2001年 芝川17号

 

覚醒運動再考

 

              片山 幸彦

はじめに

 少々旧聞に属しますが、「正信会報」平成10年秋季号に、白蓮院主管・古谷得純師の大石寺帰山論文「なぜ帰山するべきなのか」が掲載されました。正信会内に帰山問題は従来あり、その何年か前には極秘裏に交渉が持たれ、不調に終わったという噂も駆け巡ったことがありますが、一応この問題は決着をみたものと思っていました。

 しかるに、帰山論の主たる提唱者である古谷師の帰山論文が、再び正信会の機関誌上を賑わすとは、いったいいかなることかと会内情勢に疎い者は首を傾げざるを得ませんでした。しかも、同論文はかつて本誌「芝川」13号(平成8年刊)に一度掲載されたものとまったく同一なのですから、その真意を測りかねます。

 古谷師の帰山論に対しては、すでに本誌上で主宰者の廣田頼道師や信者の一人、鷹尾貞彦氏から詳細な疑念が呈されていますが(「芝川」13、14号参照)、同師がそれに何ら答えることなく、「正信会報」に数年前の論文をそっくりそのまま転載されたということは、廣田師や鷹尾氏の論文をご存知ないのか、はたまた無視されているのかのどちらかだろうと思われます。しかし、本来なら、同師は自説への疑間や批判にはきちんと答えるべきであり、馬耳東風とばかり、何度も同一論文の掲載をオウムが鳴くように繰り返されるのでは無責任・怠慢の謗りを免れることはできません。

 が、いずれにせよ、同師の持論には変わりがないということですから、立場を変えて、小生から再度問題点を提起し、併せて今日における正信覚醒運動の意義について考えてみたいと思います。

 古谷師の所論を要約すると、以下のようになるでしよう。

@ 正信覚醒運動の目的は、創価学会の謗法を是正することであったが、現宗門によって池田大作氏をはじめ創価学会が破門されたので、その目的は一応達成され、正信会の役割は終わった。

A 管長裁判も双方却下で結審し、日蓮正宗内部の自主的解決に委わられた。

B 正信会と宗門との対立は、創価学会の思う壷であり、双方が対立している間に創価学会流の誤った広宣流布が世界中に蔓延してしまう。

C したがって、これからは総本山に復帰し、協同して宗風刷新に努めるためにも宗門と誠心誠意話し台うべきだ。

 なるほど論旨は単純明快です。日蓮正宗がその教義・信仰の根本を戒壇の板御本尊に置く限り、総本山にお参りし、同本尊を拝したいというのが大多数の僧俗の願望ですから、帰山論を説く古谷師の主張に共鳴する僧俗も少なからずおられるでしよう。

 小生も、もし正信覚醒運動が政治的運動か何かであったなら、同師の考え方に賛成するでしよう。政治は妥協の産物であり、駆け引きが必要ですから。

 しかし、覚醒運動は信仰次元の問題です。政治的に妥協するというわけにはいきません。近代の宗門史をひもとくと、当初は教義問題に端を発した争いがいつしか政治的駆け引きに変貌し、そして妥協を重ねることによっていかに腐敗・堕落を招いていったか、おわかりのことでしよう。今日の宗門の昏迷も、淵源は近代の宗門問題の杜撰な決着の仕方に存しているように思えてなりませ七。それは、そうした抗争の軌跡が「富士年表」にいっさい記載されていないことからも一目瞭然です。つまり、教義論争も汚点と見なされ、宗門の歴史からきれいさっぱり抹殺されてしまったのです。仮に、宗門と正信会との間に妥協が成立したら、将来の「富士年表」に正信覚醒運動のことは一言も触れられないであろうことは想像するに難くありません。

 

正信覚醒運動の目的は達成されたか

 さて、古谷師の帰山論のどこが問題かといいますと、やはり帰山論の根拠である”正信覚醒運動の目的は達成された”との認識が妥当かどうかという点に尽きると思います。この一点で一致しなければ、正信会が大挙して帰山するというのは、どだい無理な相談です。

 覚醒運動の目的は、確かに古谷師が指摘されるごとく、52年路線といわれた創価学会の教義改変を破折・是正し、日蓮正宗の伝統的化法化儀に導くことでした。しかし、それは、あくまで阿部日顕師が自ら名乗り出て第67世の貌座に就き、そして正信会を擯斥処分に付し、宗門から追放するまでのことではなかったでしようか。正信会はそのために、一時的には”67世日顕上人”を是認していたにもかかわらず、踵を返して阿部日顕師の地位の正当性を争う行動に出ました。いわゆる管長地位不存在確認請求訴訟の提訴(以下、管長裁判と略)です。日蓮正宗で教義的にも行政的にも最高の権力者である貫首・管長の相承に疑問を呈し、第三者である司法機関に決着を委ねるというのは、宗門史上前代未聞のことでした(もちろん、相承の有無の真偽を裁判所に委わるといっても、教義上ではなく、あくまで国法の一環である宗教法人法や日蓮正宗宗制宗規に即しておこなわれたものでしたが、結果的に最高裁判所は宗教上の問題だとして訴えを却下してしまっだわけです)。

 しかし、一宗の貫首・管長に盾突き、あまつさえその血脈相承に公然と疑問符を投げかける挙に出るというのは、戦後50有余年の宗史上初めての出来事であり、僧侶も信者もその大多数が驚いたものでした(戦前には、現代よりもはるかにすさまじい、むしろ醜態といっでよいくらいの権力闘争然の争いが繰り広げられましたが、前述しましたように、宗史から抹殺されているために一般の僧俗はその内実を皆目知ることができません)。註@

