研究・調査プロジェクト

 

 

    明治時代の歴史年表から読みとる日本の仏教文化の変化について

 

             日蓮宗に見る教団から宗団への過程について

 

影山教俊

はじめに

 教団教化プロジェクトの一員として、禅宗でいうところの師家制度などの伝統的なあり方に模して、本宗の伝統的な法器養成のあり方について考察を試みた。そこでまず始めに着手したのが、日蓮宗の近現代史的な考察を可能にする明治時代の詳細な歴史年表の作製であった。各門流に設置されていた檀林などの法器養成機関の変遷は、日蓮教団の生成過程と離れては考えられず。さらにその生成過程は、明治政府が制定した各種の行政法によって規定されてきたからである。

 ところが、このような意図ではじめた年表作製は、その過程で思わぬ展開を見せた。その時代に施行された法令は、現在の私たちから見れば単なる歴史的な事実を示す文言である。しかし、その時代に生きた人びとにとって、そこで施行された法令は水中に投げ込まれた石の如く、その波紋によって否応なしに現実的な転換を迫られた事実であった。

 その事実は法令発布とその波紋を時系列で並べると一目瞭然で、歴史年表は現代の私たちに、伝統仏教が変節してきた経緯を見事に浮き彫りにしてくれた。しかし、その変節の過程が明治維新から現代まで140年という長い時間をかけて、また私たち自身がその波紋に巻き込まれているために、今まで私たちは自分自身の変節に気づくことができなかったのである。 どう変節したかを要約しておこう。

 [1 仏教文化の断絶は廃仏毀釈によって幕が開いた]では、私たちは神仏混淆の仏教がオーソドックスな日本仏教であることを知らない、日本仏教は天皇家が仏教に帰依して以来、神仏習合の仏教だったが禁止された(神仏判然令)。

 さらに[2 寺院社会の経済的危機と葬式仏教]では、それまで寺院社会が果たしていた「戸籍(寺請)・学校(寺子屋)・法要」の三つの機能の中で、葬儀法要に重きが置かれるようになった理由は、戸籍を削除するためにきちんと葬儀法要を営みなさいということだった(葬儀埋葬法など)。 

 また[3 仏教の宗教的な崩壊がはじまる]では、「肉食、妻帯勝手たるべし」と800年続いた僧尼令が廃止され、僧侶が肉食・妻帯・蓄髪および法要以外での平服着用を公然と行うことで、僧侶の宗教的権威が失墜し職能化した(太政官の布告)。

 [4 寺院社会の解体がはじまる]では、この時期に各宗派が宗派として統一され、一宗派名を名乗って纏まるように統制が掛けられ、日蓮宗・天台宗・真言宗・浄土宗・禅宗・時宗・真宗の七宗が一宗派として成立する(神仏合併大教院設立)。

 さらに[5 仏教の学問的な再編成が始まる]では、各宗派のそれぞれの門流で運営していた僧院の学問所(檀林)が廃止され、各宗派で統一された教育機関(現在の大学制度の前身)で行うようになる(各宗派別大教院制度発足)。 

 このような経緯の中から、とくに[6 伝統教団における伝統について]では、日蓮宗では宗務行政(機関)が宗務執行し、現在では本山貫主職までも含め、宗務役職の任免権を担っている。本山と末寺の関係によって維持され僧院仏教としての伝承ごとに支えられた日蓮教団から、行政的な枠組みによる日蓮宗団となった(昭和26年4月3日新宗教法人法発布)。 

 さらに[7 明治時代以前に僧侶や寺院は何をしていたか]、[8 養生医療を禁じた「医療・服薬を妨害する禁厭・祈祷の取締」の弊害について]では、現代の仏教では、この人生航路において生死の大海をどう渡るかという、宗教的な機能面がすっぽりと抜け落ちてしまっている。それは明治維新直後の廃仏毀釈に加えて、幕藩体制を支えた仏教文化と一緒に、仏教寺院との関係が深かった養生医療(和漢方など)も払拭するため、治療医学としての西洋医学を導入採用したことによる。これによって寺社における医薬の販売(施薬)、医療行為(施療)が禁じられ、僧侶が医療に関われなくなった(「医療・服薬を妨害する禁厭(まじない)・祈祷(おはらい)の取締」の実施)。

 ここに歴史年表を作製する過程で見えてきた、大きく言えば日本の仏教文化の断絶の過程、日蓮宗にあっては教団から宗団へと変貌する過程について詳細に報告する。この報告が現代の仏教教団の包含する諸問題解決の端緒になることを希求してやまない。(ここで用いる日月は明治5年12月2日までは太陰暦である)

 

1 仏教文化の断絶は廃仏毀釈によって幕が開いた

 仏教文化の断絶は、周知のように廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって始まった。高校生時代の日本史の授業を思い出してほしい。明治維新とは、慶応3年(1867)から始まる将軍徳川慶喜の大政奉還(政権を朝廷へ返上する)、明治天皇の王政復古(君主政治体制)の宣言、江戸幕府の倒壊、明治新政府成立(明治元年・1868)に到る一連の統一国家形成である。形式的には徳川から朝廷へと政権が移行する過程だが、実質上は封建制から国家統一と資本制への移行であり、それが近代の日本国家への礎となったのである。

 この徳川から朝廷へと政権が移行する中で、それまで幕藩体制の要であった寺社奉行管轄の仏教寺院は、寺請制度(てらうけせいど)によって庶民の戸籍を管理し、宗門人別(しゅうもんにんべつ)によってキリシタンの布教拡大を阻止するなど、その体制維持に大きく貢献していた。また、その時代の仏教は、奈良時代に始まる神仏習合(しんぶつしゅごう)の仏教で、日本固有の神々の信仰と仏教信仰が折衷された仏教であったため、それこそ神宮寺という名前が物語るように、僧侶が八幡大菩薩(八幡神)や熊野権現(熊野大神)などを勧請し、祝詞(のりと)ではなく経典を読誦し、祈願回向までしていた。とくに大国主命(おおくにぬしのみこと)を大国天(だいこくてん)と呼称し、大黒天として七福神の一つの民間信仰として祭り上げられたほどである。この神仏習合によって8世紀の奈良時代から培われてきた日本の仏教文化は、日本人と切り離すことができないものであったが、大政奉還そして王政復古を実現させるため明治政府は神仏分離を断行したのである。

 しかし、この時点で日本人は、この神仏分離によって後年どれほどの文化的な犠牲を払わされるか、誰も気づいていなかった。周知のように日本が仏教国である由縁は、仏教は国を挙げて信仰され、日本社会の文化的は発展と維持に大きな役割を果たしてきたからである。とくにその中心に天皇を頂点とする皇族や貴族階級があり、日本仏教は彼らの時代を超えた篤い信仰心によって支えられてきた。

 その信仰のあり方は『古事記』や『日本書紀』によれば、第31代の用明天皇、聖徳太子以来、歴代の天皇や上皇によって受け継がれ、仏教と天皇の関係は不可分であった。たとえば、聖武天皇が深く仏教に帰依した背景には、天平年間に災害や疫病(天然痘)が多発した事実がある。天平13年(741)には国分寺建立の詔(みことのり)を出し、その二2年後(743)には東大寺大仏の建立の詔を出している。さらに聖武天皇は光明皇后を伴って私度僧(官許を得ずの得度)となったため朝廷から弾劾されたが、その後は大僧正となった行基(668〜749)から菩薩戒を授けられると、皇位を娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲ってしまう。さらにこの孝謙天皇は自らを「三宝の奴」と称するほど仏教に帰依し朝廷に独断で出家したため、それを受けた朝廷が慌てて退位の手続を取って、初の男性の太上天皇が誕生している。その後、孝謙天皇は鑑真和上から正式に受戒され(753)、僧形を崩さなかったほどである。

 このように天皇は深く仏教に帰依し日本の仏教文化を担ってきたが、明治維新という政治イデオロギーによって大政奉還、そして王政復古を実現させようと、神仏分離が招く罪過を顧みることなく行政的手腕によって大鉈を振ったのである。そこで明治政府は慶応4年(1868)3月13日に祭政一致による王政復古の象徴として神祇官(神社の元締め)再興を布告し、仏教弾圧の旗印とした。

その仏教弾圧のありさまを詳細に追えば、その翌日14日に明治天皇が五箇条の誓文を宣布し、とくに神仏判然(神仏を明瞭に分ける)の令によって神仏混淆(しんぶつこんこう)を禁止した。さらに新政府は17日に神宮寺など神仏習合する神社の僧侶(社僧)並びに別当(社僧代理)に還俗(一度出家したものが、再び俗人にかえること)を命令している。

 加えて28日には最後のだめ押しとばかりに神仏分離令を発布し、神社が菩薩・権現・天王などの仏語を神号(神祇の別名)とすること、並びに仏像を神体とすることまで禁止してしまったのである。この神仏分離令は、廃仏段釈(仏法を廃し釈尊の教えを棄却すること)を目指したものではなかったというが、中央政府から発せられた神仏判然令は、地方役人には仏教排撃と受取られた。そのため全国各地の神社では、一般庶民をも巻き込んだ形で仏教関係の物件が破壊除去され、地域ごとの仏教寺院を宗派ごとに合寺させられるなど、神仏判然令は廃仏毀釈の運動として全国を席巻し始めた。この時点で新政府の指導者たちが抱いていた敬神排仏は、廃仏毀釈の方針で伊勢神道を頂点とする神道国教化政策の思惑としてほぼ具体化されていたと言える。

 さらに明治天皇の即位によって、慶応4年9月8日には改元されて明治時代になると、神道国教化政策が起動し始める。その10月18日には日蓮門下の諸本山に三十番神(1ヶ月を30日間、交代で守護するとされる30の神々)などの神祇称号混用禁止が布達される。とくに日蓮宗関連では三十番神配嗣、日蓮聖人の染筆になるご本尊の曼荼羅中への天照大神・八幡大神の勧請、経帷子(きょうかたびら)への神号使用までが禁止されている。

 また明治2年(1869)の6月29日には、東京九段に明治維新達成のため犠牲になった3588柱を招魂社として配った。これが後の靖国神社である。さらに7月になると、祭政一致を徹底させようと、官制(行政機関)の改正がおこなわれ、神祇官・太政官の2官をおき、その専門職として宣教使が設置される。これは神祇官(神社の元締め)を独立させ、神祇官を太政官(国政統括の最高機関)の上に置き、民部省(地方行政などを管理)に寺院寮を設けるなどして仏教寺院に対する管理監督の徹底を図ったのである。

 

2 寺院社会の経済的危機と葬式仏教

 明治4年(1871)の1月5日になると、社寺領上地令(社寺領の国有地化)が布告され、寺院社会に対する徹底的な弾圧が開始される。社寺上地とは寺社の境内を除く社寺領の国有地化のことであり、この上地に従う見返りとして社寺にはわずばかりの蔵米(公的な供米)が支給されたが、寺院社会は経済的に大打撃を被ることになる。

 じつはこの上地によって、明治政府はこれまで寺社奉行管轄で公的に機能していた寺請制度(戸籍)・宗門人別(キリシタン信徒ではないという証明)などの行政権の剥奪を目論んでいたのである。4月4日の「戸籍法改正」によって、それは現実のものとなり寺請制度・宗門人別帳は廃止された。それまで寺院社会が果たしていた「戸籍(寺請)・学校(寺子屋)・法要」の三つの機能の中で、もっとも公的であった戸籍が取りあげられ寺院社会は大混乱に陥っていったのである。

 ところが、この大混乱のさなか、10月に「葬儀埋葬法」が制定され、さらにその翌年(明治5年)6月になると、太政官はそれまで管理されることなく自由に行われていた庶民の葬儀(自葬)を禁止し、必ず神官・僧侶に依頼するよう布告した。その理由は、戸籍を削除するためにきちんと葬儀法要を営みなさい、ということだった。これ以降神官や僧侶による葬儀法要が一般化し、寺院社会の経済基盤は葬儀法要の施収入に大きく依存するようになってゆく。上地令による寺院社会の経済的危機に救いの道が与えられた感がある。

 現代の仏教は葬儀法要を大変重要視しているが、江戸時代後期まで日本の葬送儀礼は死という忌むものは秘めたるものとして、夜にひっそりと行われていたのである。その時代の埋葬はほとんどが座棺が用いられていたため、葬儀に関わる業者はといえば座棺の製作を一手に担っていた桶屋のみであった。落語などで「風が吹けば桶屋が儲かる」というのは、流行病で多くの人が死んだことを伝えている。しかし、葬儀埋葬法が制定され自葬が禁じられ僧侶神官への依頼が義務づけられると、富裕層の商人たちの営む葬儀は大掛かりになっていった。

 とくに明治民法では祭祀財産を家督相続の特権としたため、「家」に所属する人々は、家督を受け継いだ家長を「家」の統率者として中心に据え、その保護を受けると同時に、祖先を祭るという行為によって、家長を中心とした「家」の共同性を強調したからである。このような民法の制定を背景に葬列は夜から昼間に行われるようになり、さらに町中を練り歩くようになって、葬送に直接関係しない人までも葬儀に関わるようになる。結果として都市部では、地縁共同体とは別に営利を目的とする葬祭業者までがあらわれるようになる。家庭用の仏壇をはじめ、花車・位牌輿なども、この時期にはじまったという。

