妙宗本尊弁考

 

――御本尊の意義を考える――

 

三原 正資(現代宗教研究所嘱託)

 

はじめに

優陀那和上の教学について茂田井教亨師は、「日輝の業績にのみ僅かに時代との接触とその反映がみられる」(『日蓮教学の根本問題』301頁)と指摘している。明らかなことは、時代思潮としての近代合理思想と仏教思想との対立の中で、和上は教学を形成してきたことである。六道輪廻と霊魂の問題に苦慮し、あるいは自然現象に妙法を見出だす和上の姿を見ることができる。

その中で成立した「三千但仏身。仏身但是自己全体」(『一念三千論』3ー94頁)という、いわゆる己心(己身)本尊論――それは伝統的な宗教性が稀薄になったと批判された――は現在どのような意味を持つのか、を考えたい。それはわたしたちが毎日のように読む『運想』の意味、ひいては勤行の意義を考えることでもある。

さらに現代においては、和上の生きた近代と異なり、従来の近代合理主義に対する反省が澎湃として起こっている。例えばユングから起こった心理学などは、それまでの学問の常識と領域をはるかに越えた試みであろう。その中では、これまで顧みられなかった宗教的経験の領域に対しても実に意欲的・肯定的な探求が始まっている。人々は人間存在の深い意味を求めているのである。わたしたちもまた、自らの宗教的世界−己心本尊論−の再発見を試みるときではないか。このような視点から『妙宗本尊弁』を考察する。

 

本書の概要と問題の所在

『妙宗本尊弁』(『充合園全集』第3編所収)は「妙宗ニ 二種ノ本尊有リ。一ハ謂ク釈迦仏、二ハ謂ク曼荼羅ナリ。二箇ノ本尊、同異弁ジガタキモノ有リ」(326頁)と述べて、まず本尊問題の根源を明らかにしている。次に本尊の人法問題について「然ニ曼荼羅ノ相タルヤ、中央ノ首題ヲ宗主トナシ、横ニ十界ヲ開列ス。良ニ法仏ヲ弁ジガタキニ似タリ」と述べて、大曼荼羅には中央の首題(法)と十界の諸尊(人)が並べて記載されていることが本尊混乱の原因であるとしている。そして『観心本尊抄』(以下『本尊抄』と略記)を引用して、「十界ノ本尊ハ即チ是レ寿量ノ教主無作三身ノ釈迦仏ナルモノ也」と述べて、法本尊のように見える大曼荼羅は実は釈迦仏の姿に他ならない、と断案を下すのである。このように本書は、宗祖の『本尊抄』によってまず結論を述べ、ついで論証へと進んでいく。和上は偽撰の疑いのある遺文を多用しているが、このように『本尊抄』はその教学の最大の拠り所であった。

次に法仏両本尊論の可否を十点にわたって論じるが、力を入れているのは第一の経証である。和上は曼荼羅が人本尊であることを論証するために、寿量品・法師品・神力品の文を挙げる。これを見ると、不思議にも近代の法華経成立論の引用と一致している。本尊論は古くて新しい問題である。むしろ法華経は「本尊とは何か」をテーマに成立したと見てよいのではないか。

<寿量品> 衆見我滅度広供養舎利……時我及衆僧倶出霊鷲山

<法師品> 若経巻所住之処皆応起七宝塔……不須復安舎利所以者何此中為有如来全身

<神力品> 若経巻所住之処……是中皆応起塔供養所以者何当知是処即是道場

和上はこれら「三処ノ経文、意異ナリ有リトイヘドモ、而シテ同ジク法身ヲモッテ本尊ト為ス也」(327頁)と会通している。しかし法身仏本尊は、どうしても法(真理)本尊論に見られやすい。そこで後に『妙宗本尊略弁』(3ー337頁)では、本宗の人々が大曼荼羅の中央に題目があるのを見て法本尊とすることは誤りである、これは「直チニ久遠ノ仏体ヲ題目ヲ以テ顕シ」たものと見なければならない、「法ガ即仏也ト云義ニハ非ズ」と念を押している。更に以下9点は、宗祖の教学全般を顧みて仏本尊の正統性を論じたものである。このように論述の根拠を御遺文に確かめると共に、常にそこから法華経の本文を確認していくのが和上の論証方法である。

それから本尊の「尅体」(本質)を述べる段に入る。これが本書の大部分を占める所で、和上は5章に分けて本尊の名字・本体・相貌を説明している。

初めに本尊の「名字」とは、『三大秘法抄』を引用して「無作三身ノ教主釈尊」であると言う。応身仏の名号を本尊の名字に使用する理由について、第一に釈迦仏は「衆機咸見之境体」(329頁)、すなわちこの世界の人々が実際に説法を聞き帰依したのは釈迦仏以外にいないから、とまことに合理的明解に述べている。第二に、神力品の「十神力」の第六普見大会・第七空中唱声・第八咸皆帰命の文は大曼荼羅の姿であり、そこで人々が釈迦仏に帰依していることを指摘し、「十界ノ本尊ハ是レ所顕ノ仏体也。釈迦牟尼ハ是レ帰依ノ名字也」(329頁)と述べている。

2に本尊の「本体」とは「本覚無作三身」であると述べ、ここでその仏とその所住する浄土の姿を叙述し、さらに「十法界ハ皆ナ本仏一念ノ同体」(332頁)であり、これが大曼荼羅本尊の本体であると述べている。この甚だ難解な仏身論仏土論(世界観、あるいは他界観か)こそ、近代合理思想の中に生きるわたしたちからすっぽりと抜け落ちている部分である。わたしたちは科学的世界観を自明のものとして受け取り、それ以外のことを考えようともしない。それに対して前世紀から今世紀にかけて盛んになったユング心理学の流れ、スピリチュアリズム、ニューエイジ・サイエンス、そして現在盛んな臨死体験の研究や新新宗教の世界観は、これをカバーしようとしているかにみえる。日蓮聖人の世界観こそ、考えなければならない今後の課題であろう。

さらに「在世ノ当機ハ寿量ノ説相ニ依テ教主ノ実身ヲ見、及ビ自心ノ実相ヲ証ス。滅後ノ有縁ハ曼荼羅ノ図像ニ依テ本師ノ本形ヲ拝シ、及ビ己心ノ妙法ヲ知也」(340頁)という一節は、短い文章ながら和上の本尊観をよく物語るものである。この「自心ノ実相」「己心ノ妙法」「十法界ハ皆ナ本仏一念ノ同体」という己心本尊論を、わたしたちは今日の視点から改めて照射したらどうだろうか。このような心のとらえかたは現代のユングの心理学、さらにニューサイエンスの世界観と共通しているのではないかと、わたしは興味をいだいている。宗祖のオリジナルな教学との関係を考慮しながら、思想の世界的な潮流の中で教学を再認識する姿勢が必要ではなかろうか。

