いま私たちがやるべきこと〜2030年の信仰

 

自分で考えてみようA

 

久住寺執事 児玉 光瑞

 

○ 自分で考えるとは

信仰に実体はありません。いわば仏という他者が作り出した概念です。自身の概念ではないからとても理解し難いものですが、ひとたび理解すれば強固です。その際に、きちんと試行錯誤して考えて信じれば法華経へとたどり着き、反対に自分の頭で考えることをせずに信じれば盲信となります。今回は「考える」を深堀りします。

○ 実は考えていない

目玉焼きに、何をかけますか。醤油派?ソース派? 塩のみとか? では、もう一つ質問です。あなたはなぜ、目玉焼きにそれをかけて食べるのか?その答えはおそらく、「習慣」か「好き嫌い」のどちらかでしょう。世間には「人生とは判断の連続だ」という言葉もありますが、これは明らかな誤り。あまり考えなくても生きていけるように人間の脳はできています。その証拠に、目玉焼きに何をかけるか、毎回よく考えませんよね?

「昔から醤油をかけるものだ」という人は習慣、「醤油が好きだから」という人は好き嫌いで判断していますなぜあまり考えなくても判断できるのか。それは、脳が疲れることを嫌がるからです。ところが「信仰」となるとそうはいきません。きちんと考えなければ、「盲信」になるからです。盲信の末路は、昨今のコ口ナ騒動をみれば明らかです。ありもしないデマに右往左往し、買い占めに走り、よそ者や未接種者を差別しはじめます。

では、考えるとは、どういうことか? それは正しく疑問をもち、自分で調べて自分で学ぶのです。みなさんは、なぜこの信仰をしていますか? 「家の宗教だから」は習慣。

「信用する人に勧められた」は好き嫌いの判断です。それらの縁をきっかけに、自分の頭で考えたからこそ、みなさんは揺るぎない信仰を獲得したのです。

○ 正しく考えられないのはなぜか?

信仰を正しく考えられない人々の理由は、「習慣や好き嫌いで判しているのに、自分で考えている」と錯覚していた、「間違っていたら大変だ」との謙遜やプライド、「最悪の事態が起きたらどうしよう」との不安、「難しいから無理だ」との思い込みなど。さらに、これらの煩悩や無知の他に、もう一つ別の理由があります。

みなさんは「今日何を食べよう」だとか、「何を着ていこう」だとか、はたまた「新しく買うもの」に数日悩んだりはしていませんか。日常生活で考え事が多いから、脳が疲れて大事なことを考える余裕がないのです。だったら、習慣や好き嫌いを逆に利用すれば楽になります。献立や服装や買い物選びを、習慣や好き嫌いで即決すればいいのです。生活の多くを即決するだけで、随分楽になりますね。どうでもいいことは、習慣や好き嫌いで即決する。すべてに理由は必要なく「何となくそうしたいからそうする」でいいのです。大切なことは、なんとなく即決したことと、考えて決めたことをきちんと認識することでしょう。

○ まずは、ありのまま受け入れよう

人は所詮、思い込みで世界を認知していますが、その叡智は人がぃったことのない地球の外の世界を明らかにします。私たちは、習慣・好き嫌い・不安・謙遜・プライドなど、それら(煩悩)を外してようやく、自分の頭で考えることができるのです。仏教ではそれを正見・正思惟といいます。世界のありのままの法を法華経と呼び、それを悟った人を仏と呼びます。「トイレットペーパーがなくなる …」が真実ではありません。「『トイレットペーパーが品薄になる』と誰かがSNSに投稿した・・・」が、ありのままの真実です。すぐに店に走るのは考えない人です。情報に疑問をもち、「自分で日本製紙連合会を調べ、不織布マスクは紙製品ではないと学ぶ」。この一連のプロセスを、考える」というのです。

考える人は平常で円満な視点が持てます。それが仏眼でものをみるということです。

 

 

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