特別寄稿

 

近代日蓮宗布教史について

 

この稿は去る昭和51年4月13日に催された、現宗研第3回公開講座に於いて影山尭雄先生が講演の為に用意されたテープからまとめたものである。

 

1、檀林教育について

 

日蓮宗で近代といいますと、さしずめ江戸時代です。そのころ布教者をどんな風に育てたかと申しますと、ご承知のこれは檀林教育です。檀林教育というのは、今頃の教育の体制とは違っておりまして、今日で言えば全寮生活とでも申しますか、通っている者もおります。通っている者とても大抵寺院生活をしています。檀林員の大部分は寮に居ります。学寮というのに居るわけです。

それはどうしてかと申しますと、ただ知識を授けるという近頃の学校教育とは目的が違います。人間全体が、手本になるような人間にしたい。こういうのが檀林教育の目的なのです。ですから袈裟衣をつけたお坊さんとしての立ち振る舞い、行儀作法、心の持ち方すべて全体を美しい人間に仕立てるというところに目的があったわけです。ですから全寮生活ということになる。朝起きるから夜寝ている間でも、檀林にもし火災でも起きたらすぐ飛び起きて、消防夫になれるような、そういう教育の仕方なのです。ですから、もう檀林の建物それ自体がお寺そっくりなのです。

我々が学校だと思って行ってみると、びっくりします。講堂といっても本堂なのです。ご本尊が祭ってありまして、お経机が置いてあり、お寺の本堂そっくりなのです。どこも違わないのです。ただ、違う所は普通の寺院は、庫裡があり、方丈があったりします。もちろん庫裡も方丈もありますが、方丈はその檀林の大先生、林長さんとか、お能化とか、化主とかいいますが、こういう人が方丈へ入れるわけです。その他のお坊さんたちは、それぞれ部屋があります。又檀林の教職の人で、板頭さんだとか、檀林の事務長さん監督ですが、そういう人は又、別の建物があります。そういうのが多少晋通の寺院と違った所です。あとは大部分寺なのです。わざと寺に仕立てているのです。というのは檀林が終って卒業して寺へ帰っても、寺の生活に変らないように育てようというのですから、従ってお坊さんとしてのいろいろな、お経は勿論のこと、法要の仕方、お塔婆を書く事でも、あるいは雑巾がけすることでもその給仕奉公ということが教育の大部分といっても良いくらいです。それですから立ち振る舞いが、やかましいし、おじぎの仕方がうるさい、上下の階級が非常に厳しかったのです。履物に至るまでみんな違います。そんな風にして階級組織で教制していました。それですから、檀林の境内から建物の中からきれいに掃除をすること、朝、昼、晩の勤行の法要、檀林の先輩林長さんの命日、忌日がわかっていればその法要をする、年回法要をする。お坊さんの形をしまして袈裟衣をつけて、何でもやってゆく。それから学問というのは、どの位の割合かはっきり分かりませんけれども6、7分は、そういう給仕奉公で、檀林のご用です。4分か3分どころが学問なのです。それで学問の時は席が決まっておりまして、それぞれ教わるものも順序があり、それを教える先生もそれぞれ決まっております。

学科の課程はだいたいこの檀林は初年級の者は天台の本を教科書にして勉強し、日蓮宗の宗義に関するものは、今で云えば大学の学部程度にまで行った時に、宗義に関する学問をし始めるということです。

多くの学生は大学、大学院と云ったような高い階級まで勉強を教ける人が少ないので、中等程度、今でいう高等学校程度、大学の予科とでもいいますが、そういう程度で終わる人が非常に多いのです。そうすると、はじめ初年級の者は天台学を専ら習うのですが、それで宗義を知らない者が大分多くなって行きました。年限を経るにしたがい、それが後には禍を及ぼすことになるわけです。とにかくはじめはそういう風な檀林教育を受けているわけです。

