対談 日蓮認識の諸問題

 

 

上原専禄=田村芳朗

 

日蓮との出会い

田村 何年前になりますか、先生の大学の学生たちが私のところにたずねてまいりまして、卒論に道元を書くというのです。それで一橋大学でそういうものを卒論の題にしてかまわないのかと聞きますと、かまわないんだというのです。そういうようなことから、上原先生のことを私なりに頭に描いておりました。先生は仏教を深くご研究され、とくに最近では日蓮についていろいろとご発表になっておられるようですが、なにか特別に日蓮との出会い、あるいは日蓮を研究されるきっかけでもおもちになられたのですか。

上原 明治、大正、昭和と三代にわたって、仏教者でない人が日蓮にいろんな機会に接して興味をもち、研究をなし、あるいは信仰を捧げた例が相当数あるわけですね。その方たちは、人生について悩まれたり考えたりしていった過程で日蓮に行き当った。そういう意味で出会いということを言っていいかと思いますが、私の場合には、そういう意味の出会いとは、ちょっと違います。だいたい私は京都西陣の町衆の末孫でして、江戸末期に西江州から移り住んだ商人なのです。江州から京都へ来る前は、甲州から江州へ移ってきた武田の落武者だと言われております。ですから、日蓮信仰というものは、多分その時分からもっておった。そうして、西陣の町衆の中へとけこんでいったのですね。そこで町衆のひとりとして、ご承知の久成院日親上人の創設した本法寺の檀家になり、幕末から明治の初期にかけては本法寺の世話をしておったようです。ですから、私の生まれた家の宗旨というものが日蓮宗であったということが、一つ根底にあるのですね。それから、私には実父と養父の二人があり、養父は上原家の本家なのです。本家は子供がなかったものですから、私は本家相続という意味でそちらのほうの養子に、子供のときに行ったのです。養父は、初めは本法寺の檀家だったのですが、のちに田中智学さんに私淑し、国柱会に入りました。したがって私は、子供のときには日蓮宗の本法寺の檀家に育ち、青年期に入っては、自分の養父が田中智学さんに接近していったということもあって、国柱会の先生方とも懇意になったのです。

そういうわけで私の場合、家の宗旨として与えられた日蓮宗というものを、明治末期から大正、昭和というふうに青年期を過した人間がどういう具合いに自分の信仰として消化することが可能なのか、という問題が山発点になった。その意味で、知識人の方々の日蓮との接近とはまるで違っている。与えられた日蓮というものをどう内面的に消化することが可能であるかという問題なのですね。いままで、ほとんどすべての読書とか思索は、どこかに、与えられた宗旨としての日蓮宗というものを、自分の意識の内面においてどう主体的に消化しうるかという問題にかかわっており、歴史の勉強を始めたり、最近は世界史の問題をいろいろ考えているのも、まったく、その問題に関係しているのです。

田村 先生の場合、世界史と日蓮は不即不離の関係にあるということですね。

上原 日蓮については、いつでも世界史における日蓮ということが、方法上問題になるし、逆に日蓮というものを通して世界史をつかまえるということが、問題になるわけです。

日本人にとっては、日本文化の伝統を主体的にどう継承し、それをどう乗り越えていくかという問題がありますね。私は日蓮についても、そういったような角度からいろんな感想をもつわけです。僧侶の方とも違うし、思想研究者の場合とも違うし、文学者の場合とも違う。非常に古風な、与えられたものを自分のものとして消化していく方法は何かということです。そういうことで、普通の場合ならば出会いの問題が、私の場合は出会わない。気がついたら、そこへもう事実として存在していたということです。

田村 仏教ではよく宿縁というようなことを言いますね。そういうふうなことで先生が日蓮と結びついておられるということか、あるいは、もう少し客観的に、つまり日本の時代・社会の流れとか、拡げれば世界史、そういうものを考える際に無視できないということから日蓮というものを取り上げられておられるのか、そのへんのところですが。

上原 私と日蓮との出会いというものは、一般化していくと、私は別に日本人になりたいと思って日本人になったのではなくて、気がついてみたら日本人であった。その日本人とは何かということを問題にせざるを得ない。また私は人間として生まれたなんていう意識はなかった。気がついてみたら人間であった。そこで人類とは何だという問題が問題になってくる。ですから一面では自分が置かれた状態なり与えられたものは自分自身にとって何かという具合に、日蓮でなくてもあらゆるものが私の場合にはそうなるのです。自然、私に与えられたものは私にとってどういう意味をもつのか。信仰にかかわっては、日蓮について、それがいえてくるわけです。

いま一つは、親鸞、道元、日蓮というふうに並ぶ面と、日蓮でなければ困るという面とが非常に不思議な仕方で重なっている。ちょうど偶然、日本人であったんだが、日本人でなければならないんだという面も否定できないがごとくです。日蓮については、宗教史に出てくるいろいろな高僧たちのほんの一人として見なきゃならんという面と、そうじゃないという面がある。