 そこで正信会は、宗内の僧俗を啓蒙すべく、真の血脈とは何か、また宗門史上実際に血脈相承は断絶したことはなかったかどうかの論議を巻き起こしました。その代表的な論文が「正信会報」(昭和56年1月)に掲載された久保川法章師(大阪・法源寺住職=現在は正信会を離脱)の「世界宗教への脱皮」です。この論文で同師は、血脈相承が宗祖以来700年間絶えることなく連綿と続いてきたとする従来の教説は誤りで、じつは度々断絶していたと具体的な史実を挙げながら指摘、にもかかわらず時の大衆(だいしゅ=一般の僧)や在家が法を正しく護持したことによって血脈法水は清らかに維持されてきたと説いたのでした。そして同師は、日蓮正宗はもはや理性や常識に反する”神話”や”虚構”から脱却しなければ世界的な宗教とはなりえないのではないか、換言すれば、いかなる人種、民族、風土、環境にも晋遍する日蓮仏法の広宣流布は不可能ではないか、と提言したわけです。

 血脈相承の断絶ということ自体は、宗史を少しひもといた人ならば気づくことで、大騒ぎする類いの話ではないのですが(宗門は「断絶していない」との立場を取っています)、明治いらい昭和20年の第2次大戦敗戦に至るまで”万世一系の現人神・天皇”と教え込まれてきた日本国民と同じく、”唯授一人血脈相承の貫首は絶対的存在”と教えられてきた一般の僧俗にとっては驚天動地の出来事で、会内外は騒然とし始めました。

 この久保川論文の発表によって、正信会はついに、それまで神聖不可侵とされてきた猊座の権成=タブーに手を着けたわけです。宗門はさっそく、論駁の冊子[久保川論文の妄説を破す】を出版して対抗しました。これによって、もはや正信会と宗門は、抜き差しならぬ関係に陥りました。同時に事態の深刻さに動揺し、正信会から離脱、宗門に復帰する僧俗も続出しました。

 やるせない思いをしたのは、大半の僧俗でしょう。宗内の、いわば身内同士の争いになっだのですから、こんなに情けないことはありません……。

 しかし、いずれにせよ事態をこじらせた責任の大半は宗門にあります。

 正信会と日顕師との間の認識の基本的な違いは、創価学会が「6・30」や「11・7」で約束した謗法是正を着実に履行しているかどうかの評価をめぐつてでした。正信会はもちろん、創価学会内から相も変わらず聞こえてくる池田名誉会長礼賛や居直り発言などから学会に不信感を強めていましたが、日顕師は初めから学会、とくに池田名誉会長に全幅の信頼を置いているかのような発言を繰り返していました。どちらが正鵠を射ていたかは、今日の事態を見れば一目瞭然でしょう。ところが、日顕師は正信会の度重なる忠告や建言にもいつこうに耳を傾けることなく、なぜか創価学会の擁護に回りました。その象徴的な事件が、昭和55年8月に開催された日本武道館での第5回全国檀徒大会をめぐる攻防でした。日顕師は開催に強硬に反対し、挙げ句が、正信会に対する擯斥処分です。

 喜んだのは、むろん、高みの見物を決め込めるようになった学会です。矛先がそれて宗内の僧侶同士が相争うようになっだのですから、これ以上好都合な展開はなかったでしょう。聖教新聞紙上では”日顕上人”を祭り上げる礼賛記事が相次ぎ、返す刀で”悪侶の集団・正信会”と口汚なく罵り始めました。

 正信会の僧俗は、この理不尽ともいえる措置に納得されたでしょうか。もちろん、否、です。だからこそ、宗門の処罰に抵抗して裁判闘争に訴え、その非道を宗内外に向けて糾弾したのではありませんか。宗門もまた、正信会寺院の明け渡しを要求して、圧力を加えました。当時の状況をつぶさに知る人なら覚えておいででしょうが、公開討論要求、質間状、建言、要望書、抗議書、抗議登山、訴訟合戦等々めまぐるしい闘いが繰り広げられました。そして、ついには”日顕上人”への絶縁宣言(”正統な貫首と
は認めない”旨の通告文〈昭和56年1月11日〉および管長裁判提訴〈同年1月21日〉)です。

 

 

管長裁判提訴で運動は変質

 かくして正信覚醒運動は、日顕師と対峙することによって、当初の、学会だけを相手にした運動から、宗門総体を根底的に問い直す運動へと変貌したのです(変貌といって語弊があれば、深化といっでよいでしよう)。つまり、そこで初めて、”金口嫡嫡・唯授一人血脈相承の法主上人は現時における日蓮大聖人”としてきた近代の宗史・宗学では説明しきれない疑問――なぜ正法の伝持者たるべき貫首が謗法を改めない創価学会を擁護するのか、これでは単に学会だけを責めても問題の本質的な解決にはならないのではないか、むしろ学会を長い間放置し今日の事態に至らしめた宗門・僧侶の在り方こそ問われるべきではないか――に逢着し、そしてそもそも本来の日興門流の法門とは何か、どのような信仰の在り方が富士の流義なのかという運動の新たな目的意識に目覚めたのではなかったのでしょうか。

 こうした事態は、運動草創期には想像すらできないことでした。しかし、日顕師の貫首・管長就任、創価学会擁護・正信会弾圧という不測の事態が出来したことによって、状況は一変したのでした。当時の日顕師は宗内でも名だたる親学会派でしたから――教学部長時代、「創価教学は完璧です」と発言されたのはあまりに有名です――、就任後の言動が注目されましたが、第5回全国檀徒大会を契機にその方向性が露になり、明白に正信会弾圧に着手しました(逆に、その後、同師は、一度は法華講総講頭を辞任したはずの池田大作氏を再任し、学会寄りの姿勢を鮮明にしました)。