檀林にも布教ということを非常に重くみていることが分かります。中学程度の学問が終わった時に、第1回の布教試験があります。

どういう風な試験をやるかといいますと、その名前が.「新説法」 「新談義」といいまして、檀林の大講堂へ、高座を置きまして、年令はだいたい14、5才けんとうです。そういうまだ幼い者が林長さんをはじめ諸教授、諸先生がた、檀林の生徒全部がその講堂へぎっしりと詰まっている。その高座の上でお説教をやるのです。これが布教上の第1期の試験なのです。ですから14、5才の子供には大変な負担です。この新説法、新談義をうまくやれますよにと祈るわけです。どういうことをやらせているかといいますと、先輩が原稿を書いてくれるのですが、それを空んじるわけです。空ですけれども空で全部やるのではなく、その台本を見ながらやるのですが、そのやり方がなかなかむずかしかったようです。おまけにねんのはいった者は自分の実家の両親だの親戚まで、お赤飯をこしらえて持って来るなんていうさわぎになります。だから子供にとっては大変な重荷になるわけです。

そこで檀林にはたいてい鎮守様が別に祠ってあります。そこへ行って願がけをして、「どうか今度の新談義をうまくやれますように」と願をかけたり、水垢離といいまして滝にうたれたり水をかぶったり、そうして一生懸命に「う
まくやれますように」とお祈りをしたということです。それ程に布教ということは、もう中等程度を卒業した者に、そういう重荷を負わせてやらせるわけで、いかに布教に心を寄せていたかということがわかるわけです。それから今度その小憎が説教するにはきつい制限があります。自分の師匠の寺、或は自分の生まれ故郷の実家の土地で一回だけは談義をやっても良いというお許しが出ます。

その他一般には談義・説教というのはどういう風にしたかと申しますと、今日でいうと大学の助教授です。もうそうとうな資格者です。助教授をやれるような資格の人は、どこへ行ってやってもよろしい。ただし、これもただしつきなのですが、そのお坊さんが属している本山の[説教をやってもよろしい]という許可状を持っていないと助教授をやったような人でも勝手にお説教は出来ない。こういうことなのです。

これも、つまり布教ということが大切なことであり、大勢の人に対してお話しすることだから間違いがあったり、言い過ぎがあったり、言い損ないがあってはならないという慎重なかまえなのです。それ位布教というものは重大視していたわけです。

 

2、江戸末期

 

 江戸末期1800年頃の信仰状態といいますと、庶民の間に非常に信仰がゆき渡っておりました。布教の歴史をみますと沢山の有名な説教者が自分から町から村へ押しかけて説教をして廻っておりました。

その頃は娯楽の制度はほとんどありませんでしたから、説教師も話す機会も多く話し上手になり、講談を聞くように面白がったらしく、大変喜んで聞かれたらしいです。それが到る所で行なわれましたから、その総介成果となると大きい布教効果が得られたわけです。その成果というのが信者の増加ということで、上流階級から下層階級までずっと行き渡りました。ですから社会のあらゆる階層に日蓮宗の信仰が非常に広まったわけです。

その頃はご祈祷者というのは甚だまれで、布教に携わる人は大部分説教者でした。ですから宗門に対する信仰的な理解というものが相当に晋及したらしいのです。

ところが一般社会の状態といえば、社会施設といったものは大変幼稚で、病気に対する治療も今日とは格段な相違があったようです。伝染病は流行しても防ぐ道は無いし、又一たび大雨が降れば河川は洪水となり、橋は流され、水田はだめになって、今度は食料不足でi飢饉が襲ってくる。流行病がはびこってくるといった実に悲惨な状態が繰り返えされました。この外にも大火や地震など、庶民は大変貧困に痛めつけられておりました。

そこで庶民はどう立ち向ったかといいますと信心より外になかったんですね。その信心なるものは、日蓮宗の場合でぱ経済難の人やもっと栄達したいというような人は大黒さんにお参りするとか、ご利益を早く頂きたいというので毘沙門さんとか摩利支天さんとか帝釈さんだのにお願いする。それから皮膚病や神経痛なんかで苦しむ人は浄行菩薩洗いをしたり、子供に関することでは鬼子母神さまにお願いしたり。七面さん、弁天さん、妙見さんなどの神信心より外に道が無かったのです。それですから雑多な信仰が行なわれる結果になったわけです。

ところがそういうなかでこれではいけないと思い始めた人があらわれはじめました。そのはじめは日什門下の永昌院日受上人で学殖ゆたかな説法者で、一代の間に一万座の説教をしたという布教師です。

