研究ノート

 

日蓮聖人の上行自覚

 

岡田 文弘

 

第1節、はじめに・・・今、「上行自覚」を見直す意義

 日蓮聖人は、自身を末法に遣わされた上行菩薩として自認し、その自覚のもとで不惜身命の弘法の生涯を送られた……所謂、宗祖の「上行自覚」は宗義の根幹として、我々日蓮門下にとっての常識となっている。

 その上行自覚について、なぜ今改めてこのように研究ノートをしたたある必要があるのか、なぜわざわざ常識を見直す必要かあるのか……そのような疑問を持たれる向きもあろうが、今だからこそ上行自覚を見直すべきである、と筆者は考えている。

 現在、日蓮宗は宗祖御降誕800年を迎えるにあたり、一丸となっての活動が行われている。その大前提となる宗祖降誕の意義づけについて、関戸尭海氏は第31回勧学院研修会議において以下のような談話を発表した。

「日蓮聖人を上行菩薩の再誕として考えるとき、それがいつからかということが問題となってきます。降誕800年を目前にして、この重要な問題について考えるとき、ご降誕そのときが、上行菩薩としての再誕であったのではないかと提言したいと思います」(「ご降誕そのときが、上行菩薩としての再誕」『日蓮宗新聞』2019年3月10日付)

 前述のように、日蓮の上行自覚は宗義の根幹であるが、降誕800年の節目を迎えるにあたり、その意義が再び注目を集めていると言えよう。

 更に言えば、ここ10年来、上行自覚を巡って多くの考究や新発見がなされて来ている。後述するが、論争に発展した間宮啓壬氏の問題提起や、都守基一氏による真蹟断簡の解読などである。このような議論の高まりを見るにつけ、上行自覚を改あて考究すべき時機が到来したと、筆者は確信を深めた次第である。

 そこで本ノートでは、日蓮の上行自覚について、まず古来の論を確認し(第2節)、続いて近年の論とその諸相を概観し(第3節)以上を踏まえた結論を提示する(第4節)ことを試みる(1)

 

 

第2節、上行自覚をめぐる古来の論

 日蓮を上行菩薩とする観点は、そもそも日蓮自身によって広められたものであるが、それが周知徹底されていった背景においては、日興門流の存在が看過できない。

 日興門流は、日蓮滅後の約半世紀のうちに、早くも日蓮の伝記を作成している(『御伝土代』『法華本門宗要鈔』)が、そこではすでに日蓮を上行菩薩の再誕とする意義づけが強調されている。最古の日蓮伝とも目される『御伝土代』は「日蓮聖人は本地是れ地涌千界上行菩薩の後身なり」(富士1頁)との文から書き始あられている。また『法華本門宗要鈔』では、龍口における「ひかりもの」の奇跡を、首の座についた日蓮が「自身の前世は上行菩薩である」と宣言したことに応じて起きたものとして記述している(「日蓮頚の座に臨む時は南方の江の島に向て曰く、……日蓮正法の行者として耆闍堀山の筵に列なって、霊山浄土の聴衆為り。多宝塔中大牟尼尊の直説に於いて上行菩薩為りしの時……」定遺216頁)。こうして、「日蓮伝を彩る様々なできごとの中でも最大の奇蹟であり、日蓮神話の中でももっともドラマチックな一場面(2)」とされる龍口の奇跡と、上行自覚とを結びつけた挿話が作られていたことは注目すべきと言えよう。

 このように日興門流は「日蓮=上行」観に基づき、日蓮を神格化する伝記を一早く作成した・・・つまり、「日蓮=上行」観を早い段階から重視していたことが分かる(3)。このことと、日蓮の手による文献の中でも特に上行自覚を強く明言した例外的な文献(4)である「万年救護本尊」と『頼基陳状』(再治本)が、いずれも日興門流に伝えられている事実とには、何らかの関連が想定されよう。万年救護本尊は、この本尊を広める者(実質的には日蓮)が上行菩薩であるとの讃文(「上行菩薩出現於世、始弘宣之」)が付され、日蓮自身による上行自覚の表明として知られているが、興門流の所伝である(現在は保田妙本寺蔵)。また『頼基陳状』は2種の写本が伝わるが、そのうち日興書写の本(通称「再治本」にのみ、2箇所に渡る上行自覚表明の文が見られる(「日蓮聖人は御経にとかれてましますが如くば、久成如来の御使、上行菩薩の垂迹」定遺1352頁、「日蓮聖人御房三界主・一切衆生の父母・釈迦如来の御使上行菩薩にて御坐候ける事」定遺1358頁、傍線部筆者)。