 同師の命令に従うか否か、おそらくここが運動の分岐点となったと思いますが、正信会――もっとも会として正式に発足するのは暫く後のことで、当初は活動僧侶、活動寺院と通称されていました――は議論の末、同師と対決し、真っ向勝負を挑むことを選択したのです。先代の日達上人ご在世中にも一再ならず宗務当局と対立せざるをえない局面があったのですが(とくに本尊模刻問題の曖昧な決着をめぐって)、正信会僧侶たちの置かれた立場――まだ宗内の過半数を占めてはいませんでした――や、その多くが日達上人の弟子に当たることもあり、表立って貫首に反旗を翻すことなどタブーに等しく、逆に”貌下に心服随従するのが日蓮正宗の伝統的信心”と信者を教育してきていましたから、日顕師と対決する事態となって、その理由、意義について改めて信者を説得しなければならなくなったのです。

 一方、信者も馬鹿ではありません。信者は信者なりに運動の過程で多くの矛盾や疑問を感じ取り、悩んだり憤ったり、また法門の研鑽に励んだりしていました。

 ”貌下が白を黒とおっしやれば黒なんだ、それが日蓮正宗の信心というが、白はあくまで白ではないか。それが道理というものではないか”

 ”宗門、あるいは僧侶というのは、どうも当初想像していたように清浄無垢な存在とはいえないようだ”

 ”出家とは名ばかりで、在家となんら変わらない僧侶もいるではないか”

 ”二言目には有師化儀抄の「竹の節目に上下があるごとく云々」の一節を持ち出して信者を膝下に置きたがるが、当の自らは、果たして信者から尊敬されるような修行に励んでいるのか”註A

 ”人軽法重といいつつ実際は人情に執して保身に走り、法門を軽んじているではないか”
等々……。

 しかしながら、こうした信者の切実な疑問や悩みに答えてくれる法門は、少なくとも近現代の宗学のなかには見当たりませんでした。ところが、それに応えたのが、若手教師たちが展開した”師弟子の法門”だったのです。この理論は在野の古文書学者・川澄勲氏の独自の法門解釈から大きな影響を受けていると噂されもしましたが、わけても注目されるのは、出家と在家との間に法門上の差別は存在しないし、相互に薫発し合う関係であると従来の僧俗筋目論を超えた僧俗平等論を説いたことで、悩める信者を目から鱗が落ちるような、じつに新鮮かつ清冽な思いに浸らせました。”師弟子の法門”は、僧俗関係ばかりでなく、己心に本尊を建立する、といった難解な本尊論も同時に展開したために、正信会内部でも物議を醸した面もありましたが、しかし、初めて体験する、宗門・僧侶の言動の矛盾にもがき苦しんでいた信者の多くが、若手教師の主張に心を躍らせた事実は否定できません。

 それまで憂々悶々として内包してきた貫首の行状の理不尽さや宗務行政の矛盾、僧侶の言行不一致、近代宗学の偏向などの疑問が少しつ氷解できたからです。貫首イコール大聖人にあらず、貫首も間違いを犯すゆえ絶対・無謬の存在ではない、したがって貫首の過ちを責めるのは道念ある僧俗の務めである、否、そもそも日顕師自身が正統な貫首かどうかさえ疑わしい――日興上人遺戒置文をはじめ先師の著述を読み直し、従来の先見や疑念が解消されるにつれ、新たな段階に到達した正信覚醒運動の意義に自信を深めました。

 それゆえに貫首、血脈や戒壇本尊などについて既成概念を覆す法門上の問題提起がなされるのは、理の必然であり、時間の問題ともいえました。

 

 

 効果的だった異流義キャンペーン

 論の是非はともかく、この時、もしこれらの諸師の法門提起がなければ、正信会は宗門の権力を伴った攻勢に十分大刀打ちできなかったのではないでしようか。権力に対して法義で対抗したからこそ、あの時踏みとどまれたのだと思います。逆に、宗門は法論で十二分に応えられないからこそ力を行使したのではなかったでしようか。力と力の対決だったなら、当然弱いほうは敗北しているでしょう。しかし、法論であれば、そしてそれに自信を持っていれば、力では負けても魂は屈することはありません。日蓮聖人が北条幕府や他宗徒からどれほど弾圧・迫害を受けても微動だにされなかったのは、まさしく妙法の正義を確信されていたからです。

 しかし、残念ながら、これらの法門上の問題提起は、宗門から”異流義”のレッテルを貼られるとともに、管長裁判に不利を招くとの正信会執行部の戦略的判断から禁じられることとなりました。どういうことかといいますと、この裁判で正信会は、日蓮正宗の宗制宗規に則り、あくまで日顕師の登座をめぐる手続きの不備を衝くという戦法を採ったのに対し、宗門は教義上の問題に収斂させ、裁判そのものを無効に導くべく”異流義キャンペーン”を展開しました。それに利用されたのが、法門上の諸提起・試論でした。

 なかでも槍正に挙げられたのが、正信会が擯斥4処分を受けたために、従来のように大石寺に登山して戒壇本尊を内拝できなくなった信の動揺を防ぐべく展開された、久保川師や若手教師などによる新たな戒壇本尊論でした。両者の戒壇本尊論には相違がありますが、いわんとするところは要するに、大石寺の戒壇板本尊を直拝しなくても、成不成には影響しない、むしろ遥拝こそが本来の参拝の有り様だというものでした。一見当たり前のことのようですが、これまでは、日々の信心の集大成として総本山に参り、戒壇板本尊を内拝して懺悔滅罪し、成仏を祈念することが模範的信心とされてきましたから、久保川師らの戒壇本尊論は、近代日蓮正宗における従来の信仰観に本命的な転換を迫るものでした。

