「血脈の貫主は絶対」という神話の形成


松 岡 幹 夫


 はじめに 
1 現日蓮正宗の血脈相承観にみる神話と逸脱 

2 日興の唯一者意識とは 

3 日興一人が継承した「正義」の内容 

4 大石寺住持としての意識 

5 『日興跡條々事』第二条をめぐる諸問題 

6 『本因妙口決』『五人所破抄見聞』の検討 

(1)初期の大石寺門流と中古天台の関係 

(2)『本因妙口決』の「唯授一人」説 

(3)『五人所破抄見聞』の貫主信仰的な表現

7 門流上代の貫主にみる唯授一人的な権威主義の不在 

8 九世・日有にみる”信心の血脈”の強調と貫主代官説 

(1)人法本尊への「信心」を師弟相対して継承ー日有の血脈観 

(2)貫主代官説 

 9  大石寺の血脈神話の原型――左京阿闍梨・日教の登場 

(1)「二箇相承」による日興正嫡の主張

(2)仏法付属を中核に置く血脈観

(3)「唯我一人」「唯授一人」の用語の普及 

(4)「法主」の語の大石寺住持への適用

(5)三大秘法の宣揚 

(6)金口相承による三大秘法の伝承 

(7)相伝教学の源流 

(8)貫首一人の本尊書写

(9) 貫主信仰

10 近代宗門の血脈相承観の確立者――56世・日応 

(1)石要混合の思想を基層に持つ法体相承論 

(2)金口相承の教義と日寛教学の同一視 

  結 論

 

 

 

 

 

はじめに

 「本宗の僧俗は、自行においても、また広布進展の上からも、法主の指南に信伏随従しなければなりません」「しかるに創価学会では……本宗の命脈である唯授一人の血脈の尊厳を、甚だしく冒涜しているのであります。これは、明らかに本宗相伝の僧宝義・血脈義に背反する大謗法であります」「よって、日蓮正宗は、宗教法人創価学会を破門に付し、以後日蓮正宗とは無関係の団体であることを通告いたします」――。平成3(1991)年11月28日、日蓮正宗が創価学会に通知した『破門通告書』の一部である。

 日蓮正宗は、創価学会が「法主の指南に信伏随従」せず「唯授一人の血脈の尊厳」を冒したのは重大な教義違背(大謗法)であるとし、そのことを主たる理由に学会に「破門」を通告した。奇妙にも、この『破門通告書』には、宗祖・日蓮の遺文に基づいて学会の言動を指弾した箇所が一つもない。すなわち日蓮正宗は、宗祖の教示よりも時の「法主」の指南を表に立てて学会を裁こうとしたのである。

 われわれはここに、現在の日蓮正宗が建前上、いかに「唯授一人の血脈」なるものを重大視し、その血脈を受けた大石寺の貫主(法主)を絶対化しているかを知る。日本仏教において、祖師信仰というのはよくあるが、貫主信仰となると余り聞かない。日蓮正宗を名乗る大石寺門流の歴史を振り返っても、血脈の権威を高調して時の貫主を絶対化するような言説は、日興・日目・日道等の教団初期の貫主にはなかった。一体、いつ頃から血脈の貫主を絶対化する思考が大石寺宗門に芽生え、定着したのだろうか。本書の論を説き起こすにあたり、真っ先にこの問題を考えてみたい。

 「唯授一人の血脈」とは、一人の師より一人の弟子へ、祖先の血統が伝わるがごとく仏法の奥義が伝わる様を指して言う。仏教は、歴史的に一人から一人への法脈系譜を重視してきたのだから、このあり方自体を云々するつもりはない。けれども現在の日蓮正宗が標榜する「唯授一人の血脈」は、血脈授受の当事者たちの自巳絶対化への契機をはらんでいる。「唯授一人の血脈によって法主から法主へ大御本尊の”法体”や本仏の”法魂”が継承されてきた。だから、信者は法主に信伏随従しなければならない」などと、今の日蓮正宗では信者に説き教えている。こうした貫主絶対の思想をともなう「唯授一人の血脈」観こそが、本書で問題とするところである。

