いま私たちがやるべきこと〜2030年の信仰

 

自分で考えてみよう@

 

久住寺執事 児玉 光瑞

 

○ デマを信じる人々

昨今のコロテ騒動ではさまざまなフェイクニュースやデマに大勢が混乱しましたが、そもそもなぜ人は偽情報を信じるのでしょう。

その1つは「不安」。欲望に限りがないように「不安」にもまた限界がありません。人々は偽情報の罠にまんまとかかり「不安」の沼に落ちたのです。

2つ目に「偽情報の拡散力」。ネットも紙もない時代、人は「うわさ話」で情報を得て、「うわさ話」をたくさん知っている人が、エラくなりました。「うわさ話」の真偽を確かめる方法は、実際に自分で実行するしかないからです。

そこに情報化社会がやってきました。現代人が触れる1日の「うわさ話」は、江戸時代の人の1年分、平安時代だと一生分だそうです。しかし、情報が必ずしも正しいとは限りません。SNSを調査したある研究によれば、科学的に正しい事実は1000人程度にしか広まらないのに対し、恐怖を煽るような偽のニュースはその千倍、10万人を超えて拡散されるそうです。要するに、人間はこぞって偽の「うわさ話」を拡散するようにプログラムされているのです。ですから現代に生きる私たちは、よく考えて情報の取捨選択をしなければなりません。

○ ある老婦人の言葉

約30年ほど前の話です。ある老婦人からこういわれました。「正しい仏法なんて分からないから、僧侶に教えてもらわないと困ります。自分だけでは分かりません」と。

たしかに、僧侶の務めは伝えることです。仏教には「信じる教えが妙(=尊い)だから、その人は尊いのだ」という考え方があります。では、教えが正しいとどうやって判断するのでしょう? 他人に教えられた「正解」をなぞるだけで、人は幸せになれるのでしょうか。世間に散在する、社会問題はほったらかしでもよいのでしょうか。ただお題目を唱えるだけで、信心を磨くことになるのでしょうか。考えなければ盲信になるのでしょうか。それはカルト教団と何が違うのでしょうか。

私は老婦人に「そうですね」と答えはしましたが、実は返答に詰まっていました。みなさんなら、どぅ答えますか?

○ 正解はない。あるのは「自分の決断」のみ

今なら、「分かる範囲で一緒に考えましょう」と答えます。問題を解くカギは「自分だけでは・・・」です。老婦人は一度自分で考え、その上で質問してきました。人が人である理由は、「認知した事象を抽象化・普遍化し、他人と共有できる」点です。人間だけが、ありとあらゆることを他人と共できるのです。

物だって、鳴き声などでモノを抽象化・普遍化して他者と共有はできます。例えば、シジユウカラは蛇というモノや危険という緩念を鳴き声で伝えます。ちなみに彼らには文法もあります。面白いことに、鳥なのに自分だけが得するような嘘もつきます。しかし、実体のあるモノだけです。動物は、「こうすれば幸せになれる」だとか、「ワクチンは危険だと、会ったこともない医者がいってたらしいから、やめといた方がいい」などと、知らない他者と共有はできません。要は「うわさ話」ができない。幸せとか地獄という類の実体なき概念を、共有できるのは人だけなのです。

信仰も実体のない概念です。ですから、とても理解し難い。しかし、ひとたびその境地に達すれば強固です。ちゃんと考えて信じれば法華経、考えずに信じれば盲信です。人間だけが、こういう抽象化した概念を共有しあえるのです。

決断の結果を確かめる方法は、動物も人も同じで自分でやってみるだけです。ダメならまた考え、時には助言をもらい、他の方法を試せばいい。これを繰り返せばいいのではないでしょうか。

考えなければ、ダメなまま。自分で考えるから過去の「ダメ」が大事な経験、つまり智慧となるのです。

 

 

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