾・日遠のことであり、この近世と近代両中興の三師との間には思想的に強い脈絡をもっており、いわゆる「日蓮宗」と他の日蓮系門下との相違は、この二度にわたる教団の方向修正を主な原因としている。では二度の教革の基調、主軸となった教条はなんだろうか。結論的にいえば、日蓮教団の摂受・折伏論のうち、摂受主義をとって教団の舵を執ったということである。このことは、すでに各師によって指摘されていることであるが、近代日蓮宗における充洽園教学の摂受主義というテーマは日蓮宗教学史では大きな意味を持つものであろう。

 優陀那日輝の「摂折進退論」、即ち宗祖の草創の時とは時代が違う。末法の500年はすでに終った、現在は文華の時代であり、摂受を進めて折伏は退けるべきであるとの主張は、「立正安国一時権巧。於今時全無用乎」と日蓮の『立正安国論』も折伏の書であるということで否定するほどである(12)。この思想を日蓮自身の教義から批判することは容易であり、「時代の変遷に安易に節を曲げる優陀那学説は不純である(13)」と弾劾した田中智学は正論とも思え、「極端な修正主義者、祖意を歪めるもの(14)」と後世から攻撃されるのも当然であった。しかし、日輝にしてみれば、それを承知の上で敢えて発言しているのである。彼の教学を一言で評せば「合理主義、開明主義」の語を当てることができよう。その合理主義とは、彼の言葉を用いれば「道理の学」であり「実義の学」である。それは、仏教の経典に述べられた教相を方便としてそれに拘わらず、経の心を観て、道理にかなった解釈をしていくべきであるとする。彼は当時紹介され始めた西洋の科学にも目を向け、近代合理主義の精神、儒教的実学とよぶ方が相応しいかもしれないが、虚を嫌い実を尊ぶ理性に従い、仏教の須弥山説・八大地獄・六道輪廻などを奇談として否定して、「実道の宗要」を明きらかにしようとした。それは「予が毎二其ノ教学二於テ事実ノ道理ヲ先トシテ教相学ヲセ廃ントスル義務ナリ」という信念であった(15)。これは今までの日蓮宗の教条主義と対峙する自由な観心主義の傾向で、経文や先師の軌範に縛されることなく、自身是仏の証道実践をその時代に応じて行うべきであるという柔軟かつ積極的な修正主義者である。当然この眼でみれば、日蓮宗だけが正しいというのは、事実の道理から遊離しており、また仏教だけが宗教ではなく、儒教・神道もそれぞれ国家に有用な教えであるとの現実認識が生じる。彼の弟子が四箇格言をしまって、他宗と仏教全体の運命を担ったのも、三教鼎立論で時代に即応しようとしたのも、忠実に師の教えを実行したに外ならない(16)。優陀那の開明主義とは、彼は「南面の学」という語を作って説明しているが、「近世人文開化」の世に積極的に文化を開いて、天下国家を導いていこうとする進取の精神に支えられた仏教の新生論である。仏教の退廃堕落を痛憤して、仏徒は天下の大眼目にならざるべからずと、江戸期の排仏論を治病の真薬とみて、世上文華盛昌の教運に乗じて仏教の英智を光り輝やかし、四海を教御するのが新時代の仏教であると抱負を述べている(17)。彼の門下が、明治の新時代に多方面にわたって仏教の啓蒙運動に従事したのは、日蓮の門下には珍しいが充洽園の出身者としては当然の活動だったのであろう。

 

おわりに

 

 このような開明的教育を受けて成長した充洽園の門下生が教団を牛耳ったのである。宗風一変し、一時教団の近代化は急速に進められた。しかし、充洽園学派の頭領というべき文明院日薩が明治21年に死ぬと、充洽園の理想とした教団の教革は頓挫し、やがて侵略主義を唱えて優陀那宗学を攻撃する田中智学の前に影をひそめていくのである。近代日蓮宗における充洽園敦学の意義については、実は充洽園門下が皆宗門経営という行政面に携わって、師の教学を公刊訓古するのみで終ってしまったために、権威のみ加算されて、日輝の最も嫌った空虚な古典宗学に堕してその後の時代変化にとり残されてしまい、教学そのものが不透明となり、その検討が今日まで持ちこされてきているのである。

 

 

 

 

1 王政御復古、更始維新之折柄、神仏混淆之儀、御廃止被仰出候処、於其宗ハ、従来三十番神卜称シ、皇祖天神ヲ奉始其他之神祇ヲ配祀シ、且曼陀羅卜唱へ、天照皇大神、八幡大神等之御神号ヲ書加へ、剰へ死体二相着セ候経帷子等ニモ神号ヲ相認候事、実不謂次第二付、向後禁止被仰出侯・・・(『明治維新神仏分離史料』第一巻所収「太政官ヨリ法華宗諸本寺へ達」)。

2 清水竜山編『新居日薩』所収。編者は尺順より日薩原案を推定。

3 牧野内寛清『明治仏教史上に於ける新居日薩』所収。

4 馬田行啓著『日蓮門下高僧列伝』所収。

5 「神令以知本儒令以資政仏令以安民。ソノ為教ノ方法雖異ソノ所以為善者一也』(前掲牧野内『日薩』所収)。

6 吉田久一著『日本の近代社会と仏教』44頁以下。

7 芝二本榎承敦寺に大教院、全国に中教院小教院宗学所を設立更に沙弥校を全国に企画。大教院は上・中・下等科に分かれ九年制。『日蓮宗事典』参照。

8「福田会育児院祈願式祝詞-日薩」(前掲牧野内『日薩』所収)。福田会については吉田久一著『日本近代仏教社会史研究』並に清水『日薩』の尺順類参照。

9 『日蓮主義』11巻6号所収、大平玄秀「教誨師の始祖日薩
 上人」。

10 前掲清大『日薩』所収「薩師と父青巒」。

11 拙稿「優陀那日輝」(『近代日蓮教団の思想家』)、「優陀那日輝研究ノート」(『日蓮教学研究所紀要』第4号)、「新居日薩」  (『日蓮宗池上法類神楽坂法縁史』)参照。

12 「妙宗破無明論」(充洽園全集4-409、以下充全と略)。

13 「余が見たる明治の日蓮教団」(昭和8年刊『現代仏敦』10周年記念号所収)。

14 戸頃重基著『近代日本の宗教とナショナリズム』。

15 「学仏具眼抄」充全4-354、「庚戌雑答」充全4-379。

16 「四句格言弁」充全4-308。

17「学仏具眼抄」充全4-360、「庚戌雑答」充全4-37 

 

 

 

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