 ところで、日蓮正宗にみられる貫主絶対説の起源を探究するには、700年近くも前の大石寺門流の内情にまで遡り、中世・近世・近代・現代へと続く門流内の思想動向を概観するという作業が求められる。言うまでもなく、これは大変な難作業である。宗門上代の諸史料の中で、真の意味で文献学的に真偽が確定しているものは極めて少ない。宗門上代の貫主に問する伝記類も乏しく、唯一存する江戸期の17世・日精の『富士門家中見聞』(以下『家中抄』と略す)は、後世の史家から非常に辛辣な評価を受けている。大石寺教学の形成に問して、丈献学的に非の打ち所がない議論を行うことは不可能に近いように思える。

 しかしながら、大石寺門流史において「血脈の貫主は絶対」という観念がいつの間にか登場して門流内に根を張り伝統化した、ということは諸先学の努力によって明らかになりつつある。後は、そのあたりの事情を、もう少し詳しく解明できれば、一つの学問的な仮説として提示できるかもしれない。

 第一論文の目的は、そのような仮説の形成を試みることにある。先ほど述べたように、大石寺上代の文献の中には真偽未決のものが多い。したがって本稿で展開する論は、あくまで暫定的見解の域を出ない。他の優れた研究者が拙稿を批判し、さらなる論の進展がみられることを期待して筆を執ることにする。


   1 現日蓮正宗の血脈相承観にみる神話と逸脱

 最初に、大石寺門流の宗祖である日蓮の血脈相承観を確認しておこう。日蓮は『生死一大事血脈抄』(日朝写本)で、血脈相承の問題について種々指南している。本抄は、元天台宗の僧で日蓮の弟子となった最蓮房が「生死一大事血脈」について質問したことに対し、日蓮が認めた返書とされる。

 本抄の冒頭には「生死一大事血脈とは所謂南無妙法蓮華経是なり、其の故は釈迦多宝の二仏宝塔の中にして上行菩薩に譲り給いて此の妙法蓮華経の五字過去遠遠劫より巳来寸時も離れざる血脈なり」(全集1336・定本522)とあり、血脈相承される秘法は上行所伝の「南無妙法蓮華経」である、と説かれている。そして、この南無妙法蓮華経を血脈相承して成仏することこそ「生死一大事血脈」である、との視点から次の二つの修行の要件が示される。

  1. 久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との二つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり(全集1337・定本522)

  2. 総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり、若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か(全集1337・定本523)

  3. 強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ、生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ、煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり、信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり(全集1338・定本524)塔中の釈尊から上行菩薩へと血脈相承された南無妙法蓮華経の法体を、一切衆生も血脈相承して成仏すべきであり、それには「南無妙法蓮華経」と唱えることである。ただ、修行者は、仏・法・衆生が無差別であることを信解し、「異体同心」で団結して妙法の広宣流布を目指し、強盛な「信心」をもって唱題に励まなければならないI。以上が日蓮の血脈相承観であり、彼はこの立場から最蓮房に「只南無妙法蓮華経釈迦多宝上行菩薩血脈相承と修行し給へ」(全集1338・定本524)と勧めている。

 すなわち、血脈相承の秘法とは上行所伝の「南無妙法蓮華経」以外の何物でもなく、正しい心構えで修行さえすれば、あらゆる人々がこの甚深の妙法を血脈相承する主体者になれる、と日蓮は保証したのである。日蓮によって示された妙法を知る人々にとって、大事なことは秘伝の尊重にも増して修行の心構えである。具体的には、凡聖不二の信念と異体同心の心で上行菩薩が血脈相承した法体=妙法を信受し、妙法の広宣流布を目指すという「信心の血脈」である。大石寺9世・日有は『化儀抄』27条に「信といひ血脈と云ひ法水と云ふ事は同じ事なり」「高祖已来の信心を違へざる時は我れ等が色心妙法蓮華経の色心なり」(富要1164)等と指南しており、現在の創価学会も同様な見方をとっている。

 これに対し、「南無妙法蓮華経の法体と教義は大石寺の歴代法主だけが唯授一人血脈相承しており、他の者は知ることができない。ゆえに信者は、大石寺の法主に絶対に従わねばならない」と強く主張するのが現日蓮正宗である。現宗門は、上行所伝の法体の根源的所在を法主(貫主)の内証に求め、貫主絶対主義を唱えてやまない。しかし、この考え方は後述する左京阿闍梨・日教の教説に由来するといえ、大石寺の正統教学に反する異端の思想と言わねばならない。26世・日寛が『文底秘沈抄』の中で「教主釈尊の一大事の秘法とは結要付属の正体、蓮祖出世の本懐、三大秘法の随一、本門の本尊の御事なり」(富要3193)と示すがごとく、大石寺門徒が信すべき上行付属の法体とは「本門の本尊」すなわち「本門戒壇の大御本尊」のことである。そして、この戒壇本尊の「分身散体」としての意義を持つ日寛書写の形木本尊が創価学会によって世界中に弘められているわけだから、上行菩薩が血脈相承した法体は現在、幾百万の人々が眼にするところなのである。