 このように日興門流においては、「日蓮=上行」観が早い段階から、そして強く打ち出されているが、これと対照的な態度をとったのが日昭門流である。

 日昭門流は『三大秘法抄』(『三大秘法票承事』)の真偽問題を論ずる中で、同書の文「此三大秘法は二千余年の当初、地涌千界の上首(筆者注:上行菩薩)として、日蓮慥に自教主大覚世尊口決相承せし也」(定遺1865頁)について、「上行自覚を明言する例は他の代表的遺文に無く、不審」として同書の偽書説を主張したと伝えられている。

「日昭門流には此書を偽抄と申也。其故は三大部五大部並に観心本尊抄等に全く日蓮上行菩薩の再誕也とついさして御遊したる御書は無御座。而るに限此抄ついさして其趣を被道。知ぬ、偽抄也」(本成日実『当家宗旨名目』1461年成立、川上・都守【2013】36頁下)

 ここでの上行自覚についての議論はあくまで副次的なもの(5)ではあるにせよ、極めて文献学的で重要である。

 この日昭門流の事例から、日蓮の上行自覚をどう捉えるかについては、実は門下の間においても決して一枚岩で片付く問題ではなかったことが窺えよう。とは言えその後、日蓮の上行自覚は宗義の根幹・大前提として広く認あられるようになったのである。

 

 

第3節、近年の議論を巡って

(1) 間宮啓壬氏の問題提起一 「本体的自覚」と「行為的自覚」

 日蓮の上行自覚について、改めて抜本的な議論がなされるようになったのは近年である。それは間宮啓壬氏の問題提起によって始まり(間宮【2008】)、これに山上弘道氏が応じ(山上【2009】)、以下、両氏の論文によるやりとり(間宮【2013】→山上【2014】→間宮【2019】)を中心として上行自覚をめぐる議論が活発化した。

 ここで、発端となった間宮【2008】(および、その追補である間宮【2013】)における論を以下に紹介しておく。

「特に宗門にあっては、日蓮=「地涌・上行菩薩」という等式は、一種の「公理」ともいうべきテーゼであって、そのことに疑念が挟まれることはまずなかった、といってよい。宗門ばかりではない。宗外の研究者にあっても、このテーゼを基本的には受け入れているとみてよい場合が往々にして見受けられる。しかし、日蓮遺文に直接当たってみると、ことはそれほど単純ではない・・・文献学的に信頼し得る遺文によるならば、日蓮がみずからの自覚に即して「一人称」の形で公言した自己の位置づけは、「地涌・上行菩薩」に先立つ者、あるいは、その庇護をこうむる者に止まる、といわねばなるまい」(間宮【2008】 177頁下、180頁上)

 実は、日蓮が信頼性の高い遺文の中で上行菩薩(の再誕)を自称している例は、ほぼ見られないのだ。これは先述した日昭門流による『三大秘法抄』偽書説においても既に指摘されている。また宗門刊行の『日蓮聖人遺文辞典 教学編』(身延山久遠寺、2003)においても「自らを上行菩薩の再誕に擬する直接的表現は真蹟遺文には見えない」(628頁d)と認められている。

 それでは実際のところは、日蓮はどのように上行菩薩について書いているのだろうか。間宮【2008】(178下)を参考にしつつ、信頼性の高い遺文における「上行自覚」の例を確認してみよう。

@ 「日蓮上行菩薩にはあらねども」(『新尼御前御返事』定遺868頁)

A 「予、地涌の一分にあらざれども」(『曽谷入道殿許御書』定遺910頁)

