記念講演


現代の教化を問う


 大 村 英 昭 (大阪大学教養部教授)


 
はじめに
 
浄土真宗は大きく東と西がございます。今ご先代が亡くなった直後で、何と法名が三っついたり、お骨を取り合いしたり、さまざまにもめておりますのが、お東でございます。東本願寺大谷家の内紛が、戦後、宗門改革の問題と絡みまして、長い間騒乱状態にあるわけでございます。幸か不幸か、私のほうは西本願寺でございまして、こちらは至って平穏無事でございます。本願寺派の大谷家のご門主方は、先々代あたりから東京大学仏教学部卒ということで、俊秀が出られまして、開明君主ということもございまして、わりとお東のようにはならずにまいっておりますが、よくよく考えてみますと、西本願寺といえども、やはりそれなりに宗派といたしましてはいろいろな問題を実は抱えております。

 
T
 私は、大阪・船場の大阪城に近いところにある西本願寺のほうの末寺で生まれました。別に大阪市の側から整理その他で出ていってくれと言われたわけでも何でもないにもかかわらず、大阪内本町の真ん中にございましたお寺を、20年前に私の一存で、現在は兵庫県宝塚市に移しております。
 
当時、自分の理解では、親鸞上人のお流れを汲む者の一人として、親鸞ファンダメンタリズムと言いましょうか、親鸞の原点に返るという意気込みもありまして、その観点からして、一坪千万円もするような場所で大きな伽藍を構えて(私のところは、そんなに大きくはありませんでしたが)金ピカの衣装を着てお勤めをすること自体に、私自身は不本意であった。自分の心の中には、どこかで日本仏教のファンダメンタリズム、すなわち「世捨ての文化」とでも言いましょうか、今、中野孝次さんの『清貧の思想』が、私の『死ねない時代』よりもはるかによく売れているそうですが、彼が書いているように、出家の理想は一人で庵にこっそり籠って良寛様のように生活する文化がありますし、そういうことでじっくり考えてみたいという気持がございました。大阪の内本町で檀家参りをして、とりあえず一応生活は何とかできるわけでございましょうが、そういうことについて、広い意味での日本仏教がつくりましたロマンから、ほど遠いこと、あるいは親鸞精神を裏切っているというか、自分で忸怩たる気持がだんだんつのりました。幸い学者としてどうやらこうやらおまんまはちょうだいできそうでしたので、20年前に、若気の至りとでも言いましょうか、むしろそういう人間が率先してお寺をつぶしたほうがいいのではないか。そもそも親鸞門流からプロの坊さんが出てくる理由はない。後から創価学会の中野毅先生からもお話が出ると思いますが、本当の意味での在家教団において、プロの坊さんというのは一体どんな意味を持っているのかということを、鋭く考え詰めていきますと、何もないじゃないかと。とにかく静かなところで小さな庵でも構えて、こっそり隠れて、少しく考えさせてもらいましょうというような、大変ぜいたくなことを、カッコよく言えば、日本仏教のロマンに乗ってというようなことですが、そういうロマンもなきにしもあらずでしたが、同時に逃げたい、お寺の住職であることを放棄したいみたいな気持がございまして、檀家衆にもほとんど相談せずに、私の独断専行ということで、大阪市内のお寺を、私が勝手に売却いたしまして宝塚に移しました。
 
うちの檀家総代は、大阪・船場の商売人さんですから、大阪弁で住職のことを「ごえんさん」と言います。後から檀家総代が、ごえんさんがなさったことは、お寺に対して大変な損害をかけたことになる。20年前のことでございますから、相当値上がりしていたといっても、その後にバブルで上昇して、今であったら、あそこはどう安く見積もっても坪5000万円程度はする。当時、ごえんさんが売りはったときは、もっと安かったのだから、ごえんさんは本当だったら横領罪だ、企業の役員だとすれば、責任とってやめてもらわないかんぐらいの損害をかけたんだ、という意味のこともおっしゃった。「総代様、損害をかけた額はどのぐらいでしょうか」と聞くと、大体25億円だとおっしゃるので、「承知いたしました。私の生涯のうちで必ず取り返してごらんに入れます」と言ったのですが、現在はずいぶんまた考え方が変わってまいりました。
 
