御遺文の真偽問題

−その問題点への私見−

勝呂信靜

 

1節 真撰・偽撰をどう考えるか


 昨年現宗研で「『立正安国論』と日蓮聖人の国家思想」と題してお話をし、それは「現代宗教研究」第31号に論文として掲載されたが、そのあとで現宗研から、御遺文の真偽問題について何か論文を書くように依頼された。現宗研のいう真偽問題は、この問題一般に関することで、さきの私の論文と関係ないことであったが、改めて自分の論文を読み返してみると、この中でわずかにふれた真偽問題について知識の不正確なところがあって、これを補訂する必要を感じ、また日頃、真偽問題の取り扱いについて疑問に思っている点があったので、この依頼をお引き受けすることにした。
 引き受けてはみたものの、これは極めて重大、深刻な問題であって、専門家でもない私の手に負えるものでないことは十分に承知しているところである。よってこの文章は、研究論文というようなものでなく、思いつきを述べる程度のものであることをあらかじめお断りしておかねばならない。
 さきの現宗研での話は、私が大谷大学における日本仏教学会で発表した論文「日蓮聖人の国家観」(「日本仏教学会年報」第
58号所収)を下敷にしたものであったが、この論文の中で私は20編ほどの御遺文の文章を自説の典拠として引用した。大谷大学でこれを発表したとき若干の質問を受けたが、質問者の一人は立正大学宗学科の中堅教授であって、その要旨は「あなたが資料として使った日蓮聖人の御遺文の中には偽作と思われるものが含まれている。だからそれを土台にしたあなたの主張は正確といえないのではないか」というものであった。これに対し私は、「あるいは私の使った御遺文の中には多少の偽作が含まれているかも知れない、しかし私の主張はそれを除いても成立し得るものと考えているから、論証には差支えないものと思う」と答えたのであった。
 私がとっさにこのように答えたのは、じつはかつて家永三郎博士と山川智応博士の間に行なわれた論爭を思い出したからである。家永博士は戦争直後のころ日本史学の立場から日蓮聖人の宗教の成立について考察した論文を発表された(「日蓮の宗教の成立に関する思想史的考察」〔『中世仏教思想史研究』所収〕)。これは日蓮の宗教は浄土念仏の影響あるいは模倣のもとに成立したとみられることを文献学的に考証したものであって、われわれに大きな衝撃を与えたものであった。これに対し山川智応博士が教誌『信人』誌上において批判し反論を発表された。この山川説に対し家永博士が答弁されているが、それは上掲の家永書の巻末にある「本文補説」の中に述べられている。ここでいくつかのことが論じられているが、その一に、山川博士は、家永博士が日蓮聖人の思想と中古天台の教義を混同し『授職灌頂口伝抄』など偽作の疑を持たれている御書を使用していることを指摘された。これに対する家永博士の答弁はつぎのとおりであるが、どうやら私はこれを覚えていたのである。いま繁をいとわずこの部分の文章を引用しよう。
 日蓮と口伝法門との関係について、一言する。実は私は本稿を執筆するに当って『波木井殿御書』の如き明白な偽作の外は、日蓮の遺文として伝えられている文章について十分真偽の批判を加へることなしに議論を進めたのであるが、本書公刊の後に浅井要麟師の『日蓮聖人教学の研究』を参照し、その点について用意の足らなかったことに気付いた。然しながら本稿の主要なる論旨は、浅井師が偽書の疑ありとされたものを引證史料から削除しても猶変化はないのであるから、今はしばらく中古天台口伝法門との関係については、今後の精考をまつ必要あるを述べるにとどめ、一応旧稿をそのままにして置きたい、と思ふ。
 私は今ここで家永博士と山川博士の所論の当否を述べることが目的なのではない。私自身は家永説に反対であって、かつてこの論文を強く批判したことがある(勝呂信静『日蓮思想の根本問題』)。ただ御遺文の真偽問題に対する態度には、現況においてはいろいろな選択肢があるはずであって、家永博士のような考え方もあり得ることをとくに強調して置きたいのである。私自身は家永説に反対なのであるが、この点についてはむしろ家永博士に似た考えを持っているのである。以下に少しくこのことを論じてみたい。

 御遺文の真偽の問題を論じた学者は何人かいるが、中でもこの問題について厳格にして広範な文献学的研究を提唱・実行されたのは浅井要麟教授であった。教授の提起された問題はきわめて多岐にわたっていて、その困難性のゆえになお未解決の問題も少なくないが、教授の影響力はまことに大きく、その学風は今日まで脈々と伝えられているのである。
 御遺文類の中には偽作の疑のあるものが少からず混入しているので、これを資料として用いる場合真偽の嚴重なチェックが必要であるということは、宗学研究者の間では常識になっているが、世間では案外このことは知られていないようである。この理由はいろいろ考えられるが、御遺文研究は近代的な文献学的研究であるにしても、伝統的な「祖書学」(ただしこの呼称は近代のものらしい)に属するものであるから、それは日蓮宗内部の学問として研究成果が外側に向かって十分に知らされなかったことがあると思う。さらに『昭和定本遺文』の編纂法も影響しているように思う。
 周知のように『定本遺文』は第一輯正篇(第一巻・第二巻)に真撰遺文
434篇を、第二輯続篇(第三巻)に偽撰の疑ある遺文55篇を収録している。この『定本遺文』は今日まで公刊された遺文集のうちもっとも権威あるものであるから、この真撰(第一輯)と偽撰(第二輯)の分類は決定的なものと思われがちである。ところが偽撰の疑のある御書であっても、古来伝統的に宗義上・信仰上、真撰のごとくみなされて来たものは第一輯の中に収められているが(この旨は巻末の凡例に示されている)、しかしそれがどの御書であるかは指示されていない。一般の研究者は真偽問題についての細かい議論を知らないから、第一輯正篇の中の御書なので間違いないと思って資料に取りあげると、専門家からそれは偽書であると指摘・非難されるようなことが起る。さきに述べた私の場合がそうであった。
 しかしひるがえって考えてみると、決定的な意味での偽書というものがあり得るのかどうか。どの点から見てもあるいは誰が見ても偽作であることが疑ない御書があるとすれば、それは偽書といってよい。しかし大多数の場合、偽作の疑が強いが、見ようによっては真作と見られるというものであって、真作の可能性が全くないということではない。一般に真偽を決定する客観的形式的な証拠というものは容易に見出されないから、拝読する人の主観によって真偽の判断が異なるということは十分に起り得る。第二輯続篇(偽書の部)に収められている御書にしても、それは同様であって、ある御書について、百人の学者のうち九十九人までが偽書説を唱えても、一人が真書説を唱えそしてそれに相応の根拠があれば、決定的な意味で偽書とはいえない。それは厳密にいえば偽書でなくて真偽未決であり、真偽が疑われているという意味において「疑書」と称すべきものである(ただし「疑書」という言葉が用語として定着しているかどうかは判らないが。
)
 この点を考慮したからであろうか『昭和定本遺文』の凡例は、慎重に偽書という言葉をさけて真偽未決の趣旨の言葉を用いている。念のためその一部をつぎに引用しよう。
    凡 例 (前略)
  
1、本書は右の内容を左の五輯に分って収録した。
   第一輯 正篇 著述・消息にして真蹟現存するもの、真蹟現存せざるも真撰確実なるもの、真偽確定せざるも宗義上・信仰上・傳統的に重要視さるゝものを収めた。
   第二輯 続篇 著述・消息にして真偽の問題の存するもの、其他を収めた。(下略)
 右において「其他」というのは極めてあいまいで、何を意味するのかこれだけではよく判らないが、ともかくこの凡例によるかぎり、『昭和定本遺文』においては偽書は存在せず、存在するのは真偽の問題のあるもの、つまり真偽未決の御書である。真偽未決であれば、平均化して
50パーセントは真作の可能性があるとせねばならない。しかるに学界の傾向として、疑書を偽書と同一視し、それを日蓮聖人の思想にあらずとして全面的に排除しようとするところに問題があるように思われるのである。
 厳密性を重視する学者のなかには、真蹟の現存あるいは曽存が確認される御書のみを用い、他は一切資料として採用しないという研究法を取っている人がいる。有力な学者で現にこのような人がいるのである。たしかにこれは一つの見識である。しかし偽書と称されるものは厳密にいえば上述したように「疑書」であるから、真作の可能性を含むものとせねばならない。それを全面的に排除することは、日蓮聖人の宗教思想を実態よりも狭小に限定することになりかねないと思う。それは偏った日蓮像を作りあげることにもなるであろう。
 これに対し偽書あるいは疑書ということを考慮せず日蓮聖人の名において伝えられるものは、すべて真撰として取り扱うという立場もあり得る。しかしこれによっては日蓮聖人の思想から、そこに混入しているかも知れない他の夾雑的な思想を区別し除去する方法を取り得ないという欠点が生ずる。
 以上に対し聖人の御書を、真撰の確実視される御書を基本的資料、偽作の疑のある御書、真偽未決の御書を補助的資料として区別し、まず基本的資料によって聖人の思想を拝察し、それに矛盾しないかぎりにおいて補助的資料を基本的資料に準ずるものとして採用するという方法があり得ると思う。私にはこの方法がもっとも妥当であるように思われるのである。