、4、5は「本尊ノ相貌」、すなわち各界の諸尊列衆などについて述べている。

和上は大曼荼羅という本尊形式はあらゆる点から見て勝れたものと考え、これを「奇ナルカナ巧方便」(343頁)と称えている。しかし当時の木像の勧請様式の実態、すなわち祖像や諸神の勧請については痛烈な批判を加えている。わたしたちの学ぶべきところであろう。この外、二仏並座について「釈尊ハ首題ノ左ニ在リ、即チ是レ塔中ノ右辺北座ニシテ西向也。前面ヨリ之ヲ拝スレバ則チ宝塔東ニ在也……多宝ハ右ニ在リ、即チ是レ塔中ノ左辺南座也」(351頁)と『報恩抄』(定遺1219頁)・『千日尼御返事』(定遺1761頁)の説示に従いつつも、釈迦・多宝を智・惠、境・定に配当して、「当ニ釈迦ハ南ニ在リ多宝ハ北ニ在ルベキ也」とコメントしている点に当時の学問の傾向がうかがえる。また四菩薩については、近年茂田井先生より「一塔両尊に対して四士以下が対面恭敬しておられるのではなく、すべて拝者の方を向いておられるのである」(『御本尊奉安の様式』 日蓮宗新聞昭和62・3・1号)との説が出たが、和上は「二尊ニ対向スル」(351頁)ものとしている。

総じて、和上は「虚空会上本門八品ノ儀式」(352頁)である本尊の相貌を「二十相」で説明している。そしてこれを要約して、わたしたちは大曼荼羅本尊によって「題目ノ玄旨」「諸法実相一部ノ所詮」「因人ノ心体」「果仏ノ身相」「即身是仏ノ理」を知ることができる(367頁)と言い、あるいは「題目ヲ以テ念仏ヲ会シ、本尊ヲ以テ見性ヲ会シ、戒壇ヲ以テ小律ヲ会シ、三秘ヲ以テ三密ヲ会ス、四宗冥ニ会ス」(372頁)と述べている。

このようにわたしたちは『本尊弁』の叙述によって、大曼荼羅は「巧方便」−すばらしい表現手段・宗教装置−であると認識できる。しかし大曼荼羅が多くの意義を保持しているために(まさにそれが曼荼羅である所以であるが)、本宗では「教門一ナラズ……教ニ因テ、シバシバ惑フ」(『綱要正議』3ー246頁)、と慨嘆される事態が生じてくることも事実である。すなわち一部を見て全体を見ないとき、種々の議論が続出して、わたしたちは本尊についての共通認識を持てない状態にいたるのである。和上が『本尊弁』冒頭において敢えて単刀直入に、「十界ノ本尊ハ……釈迦仏」と断定した理由はここにあるとも言えよう。しかし、まさに大曼荼羅がカオスを統一秩序づけたコスモスであるからこそ、わたしたちはそこから勝れた思想を取り出すことが出来るのである。

 

虚空会と大曼荼羅本尊

このように、大曼荼羅は種々の重要な教えを包含した見事な表現手段である。

さて宗祖は、「此の御本尊は……宝塔品より事おこりて、寿量品に説き顕し、神力品属累に事極て候」(定遺867頁)「宝塔品より属累品にいたるまでの十二品は殊に重が中の重きなり」(定遺1404頁)と述べている。すなわち大曼荼羅は法華経虚空会の図像化であり、宗祖が把握し仰がれた「法華経」である。その「法華経」は理論や教説としてではなく、虚空会のドラマとして展開されたものである。もとより「題目」は教説を表わしているが、そのために宗祖は法華経の教えを「題目」として象徴的に把握し、あるいは大曼荼羅という図像で表現されたのであろう。法華経を「題目」として把らえたのは、よく言われるように単に法華経を易行化することが目的ではなく、そうする以外に表現できなかったことが第一の理由ではあるまいか(しかし結果的には、大曼荼羅を安置し題目を唱えれば、本質的には仏像はもとより法華経八巻を、礼拝対象として置き、あるいは読誦する必要がなくなり、易行化を促進させた)。

これについては『SF妙法蓮華経』(講談社刊文庫版『未来妙法蓮華経』)の著者石川英輔氏が法華経を書くという自分の経験から、「法華経にはほめ言葉はあるが中味がないという昔からの批判は的はずれである。妙法とか実相という言葉で説明できないものを、比喩やドラマ全体でわたしたちに語っているのです」(平成4年度現宗研主催教化学研究集会)と述べたことが、わたしには大きなヒントになった。

ゆえに、そこに繰り広げられるドラマ全体が教えそのものである。宗祖はそれを「題目」として把え大曼荼羅として表現し、題目が「法華経」であることを証明されたのである、とわたしは推測する。文にあらず、義にあらず、一部の意なりとは、まさにこの意味であろう。

大曼荼羅と法華経を比較してみよう。それはどのような関係にあるのだろうか。

<法師品>はドラマの序幕である。「若経巻所住之処……」という本書前掲の和上引用の部分は、宝塔品の釈尊の唱募を予想すると共に、神力品と相応している。冒頭の「一偈一句」「一念随喜」という衝撃的な考え方は「題目」を予想するものであり、これから展開される教え−わずかでも題目を信解することによって即身成仏する−が常識を越えたものであることを示している。

<宝塔品>では、多宝如来の七宝妙塔が涌出して四天王宮の高さに上昇し、空中に浮かぶ。次いで釈迦仏がその塔の中に入り大音声で妙法蓮華経の付属を唱募するという光景がドラマチックに展開する。大曼荼羅中央の七字の題目と四隅の四天王は、明らかにこの光景を反映している。

<涌出品>では、地涌の菩薩が「各、虚空ノ七宝妙塔ノ多宝如来・釈迦牟尼仏ノ所ニ詣ズ」るが、この二尊の順序は興味深い。ちなみに開迹顕本した後の神力品では、「及見釈迦牟尼仏 共多宝如来 在宝塔中」となっている。厳密な法華経の構成である。