こちらのほうでも日蓮について感じることがいろいろあるのですが、日蓮のほうでも感じてくれているのじゃないか。つまり一口で言うと、他人でなくなっている。だから特別偉い人間だとも言わなしけれど、やはり付き合い甲斐があるというよりは、なにか支えてもらっている。両面なのです。

 

日蓮の必要性

田村 私自身のことをふりかえってみますと、高校時代に思想の遍歴をやり、ついには懐疑におちいったのですが、その時分に日蓮を知る機会をえ、日蓮の強い信念がどこから出てきたのか、不思議に感じ、それから日蓮を勉強するようになりました。現在は、日蓮という存在の必要性、あるいは日蓮のああいう思想が出てくる歴史的必要性というものを感じとっています。道元、親鸞それぞれ特色があるけれども、また日蓮的なものも欠くことができない。そういうことで、しばしは日蓮に言及しております。先生の場合は、日蓮に対する何か絶対的な縁というものがおありのように感ぜられますが、日蓮というものの存在の必要性、あるいは歴史的必然性というようなものも、お考えになっておられるのでしょうか。

上原 日蓮は、私にとって絶対に必要な存在なのです。私にとって必要であることは、はっきり申し上げられます。しかし、今の日本人全体にとっても必要なのではないかと、だんだん考えるようになってきております。

だいたい親鸞、道元、日蓮というふうに並べられるようですが、私は、法然、栄西、日蓮いう附系、あるいは、そのように並べて比較すべきだと思います。日蓮の意識の中に入っておった高僧たちとしては、法然はいうまでもないことですけれど、栄西というものが、どうしても問題になるでしょう。また、親鸞や道元にはお師匠さんがあるわけですね。法然とか栄西、それらの師匠の到達したところを出発点として先に進む。日蓮にはお師匠がぜんぜんないわけじゃないですけれど、親鸞とっての法然とか、道元にとっての栄西に該当する人はいない。ということは、中世的な日本仏教というものをふっきって、いわば新しい仏教信仰を持とうとする場合に、親鸞、道元はやさしかったと思うのです。ある出発点が与えられている。日蓮の場合にはそれがなかったということもあって、日蓮の教義の中や信仰の形態の中にも、いわゆる中世的なものがふっきれない、両方にわたっておりますね。たとえば、日蓮の教義の中に日蓮密教的な、いわゆる「蓮密」と言われるものが非常に強くありますね。親鸞の場合はふっきられた真言的要素が、日蓮なってくると真言を否定することを通して、つまり、それが否定的媒介物になって、いわば新たに日蓮的密教というものができあがっている。

田村 新たな装いのもとに再生産されていった。

上原 親鸞、道元と日蓮を並べるやり方は、明治末期から大正・昭和にかけての日本インテリの問題意識が、そうさせたのだと思います。日蓮自身の立場に立ってみると、今のように法然・栄西・あるいは「台密」と並べられる。そうすることによって、日蓮認識に新しい光があてられるのじゃないかと考えます。

それから比較ということと同時に問題にしなきゃならんと思いますのは、からみ合いですね。宗教史だけじゃなくて文化一般ですけれど、文化比較というもののもつ意味が、異質の文化を比較してそれぞれの特色を明らかにするということのほかに、異質の文化がアクチュアルにぶつかったりもつれ合ったり対決したりしていって、相互媒介しながら、新しい思想が生産されていく。そういう具合にして見ていきますと、いつの間にやら日蓮の中へひき入れられていくわけです。つまり、比較ということは、客観的な理解の仕方を意味しますが、その客観的な理解の仕方というものは、一種の客観主義におちいるきらいがある。そこで、どこか立場をとらなければならない。立場をどこかでとろうとすると、今度は主観的な好みになる恐れがある。そこで、研究する人間の責任というものが明らかになるような形で比較研究がされねばならない。こういうような研究方法の意識をもちますと、私の場合、どうしても日蓮のほうに比重がかかってしまうのです。

ともあれ、親鸞、道元、日蓮でも、あるいは法然、栄西、日蓮でも、それを一つの思想の類型として並べることはできない。からみあったり、意識的、無意識的にぶつかり合っている。そういう中で、もう一ぺん日蓮というものを考えてみたいと思うのです。

 

インテリの日蓮ぎらい

田村 現在でもそうですが、親鸞、道元というものはよくふれられながら、日蓮はつけたしか、あるいはふれずじまいが多いですね。しかし、今のお話にありましたように、日蓮当時の時代や社会、あるいは近代においても、日蓮というものを無視できない。それにもかかわらず親鸞、道元はよく取り上げられるが日蓮についてふれることは少ない。特にインテリにそういう傾向が強い。個人的な宗教ということに偏ったためでしょうか。

上原 おっしゃるように、インテリの日蓮ぎらいというものがありますね。一つには戦前、戦中、戦後にかけての、日蓮と言えば「どんどん太鼓」じゃないか。あるいは国家主義のイデオローグじゃないか。戦後は新興宗教の元祖みたいなものじゃないかというような、大衆の日蓮信奉に対する反撥がインテリの中にあったのじゃないかと思います。インテリの好む自由主義、文化主義では評価できない、それとは全く違ったタイプを持っている。これが、インテリをして日蓮ぎらいにさせている。