 これによって江戸時代までの寺請制度を基調とする檀家制度から、明治維新後の檀家制度は「家」を中心とする祭祀相続の葬儀法要を基調とする檀家制度へ、葬式仏教へと変化してきたことが分かる。現代の寺院社会では「寺離れ・僧侶離れ・檀家離れ」を三離れ現象などと称し、それは現代人の宗教心の希薄化の証などと嘯(うそぶ)いているが、じつはこのような檀家制度のなり立ちと社会的な変化に起因するのである。

 

3 仏教の宗教的な崩壊がはじまる

 明治5年(1872)は、仏教の宗教的な崩壊が始まった特記すべき年度である。明治天皇の王政復古は祭政一致の国是(国家の方針)となり、一方で神仏分離の令達は仏教軽視をもたらし、さらに神仏判然は廃仏毀釈へと繋がって仏教は失意の中に落ちた。徳川時代には幕藩体制の要にあった仏教には特権が与えられ保護されていたため、幕藩体制が崩れると寺院社会は自ら何らなすところがなく無為無策の状態となったからである。この時点で、新政府はこれまで布石してきた行政的な手腕を発揮して、仏教の宗教的な崩壊を現実のものにし始めた。

 まず3月27日には神社仏閣の地で守られていた「女人禁制」を廃止する。さらに4月25日には太政官は「自今僧侶の肉食妻帯は勝手たるべき事、但し法要の他は、人民一般の服を着用して苦しからず」と布告する。世に言う「肉食、妻帯勝手たるべし」である。僧侶に肉食・妻帯・蓄髪および法要以外での平服着用を許可したのである。しかし、一言触れておかなければならないことは、この太政官布告は、国家が僧侶の破戒行為を国法で処罰しないと言っただけであり、それを敢えて奨励し強要しているわけではないのである。

 もともと僧侶の戒律についてはそれぞれ重要な規定があり、それは僧侶が自分自身の意思で自発的に堅く守られるべきもの、換言すれば、僧侶となるべき程のものは、はじめから十分それを知った上で、身をその社会に投じていた。そのために世間的な在家者と対比する形で出家者として社会的に尊敬されていたのである。

 さきの「肉食、妻帯勝手たるべし」は、僧尼令(養老2年・718)の公的な禁を解いただけであった。僧尼令では、僧尼の飲酒、肉食、五辛を服することを禁じ、これを犯すと30日の苦役(強制労働)であり、薬として用いる場合でも3日間が限度であった。それでも飲酒し他人と争ったり、暴力沙汰になれば、還俗という制裁があった。とくに男女間では取り締まりが厳しく、「僧坊に婦女を留め、尼房に男夫を置くことを許さず」といい、これに背いて一宿以上泊めた場合は10日間の苦役、5日以上の場合は30日、10日以上は100日間の苦役であった。それこそ僧尼が交わりをもったら遠島だったのである。ちなみに、僧房に賄方(まかないがた)として務める婦女たちは「一宿以上泊めた場合は10日間の苦役」の禁のために、朝になると必ず一度は寺門外へと足を運んでいたのである。

 じつに新政府の思惑は、このような僧尼令の禁を解くことで、仏教の宗教的な崩壊を図るところにあった。中世ヨーロッパでカトリック教会がその権威性を維持できたのも、じつは修道生活の禁欲主義が担保されて始めて可能になったのである。日本社会の宗教性もまた例外ではなく、宗教的な権威性は僧尼令という禁欲主義を担保として成立していたと言える。

 またこの僧尼令の廃止は、そのまま公的な僧籍廃止を意味するもので、この時点で僧侶は身分としてではなく職業として扱われ、一般の平民(官位のない普通の人民)と同様に徴兵義務を果たすことになった。当初、僧侶はその職制に鑑み一家の相続者である嗣子と同様に兵役の義務を免除されたが、徴兵逃れで出家する者があったために免除が解除された。僧侶であっても兵士として前線で敵兵を殺害しなくてはならない事態が生じたのである。伝統的な仏教教団は、教団の政府への協力姿勢を見せるために、政府の戦争遂行政策に支持を与えたが、還俗僧の田中智学は明治13年には横浜で蓮華会(後の立正安国会・国柱会)を結成し、積極的に戦争遂行政策を主張するにいたる。職業としての仏教、職業としての僧侶の扱いによって、禁止されていた僧侶の武装も解除され、僧侶の不殺生戒も守ることも出来ずに徴兵されたのである

 明治22年(1889)当時、大阪にあった第3高等中学は京都へと移転したため、浄土宗の寺院に下宿をしていた「喜田貞吉」という人物の声に耳を傾けてみよう。

 「第3高等中学が大阪から京都へと移転したため、京都へと転居し浄土宗の寺院にしばらく間借りをして通学した。するとその寺には小母さんと呼ばれる婦人がいて、それがまた在俗の妻のように立ちふるまっており、子供にお乳を飲ませたり、台所で魚をさばいたり、あるいは公然と参詣の檀信徒に接待しているのを見て、奇妙に思った。お寺さん方には失礼なことだが、いかにもそれを不愉快に感じたものだった。

 自分の郷里のお寺は曹洞宗所属の寺院であったので、戒律がそれなりに喧しくいわれていた。しかし、その寺は大黒と呼ばれる婦人が在住していたが、それを世間に公表することはなく、また陰で魚肉を口にしていても人前でそれを頂くといくことはなかったため、当時の私は僧侶には精進が保たれるものと映っていた。

 ところが、寺院に小母さんがいるのはそこばかりではなく、また大抵の僧侶は牛肉までも人前で平気で口にしているので、もうすでに肉食妻帯が普通になってしまったのだと分かった。」(『現代仏教』十周年記念特輯号│ 明治仏教の研究・回顧│ 現代仏教社発行昭和8年7月) 

 このように、「肉食、妻帯勝手たるべし」の布告によって、僧侶の禁欲主義とまでは言わないが、僧侶の清貧さが奪われることで、それまでその担保によって補償されていた日本社会の宗教的な権威性が崩壊してしまった。現代の仏教教団がというのではなく、総じて日本人の宗教的な感性が何か変なのは、この宗教的な権威性の崩壊が原因ではないかと考えられる。

 

4 寺院社会の解体がはじまる

 さらに明治5年8月に、太政官から神仏各宗合同の研究・教育機関として神仏合併大教院の設立の布告されると、仏教の宗教的な伝承性が剥奪され寺院社会の解体がはじまる。大づかみに仏教の宗教的な伝承性を示せば、仏教は中国から伝播以来、朝廷などの庇護の元に国家安泰を祈り君主政治体制の維持強化に貢献してきた。伝統仏教で修される国祷会などがそれである。その後、各宗派は独自の門流を形成し、各宗派の歴史と伝統などの伝承ごとは、おおよそ本山と末寺寺院の循環関係を機軸として、その本末関係の中で存在した。

 たとえ一山の貫首さまであっても、必ず発心して僧侶になろうと思った一瞬があったはずだ。発心して僧侶になるためには、その門流の貫首さまについて授戒得度して弟子となり、本山などに所化として随身し、ときを経て門下の学問所である檀林での一定の修学をへて、素紫寺(すむらでら)、茶金寺(ちゃきん寺)なりの末寺へと賜った袈裟(僧階)をたずさえて下り、やがてその器量に応じて門流の貫首へと成り上がってきたのである。その意味ではその門流の歴史と伝統は貫首さまの一挙手一投足の中にあり、その貫首さまが体現していたのである。そのため貫首さまの読経や回向を拝聴すれば、たとえ同宗派であってもたちどころにどこの門流であるか了解できたのである。

 じつは明治年の「神仏合併大教院設立」の布告がなされて以降、神祇省から教務省を通じて仏教の宗教的統制のために行政的な管理監督が行われ、その宗教的な伝承性が剥奪されて行くのである

 行政的な手腕がどう振るわれたかを遡ってみよう。8月になるとこれまで各宗派が伝統的に用いていた僧階とは別に、行政的に統一された教導職14級が設けられる。さらに10月にはそれまで各宗派といっても統一されていたのではなく、宗派はいくつかの門流として併存していたものが、「一宗一官長制」によって統一的な一宗派名を名乗って纏まるように統制が掛けられた。とくに日蓮宗・天台宗・真言宗・浄土宗・禅宗・時宗・真宗の七宗には通達が出され、統一された一宗派として成立する。

 日蓮宗関連で言えば、日蓮門下各派は一致派と勝劣派に分かれていたが、ここに「日蓮宗」と総称し、交代制の管長制度を定め、顕日琳が管長として就任した。日琳は本成寺派、現在の法華宗陣門流総本山越後本成寺住職であり、一宗一管長制における日蓮宗初代管長は勝劣派から出たのである。さらに明治7年、日蓮宗は再び一致派と勝劣派が分派することになる。

 また11月には設立された神仏併合大教院によって、神社・寺院・説教所を小教院(由緒寺院などを中教院とした)として三条教則に基づき教導することが命ぜられ、これによって寺院でも仏教の教義が説けなかったばかりか、仏教用語の使用も禁止されしまったのである。

 さらに明治6年(1874)の2月には大教院が実働を始めるために、浄土宗本山である芝の増上寺内に大教院が設置される。驚くべきことに、4月になると増上寺大殿の本尊阿弥陀如来像が台徳院霊屋に撤去され、その代わりに皇祖大神(天皇の祖先・天照大神)が安置される。つづいて6月には大教院開院の公式法要が催されるが、この大教院開院にあたって教頭に相國寺荻野独園師、副教頭に本願寺大谷光尊師の仏教者が任ぜられていた。

 さきの神仏判然によって、事実上は僧侶の神祭式典への参加を禁止されていたものの、この皇祖天神を祀る法要への出仕は僧衣を着装しては許されない。しかし、大教院の公職にあった荻野、大谷の両師は出仕を余儀なくされ、苦渋の選択によって神官の制服を着装して神饌供奉(烏帽子・下垂を着して、神饌・魚具・榊供を奉献する)の式典に臨んだという。これによって、世間は仏教が国家神道の軍門に下ったことを知らされ、寺院社会の解体が自明の中にさらされたのである。

 

 

5 仏教の学問的な再編成が始まる

 さらにこの寺院社会の解体は、僧侶の法器養成(宗教教育)に及んで致命的な状況になる。それまで本山と末寺の関係によって、いわゆる僧院生活によって伝承されてきた仏教が解体され、西洋哲学を基軸とする学問的な仏教への再編成が始まったからである。これによって寺院社会の解体により一層拍車がかかった。その始まりも明治5年である。

 この背景には、日本の教育制度が転換する経緯が存在する。明治になって幕府の調書方(辞書の編纂などをしていた部署)が西洋の学問を取りいれて洋学化し、この流れの中から東京大学が創設されてゆく。この東大はドイツの大学制度を範として創設され、これ以降は日本の哲学や宗教学などのすべて学問はドイツ観念論を基礎にして体系づけられることになる。明治19年(1886)に東京大学は帝国大学令に則り旧制の総合大学となったのである。

 それまでの日本の教育がどうであったかといえば、幕藩体制の中で各藩が独自に設けていた藩校があった。藩校は17世紀頃から作り始められたが、19世紀初頭には各藩(276藩)のほぼ50パーセントに設置され、幕末には2万石以上の藩では80パーセント以上に、20万石以上の藩では100パーセント設けられていた。およそ徳川時代に武士のしめる割合は人口の7パーセント位であったが、藩校の実際は武士の子弟はほぼ全員が8歳ないし15歳から藩校に通い始め、20歳ないし30歳くらいまで通うことが求められ、武士は基本的にかなり高い教育を受けていた。その内容は文武両道を学び、文はもっぱら四書(大学・中庸・論語・孟子)五経(易経・書経・詩経・礼記・春秋)を中心とする漢学、儒家思想を学んだ。

 また一般庶民の教育を担っていた寺子屋にいたっては、幕末の安政から慶応(1854〜1868)にかけて4200校が開設され、全国には15000以上あったといわれる。それによって、おおよそ日本全国の男子の4割、女子の一1割が教育を受けており、江戸の男子だけをとれば、就学率は85パーセントをこえていたという推計がある。寺子屋で学ぶのは、いわゆる読み書きソロバンであったが、文盲率の低さは国際的に見てもヨーロッパに遜色のないレベルであったのである。

 しかし、明治政府は富国強兵の国造りのために、西洋の実学(暦の算出から蒸気機関船までの物理・化学)を最優先させ、それこそ伝統的な教育を一切無視して東京大学帝国大学へと教育制度を集約していったのである。そして、この東京大学において明治5年に初めて仏教が講じられたが、その講じられたものが禅宗において宗門第一の書「碧巌録」であり、またそれを講じた人物が高橋好雪という在家居士であった。そのため臨済の大本山妙心寺は、好雪の師匠願翁禅師に対して「碧巌臨済の二録は僧侶であっても、師家(行学の伝承者)の分際でなければ、講ずることを許さず。ましてや在俗の分際でこれを講ずるのは以ての外」と断罪したため大問題となったという。

