日興上人の渇仰恋慕のお心のままに  

 

広宣寺 簗瀬明道

 

よいお天気に恵まれ、皆さん方の深いご信心で、今年の源立寺のお会式もとても盛大に厳修されましたこと、心からお祝い、お慶び申し上げます。

 

《ありのままの姿の大聖人》

大聖人は、文永八年九月十二日、すなわち竜口の法難の日、幕府の実力者平左衛門に向かって、次のように言い切って迫ります。

「建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて、彼等が頸をゆひのはまにて切らずば、日本国必ずほろぶべしと申し候ひ了んぬ」(全集287頁)

皆さんはこれを聞かれていかがに思われるでしょうか。

謗法の寺を全部焼き払ってしまえ。謗法の坊主の頸を切ってしまえ。そうしなかったら日本は滅ぶるぞと、こういうのです。

何とも荒っぽい話だと思います。

いくら法華経が唯一の正法正義であったとしても、他宗教・他宗門の寺をすべて壊してしまえ、首謀者たる坊主どもの頸を切ってしまえといわれるのです。これには正直なところ、大聖人を宗祖と仰ぐ我われにも、少し違和感を感じます。

民主主義のもとに信教の自由を教えられてきた我われには、本当に我われの宗祖はそんなことを言ったんだろうかと、信じたくない気もいたしますが「撰時抄」という確かな御書に、大聖人が自ら書き残されていることですから、本当のことです。

次に行きます。皆さんは大聖人が、「余は二十七年なり」(全集1189頁)といって、出世の本懐を題された御書のことをご存じだと思います。熱原の法難の最中に著された「聖人御難事」という御書です。

入信間もない熱原の農民が、大聖人の信仰のゆえに幕府に捕らえられ連行され、拷問を受けました。その農民たちに向かって大聖人は、「よからんは不思議、わるからんは一定」(全集1190頁)ならば腹をくくって思い切りたまえと、決定の信心、腹の据わった信心を迫っている御書であります。

その御書の最後に書かれているところがちょっと気になるのです。

大聖人の厳しい信心についていかれず、ついには大聖人に叛逆してしまった四人の弟子たちの名前を挙げられて、これは名越の尼・少輔房・能登房・三位房ですが、これらのかっての弟子たちに対し、大聖人は、「をくびやう・物をぼへず・よくふかく・うたがい多き者ども」と罵られます。そして、「はらぐろとなりて大づちをあたりて侯ぞ」と、天罰が当たって死んだのだ、と言うのです。

こういうものを読むと、来るものは拒まず去る者は追わず、などと無責任に構えている私なんかは、なぜかっての弟子たちをそこまで決めつけて罵らなければならないのか、ちょっと気分がよくありません。大聖人ならもっと大らかに構えていらっしゃったらいいのに、などと思ってしまいます。

かというと、南条時光さんの第七郎五郎さんが、十五歳の若さで突然に亡くなってしまった時の話です。この時ご主人の忘れ形見である最愛の子供を失った、上野殿母尼に出されたいくつかのお手紙は、大聖人って何でこんなに情が深いのだろうと思わずにはいられません。

どう考えたって死んだ直後から三回忌に至るまでの間、母尼に出されたお手紙、五、六通を読んでいきますと、本当に涙腺も潤ってきます。心の底から情けの深いお方でなかったならば、ああまでは書けなかったはずです。

その一つ、四十九目の時に出されたお手紙があります。

「たのもしく思ひ侯ひつるに、今年九月五日、月を雲にかくされ、花を風にふかせて、ゆめかゆめならざるか、あわれひさしきゆめかなとなげきをり候べば、うつつににてすでに四十九目はせすぎぬ。まことならばいかんがせん、いかんがせん。さける花はちらずして、つぼめる花のかれたる。をいたる母はとどまりて、わかきこはさりぬ。なさけなかりける無常かな無常かな。」(全集1572頁)

このご文の前にはもっと長い文章で、五郎殿を失った母尼の痛めたお心を慰めるお言葉がずっと続くのです。

そして最後には、「ちちはりゃうぜんにまします。母は娑婆にとどまれり。二人の中間にをはします故五郎殿の心こそ、をもひやられてあわれにをぼへ候へ。」(全集1573頁)

と付け加えられます。

今も死んだ五郎殿のことしか考えられない母尼のお心にあわせて、五郎殿の立場になって、身を移されて、ともに悲しまれるのです。母尼へのいたわりの気持ちが、満ちあふれております。