<寿量品> 和上は久遠本仏を題目によって表す理由を、「久遠ノ仏ハ或説己身或説佗身ト説給テ、其形相モ定マラズ。名字不同年紀大小ト説給ヒテ其名號モ定マラズ」(『略弁』378頁)と述べている。いわゆる光明点の題目は、七宝妙塔の中の釈迦仏が寿量品を説いて、自身が十界にわたって活動してやむことのない本仏であることを示し、それが四天王の中央に位置することによって、梵天王に代わる娑婆世界の主であることを象徴している。また和上は宝塔品の分身来集、地涌菩薩の出現、この寿量品の六或示現は、法界が釈迦一仏の色心であることを表現したものと述べている(『一念三千論』3ー33頁)。そうすると中央の題目は、その光明点によって、法界全体が久遠の釈迦仏であり、それに覆われたわたしたちもまた本来は一体のものであることを示していると見られる。ここから己心本尊論が生まれる。

<神力品> 和上は「普見大会」は大曼荼羅の姿である(341頁)と述べているが、同時にわたしは、釈迦仏が付属し、上行等の菩薩が受持し流布していくことを誓った四句の要法のイメージが中央の題目に色濃く反映していると思う。

このように見てくると、大曼荼羅、殊に中央の題目には虚空会というドラマの中の重要な出来事のイメージが全て投影されていると言えないであろうか。「一偈一句」「七宝妙塔」「釈迦仏の唱募の姿」「開迹顕本した釈迦仏の姿」「受持し弘めるべき四句要法」などである。それは仏であり、法であり、いろいろなイメージである。あるいは逆にそこからは、三秘の題目、本尊、戒壇のイメージが現れてくる。

大曼荼羅はまさに「巧方便」(342頁)である。そこには虚空会で展開する複雑なドラマと思想が凝縮している。大曼荼羅は宗祖の仰がれた「法華経」そのものである。結局大曼荼羅は種々の教えを内包していることから、どこまでも全体的に大曼荼羅の意義を信解することを、わたしたちは要求されているのではなかろうか。さらに大事なことは、わたしたちが虚空会という豊かな世界の中へ分け入って、危機にみちた現代社会に何を持ち帰ることができるかということである。今問われているのはその事である。

 

現代社会の理想としての大曼荼羅

解剖学者養老孟司の「現代とは、要するに脳の時代である。情報化社会とはすなわち、社会がほとんど脳そのものになったことを意味している……われわれの遠い祖先は、自然の洞窟に住んでいた。まさしく『自然の中に』住んでいたわけだが、現代人はいわば脳の中に住む。伝統や文化、社会制度、言語もまた、脳の産物である。したがって、われわれはハード面でもソフト面でも、もはや脳の中にほとんど閉じこめられたと言っていい」(『唯脳論』青土社刊)という言葉は、わたしにとっては行き詰まった現代の状況を象徴しているとしか思えない。このことは、「脳死が人の死となる」という状況となって、わたしたちを取り巻いている。

わたしたちの生きる20世紀は、その初頭で「神」が死に、最後には「科学的進歩」という信念も動揺している。「唯心論」「唯物論」に代わる「唯脳論」という言葉の出現に、わたしたちはどのような希望を見出だせようか。このような状況の中では、わたしたちは安易に「心の時代」「宗教の時代」とはしゃぐ現象を反省しなければなるまい。そして例えば、宗教学者島田裕巳の『仏教は何をしてくれるのか』『信じやすい心』など相次ぐ一連の著作の中であばかれていく新旧教団の実態を厳粛に受け止めていく必要に迫られている。

このような事態は現代の危機的状況がより深刻なものであることを物語っている。全地球的規模での精神的・物質的危機が進行していくなかで、わたしたちはそれを変革していく理想を果たして持ち得るであろうか。そもそも理想などと言うものがあるのか。宝塔品における釈尊の唱募は、まさにそのようなわたしたちに向けられているかのようである。

大曼荼羅は、「題目ノ玄旨」「諸法実相一部ノ所詮」「因人ノ心体」「果仏ノ身相」「即身是仏ノ理」であると和上は指摘した。そこでは因果ということが言われている。「果」、すなわちわたしたちには到達すべき究極の理想があるということ、そして仏の教えによってわたしたちは即座にその理想に到達できるということを重要なメッセージとして受け止めたい。

そのメッセージは、人間はその根底に尊厳性を有し、その尊厳性へと到達する過程にある存在であり、たとえ現実に悪が満ちていようともこの世界は浄土である、ということをわたしたちに示している。そしてわたしたちは三業にお題目を受持して仏智を頂き、自身のものの見方を根底から変えなければならない、と告げている。だが、いかに本尊の教えることがすばらしいものであろうと、それだけでは「昔日マデ凡夫ト謂ヒシヲ今日ヨリ仏陀ト謂フノミニシテ増進ノ益ナシ」(4−364頁)と批判されるだけであろう。実際にわたしたち自身が変わることは簡単なことではなく、その上わたしたちは自分が変わるべく修行に勤めているとは言い難いのではなかろうか。意業正意の唱題を主張し、聞法・思惟・実践を重んじた和上の意図もここに在ったと思われる。

今日、多くの人々はその心の奥底で、わたしたち自身の心がその根底から変わらなければ、この世界の危機は根本的に何一つ変わらないと感じているのではなかろうか。このような動きは決して日本だけではなく、1960年代にアメリカ・ヨーロッパで起こった禅ブームを発端とするニューエイジの精神運動と、その根底ではつながっていることを見落としてはならない。

このような時代にあって、わたしたちは大曼荼羅として表された法華経の教え、その具体的活動としての「立正安国論」の精神――「汝早ク信仰ノ寸心ヲ改メテ速カニ実乗ノ一善ニ帰セヨ。然レバ則チ三界ハ皆仏国ナリ」――を社会に提唱していかなければならない。だがその場合、わたしたちはつぎのような歴史的反省を忘れてはならない。それは宗祖が幕府諌暁という方法を取られたため、それ以後の宗門においては政治的社会的行動が重視され、政治的運動に終始して精神運動にならなかった嫌いがありはしないか。和上の「立正安国論ハ当時既ニ其ノ用ヲ不為。况ヤ今世ニ至テ全ク其ノ立論ノ無実ヲ見ル」(『庚戌雑答』4−372頁)という発言は、はからずもそのことを物語ったのではなかろうか。このように「立正安国論」の宗教的論理構造は、これまで正当に注意が払われたとは思えない。わたしたちは広い学問的基盤と宗教的実践に立って、自らの「心」の在り方と「世界」との関わり方の探求に努力すべきだと思う。大曼荼羅本尊はまさにそのような世界を示したものである、と『妙宗本尊弁』は語っている。

 ※本稿は平成4年11月16日、立正大学において開催された第45回日蓮宗教学研究発表大会において発表したものである。

 

 

 


 

《研究ノート》

妙宗本尊辨考(2)