 ところで一昨年、米田淳雄師からその御労作『平成新修日蓮聖人遺文集』の御寄贈を忝なうした。御遺文の編集はそれ自体困難な仕事であるが、この『平成新修遺文集』は御真蹟(影印)を一々照合され、その他凡例に示されるごとく行き届いた細かい配慮がなされ、平成の世にふさわしい合理的な読み易い御遺文集が完成されたことは、その学恩の大きさに対し、いくら感謝申し上げても感謝しきれないものがある。
 年代順に編纂されているので、最初に『戒体即身成仏義』があると思い拝読したところ、それがないので不思議な気がした。そこで改めて巻末の「刊行の辞」を拝見したところ、ここに編纂の方針・意図が明示されていたが、いま次にその最初の部分だけを引用させて頂く。
  日蓮聖人の信心と教えを正しく理解し把握するためには、伝承されてきた数多くの御遺文の中から真蹟およびそれに準ずる御遺文を選び出し、それら御遺文を基本にして、現代に読みなおされることが第一義であると、私は固く信解して参りました。「真蹟遺文による教学の研鑽と布教伝道」は私の悲願でありましたが、ここに幸にも五十年の宿願漸く叶い、『平成新修日蓮聖人遺文集』を刊行するはこびとなりました。(下略)
 右のように米田師は真蹟の存在が確実視される御書だけを収録されているのである。これは最新の日蓮聖人研究の方法を徹底化して遂行されたものと理解することができる。上記の「刊行の辞」によれば米田師は日蓮教学研究所(立正大学宗学科)の諸先生と密接に連絡し、その指示を仰ぎ協力を得たものとして、これら諸先生のお名前もあげられている。これは今日における学問傾向の最高の水準をあらわす成果であると評することができる。
 しかし『平成新修遺文集』にはわれわれがしばしば用いる御書、たとえば『教機時国鈔』などが収録されていないことは、正直に言って戸惑いを感ぜざるを得ない。今日本宗において日蓮聖人の宗教思想に関する最高の権威ある指南書は、勧学院監修の『宗義大綱読本』であるが、この書の中には約
80篇近くの御書が引用されている。この約80篇のうち『平成新修遺文集』に収録されていないものが約35篇存する。つぎにその御書の名を挙げよう(かっこの中の数字は『宗義大綱読本』の中に引用されている回数。なおこの調査は勿勿の間に行なったので、不正確なところ、思わぬ誤認や誤解があるかも知れない。御叱正を乞う)。
 『教機時国鈔』(
11
 『四條金吾殿御返事』(4)
 『唱法華題目鈔』(4)
 『三大秘法鈔』(3)
 『一代聖教大意』(3)
 『上野殿御返事』(3)
 『諸法実相鈔』(3)
 『佐渡御勘気鈔』(2)
 『善無畏三蔵鈔』(2)
 『四恩鈔』(2)
 『如説修行鈔』(2)
 『聖愚問答鈔』(2)
 『冨木入道殿御返事』(2)
 『曽谷入道殿御返事』(2)
 『佐渡御書』(1)
 『本尊問答鈔』(1)
 『妙法比丘尼御返事』(1)
 『三沢鈔』(1)
 『破良観等御書』(1)
 『題目彌陀名号勝劣事』(1)
 『頼基陳状』(1)
 『上行菩薩結要付嘱口伝』(1)
 『教行証御書』(1)
 『法華真言勝劣事』(1)
 『四菩薩造立鈔』(1)
 『日女御前御返事』(1)
 『法華初心成仏鈔』(1)
 『十法界明因果鈔』(1)
 『四條金吾殿御消息』(1)
 『身延山御書』(1)
 『最蓮房御返事』(1)
 『南條兵衞七郎殿御返事』(1)
 『顕立正意鈔』(1)
 『大田左衛門尉御返事』(1)
 『與北條時宗書』(1)
 右のような御書が『平成新修遺文集』には収録されていないのであるが、『宗義大綱読本』との間におけるこの大きな相違をどのように理解すべきであろうか。とくに注目されるのは『平成新修遺文集』における顧問の諸先生と『宗義大綱読本』の執筆者の諸先生とが、顔ぶれがほとんど重なっていることである。この二つの書物が同一人物の著作と見られるとすれば、これは矛盾という外はない。もっとも『平成新修遺文集』は米田師個人の作であり、『宗義大綱読本』は共同執筆であるから、責任の所在が異なるということはいえる。しかし前者の書における顧問の諸先生のうち若干の人々は、本書の企画立案の当初から編集に参画されているということであるから、これら諸先生の意向が本書に強く反映していることは疑ない。
 あるいは『宗義大綱読本』は布教の目的のために編纂したものなので、便宜的に偽書あるいは疑書の類を容認しており、これに対し『平成新修遺文集』は厳正な学問的立場から編纂されたものなので、偽書あるいは疑書を排除するのであると説明されるかも知れない。しかし米田師は有数の布教家であって「教学の研鑽と布教伝道」のために当書を編集したと言われるから、学問だけでなく布教のためのものであることはいうまでもない。日蓮聖人の精神からすれば、学問と布教を区別することは無意味であるのみならず、正しい態度とはいいかねるものである。一般宗門人の意識からすれば、『平成新修遺文集』と『宗義大綱読本』はともに最高の権威ある書として同じレベルにあるもので、そこに区別があるとは考えていないであろう。
 両書におけるこのような食い違いに対し、われわれはどのような態度を取り、どう対処したらよいのであろうか。教学上のこの種の問題の審議決定は勧学院が行なうことになっているとのことであるから、『宗義大綱読本』の所説にしたがえばよいわけであるが、しかし人事面から見ると、勧学院はみずからがみずからを審議裁定しなければならないことになる。これは大変に厄介な問題である。しかしこのままに放置しておいてよいようにも思われないのである。

 ここで本節のしめくくりとしてつぎの希望・提案をしたい。それは御遺文賛仰者・研究者の便宜のために、遺文集の末尾に付録として「真偽参考資料」(仮題)を付することである。その内容はつぎのとおり。
 
1、真蹟及び真蹟断簡の存否。
 
2、古来の各種の御書目録またはその写本を、歴史学的に見た年代順にナンバーを付して配列し、当該御書の初出の御書目録の名、必要に応じてその後の御書目録の名をナンバーとともに掲示し、あわせてそこに当該御書が真蹟として挙げられているのか、写本としてか、いずれか不明かを指示する。
 
3、當該御書の偽撰説(真偽未決を含む)を唱えた学者の名と年代を時代順に記し、これに反論して真撰説を唱えた学者があればその名・年代をもあわせて記載する。

 

 

 2節 『種種御振舞御書』


 以上、御遺文の真偽問題を、一般的問題として考えてみたのであるが、実際に御書を拝読する段になれば、真偽の疑のある御書についてはその一つ一つに対して自分なりにこの問題を考えねばならないことになる。私自身は専門家でないから深い研究は何もできないが、一般的問題であるにしても真偽問題に対し発言した責任上、問題のある御書に対し多少なりとも私見を述べて置きたい。ただし弁解がましいが、これは専門的研究でなくて極めて粗雑な感想程度のものであることを、あらかじめお断りしたい。
 真偽の問題の存する御書は多いが、私見によると、つぎの三種あるいは三種類の御書がもっとも重要でかつ深刻な問題を提出するものである。
 (
1)『種種御振舞御書』
 (
2)『三大秘法鈔』
 (
3)中古天台教義、とくに無作三身の教義のあらわれている御書
 まず、『種種御振舞御書』から考えてみよう。
 この御書が疑われたことは明治以前には全くなかった。明治
40年ごろ他宗の学者である境野黄洋博士が偽書説を唱えたのがはじまりで、その後わが宗の学者の中にも次第にこれに同調するものが増えて来たのである。境野博士の所説に対し山川智應博士が詳細な反論を発表し、真撰説を主張された。(『日蓮聖人研究』第二巻、277頁〜338頁、「種種御振御書は偽書に非ず」)。その後浅井要麟教授が『日蓮聖人御遺文講義』第十巻所収の『種種御振舞御書』の「解題」において、境野博士の偽書説と山川博士の真書説を紹介し、御自分は、「未だ研究の途上にある」ものとして結論を保留されつつも、山川説に対して多くの疑点・問題点の存することを指摘されている。浅井教授の論調は全体として偽書説に傾いているように見受けられる。私は山川・浅井両大家の所論を拝見してその学殖の深さに敬服するとともに解決の容易でないことを痛感した。
 文献の歴史的伝承の確実さから見れば本御書が真撰であることは疑ないように思われる。歴史学的に確実視される最古の御書目録の一である日祐師の『本尊聖教録』に本御書の名があげられている。(ただし真蹟か写本かは不明。これ以前に、日祐師の師である日常師の『常修院本尊聖教録』が存するが、この中には本御書の名は記載されていない)。また聖人滅後の最古の文献の一である『御伝土代』(聖人滅後30年〜60年ごろの作)の中に本御書が引用されている。また本御書は明治八年身延山の大火によって焼失するまで真蹟として同山に格護されていた。さらにいえば、山川博士が詳細に論証されたように、本御書に出る人物や官職の呼称・表記、あるいは事件・事蹟等に関する記述は、当時の特徴をあらわす呼称・表記・記述とよく一致するということである。
 これらのことは本御書の真撰を証明するのに十分であるといえよう。『日蓮辞典』や『日蓮宗事典』における本御書の説明を見たが、偽書説についてはとくにふれていない。
 しかし本御書の偽作説もかなり有力である。今日宗門の著名な日蓮研究家ではっきり偽作説を主張している人もいる。あるいははっきり言わなくても暗黙のうちに偽作説を支持し、本御書を敬遠する態度を取る学者も少なくない。この偽作説の主たる根拠は本御書の内容によるようである。この点を浅井要麟教授の記述をかりてその要点のみを述べれば次のようである。
 本御書の叙述においては、聖人が法華経の行者として自己の抱負・威嚴・矜持を語られる態度が、聖人みずからの口吻でなくて、聖人を崇敬するものが若干の主観を交えて聖人に代って大言壮語するという態度が見える。また誇張せられた事蹟・奇蹟に関する記述が多く、そのうちあるものは、他の確実視される御書における記述と齟齬している。また所々に芝居がかった記述が見られるが、これも聖人の人格にふさわしくないように見受けられる。これらの事がらによっておそらく本御書は偽作であろうと推定されるのである。(以上取意。なお浅井教授は、日祐師の『本尊聖教録』以来もろもろの御書目録に本御書の名が記載されているが、御真蹟の存在については疑点があること、また御自分の経験からして、諸山において古来御真蹟と伝えられる御本尊・御筆蹟の中にはにわかに信じられないものが少からずあることなどを言われて、本御書の御真蹟が身延山に曽存したとしても、なお偽作の可能性のあることを示唆されている)。