それと同時に、親鸞や道元も本当に勉強すればなかなか難しい問題をもっていて、とても大正以来のインテリが道元好きだ親鸞好きだというような、ああいう好き嫌いでは律しきれないような非常にむずかしい教義があるわけです。にもかかわらず大正、昭和のインテリというものは、なにか体質的に近いものがあるというふうに決めてしまって、実際は親鸞や道元はそんなに大正、昭和のインテリと体質が似ていると私は思わないのですが、そういうふうに評価しちゃったのです。日蓮の教義の難かしさというものは、それは親鸞や道元以上だと思います。その親鸞を理解できたと思うぐらいの分析の仕方では、とても日蓮はわからない。いちばんわかりにくいのは蓮密的な面でしょう。

それから、人間の幅ですが、親鸞、道元、日蓮、三人のうちどなたがいちばん幅広いかなんていうことは、これは簡単に言えることじやないですけれど、多面的であるということからすれば、日蓮は十分多面的ですね。そういうこともあって、大正・昭和の日本のインテリの嗜好に適しないのみならず、理解を越えたものをそこにもっている。

もう一つは、もし理解が進み、日蓮評価という段階に入ろうとすると、なにがしかの信仰実践という問題がおこってくる。親鸞、道元の場合でも信仰実践の厳しさは恐ろしいほどのものですけれど、日蓮の場合と違って、内側に沈潜したような形でやれるのに、日蓮の場合は必ずそれが外側に向って出ていかなけれぱならない。そうするとインテリは無精ですからね、困ることになる。こういうわけで大正以来の日本のインテリが日蓮を敬遠する。私は、日蓮を消化するだけの能力を大正、昭和のインテリはもっていなかったと思います。

田村 それに関係あるかどうかわかりませんが、たとえば親鸞について申しますと、明治以降、現代に至るまで、非常に「歎異抄」が尊重され、親鸞といえば、「歎異抄」というようになっておりますね。ところが、「歎異抄」というものは明治まではぜんぜん注目されなかった。近代になって取り上げられたのですね。私は「歎異抄」を好むということ、そして一方で日蓮をきらうということと、なにかバックが同じような感じがするのですが。

上原 それは同じ問題だと思います。浄土真宗の教義とか信仰を深くやっている方は「歎異抄」というものをそんな問題にしない。むしろ、「歎異抄」は、いわば唯円好みの親鸞解釈で、親鸞自体はそれとは違う。そっちのほうに入り込んでいったのでは本当の親鸞さまの信仰とか教義というのはわからない。ですから「歎異抄」をやかましく言うのは、いわゆるインテリと、そのインテリによって賑やかにされてきたジャーナリズムというものじゃないか。「歎異抄」は読まれていい本だと思いますけれど、「歎異抄」を越えて、むしろ親鸞自身のお書きになったものをもっと直接に読んでいくようにしなければいけないのじゃないかと思います。

ともかく、親鸞や道元に親近感をもつ、その逆に日蓮というものをひどく疎遠なものとして受け取る。その中には大正・昭和のインテリのもつ弱さと勝手気儘というようなものがある。自分の好みを中心にして思想を探る。それも一つの方法だろうけれど、実際、鎌倉時代なら鎌倉時代に自身の身を置いて、そこで何が考えられ、何が信じられておったかというふうに、その中に入るということでないといっこう生産的でない。自分の好みを押しつけるだけのことになるのじゃないか。

釈迦自身についてもそうですが、日蓮という人は亡くなってかれこれ七、八百年になるけれども、誇張していえば、いまだに正しい日蓮認識、日蓮評価がされたことがない。日蓮は非常に気の毒な人で、日蓮自身でないような日蓮観、日蓮像というものが、それからそれへと作り上げられていった。たまたま客観的な日蓮像というものを書こうとすると、今度は、いわば学問主義になって、信仰を抜した日蓮像がそこに出てくる。それを入れようとすると日蓮自身の立場からはずいぶんおかしいものができあがる。「違うんだ。わしはそういうものじやないんだ」というようなことが、明治・大正の時期でも現在でも行なわれていると思うのです。

私は、むしろ大衆の日蓮理解のほうが、より日蓮をリアルにつかんでいるんじゃないかと思います。そうして、日本のインテリが日蓮ぎらいをしている間は、とてもインテリは一人前にならない。思考の自主性とか自由ということを言っているけれど、そこでの自由は恣意的ということなので、もっと素直に客観に沈潜するということでないと、知性の高さというものを保てないのじゃないか。

田村 インテリの日蓮ぎらいは、大正デモクラシーのときのインテリの風潮と、なにか一脈通ずるものがあるように思えます。つまり、非常にサロン的なムードですね。そういうことが、宗教ないしは日蓮における信仰の強さと違和感をおこすのではないでしょうか。