B 「上行菩薩の御かびをかほりて」「上行菩薩のかびをかほりて」(『高橋入道殿御返事』定遺1085・1086頁)

C 「経には上行・無辺行等こそ出でてひろあさせ給べしと見へて候へども、いまだ見へさせ給はず。日蓮は其人には候はねどもほぼこころえて候へば、地涌の菩薩の出させ給までの口ずさみに、あらあら申て況滅度後のほこさきに当候也。」(『本尊問答鈔』定遺1586頁)

 @、Aは、「日蓮は上行菩薩(地涌菩薩)ではない」と明確に否定している。Bは、上行菩薩は日蓮の「守護者」である(=日蓮自身ではない)と述べている。Cにおいては、自身は上行菩薩ではなく、その前座に過ぎないとしている。

 このように見てみると、「上行自覚」というよりもむしろ「非・上行自覚」とでも言うべき文言が並んでいるのである。こうした否定は単なる「謙遜」であると解釈するのが通例になっているが、やはり問題があるように見受けられる。

 例外的に、前掲の通り『頼基陳状』再治本(日興書写なので真蹟に準ずる)では上行自覚が二度にわたって明言されている(該当箇所は前節の引用参照)ものの、同書は弟子(四条金吾)の名義での代筆という、やや特殊な性質を持つ文書である。つまり日蓮の自称ではなく、あくまで弟子(四条金吾)の日蓮観とも取れるのであり、一筋縄ではいかない(6)(しかも当該箇所の一文目「日蓮聖人は御経にとかれてましますが如くば、久成如来の御使、上行菩薩の垂迹」は、忍性に対する「極楽寺の長老は世尊の出世」という過大評価への、あたかも「当てつけ」「丁々発止の、売り言葉に買い言葉」のように示されている)。

 こうした特殊例の『頼基陳状』一本をもって、主要著作を含む殆どの(確実な)遺文がおしなべて「日蓮=上行」を否定している事実を覆せるのかというと、疑問が残ろう。

 この問題を真正面から問い直したのが、間宮【2008】による問題提起だったのだが、ここでこの議論を見ていく上では注意すべき点がある。それは、間宮氏は「日蓮は上行自覚を明言していない(=否定している)ので、日蓮には上行自覚など無かった」と主張しているわけではない、ということである。

 「私、間宮にとって、日蓮に地涌・上行自覚があったということは大前提である。・・・自覚があることは前提の上で、いわばその「内実」を問うているのである」(間宮【2013】248頁上)

 では、上行自覚の「内実」とは何であろうか。間宮氏は日蓮の上行自覚については二つの解釈が可能であるとする。

 まず、日蓮が「自分は上行菩薩(の再誕)である」と自覚していたことを「上行自覚」と称する解釈。これを間宮氏は「本体的自覚」と呼称する。これが広く考えられている日蓮の上行自覚であり、氏が疑念を呈したところである。

 いま一つは、日蓮が「自分は上行菩薩の任務を行なっている」と自覚していたことをもって「上行自覚」と称する解釈。こちらが、間宮氏が妥当とするところで、「行為的自覚」と呼称する。そして付言すれば、このように日蓮の上行自覚を「行為的自覚」として捉える視座は決して突飛なものではなく、正統的大崎教学において度々示唆されてきたものである。

 「聖人御自身上行としての条件が具備せられてゐるにもかかはらず、上行自覚を表現せられるにあたっては、凡身日蓮と切離したる天啓的霊格的な上行に託することなく、あくまで懺悔滅罪の宗教的生活の中に霊格的上行を発見せられ、凡身としての日蓮に即したる「末法の法華経の行者」てふ自称に託して表現せられてゐる」(執行【2006】340頁、。なお同論考は間宮【2008】等の重要な前提となっている

 「概観してみると、上行自覚についての決定的な意思表明の文章は見当たらないけれども、上行菩薩の行儀と自己の弘教とを重ね合わせ、自身を上行菩薩になぞらえていると思われる部分が、かなりあることがわかる。その表出は、文永10年(1273)の『観心本尊抄』あたりから始まり、文永11年(1274)の『法華取要抄』でほぼ確定的な表明にいたったものと思われる。その後も、上行菩薩について言及を続けるなかで、時には相対化した表現を通して、自身と上行菩薩との一体化を、法華経実践の中に確立していこうとされていたように思われる。」(庵谷【1997】64−65頁、)