 私自身は本御書を拝読した印象を率直に述べると、他の御書とどこか異なるという感じをどうしても否定することができないのである。それはこの御書の中で、御自分のことを語る聖人と語られる聖人との間に時間的位置的に距離があるように感ぜられるからである。本御書において聖人は御自分のことを極めて客観的に叙述されていて、あたかも、語る聖人(主体)と語られる聖人(客体)との二人の聖人が存在するごとき印象を与える。聖人は御書の中で御自分の過去の事を追想述懐されることが多い。たとえば『一谷入道御書』『聖人御難事』などを拝見すると、その冒頭は何年何月何日にこのようなことがあったという言葉で書きはじめられている。過去の事を述べるのであるから、現在と距離があるのは当然である。しかしここでは過去の行跡を述べるのが直接の目的でなくて、それを手がかりにして聖人が現在説き示そうとする教えに導いて行かれるというのが、この場合の説き方であろうと思う。
『種種御振舞御書』も「去ぬる文永五年後の正月十八日、西戎大蒙古国より
……」とう言葉ではじまるから、『一谷入道御書』『聖人御難事』等の場合と同じく過去の行跡・事跡から説きはじめられている。特徴的なことは当御書においては、冒頭だけでなくその後も一貫して聖人の行跡が語られているのであって、しかもそれが編年式に書きつづけられているのである。これは聖人の伝記以外のものではない。もちろんその間に聖人の抱負・教訓等も述べられているが、それらも過去のこととして記述されているのである。たとえば有名な文言であるが、「……末法の始めに一閻浮堤にひろまらせ給ふべき瑞相に日蓮さきがけしたり、わたうども二陣三陣つづきて……天台・伝教にもこへよかし」というような門下への激励のお言葉が述べられているが、それも次下を見ると、「……と申しふくめぬ」というように過去の行跡として述べられているのである。本御書が聖人の伝記を語るものであることは疑ない。文中諸所に「しげければしるさず」「しげければ書かず」とて記述を省略した旨が示されているが、これは目的が伝記の記述にあることを示唆するものであろう。
 このように見て来ると、本御書は、日蓮聖人の伝記を人々に伝えるという一つの目的に強く規定されたものであることが推知せられる。ここで仮説を述べることが許されるならば本御書は、聖人が門下の弟子・信者を教育するために作られた自伝であったかも知れない。身延時代聖人の直弟子たちは各地に教線を拡げつつあったが、それぞれの直弟子につながる孫弟子・信者たちは聖人に拝謁する機会を得ず、その実像に接することのできないものも少なくなかったであろう。そういう人々に読み聞かせるために本御書が作られたと想像するのである。ここにあらわれている日蓮像は「教祖」としての日蓮聖人であり弟子たちが仰ぎ見る聖人である。記述に誇張の多いのは事実であるが、それは「教祖」としての聖人を示すためであろう。本御書は実に名文であって、朗々と声に出して読むのにふさわしいが、それは信者に読んで聞かせるためのものだからと思う。(偽作説を唱える学者の中に当御書は偽作のゆえに悪文であると評される人がいるが、私にはそのようには思われない)
 憶測を重ねてもいたし方ないことであるが、聖人みずからの発意でこのような御書をお書きになることは考えがたいことであるから、おそらく弟子たちの要請に答えてお書きになったものであるまいか。あるいは門下に命じて書かせられたということも可能性の一つとして考え得られよう(ただしこの場合は御筆蹟の問題が残る)。
『種種御振舞御書』は『旧種種御振御書』(『定遺』冒頭より969頁5行までに相当)・『旧佐渡御勘気事』(969頁6行より980頁6行までに相当)・『旧阿彌陀堂法印祈雨事』(980頁7行より985頁10行までに相当)・『旧光日房御書』の末文(985頁11行より結尾までに相当)の四書を合冊編集したものであることがほぼ確かめられている。合冊編集されたことだけについていえば、それは真偽問題と直接の関係はないが、浅井教授によると、『阿彌陀堂法印祈雨事』以降はそれ以前の部分と趣を異にし、比較すると筆力が頗る鈍り、前の部分と一貫した文章とは考えられないとのことである。したがって後の二御書の部分を前と区別して独立に考察する必要があろう。小論において『種種御振舞御書』というときは主として前の部分を念頭に置いているのである。

『種種御振舞御書』を真撰と見るならば、この中に『十一通御書』が引用されているのであるから、それらをも真撰と見なければ論理的に矛盾であろう。もっとも『種種御振舞御書』には「其の年の末十月に十一通の状を書きてかたがたへ驚かし申す」とあるのみで、その内容の文は引用されていない。ゆえに現存『十一通御書』の文章を偽作であると主張することは可能なわけであるが、それにしても十一通の書状を作られたという史実までは否定できなくなるわけである。
 真蹟断簡の現存する『金吾殿御返事』(系年、文永7年11月28日。『十一通御書』の作成年次は文永5年10月11日とされる)の中に、
  抑も此の法門の事勘文の有無に依って弘まるべきか、弘まらざるか。去年方々に申して候しかども、いなせ(否応)の返事候はず候。
 とあるのは、あるいは十一通御書をさすのかとも受けとれる。そうであればこの御書の真撰説に根拠を与えることにもなろう。
 なおこれに付随して自説を訂正して置きたいことがある。冒頭に掲げた拙論(「現代宗教研究」第31号所収「『立正安国論』と日蓮聖人の国家思想」)において私は、『十一通御書』の思想が日蓮聖人の思想と矛盾するものでないと見られる理由として、真撰と目される『安国論御勘由来』『宿屋入道許御状』『宿屋入道再御状』の3書に述べられる所説をとりあげた。その後浅井要麟教授の『日蓮聖人教学の研究』の中の「十一通御書の研究」を読んだとき、すでに姉崎正治博士によって『十一通御書』とともに『宿屋入道許御状』の偽書説が発表されていることを知った。したがって私が上記3書のすべてを真作であることが確実視されていると言ったのは間違いで、このうちから『宿屋入道許御状』を除かねばならない。第一輯正篇に収録されているので、間違いないものと単純に信じ込んでしまったのである。

 

 

 3  『三大秘法鈔』


『三大秘法鈔』については周知のように、古来真偽の議論がやかましく、この論争は今日まで続いている。積み重ねられた精緻な議論に対して私がつけ加えることができるものは何もない。真偽についても判断することができない。ただ本御書を拝読した感想を率直に述べると、他の御書とやや異なった印象を受けることを否定することができない。本御書の結尾に
 予年来己心に秘すと雖も、此の法門を書き付けて留め置かずんば、門家の遣弟等定めて無慈悲の讒言を加ふべし。其の後は何と悔ゆとも叶ふまじきと存ずる間、貴辺(大田金吾殿)に対し書き送り候。一見の後秘して佗見有るべからず、口外も詮なし。法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給ひて候は、此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給へばなり、秘すべし、秘すべし。
とあって、この法門が口伝に近い形式で伝授されていることも一般の御遺文と異なった印象を与える。この口伝の形式は、この直前に
 此の三大秘法は二千余年の當初、地涌千界の上首として日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せし也。今日蓮が所行は霊鷲山の稟承に芥爾許りの相違なき、色も替はらぬ壽量品の事の三大事なり。
とあるのと照応していることはいうまでもない。聖人における上行菩薩の御自覚がこのような口決相承(あるいは法脈相承)に近い形で述べられることもやや異例に属しよう。
 本御書の真撰についてはたびたび疑義が出されているが、このことと、本御書の思想が日蓮聖人の思想と合致するか否かということは全く別問題であるとせねばならない。かりに本御書が偽作であるとしても、その思想が日蓮聖人の思想を正当にあらわしたものであることはあり得ることだからである。
 諸家の真偽論を瞥見した中で、鈴木一成教授が『日蓮聖人御遺文講義』第七巻の中の「解題」において述べられていることが、私にはもっとも受け入れやすい。いま繁をいとわずその文章の中で要点と思われる箇所を次に引用しよう。
 以上の(自分の)所述を要約すると、真蹟の存否については事実を決しかねる。文章の真偽については、これ亦いづれとも決しかねる。内容の事の戒壇法門は聖人の抱懐された理想であらうと推定するといふことになる。最後に自分は私一個の臆説を出して、大方の指南を仰ぐことにする。それは本鈔の法門は聖人が六老僧や富木・大田等の教団の重立に、深秘の法門として口決相承されたもので、その内の一つである大田氏の手記が転々伝写されて真作と伝へられるに至ったものであろうか。
……また文章についても聖人直接の執筆でないから、多少の矛盾はあらうし、聖人口づから授かったものを直写したとすれば、用語文勢等も他の御遺文と共通点があるわけである。昭門流で指摘したといふ疑、他の御書の例を破って、上行菩薩の再誕也と直言された点なども、聖人の口授を筆録したものとすれば、あり得ることと思ふ。……
 右のように述べられているが、私は基本的にこのような考え方に同感である。

 本御書の真撰を証明する決定的な証拠は得られていないのであるが、日蓮聖人滅後比較的早い時期に、諸門流を通じて本御書が重用されたように見えることは注意してよいことと思う。本御書の真撰説を主張された山川智応博士は、その論文(「三大秘法鈔の真偽問題」〔『日蓮聖人研究』第一巻所収〕)において種々のことを論じている中で、本御書の御真蹟の存否に関してつぎのように指摘されている。
 本御書の写本でもっとも古いものは、中山門流に属する久遠成院日親師が嘉吉2年(1442年)に書写したものであり、一方、本御書に言及している最古の文献は同じく中山門流に属する本成房日実師の『当家宗旨名目』(寛正2年=1461年著)である。その『当家宗旨名目』に
   
……此ノ御書の相承ハ、中山太田金吾殿ヘノ御遺言也。御自筆中山ニ之アリ。……諸御書ニ御座ナキ大事ヲ遊ス故ニ、三大秘法ノ抄ト申ス也。……他門不可見、当門徒ノ秘蔵也。敢テ口外スベカラザル也。(山川博士の引用をさらに抄出)
  とある。本御書の末尾には太田氏への御返事と記されているのであるが、日実師は、これは太田氏への御遺言であり、中山門流には秘書としてその御真蹟が蔵せられているというのである。このように上古には本御書の真蹟は中山門流に存するとされたが、元正の頃(一六世紀)より富士派に存すると称されるようになったのである(以上取意)
 しかるに近時、慶林房日隆師が応永15〜16年(1408〜1409)頃に書写した本御書の写本と、さらに大石寺日時師(1406)が書写したものが発見されたので、最古の写本は日親師のものより30年ほど早く存在することが明らかとなった。しかもこの二人は中山門流でないことに注意すべきである。日隆師は四条門流の流れを汲み隆門派の開祖となった人、日時師は富士門流に属する人である。
 さらに鈴木一成教授は上記の『解題』において、本御書に論及した最古の文献として、富士門流の三位阿闍梨日順師(1294〜1354)の『本因妙抄口決』をあげておられる(ただしこの書は一般に日順師の真作でないと見られているようである)。山川博士はどういうわけか日順師の所説にはあまり留意されず上述したように中山門流との関係を強調している。
 しかし古く大石寺の日時師の写本が存在するのであるから、富士派でも早くからこの御書の存在を知っていたとせねばならない。一般に本御書の偽撰説を主張する人には富士門流の謀作と見る人が多いようであるが、上述した中山の日実師の言葉があるとおりであるから、富士派による作ということは成り立たない。興味をひくことは、日実師が「本御書は中山門流の秘書で他門不可見、口外すべからず、」と述べているにかかわらず、それより数十年早い時代にすでに他門流でも本御書を知っていたということである。日実師の言葉には何かの事情が意味されているのかどうか不明であるが、要するに本御書は古くから諸門流を通じてひろく知られていたと見てよい。
 上述の日隆師は、有力な学匠で本御書に疑問を提示した人として特異であるが、その著『弘経抄』(八)につぎのように述べている。(傍点筆者)
 疑ウテ曰ク、三大秘法抄トテ諸門流ノ重宝サルル御抄之アリ。之ヲ用フベキ歟。如何。答フ、謀実ノ事ハ未定也。去リナガラ文体ニ付テハ不審繁多也。能々之ヲ明ラムベシ云々。(山川博士上掲論文によりこの文を知り引用)
 日隆師は本御書を真偽未決とするのであるが、いまはこのことを問題とするのでなく「諸門流に重用されている」と言われていることに着目したいのである。日蓮聖人後諸門流の間の対立や反目がどの程度のものであるか私はよく知らないが、一般に対立がきびしいと言われている諸門流(とくに富士派)の間で本御書が普遍的に受け入れられていることは注目してよいのであるまいか。このことは本御書の思想が日蓮聖人の思想と合致し矛盾しないと見られていたことを暗示するものであろう。中山門流にしても富士門流にしても自派の主張を正統化するために意図的に本書を偽作したというようなものでないと考えるのである。