 

−大曼荼羅御本尊をめぐる諸問題−

 

三原 正資 (現代宗教研究所嘱託)

 

はじめに 御本尊をめぐる諸問題の現状

現在、教研会議や研修会で、御本尊についての論議が続いている。そしてそこに浮かび上がってくる問題を整理すると、私見では大体3点に集約されると思われる。

第1に、本尊の勧請様式の現状が実にまちまちである。

第2に、本尊の実体に対する認識が明らかでない。

第3に、本尊の授与に関して問題がある。

この3つの問題について考えるために、先ずここで『宗義大綱読本』等によって本宗の本尊観を確認しておくと、本宗の本尊の実体は「久遠実成本師釈迦牟尼仏」である。その表現様式として聖人御自身用いられたものとしては、首題本尊、釈迦一尊、大曼荼羅、一尊四士、一塔両尊四士の五種がある。この五種のうち中心をなすものは大曼荼羅と一尊四士であり、本宗の本尊論の展開はこの2種の表現様式の違いをどのように解釈するかという点をめぐって展開したのである、と大体言えるであろう。

この経緯から見ると、戦後発展した法華系新宗教中、創価学会が「板曼荼羅」、立正佼成会が「久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊」を、それぞれ本尊としたのは決して偶然とは言えないようだ。さらに昭和30年の小樽問答の論点の一つが本尊の勧請様式であったことも注意されるべきことである。本尊問題は、戦後から現在に至る日蓮宗の課題の一つであるといえよう。

今、戦後の本尊問題の状況を『宗報』「日蓮宗新聞」に1、2探ると、昭和27年開宗700年の『宗報』には「住職・主管者にお願い」と題して、「信仰の粛正は先ずお仏壇の正しい奉安式からです。……宗門は先年から御本尊奉安運動を起こしているのです」という記事があり、また茂田井教亨師は「新興宗教」と題する一文を寄せて、「檀家の仏壇に於ける本尊様式を一定せしめ、これに反したものは住職が一々教誡を加えるといふことにしてゆきたいと思ふ」と述べている。また、「日蓮宗新聞」には「教学審議会、本尊統一問題を審議」と題して、「御本尊を一定すべしという世論に応えて、昨年来検討しているが、とにかく本尊は多種多様と言っても、いずれも誤りでないだけに、一定した形を定めるには妥協的ならざるを得ないわけで、まことに難しい問題である」と述べている。実にこの記事は、本宗の本尊問題の現状を端的に現していると言えよう。このような経過をたどって、檀信徒の仏壇に奉安する御本尊が「蛇形のお曼荼羅」に決まったのは昭和40年のことである。これが、本尊の勧請様式、本尊の実体認識、本尊の授与、これら3点に集約される現在の本尊問題の背景である。

第1の本尊の勧請様式に関しての問題とは、例えば、『宗義大綱読本』では「一尊四士と大曼荼羅とは、聖人の内意においては、同一御本尊の異なった表現に外ならない」と規定しているが、実際には、教師・檀信徒がそれを1つのものとして認識しているとは言えない。(人法)2種類の御本尊があると受け止めている現状ではなかろうか。

それどころか、本尊は日蓮聖人であると思っている檀信徒が多いのである。

例えば平成5年6月、中四国教研会議で紹介されたアンケートでは、「日蓮宗の本尊とは」の質問に対して、日蓮聖人……51.8%、大曼荼羅……27.1%、題目……9.1%、釈迦……8.8%、観音……1.4%(鳥取県酒井教仁師提起資料)。また、平成5年度秋田県檀信徒研修会アンケートでは、おまんだら……61%、三宝尊像……35%、日蓮聖人像……78%、釈尊像……30%(回答者54名 複数回答 柴田寛彦師提供資料)等とある。ある創価学会員が、「日蓮宗は、私たちを日蓮本仏論と批判するが、私たちはお曼荼羅をまつっています。日蓮宗こそ形を見ると日蓮本仏ではないですか」と述べたということであるが、この結果から見ると笑って済まされない問題である。

第2の本尊の実体認識における問題とは、「同一御本尊の異なった表現」として大曼荼羅を「久遠実成本師釈迦牟尼仏」と拝した場合、教師・檀信徒はその釈迦仏を生き生きとしたリアリティのある仏として実感できないというのが大方の本音である。当然、おマンダラよりもお釈迦さまの木像をおまつりしたいという意見の方がかなりいるのである。

先日、私は横浜美術館において、ベルギーとの国境に近い北フランスのリール美術館所蔵のルーベンス(1577〜1640)の「十字架降下」というバロック・ロココの傑作を目にする機会があった。かつてリールの教会の祭壇画として描かれた、この縦425cm横295cmの大作は、圧倒的な迫力で鑑賞者の心を奪い、鑑賞者にキリスト教の精神とドラマを伝えていた。では、私たちが大曼荼羅に対するとき、どのような信仰と感激と理解を以て本尊の実体を受け止めているのであろうか。果たして理解は可能なのか。御本尊は私たちに何を語るのであろうか。

第3に本尊の授与に関しての問題とは、既に多くの人から指摘されているように、おマンダラが店頭で売られている、或いは仏壇の付属品になっているという事実である。これは、創価学会が日蓮正宗を離脱するにあたって本尊をどうするかということが大変大きな問題になったことと、全く逆の現象である。このことは、本宗において本尊が既に本尊の意味を失っている事態を示しているものであり、日蓮宗の存在理由が問われるという、教団にとっては実に大変な問題である。

御本尊をめぐって、宗門はこのような問題状況にあるとみてよいのではなかろうか。そこで今回、御本尊をめぐり、この3点に注意して『妙宗本尊辨』を考察してみたい。

 

1、仏本尊の主張とその表現様式について

本尊論は重要な問題であるが、私自身を振り返ってみても、大変恥ずかしいことであるが、少し前までは御本尊の認識は、さほど明確ではなかったように思う。この度必要に迫られて『宗義大綱読本』等を読み、少しは認識を深めることができたが、その上で『妙宗本尊辨』を読み直すと、さすがに和上は本尊をめぐる諸問題をよく整理していると、あらためて感じた。

さて本書は、大曼荼羅は「本仏ノ形像」(『充洽園全集』第3編327頁 原文漢文体)を表現した仏本尊である、と主張したものである。和上はその理由として10点挙げている(327〜8頁)。