 先のように、本来仏教の学問所は檀林と呼ばれ、その僧院の中では行学兼備の修養生活が営まれ、出家者が伝承ごととして伝えてきたものが仏教の学び方であった。しかし、学問の西洋化によって、その檀林のあり方が壊されて、仏教が観念的な思惟によって哲学的に講じられて行くことになる。その端緒が東京大学なのである。

 このような教育制度の転換によって、寺院社会に直接影響が出るのは、先のように明治5年に始まる神仏併合大教院からであるが、とくに影響が大きかったのは明治8年に各宗に大教院という教育システムの設置が義務づけられてからである。神仏併合大教院は仏教弾圧の先鋒であったため、その施策は仏教法話を禁止するなどあまりに早急なために破綻し、各宗派独自の大教院制度へと政策の転換が図られたのである

 とくに日蓮宗関連でその過程を概略すれば、さきのように明治5年の一宗一管長制によって、日蓮宗は一致派と勝劣派を分けることなく統括された。しかし、その2年後の明治7年には、法華宗各派ごとに官長を置くことが公認され、日蓮宗一致派では、明治政府に覚えのよかった新居日薩師が初代管長となり単称「日蓮宗」が成立する。それまで一致派を構成していた44の各門流は独自運営していたが、この時に身延山久遠寺を総本山として5大本山を中心とする行政的施策によって統括された。これが世に言う「5山盟約」で、身延山久遠寺、池上本門寺、京都妙顕寺、京都本圀寺、中山法華経寺の間で、5山をもって大本山に定め、互いに分立する5山始め44箇本山の運営状況が身延中心の共同体制(単称「日蓮宗」)へと統括されたのである。

 しかし、残念なことに、その時にさきの神仏併合大教院が各宗派独自の大教院制度へと転換されたことを機に、日蓮宗はそれまでの伝統的な学問所であった檀林を全廃してしまい、日蓮宗大教院という教育組織を新たに発足させる。これが日蓮宗大檀林へとつながり、立正大学へとつながる大学制度である。

 もともと日蓮門下の法器養成の場は、天正元年(1573)に飯高檀林の前身である飯塚談所が開設されたことに始まり、以降次第に増え関東に飯高檀林、中村檀林をはじめ8檀林、関西に6檀林を数えるにいたったが、大教院制度以降、これらの檀林は全廃されたばかりではなく、私設檀林とまで蔑称されている。

 この日蓮宗大檀林時代の初代学長は小林日董師で、この時代に特記できる学者として最も有名なのは小林一郎師である。法華経講話の記録が『法華経大講座』13巻として平凡社から出版されている。しかし、この小林一郎師もさきの『碧巌録』の場合と同様に、在家の信仰者で明治37年4月に日蓮宗大学林が設立されるにあたり、東大から倫理学の教授として招請された人物である。この小林一郎師の経歴は、東京帝国大学を首席で卒業し、金時計を受賞した俊秀で、同期生で銀時計を受賞したのが、後に東京帝国大学に宗教学科を創設した姉崎正治師である。さらに小林師の専門は西欧哲学でヘーゲルを専攻し、専門書はもちろんのこと、ゲーテ、シェークスピア、トルストイの作品を原書で読むほどの秀才であったという。その人物が『法華経大講座』によって法華経を解説している事実は、本山と末寺の関係によって、いわゆる僧院生活によって伝承されてきた仏教が、ドイツ観念論によって哲学的な仏教、学問的な仏教へと変質してゆく端緒を開いたことを意味する。

ちなみに、論理学とはロジック(Logic)の訳語で、どのような推論が正しいかを体系的に概観する学問である。

そもそもロジックという言葉は、キリスト教の「神の言葉」であるロゴス(Logos)にその語源があり、聖書(神の言葉)を理性的にどのように理解し論証するかの学問である。ところが、仏教など日蓮聖人の宗教は伝承ごとの文化で、それはまさに感性の文化であり、論理学によって理性的に理解し解釈された瞬間に、それらはすべて観念化されて身体性を失うという運命を背負うことになる。日蓮聖人の教えを知識的に理解していても、それが実践できるか否かは、その人の宗教的な情操の問題ということになる。これが学問と宗教ごとの相違である。

 現代では仏教の学問的な理解が先行して、仏教学ばかりではなく、各宗門の宗旨の学問、日蓮宗でいえば日蓮教学を学ばなければ仏教は分からない、と多くの識者が力説する。しかし、実際に日蓮聖人のご遺文の全体が自由に誰でも学べるようになったのは、明治37年(1904)になって加藤文雅発願・稲田海素委嘱の開宗六650年記念『日蓮聖人御遺文』(別名、縮冊遺文・縮遺・霊良閣版)発行されてからである。このような経緯からみれば、仏教の伝統的な学問所の檀林が廃止された段階から、いわゆる僧院生活によって伝承されてきた仏教が、寺院社会の解体することで僧侶の在家化が始まり、ついには仏教文化の断絶が生じたといえる。

 このように伝統教団では各宗派が独自に運営する大教院制度の発足によって、かつて日蓮宗は立正大学(日蓮宗大檀林)、曹洞宗は駒沢大学(曹洞宗大学林)、臨済宗は花園大学(般若林)、浄土宗は大正大学(浄土宗・宗教大学)、真言宗は種智院大学(真言宗総合京都大学)などの宗門大学を運営し、檀林廃止後の文化の断絶を埋め合わす形で、各伝統教団の宗祖方の信仰に対する学問化が進んできたと言える。そこでは僧院生活によって伝承されてきた仏教者の宗教的情操の獲得は置き去りにされ、僧侶としての然したる修道生活も経ずして、宗門大学で学問的に仏教学や宗祖の教学を学ぶだけで僧侶になれる、出家者になれるという感覚になっている。これこそが寺院社会の解体、仏教文化の断絶を意味しているのではあるまいか。

 

 

6 伝統教団における伝統について

 

 

  現代では一般人ばかりではなく宗教の専門家である僧侶までもが、現代の伝統仏教は仏教公伝の欽明天皇7年(538)より数えて1500年に及ぶ宗教的な伝統を継承しながら、脈々と現代に繋がっているという感覚を持っている。

 確かに1500年に及ぶ仏教文化は、古文書や伽藍堂としておよそ物的な文化としては伝承している。しかし、その中身であるはずの精神文化は、宗教的な「おこない」である身体技法(修行などの体験)によって伝承されてきたために、文化としてはすでに断絶してしていると言わざるを得ない状態なのである。

 現代の仏教教団のそのほとんどが、たとえ伝統教団と称していても、それは入れ物としての宗団組織であって、明治時代に崩壊がはじまり昭和20年の敗戦と共に終焉を迎え、昭和二27年に新宗教法人法の下に登記され、行政的に再編成された宗団組織である。まさに伝統教団とは名ばかりの宗団で、その歴史はわずか60年に満たない、とも言えるのである。

 ここでは現代の伝統教団の驚きの現状、江戸時代までの仏教文化が完全に断絶していることに触れてみたい。明治時代に仏教の伝統的な学問所であった檀林が廃止された段階から、寺院社会における僧院生活の解体によって僧侶の在家化が始まり、仏教文化の断絶が生じた。しかし、それでも寺院社会は一宗一管長制によって行政的に統括され、宗派名を名乗らされていた。日蓮門下でいえば、先のように44の門流が五5山盟約で統合されていただけで、それぞれの門流の独自性(本山と末寺の循環関係)は辛うじて維持されていた。簡単に言えば、現在は本山クラスの優等寺院が父子相続されても誰も疑問を抱かなくなっているが、戦前(昭和15年の本末解消以前)であれば檀家の少ない末寺でさえ、勝手に親子の間で相続を決めることすら出来なかったのである。それは歴史的な伝統を継承してきた本山の振る舞いとして、本山に許されていた権威であった。

 現代のように寺院の父子相続が可能になったのは、とくに日蓮門下でいえば戦時下の昭和15年4月1日(1940)に施行された宗教団体法の宗教弾圧によって、そういう事態に追い込まれたからである。もともと宗教を統制し、天皇制政府の国策に奉仕させるという国政のあり方は、明治新政府の発足以来の基本的な宗教政策であったが、時代は昭和を迎えると日本ファシズム最大の事件である昭和11年の二・二六事件を境に、大日本帝国軍部の政治的制覇は確立し、日本国は日中戦争をかわきりとして、太平洋戦争へと突入して行った。そして、戦時国家総動員体制(昭和13年の国家総動員法公布)の最中で、この宗教団体法によって「宗教の宣布は即ちこれ皇道(天皇制国家神道)の宣布」というように、日本の諸宗教は強制的に「天皇制国家神道」に従属させられたのである。

 また、翌16年2月8日(1941)にはこの団体法を追って、日本史上に悪名の高い治安維持改正法が国会で可決され、この恐るべき弾圧法規によって、さきの「天皇制国家神道」を笠に着た宗教弾圧が思いのままに進められるようになった。この時代に国家権力は右手には宗教団体法、左手には治安維持法の剣をたずさえることで、宗教弾圧の体制は完璧になったのである。この宗教弾圧の具体的な事実にふれると、昭和15年4月にこの宗教団体法が公布されると、これまで公認されていた宗教団体、とくに先の一宗一官長制で統括された伝統教団の7宗は、これまでの宗制を「天皇制国家神道」に従属するように改定し、新たに承認を受ける必要に迫られたのである。すでに仏教諸派の教義や聖典に対する政府の干渉は昭和6年頃から始まっており、天皇たちを「僅かの小島の主」と呼び、崇俊天皇を「腹悪しき王」とする日蓮遺文は、ことさら問題が多かった。日蓮門下の法華宗では、これらの不敬の文言を削除せよという厳命を受けながら、これを拒んだために昭和十16年には当局によって幹部の一斉検挙に遭遇したほどであった。

 このような弾圧を背景に各宗派は、宗制や宗旨を変節させるなどして生き残りを図った。日蓮宗にあっては、昭和16年に宗旨を変節するために日蓮遺文の問題箇所を削除したばかりか、行政的な宗門運営において本山と末寺(本末)関係まで公的に解消してしまったのである。これがなにを意味するかといえば、この解消によってそれまで本山に許されていた由緒や故事来歴、とくにそれまで本山が由緒や故事来歴によって行ってきた、僧侶の養成に始まり、僧階の授与や法類住職の任免権などが、宗制枠に組み入れられて、行政機関としての宗門がそれを執行するようになったことである。

 この時点から宗務行政(機関)が宗務役職の任免権を握ったのである。本山と末寺の関係によって維持され僧院仏教としての伝承ごとに支えられた日蓮教団から、行政的な枠組みによる日蓮宗団となってしまったのである。そして、これによって生じたもっとも大きな痛手は、この本末解消によって、それまで本山と末寺の関係で営まれていた経済基盤が崩壊したことである。本山によっては、その固定資産からの収益や、わずかな檀信徒の護持力では維持経営に困難を来たした。加えて宗教法人法の施行によって、本山の寺有地は各末寺の所有地として、「平等の法人格」ものとに分割され、各寺院の檀家と共に独立形体を整えていった。独立形体といえば聞こえがよいが、寺院住職による寺院の占有化が起こったということである。

 この本末解消によって、経済的に立ち行かなくなり疲弊した本山は多いが、末寺は「平等の法人格」によって所有地を増やし、また課金という形で本山に上納することがなくなったため、多数の檀家を抱える優等寺院は経済的に潤うことになった。この本末解消が公的に行われたことで、僧院生活によって伝承されてきた寺院社会の解体が進み、僧侶の在家化、さらに仏教文化の断絶が決定的になったといえる。

 戦後の伝統教団の成り立ちに触れておけば、昭和20年8月15日(1945)のポツダム宣言受諾と共に終戦を迎え、天皇制を維持するために制定された悪名高き宗教団体法(昭和15年)も廃止され、これに代わって同年12月8日に宗教法人令(ポツダム勅令)が公布された。これによって政治的、社会的および宗教的な自由が保障されることになった。しかし、戦後の混乱期にこの自由法令が施行されたために、宗教法人乱立の傾向と、宗教団体本来の目的がはき違えられるなど、宗教の尊厳を穢し、宗教法人として社会の信頼に悪影響を及ぼす結果になったこのため、昭和26年4月3日(1951)に新たに宗教法人法が公布され、宗教法人令は廃止された。これが現行の宗教法人法である。現在、仏教教団の各寺院はこの宗教法人法によって登記された宗教法人である。

 日蓮宗関連では、昭和26年の宗本一体の体制から同29年の民主的な宗制への改正を通じながら、いち早く包括法人としての宗教法人日蓮宗を組織した。そして、各都道府県に登記された日蓮門下の寺院を日蓮宗として包括し、全国の管轄区域(管区)に宗務所を設置し、その管区内(管内)の寺院・教会・結社の統轄を図った。そして、この変化によって、それまでの本山と末寺という由緒や故事来歴による寺院運営から、日蓮宗宗制(日蓮宗宗憲・日蓮宗規則・日蓮宗規程)に基づく法人運営へと大きく転換したのである。

 ちなみに、現在の寺院運営の実際をかいま見れば、日蓮宗では住職は宗教法人の代表責任役員で、法人から給与所得をいただくサラリーマンである。まさに寺院は会社運営となっている。

 これが「伝統教団と称していても、それは入れ物としての宗団組織であって、昭和27年に登記された宗教法人として行政的に再編成された宗団組織である」といった全貌である。伝統教団の寺院は宗教法人として登記されている寺院であり、その歴史はわずか60年に満たないのである。