 本御書の教義・思想においてもっとも重要な意義を持つのはいうまでもなく「戒壇論」である。そして最近はこの戒壇の問題が聖人の国家思想との関連において論ぜられている。ここで注意すべきは戒壇や国家の問題は本御書と密接な関係があるにしても、それ自体は独立したテーマであるということである。ゆえに本御書が真偽未決であれば、このテーマに関して最初は本御書に対する判断をすべて保留して研究をすすめ、後にその研究の成果に照らして当御書に対する判断に及ぶべきものと考えるのである。
 戒壇について種々の理解の仕方があるが、大きくいって「理壇説」と「事壇説」とがある。理壇説は法華経の修行の行なわれるところはどこでも戒壇と称し得るもので、いわば即是道場、法界皆悉戒壇の義であって、特定の場所・建造物を必要としない理念的な戒壇である。これに対し事壇は事物・事象としての戒壇であって特定の場所に建立さるべきものである。最近の学界の傾向は、『三大秘法鈔』の偽作説が有力なので、それとの関連で理壇説を取る人が多いようである。
 しかし私はこのような理壇説的解釈に対して疑問を持つ。日蓮聖人の思想は「事」の立場を究極としそれに徹底することをめざされたものである。「事」とは正しい理念は具体的な事物・事象として結晶し、事物・事象においてこそそれが顕現されると説く思想であると解される。三秘のうち本門の本尊と本門の題目についていえば、本門の本尊は大曼荼羅本尊として具象化され、本門の題目は、事行の題目・唱題として具体化・実践化される。ゆえに戒壇にかぎって事でなくて理の立場であるというのは日蓮聖人の思想として整合しない。聖人は本御書を除き、一般に三秘を列挙される場合、本門の戒壇について何の説明もされていない。それはおそらく聖人が意図される戒壇は、理的・観念的なものではなく、具体的な場所・建造物・事物としての戒壇であったから、それを建設するのに必要な諸條件が具備されていなかったためであろうと考えられるのである。理的観念的な戒壇であれば、教義としてそれを説明することはいくらでも可能のはずであるから、御説明がないのはそれが事物としての戒壇(事壇)であることを証明するものであろう。聖人は伝教大師の比叡山戒壇を高く評価し大いに賛美されているから、御自身が意図された戒壇も比叡山のそれと同じく具体的な建造物の形を取るものであったことは疑ないと思う。
 もっとも、聖人の門下で日昭上人・日朗上人の系統では、早い時代に理壇説を唱えたように伝えられている。しかしこれは事の戒壇を否定したものでなく、日蓮宗においては実際上戒壇が設立されなかったため、出家僧侶は公式には比叡山戒壇を踏まざるを得ず、その比叡山戒壇は迹門の立場であるゆえに、それとの対比において、本宗の本門戒壇を即是道場の戒壇として意義づけたことに由来すると考えられるのである。
『三大秘法鈔』の御文章のなかで、今日の学問情況においてもっとも問題視されるのは、以下の文章でとくに傍点を付した箇所であろう。
 戒壇とは王法仏法に冥し、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃住を、末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて、戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是也。
 聖人は世法・王法を越えるものとしての仏法の権威を高く掲げ、正しい仏法たる正法・法華経に対する信仰を貫きとおすため、いかなる権力による迫害にも屈しなかったことはあまりにも有名である。今日このような聖人の反国家権力的な思想・行動が高く評価され、この点において聖人の宗教の特質があるとされていることは全く正しい。しかしこのことを重視するあまり、聖人が国家権力を忌避・回避されたことを強調し、聖人が国家・政治に積極的な関わりを持たれようとした点を無視するような思想解釈が行なわれているのは、問題であると思う。
 聖人の反国家権力的な思想のあり方を国家権力を忌避・回避することにあるとするならば、上引のごとく『三大秘法鈔』に「王法仏法に冥し仏法王法に合して
……」と述べられ、また「勅宣竝びに御教書を申し下して……」とあるのは、国家権力への迎合を意味するように理解されるから、これは聖人の思想に対し異質であり、相反するものであるという見方がなされるであろう。事実このような見方が今日の聖人思想の解釈の大勢を占めており、『三大秘法鈔』は偽作であるのみならず日蓮の思想を汚すものである(戸頃重基博士『日蓮の思想と鎌倉仏教』)とまで論評されているのである。
 しかし聖人の反国家権力的な言動は、じつは国家・政治への積極的な関わりの中において成立したものであって、国家権力を忌避するためのものではなかったことに注意する必要があろう。そしてこのことは、聖人の御一生を規定した行動原理である謗法者の対治、折伏行が、単に教理的個人的次元のものでなく、国家的政治社会的な視野を持つものであったことを示すと考えられるのである。
 謗法ならびに謗法者の対治の思想は、聖人初期の本格的な著作である『守護国家論』『災難興起由来』『災難対治鈔』『立正安国論』等に表明されている。その謗法の具体的内容は、このはじめの段階においてはいうまでもなく法然浄土教をさすものであったが、これらの書名が示すごとく、それは個人的なものにとどまらず、国家的、政治社会的な視点からのものであった。その政治的視点における謗法の思想の核心をなすものは、『立安国論』の結尾の文に「唯我が信ずるのみに非らず、他の誤りを誡めんのみ」と述べられるごとく、為政者は、その正信のあかしとして武力をもって謗法者を対治すべきであるということにあったのである。
 古来、善政を布いたと言われる為政者は、いくつかの複数の宗教を同時に信仰し、いずれの宗教についてもよき理解者・保護者であったが、日蓮聖人にとってはそれはなお不信者の領域にとどまるものであった。為政者は謗法者を対治することによってこそその信仰の正純性を表明することができるというのが聖人のお考えであったと思う。このことを聖人は当時の為政者に向かって強請しつづけられたのである。ここに聖人の宗教の本領があるのであって、少なくとも宗教を実践行動としてみるかぎり、この点を無視しては聖人を正しく理解することにはならないと思う。
 しかるに最近の日蓮聖人解釈は、このような国家的・政治的な謗法の観念を、聖人御自身における「謗法の罪の意識」というごとき個人的な内面精神のレベルのものに置き換え、これを基点にして聖人の思想を見なおそうとするもののごとくである。聖人はその思想の出発点においてすでに潜在的にこのような罪の意識を持たれていたということは、言い得ないことでないかも知れないが、しかしこのことをはっきりと表明されたのは佐渡時代においてであった。ゆえに謗法の罪の意識を基点として聖人宗教の成立を論ずることは適当でないように思う。これはおそらく折伏行の意義を小さく評価し、聖人の思想を攝受的に解釈しようとする動機に基づくものであろう。たしかに今日の社会においては折伏行は通用しない。したがって攝受でなければならないが、しかしこのことと、過去において聖人の思想がどのようなものであったかということとは別問題とせねばならないであろう。

 聖人の宗教思想は、仏法が王法に密着しその仏法によって王法が完全に浄化された境位を目標として発想されたものと私は考えるのである。これは王仏冥合に外ならない。私はさきの論文(「『立正安国論』と日蓮聖人の国家思想」「現代宗教研究」第31号所収)において『立正安国論』は、王法に付嘱された仏法を立場として、逆に言えば仏法を付嘱された王法を立場として発想され説示されたものであろうと述べた。すなわち王法と仏法の結合が『立正安国論』の立場であって、この結合の完成状態が「王仏冥合」である。このように見るならば『立正安国論』と『三大秘法鈔』の思想は基本的に相違するものでないと考える。
 日蓮聖人は御自分の宗教上の意見・信念が為政者により国策として採用されることを求めておられたことは疑いない。それに付随して、これは第二義的なことにすぎないけれども、御自分が国家の精神的指導者(国師、指導的僧)として遇せられることも望んでおられたであろう。つぎにこのことを示すと思われる2、3の御書のお言葉を引用しよう。
  此の五義(教・機・時・国・教法流布前後)を知って仏法を弘めば日本国の国師とも成るべきか。
(『教機時国鈔』)      
日蓮また之を対治するの方之を知る。叡山を除き日本国には但一人なり。
……但偏へに国の為法の為人の為にして身の為に之を申さず。復禅門(法鑒房=平三郎左衛門尉盛時)に対面を遂ぐ。故に之を告ぐ。之を用いざれば定めて後悔有る可し。(『安国論御勘由来』)
先づ大地震に付きて去る正嘉元年に書を一巻注したりしを、故最明寺入道に奉る。御尋ねもなく御用ひもなかりしかば、国主の御用ひなき法師なればあやまちたりとも科あらじとやおもひけん。
……(『下山御消息』)
此の御房(日蓮聖人をさす)は唯一人おはします。若しやの御事の候はん時は御後悔や候はんずらん。世間の人々の用ひねば、とは一旦のをろかの事也。上の御用ひあらん時は誰人か用ひざるべきや。其の時は御用ひたりとも何かせん。人を信じて法を信ぜず。(『下山御消息』)
此の書(立正安国論)は白楽天が楽府にも越へ、仏の未来記にもをとらず。末代の不思議なに事かこれにすぎん。賢王聖主の御世ならば、日本第一之権状にもをこなわれ、現身に大師号もあるべし。定んで御たづねありて、いくさの僉義もいゐあわせ、調伏なんど申しつけられぬらんとをもひしに
……(『種種御振舞御書』)
されば日蓮は当帝の父母、念仏者、禅衆・真言師等が師範なり、又主君なり。(『撰時抄』)
 右に示されているように日蓮聖人は、御自分の宗教上の意見が国策として採用されることを重要な目標として行動されたことは疑いないというべきであろう。
 ところで佐渡流罪赦免直後、聖人はふたたび幕府に進言・諌言されたが、受け入れられないので、進言を取りやめ、鎌倉を去って身延の山中に入られた。身延入山をうながした真の動機については種々推測されているが、聖人御自身は「三度国を諌めたが用いられないので、古来の賢人の習いにしたがって山林にまじわり身を隠した」(『報恩抄』『下山御消息』『種種御振舞御書』等)と説明されている。「三度云云」ということは中国の古典に「三たび諌めて聴かずんば則ち去る」(『孝経』)等と説かれていることによるものである。
 このことから聖人の身延時代は、もはや国家への関心を放棄し、身延の閑寂な生活環境に身を置きながら御自分の内面世界に沈潜して行くものであったというように説明されることが多い。しかしつぎの御書(書翰、弘安元年作)は国政への関心を決して失っていないことをよく示している。(傍点筆者)
 3月19日の和風並びに飛鳥、同じく21日の戌の時到来す。日蓮一生之間の祈請並びに所願忽ちに成就せしむるか。將また五々百歳の仏記宛かも符契の如し。所詮真言禅宗等の謗法の諸人等を召し合せ是非を決せしめば日本国一同に日蓮が弟子檀那と為らん。我弟子等の出家は主上上皇の師と為り、在家は左右の臣下に列らん。將また一閻浮提皆此の法門を仰がん。幸甚々々。(『諸人御返事』)
 聖人の臨終直前における最後の御講義は『立正安国論』であったと伝えられているが、国家・国政への関心は、身延時代を含めて聖人の御一生を通じて変わらないものであったといえよう。