 間宮氏の所論は、こうした正統の大崎教学における上行自覚解釈を踏まえ、それを「行為的自覚」として明確化(と同時に、通念・大前提として共有されていた、日蓮と上行菩薩を即座に同一と見なす上行自覚解釈も「本体的自覚」として明確化)したものと言えよう。

 

(2) 獅子吼会所蔵真蹟断簡の解読を巡って

 前述の間宮【2008】が掲載された『日蓮仏教研究』第2号には、上行自覚をめぐるもう一つの極めて重要な論考が奇しくも同時掲載されている。それが都守【2008】である。

 同稿は、『日蓮宗新聞』(2007年8月20日付)の紙上で公開された、獅子吼会所蔵の真蹟断簡を判読し、これにコメントを付したものである。都守氏によれば、同断簡は以下のように記されている。

  「日秀日弁させる僧にはあらねとん(も)、浄行一分也」

 日秀・日弁とは、日興の弟子の僧侶で、熱原法難の農民たちの指導者として知られている。熱原法難とは、弘安2年、駿河富士郡において、日秀・日弁に教化された晨民たちが、在地有力者および天台宗の弾圧を受けた事件である。農民たちは田畑荒らしの嫌疑をかけられ、捕縛された。これを裁いたのが、日蓮にも弾圧を加えていた平頼綱であった。頼綱は晨民たちに法華の棄教・浄土教への改宗を迫り、念仏を唱えることを強要した。しかし晨民たちはこれに屈せず、題目を唱えることをもって答えた。三人が斬首、他の者は投獄された。

 この熱原法難について、日蓮がその農民たちを『変毒為薬御書』で讃えていることは周知の通りである(7)。更に本断簡では農民たちを教化した日秀・日弁を、地涌菩薩たちを率いた浄(=上)行菩薩に擬え、「日秀・日弁はとりたてて優れた僧侶ではないけれども、立派な上行菩薩の一部分だ」と讃えたものである(「浄行」表記については後述)。

 この断簡について、都守氏は以下のようにコメントしている。

 「「浄行」は「上行」で、本化地涌の上首である上行菩薩のことです(「上行」と書くべきところを「浄行」と通音で書かれた例は『撰時抄』に三箇所あります)・・・日蓮聖人は熱原法難の当事者となった弟子の日秀と日弁を・・・「浄(上)行一分なり」と称えていたのでした。これにより聖人はご自分では謙遜してか、はっきりとはおっしゃらないものの、明らかな上行自覚を懐いておられ、日興などの高弟や、その弟子たちをも上行の一分とみておられたことが明らかになりました。」(都守【2008】268頁b−c)

 自己の上行自覚についてすら明言を避けていた日蓮が、かえって弟子を上行と呼んでいることは一見意外に見えるが、これは実は決して例外的なものではない。真蹟の断片が現存する『四條金吾殿御返事』において日蓮は、高弟の四条金吾の身に上行菩薩が宿ったと述べている(「日蓮が道をたすけんと、上行菩薩貴辺の御身に人かはらせ給へるか。」定遺1362頁)(8)

 今日の日蓮門下である我々は上行菩薩を、日蓮の前身(=唯一、日蓮だけが擬えの対象として許されている存在)=崇拝対象、と見なしがちだが、このように獅子吼会所蔵断簡や『四条金吾殿御返事』等を見ていくと、実は日蓮は上行自覚を独占しておらず、彼にとって上行菩薩とは「不惜身命に『法華経』を信仰した者の称号」であり、自分含め門下全員が目指すべきロール・モデルであった可能性がある。これは門下として是非とも注意しておきたい点であろう。