そんなことを言っていたら、ちょっとしか持ち時間がないのに、先へ進みませんが、そういういろんなことをやってまいりました。その中で、一方では大学で宗教学あるいは社会心理学を教えたり、宗教学の諸先生方からお教えをこうむりまして、頭の体操もさせていただき、同時に一方で、実践というか、現場住職としての悩みを日常的に体験してまいりました。
 
私の父は55歳でガンで死に、ほかに子供がおりませんので私が唯一の後継者ということで、22歳でお寺を継ぎ住職になりました。考えてみますと既にほぼ30年住職をしてきたことになります。その30年の現場体験の中で、先ほど申しますようなことを平凡にこなしてきたわけではございませんで、門徒総代様に言わせれば「大胆不敵としか言いようがない」ような、かなり思い切ったこともしてまいりました。
そういう経験の中から、改めて親鸞教学、我が宗門の教学に対しても次第に批判的な目を持つようになりました。現場の営みというのは必ずしも教義あるいは法義の中にきちっと組み込まれていない。むしろ現場のセンス、現場の経験で教義を変えていかねばならない。従来から言われてまいりましたことは、ひたすら教義と現場のそういう意味での乖離している場合に、教義は常に正しくて、いわば正義で、それに対して現場が堕落しているという論調がほとんどでありました。三国連太郎氏の「白い道」を見ましても、親鸞は偉い人だけれども、今の現場はなっとらんとか、あるいは本願寺はなっとらんとか、宗門はとんでもないところへ堕落しているんだとか、そういうことで、いわゆる親鸞原理主義のもとに、ひたすら現場がたたかれてまいりました。当初は親鸞イズムとでも言えるような親鸞原理主義のようなものに相当イカれた人間でございましたがゆえに、そのことを唯々諾々と、言われてみればもっともだということで、極端に言えば頭は親鸞、身は民俗宗教というように分離してしまってきたことを当たり前のことのようにして、批判されるのをマゾヒズムのように、ムチ打たれて喜んでいるというか、ある種の快感をすら覚えてきたのが実情であります。しかし、そのほうがむしろおかしいのではないか。
 
私はそれを逆に現場から教義をたたいて、悪いのは教義なき現場ではなくて、現場なき教義のほうだ、教義の中に現場の思いがきちっと入ってないんだと、切り返してまいりました。宗門内では、あれは開き直りの論理だとか、批判は今もなお続いておりますが、私が教義を打ち始めて宗門内でもそれなりのインパクトを与えてきたと自負いたしております。そういう中から、現在、一応結論として持っておりますものを、お手元のレジュメに従ってお話し申し上げたいと思います。

 
U
 ご承知のように、いわゆる鎌倉新仏教、法然、親鸞の浄土門流、それから、私の後で中野東禅先生からお話があると思いますが、道元の曹洞宗、そして皆様方の日蓮宗は、既成仏教に対して、キリスト教でおっしゃいます一種のプロテスタンティズムとして、鎌倉時代に台頭したものでございます。プロテスタンティズムの理想が、そのまま近代に大変プラスに作用して、社会の近代化に貢献したということで、新仏教の持っております意味が、従来から単にお坊様の間だけではなくて、社会学者や哲学者の間でも高く評価されてまいったわけであります。
 
しかし、現在、時代は大変大きく変わろうとしていると思います。この予兆は、1973年の第一次オイル・ショックのころから始まったと考えておりますが、データの上にきれいに出てまいりますのは、1980年ぐらいになってからであります。とりわけ青年たちの間で、一種の宗教回帰のようなものが出てまいります。私は大阪大学で、毎年、新一回生に対して「死後の世界はあると思いますか」「霊界の存在を認めますか」などの質問項目を設けた調査を行っております。ここ15年間のデータを集めておりますが、このわずか15年の間にも、霊界とか死後の世界の存在に対して「イエス」と答える学生がふえております。私たちの世代は、戦後の近代主義と言いましょうか科学主義の教育を受けましたので、死んだらゴミになるだけというセンスを持っているつもりでおりますが、若い人たちの間では、そうではなくて、霊の世界とか死後の世界の存在について肯定的に答える確率が確実に上がってまいっております。
 