 ところが、宗門はそれを逆手に取って、”血脈法水を否定する大謗法” ”戒壇の御本尊を否定する異流義”とのキャンペーンを張ったわけですが、これは、ある程度奏効しました。なぜなら、他宗派はいざ知らず、日蓮正宗とう教団におしては、い流儀呼ばわりされることは、いわば村八分に遭うようなものだからです。管長の指示・命令に背いて、宗外追放の憂き目に遭うこととは次元が異なるのです。行政処分の場合は処罰期間が過ぎれば、あるいは懺悔すれば宗内に復帰することも可能ですが、新義創唱は信仰次元で異端者と見なされ、教団コミュニティから疎外されてしまうことを意味します。そしていずれは、宗史から抹殺されるのです。註B

 こうした宗門の異流義批判に対し、正信会は「継命」紙上に「統一見解」を掲載しました(昭和56年3月1日付)。

「1、本門戒壇の大御本尊を断じて否定するものではない

 2、宗開両祖の御教示、御遺訓を正しく弁えられ厳護される法主上人に対し奉っては、血脈付法の大導師と信伏随順申し上げるのは当然であって、我々もそれを心から望んでいるのである

 3、(略)」

 この【見解】を見れば、いかに正信会が戒壇本尊否定、血脈相承否定の宗門側キャンペーンにたじろいでいたかがおわかりでしょう。その結果、「継命」に載せる原稿も予めチェックを受けるようになり(とくに若手教師の原稿に対して)、宗門に揚げ足を取られたり、裁刊に差し支えると危惧されれば削除、訂正、ボツのいずれかとなりました。

 その後、こうした措置を承服できない僧侶の幾人かは正信会からも離脱し、独立独歩の道を歩み始めましたが、しかし、この法論停止を契機に、覚醒運動のエネルギーが急速にしぼみ始めたことは否定できません。なぜなら、宗門との実質的な対決は裁判所という第三者の場以外になくなり、同時に運動に新鮮な息吹を芽生えさせ始めたかに見えた種々の法門論議も抑え込まれることによって、運動のエネルギーが外に放出されなくなったからです。逆に、行き場を失ったエネルギーは、この種の運動(アンチ・エスタブリッシュメント・ムーヴメント)の常で、内部の対立・不和となっで表れ、あちこちで僧侶間、僧俗間のいざこざが発生するようになりました。

 閉塞状況に陥ると、運動は同心円の中をぐるぐる回遊するだけで、いくらスローガンやモットーを高々と掲げても、膨張して突破するエネルギーは生まれるわけがありません。逆に、運動が盛り上がっている時には目くじらを立てられるようなことのなかった些細な出来事にも攻撃や批判の矛先が向けられ、揚げ足を取ったり取られたりの無用の諍いが生じたものです。宗門の貫首のような、確固とした権威・権力者が存在しない正信会では、人事の絡む揉め事を短期間に解決するのは容易なことではありませんでした。

 

 

教義論争停止で運動は停滞ムードに

 こうした状況のなかで、信者の関心は当然のごとく裁判の推移に集中し始め、時々刻々質問が寄せられるようになりました。執行部もその対応に苦慮し、結果、諸会合の折々に裁判の経過報告が演題の一つに加えられることとなったのです(リポーターはたいてい山崎正友元弁護士でした)。

 しかし、裁判が結審していないなか、いろいろ質問されてもじつは明快な回答ができるわけはなく、往々にして手前味噌の経過報告をせざるをえないのが実情でした。

 裁判は、ご承知のように一朝一夕に結論が出るものではありません。一審、二審、三審と続けば5年、10年の長期にわたります。この間、法門上の問題提起ができなければ、いったい何ができるのでしようか。

 なるほど毎年毎年、「折伏をしよう」とか「寺院に参詣しよう」「富士の清流を守ろう」といった運動の目標やスローガンが掲げられはしますが、すでに意気を阻喪した多くの僧俗が心を躍らせるわけがありません。草創期こそ”錦の御旗”が背後に控えていたために、学会員の脱会も比較的容易にはかどりましたが、”御旗”を失っていらい成果が思うように上からなかったのは周知のとおりです(それは今回の宗門も同様で、貫首自ら音頭を取って池田氏を破門し大量の学会員の帰伏を当て込んでみたものの、先代上人ほど馴染みがなく、また学会組織への愛着を捨て切れないせいか脱会者は予想をはるかに下回っています)。註C

 もちろん、正信会としては、裁判はあくまで運動の一環であって目的ではない、と事あるごとに強調してはいましたが、法門の論議が停止されてしまっては衆目が裁判に注がれるのは如何ともしがたいものでした。

 本来なら、この閉塞状況に”喝”を入れるのが、近代の宗史・宗学の常識を問い直そうとする法門の研讃、深耕のはずでしたが、結果的に裁判に勝利するのを至上命題にしてしまった運動の針路決定により、古谷師もご指摘のとおり、今日に至るまでもはや再び運動が昂揚したことはありません。まして、同師によれば、正信会の現状は「二百派連合内閣ともいわれ」「疲労感と惰性が漂って」「もしこのままで時間が経過すれば、正信会は、帰山とは逆に分裂に進む可能性が強い」そうです。確かに、一時期の「正信会報」には、会の指針の不透明さや会内意思の不統一ぶりを心配する声が目立っていました。

