印度學佛教學研究第六十三巻第一号 平成26年12月

 

日蓮の本尊論は大曼荼羅か一尊四士か

 

花野 充道

 日蓮は『観心本尊抄』(52歳、真蹟現存)に、「本門の肝心の南無妙法蓮華経の本尊」を論じて、

此本門肝心於南無妙法蓮華経五字、仏猶文殊薬王等不付属之。何況其已外乎。但召地涌千界説八品付属之。其本尊為体、本師娑婆上宝塔居空、塔中妙法蓮華経左右、釈迦牟尼仏多宝仏、釈尊脇士上行等四菩薩、文殊弥勒等四菩薩脊属居末座、迹化他方大小諸菩薩、万民処大地如見雲閣月卿、十方諸仏処大地上。表迹仏迹土故也。如是本尊在世五十余年無之。八年之間但限八品。正像二千年之間、小乗釈尊、伽葉阿難為脇士、権大乗並涅槃法華経迹門等釈尊、以文殊晋賢等為脇士。此等仏造画正像未有寿量仏。来入末法始此仏像可令出現歎。(昭定712)

と述べている。この文を文脈に沿って素直に解釈すれば、その要旨は次の三点になるであろう。

(1)本門の釈尊は、本門の肝心の南無妙法蓮華経を迹化の菩薩(文殊・晋賢)に付属しなかった。法華経の本門八品の間に、本化の菩薩(地涌千界)を召して付属した。

(2)その本尊の相貌は、本門の釈尊の住する娑婆世界の上に、宝塔が虚空にそびえ立ち、その宝塔の中央の妙法蓮華経の左右に釈迦仏と多宝仏、さらにその両側に釈尊の脇士である上行等の四菩薩がおわします。文殊・弥勒等は四菩薩の脊属として末座に坐し、その他の迹化・他方の菩薩たちは、万民が雲上人の公家を仰ぎ見るようであった。

(3)このような本尊は、釈尊一代50余年の間でも、法華経が説かれた8年のうち、ただ本門八品にしか説かれていない。釈尊滅後、正法一千年・像法一千年の間には、迦葉・阿難を脇士とする小乗の釈尊、あるいは文殊・普賢を脇士とする権大乗・涅槃経・法華経迹門の釈尊を本尊として、木像に造ったり、画像に描いたりして拝んでいたが、それらは未だ寿量品の釈尊ではなかった。末法に入って、はじめてこの寿量品の釈尊の像を出現せしめるべきであろうか。

 日蓮は本書の中で、「一念三千の仏種に非ずんば、有情の成仏も木画二像の本尊も有名無実なり」、「此等の仏(小乗・権大乗・法華経迹門の釈尊)をば正像に造り画けども未だ寿量の仏ましまさず」と論じているから、仏の木像(造る)であれ、仏の画像=曼荼羅(画く)であれ、法華経の一念三千(草木成仏)の義に基づいて「本尊」となる、と考えていたことは確実である。そして、そのように考えれば、「その本尊の為体」=「かくのごとき本尊」=「寿量の仏」=「この仏の像」とは、日蓮が図顕した「観心の本尊(大曼荼羅=寿量の仏の像)」を指していることは明白であろう。そのような解釈は、書名の『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』(如来滅後五五百歳に、日蓮が始めて著わした、観心の本尊についての抄)の意とも符合するからである。

 それでは、本書に説かれる次の文は、どのように解釈すればよいのであろうか。

此釈闘諍之時云々。今指自界叛逆・西海浸逼二難也。此時地涌千界出現本門釈尊為脇士一閻浮提第一本尊可立此国。月支震旦未有此本尊。(昭定720)

 この文の読み方については、

此の釈に闘諍の時と云々。今の自界叛逆・西海浸逼の二難を指すなり。此の時、地涌千界出現して、

 


(A)本門の釈尊の脇士と為り

(B)本門の釈尊を脇士と為す

 一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。月支。震旦に未だ此の本尊有さず。

のように、(A)と(B)の二通りの読み方がある。

(B)は大石寺26世日寛の読み方である。日寛は『観心本尊抄文段』の中で、「本門の釈尊を脇士と為す」と読み、これ即ち妙法五字の本尊なり。前の文に云く、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏と云々。この文の意なり。(文段284)と論じている。

