いま私たちがやるべきこと〜2030年の信仰

 

「実践」とは何か

 

 

久住寺執事 児玉 光瑞

 

◆分かっちやいるけど

 前号では、世間の関心に応えた上で布教をしなければ、正信会はジリ貧になると述べました。要するに、「実践が大事」ということなのですが、これは実は何にでも当てはまります。ダイエットしたければ、食事動限をして運動をすればいいだけです。テストに合格したければ、勉強すればいいだけです。行動しなければ意味がありません。原因があっ了結果がある。あたり前ですね。

しかし、頭では分かっていてもなかなか行動できません。多くの人は、食事動限をせずに「この食材がよい」「このサプリがよい」と情報に振り回され、運動をせずに「足腰が痛い」とか「心臓が悪い」とか身体のせいにし、勉強をせずに合格祈願にいったり勉強法の動画をひたすら見続けます。行動しない理由を考えることにかけては、私たち凡夫は天才です。

◆権教と実教

何か目標がある時、多くの人はまずは一歩ずつ段階を経て、その積み重ねによってゴールに向かう考え方でしょう。ダイエットを例にとると、まずは食事の量を少しずつ減らし、動の量を少しずつ増やし、少しずつ達成していく感じです。しかしこれには欠点があります。それは、人間の心の弱さが考慮されていないことです。その結果、実践する以前にあれこれ調べるだけでやった気になったり、途中で飽きてしまったりするのです。結局、ゴールは見えません。

それに対して仏教では「意志の弱い自分がダイエットに成功した未来、スタイルがよくなっている自分はどういう生活を送っているのだろうか」を考えて行動します。つまり、「始めからゴールは決まっていて、そのためにあるべき行動」を実践するのです。なぜなら、どんなに説明されても、成仏とは達したものでないと分からないからです。考えてみれば、ダイエットでも勉強でもそうですね。人は自分で考えて行動し、自らの体験として実感しないと、どんなことであっても理解することはできません。

少し乱暴ですが、要は知識だけではダメで、自分で経験しなければ成果がでないということです。世間のコマーシャルでもいいますよね。「結果にコミットする」 「今でしょ!」。これらは、頭でっかちで行動しない多くの人たちのことを上手にいい当てているので、共感を得るキャッチコピーになるわけです。

ちなみに日蓮大聖人は、このことを権教と実教とに区別して教えられています。知識だけの教えを権教、現実の経験に即した中身ある教えのことを実教といいます。正しい仏教を信仰していると自負している私たちも、よくよく注意したいものです。

◆知識だけでもダメ、

経験だけでもダメ

ここまで見ると「経験が一番だ」と、そう思われるかも知れませんが、話はそう単純ではありません。例えば、コロナウイルスに感染した経験のある人は、コロナウイルスについて分かったことになるのでしょうか。そうはなりませんよね。

仏教はさらに一歩進んでいます。知識だけで分かった気になる人のことを、声聞といいます。独学の経験で分かった気になっている人のことを縁覚といいます。仏さまは、そのどらも成果がでないと教えられています。この両者に足りないもの、それは「他のために」という利他精神と自分の頭で考える知恵です。利他精神を行動原理として、知識をもって体験的に自分のこととして本当に分かることを「悟り」というのです。要するに、「行動原理」「知識」「経験」 「自分で気づく」の4つが必要なのです。

 日蓮大聖人は、心で法華経を読むことが大事だと教えられています。心と行動が伴って実践する人だけが成果を得るのです。つまり成仏とは、「他人のために」という精神を前提とし、正しく実践することによって、自らが気づくものなのです。

 

 

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