@ 法本尊は、寿量品・神力品の意に沿わない。

A 修行者にとって仏本尊がふさわしい。

1、本尊は「宗主」である。仏こそ、それにふさわしい。

2、本宗では三祕を修行するが、三祕は本門の三帰依を表したものである。三帰の初めは仏である。だから仏を本尊とする。

3、良医の譬のように、本尊は私たちが帰依するものであり、法は私たちが持つものである。仏こそ本尊としてふさわしい。

B 報恩抄に本門の本尊は釈迦仏であると示されている。法が本尊であれば、宗主が一定しないので、初心者の修行を妨げる。

C 外道、小乗、大乗教に至るまで、通じて人本尊である。法華経においても仏を本尊とすべきである。迹門が法を本尊とするのは三宝一体を表すためである。聖人は寿量品によって、仏を本尊とする。

D 観心本尊抄は仏本尊である。

E 佐前はともかく、佐後は一向に仏本尊である。

F 迹門は法を顕し、本門は仏を顕す。

G 脇士が人であるから、当然本尊は仏でなければならない。

H 一尊四士、両尊四士、十界本尊、すべて広略の違いである。十界本尊だけが法本尊であろうはずがない。

I 遺文中、本門の本尊に二種類あるという箇所はない。もし法本尊を立てた場合、三祕の中で本尊と題目とを区別する必然性がないではないか。

このような理由を述べて、「当ニ知ルベシ、本尊ハ釈迦仏ナルコトヲ」(328頁)、「十界ノ本尊(大曼荼羅)ハ是レ所顕ノ仏体ナリ」(329頁)と言うのである。

さて、和上は本尊の表現様式のそれぞれの利点欠点について論評を加えているので、以下、その要点を述べておこう。

木像

 @ 一塔両尊……天に二日なく国に二王ないのに、本尊にこの様式があるのは、多宝は衆生の具する仏性(妙境)を、釈迦はそれを悟る知見(妙智)を象徴し、両尊の並座によって成仏の妙致を表す「他経不説ノ高談、今家不共ノ美目」(342頁)である。これに四士を加えるのは本迹を分かつため、鬼子母神は行者の守護神であり、また折伏を扶けるためである。しかし、また、宏壮な堂宇と華麗な仏像諸尊は「陋劣」(343頁)な人々の意に適したもの、とも評している。

A 釈迦一尊……直ちに釈迦仏が主尊であることが解り、また一尊に対して心が集中できるという良さがある。「但信ノ者ハ仏像ノ増多ヲ楽ヒ、解慧ノ者ハ所尊ノ簡一ナルヲ好ム」(343頁)と評している。

B 祖師…四士に擬すならば適切であるが、これを本尊としてはならない。以下、その理由を原文のまま示しておく。「一ニ仏属ニアラザル故ニ。二ニ祖意ニアラザル故。三ニ正本尊ヲ失フ故。四ニ他宗ノ忌嫌ヲ忌ム故。五ニ殆ド邪流ニ堕スル故。六ニ真ノ聖容ニアラズ下凡ノ形像ニ似同スルガ故。七ニ勝ヲ捨テ劣ニ就ク故」(344頁)

画像

大曼荼羅……和上は「奇ナル哉、巧方便。貴ヒ哉、最勝尊。出世ノ大事、之ヲ本尊抄ニ説キ、之ヲ曼荼羅ニ図セリ」(343頁)と言う。
 そしてこの釈迦仏と大曼荼羅を比較して、「無二無別、但ダ名体相ヒ異ナル耳」(346頁)「広略木画ノ異ナル耳」(同)と言う。しかし、木像の釈迦は名と同じく釈迦像であるから、親しみやすいが(「名ニ親シク」)本尊の実体にはほど遠い(「実ニ疎ナリ」)、曼荼羅は本尊の実体をよく表しているが親しみにくい、すなわち一長一短がある、とも述べている。そして「当家ノ本意ハ遂ニ曼荼羅ニ在リ」(346頁)と結論するのである。

さらに、彫刻、彩画図形の本尊と比べて大曼荼羅の勝れた点を和上は10点述べている(357頁)。

@ 表現様式としては尋常のものではない。

A 密教のマンダラ様式とは異なっている。

B 文字は画図よりも尊い。

C 製作しやすいので布教上便利である。

D 木画のように表現上制約が少ない。

E 木画は応身仏を表現するのに適し、文字は三身共に表現できる。

F 無作の三身を表現する首題の中尊は、それ故文字でなければならない。

G 釈迦によって仏界の全て、鬼子母によって餓鬼界の全てを表す。

H 文字で諸尊を表しているので、初心者にもよく分かる。

I 文字は実に自由に表現できる。

まことに大曼荼羅は「巧方便」(巧妙な表現様式)である。昨年度発表したように、それはあたかも虚空会のイメージを絵画的に表現したとも見なせる。しかし、ルーベンスの祭壇画の理解し易さと比較した場合、奇しくも「意味ハ則チ得テ言フベカラズ」(343頁)と和上自ら述べているように、実際には私たちが簡単に理解できる対象でないこともまた事実であろう。また、「若シ思量、以テ窮ムベクンバ則チ終ニ妙法ニアラザル也」(375頁)という見方があることも付け加えておこう。

またこの御本尊の勧請様式に関しては、最近二回その講演に接した大村英昭氏(大阪大学教授 社会学 浄土真宗本願寺派圓龍寺住職)のアプローチも参考になる。

大村氏は、明治以後近代化した真宗教学を現場の立場から見直す「真宗カトリシズム」運動を進めている。氏の多くの著作の中でも『宗教時代への挑戦』(佐々木宏幹・大村英昭・中村生男共著 春秋社刊)は、本稿を考える上で興味深かった。例えば「お寺一つにしても、プロテスタンティズム的に言えば、なんの飾りもない、親鸞さんの教えを広めるだけの単なる道場、聞法道場でいいわけです。ところが、実際は立派な荘厳をつけているわけですよ。(略)教団というものは、そういうものを堂々と持ってるくせに、教学になると、聞法道場、サンガに徹しろ、ご本尊はただお名号でええんだ、というわけです」(232頁)と、いわゆるホンネとタテマエの違いを突き、実はホンネの部分にこれから検討すべき大切な宗教的な本質が隠れていることを論じている。

さて彼我の立場は違うので一様に比較はできないが、大曼荼羅様式を大村氏の言うプロテスタンティズム、造像様式をカトリシズムに当てはめて考えると、十界造像様式や祖師像は「陋劣」な一般大衆のためとみなす和上を、プロテスタンティズム的と評すことができよう。教学の近代化を画した結果と言えようか。また同書(215頁)で中村生雄氏(静岡県立大学助教授 日本思想・比較宗教)は西欧のカトリックの聖堂内部の宗教空間と密教のマンダラ空間の類似を指摘しているが、掲載写真(トレド大聖堂主祭壇)を見ると本宗の十界造像本尊と共通した雰囲気が感じられる。立正佼成会本部の聖堂内部にはカトリック聖堂の影響がみられると思う。様式と言うものは、東西、宗旨を問わず、共通した部分を持っていることを理解しておくことも大切であろう。

