いま私たちがやるべきこと〜2030年の信仰

 

宗教の未来

 

 

久住寺執事 児玉 光瑞

 

◆宗教は不要か

 今、宗教は捨てられようとしています。宗教とは人智を超えたことに対する説明づけですが、人間の知性は宗教を不要としてきたのです。それどころか、宗教が戦争の根源とも揶揄される始末です。ところが、世界の多くの人ならず、仏教を信仰する私たちでさえ、知らず知らずのうちに、一神教の影響を受けています。すなわち、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教です。流行りのSDGSもそうですし、「人権」などの考え方もそうです。

◆一神教の思想

 旧約聖書では、時間は一方向に進み、後戻りしないと考えます。神が、天と地と光を作り、影ができ、太陽を作り、下等生動から順に作って最後に神と同じ姿である人間を作ったと説明します。人間は動植動より高等ですので、動植物を自由に扱い、奴隷は動植物と同列、ないしは劣った人種とされました。だから人間は、動植物を意のままに扱った結果、環境を破壊して自分たちと異なる人間を差別しました。しかし、環境破壊や人種差別が永く続くはずもなく、その反動から、環境保護運動が生まれ、また「人権」という考え方を発明しました。人間にはそれぞれ固有の権利があり、 「自由」は保証されますので、好きな職業に就くことができるし、極端な話、自殺することも自由意志といえます。

 ところが、一神教の説明には矛盾が生じます。なぜなら、神が全知全能であるのならば、完璧な人間を作り、戦争のない完璧な世界を作れたはずなのに、そうはなってはいないらです。哲学者ニーチェが「神は死んだ」と表現したように、人間はその知性で自らの宗教の矛盾に気づいたのです。

◆東洋の思想

 東洋では、人と自然はもともと一体だと考えます。仏教もバラモンも儒教も全知全能の神はいません。大日如来などの根源神は、後から考えられたものです。世界は仏が作ったものではなく、もともとあって、仏は世界の真理を悟った人に過ぎません。この世の存在は、中有、つまり人も自然も五蘊が仮和合したものに過ぎないので、本来的に上下などないのです。人も自然もそもそもが平等なので、人権という発想が必要ありませんし、さらには、自由はおろか 「自我」という自己感覚すらありませんでした。「自由意志で生きている」というよりも、「生かされている」という感覚のほうが近く、それゆえ親の生業を自分か継ぐことに、なんの疑問も抱きませんでした。現代のような上昇志向もなければ、自殺という発想も起こり得なかったのです。

時間は円のように繰り返し、人も動植物も死んだら五蘊に戻り、また生まれてくる輪廻が信じられていました。しかしインダス文明の消滅後、アーリア人がもってきたカースト制度と輪廻思想が融合し、身分制度が生まれました。これに異を唱えたのがお釈迦さまです。永遠に続く六道輪廻の苦しみから解脱する法を説いたのです。

◆仏教の問い 

一神教は知性の蓄積によって「真実とは何か?」とゴールに向かう思想ですが、仏教の問いは「真実とはいかにあるべきか?」です。つまり、ゴールは成仏と決まっていて、そうあるためにはどうあるべきか。ゴールである円満な境界に到るには私たちはどうあるべきかを思考し、精進するのです。世界の法則のことを妙法蓮華経と名付け、かくの如く生きる人のことを仏というのです。

 人権やSDGSを否定するつもりはありません。しかし外来思想を盲目的に信じるのではなく、その背景を考え、私たちに合うように取り入れなければ、間違いが起きるかも知れません。情報化社会では、知らないうちにどんな意識を刷り込まれているか分かりません。宗教の本質が失われつつある現代、私たちは、「真実はどうあるべきか」をよく自分の頭で思考していきたいものです。

 

 

 

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