いま私たちがやるべきこと〜2030年の信仰

 

正信会の未来

 

久住寺執事 児玉 光瑞

 

 ◆正信会は必要か?

 正信覚醒運動は学会や宗門の、いわば日蓮正宗内部の誤りを是正すべく始まりました。それから5。年近い歳月が経過し、世代は入れ替わり、今では正信会発足当時のことを知らない世代が多くなってしまいました。この状況を、信仰を持たない部外者の視点で表現すると、「日蓮正宗で内部分裂が起こり、それぞれ別の宗教団体となった」としか見えませんし、私個人がひいき目に見ても、2030年ごろには大半の寺院が統廃合すると思います。では、正信会は世間に必要ないのでしょうか?

 私はそうは思いません。正信会が正しい法を持つ限り、正信会の存在意義はあると考えます。世間は物事の本質ではなく、見た目の印象で評価をします。世間で流行っている宗教は、不勉強な信者にとってイメージがよいものばかりです。だから、お寺におみくじがあったり、お寺でゴスペルのコンサートを開くのです。

 信仰の本質は、数ではなく世間をどう導くかです。ですから、極論をいえばお釈迦さや大聖人のように1人でも布教はできます。しかし、志を同じくしたものが連拠をするほうが有利なのはあたりまえですよね。したがって、正信会は、正しい法を持つ限り、数が減ってもその存在意義はあると考えます。では、いわば 「ジリ貧」状態の正信会は、今後どうすればよいのでしょうか。

◆布教をする

 考えてみれば、私たち日興門流の歴史は、内部分裂を繰り返してきました。それでも800年間、法の灯火を絶やさずに存続できた理由は、布教を続けてきたからです。布教といえど、大上段に構えて伝家の宝刀を振りかざしても、不審に思われておしまいです。

 世間は本質ではなく見た目の印象で判断します。ただでさえ、宗教は世間に怖がられています。ですから、まずは知ってもらい、親しみを感じてもらうことが大事です。その上で、人生の役に立つことが伝われば、信頼してもらえるのです。

 焦る必要はありません。どんな人でも信心を考える瞬間は必ずあります。そんな時、あなたが等身大の自分の言葉で、自分の人生にどうプラスになったのかを語るだけでよいのです。

◆世間の関心に応える

 最近、使わなくなった仏壇の「魂抜き」の相談をよく受けます。信心はないが、勝手に仏壇を捨てるとバチが当たりそうだから、お祓いをして欲しいという相談です。当然、当宗にはそんな儀式はありません。しかし、お話をよく聞き、その上でお経を唱えると、みんな喜んで感謝するのです。世間の人の信仰とは、その程度なのです。これを「世間に迎合する」とはいいません。感応道交といって、世間の人が信仰を感じる瞬間は必ずあって、救うべき衆生が困っていることに応えるのは当たり前です。

 スマホに対応することも一つの方法です。今やスマホなどの情報端末の普及率は9割を超え、世間の人は、調べ物をする時にはスマホを使います。ひと昔前のようにウェブサイトを作る必要はありません。SNSアカウン卜で十分なのです。

 正信会の強みは、僧侶から信徒にいたるまでストイックに教えを護っているところです。一般信徒が法華経を読むことができる宗派はなかなかありません。逆に弱みは、知名度が低いことです。他宗と違ってしっかりとした中身があるのですから、自信を持って世間の人の困りごとを解決してあげれば、自ずと世間の信頼を得ることになります。宗教の本質が失われつつある現代、私たちはよく自分の頭で思考し、行動に移さなければなりません。

 私たちがどう生活しようと、時代は変わります。時代が変われば「仏壇の魂抜き」のようにニーズも変わります。自分の頭で思考するとは、このように世間を観察し、明確な言葉で応えてあげることの繰り返しなのです。

 

 

もどる