そこで、考えてみる時、分かりやすいと言われる本宗の木像本尊、各種の画像に、果たして本当に現代人の感覚に訴える力があるだろうか。その様な視点で本尊の様式を考えたことがあるだろうか。最近の木像本尊等を拝していて、私は疑問を感じるものである。その点、すでに述べたようにリール美術館所蔵ルーベンスの祭壇画「十字架降下」は、その写実的にして象徴的、まさにマンダラ的手法によって、見るものにキリスト教の本質を訴えてくる圧倒的な力を持っていた。この絵は対抗宗教改革の運動の中で、大きな力を発揮したであろう。これに対して、奈良の古寺は秀れた仏像を本尊として安置しているが、信仰運動には見るべきものはないようである。逆に創価学会は一軸の板マンダラで多くの信徒を獲得した。板マンダラの功徳と国立戒壇建立を目的に掲げたからである。

このように、本尊の表現様式は実に一長一短、信仰の在り方、宗教運動の進め方と絡んでいて、一様に論じるわけにいかない。これから検討しなければならない課題である。

現代の日本にあっては、一例を挙げると、建築家安藤忠雄の寺院建築、教会建築には新しい感覚を見ることができる(「芸術新潮」1993年9月号)。本年(平成5年)9月中央教研の研修で訪問した四谷曹洞宗東長寺のデザインも良かった。大曼荼羅本尊の意義の把握による総合的な宗教施設を構想する計画を、総弘通運動の中で是非試みるべきだろう。その時こそ本尊論議は本当に意義を持つと言うものである。

 

2 御本尊の実体は何か −大曼荼羅の世界観−

聖人が本尊という礼拝対象物を、それまでの「彫刻本尊」「彩画図形」(357頁)に対して紙墨による「文字列名本尊」によって表現された意義は、すでに和上によって指摘された。基本的には、表現しにくい虚空会の世界を表現するため、また文字マンダラは信仰者自ら製作できるため等と、要約できる(高木豊『日蓮−その行動と思想−』164頁 評論社刊)。

さて、大曼荼羅には釈迦仏のリアリティ(実在・現実・真実)を感じられない、というのが大方の感想に違いない。それに対して、本書を読みながら今までに解ってきたことは、逆説的であるが、実はおマンダラこそが「実ニ親シイ」(346頁)。すなわち釈迦仏の真のリアリティを示したもの、と和上が考えていることである。「当今ノ機縁、実ニ釈迦ニ依テ得道ス。而ニ却テ釈迦ノ実身ヲ識ズ。迹ニ迷テ本ヲ亡ズ」(三四〇頁)、「滅後ノ有縁ハ曼荼羅ノ図像ニ依テ本師ノ本形ヲ拝シ及ビ己心ノ妙法ヲ知ル也」(同)。すなわち釈尊とはあなたが考えているようなものではない、単なる仏像によって表現できるものではない、と和上は主張しているのである。このとき和上は釈尊をないがしろにしているのではなく、「若シ釈迦ノ即是ナラズンハ何ヲ以テ自己ノ即是ニ達セン乎」(同)と釈尊の悟りの内面を問題にしているのである。『如是語経』に「比丘たちよ、たとい比丘が、わたしの和合衣の裳を執り、後より随行して、わたしの足跡を踏もうとも、もし彼が……惑うてあるならば……わたしは彼から遠く離れてあるのである」(増谷文雄著『仏陀』角川選書275頁)とあるのも、同じ事情を物語るものであろう。

日蓮聖人においては、『守護国家論』の「法華経は釈迦牟尼仏也」(定123頁 原文漢文体)、そして「応化非真仏と申て、三十二相八十種好の仏よりも、法華経の文字こそ真の仏にてはわたらせ給候へ」(『御衣並単衣御書』定1111頁)という表現がある。また、「此文字の数は五百十字也。一一の文字変じて日輪となり、日輪変じて釈迦如来となり……」(『法蓮鈔』定951頁)や、「法華経の本門の略開近顕遠に来至して、華厳よりの大菩薩・二乗・大梵天・帝釈・日・月・四天・龍王等、位妙覚に隣り、又妙覚の位に入る也。若ししかれば、今我等天に向てこれを見れば、生身の妙覚の仏が本位に居して衆生を利益する是也」(『法華取要抄』定814頁 原文漢文体)、「摩耶夫人は日をはらむとゆめにみて悉達太子をうませ給ふ。かるがゆへに仏のわらわなをば日種という」(『撰時抄』定1045頁)等の表現には、釈迦仏が歴史的人物に止どまらず、真理、宇宙、自然のはたらきと一つのものとして、聖人によって仰がれていることが分かる。このことから考えると、聖人が開宗時に清澄山頂より昇る日輪に向かって唱題されたという伝承には教学的根拠があり、まさに聖人が大自然の姿に釈迦仏(大曼荼羅)の相を観られていたことを示すものではなかろうか。

さて、本書第二章「正弁尅体」中の第二節「簡所顕本体」の記述の中に、和上の考えた釈迦仏の本体−大曼荼羅の世界観−を探ってみよう。

先ず「無作三身ノ教主釈尊」が「寿量所顕ノ仏体」であり(330頁)、これが大曼荼羅である(332頁)と言う。

無作三身の釈尊の形相を描出して言う、「本有常住ノ浄土、久遠無始ノ実報国界ハ其形ケダシ大宝蓮華広大妙台ノ如シ。其中央ニ無始無終常住不滅ノ仏有テ住在ス。是ノ仏ノ一身一念能ク大宝蓮華広大法界ヲ成就シ、一身一念円ニ散テ広大法界ニ周偏シテ無量ノ国界ヲ成就シ荘厳セリ。即チ名ケテ実報無礙ノ浄土ト為ス……」(330頁)。このように華厳経を彷彿とさせる叙述が続く。そして「三界ノ色身、若ハ仏、若ハ衆生、悉ク是レ本仏示現ノ妙色身、無始ノ妙用、普現難思ノ形相也」「十法界皆ナ本仏一念ノ同体、一心ノ内境、一身ノ妙色」(三三二頁)と述べる。すなわち、この世界の一切の現象は釈迦仏の体であり、心に他ならないことを、大曼荼羅は示したもの、と説明している。この観点から見ると、歴史上の釈迦仏はこの常寂光土の本仏が凡聖同居士に示現したものであり、いわゆる応身の釈迦仏は本仏の無限のリアリティの一つであり、私たちを含めて存在の全ては本仏に他ならないという壮大な世界観を示していると言えよう。