 その直前の文が「今の自界叛逆・西海浸逼の二難を指すなり」であるから、「此の時」とは、日蓮が『観心本尊抄』を執筆した時、すなわち「仏滅後二千二百二十余年」を指している。日蓮は実際に、仏滅後二千二百二十余年に上行菩薩として佐渡の国に出現し、本門の釈尊を脇士となす南無妙法蓮華経の本尊を図顕しているから、意味としては日寛の読み方は妥当であると言ってよい。ただし、その読み方には難点がある。それは、「本門の釈尊を《南無妙法蓮華経の》脇士と為す」というように、本文には無い《南無妙法蓮華経》の言葉を補って読まなければならないからである。

 大石寺開山の日興は、京都の要法寺に現存する本書の写本の中で、「脇士と為りて」と訓じていると指摘されている(1)。しかも、その写本の奥書には「弘安四年……拝書写了」と記されているようである。本当に、その写本の奥書が日興の筆であれば、それは日蓮在世の時の書写となるので、日蓮自身もおそらくはそのように訓じていたのではなかろうか。そういう意味で、(A)の読み方が妥当であると考えられる。ただここで注意すべきは、(A)の読み方をしても、それが一尊四士本尊の造立を意味しているわけではないことである。なぜなら、もしこの文を一尊四士本尊の依文とするなら、本文に主語がなくなってしまうからである。主語はあくまで「地涌千界」であり、このことは疑う余地がない。

 『観心本尊抄』は一貫して、

地涌千界は末法の始めに必ず出現すべし。(昭定717)

この時、地涌の菩薩始めて世に出現し、ただ妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ。(昭定719)

という文意で統一されている。したがって、「この時、地涌千界が出現して、一閻浮提第一の本尊をこの国に建立するであろう」という文意は動かすことができない。もし「地涌千界が出現して、本門の教主釈尊の脇士となり、一尊四士の本尊をこの国に建立するであろう」と解釈すれば、一閻浮提第一の本尊を建立する地涌千界が、建立される本門の釈尊の脇士となることになってしまい、論理的に破綻を来す。日蓮は生涯を通じて、「法華経」「釈尊の一体仏」「大曼荼羅」を安置して拝んでいたのであって、一尊四士を造立して拝んだことは全くない。私は、(A)の訓じ方(本門の釈尊の脇士と為り)を採用した上で、次のように解釈すべきであると思っている。

 この時(如来滅後五五百歳=自界叛逆の難と他国侵迫の難が起こった時)、地涌千界(上行菩薩=日蓮)が出現して、本門の釈尊の脇士となり(本門の釈尊の化導を助ける脇士の菩薩として)、(本門の釈尊から譲り与えられた) 一閻浮提第一の本尊(本門の肝心の南無妙法蓮華経を中尊とする宝塔曼荼羅)を、(始めて)この国に建立するであろう。この本尊は、未だインド・中国に存在しなかった本尊である。

 『観心本尊抄』のこの文では、「地涌千界が出現して、一閻浮提第一の本尊をこの国に建立するであろう」と未来形で記されている。そして実際に、日蓮はその翌年の12月、身延において「万年救護本尊」と称される本尊を図顕し、その讃文の中で、

大覚世尊御入滅後、経歴二千二百二十余年。雖爾月漢日三カ国之間、未有之大本尊。或知不弘之、或不知之。我慈父以仏智隠留之、為末代残之。後五百歳之時、上行菩薩出現於世始弘宣之。(真蹟集成10、16)

と記している。『観心本尊抄』の文と、「万年救護本尊」の讃文とを合わせ考えれば、如来滅後二千二百二十余年に、上行菩薩(地涌千界‥日蓮)が出現して、正法・像法には未だなかった観心の本尊(未曾有の大曼荼羅)を始めて弘宣(図顕)した、という客観的事実を認めざるをえないであろう。