 また第二論文で詳述するが、筆者は、大石寺門流が七百年以上も伝持してきたという三大秘法の法体の教義が現代の大石寺門流内では広く公開され、創価学会における「信心の血脈」の重視もその前提に立つと理解している。

 要するに、上行所伝の法体と教義は広く世界に公開されたのであり、往古はともかく現代においては大石寺貫主の専有物と言えない。

 さらに言えば、今の日蓮正宗が高唱する貫主絶対主義の〈伝統〉は、後世に創作された神話に他ならない。とりわけ”大石寺の法主だけが上行付属の法体を血脈相承できる”という現日蓮正宗の主張は、結要付属の法体を曼荼羅本尊として万人の前に開示しようとした日蓮の意図に背くものである。現日蓮正宗の血脈相承観にみられる、こうした神話や逸脱は何ゆえに生じたのか。その答えは、大石寺の唯授一人血脈相承の思想形成史をみていくことにより、自ずと明らかになろう。



   2 日興の唯一者意識とは

 現在の日蓮正宗では、日蓮が自身の入滅を前にして日興に与えたという『身延相承書』と『池上相承書』の二書、いわゆる「二箇相承」の存在をもって、日蓮――日興の唯授一人血脈相承を証するものとしている。この二箇相承の真蹟原本は存せず、大石寺には、応仁2(1468)年の住本寺日広の写本を大遠房日是が転写した本が多宝蔵に保管されているという。他門の学者は、古くから二箇相承正筆説に疑義を呈している。

 筆者はここで、二箇相承の真偽論争にかかわるつもりはない。ただ、指摘したいのは、日蓮が唯授一人の血脈にこだわった明らかな形跡は残っていない、という点である。日蓮の本意は、「日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継がしめんとする」(『生死一大事血脈抄』、全集1337・定本523)ところにあった。つまり、血脈の民衆化に奮闘しつつ口伝を行ったのが日蓮なのである。

 日蓮は、多くの弟子や在家の檀越に重要法門を説き示している。また大石寺宗門が「日蓮一期の弘法」の核心とする『法華経』寿量品文底の三大秘法義は、『御義口伝』『本因妙抄』『百六箇抄』の処々に散説されている。しかるに『御義口伝』は日蓮が身延で門下一同に講義した内容の日興記と言われているし、『本因妙抄』『百六箇抄』も大石寺側では複数の門弟に相伝されたものと主張している。さらに日興の『宗祖御遷化記録』に明らかなごとく、日蓮は弘安5(1282)年10月8日、自分の「本弟子」として六人の僧(日持・日頂・日向・日興・日朗・日昭)を定め置いている。これらを踏まえると、日興門流の立場から「日蓮大聖人は、仏法の血脈を日興上人御一人に授けられた」などと主張するのは難しいようにも思われる。

 しかしながら日蓮が日興に対し、内々に日蓮本尊義のような驚天動地の法門を授けた可能性もなくはない。六老の中で、日興一人に宗教的な日蓮崇拝がみられるのはまことに不思議だからである。教団運営の面に関しても、日蓮は、日興を嫡弟としたうえで教団統率のために六老制度をとったのかもしれない。日蓮が日興を自らの後継者と定めたという見方も、一つの推測としてなら許されるであろう。

 けれども注視すべきは、日興の言説中に”自分は日蓮聖人から唯授一人の血脈を受けた身である。だから全日蓮門下は、無条件で私に従うべきだ”といった問答無用の相承主義がいささかも感じられないことである。むしろ、日興は”日蓮大聖人の本弟子六人は皆等しく先師の正義を継承すべきであるが、自分以外の五人は残念ながら正義に背き、結果的に自分一人が正義を弘持している”との嘆きを表明している。