当時、日蓮宗と浄土宗の仲が特に悪く、幕府の方で日蓮宗を押さえる為に、自分のことばかり自慢をして他の悪日を言うのは良くないとして、自讃毀他の禁止令を出しました。それに押されたのでしょうか、上人は「柔折伏」ということを言い出して来ました。この門流の人ではめずらしいのですが、幕府の政策に反抗するわけにはいかないからでしょう。腹に押さえてそういう説を言い出したものと思います。

しかし、そういう中にも教えにつよ気の人が又いるのです。身延山の貫首で守慎院日唱という人は、安永5年お会式の晩に七面山が人災をおこしたのですが、その時に七面大明神は邪神であるから自分で祠を焼いて昇天してしまったと言ったというのが問題になりました。身延の貫首ともあろう人が甚だよろしくないというわけです。

その頃罪におとすのに一番都合が良いのが、不受不施の人とすることでしたので貫首さまの書いたお曼荼羅の中に不受不施の傾向の人達の名が書いてあったというのを証拠にして、とうとう投獄され、ついに牢死してしまったのでした。

又、奈良の守要日康という人は本尊問題を言い出しまして、日蓮宗の本尊はお曼荼羅一幅の前へ日蓮聖人のお姿を置いてそれ以外は必要ないと主張しました。それだけではなく、非常に他宗を批判したというので、本山の本圀寺が住職の退院を命じました。

 こういった宗門の精神を強調する人々がボツボツあらわれてきました。そうしてやはり浄土宗と論争をしているのです。浄土宗の大淑という人が本を出版した。それに対し日蓮宗側から答えを2、3冊出版した。けれども甚だ見劣りがする。それを見ていて何とかしようと中村檀林の学生5人の人が盟約を結び、日蓮宗義に関する本が手に入ったらすぐそれを写しとって勉強の材料にして、大いに宗義を研究しようと約束をしました。ところがみんな若死にして最後に残ったのが宗学再興で有名な一妙院日導師です。

 このようにして次第に江戸時代が終わりを迎えることになりますが、ここで又、立派な優陀那院日輝という人が加賀金沢にあらわれます。そして充洽園という学寮が出来、その門下に幸いなことに立派な人物が集まり、その学徒達によって難局である明治をうまく乗りきり、さらにその機会を得て日蓮教団を活気あるものに仕立てることが出来たのです。

 

3、明 治

 

 そこで明治の教団についてですけれども、まず新居日薩師が教団の改革ということをなさったのですが、どのような方法かといいますと、第一には布教師の養成という事をなさいました。

 それは、こういう世の中になって来たんだから内地だけを布教したのでは事は終わらない、海外までも布教をしなくてはならない、それにはまず英語の勉強をせねばならない。それから一般の世間学を勉強をしなけなければならない、又日蓮宗だけでなく他の宗旨のことも良く調べなければならない。こういう意図のもとに高野山、長谷寺、知恩院、比叡山などの他宗の本山へ留学せしめ、又内地の慶応義塾などの学塾へとそれぞれ勉強させる。というように非常に大きな考えのもとに立派な布教師をまず養成しなければならないと尽力されたわけです。又布教師の実習場所は大教院などで有名な説教師や或は弁士なども呼んで演説の見本を見せたり、聞かせたりしました。

 選ばれた生徒はどういう人かといいますと、守本文節師、平山見栄師、清水梁山師、松本文恭師、佐野前励師、本間海解師、磯野宣了師、ずっとおくれて清水竜山師、脇田尭惇師、中野文硯師こういった方々がその選に当ったそうです。

 このようにして海外布教が出来るようにとの意図のもとに布教師養成を第一に着手されました。

 次には東京都内の適当な寺院を教会という名前で、最寄の住職の方々をそこへ集めてその教会で宗学の講習会をしました。どういう教科書が使われたかというと、優陀那日輝師の寿量品宗義抄、神力品宗義抄、嘱累品宗義抄など
といった宗義抄、それから本尊略弁といった本尊に関するものを教科書にしました。そうすると檀林で天台学をやった人もいまして、ところが講師の方が年が若いし、新しい学問ばかりで、古い学問はあまりしていない。それを知っていますからむづかしい天台学の論題なんかを出して困らせたそうです。