 このように聖人の思想はつねに国家を視野に置くものであった。このことは三大秘法(三秘)とくに戒壇の概念についても同じであると見られよう。
 私は上掲の拙論において、『観心本尊抄』の第21段(いわゆる流通段のはじめ)の御文章は、国家的規模において本尊が建立せらるべきことを述べられたものという解釈を示したが、本抄のこの箇所の文意においては本尊は仏像本尊を意味すると理解される。仏像本尊であればそれは建造物の形態をとる寺院と結びつき、さらには戒壇と結びつくものであろう。山川智応博士は、『観心本尊抄』のこの次下の御文章について、「上宮太子の四天王寺、聖武天皇の東大寺、伝教大師(延暦寺戒壇)が事例として挙げられているが、これら三例はいずれも国立・勅立の本寺であるから、そのようなものとしての本門戒壇の建立がここに密釈せられている」と述べられている(山川智応博士『観心本尊抄講話』五七四頁)。古来の宗学において、本抄のこの箇所を本門戒壇の密釈とする見解がどの程度一般化されているか私はよく知らないが、山川博士の所説は卓見というべきであろう。
 国立というと近代日本における国家主義を連想しがちであるが、日蓮聖人の思想はこのような国家主義とは関係ないものである。ただし日蓮聖人が国家を重視され、その点に聖人の宗教の特質のあることも明白な事実であるといわねばならない。さきの拙論において私は、聖人における国家の概念は、王臣の秩序を中心とする人倫体制であると述べたが、この王臣の秩序は、俗世間のいわゆる世法に対してのみならず、聖なる仏法の世界にも適用せられるものである。すなわち聖人は、教判における法華経と爾前諸経との秩序関係、さらに釈尊と諸天諸神との関係、釈尊と俗世間の諸王との関係などを王臣、主従の秩序関係になぞらえて説明されている。釈尊の徳性として「主師親三徳」が強調されるが、この三徳の観念は、主従・師弟・親子の人倫に見合ったものである。なかでも主従(王臣)の観念が中心をなしていることは私がさきの拙論において一々指摘したところである。
 このような聖人の国家思想からすれば『三大秘法抄』に「勅宣竝びに御教書を申し下して」とあるのは当然であって、異とするに足りないものである。当時の国家の体制は王制であるが、古代・中世の王制においては国家と国王・国主は表裏一体の関係にあり、政治機能において両者は区別することのできないものである。王仏冥合の旨が説かれているのは、王法が仏法(正法)の信仰によって完全に浄化せられた段階において戒壇が建立せられるべきことを示すと理解されるが、この場合の戒壇建立には当時の王制の手続きにしたがって国王・国主の認可が必要であったろう。これを必要としたからといって、国家権力に迎合・服従したという意味にはならないと思う。もとよりこの場合国家権力は正法信仰によって完全に浄化されていなくてはならないが、それを証明するのは国王が武力をもって謗法者を対治することである。ここに有徳王の故事が引用されているのは、そのことを示すものと理解されるのである。
 以上述べたように『三大秘法鈔』はかりに偽書であるとしても、その思想は日蓮聖人の思想に違背しないものであると考える。
 最後に付記したいことは、最近、国語学・言語統計学の分野で、御遺文に対する研究がいちじるしく進歩し『三大秘法鈔』が真撰であることが証明されたといわれる。当然この小論においてもこの研究成果を参照しなければならないが、私は不勉強のため、この方面のことには全く無知なので、取りあげることができなかった。他日を期したいと思う。

 

 

 4節  「無作三身」御書の真偽問題


 はじめに述べたように、かつて浅井要麟教授は御遺文に対する広範な文献学的研究を遂行されたが、その中で教授がもっとも力を尽されたのは、中古天台の教義のあらわれている御書の真偽問題であった。いくつかの御書においては中古天台教義と酷似し、あるいはそれと同一視されるような表現形式の教義が認められる。従前それらに対しては若干のものを除き、とくに疑義の提出されることはなかったが、教授はそれら御書の偽撰であるべきことを主張し、真撰遺文よりこれを排除するよう提唱されたのである。その大きな理由は、純正の法華経信仰を標榜して天台教学における諸宗雑乱を批判され、その一環として台密教義を排撃してやまなかった日蓮聖人の教えの中に、台密教義の影響に屈する中古天台教義が見られるのは矛盾であるから、それらは日蓮聖人の真撰でなく、後に中古天台教義の影響を受けた日蓮宗徒の偽作によるものであろうということにある。
 浅井教授は検討さるべき中古天台教義として、1)四重興廃・2)八葉蓮華説(心性本覚思想)・3)無作三身・4)五大思想などをあげられている。いまそのすべてを論ずることはできないので、日蓮聖人教義にとってもっとも重要な意義を持つ「無作三身」に焦点をしぼり検討を試みることにする。
 浅井教授の着眼点はするどく、研究も犀利なので、影響力は大きく、その学風は脈々として今日まで伝えられている。ただここであえてその方法論について私見を述べさせて頂くと、教授がある教義を中古天台教義として規定される場合のその規定の仕方に基本的問題があるように思われるのである。
 日本天台は伝教大師最澄以来、円・禅・戒・密(さらに淨土)の四宗連合の上に立って発展した。このため真言・禅・淨土などの教義を積極的に攝取し、結果として諸宗雑乱の様相を呈するに至ったが、これが日蓮聖人の批判するところとなったのである。しかしこのような日本天台における思想展開の動きは、開会・一乗の思想統一の方針に基づいてこれら諸宗の教義を攝取し、それによってみずからの内容を変化させつつも、同時にそれを天台教義に同化するというはたらきを持つものであった。こうしたはたらきの結果として形成されたのが中古天台教義であるが、それは一面においては攝取融合した諸宗の教義要素を保存するものであるとともに、他面においてはそれを天台教義化したものであった。中古天台教義の前者の面については日蓮聖人はこれをきびしく批判・排除されたが、後者の面については、むしろこれを当時の天台教義の通念として容認し、それを自身の教義の基盤とされた点が認められる。浅井教授の論調は、この両面を含めて中古天台と称し、その全体を日蓮聖人の思想にあらずとして排除されるように見受けられるが、この点に問題があるように思われるのである。
 たとえば上に挙げた「八葉蓮華説」について見てみよう。これは衆生の心は胸中の心臓にあるものであって、それは八葉の蓮華の形をしている、その中央は大日如来であり、八葉の花びらは大日如来を中心とする四仏四菩薩であると説くもので、これは胎蔵界曼荼羅の中台に相当するから、明らかに台密の教義である。浅井教授はこの八葉蓮華説の説かれている御書として1)『十如是事』・2)『日女御前御返事』・3)『總勘文抄』・4)『当体蓮華鈔』・5)『一念三千法門』・6)『善無畏鈔』・7)『忘持経事』・8)『日妙聖人御書』・9)『日女品品供養』・
10)『十八円満鈔』等をあげられ、それらは偽書の疑が濃いとされる(浅井要麟教授『日蓮聖人教学の研究』272〜286頁)。しかしかつて私が論じたように(拙著『日蓮思想の根本問題』)、6)『善無畏鈔』・8)『日妙聖人御書』・9)『日女品品供養事』は真蹟断片が存し、7)『忘持経事』は真蹟が完備しているから偽書ということはできない。したがって八葉蓮華説の有無をもって真偽判定の基準とすることには無理があるというべきであろう。
 日本天台は真言密教を本覚思想とともに攝取したが、それを天台教義化するにしたがい、次第に密教としての意義を払拭・除去するに至った。それとともに本覚思想に基づき凡夫即仏・己心即仏の思想を発展させたのである。ゆえに日蓮聖人が受容された八葉蓮華説は、大日如来や胎蔵界曼荼羅に対する信仰をあらわすものではない。八葉蓮華はわれわれの肉体の心蔵の形を示したものであって、その心蔵の当所が心であり仏であるという思想である。日蓮聖人が八葉蓮華説によって受け取られたのはこのような己心即仏、肉体即仏の思想であって、いわゆる心性蓮華説と称されるものである。真蹟の完備する『忘持経事』に「心性の妙蓮忽に聞き給ふか」とあるのはこのような思想をあらわすものであろう(あるいは八葉蓮華を妙法蓮華経の蓮華と結びつけるような理解の仕方もあり得たと思うが、この点は検討中である)。
 このような己心即仏、肉体即仏の思想は『観心本尊抄』にも表明されている。すなわち
 「我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏也」
というお言葉は己心即仏の思想をあらわし、
 「妙覚の釈尊は我等が血肉也。因果の功徳は骨髄に非す乎」
というお言葉は肉体即仏の思想をあらわしていると理解される。それは凡夫即仏の思想であって本覚思想の高潮した場面である。浅井教授は八葉蓮華説を「心性本覚思想」と称し、本覚思想そのものをも日蓮聖人思想から排除されるような文勢であるが、率直にいってこれは問題であると思う。