こういうことは南条殿の母尼ばかりではないのです。日興上人のおばさんに当たる持妙尼が、ご主人の高橋殿を失った時のお手紙もそうですし、それからまた武士である一人息子を失った光日尼に出された時のお手紙もそうで、もう最大限の哀悼の意を表されています。

さらに、大聖人についてジーンと思うのは、建治元年の頃、乙御前の母尼、日妙聖人に出された長いお手紙の、最後に添えられたお言葉です。

「いかなる事も出来侯ばば是れへ御わたりあるべし、見奉らん。山中にて共にうえ死にし侯はん」(全集:1222頁)

当時日本国中は、上は幕府から下は一般の庶民に至るまで、再度の蒙古の襲来に怯えていたのです。今度襲ってきた時には、前の文永の役の時のようにはいくまい。日本国中は大変なことになる。

大聖人も事態を大変深刻に受け止めておられ、その中で大聖人は、このお手紙で、可愛い弟子たちを全部救うことはできないかもしれないと述べつつも、鎌倉にいる日妙聖人に対して、もし蒙古が鎌倉に攻め入って大変なことになったら、この身延山に逃げていらっしゃい。そして、食べ物が無くなって、もう死ぬしか無くなった時には、一緒に飢え死にしましょうと言われるのです。

ご主人を失ったばかりの日妙聖人は、この大聖人のお言葉に、娘乙御前を抱えて、どんなに喜ばれたことか。容易に皆さんも想像がつくと思います。

 

《現実的な大聖人》

また一方、大聖人はすごく現実的な方でした。現実的といったのは、事件が起こった時に、その解決に臨む実際の対処の仕方です。

鎌倉時代も無法時代ではなく、幕府には「御成敗式目」といって、れっきとした武家社会を治める法律がありました。大聖人は、これをよくご存じてした。ですから弟子檀那の中に、今でいう裁判事件が起こった時には、実に的確な訴訟の指揮を執られたのです。あの熱原の法難の時にも、門下には矢継ぎ早に対処の指示を出されました。

その中でも、大聖人をすごいと思うのは、弘安二年の十月十二目、日興上人に出された「伯者殿御返事」の中身です。

幕府の役人が日秀・日弁さんに、無実というならば起請文を出せ、と迫ってきた時、大聖人は決して書いてはならないと指示されます。そのわけは、殺害刃傷された被害者が、さらに神仏に誓って罪を犯していませんなどと起請文を書くなどという馬鹿な話は、古今聞いたことがない。こっちは斬りつけられ殺された被害者なんだ、その事実を揺るがせないで、裁判の時にははっきりと相手の非を強く訴えよ。その上で、相手がこう言ってきたらこう言い返せ、さらにこう詰めてきたならば、こう切り返せと、次々に事件の本筋に添って、日興上人に具体的な指示を出されます。

そして最後には、この日蓮の指示に従わなかったなら、「日蓮の門家に非ず、日蓮の門家に非ず」(全集1456頁)と、怒気を込めて厳しく指南されます。

かと思うと、四条金吾殿が同僚たちの諌言によって所領没収、領地召し上げという大窮地に立たされた時のことです。大聖人は四条金吾殿に、主君から所領を没収すると脅かされても、その所領惜しさに、正義を曲げて妥協など決してしてはならない。諂うな、諂うなと何遍も念を押し  て注意をされます。そして最後には、主君に向かって、この所領は御主君からいただいたというよりは、かつて御主君が重病にかかった時に、私(金吾)が法華経の信心をもって真剣に祈り、病気を治した功績によっていただいたものだから、今になってその所領を没収するというならば、また主君の病気は必ずぶり返します。その時になってあわてて私に詫び状を書いたって間に合いません、と言い切ってやれというのです。

その言い切れという時の仕草を御書には、

「うちあて、にくさうげにてかへるべし。」(全集1164頁)

と書いてあります。すなわち、私はあれほど信頼関係のあった御主君との間が、こういう事態になってまことに不本意で堪らない、憎むわけではないが、憎いという感情をむき出しにして、はっきりと言い切って帰ってきなさい。こう指示されるのです。

いかにも人間的です。

これらの話は、みな日蓮大聖人というお方の、ほんの一部を御書を通して紹介させてもらったものです。日蓮大聖人はこういうお方だったのです。これらはみな、私たちの宗祖日蓮大聖人のありのままの姿なのです。

 