 なお、ここで獅子吼会所蔵断簡における「浄行」の表記についても付言しておく。「浄行」と表記されていると、四大菩薩(上行・無辺行・浄行・安立行)の三番手「浄行菩薩」を想起してしまうが、日蓮は明らかに上行を指す文脈の場合にも「浄行」と表記した例がある。それが、都守【2008】前掲引用箇所でも指摘されている『撰時抄』の三箇所(なお、これが同抄において上行(浄行)に言及する全箇所)となっている。

 上行=浄行の表記が見られる本断簡と『撰時抄』は両者とも、日蓮としては例外的に強く上行自覚を示唆している文書である。そのたあ、せめて「浄行」と表記することで、婉曲的な効果を狙ったものと推察される(10)

 ここでもう一点着目しておくべきは、『延山録外本』所収の『撰時抄』草稿に、「地涌の上首口上浄菩薩」(寺尾【1997】292頁、傍線部筆者)という一文が見られることである。「上浄菩薩」はおそらく「上行菩薩」と「浄行菩薩」に基づいており(11)、それらの並列と目される。ここに、ひと思いに「上行」と言い切ってしまうべきか、あるいは音が同じ「浄行」と婉曲してみようかという、日蓮の逡巡が伝わってくるかのようである。結局、日蓮は決定稿(つまり今日我々が目にしている『撰時抄』)では、この箇所を上行とも浄行とも書かず「地涌の大菩薩」(定遺1007頁)としており、その後に続く上行菩薩への言及箇所は悉く「浄行」で統一している。これが「上行」を「浄行」と表記するに至った過程である(12)

 

(3) 上行菩薩は日蓮本人か、その守護者か?

 更にここで、日蓮の上行自覚をあぐり、看過されがちな問題をもう一点確認しておきたい。そもそも日蓮にとって上行(地涌)菩薩の位置付けは、次の二種類あるという事実である。

 (1)自身を擬える対象

 (2)自身を守護する尊格

 (a)の位置付けが所謂「上行自覚」であり、専ら注目されている。その一方で(2)の位置付けは、日蓮=上行が定説となっている今となっては(a)の影に隠れて見過ごされがちに見受けられる。しかし前掲の間宮【2008】も示唆していたように(13)、日蓮遺文において多く、そして「明確に」見られるのは(a)よりもむしろ(b)なのである。例えば主著『観心本尊抄』の結論部では上行(をはじあとする四大)菩薩は題目受持者の守護者として説示される(14)。同書を踏まえての実践について詳説した『顕仏未来記』では、本尊・題目の布教は(上行をはじあとする)地涌菩薩の守護を得ることで行われるとする(15)。そして身延期の『高橋入道殿御返事』では、自身の布教が上行菩薩の加護を被ってのものであることが二度にもわたって繰り返し強調される(16)・・・といった具合である。

 (a)と(b)には、上行を自分にとって「主体」とみなすか「客体」とみなすかの別があり、これらが並存しているのは一見すると矛盾である。この問題については、桑名【2015】が優れた論考を行なっており(前述の「主体」「客体」という表現も、同論文による、詳細はそちらを参照して頂くとして、ここではその検討の一つを以下に紹介しておく。

 取り上げるのは、先にも問題とした『撰時抄』である。前述の通り同書は上行菩薩について(a)の視座に立ち、その自覚を直裁的に表明している。例えば「後五百歳に一切の仏法の滅せん時、上行菩薩に妙法蓮華経の五字をもたしあて謗法一闡提の白癩病の輩の良薬とせんと、・・・闘静堅固の時、・・・仏の御使として南無妙法蓮華経と流布せんとする」(定遺1017頁)といった如くである。しかし、かかる『撰時抄』においても(b)の表明はなされており、同書の末尾は「霊山浄土教主釈尊・宝浄世界の多宝仏・十方分身諸仏・地涌千界の菩薩等、梵釈・日月・四天等、冥に加し顕に助給はずば、一時一日も安穏なるべしや。」(定遺1061頁)として、(上行含む)地涌菩薩を「守護者」として説示しているのである。この(a)(b)の並存について、桑名【2015】は以下のように述べている。