 さて「無作三身」の教義について考えてみたい。
 無作三身の言葉のあらわれている御書(以下
「無作三身」御書と略称する)に次下のものが存する。『当体義鈔』『授職灌頂口伝鈔』・『教行證御書』・『妙一女御返事』・『三大秘法鈔』・『義淨房御書』・『今此三界合文』・『三世諸仏總勘文教相廃立』(ただし当御書の場合は引用文〔『守護国界章』〕の言葉である)等。さらに浅井教授は、直接に無作三身の言葉がなくても実質的にそのような思想を表明している御書として次のものを挙げられている。『船守彌三郎許御書』・『草木成仏口決』・『阿仏房御書』・『十如是事』
 以上のものはすべて偽書であろうと教授は主張されるのである。
 私はこれら御書に真蹟(断簡を含む)が存在するかどうか改めて調べてみたが、存在しなかった。この点は八葉蓮華説の場合と異なっている。したがって、これらを偽書とする浅井説は説得力があるのであって今日でも支持者は多い。今日の宗学においては無作三身を聖人の思想でないと見ることはほとんど定説となっているようである。
 しかし真蹟(断簡)が存在しないということは偽書説の消極的な理由にすぎない。実在したが失われたという可能性を否定することができないからである。さきに引用した『諸人御返事』は録外に属し、真蹟が存在しなかったのでやゝ信頼度が少ないもののように見られて来たが、大正時代に至って真蹟が発見されたものであるという。こういう例もあることであるから、真蹟の存在しないことは偽書説の積極的根拠とはならない。上掲の御書はその内容からみてこれらを悉く偽書とするには大いに抵抗感のあるものである。
 むしろ問題は無作三身の思想をどう把えるか、それは日蓮聖人の思想と同質のものであるか異質のものであるか、ということにあるのであるまいか。浅井要麟教授は、御遺文にあらわれる本仏観として「無始の古仏」と「無作三身」の概念を対比的に見られる。前者は法華経の教相に即したもので、いろいろに表現されているが『観心本尊抄』の説示によって「無始の古仏」を代表とする。これは聖人の真正の本仏観をあらわすものである。後者の無作三身は中古天台の本仏観で日蓮聖人の思想と異なり排除されねばならないものである。教授は両仏身観の特徴を対照して説明されているが、その要点を簡単に述べれば、前者は、因行果徳の二法を具備した実修の仏であって、人格的であり信仰の対象となるものである。後者は、実修以前の因果を超越した常住の仏、理念的な仏であって、一切処・万物に偏在するものとされるから、己身本尊の思想となるものである。前者は事顕本、報身中心、有相的であり、教相・観心一致の次元のものである。後者は理顕本、法身中心、無相的であり、単に観心の次元のものである。
 右の浅井教授の御説は意義深く傾聴すべきものであるが、両概念の相違面をことさらに強く強調されている感がする。実際はこの二つの概念の内容はむしろ連続している面が強いのであって、截然と区別できないものである。両概念の連続性は、さきに八葉蓮華説について見たごとく、中古天台の教義は、一面では台密教義の影響の跡をとどめ、あるいはその影響の結果であるとともに、他面ではそれを天台教義化し、天台学的に表現するという性質を持ったものであることをあらわしている。無作三身の概念もこのような意義において理解されるべきであろう。

 このためには無作三身の概念の形成の由来、発展の次第などを思想史的に考察・認識しなければならないが、これは極めて大きな問題で、私の手にあまるものであり、またこの小論文において論じ得るものでもない。この問題の学界における研究情況についても私は不案内である。しかし目下の論旨を説きすすめるためには取りあげざるを得ないので、はなはだ粗雑な考察でお恥しい次第であるが、つぎに簡単に私見を述べることにする。
 無作三身の言葉はじつは伝教大師最澄の『守護国界章』に由来する。この書の巻下の第三章において、法相宗得一の報仏無常論を論破しているが、その冒頭に
 有為の報仏は、夢裏の権果なり。無作の三身は、覚前の実仏なり。
とあるものである。しかし伝教大師の確実な著作(偽撰を除く)にはこの箇所以外に無作三身の言葉はない。のみならずその後の円仁・円珍・安然諸師の確実な著作においてもこの言葉は用いられていないといわれる。(浅井円道博士『上古日本天台本門思想史』)。ゆえに中古天台(一般に平安期末期以降といわれる)に至って用いられ、したがってその時代の思想を反映することは明らかであるが、本来伝教大師の思想に由来することは注意すべきである。
 しかし伝教大師のこの句に対する説明は極めて簡単なので詳細を知りがたく、その真意について論議されているのであるが、その説明の全文を引用すればつぎのようである。
 夫れ真如の妙理に両種の義有り。不変真如は凝然常住、隨縁真如は縁起常住なり。報仏如来に両種の身有り。夢裏の権身は有為無常にして覚前の実仏は縁起常住なり。相続の義に亦両種有り。隨縁真如相続常の義、依他縁生相続常の義なり。今真実の報仏は隨縁真如相続常の義に攝す。
 右によると「無作」というのは有為・無常に対するもので、隨縁真如=縁起常住=相続常の意味で、それが真の報仏如来(覚前の実仏)の性質であるということになる。すなわち無作は一方では有為無常と異なり、他方では無為常住と異るもので、両者を統一・止揚した概念であることが知られる。伝教大師は単なる無為の概念と異なることを示すために無作の言葉を用いられたのであろう。法相宗は、法身は自性常、報身は無常(無常智)であるとして両者を差別的に見るが、伝教大師はこれを誤りであると否定して、報身・応身は現象としては無常であるが、そこに法身の常住の性質が具現されているとして報身常住を主張した。また無作三身の概念は、中古天台では、修行の因果を超越した常住の法身(法中論三)と解されることも少なくないようであるが、ここでは報身(報中論三)をさしている。ゆえに修因得果(因行果得)のはたらきを無視・否定するものでなく、このような因果に即して常住の性質があらわれているのである。そしてこのような思想に理論的根拠を提供したのが『大乗起信論』に由来する真如隨縁(縁起常住)説であった。天台では三身常住・倶体倶有を説くが、伝教大師は真如隨縁説によってこの説を一層詳細に理論づけられたのであろう。

 日本天台は、伝教大師以後、円仁・円珍・安然の時代に真言密教を大いに攝取した。密教は荘厳華麗な儀相(事相)とそれが象徴する哲理においてすぐれていたが、東密の場合と異なって日本天台(台密)では、天台・法華経の立場を確立するために、事相においては劣るとしても、理においては法華経と真言密教は同等であるという理論を必要としその組織化につとめた。円仁・円珍・安然等の教義がこれであって、日蓮聖人が「理同事勝」の説として批判されるものである。
 この場合、問題の中心をなしたのは、仏陀観・本仏観とそれに伴う真如観・実相観であった。密教の大日如来は不生不滅、無始無終、常住で一切処に遍満する絶対的な仏である。とくに安然は一仏一切仏・一時一切時・一処一切処・一報一切報の四一教判によってこのことを強調した。『法華経』の仏が密教の絶対的な仏と対抗するためには迹門の仏では不適格であって本門の本仏を中心にすべきであり、このため本門思想が興隆したが、その本門の本仏にしても、経文の説相に拘束されるかぎり大日如来に及ばない。なぜなら五百塵点劫・久遠といっても「我れ実に成仏して己来」と述べ、また「我れ本菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命猶ほ未だ尽きず、復上の数に倍せり」とあって、寿命に数量と修行の因果の規定の存することを示しているからである。『法華経』の説相を形式的に取るかぎり有始・無常であって、大日如来が無始無終・常住であることに対抗し得ない。この弱点を克服するために、「無作」の観念が利用されたと思われる。すなわち『法華経』の本仏は、時間的なはたらき、修行の因果に即したものとしての常住であって、単に時間的はたらきのないという意味での無為・常住ではない。ごく大ざっぱにいってこのような思想のすじ道によって、日本天台は独特の本門思想を発展させたと考えられる。そうしてこの発展を陰に陽に支えたのが真如隨縁説であったと見られるのである。
 一方、無作の観念は大日如来のはたらきを理論づける場面においても用いられたようである。大日如来は一切処に偏在・遍満する仏であるから、法界の一切法・事事物物は大日如来のあらわれであり、一切法は真如であって、迷界・悟界を含む十界の因果はそのまま仏界に属するということになる。安然は「無作十界」の説を立ててこのことを説明したが、これは無作三身観の萌芽と認められる(浅井円道博士、上掲書 726〜738頁)。これは迷界の凡夫に悟界の仏の名を冠することであるから、これにより凡夫即仏、仏凡一如の思想が強調され、本覚思想が発達した。
 以上のようなことが背景になって中古天台の無作三身の教義が形成されたと思われる。しかしこの詳細な事情は明らかでない。通常この概念は口伝法門の一として立てられるものである。たとえば慧心流は七箇の大事として、一心三観・心境義・止観大旨・法華深義・円教三身(無作三身)・蓮華因果・常寂光土義を立て、檀那流は七箇の大事として、一心三観・無作三身・常寂光土義・鏡像円融・蓮華因果・四句成道・證道八相を立てる。これらの言葉から分るように、これは天台の教義に属するものであり、真言密教(台密)の影響があるとしても天台の立場を堅持したものである。このうちもっとも重要なのは無作三身と一心三観の教義であって、両者は密接に結びついている。一心三観(観心)が重視されたのは、おそらく当時念仏の信仰と実践が流行し、比叡山天台もその影響を強く受けたので、これを攝取しつつもそれに対抗すため、観心の法門が重視されたと思われる。いわゆる観心主義であるが、無作三身はこのような思想と結びついて展開したので、これより己心即仏、凡夫即仏の思想すなわち一般に心性本覚と称せられる思想が発達した。
 中古天台の教義は複雑であるが、迹門・本門を分つ視点から、両者の思想を対比的に示した教説があるので次に引用しよう。
  迹門は今日近成、本門は五百塵点久成。迹門は有作三身、本門は無作三身。迹門は別体別用、本門は倶体倶用。迹門は理円融、本門は事々円融。迹門は理常住、本門は事常住。迹門は始覚、本門は本覚本有。迹門は諸議に通ぜず、本門は諸議に通ず。迹門は不変真如、本門は隨縁真如。迹門は從因至果の修行、本門は從果向因の妙行。迹門は機情、本門は仏意。(『法華略義見聞』大日本仏教全書本 三九頁、当該文を抄出引用)
 右のように本門は、無作三身、事常住(世間相常住・俗諦常住)、本覚、隨縁真如の立場であるというのである。