 

7 明治時代以前に僧侶や寺院は何をしていたか

 こう見てくると、明治以前の僧侶や寺院がどういう宗教活動をしていたかに興味がわく。さきに寺院社会が果たしていた「戸籍(寺請)・学校(寺子屋)・法要」の3つの機能を挙げたが、明治政府によって「戸籍と学校」はすでに取りあげられ、唯一、僧侶に残された「法要」の機能が葬儀法要だと思いたいとろこだが、じつはこの「法要」には一般庶民の切なる思いが含まれていたのである。

 どのような思いが含まれているかと言えば、この人生航路において生死の大海をどう渡るかという仏教本来の面目である。現代の仏教ではこの宗教的な機能面がすっぽりと抜け落ちてしまっている。その理由はこれまでのように明治政府の法改正で、寺社における医薬の販売(施薬)、医療行為(施療)を禁じるために、明治7年6月に「医療・服薬を妨害する禁厭(まじない)・祈祷(おはらい)の取締」を実施したことである。明治政府は維新直後の廃仏毀釈に加えて、幕藩体制を支えた仏教文化と一緒に、仏教寺院との関係が深かった養生医療(和漢方など)も払拭するため、治療医学としての西洋医学を導入採用した経緯が見えてくる。

 明治政府の西洋医学の導入については、幕藩体制払拭ということばかりではなく、日本は幕末に開国したため、諸外国との交流による疫病などの蔓延に対して、養生医療だけでは対処仕切れない事実も片方にあった。とくに安政5年(1858年)、日米修好通商条約が結ばれた年に、江戸市中ではコレラが大流行し10万人とも26万人とも死者が出たという。これは通商条約のために入港中の米軍艦のペリー艦隊の4船のうちの一船、ミシシッピ号の乗務員にコレラの患者がいたため、長崎市中でコレラが発生し、さらにそのおよそ2ヶ月後の8月には江戸でコレラが大流行したために、これによって日本の開国が急がれたという。余談だが大正時代に世界的に大流行したスペイン風邪(インフルエンザ)では、当時の日本人口5500万人に対して三39万人が死亡したという。 ところで、それまでの一般庶民はといえば、往々病気になれば漢方医を受診して漢方薬などを施薬されていたように思いがちであるが、じつは病気になれば寺社へと詣でては、養生医療を受診し護符をもらい、加持祈祷をして病気の回復を祈願するのが現状だった。このような江戸時代の宗教事情を物語る事例として、仁王門に安置されている仁王像の胎内から闘病平癒の祈願札が、場合によっては万枚単位で発見されることが多々ある。それが加持祈祷を専門とする祈願寺であれば話しは別だが、ごく一般の寺院でも発見されているほどである。

 ところが、このような寺社における施薬や施療など養生医療の行為が、さきの幕藩体制と同様に敵対文化として弾圧され、さらに西洋医学者によって「陰陽五行説に基づいた疾病観や祈祷は迷信で愚者の行為である」と退けられながら、一方的に西洋の治療医学へと塗り替えられてしまった経緯がある。

 日蓮宗関連ではどうであったか、日蓮門下に流布していた祈祷修法(病気平癒の加持祈祷と護符などの施薬を行う作法のこと)の歴史から眺めてみよう。まず江戸初期には積善房の身延流(山梨県南巨摩郡)と遠壽院・智泉院の中山流(千葉県市川市)の二大門流を形成していたが、これらの内で積善房と智泉院の門流は、幕末から明治時代にかけて吹き荒れた廃仏毀釈によって廃絶されている。この廃絶の決め手になるのが、さきの明治7年の取締である。 その吹き荒れた嵐の中にあって、辛うじて法灯を存続できたのは中山門流の遠壽院流のみであった。その理由は当時、遠壽院荒行堂(加行所)の住職伝師であった朝田日光師が、遠壽院流の祈祷相伝である毒消しの護符(秘妙符と呼ばれたマジナイの符である)を服用して「毒薬を飲んでも死にいたらなかった」からだという。何とも無謀な話だが、これによって千葉県知事の医薬品扱い許可の鑑札を賜り廃絶にいたらなかったと伝わっている。荒唐無稽のような話であるが、毒薬を飲んだ話の真贋は別にして、その当時は医薬品扱い許可の鑑札がなければ、寺社などの施薬や施療といった医療行為が厳重に禁止されていたということである。

ところで、このような養生医療の中で、僧侶や寺院が担ってきた癒しの実際はどのようなものだったのか。とくに明治7年の取締が実施された以降、日蓮門下の祈祷相伝を一手に担うことになる正中山遠壽院が明治3年6月に発した「祈祷改正規則之掟」には、面白い文言が見え隠れしている。

この改正規則によれば、そこには明治維新後に寺社で行われていた施薬や施療などの医療行為をどう扱うべきか、苦渋の選択を迫られていることが分かる。規則の文言は、まず祈祷相承の権威性については伝師(相伝の師)に対する制誡厳重を誓わせながら、業病や狂気というから現代でいえば原因不明の難病や精神病などに対する病気平癒の加持祈祷を依頼された場合には、「遠壽院住職伝師の指示を仰ぎ勝手に執行してはならない」という注意がみえる。

しかし、実際には勝手に加持祈祷が行われたようで、この改正規則には別記が追加されている。加持祈祷の修練で遠壽院行堂へと入行を志す者は「総じて一ヶ寺の住職であること、また権中講義以上の僧階で、僧侶になってから(法臈)20年以上経ている者にかぎり試験の上」と入行者の規定が厳しく改められている。

さらにこの改正規則には「止観病患境にに則り怠慢なく修学し、苦修練行によって色心清浄にすべきこと」という興味深い一項が挙げられている。そして、その「止観病患境依修学無怠慢」には、わざわざ朱墨の傍線がうたれている。これによって何がわかるかといえば、遠壽院加行所における100日間の苦修練行が「止観病患境」に則って行われていたという事実である。

一般的に加行所(加行[prayoga]とは、ある一定期間の修行こと、ここでは修行道場をいう)で切磋琢磨される修行のようすは祈祷相承などの相伝ごとであり、門外不出で世間の目にふれることはまずない。そこで「止観病患境により修学し」とあるから興味深いのである。まずこの「止観病患境」が何かといえば、文献的には中国6世紀に天台大師智顗によって撰述された『摩訶止観』という修行の指南書、その第7章「修正止観」第三節「観病患境」のことで、とくにその時代の養生医療である和漢方とも密接に関わるものである。加行所ではこのような養生医療の病因論に従いながら苦修練行が実施され、加持祈祷などの癒しの実際が相伝されていたということは大変に興味深い事実である。これによって葬式仏教以前の僧侶や寺院が果たしていた役割として、その時代の養生医療の一翼を担っていたことが見えてくるからである。現代の仏教教団における布教教化を考える上で、養生医療の実際がどの様なものであったかを理解する必要がある。

 紙面の都合で概略に止めるが、この「止観病患境」には益軒の『養生訓』のように自然に身をまかせ、無理の少ない小欲知足の生き方が示されている。これは修行法によって「こころ」を和やかに保ち、病気になりにくい自分、また病気の治りやすい自分のあり方をつくるなど、メンタル・ケアに重きをおく養生医療そのものが示されている。じつは養生医療はメンタル・ケアそのものであり、現代の心理療法に通じるものなのである。このような仏教のあり方が僧院生活によって伝承されてきた仏教であり、明治政府の仏教弾圧によって崩壊する以前の仏教文化のあり方であったと考えられる。

 

8 養生医療を禁じた「医療・服薬を妨害する禁厭・祈祷の取締」の弊害について

 このような養生のあり方が僧院生活によって伝承されてきた仏教であり、加行所における加持祈祷などの癒しを支えてきた修行法の実際である。それは一般庶民が生死の現実を生き抜くためのシステムとして、信仰と医療とは共に支えあいながら機能していたのでる。そこでは「医者が捨てたら坊主が拾う」という言葉すら生きていたのである。たとえ医療としては不治の病であったとしても、僧侶たちが病者を宗教的な感性で支える全人的な医療が行われていたのである。現代人からみれば信仰と医療がいっしょくたになっているので、何とも迷信的な感じがするのは否めないが、実際にはこれこそが宗教的な癒し、全人的な医療である。

 たとえば、天平2年(703)の光明皇后が創設したといわれる施薬院は、いったん中世になってに衰亡したが、豊臣秀吉が再興し、それを江戸幕府が受けつぐ形で明治まで続いた。とくに徳川吉宗の時代になると、江戸庶民に馴染みのある養生所と呼ばれる無料の公的な医療機関が町内につくられるようになる。また施薬院や養生所のように医療を目的とする施設ばかりではなく、ごく当たり前の寺社でも病気平癒の加持祈祷は行われており、祈祷と共に護符やお札守りの服用(身につけること)が勧められていたのである。そこでは貧しい人びとへの施薬や施療など養生医療がおこなわれ、現代でいえば終末医療まで視座にいれた医療と介護が行われていたのである。

 江戸時代の庶民と医療の現状はといえば、江戸の町数は1600余、町人50万人強というからまさに大都市であるが、医師は町人4、5〇〇人あたりに1人というから悪くはない。しかし、実状は経済的に医師の診療を受けられる庶民は極めて限られていた。

 とくに一般庶民にあっては医療を受診するどころではなく、食事の事情もきわめて悪かった。たとえ大店の奉公人であっても、食事は日に2度の1汁1菜の食事があたりまえで、それに月に一度でもメザシなどの魚類がつけば上々だったのである。そのため庶民は慢性的な栄養失調で羅病率もかなり高く、奉公人が一度でも病気になれば納戸部屋へ追いやられ、さらに病床が長期になれば食事すらままならず、そのまま放置されて死を待つことになる。たとえ実家へと帰されたとしても、口減らしのために奉公にでた者の居場所はなく、やはり医療すら受けられぬまま死を待つだけであったという。現代と比較すれば江戸庶民は想像を絶する四苦八苦を道を歩んでいたのである。

 時代は幕末から明治へと移ったといっても、庶民の諸事情は突如として改善されるわけはなかった。明治政府はこのような世情の中で、寺社で行われていた医療や加持祈祷は幕藩体制を支えた敵対文化として、一方的に西洋の治療医学へと塗り替えていったのである。さきの「医療・服薬を妨害する禁厭・祈祷の取締」が実施され、庶民の癒しを引き受けていた寺社の施薬・施療が禁止されたばかりではなく、そこでは和漢方を始め針・灸・按摩にいたるまで養生医療のすべてが禁止されてしまった。

 この明治政府が採用した西洋の治療医学は、科学の知に基づく医師の資格をもつ専門家の治療集団によって実施され、病気の治療のみを目的とするように組織されていたのである。そこではそれまでの多元的な養生医療は否定され、医療の現場から寺社における加持祈祷や護符などによる養生医療の癒しは迷信として排斥されたのである。これが何を意味するかといえば、そこでは不治の病に冒された弱者を癒す手立てが失われ、医療の視座が不治の病人から治療可能な生者へと移ったということである。

 このように養生医療では共有されていた信仰と医療が明確に分離されたことで、日本人はこの時点からきわめて徐々にではあるが、宗教的な感性を喪失する運命を背負うことになった。さきに現代人にとって信仰という「おこない」のイメージは、困ったときの神頼みというような、何かにすがりつく感じで神さまや仏さまを拝んでいれば、ご神仏の特別なお力によって経済的、健康的に幸せになれる感覚だといったが、これはこの運命のことをいったのである。140年の歳月をかけて日本人の心象は、現在のような現世利益的な信仰へと変節して来たのである。

 医療が西洋の治療医学へと塗りかえられることで、それまでの日本人が営んでいた生老病死のはざまで生きる庶民の現実を支えてきた寺社の癒しが失われたことで、信仰の世界から「生老と死のサイクル」をつなぐ「病」が突如としてもぎ取られてしまった。そこでは、生も死もすべて観念化された。なぜなら、本源的に生老病死という四苦の現実は、生老を生きる過程と死の結果とが、「病苦」によってつながっているからである。

 この事実は、現代の医療現場が如実に物語っている。たとえば、私たちは日常の家庭生活は、当たり前のように家族そろって「生老」のふるまいのままに暮らしている。そして、もしその家族の中で誰かが重篤な病にたおれれば、それはそのまま病院へと運ばれて家庭の中から「病」は隔離されて見えなくなる。そこで、もしその病が不治であれば、そのまま病院で死を迎えることになる。実際に現代人はその90パーセントあまりが病院で死を迎えている。(このように書くと10パーセントは家で看取られると思うが、実際には事故などで病院へも辿り着かない人が殆どである)。さらに病院で臨終を看取られた病人は骸(むくろ)となってはじめて家族のもとへと帰るが、それは家族にとっては「病」の結果であって、とくに子供たちは家庭生活の中で病苦の現実をかいま見ることなく、観念的な病苦を通じて「死」と遭遇するだけであり、病苦に続く死苦の実際については何にも伝わらなくなっているのである。