 しかしながら、考えてもみてください。運動の停滞を招いた元凶ともいえる管長裁判の総括なくして、会の展望も指針も打ち出すことは難しいのではないでしようか。帰山論議の深化も望めません(管長裁判提訴以降、貫首論や血脈相承論に関する突っ込んだ論議が見られないのは残念なことです)。

 古谷師は 「正信会に張りが無くなった」のは、「正信覚醒運動の最大目標である創価学会が宗門から消滅し、同時にそれに付随していた裁判も終結しだからである」とこ認識され、だから帰山すべしと説かれているようですが、これまで述べてきましたよ
うに、小生は、学会が破門され、裁判が終結したから運動に張りがなくなったのではなく、運動の重心が裁判闘争に移され、創価学会と与同した宗門との徹底した法論を避けたために停滞していった、と認識しています。また、仮に学会を破門したことで一もいわれ」「疲労と惰性が漂って」「もしこのままで時間が経過すれば、正信会は、帰山とは逆に分裂に進む可能性が強い」そうです。確かに、一時期の「正信会報」には、会の指針の不透明さや会内意思の不統一ぶりを心配する声が目立っていました。

 しかしながら、考えてもみてください。運動の停滞を招いた元凶ともいえる管長裁判の総括なくして、会の展望も指針も打ち出すことは難しいのではないでしようか。帰山論議の深化も望めません(管長裁判提訴以降、貫首論や血脈相承論に関する突っ込んだ論議が見られないのは残念なことです)。

 古谷師は 「正信会に張りが無くなった」のは、「正信覚醒運動の最大目標である創価学会が宗門から消滅し、同時にそれに付随していた裁判も終結しだからである」とこ認識され、だから帰山すべしと説かれているようですが、これまで述べてきましたように、小生は、学会が破門され、裁判が終結したから運動に張りがなくなったのではなく、運動の重心が裁判闘争に移され、創価学会と与同した宗門との徹底した法論を避けたために停滞していった、と認識しています。また、仮に学会を破門したことで一わると人の心も身体もそれに種々反応します。冬が来れば、なんとなく物悲しくなりますし、春が来れば、心が華やぎます。

 同様に、運動が冬の様相を呈していたならば、人心を一新すべくけじめをつけて、春の息吹きを呼ぶべきではなかったでしょうか。

 

 

 大石寺は興門の正道を歩んでいるか

 古谷師はさらに、正信会のまとまりのなさは、とくに「教義の解釈においてその傾向が強い」と仰せですから、宗門との法論など、もってのほか、と考えておられるのかもしれません。では、お聞きしますが、古谷師は現在の大石寺がはたして正統日興門流の法門を正しく伝持し、展開しているとお考えでしょうか。

 平成11年4月、正信会とは無縁の宗門側寺院(千葉・報恩寺)が前触れもなく、日蓮正宗との包括・非包括関係の停止、つまり日蓮正宗からの離脱を表明しました。日蓮正宗からの離脱とは、とりもなおさず大石寺貫首の唯授一人血脈相承を否定することになるわけですが、このことは、しかし、宗開両祖いらいの血脈法水を否定することではありません。

 それを確信しているがゆえに、離脱に踏み切ったのでしょう。

 離脱の理由の 筆頭が、宗内に強まる”貫首本仏論”への批判でした。これまで宗門からの離脱といえば、おおむね親創価学会派の僧侶が取る行動でしたが、今回の寺院はそうではなく、宗門の打ち出す方針や貫首周辺の言動を住持・総代が一体となって総括した結論のようです。この一事をもってしても、現大石寺が興門の正道を歩んでいるとは思えないのですが、いかがでしょうか。こうした宗門に、頭を垂れて復帰するだけの価値が今、あるとは考えられません。

 さらに、その後、日顕師が教学部長だった昭和53年当時、戒壇板本尊は偽作であるとの発言を記した「河辺メモ」の発覚によって、同師に不信を抱いた数ヵ寺が離脱しました(ただ、これらの寺院は「創価新報」等に登場し、学会と協働していく姿勢を鮮明にしました)。

 小生には、近・現代の大石寺法門はどうも上代の流義からピントかずれているように感じられます(それは必ずしも現宗門のみの責任ではありませんが)。たとえば、貫首本仏論にせよ、かつての池田本仏論にせよ、元をたどれば日蓮本仏論に行き着くのではないかと推考します。前者は、末法の本仏・日蓮聖人、開山日興上人いらいの血脈法水を相承しているがゆえに大聖人と同じ絶対的存在=現時における大聖人であるとし、後者は後者で、宗開両祖の遺命=広宣流布を忠実に実践し、実績を築いているがゆえに正統の血脈を継承している絶対的存在=大聖人の再来と主張できるのではないでしようか。

 しかし、日蓮本仏論の眼目は、凡夫僧たる日蓮聖人が如説修行し法難に遭うことによって成道されたのなら、我々凡夫も聖人と同じく――つまり、その聖人をお手本にして――難に遭い難を乗り越えることによって覚者となれるのだ、というところにあるはずであって、この末法に、在世釈尊に取って代わる新たなる三十二相八十種好の、我々衆生と遠く懸け離れた超越的仏を誕生させることにあるのではないはずです。

 しかるに、今日流布するところの日蓮本仏論は、あたかも在世脱盆の色相荘厳仏のごとき存在として観念され、我々凡夫との間に絶対的格差が設けられていはしないでしようか。これでは、宗祖聖人が末法の濁世に出現されて、「数数見擯出」を実践された意義が倭小化されます。