 如来滅後2220余年の間に、東密・台密をあわせてさまざまな曼荼羅が図顕されてきたが、日蓮が図顕した観心の本尊は未だ曾てなかった大曼荼羅である。日蓮は「観心の本尊」=「本門の本尊」=「本門の釈尊の像」と考えていたから、「本門の教主釈尊を本尊とすべし」という説示はあっても、「一尊四士を造立して本尊とすべし」という説示はただの一つも存在しない(2)。法然が阿弥陀仏の像に向かって阿弥陀仏の御名を称えたのに対して、日蓮は一念三千の観心本尊(南無妙法蓮華経の大曼荼羅)に向かって南無妙法蓮華経の題目を唱えた。「万年救護本尊」の讃文に、「大本尊」と明記されている以上、日蓮の本尊論が大曼荼羅であることは疑う余地がない。

 日蓮は『観心本尊抄』を執筆した3年後、『報恩抄』(真蹟断片現存)を著して清澄寺の浄顕房・義城房に送り、日向らを派遣してその書を道善房の墓前で読ませている。日蓮はその中で、

日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。(昭定1248)

と述べている。日蓮はすでに引用した『観心本尊抄』の中では、

その本尊の為体、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、……(昭定712)

と述べて、本尊を曼荼羅の相貌で示しているのに、この『報恩抄』では「本門の教主釈尊を本尊とすべし」と述べて、明らかに矛盾している。この矛盾はどのように考えればよいのであろうか。今日の日蓮研究者がよく使う方法の一つが、両書の矛盾を解消するために、一方の遺文を偽書として処理する方法である。しかし、この場合は一方に真蹟が現存し、他方に真蹟の断片が現存しているのであるから、そのような真偽の方法をもって両書の矛盾を解消することはできない。

 もう一つの方法は、矛盾は矛盾として受け入れた上で、日蓮には「二種類の本尊論があった」と解釈する方法である。その場合は、次の四つの考え方が成り立つ。

(1)日蓮はどちらの本尊でもよいと考えていた。「本門の教主釈尊を本尊とすべし」とは、「一尊四士を造立して本尊とすべし」ということであるから、日蓮教団の本尊は大曼荼羅でも一尊四士でもどちらでもよい。

(2)日蓮自身の考えがまとまっていなくて、明確な本尊論を打ち立てるまでには至らなかった。したがって、日蓮教団の本尊は大曼荼羅でも一尊四士でもどちらでもよいが、【大曼荼羅】のほうが正意であると思う。

(3)日蓮は時と所と人に応じて、矛盾したことを平気で言う人であるから、その真意はわからない。日蓮教団の本尊は大曼荼羅でも一尊四士でもどちらでもよいが、日蓮教学の本質から推論すれば、[一尊四士]のほうが正意であると思う。

(4)佐渡期から身延前期にかけて、本尊(及び法義)の主体が本門の教主釈尊という「仏的存在」にあったものが、弘安元年9月の『本尊問答抄』を境としてそうした「仏的存在」が相対化され、それらを生んだ根本能生の妙法蓮華経という「法」(大曼荼羅)へと移行した(3)(変化した)。

 この4つの考え方はすべて、日蓮には「二種類の本尊論があった」という前提に立っている。しかし私は、そのような考え方に与しない。日蓮は、「諸宗は本尊にまどえり。……此れ皆本尊に迷えり」(『開目抄』真蹟曾存、昭定578)と批判しているほどであるから、日蓮が2つの矛盾した本尊論を持っていたとは到底思えない。私は先に『観心本尊抄』の文を解釈する際に論じたように、「日蓮図顕の曼荼羅本尊」=「本門の教主釈尊の仏像」と考えている。日蓮には2種類の本尊論があったから、「そのどちらでもよい」、あるいは「その一方が正意である」、あるいは「その正意が弘安元年に変化した」と解釈するのではなく、はじめから日蓮自身によってきちんと「法仏一体(一念三千即自受用身)の本尊義」として確定していたと解釈すれば、すべてが氷解するのである。

『報恩抄』には、

日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。

と記した後に、続けて

所謂宝塔の内の釈迦・多宝、外の諸仏、並びに上行等の四菩薩脇士となるべし。

と記されているから、それらの文について、日本をはじめ一閻浮提のすべての人が、一同に本門の教主釈尊を本尊とすべきである。その本尊は、宝塔の内の(南無妙法蓮華経を中尊として)、釈迦仏と多宝仏、その外の諸仏、ならびに上行菩薩などの四菩薩が(その南無妙法蓮華経の)脇士となる本尊である。