《日蓮本仏の原型》

今日はお会式ですが、本宗では御本仏日蓮大聖人の三世常住を寿ぎ、その常住此説法の深い御恩に御報恩申し上げる大法要といわれます。

日蓮正宗のみならず、日蓮大聖人を宗祖と仰ぐ日蓮宗の各派は、どこの宗派でも祖師の祥月命日に当たるこのお会式を、一年で一番大事な行事として執り行っております。

しかし、日蓮大聖人を本仏と拝し、三世常住、常住此説法を祝うというのは、日蓮正宗しかありません。その日蓮正宗も、最近はいくつかの団体に分裂しておりますけれども、大聖人を御本仏と仰ぐところは同じです。いうならば、日蓮正宗系では、日蓮本仏という信仰は、信心の一番の基本として根付いています。

このことを逆に言いますと、日蓮正宗以外ではこれを一番否定します。「日蓮大菩薩」などとはいいますが、御本仏というならばお釈迦様だ、法華経を宗旨とするならば、仏様は釈迦如来以外考えられない、それらの宗の人たちはそう決まっていますから、日蓮正宗が日蓮大聖人を本仏と仰ぐことの意味さえ考えようという気をまったく持っていません。端から邪義だと思っているのです。

他宗他門はそれはそれで仕方がない、ただこの頃私が思うのは、日蓮本仏を掲げる日蓮正宗系のこの信仰に対する理解の仕方なのです。

私が大学を卒業して、一年本山に在勤していた頃、同期の在勤者十六人で、南条時光さんゆかりの妙蓮寺にお参りに行ったことがあります。その時のご住職は漆畑日広さんといって、こぢんまりとしたとても温厚な方で、特にその話しぶりが味わいのある御尊能化でした。

その妙蓮寺さんから、一同神妙にお話を伺った時のことですが、話の中で、日蓮本、仏というのは、結局日興上人の、大聖人をお慕い申し上げるお心が元なんだ、よ、といわれたことがありました。

現在の私は、この言葉が大変気に入っていて、本当にそうだとつくづく思います。

ここのところをもっとはっきりさせて・その後の教義の歴史などもきちつと説明できたら、他宗他門の日蓮正宗批判はもちろんのこと、我が宗門内における歪んだ日蓮本仏の理解も・良い形になっていくのではないかと思っています。

日興上人が本当に大聖人をお慕いした姿は、現在たくさん残っている日興上人からのお手紙からもうかがえます。

ご信徒からの御供養は、必ず「法主人」「御経聖人」といって、まず大聖人の御影様にお供えされた事実です。また、五老僧の方々が「天台沙門」と、自分の立場は天台宗の僧侶だと名乗ったことなどは、大聖人の弟子に決まり切っていますから、日興上人には夢にも考えられな

い事でした。

そして、五老僧方が法華経を説かれたのはお釈迦様だとして、お釈迦様を重んじ釈尊の仏像を本尊としていくという中にあって、日興上人だけは決して釈尊を本尊とすることはありませんでした。ただ大聖人が顕された妙法曼茶羅本尊と、大聖人の御影様だけです。

日興上人だって五老僧だって、ともに大聖人のお弟子です。大聖人から教えを受け、大聖人から可愛がられた、そして最後には大聖人から直々に、それぞれの地方での活躍を期待されて、本弟子六人と選ばれた方々なのです。それなのになぜこう違ってきたのでしょうか。

一言で言ってしまえば、それはやはり大聖人をお慕い申し上げる、師と仰ぐ心の度合いが違っていたとしか言いようがないのです。ですから、他の弟子たちが聞き過ごしてしまうようなことも、日興上人はどんなことでも大聖人の套言葉に随って、強く真剣に受け止められたのだと思うのです。

例えば、上行菩薩の自覚を語られる大人のを言葉は、御書を見ればわかるとおり、いつもご謙遜の表現です。それでも日興上人は、早い内からこれが大聖人の本領だと、しっかり受け止められていたのだと思います。

あるいはまた、大聖人は竜口の法難以降、大慈悲の御境界に立たれて、

「日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり。」(全集237頁)

と叫ばれました。そしてそれ以降も、日蓮は日本国のすべてを救う主君であり、師匠であり、父母であると、三徳兼備の境界を宣言し続けられます。

これを真っ正面から受け止めた日興上人は、末法を救ってくださるのは、お釈迦様ではなく、我が師日蓮聖人しかいないことを心底から重く受け止められ、堅く心に刻まれていったのだと思います。