 「本抄では行者自覚の表明を通して自身の上行自覚が強く表明されるが、末文には上行自覚者日蓮に対して客体としての地涌菩薩があることが示される・・・地涌乃至上行菩薩の自覚者であっても客体としての地涌菩薩の守護を頂くことにより題目五字の弘通が叶うというのである。」124頁下−125頁上)

 この桑名氏の論をもって、本項(3)の小結としたい

 

 

第4節、結びに変えて・・我々は上行自覚をどう受け止めるべきか

 以上、上行自覚をあぐる諸問題と議論を概観してきた。それらを踏まえ、また御遺文を今一度中立的に読んで再考するならば、以下のような点を見るべきではなかろうか。

 これらの点から、「法華を行ずるものは上行に守護されながら、自らも上行のように振る舞うべし」と、日蓮は自身に、そして弟子にも課していたことが伺える。これが所謂「上行自覚」の実態ではなかろうか。

 このように宗祖日蓮が上行の加護を受けつつ上行として活動したことに倣って、我々門下も上行(としての宗祖)のご加護を受けつつ、我々自身も「上行として」活動することを目指すことが、あるべき姿なのではと筆者は考える(17)

 こうした考え方は、上行の称号を「あくまで宗祖に限られる」「神聖不可侵なる崇拝対象」と見なしてきた従来型の祖師信仰の立場からすると、あまりに傲慢不遜に思われるかもしれない。しかし、もし日蓮の遺した言葉を正確に把握し受け取ろうとする、すなわち真に祖願に叶おうとするならば、そのような気概を持たざるを得ない、是非とも持つべきではなかろうか。

 そして言うまでもなく、我々が「上行自覚」を持つ・それに近づく際には、宗祖日蓮自身が謙遜に謙遜を重ねた例に倣って、徹底した謙虚な心を持つことが必要となろう(18)

 

 

 【付記】間宮[2019]について

 本稿の基となった「日蓮聖人の上行自覚」(日蓮宗現代宗教研究所例会、日蓮宗宗務院、2019年6月10日)発表の後、間宮氏から最新論文の間宮【2019】をご教示頂いた。同論文は2008年以来10年以上に渡って続いてきた論争の集大成と言えるものであり、また新たに重要な問題提起をもなした、極めて重要な一編である。本来ならば同論文を踏まえた上で本稿を作すべきだったが、更に十分な考究を重ねた上で他日、改あて筆者なりの応答を発表したく考えている。そこで本稿ではひとまず、筆者が現時点で特に重要であると考えた次の一点について、「付記」という形で述べておきたい。

外在と内在について

 間宮【2019】はその結論部において、これまで上行自覚をめぐる議論を重ねてきたことで見えてきた新たな問題について、以下のように述べている。

「一言でいえば、内在と外在の整合性をめぐる問題である。みすがらの行ないにおいて働き出すことになる・・・内なる地涌・上行菩薩。そして・・・「御計ラヒ」「御かび(加被)」のもと導いてくれる、いわば外なる地涌・上行菩薩。日蓮にあって、この両者は整合するのか、しないのか。整合するとするならば、どのように整合するのか。整合しないとするならば、なぜ整合しないままでよいのか。こういった問題である。」

 間宮氏は「新たな問題」としてこれを指摘するが、実はこれが上行自覚をめぐる問題のすべての「根源」ではなかろうか。

 ここまで見てきた通り、信頼性のある遺文を見る限りでは日蓮は「整合していない」ことを仄めかすかに見える言説を繰り返しており、それについての弁明もしていない。しかし整合しないならば、以下のような問題がおこるかに見えるのである。

要するに、宗義が根底から崩れかねない大問題である。だからこそ、我々門下はさらなる考究を重ねる必要がある(21)

 

 

 

(テキスト)

大正新修大蔵経→大正

立正大学宗学研究所『昭和定本 日蓮聖人遺文』(身延山久遠寺、1952−1995→定遺

富士宗学要集 宗史部1』(雪山書房、1936→富士

 

 

(参考文献)