上原 強さということですが、日蓮の強さは、いわば情熱とか意志から出てきた強さだけではない。一面では非常にデリケートな人間認識がある。もう一面は、あの時代のあの人なりの経典に関する知的認識、そういうものが軸になった強さじゃないかしら。そんな気がするのです。

田村 私自身、キリスト教と日蓮との間に結びつくものがあることを感じ、しばしばキリスト者側からの日蓮論を読んだりしました。

たとえば、内村鑑三さんとか矢内原忠雄さんのものなどですね。それらを読みますと、キリスト教の人のほうが日蓮に対する研究なり把握の仕方が正しいような感じがするのですが。

上原 やはり深いキリスト教者であれば、日蓮というものは非常に親しい人として感ぜられるはずだと思いますね。それは、内村さんにしても矢内原さんにしても、ただの知的分析ということを重視した人でなく、やはり信仰というものを実感しておられる。つまり、日蓮の中に、いわば知性的に、ことに近代的な理知、理知の近代的なあり方というものから見て抵抗を感じるようなものをも信仰の名において肯定していくということが、とくに内村さんのような人にはできたんじゃないかと思うのです。

私についていえば、日蓮に出会ったというよりも、むしろ気がついてみたらそこにあった。あったんだが、どういうものとしてあったのかというのはわからないから、それを知らなきゃならない。そこで、日蓮は私にとっては、あるいは私たちにとってはどのような意味の存在であるのかということを研究するというふうになっていった。普通の知識人の場合はそうならないのですね。そういう意味で、今でも日蓮認識の方法ということについては考えていかなければならないし、私にとっても日蓮認識の方法が出来上がっているのじゃないのです。そんなものは出来上がりっこないのです。認識の方法を確立していこうという非常な緊張の中に、そこに日蓮が影を落していってくれる。日蓮が認識されるということは、同時に、狭く言えば鎌倉時代の日本がわかるということ、それにかかわって現代の日本というものがある程度わかってくる。そういう相関関係にある。

 

日蓮認識の方法

田村 今までの日蓮研究ないしは日蓮研究の方法は、先生からごらんになればだいぶやり直さなければならないでしょうね。たとえば鎌倉時代の時代的特色なり社会的状況というものを正しくつかむには日蓮を知らなければつかめないと思うのですけれど、ところが恣意的に、勝手気儘な気持で日蓮を無視し、道元とか親鸞とか、そういう人たちだけで鎌倉時代の時代、社会を浮き彫りにしようとする傾向が強いですね。そういう点からも、日蓮に対する認識ないし研究方法は相当、改めねばならないと思います。

上原 改めるというのか、深めるというのか、補うというのか、そこが大変むずかしいところですね。日蓮認識の方法とか日蓮研究の方法というのは、ぜんぜん熟していないのです。方法として確立しているわけでもない。

うまくない日蓮認識として、過去に五種類ぐらいあるのじゃないかと思います。第一は神秘主義的な日蓮信心というもの。やはり今後の日蓮評価のあり方としては否定されなければならないのじゃないか。第二は教条主義的な日蓮信仰というもの。これは止揚されなければならないのじゃないか。第三は政治主義的な日蓮評価。例えば日蓮を国家主義の元祖というふうに考えたり、あるいは民主主義の元祖のように考えたり。日蓮の名において民主政治が行なわれるとかというのはおかしい。政治主義的日蓮評価というものはいけない。第四は教養主義的日蓮礼讃ですね。これは、たまたま日本のインテリの中には親鷲や道元を好む人が多いのですけれど、日蓮礼讃の人もあると思うのです。

田村 たしかに教養主義的立場に立った日蓮讃仰の会が見られますね。

上原 日蓮の教えというものは教養の一部分になるようなものとは違う。ある意味においては、教養なんていうことを否定するものです。教養主義的な日蓮礼讃というものはやめなければならない。最後に、学問主義的な日蓮理解。

少なくとも自分はそのような日蓮理解や評価はすべきじゃないと考えております。そこで、どうすればいいのか。一口で言えば、そういう日蓮認識や日蓮評価におけるゆがみ、あるいはそういう欠陥みたいなものを克服していく学問的方法、それは簡単に言えば十分主体的で十分客観的だというような、そういう日蓮研究というものがありえないだろうかということが一つ。第二は、日蓮認識や日蓮信仰のゆがみを匡正していくための実践的方法というものが、学問的方法に媒介されながらあるのじゃないか。今いったような主体的で客観的な日蓮研究に媒介された自立的な信仰実践というものがあるのじゃないか。ただちに社会的実践というふうには一挙にはなりえないと思うけれど、そのような信仰実践というものがあるような感じがするのです。

そうしますと、今まで、大正以来の日本のインテリにおけるああいう日蓮理解というもの、それは無視して、もっとまじめな日蓮認識の努力というものがあると思います。それは四つぐらいあるのじゃないか。一つは日蓮認識の宗義学的方法というもの。それから第二には日蓮認識の西欧学的方法というものがある。第三は日蓮認識の世界史学的方法。第四はむずかしいのですが、日蓮認識の日蓮的方法というものがあるのじゃないか。