 このように寺社における宗教的な「おこない」と医療が明確に分離されたことで、日本人はそれまで営んできた生老病死の四苦のサイクルが断ち切られ、突如として宗教的な感性を喪失してしまったのである。そのために、現代の多くの宗教が「ご利益信心」を目玉にして勧誘し、その口上を聞けば、曰く「あのお経より、この『法華経』に功徳があるから」という具合で観念的になってしまい、それこそ「ねえねえ?、あの人なにか信心しているんですって!」という具合に、その信仰のあり方に違和感を抱いていても、その気分が何に由来するのか気づかず、何とも宗教的なことが釈然としないのである。現代人のご利益信心の極みは、宗教的な詐欺によって一目瞭然である。宗教的な行為によって「不治の病が完治する」、「経済的に恵まれる」というふれ込みを妄信し、手遅れになって死期を早め、さては経済的に破綻するなど、自身の妄信を省みることなく告訴に踏み切る事例は、常に新聞紙面を賑わせていることなどは、すでに周知のことである。

 さきの「医療・服薬を妨害する禁厭・祈祷の取締」によって、庶民の癒しを引き受けていた寺社の加持祈祷、お札や護符の服用から養生医療までもが禁止され、生老病死の四苦から病苦が排除されたために、日本人は医療制度の中で病気が治っても、人は死ぬという現実が見えなくなってしまったのである。

 ところで、西洋の治療医学が病気の治療のみを目的とすると言ってしまったが、それは明治政府が敵対文化であった幕藩体制を崩壊させるために行った施策であって、治療医学そのもの問題ではない。事実、キリスト教文化圏の病院には、チャプレンと呼ばれる牧師が常駐しており、患者の要請に応じて、病気平癒の祈祷などをしている。とくにイギリスでは信仰治療などを含む代替医療や、司祭や牧師のヒーラーによる病気平癒の祈りにも保健が利用できるようになっているという。この辺りのことは、日本ではかなり遅れているのである。

 

◇おわりに

 このように仏教文化の断絶が明らかなると、現代の仏教界が世間から葬式仏教と揶揄されていても、ご本人たちはどこ吹く風とばかりに意に介さない理由が見えてくる。それは戦後間ない昭和22年に農地解放が行われたため、明治時代の上地令で残ったわずかばかりの農地をも失ったために、習俗として執行される葬儀法要による施収入(お布施のこと)に頼らざるを得なかったと言うことである。

 世間から見えれば、習俗の葬儀はどの宗派でも僧侶がねんごろに供養してくだされば、亡くなられた方、残された方の宗教的なケアはそこで完了する。しかし、そこで戒名料や、葬儀料などお布施の問題が絡んでくると、とくに少子高齢化社会を迎えた現代では、また社会構造の変化によって経済格差が進んだ社会では、それが宗教者の「おこない」なのかと、はっきりとは声にならない声が聞こえてくる。

 世間の方々が抱くこの種の違和感について、それは著名な高僧がどのように弁明しても分が悪く、その風評は檀家制度の上にあぐらをかき、葬儀費用が高い、高額のお布施を度々要求される、説教・法話ができない等云々と、はたまた釈迦・宗祖・開祖方は命がけで仏法の真理を弘められたのはいったい何だったのか?、宗祖・開祖の名をかたり自らの生活の安定を図るための手段であってよいのだろうか等々、それはもう挙げはじめたら切りがない。

 仏教は釈尊の時代から現在にいたるまで、またインドでも中国でも日本でも、全て生きている人のために教えが説かれ、死を目前にした人に経典を読む「臨終勤行」の作法はあるとしても、死者のために読むお経などは存在しない。追善供養も「相手を敬い尊敬する行為」に転じていくための手段だったのである。

 たしかに仏教教団は葬儀と無関係でなかったが、ただそれは単に「死者の冥福を祈るだけの葬儀」というわけではなかった。日常的には自分と無縁であると思っていた死が、身近に起こったために、人は「死という厳然たる事実」をしっかりと見つめることになる。そこで仏教のメインテーマである「生老病死」の四苦や八苦(四苦に求不得苦・会別離苦・怨憎会苦・五陰成苦)の事実が、ようやく自分自身に意識化されて恐れおののくことになる。

 この現実苦から目を背けずに、克服すべき道を切り開き、死を受け入れたとき、死を抱えて生きることが出来るようになる。こうした生き方に気づく絶好のチャンスとして葬儀が執り行われるわけであり、じつに葬式法要も生きている人々のための儀式ということである。このような仏教のあり方を知ってか知らないが、現代仏教を葬式仏教といってはばからない僧侶は多い。さきに挙げたが現代のように僧侶が葬儀を積極的に行うようになったのは、わずか140年ほど前(実質的には80年ほど)のことである。一般の家庭では過去帳を遡っても、せいぜい明治初めの戒名が見つかる程度で、それ以上遡っても戒名はほとんど見あたらない。まさに仏式に則り戒名をつけて執りおこなわれる葬儀が一般化したのがその頃だからである。地域的に古い先祖代々の戒名が確認される場合もあるが、それらの多くは追贈(ついぞう)という形で、子孫が先祖代々の戒名を追加していったものである。

 しかし、戒名が見あたらないといっても、ご先祖さまがないというのではなく、ただその当時と葬儀のあり方が違うだけである。それ以前はどのような葬儀が執りおこなわれていたかといえば、まさに楢山節考にみた世界そのものである。死体は「人捨て場」に放置され、化野といって限りなく風葬・鳥葬に近い土葬であったという。江戸時代の農民町民、武家階級でも下級武士たちは、まさにはかなし墓なしで、地方では村外れの埋葬塚に、町中では寺院の無縁塚などに化野され、そこで塔婆の一本でも立て僧侶の読経でも供養されれば大変丁寧な葬儀だった。お分かりのように、明治維新後の施策によって、戸籍法や埋葬法、さらには民法の家督相続法などによって、仏教文化が変節させられたと言うことである。要は現代人が思うほどその時代の庶民も僧侶も葬儀法要を際だつ「おこない」として受け止めていなかった。さきのように日本人の心象は、死という忌むものは秘めたるものとして、葬送儀礼は夜にひっそりと行わるものと心得ていたのである。

 このように一つの宗教的な事象を取りあげても、私たちには知らないことが多すぎる。現代の仏教を理解するためには、この仏教がどのように変化しながら現代へと受け継がれてきたかを理解する必要がある。まさにこの明治時代の歴史年表は、現代の私たちに明治以前の寺院仏教や僧侶の姿を伝えている。そこには現代の仏教が躓いている布教教化の問題など、その理由がハッキリと見えているように思う。現代教化を志すならば、これらの理由を念頭におきながら調査研究を行って欲しいと老婆心ながら希求する次第である。

 

 


 

 

〈明治維新前後の法令発布とその波紋を時系列で並べた年表〉

 (この年表は江戸・東京に限らず、重要事項は全国的な範囲で採録してある。なお明治5年12月2日までの月日は太陰暦で示してある。

 

慶応4年(1868)

3月13日 祭政一致並びに神祇官再興を布告(太政官) 

3月14日 五箇条の誓文(明治天皇が宣布した明治新政府の五箇条の基本政策)       

内裏の仏事諸式を廃する      

神祇事務局を置く      

神仏判然の令 神仏混淆を禁ずる 

3月17日 新政府、神社の社僧・別当に還俗を命ずる。 

3月28日  新政府、神仏分離令発布する(神社が仏語を神号とすること、仏像を神体とすることの禁止)

 神仏分離令は廃仏段釈ではないが、神仏判然(神仏を明瞭に分けること)が仏教排撃と受取られ、全国各地の神社の仏教関係の物件が破壊除去され、地域ごとの仏教寺院を宗派ごとに合寺させられた。この神仏判然令以後排仏棄釈の運動が起こる。
 政府の神祇官事務局の指導者は敬神排仏=排仏棄釈の方針で伊勢神道を頂点とする神道国教化政策を取る。また政府は神社内部から仏教的要素を除去するため神仏分離を命じた。やがて朱印地(江戸幕府が寺社に与えた土地)・黒印地(大名が寺社に寄進した土地)は上地(官有地化)され、律令制度における神祇官制に基づく社格制度が設けられるようになる
5月10日 幕末以来の国事殉難者と戊辰の役の殉難者の霊を京都東山に祭配するように布告
6月29日 太政官によって招魂祭執行される。
12月 徳川幕府の終焉→門跡法親王の復称、内裏仏式の廃止 
※ 反仏教運動の展開が始まる。

 ・神社の神体であった仏像の排除

 ・神前に備えた仏具の廃止

 ・神式における僧侶の参加の禁止

   ・宮寺の破壊(神宮寺とは、神仏混淆の現れてとして神社に付属しておかれた寺院の神こと)

 

明治元年(1868)

9月8日 明治と改元される 
10月18日 日蓮宗諸本寺に三十番神等神祇称号混用禁止を布達、三十番神配嗣、蔓茶羅中への天照大神・八幡大神の勧請、経帷子への神号使用を太政官が禁止する
12月8日 仏教各宗、仏教護持と邪教排斥のため諸宗同徳会盟を結成する

 この年、天皇東幸(10月13日東京着)に当たり、神一祇官は御府内の神社十社を准勅祭神社に指定される。 

以下はそれぞれ改称例。

 

・山王権現=観理院城琳寺を日枝神社

・神田明神=神田山日輪寺を神田神社

・芝神明社=金剛院を芝大神宮

・赤坂氷川明神=聖護院派触頭大常院を氷川神社

・根津一権現=昌仙院を根津神社

・白山権現=護念山心光寺を白山下位

・亀戸天神社=天原山東安楽寺聖廟院を亀戸天満

・冨ヶ岡八幡宮=大栄山剛禅院永代寺を富岡八幡宮

・北品川牛頭天王=正徳寺を品川神社

・王子権現=禅一恥山金輪寺を王子神社

 

明治2年(1869)

 華族、士族、平民の族称が新設される

 6月29日  東京九段に明治維新達成のための犠牲者3588柱を招魂社として配った(後の靖国神社)

 7月8日  官制改正、神祇官・太政官の二官をおき、宣教使(祭政一致・惟神を徹底させるための役職)設置

 神祇官の独立、神祇官を太政官(国政統括の最高機関)の上に置き民部省に寺院寮を設け寺院項を管掌させる。

△以下は完全な廃仏を実施した神宮

・伊勢神宮領内

・鹿島神宮領内

・隠岐島領内

・鹿児島領内

△ その他の地方では領内の騒動として、また有力者の調停で中止となったが、地方官庁によって朝令は仏教を排斥と信じて廃仏を実行した。どのような廃仏が行われたのか。

・仏像仏画の焼き捨て

・寺院、堂塔の破壊

・僧尼還俗またはこれの虐使 

9月 集議院で氏子改(うじこあらため)規則を討議
11月 鹿児島藩領で排仏、寺院1066寺を廃止、僧侶2964人還俗
12月17日 白川・吉田両家奉斎の八神を神祇官仮神殿に迎え、鎮座祭・鎮魂祭を行う

 

明治3年(1870)

1月3日  大教宣布の詔勅(明治17年まで存続)。要旨は「治教を明らかにし惟神(かんながら)の大道を宣揚すべし」というものである

4月23日  政府、「宣教使心得書」を定め、皇道主義に基づく国民教化運動を開始し、教導隊を編成する 

7月7日 大谷光煢(こうけい)函館到着 

8月9日 民部省に社寺掛設置(10月20日に寺院寮と改称される)

8月  信州松本藩で排仏、領民を神道に改宗させる 

10月27日 富山藩で排仏、領内の寺院を一宗一寺とする

※ 明治3年に岩倉具視が朝廷会議で講じた「富国策」で教育について「国造りのために、まず必要なこととして、国民皆教育の理想をかかげ、そのための手段として、国家が中心になって初等教育(小学校)、中等教育(中学校)、高等教育(大学)の教育機関を全国にシステム的に設置すべきである(天下ニ中小学校ヲ設置シテ大学ニ隷属セシム可キ事、天下ニ不教ノ人民ナカラシムルニハ、府藩県各二三箇所ノ中学校ト数十百箇所ノ小学校ヲ設置セシム可キ事……)」と述べている。このような教育システムが大学中心(大学ニ隷属)ということは、この頃から東大中心のシステムが考えられていたことが分かる。

 

明治4年(1871)

1月5日  境内を除いて、寺社領を上知、かわって廩米(蔵米、くらまい)を支給することを決定、その事務の管轄を府県とする(太政官) 

1月5日 社寺領上地令出される(社寺領の国有地化)

 寺領に依存してきた寺院に経済的影響を与えたのは、明治4年1月と8年6月の二回にわたる上地令である。前者は落籍奉還と同じであり、後者は地租改正の一環であったが、寺院の上地は、寺院の経済的基盤に大打撃を与えた。

3月8日 三河菊間藩で浄土真宗徒3000人、護法一揆を起こす 

4月4月 戸籍法改正、宗門人別帳・寺請制度廃止される       

新戸籍法33則のうち第20則は「6ヵ年毎の戸籍改のとき、氏神の守り札も同時に検査すること」なる

※ 明治維新は幕藩体制を払拭し日本の近代社会を目指した。それがために戸籍法の制定が行われた。それまではその家代々の屋号の襲名が行われていて、個人の特定ができない、そのため皆が姓名を名乗る必要があった。村社会、家社会から個人の社会への変革が行われたといえる。