 以上見て来たように無作三身は決して時間の観念を捨象・否定するものでないから、むしろ報身顕本の趣旨であると解すべきものであろう。したがって日蓮聖人の御遺文においてこの言葉が用いられた場合、それは「無始の古仏」の表現に代表されるところの人格的な仏(報身)の観念と連続する面があるというべきであろう。このことはつぎの『三大秘法鈔』のお言葉から知ることができる。
 壽量品に建立する所の本尊とは、五百塵点の当初己来(そのかみより)、此土有縁深厚、本有無作三身の教主釈尊是れ也。
 すなわち無作三身は人格的報身として捉えられている。無始の古仏における「無始」の観念も無作の観念と無関係のものでないであろう。日本天台においては壽量品の釈尊は有始であるか無始かということが問題として論議せられたが、おそらく日蓮聖人もこのことは御存知であったろうから、このような論議をふまえて無始といわれているのであろう。有始を克服したものとしての「無始」の観念は、同じく有始を克服したものとしての「無作」の観念と通ずる点があると見られるのである。
 しかし上述したように、真蹟の存在する確実な御書においては、無作三身の言葉が見出されないことが確認されている。しからば日蓮聖人は実際にこの言葉を用いられなかったかどうか。今のところこのことを確かめるための唯一の方法は、直弟子たちの著作においてこの言葉が用いられているかどうかを検証することである。
 そこで私は直弟子諸上人の著作を通拝読して若干の考察を行ない、その結果につき次下に卑見を述べたいと思うが、何分専門外の上、勿々の間にこれを行なったので、思わぬ誤読や誤解があるかも知れない。この点、御寛恕と御叱正をお願いする次第である。(日向上人の著作に『御講聞書』、日興上人に『御義口伝』があるが、ともに後世の偽作であることがほぼ確認されているので、この場合これを除くことにした。『昭和定本遺文』第四巻の「索引」によると、無作三身の言葉は、前者に2回、後者に11回用いられている。その外、「無作の応身」の言葉が前者に2回、「無作の法身」「無作の応身」「無作の覚体」等の言葉が後者に4回ほど用いられている)。
 『日蓮宗宗学全書〔上聖部〕』所収の著作のうち、直弟子のものについて見ると、日昭上人の『経釈秘抄要文』には無作三身の言葉は見出されない。富木日常師の『観心本尊抄私見聞』には二回ほどこの言葉が見出されるようであるが、この書は後人の偽作らしいとされているから、ただちに採用することはできない。日朗上人の『本迹見聞』、日頂上人の『本尊抄得意抄副書』にも無作三身の言葉は見出されない。日興上人には『御義口伝』の外に、『本因妙抄』『百六箇相承』『御本尊七箇之相承』『三大秘法口決』『神天上勘文』『引導秘訣』『安国論問答』『五人所破抄』『五重円記』等の著作があり、『日蓮宗宗学全書〔興尊全集・興門集〕』の中に収められている。これらを通覧すると無作三身の言葉が若干見出される。しかしこれら著作の大部分のものは日興上人の真撰でなく後人の偽作であろうとされているので、ただちに採用することはできない。
 直弟子の真撰としては唯一信用できるものは日向上人作の『金綱集』上・下(『日蓮宗宗学全書』第十三・十四巻)である。この書は日向上人が日蓮聖人の御講義を記録したものとされ、分量は上記の諸著作に比べはるかに長大である。内容は、華厳宗見聞・小乘三宗見聞・方等之事・淨土宗見聞(上下)・真言宗見聞・禅見聞・法相宗見聞・三論宗見聞・法華経之事(上下)、さらに附録として、真言見聞(別巻)・禅見聞(別巻)・理具之事・雑録の諸章から成っている。これら諸宗の教義の大綱を述べたもので、それらに対する批判も多少見られるが、その教義を紹介することに主眼があると見られる。おそらく諸宗破斥に必要な知識を素材として準備するために編纂されたものであろう。
 私が通読したところこの書の中にはやはり無作三身の用例は見出されなかった。壽量品の釈尊本仏がどのように説明されているかを見ると、その記事は「法華経之事」でなく「真言宗見聞」の箇所に認められる。
  (前略)之を以て案ずるに印真言は規模無きか。又諸経には始成正覚の旨を談じて三身相即無始之古仏・・・・・を顕さず、本有今無の過之有り。故に大日如来等は有名無実也。壽量品に此の旨を顕す。釈尊は天の一月、諸仏菩薩は萬水に浮べる影と見たり(二四三頁、傍点筆者)
 右のように「無始の古仏」と称されているが、これは真言宗の大日如来との対比においてこのように述べられているのであって、教相上の所談であることに注意させられる。
 右の文章はじつは『金綱集』が御書の『法華真言勝劣事』を引用した中に出ているものである。したがって同御書の文の一部であり、日蓮聖人のお言葉とみてよいものである。もっとも学界には、『法華真言勝劣事』の方が『金綱集』を模して作られたものであって、したがって偽作であるという説があるが、私は後述するように(第五節 余論参照)、この説を取らず、やはり御真撰であると考えている。
 さらに「淨土宗見聞」の箇所において『法華経』に出る阿彌陀仏と『観経』の阿彌陀仏は同じ仏か別の仏かという問題の中で、
  釈尊も五百塵点之古仏なれども、或は三千塵点劫と説き、又今は蘭毘尼園に於て始めて正覚を成ずる由を示し給ふ。(一七八頁、傍点筆者)
と述べて、この場合は「五百塵点の古仏」という表現を用いているが、阿彌陀仏の壽量に関連して述べたもので、教相上の所談である。

 以上によって『金綱集』には無作三身の用語は用いられていないと結論してもよいわけであるが、問題はこれで終ったのではない。無作三身の言葉は見出されないが、「無作」の概念が重要な意味をもって用いられているからである。
 この無作の概念は主として巻末附録の「理具之事」の箇所に出るものである。「理具之事」は附録の「禅見聞」(別巻)に所属するもので、この後半の講題である「禅宗理体事」以下の所説を敷衍したものであるが、ここに天台の教義が述べられているのである。天台の教義が「法華経之事」でなく「禅見聞」の中に述べられているのは一見奇異であるが、おそらく次の事情によるものであろう。禅宗の立場は、不立文字、一字不説と言われるように、特定の経典に基づく教相を立てないものである。その実践原理とするところは、無心・無念と称される本源の「一心」であって、その本質は真如・法性であるという。この禅宗の実践論と対決しそれを克服するのが、天台宗において一心三観・一念三千等と称される止観・観心の道理であって、それがここに取りあげられ、それに関連して『玄義』等に所属する教義も取りあげられているのである。
 いまここに論ぜられている講題のうちから、止観の実践に関連する教理の主なものを拾い出すと、一心三観・三諦円融・一念三千・總在一念・隨縁真如不変真如・円頓止観・鏡像円融喩・当体蓮華などを挙げることができる。これらに関する所説において無作の概念が見出されるのであるが、今その主なものを引用しよう。
 1)今円家に云ふ所は
……一念は元初無始霊知事理何の念にもあれ、即ち三千具ぞと観見する也。並びに三千を以て指南と為すと云ふは是れ也。妄即真、真即妄、妄は元より妄体にして三千具也。真は元より真にして又三千具、世間相常住と云ふは是の意也。是の故に無始本有無作の法と云ふは是れ也。永く変作無く、衆生と仏と迷悟本有也。(五九一頁)
 2)一心に萬法總在する事、譬へば五穀を粉に擣 するが如きは、五穀の体ころ(?)立て見へざれども、其の性失わざる也。萬法融即も又是の如し。十界三千の依正融即常住にして永く変作改転無し、此の故に世間相常住と云ふ也。円教の本有無作の法と云ふは是れ也。(中略)
さてこそ自性不改とも云はれ、世間相常住と説くとも意得られたれ。変化改転せば有作の法、小乘の権教也。
(598頁・599頁) 
 3)只諸法は天然法爾、自己本分無作常住の法也と云ふ事を
……知んぬ。但し至極大乘には設ひ因縁と云へども、因も常住縁も常住也。小乘に云ふ因縁には似ざる也。(609頁)
 右の三)に示されているように因縁生起変化する諸法がそのままの姿で常住不変(不改)であるというのである。これは中古天台一般でいう世間相常住(俗諦常住)、真如隨縁の思想と異ならない。
 日蓮聖人が受容された中古天台の教義思想が、どの程度の範囲のものであったかということは問題のあるところであるが、『金綱集』の所説はその目安になるであろう。同書の所説を基準にしてみると、今日の学界の傾向はその範囲をあまりに狭く限定しすぎているような気がする。もうすこし広く見てもよいのではないかと思う。
『金綱集』から見るかぎり「無作」の思想は聖人の思想の重要な基盤あるいは要素となっている。そしてこの思想は、真如隨縁・世間相常住の思想と同じである。この無作の思想の重要性からみて、聖人が無作三身の思想を受容され、用語においてもこれを用いられたことは、あり得ることであろうと思う。
 おそらく日蓮聖人は『観心本尊抄』『開目鈔』『報恩鈔』等の本格的な御著作においては、『法華経』の教相に準拠されて、できるだけ無作三身の用語の使用をさけられたのであろう。しかしその思想までも排除されたのではないと考える。無作三身の言葉は聖人滅後ほどなくして多用されるようになるが、聖人がこの思想を排除されたのであれば弟子・後継者たちがこの言葉を用いるはずはない。真蹟が現存しないので何ともいえないが、若干の小規模の御著作、あるいは布教的な御著作においては聖人は無作三身の言葉を使用されたことは十分にあり得ると思う。
 浅井教授が無作三身の言葉の出ている御書(
「無作三身」御書と略称する)は後世の偽作であろうと言われたことは、直弟子たちの著作にこの言葉が見出されないことから、一層有力になった。しかしだからといって概括的にすべての「無作三身」御書を後世の偽作とすることは正しくないであろう。それぞれの御書の事情に即してそれぞれの検討がなさるべきである。極めてあいまいな結論を述べることになって批判を受けるかも知れないが、「無作三身」御書の類には、聖人の真撰と後人の偽撰との二つの場合が含まれていると見るべきであろうと思うのである。

 

 

 5節 余論


 最後に御書の『当体義抄』について少しふれて置きたい。本御書の中には無作三身の言葉が用いられているが、その叙述が『金綱集』「禅見聞」の中の「当体蓮華事」の叙述と対応平行するところがあることが知られている。しかも「当体蓮華事」の記事の中には無作三身の言葉は用いられていないのである。したがって両者の関係を考察することによって、「無作三身」御書たる『当体義鈔』の成立とその真偽問題を解明する手がかりが得られると思うからである。
 ここであらかじめお断りしておきたいことは、私はこの方面の知識に乏しいのでさぞかし不十分な点が多いと思う。以下は感想程度の論述にすぎないことを御諒解いただきたいと思う。
 近頃、『金綱集』に対する研究が大きく進歩して、同書の諸所に、いくつかの御遺文の所説と対応・一致・平行する叙述のあることが明らかにされた(中條暁秀教授『日蓮宗上代教学の研究』)。この場合、一般的な傾向として『金綱集』の所説を下敷として御書が作成された
――すなわち偽作された――と見られているようである。しかし二つのテキストの間の貸借関係、前後関係はいろいろな場面があるので、『金綱集』ともろもろの御書との関係も、一概にその在り方を規定することはできないように思う。個々の場合に即してそれぞれに考察がなされるべきであろうと考えるのである。
 たとえば『金綱集』の「禅見聞」の記事のうち、同書(『日蓮宗宗学全書』第十三・十四巻)三二一頁一行より三二二頁六行までの記事は、ほぼ正確に『聖密房御書』と一致対応する。そして冒頭に「有御自筆云」と記し、最後に「
云云」とあって引用の形を示している。両者を対照すると、『金綱集』の当該部分は『聖密房御書』の全部に相当するのでなく、大まかにいって、後者の書の全体を三等分して、前後を除いた中間の三分の一ほどの分量の部分がこれに当たる。これは『金綱集』が『聖密房御書』よりこの部分を抽出引用したと見た方が、この逆の見方をするよりも合理的であろう。
 ただし、ここで仮説を立てれば、現存の『金綱集』の記事に対しその草稿のようなものが存在したと想定し、それを基にして日蓮聖人みずからが、あるいは直弟子の誰かが『聖密房御書』を作成し、それを『金綱集』が引用したということも考え得られるかも知れない。この種の問題はあらゆる可能性を考えて検討がなされるべきであろう。