と解釈すればよいのである。そして、そのように解釈すれば、『報恩抄』の文と『観心本尊抄』の文は、実は全く同じことを言っているにすぎないことがわかるであろう。『報恩抄』の『送状』(録外)には。

御本尊図して進らせ候。(昭定250)

と記されているから、日蓮は一閻浮提の一同が「本尊とすべき本門の教主釈尊」(『報恩抄』)として、「曼荼羅本尊を図して」(『送状』)、浄顕房と義城房に送ったことが明らかである。

 もし、日蓮の本尊論の正意が一尊四士であるとすれば、必ずや身延において仏師に依頼して、御所持の釈尊一体仏に四菩薩を造り副えて安置したにちがいない。しかし、日蓮がそのようにした形跡は全く確認できない。当時のお寺は(今もそうであるが)、そのほとんどが本堂に仏像を安置しているし、凡情としては仏像のほうが崇拝の対象としてありかたく感じられるから、日蓮滅後、数年を経ずして、一尊四士像が造立されるようになったと考えられる。

 弟子の日興は、もともと日蓮が図顕した大曼荼羅(=本門の釈尊)本尊論者であったが、どうしても仏像を造立したい人がいれば、本門仏であることを顕わすために、四菩薩を添加するように諭し、それを「日興の義」と自負している。これは日興と他の五老僧との「五一相対」を意識しての言葉であるが、「日蓮の義」と言わずに、あえて「日興の義」と言っているのは、師匠の日蓮は一体仏の造立を容認したからである。日興は「天台沙門」を名乗った五老僧に対して、「日蓮の弟子の日興が、法華本門を弘通する」という天台・日蓮の台当違目・本迹勝劣の立場に立って、強く一体仏(迹門仏)の造立に反対したと考えられる。したがって、一尊四士の造立は「日蓮の義」ではなく、身延離山以後の「日興の義」であったことが推察される。

 日興の『富士門徒一跡存知事』(宗全2ー127)によれば、民部日向は正安2年、再び一体仏の開眼供養をしたが、その後、四菩薩を造り副えたと言う。書中に「下総国の真間堂は一体仏なり」とあるのは、『真間釈迦仏御供養逐状』に記される一体仏を指しているが、日蓮滅後に伊予日頂が日興の義を盗み取りて、その一体仏に四菩薩を造り副えたと言う。また寂仙日澄は、永仁年中に、一体仏に四菩薩を造り副え、さらに摩詞一日印は、日興の義を盗み取りて、越後国に弘通したと言う。そのほか、1299年成立の『常修院聖教本尊事』にも、「釈迦立像並びに四菩薩」と記されている。しかし日興の『原殿御返事』の記述や、『門徒存知事』の「日興の義を盗み取る」などの記述から推論すれば、中山法華経寺の一尊四士像は、日興が身延離山した1289年以降、1299年までの間に造立された蓋然性が高い。そしてそのように見てくれば、一尊四士像は日蓮滅後の10年から40年にかけて、次々と造立されていったと考えてよいであろう。

 

1 富谷日震「本尊抄興本対照記」(『大崎学報』28号所収、 1913年)参照。

2 『四菩薩造立抄』は偽書である。拙稿「日蓮の本尊論と『日女御前御返事』」(『法華仏教研究』14号所収、2012年』参照。

3 山上弘道「日蓮大聖人曼荼羅本尊の相貌変化と法義的意義について」(『興風』 17号所収、2012年)参照。

4 日蓮は、富木常忍、四条金吾、日眼女(四条金吾の妻)に1体仏の造立を許している。そのことは、『真間釈迦仏御供養逐状』(昭定457)、『四条金吾釈迦仏供養事』(昭定1182)、『日眼女釈迦仏供養事』(昭定1623)に記されている。

 

〈キーワード〉本門の釈尊、万年救護本尊、日興の義、一体仏

(早稲田大学大学院修了・文博)

 

 

 

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