次に、その四つの方法のかかわり方はどうかという問題があります。それはどれもこれもむずかしくて手に余るものですけれど、たとえは日蓮認識の宗義学的方法では、与えられた文献としても、日蓮の祖伝研究、それから聖典解釈の問題があるわけです。つまり日蓮宗の宗義学的発展の中で日蓮信仰というもの、日蓮の教義というものを頭において日蓮宗の僧侶たちが『法華経』をどう見ようとしているか。つまり日蓮宗の宗義学的研究の中で、主として日蓮宗の学僧たちにおける『法華経』解釈の歴史的展開みたいな問題。それからそれと関連して「御遺文」解釈というものがあるわけですね。

祖伝研究、それから聖典の解釈、さらに教義研究、主として「三秘五綱」というものに対するいろんな考えがあるわけです。たとえば祖伝については、江戸期以来、たくさんの文献がある。幕末から明治にかけては小川泰堂のもの。それから近代になっては姉崎さんの『法華経行者日蓮』、山川智応さんの『日蓮聖人伝十講』とかいうものがあるわけですね。聖典解釈については、主として室町期以後日蓮宗の僧侶が、『法華経』をどういう具合に解釈しようとしてきたか。その『法華経』解釈の仕方に、そのときどきの日蓮信仰の主体的あり方が出てくる。それにかかわって「御遺文」解釈。これは日朝の『御書見聞』以来、最近までずいぶんたくさんの「御遺文」解釈というものがある。それから教理の研究になってきますと、江戸期のものとしては日導、日寿の『和書綱要』がある。それから明治にかけては優陀那日輝の『綱要正義』『一念三千論』、そういうものがあってそれを受けたり、あるいはそれを否定しようとしていく。たとえば田中智学さんの日蓮教学というものは優陀那日輝の批判になっている。

そういう具合に、主として日蓮宗の中で、あるいはその周辺で、宗義学的な方法によって日蓮認識をやっていくという学問伝統があったわけです。それを全体統一するということは大変なことですが、その中にいろんな発明、発見があって、そう無視はできないと思うのです。

第二は日蓮認識の西欧学的力法。これもたくさんあるのですけれど、一つには歴史学的、文献学的方法というものがありますね。それから二つには宗教学的、社会学的方法というものがある。三つには哲学的、神学的方法というものがあります。要は、ヨーロッパにおける学問研究の方法というものに基づいて、あるいはそれを方法として日蓮を調べていこうということです。この方法は、非常に進んでいるというわけじゃないですけれど、今までの江戸、明治の学僧たちによって注意されなかったものが、ずいぶん出てきた。たとえば、文献学的方法にのっとると、真偽未決の日蓮遺文が、相当、発見されてくる。一例として『三大秘法抄』ですが、日蓮宗義学の立場、「三秘」、なかんずく戒壇論を主張する立場からすると、『三大秘法抄』を抜くことはできない。しかし文献学的には非常に問題な書となるわけです。『三大秘法抄』だけじゃなくて、ほかにもいっぱいそういうものがある。この点は、また十分にやられていない。日蓮宗の学僧たちによって正しいとされ、本物だと考えられたものを否認するのはいけないというような気分が、まだ残っている。そういうことを言っている間は、国民大衆から日蓮を遠ざけるということになると、私は思うのですが。その意味で、歴史学的、文献学的力法というものをもっとやらなければならない。

それから日蓮認識の世界史学的方法。これは大変なことで、第一世界史的方法というものが与えられたものとしてなにもないわけです。日蓮認識というものを中心にすえた世界史学的方法、つまり逆に言いますと、世界史認識の日蓮的方法というものが裏側に存しております。日蓮は、先ほどにもいわれたように、鎌倉時代の日本社会の中で考えたり、信仰実践をやられた人です。その鎌倉時代の日本の社会の中には、とくにモンゴルの来襲というような国際的な事件、あるいは世界史的な事件というものが含まれている。日蓮は鎌倉時代の日本社会に生き、その鎌倉時代の日本社会は孤立していたんじゃなくて、世界史的な関連の中で日本社会というものを形成し始めておった。そこで日蓮が問題として意識した日本社会、その日本祉会を包んだ世界史の全体的な展開の中で日蓮を見なければならない。ひいては、今日の世界というもの、今日の日本というものをどう理解するのかという問題を抜きにしては、現代における日蓮評価というのは理論的には成り立たないのじゃないか。そこで非常に難かしく、また大きいことになりますけれど、日蓮を世界史の中で捉えるということが、どうしてもほしい。それが第三の日蓮認識の世界史学的方法です。

第四は日蓮認識の日蓮的方法。これこそ、本当にむずかしい。日蓮は日蓮自身をどのように認識しておったか。日蓮における自己認識の方法。この中心の問題は、いわば「法華経の行者」という自覚や自己認識というものの構造、そこへ至る経過というものが、全部問題になるわけです。