 また「真言宗見聞」のうち「法華真言勝劣事」の項の箇所(238頁13行より248頁12行まで)は、御書の『法華真言勝劣事』(『昭和定本遺文』302頁〜310頁、以下『御書』と略称す)とほぼ正確に一致対応する。そして冒頭に「聖人御書也」と記している。この記事によるかぎり『金綱集』が『御書』を引用したと見て差支えないわけである。
 しかし宮崎英修博士は、これとは逆に『金綱集』の「法華真言勝劣事」(以下『金綱集』と略称する)の記事を底本として『御書』が作成されたと見ておられる(宮崎英修博士『不受不施派の源流と展開』三九〜四一頁)。その理由としてあげられるもっとも大きな事がらは、文中に注記のような形で「私。に云く、二乗作仏無くんば四弘誓願満足す可らず
……能く能く意得可し云云」という言葉が、『御書』と『金綱集』にともに一致して存するが、この場合の「私」は誰をさすかという問題にかかわっている。『御書』をそのまま読めば、これは日蓮聖人がご自分のことをさして「私」と言われたように見える。しかし『金綱集』の原本を見ると、この言葉は改行割書の形で記述されているから、これは編著者日向上人が、聖人の御講義を記録したその記録の中に一部私見を加えたものと解することができる。しかるにこの言葉がそのまま『御書』の中に存するのであるから、これは『御書』が『金綱集』を底本として作成(偽作)されたことを示すものである――と博士はいわれるのである。
 しかし博士のこの御説については疑問がある。それは『金綱集』(「法華真言勝劣事」)の文章の中に「日蓮案云」あるいは「日蓮不審云」というような表現が用いられ、それと同じ表現が対応する『御書』の同じ箇所に認められるからである。『金綱集』はいわゆる「聞書」「見聞」と称されるような講義の記録であるから、その全体が日蓮聖人の所説に属するものであって、ある部分だけがとくに聖人の所説・主張であるというものではない。ゆえに「日蓮」という言葉は不用なわけである。精査したわけでないから断定的にいうには勇気がいるが、『金綱集』の他の箇所には「日蓮」という言葉は用いられていないようである。こうした点から考えると、『金綱集』は『御書』をそのまま引用転載したのであって、このため「日蓮」という言葉も除去されずにそのまま保存されているのである、と理解した方がよさそうである。
 また結尾に「文永元年甲子七月九日記之」(両書の数字に少し相違がある)とあるが、『金綱集』においてこれが『御書』からの引用でなければ、外に何の意味があるのであろうか。もし引用でないとすれば、これは叙述の途中における執筆年次の記録と見る外はない。しかし同書の文の他の箇所にはこのような年次の記録はない(後人が付加した奥書は別)。これは全く『御書』からの引用と解せざるを得ないものである。(この年次の記事に誤り、誤写がある可能性があるかも知れないが、今はそうしたことが問題なのではなく、年次の記載のあること自体が問題なのである)。
 以上のように『金綱集』が『御書』を引用・転載したと見た方が合理的であると思うが、こう見た場合問題になるのは上引の「私に云く、二乗作仏無くんば
……」という文言の存在をどう解するかということである。もともとこれは『御書』にあった文句であるとすれば問題は解消してしまうが、『金綱集』の原本ではわざわざ割書になっているということであるから、やはり宮崎博士が言われるように日向上人による注記付加と見るのが合理的であろう。すると次のように考えれば一応説明がつくと思う。
 すなわち『御書』は聖人の真撰であって本来は上引の文言はなかったが、日向上人がこれを『金綱集』に転載するに際してこの文言を付加された。その後早い段階で『御書』の真蹟が失われたため、それに代わり『金綱集』転載のものが『御書』として使用されたが、この場合上引の文言を除去しなかったので、それが『御書』の中に取り入れたまま今日に至っているのである
――と。
 その他の御遺文との対応箇所についてもそれぞれの情況に応じて貸借関係が検討さるべきであろう。

 さて『当体義鈔』は『金綱集』の「禅見聞」の中の「当体蓮華事」(343頁12行より347頁14行まで)の箇所と対応することが知られている。この場合は御書を引用した旨は記されていない。両者を比較すると出入が相当に多く、一方が他方を引用したというより、素材として文言を利用したという感が強い。文言がよく一致するのは、大体において『修多羅了義経』『天台止観』『妙楽釈』『大論』『大強精進経』など経・論・疏等の引用文献の場合が多い。これはどちらかが孫引きしたというより、両書に共通の素材として用いられているようにも見える。
 『当体義鈔』の叙述の展開は、ごく大まかにいって、つぎの3段階に分けることができるようである。
 第1段 十界の森羅万象、有情・無情は、そのまま妙法蓮華経の当体であり成仏の原理であることを、権実判に依りつつ明らかにし、本覚思想を強調する。
 第2段 譬喩蓮華・当体蓮華の関連概念によって主題の意義を明らかにする。
 第3段 本迹判により本門思想を高揚し、本門の立場からの当体蓮華の意義を明らかにする。
 右の3段のうち『金綱集』の「当体蓮華事」と対応するのは主として第一段である。そして第1段の叙述の中には、譬喩蓮華・当体蓮華の関連概念も本門の教義も直接には論及されていない。また「当体蓮華事」の中には、譬喩・当体蓮華には論及しているが、本門思想には論及していない。このような関係を見ると、「当体蓮華事」(=第1段)を基点にして、第2段・第3段が増広されたと見た方がその逆の見方よりも合理的のようである。つまり「当体蓮華事」が先で「当体義鈔」が後ということになる。
 『当体義鈔』は真偽の論の多い御書で、すでに江戸時代から偽撰説が唱えられている。私は不勉強で先学の方々の関係著作を拝見していないので、その中に『金綱集』が参照されているかどうかということは分からない(禅智日好師の『録内扶老』『縁内拾遺』の当該箇所だけは披見することを得たが、『金綱集』にはふれていないようである)。ただし最近では『金綱集』との関係について綿密な研究がなされている(中條暁秀教授、上掲書 156〜159頁、223〜226頁)。一般に偽書説が有力のようであるが、私もやはり同じように考える。その理由についてはなかなか的確には言いあらわせないのであるが、もし感想を述べることが許されるならば次のようなことが挙げられようか。
 1、『当体義鈔』は問答形式で書かれた理論的な御書で、理路整然たる論理をもって体系づけられた教義書ということができる。このような著作は静かな書斎で思弁をこらして書かれたものという印象を受けるのであって、日蓮聖人のようにはげしい実践のあいまに書かれた著作というのには少しふさわしくないように感ぜられる。
 1、聖人特有のはげしい折伏の趣旨がほとんどあらわされていない。
 1、問答形式で述べられた御書は『観心本尊抄』『本尊問答鈔』『守護国家論』・『立正安国論』等いくつかあるが、これら表題に見られるように一般論的な主題が多い。これに比べれば「当体蓮華」は主題として範囲が限定されているという印象を受ける。当体蓮華は天台教学において重要な概念ではあるが、タームとして見ると、多くの天台の教義概念の中の一概念にすぎない。聖人が当体蓮華の言葉をどれほど多く用いられているかということを、試みに『昭和定本遺文』の「索引」によって調べてみると『当体義鈔』の箇所を除けばこの言葉はほとんど用いられていない(『当体蓮華鈔』という表題の御書があり、第二輯続編〔真偽未決、その他の御書を収める〕に収められているが、本文中にはこの言葉は用いられていない。)日蓮聖人は当体蓮華の概念をあまり重視されなかったといってよいと思うが、このような概念を主題に取りあげたのはやや異例に属する感がする。
 1、文中に「当流の法門の意は、諸宗の人来って
……」という言葉があるが、「当流」という表現は、比叡山における恵心流・檀那流、聖人門下における浜門流(昭門流)・富士門流(興門流)など、宗教が教団・宗派として組織づけられ、系統づけられたことを背景にした表現であるように思われる。このような宗派意識はどちらかというと聖人御在世の時代よりも滅後の時代の情況を反映したものであるまいか。
 さて問題の無作三身は『当体義鈔』に、
  正直に方便を棄てて但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて、三観三諦即一心に顕れ、其の人所住の處は常寂光土也。能居所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門壽量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事也。是れ即ち法華の当体自在神力の顕す所の功能也。(定遺759〜760頁)
というように説かれているのがこれである。これに対応する「当体蓮華事」の文はその終りの方に
  若し純大一実の正法を信ぜず、此の理を知らざれば、本覚の如来も顕れず、当体の蓮華も徒然也。
(347頁10行)      
と述べられているのがこれに当るであろう。
「当体蓮華事」における「本覚の如来」が『当体義鈔』では「無作の三身の
……仏」に当るわけである。前者は「……信ぜざれば……本覚の如来も顕れず」とて消極的に表現しているが、後者はその本覚の内容を「能居所居・身土・色心・倶体倶有無作三身本門壽量の当体蓮華」というように頗る積極的に言詞を多くして表現している。『当体義鈔』は右の文の直前に
  所詮妙法蓮華の当体とは、法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是れ也。
といって、衆生即仏、肉体即仏の思想を述べて本覚思想を一層強調している。このように本覚思想を強調することは、天台張りの法門のように見られやすいが、そうではなくて『当体義鈔』は第三段において台当違目とみられるような迹門・本門の相違を明らかにし、迹化の菩薩に対して本化の菩薩の意義を強調・高揚している。本覚思想と本化別頭の立場が一つになっているのである。
 浅井教授は「無作三身」御書は、中古天台教義の影響を受けて作成されたものと考えられているようである。『当体義鈔』においても当体蓮華の概念と思想は中古天台教義のそれと共通性のあるものであるが、しかしその所説内容には中古天台思想は見られず、むしろ本化別頭の法門を強調する文勢が認められる。しかし『当体義鈔』の成立が『金綱集』より後のように見られることは浅井教授の説を一層強化するものといえよう。この点を十分に認めながらも私は、上述したような理由によって、日蓮聖人の宗教には無作三身の思想が存在し、その言葉も使用せられたと推定するものである。

 

 

 

 

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