 宗祖、開山上人の富士上代に戻り、もう一度衆生成道の要諦たる日蓮本仏論を原点に立って構築すべき時節が到来しているように思います。

 教義の問題ばかりではありません。宗門の体制にも大きなひずみが生じているようです。平成11年5月19日付「創価新報」が伝えるところによれば、過去8年の間に30数名の僧侶が左遷されたり、還俗したり、降格されたり、隠居を余儀なくされたりしているそうです。破廉恥な刑事事件を起こして擯斥された若手僧侶もいます。原因が奈辺にあるにせよ、宗門は綱紀面でも昏迷の度を深めています。

 復帰論者は、こうした問題の一つひとつを認識されたうえで、帰山を志向されているのでしようか。

 

宗門百年の大計を逍遥して

 さて、今回の宗門と創価学会との間の抗争が、いったい何か原因なのか、双方のやりとりを見てもいっこうに要領を得ないのですが、基本的にそれは正信会にとつては、埓外のことと考えます。日顕師と池田氏との争い――しかも極めて個人的な色彩の濃い争いに見えます――であっで、正信会と池田氏との争いではないのですから、池田氏の破門処分をもつて”覚醒運動の目的は達成された”と干渉する必要はないのではないでしょうか。

 むしろ、逆に正信会の年来の主張や先進性が証明されたわけですから、譲歩するとしたら宗門側ではありませんか。なぜ先に正信会が「反省することは反省し、訂正することは訂正する努力と勇気を惜しんではならない」ことになるのでしようか。もしかして「反省」や「訂正」とは、日顕師と争つたことを懺悔し、同師を正統な貫首・管長として是認し、その膝下に脆くことを意味しているのでしょうか。小生はそのようなことも将来ありえてよいと思いますが、だとしたら、その前に、まず宗門こそが、正信会との関係、創価学会との関係について総括・反省し、宗内外に日蓮正宗として声明を発表すべきではないでしようか。

 また、もし帰山するなら、正信会は同会僧侶の護法の息吹を信じて長い間付き従つてきた信者さんに、管長裁判提訴(日顕師否定)と本山復帰(日顕師容認)との間の論理的整合性を示さなければなりません。そうでなければ、何のための20数年に及ぶ正信覚醒運動だったのか納得できないのではないでしょうか。ただ単に、お山に帰れる、戒壇本尊を拝める、ということだけで信者が喜ぶと考えられているとしたら、あまりに幼稚といわざるをえません。これでは、従来となんら変わらない、単なる物神論的信仰にすぎません。正信覚醒運動とは、それほど皮相な宗教活動ではなく、その物神論を乗り越えたところに真髄があったはずであり、それこそ正統日興門流の信心ではなかったのでしょうか。運動の深耕化とは、そういうことだったはずと理解しています。

 小生は、今に至るも正信覚醒運動を単なる対創価学会破折運動とのみ把捉している人がいるとしたら、その人々にとって覚醒運動とは所詮、僧侶集団と巨大信徒団体との問の主導権争いの問題でしかなかったと諦観せざるをえません。こういう運動は複雑化してはならない、単純でいいんだとの持論を所有されている方もおいででしょうが、では、単純化して、はたして運動は昂揚したのか、深化したのかと問い返したいと思います。答えは、やはり、否、であります。覚醒運動が予期しない局面に遭遇し、紆余曲折・試行錯誤を繰り返して複雑な過程を経てきたことは、紛れもない事実であり、20年にわたる歴史的現実なのです。

 また、正信会は殯斥、学会は破門、では、互いに戦争にはなりません。いや、むしろ宗門と学会との過激な抗争の陰に隠れて、正信会の存在は日に日に薄れる一方ではないでしようか。活路を見出すとすれば、宗内的には富士の流義の原型を解明する作業に勤しみ、世間に向けては、日蓮仏法の現代的意義をアピールする令法久住・広宣流布の活動を興隆することにあるのではないでしようか。

 とくに前者については近年、興風談所を中心に丹精込めて進められた日興上人、日目上人に関する史資料集の出版は、開山上人、三祖上人の思想、伝記、行跡などの全貌、つまりは富士の法門の源流を探るうえで資するところ大となる、きわめて貴重な作業です。これは、宗内にいては、とても可能な作業ではなかったでしよう。今、宗外にいるからこそ自由な探究ができたのです。

 もし、それでも帰山に執着されるのであれば、むしろ現時にこだわらず、将来、宗門が正常化された(興風を再興した)暁に堂々と回帰されればいいではありませんか。それが孫子の代になったとしても、宗開両祖の末弟として信念に生きたのであれば本望ではありませんか。それはまた、運動の途上で逝去された同志の存念に報いる道でもあります。

 宗史上でも謗法の造像がはびこった後に、賢明な大衆や信徒が清浄化した歴史もあったようです。註D

 正信会も王道を歩むならば、いつしか正しく評価されるはずです。短慮は禁物です。宗門百年の大計を逍遥して、覚醒運動の意義を考えるべきです。

 したがって池田氏・創価学会破門という事象のみを取り上げて、目的は達成された、と喜ぶのは筋違いというものです。そこには運動としての一貫性は見られません。もし、運動の論理的整合性を無視したり、法門上の意義を軽視したりするのであれば、正信覚醒運動とは、近代宗門史上に何度も繰り返されてきた愚劣な抗争となんら変わることのない、言い換えれば、歴史の教訓から何も学習してこなかった低次元の権力闘争にすぎなかったといえるのではないでしょうか。

 

 

