日蓮正宗教学の特質

 

−正信会と創価学会の新教学創作の試みー

 

花野 充道

 日蓮正宗教学の特質は、「唯一絶対の正法」を特定の教団(日蓮正宗)に限定する強い独善性・排他性にある。他の日蓮教団においては、日蓮自筆の大曼荼羅を本尊として拝むことは当然として、一尊四士や一塔両尊四士の仏像も本尊として拝み、さらには鬼子母神や大黒大、帝釈大などを拝む教団もある。そのような現状に対して、「本尊雑乱」と厳しく糾弾したのが、日蓮正宗教学を信奉する創価学会であった。

 日蓮正宗教学(大石寺26世日寛の教学)は、本門戒壇の大御本尊(大石寺所蔵の板曼荼羅)を一大秘法と称し、そこから三大秘法と六大秘法の開合を論じている。いずれの教団であれ、日蓮を宗祖と仰ぐ以上、日蓮が図顕した本尊を拝むのは当然であるのに、日蓮正宗だけは日蓮図顕の本尊ではなく、大石寺の歴代法主が書写した本尊を拝んでいる。日蓮の本尊より歴代法主の本尊をありがたがって拝む理由は、(1)本門戒壇の大御本尊以外は「一機一縁の本尊」(日蓮が当時の僧俗のために個々に図顕された本尊)であるから、現在のわれわれには御利益がない、(2)戒壇本尊は「一閻浮提総与の本尊」(日蓮が末法の一切衆生のために図顕された本尊)であるから、この本尊の力用によってのみ成仏が叶う、という教義に基づいている。しかし現実には、この本尊は大石寺に参詣しなけれぱ拝めないので、日常的には歴代の法主がこの本尊を書写して信徒に授与し、信徒は歴代法主の本尊を通して、その「本体」である戒壇本尊を拝むという論理構造となっている。創価学会ではこのことを「本体」に対する「分身散体の義」と称していた。したがって、日蓮正宗から分派した正信会や創価学会にとって、最大の悩みはこの本尊問題であった。

 正信会では、川澄教学(川澄勲氏の日蓮正宗教学理解)に基づいて、「師弟子の法門」とか、「流転門と還滅門」「宗旨分と宗教分」などの新奇な論理を提示し、これこそが日蓮正宗の正統義であると主張した。それは、戒壇本尊といえども「モノ」である以上、無常を免れることはできないから、眼に見えない「内証」こそ本尊の実体であるとして、不滅の「己心」を重視する教学である。しかし正信会において、日蓮が図顕した「モノ」としての本尊は一体どのような意義を持つのか、また戒壇本尊と自分かちが拝んでいる歴代法主の本尊とはどのような関係にあるのか、このことについての深い考究はなされていない。

 日蓮正宗から分派した以上、日寛教学を否定せざるをえない事情は同じであるが、正信会の新教学が「日蓮正宗の伝統義に立ち還る」といウ大義を掲げたのに対して、創価学会の新教学は、「宗祖日蓮自身の教説に基づき、世界宗教としての論理を構築する」という方向性を示している。「御書(日蓮遺文)には、弘安2年の本尊(戒壇本尊)が出世の本懐であるとか、この本尊を根本とせよ、とかの説示はない」という創価学会の論理は、他の日蓮教団の主張と全く同じである。それでは御書(『報恩抄』)に、「本門の教主釈尊を本尊とすべし」という説示がある以上、日寛教学の日蓮本仏論を捨棄して、本門の釈尊を本仏=本尊とする新教義に移行するのか、という問題が生ずるであろう。また日蓮自身の教学と、弟子日興の教学と、26世日寛の教学とを立て分けて考えると、あらゆる文献の真偽考証が重要な課題となることは言うまでもない。しかしそのような考察は、所詮、各人の主観(主体的な研究)を出でないから、正信会の場合と同じように、「ただ今、各人が教団教義を研究中(創作中)」ということになってしまう。私はこれを「教団教義の液状化」と称しているが、創価学会ではかつて日蓮宗に対して「宗教として最も大事な教義と本尊が確定していない」と攻撃していただけに、今度はその批判が我が身に降りかかってくることを覚悟しなけれぱならないだろう。

 

 

 

もどる