5月14日 神社はすべて国家の宗祀たるべきこととし、世襲神職を廃止する 

7月4日  大小神社氏子取調規則を定め、これより全国の氏子調査による氏子台帳を作成する 

8月8日 神祇官を神祇省とする(神祇官の格下げである) 

8月 朝廷、勅願所・勅修法会を廃し、宮中の仏像を泉涌寺(京都市東山区)に移し仏教色を一掃する

10月 葬儀埋葬法制定

 江戸時代後期には、埋葬の時にはほとんどが座棺であった。そして、この座棺の製作を一手に担っていたのが桶屋であった。この時代には葬送儀礼と業者の関係はこれくらいであった。さらに葬列は夜にひっそりと行われていたものであった。明治になると埋葬法が戸籍削除のため葬儀埋葬法が制定され、また翌年自葬を禁じ僧侶神官へと依頼するように布告される。現代宗教研究 第43号(2009.3)  290

  そうなると裕福な商人相の営む葬儀は大掛かりとなり、葬列は夜から昼間に、町中を練り歩くようになって、葬送に直接関係しないヒトまでも葬儀に関わるようになり、都市部では地縁共同体とは別に営利を目的とする葬祭業者があらわれるようになる。花車・位牌輿などこの時期にはじまったという。

10月3日 宗門人別帳(寺請制度)廃止

※ 明治5年の壬申戸籍では氏神・氏寺が形式的ながら並列されていたが、明治4年の戸籍法改正では共に抹殺されている。 

10月14日 六十六部を禁止

※  これは廻国巡礼の1つで、書写した法華経を全国66箇所に一部ずつ納める行脚僧を禁止したもの、もとは六部とも略称、はじめは巡礼だったが物乞いの一種と扱われた。

10月28日  普化(ふけ)宗を廃し、その僧を民籍に編入、虚無僧の特権破棄、尺八が一般人の楽器となる

 

○明治5年(1872)

※ この年は特記すべきことが重なる。尊皇思想は祭政一致の国是となり、一方神仏分離の令達は仏教軽視をもたらし、廃仏毀釈へと繋がり仏教は失意の中に落ちた。徳川時代には保護特権の内にあった仏教は、何らなすところがなかった無為無策でもあった。その結果、神官と僧侶の一団をも加えた教導職十四級と続いて大教院の設置となった。明治5年に始めて神儒仏併合の教師養成と人民の教化を行った。キリスト教信仰の解禁も行われた。また、僧侶は一家の相続者である嗣子と同様に兵役の義務を免除された。しかし、徴兵逃れで出家する者があったため、その後は兵役免除を解除され、僧侶も俗人と同様に兵役に服した。殺人行為までも強制されるようになった。

2月 ギリシャ正教会ニコライ、函館より上京して伝道開始

神祇省を教部省と改称、同時に宣教使も廃止 

3月14日 神祇官廃止、教部省を設置す

3月15日 教部省、神田明神の祭神(二ノ宮=将門)に異議を唱える 

一向宗の名称、真宗と改称される 

3月18日 元神祇省鎮座の天神地祇八神を宮中に遷座することを決定

3月27日 神社仏閣の地の女人禁制を廃止する

4月25日 僧侶に肉食・妻帯・蓄髪および法要以外での平服着用を太政官が許可する

※ 「自今僧侶の肉食妻帯は勝手たるべき事、但し法要の他は、人民一般の服を着用して苦しからず」と布告、これは国家が僧侶の破戒を禁じないだけで、敢えて奨励してはいない。

同25日 宣教師を廃し教部省管轄の教導職を設置し、神・儒・仏あげて教導職に任命する

※ 宣教使を廃し、神官とともに僧侶を教導職十四級に組み込み、三条教則による国民教化活動を推進し

11月には設立した大教院をによって、神社・寺院・説教所を小教院として三条教則に基づき教導することを命ずる。しかし仏教教義は説けず、仏教用語の使用は禁止された。

12月、真宗の島地黙雷は「大教院分離建白書」を提出、三条教則批判書を教部省に送り、分離運動を展開、明治8年1月に真宗各派の大教院離脱が認められた。同年5月大教院解散する。

4月28日  教部省、国民教化の基本大綱(教則三条=敬神愛国・天理人道・皇上奉載)を教導職に示す 

5月 教部省は仏教各派の要請により、大教院・中教院・小教院を設置       

神仏合併の大教の宣布と教導職講学のための合同組織(民間団体だが教部省の所管を設置) 

5月10日 各府県の教導職は一斉に神道の教説をはじめる 

6月 僧尼にも一般人と同様に服忌に服させた 

6月28日 太政官、自葬を禁止、必ず神宮・僧侶に依頼するように布告 

7月8日 香具師の名称廃止される 

7月13日 東京府、青山・渋谷に神葬地を定める

 青山霊園の起こり、11月28日に雑司ヶ谷・駒込にも設置  

 7月 教部省、大教宣布の中枢機関として神仏併合大教院設立(神仏合同の布教を統括) 

 7月 大教院を麹町元紀州侯邸に置く、中教院は各府県に一院ずつ設置 

 8月 神仏各宗合同の研究・教育機関として神仏合併大教院の設立の布告

 神祇省を廃して教務省を置いて仏教を監督し、宗教的統制から行政的な管理へと転換される。日蓮宗ではこれを機に、新井日薩が中心となり日蓮門下の諸檀林を全廃して、芝二本榎承教寺内に日蓮宗の僧侶養成のための宗教院(明治8年併合大教院が廃され各宗派別大教院ができると、大教院に転用される、立正大学へと連なる)を独自に創設し、自らも中等学助教として教鞭をとる。

△大教院設立前に

・教導職14級を置き

・各宗館長職を設け

・各宗各派一斉に自己の説法を止めて教憲を説くべきことを指示する

・大教院を中央に置き、各宗派寺院を小教院とする。善光寺その他由緒寺院を中教院とする。

・大教院教頭に相國寺荻野独園師 副教頭を本願寺大谷光尊師を任ぜられる。

 この法難打開のため、西本願寺は連枝梅上沢融、島地黙雷、赤松連城三師を渡欧、東本願寺は新法主大谷光宝、石川舜台等諸師を海外へと派遣し、諸外国の宗教情勢調査をする。

8月8日 太政官は神宮をすべて教導職に補し、9月には神祇省の事務を引き継いだ教部省を東西両部に分け、それぞれに管長を設置した。

東京府はいずれにも属さず、伊勢神宮で明治6年1月、東京府下に神宮教会・愛国講社を開き大教宣布に従事した。これは日比谷大神宮の原形である。

8月13日 各神社は小教院となる 8月27日 芝の金地院に神儒仏三学を開講(後に麹町紀尾井坂の旧紀伊徳川邸跡に移転) 

9月 僧侶に苗字を称ぜしめ、一般在家と同様にさせられた 

9月15日 修験宗を廃止し、天台・真言二宗に所属させる 

9月3日 一宗一管長の制とする

 日蓮宗・天台宗・真言宗・浄土宗・禅宗・時宗・真宗の七宗に、一宗一管長制を定める通達が出された。日蓮門下各派は一致派と勝劣派に分かれていたが、ここに日蓮宗と総称し、交代制の管長制度を定め、顕日琳が管長として就任した。日琳は本成寺派、現在の法華宗陣門流総本山越後本成寺住職であり、一宗一管長制における日蓮宗初代管長は勝劣派から出た。

10月25日 教部省を文部省に合併し、文部卿大木喬任、教部卿を兼務する 

11月9月 太陽暦採用し、明治5年12月3日を明治6年1月1日とする      

教部省はこの日に僧侶の托鉢を禁止(解禁は明治14年8月5日内務省布達) 

11月15日  神武天皇即位の年をもって紀元とし、即位日1月29日を祝日にすることを決定する 

11月 東京府、府下神社数並びに社格調べを実施する 

11月 設立された神仏併合大教院によって、神社・寺院・説教所を小教院として三条教則に基づき教導することを命ぜられ、それによって仏教教義は説けず、仏教用語の使用も禁止された12月 真宗の島地黙雷は「大教院分離建白書」を提出、三条教則批判書を教部省に送り、分離運動を展開

 この年、東京大学では高橋好雪が在俗の身でありながら、禅宗において宗門第一の書である「碧巌録」を講じたという。その時、臨済の大本山妙心寺は、好雪の師匠願翁禅師に対して「碧巌臨済の二録は僧侶であっても、師家の分上でなかれば、講ずることを許さない。ましてや在俗の分際でこれを講ずるのは以ての外」として禁じたという。本来の出家仏教が在家仏教化したということである。とくにこの時代に一宗一派に偏らない通仏教的なあり方を在俗が求めたということである。

 

明治6年(1874)

1月4日  人日(じんじつ)以下五節句の一つ(七種粥など)を廃止し、神武天皇即位日・天長節を祝日とする 1月15日  梓巫女(あずさみこ)、市子(神巫・巫子)、憑祈祷、狐下げなどを禁止する(迷信の禁止)      

東京府、神宮の民籍編入 

1月10日 僧侶の位階を廃止する 

1月22日 尼僧の蓄髪・肉食・婚姻・帰俗を自由とする 

1月 出雲大社敬神講(のち大社教)設立する 

2月5日 芝山内に大教院を設置する      

神仏の混交を廃止する 

2月6日 神仏併合大教院を増上寺内に移転する 

2月9日  教部省、国民教化の要項として「十一兼題」を制定し、「十七兼題」として再配布する 

2月10日 教部省、神宮・僧侶のほか、有志者が教導職となることを許す

※このため講釈師、芸人などで教導職になる者がでる

2月14日 神社氏子守札と産子町名を定める 

2月24日 キリスト教禁止令解除し当面は黙認する 

3月4日  越前の大野・今立・坂井郡で、ヤソ教反対を叫び、真宗農民3000人、護法一揆を起こすが月末に鎮静する

4月 増上寺、大殿の本尊阿弥陀如来像を台徳院霊屋に移し、代わりに皇祖大神を安置する 

5月29日 太政官、氏子調べの施行を中止する 

6月 大教院開院の公式法要を行う

 この時には皇祖天神まつる法要に僧衣は許されない、神仏判然は僧侶の神祭への禁止を意味した。この時、大教院教頭は相國寺荻野独園師 副教頭を本願寺大谷光尊師で、大教院の公職の教頭、副教頭は参加せざるを得ず。また官長・大教正も同様に神官の制服(烏帽子・下垂を着して、神饌・魚具・榊供を奉献する)が強要され、神饌供奉となる。

7月13日 山梨県、旧暦盆の廃止を勧告、新潟その他の県でも同様の指示する 

7月18日 太政官布告、火葬を禁止する(明治8年解禁)

火葬禁止の対象となった葬送施設。

・小塚原安楽院(天台)

・永安寺・西秀寺・教受坊・随円寺(真宗)

・称名寺・秀保院・恵日院(浄土)

・清光院(禅)

・浄光院(真言)

・宗源寺・高雲寺・乗蓮寺・宝林寺(日蓮)

・深川霊巌寺(浄土)

・治心寺(日蓮)

・砂村新田 阿弥陀堂(浄土)

・今里村 芝増上寺下屋敷(浄土)

・代々木狼谷火葬場

・上落合村 法界寺(日蓮)

・桐ケ谷村 霊源寺(浄土) 

7月29日 教部省、仏教各宗その他民間諸宗教間の転宗転派を許可する 

8月24日 「教会大意」を発行する(教導職関係記事あり) 

8月31日 修成講社(のち神道修正派)設立する 

9月18日 富士一山講社(のち扶桑教)設立する      

皇室の豊島岡墓地で葬儀行われる 

10月15日 伊藤六郎兵衛、登戸で丸山教(富士信仰系)を開教する 

10月23日 私有地の墓地の新設が禁止となる 

10月23日 大教院・中教院規則発布される 

2月17日 神田神社祠官本居豊岡穎穎、府知事宛に将門霊位を別殿に紀りたい旨願書する 

12月31日 大教院のある増上寺が放火で炎上する

※ 明治6年この年の日本在留の新宣教師はその妻を含めて56人であり、その後11年には宣教師は100人に達し、19年には教会数192・信徒数13000人、23年には教会数300、信徒数34000人に達したという。

 

明治7年(1875)

1月20日 僧尼の族籍帰属について規定される 

2月 融通念仏宗独立する 

2月2日 聖公会ウィリアムス主教、築地居留地に英語学校(後の立教学校)設立 

2月13日  東京府知事大久保一翁、将門霊位の別殿移社を許可し、遷座祭は明治11年11月挙行される 

2月 大教院、雑誌の『教会新聞』を刊行し始める 

3月12日 教部省通達により日蓮宗一致派の派名を公称する 

3月13日 法華宗各派の管長設置を公許する

※各派ごとに管長を置くことが認められ、日蓮宗一致派と日蓮宗勝劣派に分けられた。一致派は新居日薩を初代管長とし、勝劣派は興門派・妙満寺派、本成寺派・八品派・本隆寺派が交代で管長職を決め、初代管長に八品派の釈日実が就いた
3月 教部省、神田神社の「神田大明神」の勅額を外すことを命ずる
※ この額は寛文11年(1671)、霊元天皇の命で大炊御門経孝が染筆したもので、教部省と東京府の聞の妥協で、太政大臣三条実美筆の「神田明神」を掲げた。
4月28日 教導職試補以上の資格のないものの説教を差し止め 
6月7日 医療・服薬を妨害する禁厭・祈祷の取締を命令 
6月22日  東京府、朱引内での埋葬を9月以降禁止し、青山・染井・谷中・小塚原・深川・亀戸に神葬による共同墓地の設置を決定する