学会問題は公明党の存在と一体

 なお、最後に一言付け加えれば、小生は、宗門が学会を破門したのは戦略的に早計だった、と考えます。というのは、破門してしまえば、宗門によるコントロールができなくなるからで、現実に学会の独自路線はどうにも歯止めが利かなくなっています。

 秋谷会長は、こんな発言をしています。

 「しかし、今になってみると、本当に宗門と別れてよかった。広大無辺の未来が広かっている。学会を奴隷にしようと思った宗門の、あの憎しみの声が、何一つ聞こえない(笑い)。諸天善神が、彼ら坊主を、あざわらっている(大笑い)」(平成11年10月23日付聖教新聞「自由座談会 旭日の創立70周年を迎えて」I)

 そもそも学会の教義改変問題、宗教活動の根源は、その政治部といっていい公明党の存在を抜きにしては語れないのであり、野(宗外)に放ってしまえば、好きなようにできます。なぜなら、学会の教義改変志向は、公明党の党勢拡大戦略=選挙での公明票の増大化にその淵源があり、別個に捉えては学会問題の本質を見誤ることになるからです。つまり、社会各層にいまなお根強い反学会感情を和らげ、公明票増大に結び付けるには、社会との融和・協調が不可欠であり、そのためには他宗=世間一般を「謗法」「邪宗」などと決め付け、常に緊張関係を維持していかなければならない日蓮正宗の宗是から脱却する必要があるのです。

 それを裏付けるように、公明党が全日本仏教会、新宗連、神社本庁の主要3団体に協調関係を申し入れたり、立正佼成会開祖・庭野日敬氏の葬儀に学会・公明の幹部が参列したりしているようですが、学会の意図が奈辺にあるかを端的に示しています(「週刊現代」平成11年10月30日号)。

 52年路線のときには、日蓮正宗の傘下に隠れて独自路線を取ろうと企図したのですが、先師・日達上人が破門を思いとどまられたために学会は表高上ではあっても、日蓮正宗の伝統的化法化儀を尊重する立場を取らざるをえませんでした。

 しかし、破門し、異端視している現在、宗門が何をいっても効果はありません。もし逆に、宗内に留まらせていれば、少なくとも貫首・管長の言動は池田氏とて無視できないはずです(仮に面従腹背だったとしても)。学会が恐れるのは、与党権力と世論と、そして大右寺貫首の三つの存在です。なかでも大石寺貫首は唯一、学会に対して宗教上の権威を及ぼすことのできる際立った存在であったはずです。両者が、現代および未来社会における広宣流布や教団運営のあり方をめぐって議論、論争、喧嘩をするのは大いに結構なことです。しかし、破門という”伝家の宝刀”をいともたやすく抜いてしまった現在、もはや貫首の権威が及ぶどころか、憎悪や嘲笑の対象となっでいます。

 周知のごとく、公萌党は第2次小渕内閣の発足と同時に自民、自由党との連立に踏み切り、現在は、自民、保守両党と連立政権を組んでいます。もちろん、池田氏のゴーサインなくして自民党との連立ができるわけがありません。。そのすさまじい権力中枢へこ執念は老いてますます盛んのようですが、本来なら学会の反社会的活動を抑制できるのは、宗門でした。しかし、今となっては、もう後の祭りです(余談ながら、今回公明党が連立政権に参加した真
の意図は、池田氏の国内勲章の受章、ゆくゆくはノーベル平和賞の受賞を実現することにあると思います。聖教新聞で連日のように華々しく報道される池田氏の各国勲章受章記事や名誉博士号などの授与記事はその企図を雄弁に物語ってはいないでしようか。その前提として、日本政府の推薦は大きな後ろ盾となるはずです。自公保連立は、支配層への融和・浸透を図り、反池田感情を解消しようとする、いわばその環境づくりといえるでしょう。

 宗門が肩入れした反学会勢力の「四月会」に参加していた自民党の議員は、はたして期待に応えたのでしようか。自自公連立を推進した、かつての反学会の急先鋒・亀井静香代議士(現自民党政調会長)や野中広務代議士(前自民党幹事長)などの変身ぶりを見ると、政治の世界がいかに信用が置けないかわかろうというものです。自民党という政党は、権力を維持するためなら毒でも何でも食らう政党です。戦略を忘れて、目前の戦術のみに囚われていると代償は高く付くのではないでしょうか。

 

 

 

註@ たとえば、大正年間には58世日柱上人の相承問題、昭和初期には60世日開上人の御本尊讃文の誤記問題などで大騒動が繰り広げられ、当時のマスコミに取り上げられたり、政府の宗務局から注意を受けたりするなど世間から顰蹙を買ったものでした。

註A 実際には、堀日亨上人の「有師化儀抄註解」のように、むしろ出家側に少欲知足、内省、謙虚さなどを促され、僧道の厳しさを追究されている註釈もあるのですが、あまり言及する人はいないようです。日達上人によれば、化儀抄は、若き日鎮上人への指南書として南条日住師が有師談を折々に書き留められた覚え書きであるということですから、有師の真意が次期貫首や大衆への訓戒にあったことは間違いありません。堀上人の「註解」は有師のお心に沿っていると思いますが、それをまるで在家信者への訓戒のごとく説く現代の風潮は、有師や先師のお心を曲解していると思います。ちなみに次の条目に言及する僧侶を多く知りません。「法花宗の僧は天下の師範たるべき望有るが故に、我弟子門徒の中にて公家の振舞に身を持つなり」(富士宗学要集第1巻)