 そういうふうに宗義の講習会をいたるところで日薩上人が旗頭になっておやりになり、これがだいぶ制度化したものが交番学校というものです。これもやはり寺院住職の人達に宗義の短期講習会を開こうというのでいくつかに区を別けまして明治8年にはじまりました。経費は区内の寺院が出し合って賄うという制度で、定員は1回が30人、期間は60日間続けて、それを繰り返えして年3回づつやるということで始まったそうです。東京では深川の浄心寺と池上とで開かれたそうです。

 このようにして寺院の住職に対して宗義の講習会を行なったわけです。

 第3には、檀家信者が江戸末期から非常に信仰が乱れており、宗義ということもほとんど知らない。そこで日薩上人は宗義を正しく認識させようと信仰の面から統一をはかってゆく講習会を開かれました。これも交番学校と同じく明治8年です。日蓮宗の信者団体を妙法結社と呼んで組織し、妙法新誌という雑誌を発行しました。これが全教団に晋及したそうです。又長方形の札へ、上に井桁に橘の紋を書き、その下に「妙法結社」と書いて、社員に配って玄関の入口へ打ち付けさせたということです。このように檀家信者を組織しました。

 それからもう1つは明治11年に案が立てられ同16年から開校になった沙弥校があります。子供の頃からちゃんと宗義を習わせ、宗門の行事を身に付けさせなければならないという事で開かれましたが25年ごろに廃止になったそうです。このように新居日薩師は布教師の養成にはじまって沙弥校に至るまで宗義の徹底を期するという熱の入れかたでした。

 次に明治政府と日蓮教団のことですが、明治8年に各宗派別の大教院が出来、管長を設けてその宗派の行政をそれに一任しました。ですから政府は派内の細かい事には手をつけず、管長に任かせるという態度に出て来ました。それで各宗ともに自治制になってようやく自分の事は自分で始末出来るという態勢になりました。明治9年には日薩師によって日蓮宗と公称されました。又明治11年に本山制度が決まり、身延を総本山に、あとは5大本山、4大本山、44の本山ということが定まりました。明治21年には宗門教革の改良議案というのが出されました。三村日修師が管長として改良議案13条を作成しまして、本山会を開いて討議されました。

 ところがその議案の第1条と第6条が大きな問題となりました。第1条は管長は身延山住職の受け持ちとする。第6条は宗務院は身延山に置き東京に出張所を設くと。この2ケ条を他の本山、たとえば池上本門寺、中山法華経寺、京都本圀寺、妙顕寺といったところが反対しました。反対側では第1条にある通り、管長職を身延山住職の受け持ちとすれば他の本山の住職は管長には成れないということです。しかも事実上身延山の住職は優陀那日輝師の門下、日証師をはじめとして、その系統の人が代々身延山住職になってきたのです。今までは管長職は他の本山の住職も成ってきたのですが、今度は身延山の住職にならなければ管長に成れないということですから反対せざるを得ないわけです。それに伴って宗務院も身延に置くこともけしからんというわけです。更に悪条件が生まれました。それは、佐野前励師から合末論というのが提議されたのです。

 合末論というのは本山末寺悉く一つの身延山の末寺にするという意味です。身延山以外の本山はいよいよ末寺までも失なうことになってしまう、これは大変な事だというわけです。ですから諸本山はますます反対の度を強めました。そして本山同盟会というのを組織して対抗しました。相方が次第にエスカレートしてきましたので宗務院の方で、とうとう大本山の中山法華経寺の久保田日亀師と池上の代表監督の黒沢日明師の二人から僧階を剥奪し、住職をやめさせる処罰をとったのです。

 ところでこれ等の問題で一番残念に思う事は改良議案の中に檜林制度が非常に良くなるような項目が書いてあった事です。管長争奪が主になって他の教育の事などは問題にされなかったわけです。明治25年の正月にやっと仲裁が入って和解が出来ました。ところが宗門は眠っちゃいないと云えることがありました。それは争いの外で、山梨県と静岡県の有志のご寺院がたが一般世開でも未だ中等程度の教育機関が殆ど無い時代に、山梨普通校という学校を甲府の伊勢町の遠光寺境内に創立したのです。今の高等学校程度の学科で一般の在家の人でも誰でも人学をさせたのです。みんな喜んで入ったそうです。でも長続きせず明治26,7年頃までだったそうです。それから明治には日蓮宗開宗650年祭があります。