1980年ぐらいから、このような新しい感性が見えるようになってきたわけですが、これは「ポスト・プロテスタンティズム」ではないか。この言葉を使ったのは、私の記憶では、たしかヤン・スィンゲドーさんだったと思います。プロテスタンティズムの時代は終わったというわけです。既成教団は、こういうことを含めた若者たちの意識の上での宗教回帰を、うまくつかまえられない。ニーズとしては、とりわけ若い諸君の間で私たちの世代とは違った、ある感性が育ちつつあるにもかかわらず、既成教団は旧態依然の教学の中で、この新しい人たちのセンスをうまく抱きかかえることに失敗してきたというのが、私の理解であります。
 
私が大学に入学したのが1960
4年、文部教官助手になったのが1970年、いずれも60年安保、70年安保という時代でしたので、大学の中にはびこっております文化は、まことに反体制的なものでした。それがカッコいいということで、いろんな政治セクトがゲバ棒を担いで大騒動していたような時代であります。今は赤ヘルメットといえば、広島カープのことしか思いませんが、あのころは赤ヘルと言えば、あの恐れられた赤軍派のことを言ったのであります。そういう反体制意識、いわゆるプロテスタントがカッコいいと思われていた時代が、しかしながら、その後に大きく変わりました。宗教の上でも、プロテスタンティズムではない時代に入ったのではないかということを考えざるを得なくなってまいっております。

 
V
 近代に限定しますと、私のネーミングですが「煽る文化」です。資本主義社会は人々の欲望を煽って、人材に対する意味でも人々を競争させなければならないわけで、そのためにはエサをぶら下げておいて、そのエサに向かって、今は我慢の一字ですよということで、若い人を煽らねばなりません。そういう「煽る文化」が教育界、医療の世界にまで浸透いたしました。例えば「いのち頑張リズム」と言ってもいいようなことが、全体に蔓延しているわけであります。
 
ある調査によりますと、家庭の中でお母さんが子供たちに向かって一番使用頻度の高い言葉は、「早く、早く」だそうであります。それから、病院でお医者様やお見舞い客が一番よく使っている言葉は「頑張ってね」だそうであります。もう死にかけている人に向かって、なお頑張れと言うのは、考えようによれば非常に酷なことだと思います。レジュメの「
2日蓮宗は強い?」の最後のところに「ただし、禁欲的頑張リズムは、そろそろ文化疲労の兆しもあるが……」と書いてありますが、「禁欲的頑張リズム」という形でのまさに「煽る文化」の中で、確かに日本は世界一豊かな国になったのかもしれません。しかし、どうやら今、「頑張リズム」にみんな疲れてきている。昔、日航機が落ちたときに、「金属疲労」という言葉がありましたので、それをなぞって「文化疲労」という言葉を使っておりますが、ある種の疲れが、そろそろ出てきているという感じです。
今は、「煽る文化」が限界に突き当たっている。その中で「鎮める文化」と名付けていいようなものが、今、模索されているのだと思います。私は著書のタイトルに「死ねない時代」と書きましたが、それは、今、申したような意味です。どこまでいっても「頑張ってね」と言われる、いわゆる「いのち頑張リズム」です。死なねばならない人に向かって、なお生き続けよ、あきらめてはなりませんと言うのは、「死ねない時代」ではないかという思いがございます。今は、そうではない時代のはずです。「頑張ってね」という言葉の中に、近代を支えてきた「煽る文化」の一端がはしなくも見えるわけです。それに対して日本仏教は、私の理解では上げて「鎮める文化」を、我が国の中で大変上手に彫琢してまいりました。何も我が浄土門流だけではございませんで、あらゆるご宗派がみんなそうだと思います。私たちは死ぬとき心が鎮まらねばなりません。
 
大学院生に「煽る文化」と「鎮める文化」を調べさせたことがあります。戦後、中年男性に最もウケのよかった小説群を、あるフィルターを使って抉っていくわけです。新聞小説で始まって、評判がよくって単行本になり、それがよく売れたので、さらに文庫本になり、お芝居にもなり映画あるいはテレビドラマにもなってくる、こういう幾つかのハードルをセットし、そのハードルを全部クリアするものが中年男性にもウケている小説だということで抉ってみました。そうすると、昭和30年代で最初に上がってきたのが、井上靖の『風林火山』でした。40年に入って山本周五郎の『樅の木は残った』、40年代後半に司馬遼太郎が登場されて、中でも一番よくテレビドラマ化され大衆化しましたのは『燃えよ剣』で、文庫本では4巻ですが、新選組副長だった土方歳三の生涯を描いたものです。さらにその後、テレビドラマ、芝居、映画によく活用されたのは、池波正太郎の『真田太平記』等々があります。
 