以上、大づかみにいえぱ日蓮認識に四つばかりの違った方法がある。どれもこれも、それぞれに意味があるけれども、しかし方法の間に分裂や矛盾があっては困る。そういう違った方法というものに、なにか有機的な連関を持たせねばならない。そこで一つ一つ、独自の意味を持ちつつ、全体としてはどういう意味があるのか、つまり、最後に残る問題は日蓮認識の諸方法における相互の関係はどうかということです。これは簡単には申し上げられないので、形式的なことになるのですが、伝統的な日蓮認識の宗義学的な方法、それと歴史学的文献学的な、いわば西欧的な日蓮認識の方法とは簡単に融合あるいは結合しえない。たとえば、かつてキリスト教において信仰と科学をどう結びつけるかが問題になった。それを簡単に結びつけることができるというふうに言いますと、十八世紀流の併合主義的、合理主義的な考え方に陥る。そこで、むしろ十九世紀以降のキリスト教神学では、いつでも歴史学的、文献学的方法と神学的な認識との間には緊張関係が見られる。それは簡単に融和できるものだというふうにお互いに見ないで、しかも相互媒介的にそれぞれの思考方法が深まってくる。そういうことが日蓮認識の場合にもありうるのじやないか。

つまり宗義学的方法と歴史学的、文献学的とか、あるいは歴史学的、社会学的方法というものとを簡単に、容易に結合させようとしないで、その間を緊張関係として捉え、その緊張関係の中で相互が相互媒介的にお互いを高めていくということが考えられる。それにしても、もう少し接近する方法はないだろうか。緊張関係が成り立つというのは、それがある共通の場をもっている安心があるからですね。だからヨーロッパのバルト神学のようなものと、それから聖書考古学、あるいは聖書史学との間には緊張はあるけれど、なにかヨーロッパ人の宗教的思惟一般の上で、そういう論争や緊張がありうるということを相互で認めているからです。このことは、しかし、日蓮だけにあてはまるのではなくて、ほかの仏教思想研究の場合でもまったく同じだと思うのです。伝統的な浄土真宗や、あるいは禅宗の場合でも、まったく同じ問題があると思うのです。

宗義学的方法と歴史学的、文献学的方法とは、日蓮宗と言わず、浄土真宗と言わず、禅宗と言わず、学僧たちの間から、ことに西欧学の方法が入ってからいい研究が出てきております。出てくるのですけれど、それが信仰ということとどう結びついているかと言いますと、二本立てになっている、並行している。だから論文のほうでは面白いものがあっても、お説教のときにどうおっしゃるかというと、研究論文とはぜんぜん関係がない。あれは緊張関係じゃなく、抱き合わせですね。しょうがなくてそうなっているんでしょうけれど、それはおかしい。どうも今日の仏教研究と仏教信仰は、自己分裂みたいなものになっている。

田村 キリスト教では、たとえばティリッヒが地方の教会で行なった説教が、堂々と学問的論文として通用していますね。日本の仏教界では、自己の問題とは無関係に学問的研究がなされている。したがって説教や講演に研究が生かされてこない。その結果、説教や講演が無内容なものになっていますね。

上原 そこで日蓮認識の宗義学的方法を日蓮認識の日蓮的方法というものに内面化することができないだろうかと考えるのです。だいたいは宗義学というのは、日蓮没後の宗教事情、思想状況の中で、「三秘五綱」なら「三秘五綱」というものを強調した。その「三秘五綱」には、それぞれアクセントがあるし、それが出来上がったについては、一挙に出来たのじゃないという経過があるのですが、そういう経過を無視してしまって、「三秘五綱」のもつ体系性というものを初めから考え、その中で「三秘五綱」を中心にして日蓮の教義を押えていこうとするやり方ですね。それをもう一ぺん日蓮に返し、日蓮自身の自己確認の方法として見なおす。これが日蓮認識の日蓮的方法です。つまり宗義学的方法のもっている時代性というものをもう一度日蓮へ返すわけです。

もう一つは、歴史学的、社会学的方法ですが、ヨーロッパ、西欧学の学者を見てみると、客観的であるということがどうしても客観主義になり学問主義になる。そこで、世界史におけるささやかな主体として自己を意識し直す必要がある。そういう意識や方法を通して、いわゆる西欧学的な歴史学的、社会学的認識方法を主体化する、あるいは責任化するということをやるとどうなるのか。つまり宗義学的方法は日蓮的方法へと内面化していき、歴史学的、文献学的方法は世界史に対して責任をもつ存在として自己を自覚するという仕方を通じて主体化する。そうした日蓮的方法と世界史学的方法というものと合わせて、今度は国民的実践的方法というものがあるのじゃないか。つまり、世界史学的方法というものは世界史に対して、あるいは歴史の歩みに対して責任をもとうとするもので、そういう責任意識を通して、ヨーロッパ的歴史学あるいは文献学のもつ客観主義を越えていこうとする新しい学問だと私は思っています。つまり、世界史学的方法というものは責任をもっということです。そしてそのことは、私が、世界史の中で日本民族の一人としてやるべきことをやっていく、ということですね。日蓮は、それをやった。ですから、宗義学的方法の内面化として考えられる日蓮的方法とヨーロッパ学の客観主義を主体化していったものとしての世界史学的方法とは、いわば国民の課題を実践していく、国民的実践の方法というものの中で溶け合う可能性があるのじゃないか。