稲田 隆広【2013】「日蓮聖人の上行自覚にっいての先行研究」『本化仏教紀要』 1、173−195頁

庵谷 行亨【1997】「日蓮聖人の上行自覚にっいて」『大崎学報』 153、35−72頁

川上大隆・都守基一【2013】「本成房日実著『当家宗旨名目』の翻刻」『日蓮仏教研究』5、3−157頁

桑名法晃【2015】「日蓮における地涌菩薩 守護の問題を中心として」『印度學佛教學研究』64(1)123ー126頁
執行 海秀【2006】『御義口伝の研究』山熹房仏書林

菅原 関道【2014】「重須本門寺所蔵『頼基陳状』日澄本の日付等についてー間宮氏への回答」『日蓮仏教研究』6、169−177頁

末木文美士【2010】『増補 日蓮入門』ちくま学芸文庫

都守 基一【2008】「学室だより」『日蓮仏教研究』2、253−274頁

寺尾 英智【1997】『日蓮聖人真蹟の形態と伝来』雄山閣出版

前川 健一【2009】「『縮刷遺文』の本文整定について」『東洋哲学研究所紀要』25、23−39頁

間宮 啓壬【2008】「日蓮における地涌・上行自覚の再検討」『日蓮仏教研究』2、175−186頁

     【2013】「再度、日蓮の地涌・上行自覚を論ず 山上氏の批判をうけて」『日蓮仏教研究』5、247−276頁

                【2019】「日蓮における地涌・上行菩薩の自覚、再々論 菅原・山上両氏に応える」『日蓮仏教研究』 10、131−166頁

山上 弘道【2009】「宗祖の上行自覚にっいて 間宮氏の所見に対する批判」『日蓮仏教研究』3、141−159頁

                【2014】「間宮啓壬氏の論致一「再度、日蓮の地涌・上行自覚を論ず一山上氏の批判をうけて」への感想」『興風』26、183−196頁

立正大学日蓮教学研究所【2003】『日蓮聖人遺文辞典 教学篇』身延山久遠寺

 

 

  1. なお上行自覚をめぐる議論を俯瞰したものとしては、稲田【2013】がある。

  2. 末木【2010】65頁

  3. こうした早急な神格化が、後の大石寺における「日蓮本仏論」出現の遠因となったとも推断されよう。

  4. 「例外的な」の意昧については後述(なお間宮【2008】177頁下−179頁下もこれらを例外とする)。

  5. 主眼はあくまで『三大秘法抄』の真偽論(ひいては偽書としての判定)にある。叡山戒壇を踏む日昭門流としては、本門戒壇を詳述・称揚する『三大秘法抄』は不都合であるので、偽書と断じたかった(その根拠として、上行自覚表明の不審点を指摘した)という事情が推定される。

  6. この点をめぐる議論は、間宮氏・山上氏間の論争に詳しい。

  7. 「彼等蒙御勘気之時奉唱南無妙法蓮華経云云。偏非只事。」(定遺1683頁)

  8. 同断簡と同遺文の関連については、間宮【2013】270頁下、注31も指摘。

  9. これについては既に間宮【2013】も「「上行(浄行)の一分」としての行ないもまた、もとより日蓮一人に限定され
     る特権ではあり得ない。「師」として人々の先頭に立とうと志す者に、「上行(浄行)の一分」たることは、やはり開かれて
     いるのである。日蓮にとっては、その点、殊に出家の弟子に期待するところ大だったであろう」(266頁下−267頁上)
     と述べている(間宮【二〇一九】一五八頁下にも、同意の見解が示されている)。

  10. 「浄行」を「上行」の謙遜表現とする説は、山上【2009】153頁上・下に見られる。

  11. 前川【2009】28頁

  12. ただし、若き日の日蓮も書写した覚鑁『五輪九字明秘密釈』に、「見浄行菩薩従地涌出云云」(大正79、20下17、傍線部筆者)とあり、上行菩薩を浄行菩薩と表記した例があるとの重要な指摘もなされている(犀角独歩「犀の角のように独り歩あ」2014年9月13日「教学メモ22一浄行か・上行か」http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/52049102.html2019年11月28日閲覧)。