今、挙げたのは非常に不正確な言い方で、ハードルをクリアした小説を全部申し上げませんでしたが、今、挙げた四つの小説の主人公の生き方、あるいは各作者の主人公に対する思いを頭に描いていただきますと、例えば、司馬遼太郎が描かれる得意の幕末から明治維新にかけてのヒーローたちは、いずれも早世の人たちですから当然そうなるわけだと思いますが、みんな死に向かって今を力いっぱい生きるという一種の「死のダンディズム」のようなものが描き込まれております。『風林火山』の山本勘助にしても、一般に言われております武田信玄の軍師であったという以上に、井上靖が込めている小説の描き方は大変美しいものであります。
 
言葉をかえて言いますと、本来、私たち仏教者がしなければならないことを、これらの小説家たちがやってくれているわけです。私は今51歳になろうとしていますが、今まで頑張れ、頑張れで競争の中で生きてきた人間が、このころになったら、どこかで静安に鎮まりたいという気持ちを心ひそかに持っております。そういう気持ちに非常によくマッチする「鎮める文化」を、仏教者が忘れている間に、すぐれた大衆小説家は、その気持を大変きれいに受け取っていた。だからこそ、ああいう小説がウケるんだということがわかります。
 
そんな意味で、今、大変大きな転換期の中で、日本仏教が培いました「鎮める文化」を見直さねばならない時代であると思います。前は私は誤解があったようですが
……、その点、日蓮様の信仰の中には、どこか「煽る文化」の面が強いのではございますまいか。日蓮様のイメージは親鸞様以上に「禁欲的頑張リズム」のお坊さんではないでしょうかと申したことがあります。「とんでもございません」と、ある日蓮宗の学者の先生から怒られたことがございます。
 
なぜそういうように言うかというと、明治維新以降、とりわけ日蓮宗からいろいろと新宗教が出てくるわけです。大正時代から昭和にかけての霊友会もそうですし、第2次大戦後の立正佼成会、その後に続いた創価学会も、皆さんそうであります。少なくとも新宗教の側で見る法華門流は、どこか「禁欲的頑張リズム」を引きずっておられるのではないか。しかし、これが今、行き詰まってきている。だから、大変大きな転換期に入っておられると思います。

 
W
 レジュメに「新宗教の信徒をうまく檀家化することができれば……」と書きましたが、本日の会議に創価学会から創価大学の先生が日蓮正宗との間で独立して見えている。日蓮宗としては、うまくおやりになれば、かつての霊友会と同じように、これを日蓮宗の傘下におさめることも不可能ではないと思います。うまく檀家化すればいいわけです。信徒を日蓮宗の檀家にできるかという勝負どころかと思います。新しい法華門流の各教団は、近代になって出てきたものでありますだけに、一種「煽る文化」あるいは「禁欲的頑張リズム」の側にある。それが今、全体的に行き詰まってまいっておりますから、変な言い方ですが、ここに本流としての日蓮宗のつけ込む余地はあると思います。後から中野毅先生から怒られるのを覚悟の上で申せば、そういうことではないかと思います。
 
我が浄土真宗でも、大きな目線から見直せば、きれい事としてでき上がっておりました近代教学を、鋭く打っていかなければならない。近代教学はどこかで「禁欲的頑張リズム」と野合いたしております。しかし、仏教の本来の役割は、プロテスタンティズムといえども、鎌倉新仏教といえども、「鎮めの文化」の側にあるのではないか。人々が静安に死んでいくことを私たちは願っている。そういうことが目論みでございましたし、そこに唯一の日本仏教の目標があるわけでございます。
 
細かい点のお話はできませんでしたが、後ほど両先生のお話を伺った後でまた申させていただきたいと思います。大変申しわけございませんが、時間でございますので、私の第一発題はこれで終わらせていただきます。ありがとうございました。(拍手)

 

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