 日興が身延離山の前年の正応元(1288)年12月に書いた『原殿御返事』(中古写本・要法寺蔵)の中に、「御弟子悉く師敵対せられ候ぬ。日興一人本師の正義を存じて本懐を遂げ奉り候べき仁に相当て覚え候へば、本意忘るること無く候」(歴全1ー172)というくだりがある。ここから読み取れるのは、他の五老僧が悉く「師敵対」の邪義を構えた結果、日興一人が日蓮の正義の継承者になったという意識である。日興は”唯授一人の貫主たる自分だけが絶対の正義であると自己を特別視しかわけではなく、他の日蓮門下が悉く師敵対を行った結果として”唯一者”たることを表明したのである。

 このことを裏づける日興文書は少なくない。例えば、『遺誠置文二十六箇條』(日我写本)の第一条に「富士の立義聊も先師の御弘通に違せざること」とあるが、その次の第二条には「五人の立義一々に先師の御弘通に違する事」ともある(歴全1197)。また『五人所破抄』(日代筆記本、伝日時写本)にはこう記されている。

伝へ聞く天台大師に三千余の弟子有り、章安朗然として独り之を達す。伝教大師は三千侶の衆徒を安す、義真以後は其れ無きが如し。今日蓮聖人は万年救護の為に六人の上首を定む、然りと雖ども法門既に二途に分れ門流亦一准ならず、宿習の至り正師に遇ふと雖ども、伝持の人自他弁じ難し、能く是の法を聴く者此人亦だ復難し、此言と若し堕ちなば将来悲む可し、経文解釈宛かも符契の如し、迹化の悲歎猶を此の如し、本門の墜堕寧ろ愁ざらんや、案立若し先師に違はば一身の短慮尤も恐れ有り、言ふ所亦仏意に叶はば五人の謬義甚く憂ふ可し、取捨正見に任す思惟して宜く解すべし云云(歴全1ー35)

 「天台大師に三千余の弟子有り、章安朗然として独り之を達す」とあるごとく、日興は形式上の付属の有無よりも法門了解の力を重んじている。そして天台ー章安、伝教ー義真という唯授一人的な系譜を挙げながらも「今日蓮聖人は万年救護の為に六人の上首を定む」とし、結果的には日蓮滅後の教団内で「伝持の人自他弁じ難し」という状況が生まれたことを述べている。この日興の言から、〈付属された一人こそ絶対正義〉という意識をみてとるのは甚だ困難であろう。そこでは、日蓮が天台・伝教と異なり、六人の後継者を定めたことが明記されている。日興を貫いている思考は「実際に誰が宗祖の正義を継承しているのか」という事実認識であって、唯授一人の無謬性にこだわる態度などは微塵も感じられない。「案立若し先師に違はば一身の短慮尤も恐れ有り、言ふ所亦仏意に叶はば五人の謬義甚く憂ふ可し、取捨正見に任す思惟して宜く解すべし」とあるように、日興は決して自己を絶対化せずに五老の法門曲解を批判したのである。

 こうした日興の言説を、日蓮から後事を託された立場を隠しての謙遜表現とみるむきもあろう。筆者もその可能性は否定しない。日蓮の後継者を推考するにあたっては本末制度が存在しなかった中世の仏教教団のあり方も考慮すべきであるが、実情がどうであれ、後継指名を受けることと自己絶対化とは本来的に別の次元の問題である。むしろ後継の責任感ゆえに師説に違わぬよう畏れ慎み、自己を省みて常に相対化し、衆議を重んずる貫主がいてもおかしくはない。

 大事なことは、日興の言動中に権威主義的な自巳絶対化の意識が全くみられない、という一点なのである。日興は、他の弟子たちとの対比の結果として唯一者意識の表明を行ったにすぎない。仮に二箇相承による正嫡意識が日興の心中に存したとしても、その権威を用いて自己の正統性を主張しなかったという点で、Sには、およそ後世にみられるような貫主絶対化としての唯授一人説がなかったと言い得るだろう。


   3 日興一人が継承した「正義」の内容

 では、日興一人が継承した日蓮の「正義」とは何だったのか。大石寺門流にあっては、曼荼羅本尊を中心とした三大秘法義がその「正義」とされる。

 三大秘法とは「本門の本尊」「本門の戒壇」「本門の題目」のことだが、日興はその一々に関して他の五老僧の見解と対比しつつ、自己の立場を鮮明にしている。

 第一に、「本門の本尊」については曼荼羅本尊主義をとる。『富士一跡門徒存知事』(日誉写本)という、日興の意を受けて作成されたと伝えられる書がある。その「本尊の事」に、次のごとき記述がみられる。