なぜ日興上人だけがそういう強い渇仰恋慕の心、お慕いの心を持たれたかというと、それにはいくつかのはっきりとした理由があったのです。

これは勝手な想像ですが、日興上人が最初に大聖人にお会いした時のインスピレション、その衝撃がすごく大きかったのではないかと思っています。お弟子になると決意した時から、尋常ならざるお心があったのではないかと思います。

そして日興上人は、大聖人が佐渡に流された時も、常に師の側にあって給仕に尽くされました。あの「開目抄」「観心本尊抄」を著される自信に満ち満ちた大聖人を、直に拝してこられたのです。あのような流罪の厳しい状況の中で、師弟の道を共有されたら、それはもう言葉にはできないほどの御境界を、有無なく感得されていったのだと思います。

大聖人が身延山に入られてからも、日興上人は地理的にも境遇的にも大聖人に一番近く、身延山の地頭波木井実長さんは、元もと日興上人の教化による檀那だったし、そして甲州出身の日興上人は、甲州(山梨県)・駿河(静岡県)が布教の本拠地でした。

そして、何より決定的なことは、あの熱原の法難です。熱原法難は日興上人と、日興上人のお弟子の日秀・日弁さんと、その教化を受けられた農民たちが主役です。そして、出世の本懐を感じられたほどの大法難の場面で大聖人は、横暴な幕府を相手に、その対処の指示のすべてを日興上人に出されるのです。

この時目興上人が感受された大聖人は、それは動かし難く大きな存在だったに違いありません。大聖人の一言一句、さらに目の動きからすさまじい息づかいまで、大聖人の一挙手一投足は、日興上人の心肺に強く焼き付けられたと思います。

このように思いをめぐらしますと、同じお弟子とはいっても、他の弟子方が、大聖人がお亡くなりになった後、法華経の教理とか仏教というものから客観的に、クールに大聖人や大聖人の教え、法華経を理解し、自分たちの立場を考えられたのに対し、日興上人の場合はまったく違っていたと思います。

日興上人の場合は、大聖人の生き様のすべてがまず先にあったのだと思います。すなわち、最初にいくつか御書を引きましたが、如実の大聖人、現実の大聖人のお振る舞いのすべて、例えば、個性もきつく、感性も豊かであられる大聖人のお姿、お振る舞い、言葉の一つひとつ、それらすべてに日興上人は、末法救済の導師、日蓮大聖人を深く深く、強く感じられていたのだと思います。

他の五老僧方のように、法華経とか仏教の形から大聖人を位置づけられるのではなく、まず大聖人のすべてが最初にあり、そこから純粋に師の仰せに随って教えを語られていると押せられるのです。富士門流、すなわち日蓮正宗の開祖目興上人とはこういう方だったのです。他のどの弟子たちよりも深く、強く大聖人に師事され、大聖人を全身全霊で感じられて来られました。

そのような開祖日興上人の姿勢は、当然後の門弟たちにも大きな影響を与えないわけがありません。すなわち、日興上人の門流の弟子たちは、等しくこの日興上人のお心、ご信心を受け継いでいくことになるのです。

同じく大聖人を宗祖と仰ぐ門下といっても、仏様といえばお釈迦様といわれる五老僧方の門流と、この日興上人の門流とでは、当然そりが合いません。そういう中で、末法の仏様はお釈迦様ではなく、大聖人でなければならないのかという、信仰の理論的裏付けももっと必要になってきます。

この大聖人のご境界が、教義的にも意義付けられ、それらがまた書き物にもなって残ってい

くこととなりそれらはやがて日寛上人によって大成され、日蓮大聖人は久遠元初の自受用身で、末法本因妙の教主であるという説明が、理路整然と完壁に作されていったのです。

それを受けて、現在の私たちの信仰は、いささかの揺るぎもなく、末法の御本仏は日蓮大聖人と心が定まっています。これ日興上人の信心を受け継ぐ門流であれば、当然の結果です。

 

《日興上人が渇仰恋慕したように》

大聖人を御本仏と拝する信心は、このような段階を踏んで完壁に教義的には説明されてきましたが、元は日興上人が大聖人のすべてをお慕いした、そのご信心がスタートだったということです。言い換えれば、日蓮本仏義の原型は、日興上人の信心の中身であったのです。