さて、和上の言葉に従えば、いわゆる「事観」から導き出されるこのような世界観は、これまで原始的な宗教観念としてのアニミズムに見られがちであった(大村氏前掲書141頁)。そのために荒唐無稽なものとして、宗教の近代化の過程で顧みられなくなった。しかし今、そのような世界観が新たに種々の角度から注目されていることについて触れておこう。『宗義大綱読本』が「本仏釈尊の内観の世界」、本仏の「所証」、『信行必携』が「本仏釈尊の悟りの世界」「仏さまの心」等と述べていることを、現代人の感性に即して表現してみると、どのようになるか。大村氏はこの点について「科学が神秘を解明してきてるというか、逆に保証してきているんですね」(前掲書51頁)と述べている。

@世界は一つの生命体||エコロジー的世界観と大曼荼羅||

私は以前、『本尊略辨』の一節を引用して、現代科学の到達したエコロジー(生態学)的世界観がそこにすでに見られることを指摘したが(「現代宗教研究」22号所収)、今日、私たちが大曼荼羅の世界観に第一に注目し、学ぶべきことは、先ずその事だと思う。本年の第18回全布連代表者会議では、福岡克也立正大学教授が「宗教者は環境問題をどう考えどう実践するか」と題して講演し、その資料には「地球は水圏、地圏、大気圏、生物圏の四つの圏域によって構成され相互に有機的なバランスを保ちながら結びついている単一の生命体である」という表現がある。「単一の生命体」という表現に私たちは注目すべきだと思う。この世界は一つの生命体という考え方こそ、和上の大曼荼羅の世界観と共通している。事実、『一念三千論』(第3編98頁)には「十界一身」という表現もみられる。大曼荼羅は、この世界の全ては釈迦仏の心であり体であり働きであることを示したものである。かのマザー・テレサは飢えに苦しむ人々を指して、「かれらは神の体です」と述べたということである。近代化の中で私たちの失った感情のひとつに、自然、見えないものへの畏怖の念がある。次の文章は、そのことを指摘したものの一つである。

「俺なんかからすると、環境問題は、まず菌に対する認識のなさの問題だと思うな。日本人には、見えない物は無いと同じ。……熱帯林をぶった伐って植林すればよいと思っているのも同じ。雑木林にブルドーザーを入れるのも同じ。そこは計り知れない『金(菌)の山』だということが見えないのだ。」(「週刊ポスト」1993年10月8日号所収「ほっとけ森からの報告」 註 ほっとけ森……秩父山中の森)

私たちはまさに見えないものによって生かされている。現代世界を取り巻く大きな課題を解決する上で、世界は一つの仏の命という大曼荼羅の教えを、私たちは真剣に受け止めて行こうではないか。

日蓮聖人の自然観について、庵谷行亨師は「聖人は有情と非情を一如とみなす一念三千法門に釈尊の世界を信認し、これを現実の社会に具現していこうとされた。それは人間生活と自然環境とが調和した不滅の浄土である」(「正法」59号所収「草木成仏」)と述べている。

A「宇宙の大いなる実体」||現代物理学と法華経||

これは作家の石川英輔氏が『未来妙法蓮華経』(講談社文庫)で、諸法実相や久遠本仏を指して使った言葉である。宮沢賢治によって法華経を知った石川氏は、現代物理学や心理学の知識によって法華経の理解を試みたのである。一例を挙げよう。

「これも、うまく表現しにくいけれど、ぼくたちは、自分が感じているような孤立した個人ではなく、実は何かとてつもなく大きなものの一部で、たまたまその表面に顔を出している時だけ表層意識があって、これが自分なのだと思っているだけだとでもいえば近いでしょうか」(351頁)と作中人物に語らせ、すでに現代物理学と大乗仏教との区別ははっきりしないと述べている。このことばと、『本尊辨』の「十法界皆ナ本仏一念ノ同体」とは、その意味は全く変わらない。また石川氏は「悟りは、意識と無意識の境を取り払って、宇宙の大いなる実体と一体化することだと考えれば、法華経はよく分かります」とも述べている(「現代宗教研究」第27号所収「どう説いたら人は法華経を理解できるか」)。これなど「自ラ隔異ノ色心ヲシテ本仏ノ自心ニ帰ス」(330頁)の一節を彷彿とさせ、和上の本尊観に最も近い表現ではなかろうか。

B臨死体験||霊山往詣は本当にあるのか||

『中陰書』の異称で知られる『上野殿母尼御前御返事』(定1810頁)、『千日尼御返事』(定1761頁)を読むと大曼荼羅は私たちの死後の状態(霊山往詣)をイメージしたものと見ることができる。この事を考える上で、1970年代に入ってアメリカを中心としてにわかに始まった臨死体験の研究を私たちはもっと注目すべきであると思う。レイモンド・ムーディの『かいまみた死後の世界』(1975年 評論社)は記念碑的著作だが、今年は立花隆訳『バーバラ・ハリスの臨死体験』(講談社)、メルヴィン・モース&ポール・ペリーの『臨死からの帰還』(徳間書店)等が目についた。

臨死体験はなぜ重要なのだろうか。第一に臨死体験は私たちの死後の存在の可能性を示唆しているからである。第二に臨死体験者はその過程で神的な存在と出会い、ときには同一化を体験し、それによって人格の変容と生き方の大きな変化を経験するからである。臨死体験においては、近代において否定されてきた死後の存在と神的なものの存在が普通の人々によって体験され、それが多数の研究者によって多方面から研究されているのである。

実は日蓮聖人の御遺文には、『開目抄』の有名な一節「日蓮といゐし者は……頸はねられぬ。此は魂魄佐土の国に至りて……」を初めとして、臨死体験の視点から見て興味深いものが多いのである。

たとえば「生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給はりし事ありき。日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思し食しけん。明星の如くなる大宝珠を給ひて右の袖にうけとり候し故に……一切経の勝劣粗是を知りぬ」(『清澄寺大衆中』定1132頁)という聖人の体験は、必死の修行過程における神的存在||光||の出現による、人格の変容、新しい能力の獲得という臨死体験の一パターンを示していると解釈することが可能である。また「ただいまに霊山にまいらせ給ひなば、日いでて十方をみるがごとくうれしく、とくしに(死)ぬるものかなと、うちよろこび給ひ候はんずらん」(『妙心尼御前御返事』定1104頁)という表現は、まさに臨死体験者の言葉を彷彿させるものである。