 これは非常に活気を帯びた歴史的な記念行事でした。まず講中が非常に増加し、又日蓮劇が各所で上演され人気を呼び、又門下各派の青年達が竜口寺で夏季講習会を開いたのでした。これは大変記念すべきことでこれが1901年です。この夏季講習会で日蓮門下各派の青年僧侶が集まり、これが大いに各派の障壁を薄くしたことと思われます。

 そのうちに各派で合同しようではないかと  いう運動が起ってきました。実現するしないは別としてそういう気運が高くもち上がったという事だけでも大変喜ばしいことだと思います。しかもこの運動は大正のぱじめ頃まで長く続いておりましたが、とうとう不成功に終わりましたのは惜かべきことでした。それからちょうどこの頃に田中智学さんの感化で高山樗牛さんが信仰に入り、一般青年学徒の間に日蓮聖人を理解する者が非常にふえてきました。明治晩年には大崎の谷山丘に日蓮宗大学が新しく開設されました。日露戦争の頃に日蓮宗では講習会が頻繁に催されました。講習会というのは一種の布教でした。天晴会だとか村雲婦人会だとかが各地に開かれたのは、その影響と思われます。

 ところが一方、宗学研究者の数が次第に少なくなってきました。そこで宗務院の方で宗学を研究する者に限って特別待遇で学資の給与をして研究を奨励され、現今宗学の興隆はその成果であります。

 

4、大 正

 

 大正期の教団についてですが、布教の社会活動化と言えると思います。高山樗牛さんが雑誌「太陽」に日蓮聖人を紹介されたその影響もあって、各大学内に日蓮聖人の讃仰会というものが出来ました。在学している人達も非常に宗門意識をたかめまして、そういう人達の活動がその学校にいる人達に日蓮聖人讃仰会を組織させたということです。これも教団精神がしっかりして、自信があるからこういった運動も自然と起ってくるのだろうと思います。それから布教も大衆に訴えるといった意気込みが出て来ました。宗務院では中央布教講習会を開いて、大正の始めから布教奨励運動を盛んにやりました。これは酒井日慎師がよく苦労されていましたが布教講習会は16年間続きました。

 又、学校教育においても布教をしようという考えも起り日蓮宗大学へ講師を招いて布教実修があり、布教講座も設けました。日蓮聖人生誕700年を記念しまして、東京に立正高等女学校、大阪に明浄高等女学校、京都に明徳高等女学校というのが出来ました。また信者で医師の加治時次郎先生は社会運動を始め、平民食堂、平民村などを建設しました。教えの社会化運動と見られます。

 

5、昭 和

 

 昭和1年に身延山に信行道場が出来ました。又宗祖650遠忌の記念に勅額の拝戴があり、祖廟中心制というのが神保管長によって始唱されました。この祖廟中心制というのぱ、当時の気風として国家至上主義ということで、気持を一つ所へ集めなければならないという考えが強まりまして、その気風が宗門に於いて祖廟中心ということになったかと思います。更に昭和13年に法主即管長という制度が出来ました。叉天皇本尊論というものまで出てきました。だんだん時の気風に動かされて、ご本尊の主体まで動いていってしまった例もありました。その間には新興宗教が起こりましたが、今まで信仰の及ばない場所で、信仰が湧いてきたものだと考えられます。

 戦後になりますと、1番問題となったのが農地解放です。寺の基礎財産を失なったわけです。第2には家族制度の解体によって檀家と寺との連携が大変弱められたということです。第3には新興宗教が勢力を得て、教団が狭められていった。第4は占領政策によってキリスト教が保護強化をされたということです。これ等の4つを考えますと、既成教団に対しては大変な脅威だと思います。この脅威に対して既成教団はどういう方向に向うべきかという事が大変重要な問題となります。

 そこで改めて考えてみなければならないことは、何と言っても布教者自身が一体どうあるべきかということです。布教者自身はまずもって自分みずからが信仰が持てるようにしなければならないとの自覚を持つことから始めなくてはいけないと思います。

 

 

 

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