 朱引内とは、御府内のことで、江戸城を中心にして、四方、品川大木戸・四谷大木戸・板橋・千住・本所・深川以内の地を指す。 7月29日 教部省、仏教各宗その他の民間諸宗教相互間の転宗転派を許す 8月17日  神田神社本殿に大洗磯崎神社(茨城県)の祭神少彦名命の分霊を祭ることで、地元の神田っ子大いに反発 9月19日 天皇、板橋蓮沼の大演習視察の帰路、神田神社で「休憩」

※ 神田神社では、この年の9月15 日の祭礼は明治17 年9月15 日まで「中止」、この時点で天皇が東京付近で「拝礼」した神社は靖国神社と大宮氷川神社の二社だけである。
※ 日蓮宗関連では、この年に越後(新潟県)柏崎妙行寺の住職であったが、教務省より「若くして大人物」と称して、身延山久遠寺65世住職の申達の命が下っている。時に新居日薩は45歳であった。

明治8年(1876)

※ 大教官一布と神道教導職の気脈を通わせるために、東京に神道事務局が置かれた。事務局は下部機関として府県に一分局、数支局、別に教導職養成の生徒寮を置した。
1月 真宗各派の大教院離脱が認められる 
2月 真宗各派が大教院より離脱する 
3月28日 神道関係の教導職ら、大教院廃止に先立ち神道事務局を組織する 
4月13日 神宮以下の神社祭式を定める 
5月3日 神仏併合大教院が廃止され、各宗派で大教院の設置が義務づけられる
※ 各宗派で大教院の設置が義務づけられると、日蓮宗は独自に創設した宗教院を日蓮宗大教院として再出発する。日蓮宗では同年5月東京芝二本松承教寺内にあった宗教院を大教院と改称し、宗内の教育機構を充実させるため全国を9教区に分け、8区に中教院を設置し傘下に小教院を設けた。同18年1月には大教院は大檀林と改称、同28年6月には大檀林・中檀林・小檀林と改称され、大教院(大檀林)を頂点とする教院体制が整備され、宗門子弟の教育機構が確立される。このような教院体制は、初代管長であった新居日薩の強権下で維持運営されていたが、日薩没後(同21年8月)になると体制の維持は困難となり、大教院(後の立正大学)以外は消滅することになる。立正大学への経緯は、さきの明治5年の大教院設立に始まり、8年6月日蓮宗大教院、17年9月に日蓮宗大檀林、36年6月に日蓮宗大学林、38年4月に日蓮宗大学へと改称、大正14年4月に現在の立正大学の名称へと改められている。

 

△立正大学学長を列挙する。

新居日薩 明治5年8月 大教院創立
・初代学長

 小林日董 明治37年4月1日~明治38年7月31日 1904年~1905年

・学長事務取扱

 本間海解 明治38年7月31日~明治39年5月 1905年~1906年

・2代学長

 小泉日慈 明治39年5月~明治43年5月31日 1906年~1910年

・3代学長

 本間海解 大正7年6月1日(追薦) 1932年

・4代学長

 脇田堯惇 明治43年5月31日~明治44年4月11日 1910年~1911年

・学長事務取扱

 風間隨学 明治44年4月11日~明治45年6月11日 1911年~1912年

・5代学長

 久保田日遙 明治45年6月1日~大正3年4月11日 1912年~1914年

・学長事務取扱

 風間隨学 大正3年4月16日~大正3年10月1日 1914年

・6代学長

 杉田日布 大正3年10月1日~大正5年3月31日 1914年~1916年

・7代学長

 風間隨学 大正5年4月1日~昭和4年5月28日 1916年~1929年

・8代学長

 清水龍山 昭和4年5月28日~昭和5年7月3日 1929年~1930年

・学長事務取扱

 望月日謙 昭和5年7月3日~昭和6年2月24日 1930年~1931年

・9代学長

 望月日謙 昭和6年2月24日~昭和7年9月5日 1931年~1932年

10代学長

 関本龍門 昭和7年9月5日~昭和10年9月4日 1932年~1935年

11代学長

 清水龍山 昭和10年9月4日~昭和16年3月25日 1935年~1941年

12代学長

 守屋貫教 昭和16年3月25日~昭和17年8月9日 1941年~1942年

・学長事務代行

 浅井要麟 昭和17年4月1日~昭和17年9月18日 1942年

13代学長

 井村日威 昭和17年9月19日~昭和19年10月21日 1942年~1944年

5月23日 火葬禁止を解禁する 

5月31日 火葬場の復活 

6月24日 火葬場設置の条件を定める 

9月8日 僧尼私度(自由に出家すること)の禁を解く 

9月25日 私度禁止の制を解き、得度後、所管の役所に届け出ることにする(太政官布告) 

11月20日 神仏各管長宛に諭達(官府から降れさとすこと) 

11月20日 社寺の秩禄、米額の制を廃し、金禄に改める      

神仏各宗に対し信教の自由を達する      

大教院解散で国民教化政策は後退する

 各宗派別の大教院(大中小教院)を設置され、さらに神仏合同の教説の禁止を令発する。さらに火葬の禁が解かれ、説法の自由、転宗転派の自由、鹿児島・琉球・支那の開教の自由、隠岐の仏教再興も許される。とくに肉食妻帯勝手たるべしは、従来の禁を解いたことに止まり、宗規には関係ない旨も通達された。

明治9年(1877)

2月3日 一致派名廃止の伺いを承認、単称「日蓮宗」許可 

2月2月 黄檗宗復立する 

2月27日  日蓮宗の一致・勝劣二派制崩れ、一致派は日蓮宗と改称、勝劣派は妙満寺など五派にわかれ独立を許される 

3月 祭礼・開帳等の風俗取締 

4月10日 日蓮宗不受不施派の派名再興および布教を許可 

5月18日 寺院旧領秩減禄調べ行われる 

6月17日 仏像等の東京府管内開帳禁止される 

8月20日 東本願寺、上海に別院を創建する(海外布教の初め) 

9月5日 江戸時代初期以来、一向宗禁制の鹿児島県で、真宗の布教解禁する 

10月23日 神道黒住派・神道修成派、神道事務局より分離独立する

 同志社の学生が主体となり、京都に第て第二、第三の基督公会設立する 
1128日 親鷲に見真大師号贈られる

 外来説の地球説と須弥山説の議論が行われたという。

明治10年(1878)

1月19日 教部省・警視庁を廃止して、内務省に社寺局を置く 

4月 幕府の藩調書所(開成所・開成学校)が東京大学と改称された 

12月8日 神宮並びに官・国幣社の神宮を祭主・宮司・禰宜・主典・宮掌の諸職にわける

 この頃の仏教界の動向として、さきの迫害行為が行われた期間に、仏教者は一般に興学布教の両方面において努力した。西本願寺は学林を拡大させ育英に重きを置き学制を改め、従来の修学・暦学・儒学・破邪学の5科組織を専門普通の2科組織とし、さらに大教校・中教校・小教校の3校制度とした。東本願寺は高倉学寮を貫練場と勧学所とする。養鶏徹定師は知恩院内に華頂学校を開き育英に努める。曹洞宗の専門学校、智積院の勧学院など、仏教各宗派はそれぞれの学林を保存するために努力していた。日蓮宗は先のように大教院を設けている。しかし、その教育方向は大学制度を模倣し一般人を含む教育へと様変わりしていた。実学中心となった。

 この年に井上円了師に影響を与えた井上哲治郎博士(フェノロサ博士も)に開成学校から東京大学へと入学し哲学を専攻し、哲学としての仏教に着眼する。廃仏毀釈の跡を受けた明治仏教は、哲学の虎の皮の威をかりた仏教である(宮本正尊)。また開成学校から東京大学と改称され、大学の公称をしたのもこの年である。

明治11年(1879)

12月20日 真言宗、新義・古義分立し、各管長を置く

 

西本願寺が大学林条例、奨学条例、安居条例、教会条例を発布し、他に類例のない俗人の教養を主とする普通教校を起こし、内外の留学生を派遣し、教学両方面にその陣容を整えた各宗派と同様の施設を完備し、さらに宗制寺法をさだめ、教師住職の資格を高めた。また具舎論、唯識論など仏教学、梵語学などの学問的な整備、縮刷一切経をはじめとする仏教文献が整備され始め形になった時代でもある。

明治12年(1880)

1月   東京府、禁止中の三河万歳を、御祝儀謡曲の名義で興行を許可する 

5月4日 西本願寺大教校開校(後の龍谷大学) 6月4日 東京招魂社、靖国神社と改称する 

6月4日 東京招魂社を靖国神社と改称別格官幣社 

6月28日  神社・寺院の実態把握のため、府県に対し神社・寺院明細帳の調製を命ずる(内務達) 

9月29日 真宗に見真の勅額下賜 

11月 道元に承陽大師号を下賜

※ この年に仏教は随意聴講制度のもと、仏教購読として始めて東京大学で仏教が講ぜられるようになる。原坦山師によって賢首法蔵の『大乗起信論』が講ぜられた。当時の哲学界に受けいられたという。

明治13年(1881)

田中智学、横浜で蓮華会を設立する 小川泰堂編の木版本『高祖遺文録』刊行 

5月 日蓮宗宗務局、『妙法新誌』を発刊する旨番外達書を発する 

6月 島田蕃根翁 一切経刊行事業はじまる(明治18年7月終わる) 

10月12日 基督教青年会、上野精養軒で野外大演説会開催(最初のキリスト教大演説会) 

12月28日 教育令を改正(中央集権を強化)

 明治13年東大文学部第一回卒業生 井上哲次郎・和田垣謙三・岡倉覚三等8人、この中で井上は明治15年に助教授となり、東洋哲学史を講ずる。さらに16年から17年の聴講生から井上円了等の俊英が輩出される。とくに井上博士はアカデミーックな哲学を持って社会啓蒙運動を行う。

 

明治14年(1882)

1月 神道事務局神殿の祭神を巡る神道界の内争が激化し、伊勢派と出雲派が対立する 

1月25日 内務省、勅命により東京に神道大会議を招集する 

2月23日 会議の結果、祭神は宮中所斎の神霊と勅裁される 

2月 東京府、従来禁止中の獅子舞を許可し、営業鑑札を下付する 

3月21日 日蓮没後六百年につき、総本山身延山久遠寺で遠忌開かれる 

6月25日 この遠忌は日蓮宗大教院でも開催する 

8月15日 僧侶の托鉢の禁を解き、各宗管長より免許証を交付させる 

10月3日 神社・寺院以外の場所(教院・教会所・説教所など)での葬祭執行を禁止する

 

明治15年(1883)

1月4日 軍人勅諭発布 1月10日 神社は宗教に非ずとの政府方針で京都の八坂神社は八坂教会説教所と改称 

1月24日 神宮の教導職兼補を廃し、葬儀に関与しないものとす(内務達)      

府県社以下の神宮は明治17年8月まで従来通り(実際には昭和初年まで続く) 

3月 不受不施講門派名再興および布教を許可 

4月26日 明治16年暦から本暦および略本暦は伊勢神宮より頒布することを決める 

4月30日 伊勢神宮、神宮の研究・教育機関として、神宮皇学館創立する 

5月12日  天理教、地元警察の弾圧を受け、礼拝対象の〈かんろだい〉を破壊され、石材を没収される 

5月15日 神道事務局より神道神宮派・大社派・扶桑派・実行派・大成派・神習派が独立 

6月26日 真言宗より法相宗が独立 9月2日  神奈川県橘樹郡末長村村民30人余、隣村久本村でコレラ病死人を火葬にしようとしたのを忌み嫌い、集合して不穏、警察官の説諭で解散 

9月28日 神道御岳派、神道大成派より独立 10月10日 曹洞宗の大学林専門学本校開校(駒沢大学の前身) 

11月4日 神道事務局設立の皇典講究所開校式(国典研究と神宮養成が目的) 

12月 浄土真宗東本願寺、貫練教校を真宗大学寮と改称(後の大谷大学)

 この年に神宮と教導職の分離により神道事務局の存在意義が失われる。

 

明治16年(1884)

 3月15日 教会・講社結集・説教所などの設置条件を緩和、地方庁に届け出でをすればよい

 

明治17年(1885)

 田中智学、東京で信者組織の立正安国会を設立する 

3月 北陸筋の婦人真宗信徒、大谷派本願寺再建用の縄材として、毛髪2500貫を寄進する 

5月15日 明治3年より中絶していた京都の葵祭り復興する 

8月11日 神仏教導職を廃し住職任免などを各管長に委任する

住職の任免、教師の等級進退など各管長に委任し、各教規・宗制を制定させる。神仏各派管長の身分、勅任官扱いとなる。

9月15日  神田神社祭礼十年ぶりに挙行され、山車46台が勢揃いしたが、昼ごろから台風襲来、全国の死者530人、

東京府内の全半壊家屋3200戸の大災害の中で、山車の大半は破損し使い物にならなくなる。16日の『時事新報』では「大事の大事の宵宮よりして八百八町を荒れ廻わりて」とある