  1. 五人一同に云く、本尊に於ては釈迦如来を崇(め)奉るべしとて既に立たり、随て弟子檀那等の中にも造立供養(の)御書之れ在(り)と云々。而る間盛に堂舎を造て、或は一体を安置し、或は普賢文殊を脇士とす、仍て聖人御筆の本尊に於ては彼の仏像の後面に懸け奉り、又堂舎の廊に之を捨(て)置く。
    日興云く、聖人御立の法門に於ては、全く絵像木像の仏菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為すべし、即(ち)自筆本尊是也(歴全1ー21)

 日興以外の五老僧は、本尊として釈迦一体仏を造立し、あるいは釈迦仏像に普賢菩薩や文殊菩薩を脇士として安置した。そして日蓮図顕の曼荼羅本尊を、仏像の後面に懸けたり、堂舎内の霊所(廟)に捨て置いたりしたというのである。これによれば、五老僧は仏・菩薩の像を本尊と定め、日蓮の文字曼荼羅を軽視した。しかるに日興一人は、木像や絵像の仏・菩薩を本尊とせず、日蓮が「御書」に説いたごとく、「妙法蓮華経の五字」の「自筆本尊」すなわち日蓮図顕の文字曼荼羅を本尊と立てたのである。

 日興は、この「本尊の事」の中で「此の御筆の御本尊は是れ一閻浮提に未だ流布せず、正像末に未だ弘通せざる本尊也」「広宣流布の時本化国主御尋有らん期まで深く敬重し奉るべし」「日興弟子分の本尊に於ては、一々皆書き付け奉る事、誠に凡筆を以て直に聖筆を黷す事最(も)其の恐れ有り」「日興の弟子分に於ては在家出家の中に或は身命を捨て或は疵を被り若は又在所を追放たれて、一分信心の有る輩に、忝くも書写し奉り之を授与する者也」(歴全1ー21〜22)と述べるなど、日蓮図顕の曼荼羅本尊を最も崇敬すべきことを強調している。これは、日興が日蓮の三大秘法の中でも「本門の本尊」を中心に位置づけていたことを言外に匂わせるものである。

 また日興は早くから日蓮の御影像を造立し、曼荼羅本尊の前に安置していたとみられる。日興がまだ身延に在山中の正応元(1288)年、波木井清長が日興に提出した『誓状』には「おほせ(仰)の候御ほう(法)もん(門)を一ぶんもたがへ(違)まいらせ(進)候はば、ほん(本)ぞん(尊)ならび(並)に御しやう(聖)人の御(み)ゑい(影)のにくまれ(憎)を清長が身にあつく(厚)ふかく(深)がぶる(被)べく候」(富要8ー10)とある。ここから当時の日興門下において、日蓮の御影像が曼荼羅本尊とともに崇拝の対象となっていた様子をうかがい知ることができる。実際、日興の消息類を読むと、日蓮のことを「本師」「聖人」「法華聖人」「法主聖人」「御経日蓮聖人」「仏」等と尊称している。日興一門には、当初から宗祖本尊の思想があったと考えられよう。

 さらに日興は、曼荼羅本尊の書写にあたって必ず首題の「南無妙法蓮華経」の直下に「日蓮在御判」等と認めている。これは、首題の下に自分の名を書くことが多い他門流の諸師との大なる相違点であり、日蓮を曼荼羅本尊の当体とみる意識の現われとして受けとることが可能である。ここに、後の大石寺門流において顕示される「人法体一」の本尊義の濫觴をみるのは不当ではなかろう。

 次に、日興は、比叡山の「迹門の戒壇」に対して「本門の戒壇」の未来建立を主張している。『富士一跡門徒存知事』では、日興以外の五老僧が「聖人の法門は天台宗なり、仍て比叡山に於て出家授戒し畢ぬ」とするのに反対して「彼の比叡山の戒は是れ迹門也、像法所持の戒也、日蓮聖人の受戒は法華本門の戒なり、今末法所持の正戒也」と唱えられ、これを理由に五老僧とは「義絶」したことが宣せられている(歴全1ー17)。

