ダラダラ生きて参りましょう

 

 

ワビ、サビ、粋、イナセ、恥……

自己規制の厳しい美学、道徳を作り出した我々。

 

 

 文・・・きたやまおさむ(精神科医、臨床心理士、作詞家)

 

見るなの禁止

 我が国には「見るなの禁止」という悲劇の反復がある。それは、醜態を露呈した者が潔く去るという物語だが、『夕鶴』という戯曲でよく知られ、「鶴の恩返し」などの異類婚姻説話としても全国各地に存在する。

「見ないでください」という女性主人公の禁止を「見るなの禁止」と呼んでいるのだが、正体を隠して嫁に来る動物が、正体を露呈して去るという形式が基本であり、正体とは鶴だけではなく魚や貝であったりする。また、「雪おんな」や「乙姫」の場合にも、似たような禁止を犯すというターニングポイントがあり、結末はすべてが別れ話となる。

この物語は、イザテキ・イザテミ神話が歴史的に古い形を保存していると推理される。というのは、古事記を読むなら、父神であるイザナキが禁止を破って覗くと、母神イザテミの腐った死体が露出して、父神が逃げ出しているからである。しがし古事記は、それに母神が怒って抗議するという展開であり、昔話とは違う。

さらに、追跡する醜女を撃退した父神は「汚いもの」「醜いもの」を洗い清めるために禊を始める。

禁止については、これを遵守した男はいないし、それは時間が経てば必ず破られてしまうタブーである。覗き見た男性主人公が対象を醜悪視したために、覗かれた女性たちが恥をかき、最後は退去することになってしまうのだが、この展開では見る側の責任も重い。大抵は、覗かれて無言で去っていく側だけが目立つ内容なのだが、『夕鶴』の人間〈つう〉が裏では鶴であったことを理解できない男性〈与ひょう〉の、包容力のなさが女性を追い出していると読めるのである。

こうして近年の昔話は、男の拒否があったので、禁止の破られた時点で女性主人公たちは潔く去ること繰り返すようになったと考えられる。つまり見られた側か拒否され恥をがいたので、潔くあきらめ、立つ鳥跡を濁さすという反復を繰り返すことになったのだろう。その上、有終の美に感動する読者や観客も、またその生き方を取り入れ、千年以上も繰り返している。何度も同じ悲劇を見せつけられ、こういう生き方が美しく感動的だとされるなら、これを反復する人が後をたたないのも当然だろう。

 

人の表と裏

しかし、生きているものはいつか死ぬし、美しいものは醜いし、健康なものは傷ついている。誰にでも矛盾する二重性があり、日本語には表と裏、本音と建前など、こういう二重構造をうまく表す表現が多い。

具体的な例を挙げるなら「顔で笑って心で泣いて」「武士は食わねど高楊子」「心頭滅却すれば火もまた涼し」という二重の生き方、そして「アヒルの水かき」「自転車操業」「台所は火の車」と、私たちは次々と裏腹の人生を紡ぎ出す。そしてワビ、サビ、粋、イナセ、そして恥というような自己規制の厳しい美学や道徳を作り出している。どれほど苦しくても、我慢して苦痛を隠し、涼しい顔をしているのが美しいというわけだ。

誰もが、化粧をし、きれいで、涼しく、楽しそうに生きているのだが、実際には、隠されたものが何なのか、本人もよく見ないままになっていることが多い。みっともない、恥ずかしい内容となる中身とはどのようなものかというなら、見かけとは異なるものであり、醜悪はその矛盾の苦痛にあることを、深層心理学は明らかにしてきた。具体的には。傷つきや死、そして性が、ケガレや不浄として排除、隔離、禁止されてきたのだが、問題は美しいものと食い違うところが恥すかしいというところだ。それで人はどうしても、これらを裏に抱えて、表との食い違いで葛藤し続けねばならないことになる。

実に日本語では、ウラという言葉は心を意味する。「うら恥ずかしい」という時のウラなのだが、恥ずかしい思いや考えも

 

 

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