宗義学的方法を内面化した日蓮的方法と、歴史学的・文献学的方法を主体化した世界史学的な方法と、それを実践の場で検証するという国民的実践的方法、その三つを挙げてみますと、日蓮が言っている「三秘」の思想というのは、このことを言うんじゃないかと思うのです。つまり、日蓮認識の日蓮的方法というものは、自己の本質認識みたいなもの、いわば「本尊」論的な思考ですね。それから日蓮認識の世界史学的方法というものは、人類の動態認識で、それが日蓮の教義の体系の中に入ると「題目」という問題になる。それから国民的実践的方法とは、民族の課題認識で、「戒壇」というものが、それではないか。そこまで行って日蓮の「三秘」の思想をやや内側から感じとれるようになるんじゃなかろうか。これはまったく仮説です。ですが、日蓮の教義というものの内面的理解のためには、日蓮が「三秘」というものを日蓮自身の文章の中でどういう形で書き表わしているかとか、日蓮没後の日蓮宗の学僧たちがどういうことを言っているかということを調べただけでは、私ども今日大衆のものにはなりかねるのであって、非常に面倒な手続きですけれど、そういった手続きを通すことによって日蓮が言っている「三秘」というもののおよその輪廓が浮び上がってくるのではなかろうか。

そういうふうに考えてみますと、私たち日本人の日蓮認識というものは緒についたばかりというか、まだなかなか日蓮というものを全面的に理解するには、ほど遠いのじゃないかという感じがします。

 

日蓮遺文の扱いかた 

田村 先生のそういう研究方法からさっそく問題になってまいりますことは、日蓮遺文をどう取り扱うかということですね。日蓮遺文の取り扱い方については、古来、三人部とか五大部とかいうことがいわれ、現代ではそういう三大部、五大部よりも日蓮の書簡を通してこそ日蓮を知ることができるということで、書簡を強く取り上げてくる傾向も見えてきております。ただその場合、なにかエモーシコナルな考え方、あるいはそういうふうな角度からとくに手紙を取り上げる傾向がある。たしかに書簡というものを通して、日蓮の実人生や人間が三大部や五大部よりも時によくつかめるといえましょうが、ただ、いわゆる情緒的に日蓮の書簡を見てはならないと思うのです。そこには日蓮ののっぴきならない人生経験の告白がある。日蓮の生涯の節々における絶対的な境地とかが書簡にあふれている。だから感情とか情緒とかそういう角度から日蓮の書簡を見るということは、非常に甘い、一種のセンチメンタリズムだと思うのです。ともあれ日蓮遺文の取り上げ方については、今後、先生のいわれました研究方法からしましても再検討する必要があるのじゃないかと思うのですが、その点いかがでしょうか。

上原 普通、三大部といいますと、『立正安国論』『観心本尊抄』『開目妙』ということになるのですが、今度のこれを拝見しますと『立正安国論』の代りに『守護国家論』が挙げられている。これはどういうことですか。

田村 日蓮の思想ということになりますと、『立正安国論』より『寺護国家論』のほうが思想に充ちている。『立正安国論』は、いわば出来上ったものを公けにプロパゲートするという意図が強くて、結果論が出ていて、それを支える思想内容というものが省略されているという感じがします。それにくらべて『守護国家論』は、思想内容に富んでいるといえましょう。たとえば浄土念仏に対する批判を見ますと、『立正安国論』のほうは形式的であるけれど、『守護国家論』のほうは思想的である。人世観、世界観、浄土観が思想的に論じられているということから、『守護国家論』を挙げたのです。

上原 それは一つの見識として尊重したいと思います。ただ日蓮宗の学僧たちが三大部として『立正安国論』『観心本尊抄』『開目妙』を挙げるようになった動機は、いったいどこにあるのか。そういうことも、もう一ぺん考えてみなければならない。それから思想研究のさい、思想の成立過程にアクセントをおくやりかたと、出来上がった、いわば体系のほうに比重をおくやりかたとがあるわけですね。そういうことで、日蓮遺文の選択にも違いが出てくると思うのです。日蓮没後の教学の歴史的発展の中で、『安国論』がとくに重視せられたのは、『安国論』がいわば出来上がった思想体系だからでしょう。特に念仏批判の一般的風潮というものが当時あり、その代表的なものが高弁の『摧邪輪』であるわけですが、そういうなかで、日蓮も また念仏批判をしていかねばならなかった。それが書物となったものが『守護国家論』から、さらに『立正安国論』ですが、『守護国家論』は、日蓮の念仏批判ないし思想体系がまだ形成途上のものである。それに対して『立正安国論』は、一応、完成したものとなっている。そういうことで、『立正安国論』が重視されたのだと思います。