註B 近代の宗門ではその事例を見ませんが、近世においては、三鳥派や堅樹派といった反宗門派が江戸で台頭し、徳川幕府の宗教統制によって沈滞していた大石寺を”折伏しないのは宗祖への違背だ”などと批判、熱心に独自の布教を展開しました。これに対し、宗門は幕府に、かれらを異流義として届け出たため、両派とも幕府に弾圧され、歴史上から消え去ってしまったのです。現在、その痕跡は、辻善之助「日本仏教史」中世篇、史料集「徳川禁令考」、「富士宗学要集」、「富士学林教科書研究教学書」などに収められた文献や記録によって、わずかながら窺い知ることができます。主な論文として、花野充道師「異流義発生と名字妙覚論」(「和党」28号)、不受不施派の学行院日秀師「三島派について」(「学行院日秀聖人撰集」所収)などがあります。両者とも、三島派や堅樹派の自己本仏思想には批判的です。

註C 学会員の組織への愛着について僧侶側は自身、一国一城の主のせいか概して無関心・無理解のように見えますが、これはよくよく熟慮してもらいたい課題です。私事を引き合いに出して恐縮ですが、小自身、宗門の住職や法華講幹部の冷淡さには少々呆れ返っています。というのも、小生の父は数年前、心不全で急逝、その3ヵ月後には母がクモ膜下出血で倒れ手術、一命は取りとめたのですが、水頭症の影響で記憶障害、言語障害、身体不自由の三重苦に陥り、現在要介護の身で自宅療養しています。

 しかしながら、入院中も退院後も、住職はじめ講幹部の誰一人として見舞いに来たことがありません。知っているはずの前住からもいっさい連絡してきません。数名の講員の方が来られただけです。健在なときは、父と一緒に各種行事や唱題会、勉強会にと熱心にお寺に通ったり、自宅を座談会の会場に提供したりしていたのですが、倒れたとたん、このありさまです。寺から拙宅まで車でわずか15分ほどの距離なのに、です。今、母に代わって、介護をしている姉が早朝勤行にお参りしていますが、学会のほうがよほど同志の面倒見がよいと考えることがあります。いくら血脈だ、戒壇本尊だ、富士の清流だなどと奇麗事をいっても、血の通わない、心の温もりのない寺院や法華講組織ではしかたないではありませんか。学会員が組織を抜けたがらないのも故なしとしないのです。

註D 日精上人の造像について、宗門は登座前の所業にすぎないとして看過し、またその造像行為に対する大衆・信徒の反対はなかったとの立場をとっていますが(「久保川論文の妄説を破す」)、奇妙なことに「富士宗学要集」史料類聚篇の関連項目には全く言及されていません。同書で堀上人は以下のごとく述べられています。「日精に到りては江戸に地盤を居へて末寺を増設し教勢を拡張するに乗じて遂に造仏読誦を始め全く当時の要山流たらしめたり。但し本山には其の弊を及ばさざりしは衷心の真情か周囲の制裁か、其れも四十年ならずして同き出身の日俊日啓の頃には次第に造仏を撤廃し富士の古風を発揚せりなり……」(雪山書房版「富士宗学要集」史料類聚別巻101ページ)。つまり、精師の造像読誦行為に対しては僧俗の抵抗もありえたのであり、仏像は同じ要法寺出身の22世日俊上人、23世日啓上人に到って撤去されたというわけですから登座前の軽い”要法寺づり”どころの所業ではありません。むしろ「随宜論」の末文を読めば、精師の造像が確信に満ちた行為であることは一目瞭然です。「右の一巻は予法詔寺建立の翌年仏像を造立す、茲に因って門徒の真俗疑難致す故に矇夢を散ぜんが為に廃忘を助けんが為に筆を染むる者なり」と造像を「疑難」する「門徒の真俗」のほうがわかっていないので「随宜論」を著したと仰せられているのです。また、日俊上人は逆に本家・要法寺から「日俊上は予が法兄なれども曾て其の所以を聞かず」(日舒師「百六箇対見記」)と、日俊上人は自分の兄弟子に当たるのに、なぜ仏像を取り払うのか理由がわからないと難じられているほどです。宗門が精師の家中抄著述の苦労や努力に敬意を表したいのは理解できますが、しかし、だからといってその造像読誦行為を不問に付すわけにはいかないと考えます。思うに、精師の意識のなかではどちらが本家かは現存資料では判断できませんが、石要両山は一体と見なされていたのではないでしようか(前掲「百六箇対見記」には精師が要法寺本堂の建立に際してたびたび助力したと記録されています)。したがって精師にあっては、大石寺の血脈相伝の正統性を叙述することと造像読誦とは矛盾しなかったのであり、また自身、大石寺の貫首の地位にあるわけですから正統性を強調しようとするのは当然であって(そうでなければ自己否定になります)、それがさらには自身のプライトを飾ることにもなるわけですから、過大評価は考えものです。あるいは好意的に解釈すれば、堀上人が家中抄は伝記の演劇化が甚だしいと嘆息されているように、宗門が高く評価している歴代上人に関する資料収集や記述の熱意も、造像読誦で宗内の不興を買ったことに対する懺悔の意味もあったのではないでしようか。このほか、精師とは関係ありませんが、「新編武蔵風土記稿」には常泉寺の「宝物」として「坐像釈迦佛1躯、伽羅佛立像正観音1躯、四天王4躯」と6体の仏像があったことが記録されています。これは、同寺に縁の深かった天英院殿の関係で持ち込まれたようですが、天英院殿第33回忌を期して同寺の宝蔵に収納された、とありますから、かなじ長期間にわたって仏像が安置されていたことが窺い知れます。

 

 

 

 

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