法華経の「一心欲見仏 不自惜身命 時我及衆僧 倶出霊鷲山」(寿量品)や「臨命終時 得聞此経 六根清浄 神通力故 増益寿命」(不軽品)等は臨死体験を連想させる。

和上は、大曼荼羅の依文(根拠)として前掲の寿量品の一節をよく示す(326頁)。大曼荼羅に示された霊山浄土の実在を示唆するものとして、臨死体験は説得力を持つのではなかろうか。ただ、中條暁秀師も「日蓮のいう霊山浄土とは、今生の娑婆否定の上に建立された死後の他土ではなく、如説修行に生きぬいた法華経の行者にして始めて、往き着くことのできる浄土」と指摘している(日本仏教学会年報第五八号所収「日蓮の仏土観」282頁)ことに注意しておきたい。

さらに関連した問題に触れておきたい。本来の葬式仏教は悪いものではないと私は考える。僧侶が人間にとっての最大の問題である死と取り組み、人々の課題に応じることは大事なことである。問題は葬式仏教がほとんど形骸化し、実際に僧侶が生の意味を教え、死を越える人生観を示し、死の不安を解消する等の活動を行っていないことにあるのではなかろうか。只このことについては、中村生雄氏が、近代になって死が病院の管理下に入り家族でさえも臨終に立ち会えなくなったという状況を指摘していること(前掲書五四頁)を考えておく必要がある。この点で、NHKスペシャル「チベットの死者の書」(1993年9月23、4日放映)は感動的であった。臨終時のチベット僧の活動、アメリカでエイズ患者に対して行われているダイイング・プロジェクト、すなわち「バルドゥ・トェ・ドル」(「中有における聴聞による大解脱」意味。『チベットの死者の書』 ちくま学芸文庫刊)の朗読による死の不安の解決、などには学ぶべき点があるのではなかろうか。「毎日新聞」(1993年10月19日)読者欄に「臨死体験の科学的解明に期待」と題して、保田尚子氏が杏林大学の秦教授の臨死研究やチベット仏教に触れて次のように述べていた。「考えてみれば、人間生まれれば遅かれ早かれかならず死が待っている。その臨死体験などを話題にすると、けげんそうな顔をされるか、変人扱いされるのが今までは関の山だった。(略)臨死体験など、死後の世界が科学的に解明されれば末期のがん患者、絶望のふちにいる人たちの恐怖感を和らげ、少しは明るい希望がもたらされるのではないかと期待している。」

以上3点において述べてきたが、これを整理すると、大曼荼羅(事観)は、私たちの生命(身心)は自然の次元においても、物理的次元においても、そして霊的次元においても、私たちを超えた大きな生命に支えられているという世界観を示していると言えよう。そしてこのような現在の知的探求によって、かえって大曼荼羅の信解が再発見され、本仏の実在と三世にわたる私たちの修行ということが了解されてくることを理解しておくことが大切ではなかろうか。付言しておくと、宮沢賢治の作品は、法華経をこの様な観点からとらえたものと私は思う。
 さて和上は本書第2章第5節「弁釈本尊相貌」中、20項目によって大曼荼羅本尊の意義を説明しているので、次に示しておこう。

 

  一  霊山一会儼然未散相     二  十界衆生皆成仏道相
  三  依正不二諸法実相相     四  一体三宝常住不滅相
  五  一念三千事観成就相     六  深信観成浄土現前相
  七  感応道交行者成仏相     八  妙法蓮華法諭所詮相
  九  諸仏内証円証法界相     十  本門教主威儀成就相
  十一 四句要法宣示顕説相     十二 虚空会上皆成仏位相
  十三 自住当位各修護持相     十四 三千羅列本有常住相
  十五 唯一妙法総別互成相     十六 一念三千不思議境相
  十七 行者一心功用円満相     十八 葢国同帰戒壇成就相
  十九 広大法界円照明鏡相     二十 三身四士当位相即相


 この和上の綿密な考察によって、大曼荼羅はまさに「一切ノ法門、帰趣セザルナシ」(362頁)の壮大な法門をそなえた御本尊であることが分かる。私たちは喜びを以て仰ぎ、そして探求していこうではないか。

 

おわりに 大曼荼羅授与に関わる諸問題

大曼荼羅御本尊には、すでに和上も指摘しているように、文字で諸尊を表しているので初心者にもよく分かり、かつ製作しやすいという特徴がある。そのため、聖人御自身したためられた御本尊が125幅もの多数現存しているといえるであろう。もっとも多数の御本尊が今日まで伝わったのは、弟子信徒の懸命の格護の働きによることを忘れてはならない。例えば天文法華の乱のとき、焼き討ちにあった本国寺の本堂に信者の一人が駆け入って、仏壇の奥に掲げてあったご真蹟の曼荼羅本尊を引き下ろして避難したということが『本国寺年譜』に伝えられている(「日蓮宗新聞」1993年10月20日号所収 中尾「ご真蹟に触れる」)。また安国講師のしたためたお曼荼羅の総数は、曼荼羅大小10020幅、一遍首題100270と記録されている(「日蓮宗新聞」1993年7月20日号所収 宮崎英修「日向配流の日講上人」)。これらの事実から、大曼荼羅は製作し易く、持ち運びも便利で、大衆への布教に大変力を発揮したことが分かるのである。しかしそれは和上が、『像師相承鈔』を引用して「若シ能ク恭敬シ志心ニシテ書セバ則チ出ス所ノ本尊、功徳二ナシ。又云ク、筆迹ノ美醜ヲ見ズ徒ダ能ク礼拝恭敬セバ則チ利益別ナシ」(375頁)という人々の信仰に因ったのである。

今日ではどうか。教師は世襲制度、信徒は檀家制度の中にいるために、入信というイニシエーション(儀礼)を欠き、信仰において実に不十分な状態であろう。大曼荼羅は精々お札程度の取り扱いを受けている。これに対して新宗教の場合は、その動機は様々であっても、必ず入信儀礼において本尊が授与されるという位置付けがなされている。だから本宗の本尊授与に関わる問題は、寺檀制度のリストラを計り伝道宗門への発展の中で根本的な解決は果たされる。それは現代世界の動向の中で、聖人が『観心本尊抄』に「一閻浮提第一ノ本尊此国ニ立ツベシ」と仰せられた壮大なみ心に、私たちがどれだけ取り組むのかに関わっているのである。

※本稿は平成5年11月19日、身延山短期大学において開催された第46回日蓮宗教学研究発表大会において発表したものに加筆したものである。

 

 

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