なお『立正安国論』には、「汝、早く信仰の寸志を改めて速かに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり」ということが説かれている。つまり、「立正」を主眼として「安国」という結果が生じ、逆に「安国」を条件として「立正」が行なわれるという、「立正」と「安国」のダイナミックなかかわりを通して、娑婆即寂光が主張されている。『守護国家論』のほうでは、それは非常に微弱な形でしか出ていない。『立正安国論』の中でそれが出ているという点などを考えますと、日蓮没後の学僧たちが『安国論』を重視したという意味はわかる。

しかし、それと同時に、どういう風潮の中で、どういう経過で『安国論』が現われるにいたったか、つまり日蓮の思惟方法の歴史的展開、その動機というものを後代の人間が追体験的にとらえるという意味では、『守護国家論』というものを無視することができない。その点から、長い間の伝統的な日蓮認識というものから解放されて、いわば主体的に、日蓮の論著が読まれるためには、あるいは日蓮の思惟方法というものは初めから完成されたものではないということを認識させる力法としては、『守護国家論』をとりあげたことは、まことに面白いと思うのです。

次に書簡についてですが、大部分は真筆が現存しているものですね。また、日蓮の情緒の豊かであったことを示すものだからというだけでなく、教理あるいは思想を示すものとして、こういう書簡が挙げられたとしますと、それは『開目妙』とか『観心本尊抄』などとくらべて、どういうことになるのでしようか。

田村 すぐれた書簡がたくさんありますが、真筆の残っているものをとりあげたわけです。また、選択は日蓮の生涯の歩みとか、あるいは生涯における節節が現われているものを、たとえば佐渡流罪とか身延隠退とか、を主としてとりあげたのです。波乱にみちた日蓮の人生、ないしその時おりの体験なり心境を知る必要があると考えたからです。

上原 なるほどね。『土木殿御返事』や『五人士寵御書』は佐渡流罪にさいしてのものですね。それから『富木殿御書』のほうは、身延入山にさいしてのものですね。

田村 たとえば身延に入るときに、身延は一時的な滞在であって、ゆくゆくは諸国を流浪することを考えているというような心境ですね。非常に情感的な、美文的なものはほかにもたくさんあると思いますが、日蓮の人生の節節ないし体験、それが日蓮にとっては、そのときそのときにおいてのっぴきならない一つの時点であったと考え、そういう時点のにじみ出ている書簡を取り上げたのです。

上原 取り上げられた書簡の中には、私にとって非常に大事なものも含まれていると思います。ことに教理あるいは信仰以前の問題、つまり生別、死別の悲しみとか。日蓮の仏道修行の直接の動機はいったい何かということはむずかしい問題ですけれど、やはり諸行無常という考え方、転変極まりない人生を越え出た境涯にどうすれば達することができるだろうかという、仏教者一般の出家の動機が同時に日蓮にとっても深い内面的な動機の一つであったと思います。そのとき無常というものを、日蓮は観念的な命題としては受け取らないで、いわば感覚的な、五官のうずきみたいな、それの激痛みたいなものとして無常というものを受け取ったのではないか。ここに挙げられている『上野殿後家尼御前御書』とか『上野殿母尼御前御返事』などは、それのにじみ出たものといえましょう。夫をなくし、さらに子供をなくした未亡人に対する悔みの手紙ですね。あまりに悲しく、また本当とは思えないということで、悔みの手紙を書きながら絶句している。それから追伸というものがあり、その中で霊山浄土へ今度なくなった幼い子供も行き、父親と会い、喜びあっているだろうと慰めのことばをつづりながら、「あはれなり、あはれなり」と結んでいる。つまり、霊山浄土の思想が完全化されないで、五官の疹痛という形で受けとめられている。日蓮の無常観が観念的命題としてでなく、感覚の痛みとして存するということですね。私は、無常というものの痛みを通して、その無常な人生をどう越えるかということが、日蓮の宗教あるいは日蓮の信仰の秘密の一つになっているのじゃないかと思います。そういうもののいくつかが、この中に含まれているわけですね。

田村 私自身も、かよわき女性に対する方便的な説法とか、そういうものじゃなくて、日蓮白身ののっぴきならない一つの実感、人間として人生なり世界を生きていく上の日蓮自身ののっぴきならない体験なり実感というものがそこににじみ出ているということで、取り上げたのです。

上原 いいものが選ばれていると思いました。

田村 今までお話をうかがいまして、先生のお話には現代における日蓮の再評価の必要性というものが自然ににじみ出てきていると思います。まだいろいろとお聞かせいただきたいこともございますが、時間がきましたので、このへんで。

どうもありがとうございました。

 

日本の思想4 日蓮集』別冊 昭和44年 筑摩書房刊)

 

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