  13. 「日蓮がみずからの自覚に即して「一人称」の形で公言した自己の位置づけは、「地涌・上行菩薩」に先立つ者、あるいは、その庇護をこうむる者に止まる、といわねばなるまい」(間宮【2008】 180頁上)

  14. 「不識一念三千者、仏尨大慈悲、五字内裏此珠、令懸末代幼稚頚。四大菩薩守護此人」(定遺720頁)

  15. 「地涌千界等菩薩守護法華行者。此人得守護之力以本門本尊・妙法蓮華経五字令広宣流布於閻浮提歟。」(定遺740頁)

  16. 「上行菩薩の御かびをかほりて」(定遺1085頁)「上行菩薩のかびをかをほりて」(定遺1086頁)

  17. この筆者の結論は、間宮【2013】266頁下−267頁上(前掲引用箇所参照。および間宮【2019】158頁下)における「上行自覚は門下にも開かれている」との論と、概ね方向を同じくするものと考える。

  18. この認識は菅原【2014】の「私たちが守るべき伝燈は、真摯に凡夫としての罪を内省し、地涌菩薩の自覚をもって自分を律すること」(176頁下)との言と軌を一にするものである(当然、地涌と上行との間に差があるか否かの問題はあろうが)。

  19. ここで、この問題に関連すると考えられる菅原【2014】の「聖人の観心論から見れば、行者的自覚は自然な発露として本体的自覚に到るのではあるまいか」(173頁下)との論をあわせて再考すべきか。

  20. ただしこの点について間宮氏は既に「確かに、理論的には詰めるべき重要な問題であるように思われる。しかし、日蓮はそのことを詰めてはいない・・・日蓮自身、自分は地涌・上行菩薩ではないが、その加護を確かに受けているという確信があったこと、そしてそれ以上に、今、自分が先頭に立って地涌・上行菩薩の行ないを行なっており、それによって「地涌千界の一分」・「上行(浄行)の一分」たる者の輪を広げつつあるとの確かな手応えのあったことが、日蓮をそうした問題には向かわせなかったのであろう。なによりも重要なのは、そのような理論的問題の詰めに取り組むことではなく、あくまでも、地涌・上行菩薩の行ないをみずから行ない、人をしてより広く行なわしある実践だったのである」(間宮【2013】268頁上)との見解を発表している。この氏の見解には説得力があるし、恐らくはこれが正鵠を射た答えであろう。しかしそれでもなお、日蓮はあれほど「時」や「現証」を重んじたのであるから、最も重要事であろうこの問題に明確に答えなかったことには疑問が残るのである。

  21. この問題の根幹は山上【2009】および【2014】が既に仔細に指摘している点であり、筆者の見る限り、山上説の中で最も説得力を持つ部分である(「宗祖にとって、迹化の菩薩の化身たちが、妙法を知りながらも弘通しなかったのは、彼らに仏からの付属が無かったことが、決定的な理由としてあげられている・・・妙法弘通という「行為」は、仏よりその行為をすべく付属を受けていることが大前提であり、もし妙法乃至妙法曼荼羅を存知していたとしても、付属が無ければ弘通はなされない、という鉄則である。その鉄則を熟知主張していた宗祖が、もし仏から妙法弘通を委託された本化地涌・上行菩薩としての自覚なしに、その行為のみを行ったとすれば、それは明らかに自ら示した仏法上の鉄則を破るものといわざるをえない」山上【2014】187−188頁)。

そこで改あて、日蓮が繰り返している「自分は上行菩薩ではないにも関わらず、上行菩薩の助力によって妙法弘通をしている」を、どう捉えるべきだろうか。だからこの言は額面通りに受け取るのではなく、本体・行為が一致した上行自覚をその裏に読み取るべきとするのが山上説であり、一方、これに反論した間宮【2019】は、「地涌・上行菩薩の「御計ラヒ」「御かび(加備)」があればこそ・・・可能になる」(151頁上)としている。ただ、それがなぜ可能になるのかについては正直疑問が残るところであり、だからこそ間宮氏が同論文の末尾において言及した整合性の問題について、改めて考究が必要となるのである。

 

 

 

もどる