ありのままの、生身の激しくも温かい日蓮大聖人のすべてのお振る舞い、全人格と御境界、それをお慕い申し上げたご信心です。

だから、私は日蓮本仏義には、温かくまた厳しくも、立体的な中身があると思うのです。それが何時しか教義上の概念だけが上滑りして観念的になって、言葉の操りだけが気になって、大切な中身を失ってしまった現状があるのではないかと残念に思うのです。

一見すると、教義の上からは、大聖人は最高位にランクされた本仏のイメージがあります。でもよく考えてみますと、日興上人は決して久遠元初の自受用身と、教義解釈して大聖人をお慕いしたのではないのです。

また、一身即三身、三身即一身、本因妙の教主と概念して渇仰したわけでありません。ただただ大聖人に常随給仕し、そして大聖人の全人格を通して、大聖人のすべてに惚れ込んだのです。渇仰恋慕され、弟子の道を合うされたのです。

大聖人の全人格とは、ありのままの大聖人です。必死で日本国を救わんとして、謗法の坊主は由比ヶ浜で頸を切れ、と迫った方です。ここ一番の大事な時に、弟子たちには腹をくくった決定の信心を促され、反して背く弟子たちを痛罵されたお方です。かといえば、これほどまでにと思うほど、情け深く信徒たちをいたわられたお方です。

ただ、鎌倉時代の人間ですから、癩病に対する偏見もありました。また当然、今日の民主主義も信教の自由も持ち合わせておりません。しかし、幕府の最高権力者を相手に一歩も引かず、堂々たる態度で張り合われます。それほどにその生き様のスケールは大きく、強く、深く、豊かで、人間としてこれほどの生き方がどうして可能なのか、我われはただ讃歎し、合掌し、そしてそのような大聖人に今縁していることを感謝し、報恩するばかりです。

大聖人は自らを法華経の行者と言い切っています。御書には数え切れないほど言われています。この法華経の行者というのは、身をもって法華経を受持した現実の人間凡夫です。生き身の人間が現実に、しかし現実には不可能のような、法華経の如説修行を完遂され、そして「我日本の柱とならむ」(全集232頁)と、一切の人々のためには主君であり師匠であり親であると任じられた方であります。

日興上人が渇仰恋慕した大聖人は、まさにそのようなありのままに生きた現実の大聖人でした。その大聖人を末法の唯一の大導師として、尊崇せられたのです。

私は、大聖人を御本仏、久遠元初の自受用身といって、どんどん高いところに奉って押し上げてしまうといった誤解があると思います。本宗はお釈迦様を本尊とはしませんが、その信仰の実体は、お釈迦様の頸を大聖人の頸にすげ替えたようなイメージで、大聖人を御本仏と理解しているのではないかと思います。これでは、日興上人のご信心とは違ってきますし、教義的にも本因妙の教主といった意味が失われてしまいます。

これでは、大聖人と我われが没交渉になってしまい、一人ひとりの信仰者に、生きた大聖人が関わっていないことになります。あまりにも大聖人を高いところに押し上げたものですから、自分の信仰の傍らで、大聖人の息づかいが聞こえてこないのです。

これでは信心していても大聖人から直に激励の言葉も、慰めの言葉も、ご注意もいただけないのではないかと思います。

日興上人が大聖人をお慕い申し上げたお心から始まった日蓮本仏の信仰は、これでは本来の意義を失っています。

余計なことですが、失ったところに池田大作とか阿部日顕とか、今日蓮的な邪魔者が入り込んでくる隙があると思うのです。

どうぞ皆さんには、日蓮大聖人は御本仏だからといって、決して形式的に高いところに奉り過ぎて、結果として大聖人を遠ざけるのではなくて、日常の信心、生活の中で大聖人を慕い求めていく、そういう信心をなさっていただきたいと思います。すなわち、日興上人が大聖人を渇仰恋慕したようにです。この辺が本宗の信仰の原点だと思っています。

そういう信心で御書を拝してみたら、至る所で大聖人は具体的に私たちに、直接に励まし、慰め、そして怒り、そして御指南くださっていることを実感することができます。

そうすれば、御本仏の常住此説法、すなわち仏様は常にここにあって法を説く、私たちのすぐ側で法を説いてくださっているということが、言葉だけのことではなくて、自分の信心の上に、事実としてありがたく感じられるはずです。

お会式は大聖人への御報恩の法要です。そして今私たちは、真心からの御報恩を尽くしました。その上に、さらに大聖人を一人ひとりがありがたく感じられていったならば、さらにさらに心のこもった御報恩謝徳になるのではないでしようか。  

 

 

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