井上哲治郎博士はこの年から約7年ドイツ留学し、Kuno Fischer, Zeller, Wundt, Hartmann 等の哲学者、Weber, Windisch 等の梵語学者、Oldenberg, Max Muller, Kern, DEussen, Buher等のインド学者等に学ぶ。

 

明治18年(1886)

1月 田中智学、立正安国会を創立(のちの国柱会) 

4月 本願寺大谷光尊法主神学移入を批判する

京都において、本願寺大谷光尊法主は西洋の精神文明の活動をみて、教外神学の移入は日本において有害だと喝破する。学校制度が修学や儒学などの5科組織であったものが、仏教教学の一般化(通仏教化)を企てられ、さらに普通教校を創立して広く一般人を招き入れ、一般学科として英語を教授し、仏教学を普及し、仏教教学の組織を近代化し、神学の移入に対してひたすら教学の普及に努めた。

  この時代はほかに高等学校もなく、仏教界にもほかに一般人を主とする学校はない。外人を雇って英語を教え、将校を招いて歩兵を操練し、多くの学者をして内外の学を授け、ことに近代科学は数学、代数、幾何学、植物、化学、地理学など、ほとんどが英書で教授されていた。それを物語るように当時の学生が組織したものは、禁酒会(反省会)、海外宣教会などであり、雑誌では反省会雑誌(中央公論のこと)、海外仏教事情、英文雑誌、ビジョー・オフ・エシア(後の英文雑誌反省及、ゼ・オリエント)などである。

5月23日 天理教、神道本局部属六等教会となり初めて合法化する 

6月 日本正教会、教会数84、信徒数1万1275人 

12月22日 太政官制廃止、内閣制度確立する

 

明治19年(1887)

1月11日  神道事務局、神道本局と改組し、教名を神道と称し以後、教派神道の独立教派の扱いを受ける 

1月 この頃、東京で神・仏式の葬式一切を廉価で行う東京葬儀社創立する

2月1日 和歌山に古義真言宗大学林設立する(後の高野山大学) 

6月7月 東大寺、浄土宗を離れて華厳宗となり独立する 

9月 静寛院宮の御遺言「仏葬に依れ」

 長野県令は皇族仏葬に反対し、政府に進退伺いを提出する。神仏判然の布告が、破仏化した地方が多かったという。
 この年に東京大学は帝国大学令にのっとり帝国大学となる

明治20年(1888)

3月 官・国幣社の神官を廃し神職を置く、宮司、禰宜、主典の職制となる 

4月10日 天理教、形式上、本部を一時東京に移し、東京府知事より教会設置を許可される 

11月21日 金光教、神道本局六等教会となり合法化する

 

明治21年(1888)

8月 本間海解・佐野前励、日蓮宗革命党(改革党)を名のり、廃本合末中心の革命綱領を宣言し、「日蓮宗革命党搬文」を配布する

 

明治22年(1889)

 明治仏教の肉食妻帯について 「喜田貞吉」19 才のとき第三高等中学が大阪から京都へと移転したため、京都へと転居し浄土宗の寺院にしばらく間借りをして通学した。するとその寺には小母さんと呼ばれる婦人がいて、それがまた在俗の妻のように立ちふるまっており、子供にお乳を飲ませたり、台所で魚をさばいたり、あるいは公然と参詣の檀信徒に接待しているのを見て、奇妙に思った。 お寺さん方には失礼なことだが、いかにもそれを不愉快に感じたものだった。自分の郷里のお寺は曹洞宗所属の寺院であったので、戒律がそれなりに喧しくいわれていた。仮に寺に大黒と呼ばれる婦人がいても、それを世間に公表することはなく、また陰で魚肉を口にしていても人前でそれを頂くといくことはなかったので当時の私は僧侶は精進が保たれるものと映っていた。その小母さんがいるのはその寺ばかりではなく、また大抵の僧侶は牛肉までも人前で平気で口にするので、当時すでに肉食妻帯が普通に行われていたことが分かったものである。 もともと僧侶の戒律についてはそれぞれ重要な規定があったはずで、それは僧侶のそのものの間で、自発的に堅く守られるべきであり、換言すれば、僧侶となるべき程のものは、はじめから十分それを知った上で、身をその社会に投ずべきである。もともと僧尼令には僧尼の飲酒、肉食、五辛を服することを禁じ、これを犯すと30日の苦役、薬として用いる場合でも三綱日限を許す程度である。それでも飲酒し他人と争ったり、暴力沙汰になれば、還俗という制裁があった。男女間では取り締まりが厳しく、僧房に婦女を留め、尼房に男夫を置くことを許さずといい、これに背いて一宿以上泊めた場合は10日間の苦役、五日以上の場合は30日、10日以上は100日間の苦役であった。それこそ僧侶が婦女と交わったら、遠島であった。

(『現代仏教』十周年記念特輯号─明治仏教の研究・回顧─現代仏教社発行 昭和八年七月) 2月11日 大日本帝国憲法が発布される第1条「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」第28条「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」など、第1章天皇・第2章臣民権利義務・第3章帝国議会・第4章国務大臣及枢密顧問・第5章司法・第6章会計・第7章補則にわたる76条よりなる

 村上専精博士は井上円了博士の仏教活論によって、神田今川小路に「仏教講話所」をつくる。また興学の流れは井上両博士から村上博士、境野黄洋博士・鷲尾順敬博士、姉崎正治博士、前田慧雲博士、辻善治郎博士、望月信了博士と繋がっている。この中で明治時代にもっとも業績を挙げた学者は姉崎博士であり、井上博士は「仏教聖典史論」の巻頭で「延享元年、西暦1744年、富永中基氏の出定後語、西暦1835年・天保6年、フェルデナンド・クリスチアン・バウル氏牧者書簡。二書出現の紀念として此小著を公にす。明治32年中夏、後学姉崎正治」と標挙されるほどであった。
 民法発令、この民法では祭祀財産を家督相続の特権とした。「家」に属する人々は、家督を受け継いだ家長を中心とした「家」の統率者として中心に据え、その保護を受けると同時に、祖先を祀るという行為によって、家長を中心とした「家」の共同性を強調した。

 

明治23年(1890)

10月30日 教育ニ関スル勅語を発布する(教育勅語発布) 12月27日 神仏説教所以外の説教禁止が解かれる

 明治23年に井上円了博士東大の教授となり、9月10日 村上専精博士が第3代目の印度哲学の講師となる。さらに大正6年11月に印度哲学が勅令による講座として東大に開設されたときの初代教授となる。その後27年間仏教哲学の興隆に努める。仏教哲史林・日本仏教史綱・仏教一貫論・仏教統一論・大乗仏説批判論等を著し、明治仏教教学史に一貫する骨組みをつくる。

明治24年(1891)

6月 清水梁山、日蓮宗を脱宗、仏教統一会主宰する

 

明治25年(1892)

1月 久米邦武「神道は祭天の古俗」と提唱して、帝国大学教授を非職となる      

大日本仏教青年会の創設

 この流れの中に、夏期講習会、日曜学校、少年教会、監獄教誨、婦人会、尼衆会、施療、救貧、聾唖教育、鉄道布教、軍隊布教、工場布教など、キリスト教に模した布教教化が始まっている、また釈尊降誕会や各宗祖降誕会も盛んに行われるようになった。

明治26年(1893)

9月11日  シカゴで万国宗教大会開催、釈宗演、柴田礼一、土宜法竜等、神仏基各教代表が参加し各宗の英訳書数万を配布、初めて日本仏教が海外に紹介される

 

明治27年(1894)

2月28日 政府、府県社以下の下級神職を待遇官吏とする

宗教官僚制完成する。 8月1日 清国に宣戦布告日清戦争
身延山久遠寺、日清戦争勝利のため蒙古退治大量茶羅を宝前に奉安し祈祷会を修
8月3日 管長小林日董、日清戦争宣戦について戦勝報国の番外諭達を発する
 以後、報国義会、戦勝祈祷会・説教会・演説会を全国各地で行う。軍費を献納。天皇陛下玉体安康国威発揚敵国降伏大祈祷会を全国各地で修す。

 

明治28年(1895)

4月17日 日清講和条約調印、台湾割譲する 

10月22日 宗務院、日清戦争従軍僧への優待規則を定める

 

明治29年(1896)

4月 官・国幣社は国費を永く供進すべきものとして「国庫供進金制度」ができる

 この年になり、さきの大谷光尊師のように井上円了博士は、西洋精神文化の移入に対抗し、東洋哲学思想を代表し、帝都に新精神運動を起こす。博士の根本道場は哲学館(後の東洋大学)であり、その思想の傾向は、釈迦・孔子は実際方面の行の指導者、ソクラテス・カントは理論の方面の解の指導者というものだっった。仏教にとっては、その教義における再認識の機会をを与えた。仏教は宗教として実際に生き、哲学として理想に生き、日本文化の要素として永存する意義があるという。
 東京帝国大学は、いち早く印度哲学の名によって、仏教の哲学的な価値を認めようとした。大学は加藤弘之氏の発起で、曹洞宗の師家原坦山師に大乗起信論を講義させる(明治12年4月)。仏教を俗人の哲学なりと劣視した時代で、この講義を聴いた教授、学生も仏教はそれなりの哲学であると認められたという。

特にこの時代には、仏教を西洋哲学と同様に、思想信条として扱うようになった。

 

明治30年(1897)

 この年に看護婦養成所でき、さらに東京大学が東京帝国大学となる。

 

明治31年(1898)

10月1日 警視庁令「市内朱引外の寺院」も土葬禁止する

 

明治32年(1899)

7月27日 内務省、神道仏教以外の宗教の宣布および堂宇・会堂設立に関する規程を定める

これによりキリスト教、初めて宗教行政の対象となる 

8月 文部省は一般教育から宗教を分離し、文部省の規定による学校では課程外であっても宗教上の教育を行い、また宗教上の儀式を禁じた。訓令によって教育と宗教を分離した。

 

明治33年(1900)

 1月21日 宗教法案反対全国仏教徒大会聞かれる 

3月10日 治安警察法公布

神官僧侶その他諸宗教師政治結社加入、禁止される

 

明治36年(1903)

 11月初日 神社寺院仏堂境内地の使用取締規則公布

 

明治37年(1904)

2月 ロシアに宣戦布告日露戦争      

宗務院、対露宣戦布告の大詔換発につき通達を発する      

身延山久遠寺、蒙古退治旗憂茶羅を奉安し国威拡張軍隊安全大祈祷会を修す      

臨時報国義会、各地で戦勝国祷会を修す      

軍費を献納する 

5月16日  東京で神・仏・基の代表者による大日本宗教家大会開かれ、諸宗教協力・国策支持を決議 

8月28日 加藤文雅発願・稲田海素委嘱の開宗650年記念『日蓮聖人御遺文』発行される

別名、縮冊遺文・縮遺・霊良閣版、『高祖遺文録』をもとにした基本的遺文集、戦時中の日蓮遺文削除問題で絶版となり、昭和42年写真製版で復刻されている。 

11月8日 佐野前励、元冠記念日蓮聖人大銅像除幕式を挙行

宗門の教育行政機関で有名になった書籍に目を向ければ、小林一郎の法華経講話の記録が『法華経大講座』13 巻として平凡社から出版され、洛陽の紙価を高めたことを特記できる。この小林一郎の法華経講話は、明治37年4月に日蓮宗大学林が設立されるにあたり、倫理学の教授として招請されたことが契機になったという。日蓮宗大学林の初代学長に就任したのは、小林日董という学僧で、小林は同姓ということもあったが、人格の立派さにうたれて入信したという。この小林一郎は、東京帝国大学を首席で卒業し、金時計を受賞した俊秀であったという。同期生で銀時計を受賞したのが、のちに東京帝国大学に宗教学科を創設した姉崎正治であった。小林の専門は西欧哲学でヘーゲルを専攻し、専門書はもちろんのこと、ゲーテ・シェークスピア・トルストイの作品を原書で読むほどの秀才であった。その人物が『法華経大講座』によって法華経を解説しているのである。一読されればさきの姉崎と同様に木に竹を接いだ、実学と虚学の矛盾をはらんでいると思える。

 

明治38年(1905)

9月5日 日露講和条約調印

 

明治41年(1908)

10月13日 戊申詔書発布(勤倹節約と国体尊重を徹底)

 

明治43年(1910)

5月25日 大逆事件大検挙始まる(天皇暗殺事件発覚後の弾圧事件) 8月22日 韓国併合(日韓条約調印)

 

明治44年(1911)

8月15日 清水梁山『日本の国体と日蓮聖人』

「この七字は即ち本尊の正躍なり。この本尊の正鰹は即ち日本因の天皇にて坐すなり。この事を識らざる撃者は父統の邦に迷へる不知恩の畜生なるなり。」

8月21日 警視庁、特別高等課(特高)設置

 

明治45年(1912)

7月30日 管長旭日菌、明治天皇崩御につき諭達を発する       

内務大臣原敬、宗教を国家目的にそわせるため、神・仏・基の代表と懇談会を開く

10月 大日本国衛護本尊〔奉献本尊〕、京都府燈明寺で発見される

 

 

 

 

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