 そして、同存知事の「本門寺を建つべき在所の事」には、こうも記されている。

爰に日興云く、凡(そ)勝地を撰(ん)で伽藍を建立するは仏法の通例也。然れば駿河富土山は是れ日本第一の名山也、最も此の砌に於て本門寺を建立すべき由・奏聞し畢ぬ、仍て広宣流布の時至り国主此の法門を用いらるるの時は、必ず富士山に立てらるべきなり(歴全1ー22)

 他の五老僧は、先師・日蓮が「本門寺」の在所について何も定めなかったと述べたが、日興は「富士山」に本門寺を建立すべきことを強く主張した。本門寺の建立は、本門戒壇の建立を含意するとみてよい。つまり、日興は富士戒壇説を唱えたわけである。この富士戒壇説も、後の大石寺門流において顕わになる信条である。

 最後に、「本門の題目」であるが、「南無妙法蓮華経」の題目を唱えるべきことは全日蓮門下の共通見解である。しかしながら他の五老と異なる日興の独自性は、天台法華を迹門とし日蓮法華を本門とする点にある。その信念から「日蓮聖人の法門は天台宗也」「先師日蓮聖人天台の余流を汲む」「桓武聖代の古風を扇(い)で伝教大師の余流を汲み法華宗を弘めんと欲す云々」(歴全1ー16)と公言する五老僧を日興は強く批判し、「此の相違に依て、五人と日興と堅く以て義絶し畢ぬ」(同前)としている。

 ここから推するに、日興の「本門の題目」観は”天台ずり”の五老僧と「義絶」するほど異なるものであった。ちなみに、『本因妙抄』(伝日時写本・日辰写本・日我写本)には「文の底とは久遠実成の名字の妙法を余行にわたさず直達の正観・事行の一念三千の南無妙法蓮華経是なり」(全集877・定本なし)とある。『本因妙抄』が日蓮から日興へ直授された書であることを文献学的に証明はできないので、一つの参考として記す。

 以上、日興が他の五老僧との対比を通じて明らかにした日蓮の「正義」の内容を、三大秘法義という観点から整理し直してみた。それによって、日興の唯一者意識の根拠となる「正義」の観念が彼の門下一同にとって可視的だったこと、そしてこれが後に大石寺門流独自の三大秘法義へと整束されていったことが確認されるのである。

 

4 大石寺住持としての意識

 ここまで論じたように、日興は五老僧の宗祖違背によって結果的に唯一者意識を表明した。そのうえで、かかる教義的次元とは別に、日興は身延山・久遠寺の別当(一寺の長)たる意識を持っていたとも考えられる。「別当」とは一寺の寺務の統括者を意味し、「住持」とほぼ同義である。実際に日蓮滅後、日興は地頭・波木井氏の歓迎を受けて身延に入山し、正応2(1289)年に離山するまでの間、久遠寺に住している。

 日興門流の上代にあっても、歴代の大石寺貫主が抱いていたのは、史料上は住持の意識であった。『遺誡置文二十六箇條』によれば、日興は門流の後継者を「時の貫首」と表現した。『広辞苑』では、寺院の「貫首・貫主(かんじゅ)」の意味について「天台座主の異称。また後に、各宗本山や諸大寺の住持の敬称ともなる」と説明している。すなわち日興は、自分の後継者を「時の貫首」=一山の住持として捉えていたようである。

 そのことは、正慶元(1332)年11月の『日興跡條々事』(正本・大石寺蔵)の中に「大石寺は御堂と云い墓所と云い日目之を管領し修理を加え勤行を致して広宣流布を待つべきなり」(歴全1ー96)とある点からも首肯される。日目の消息文『白布御返事』(正本・保田妙本寺蔵)に「大石寺にハ人なく候」(歴全1ー238)とあるが、日興・日目の時代には「大石寺」の住持職がすでに存在したと考えられよう。

 次に、日目から日道への大石寺相続に関しては確たる証文がなく、日郷門徒との間に坊地をめぐる争いを生じている。ただ、嘉暦2(1327)年11月に日目が日道に与えた書(正本・大石寺蔵)をみると、奥州や伊豆の田畑・坊地を日道に譲与する旨が記されている(歴全1ー217)。これなど、大石寺の相続とは無関係ながら、住持の位の譲与と同じ類に属する。

 さて、4世・日道が5世・日行に後を託したことを示す史料として、日蓮正宗では暦応2(1339)年6月15日に日道が書写した本尊を挙げている。この本尊の右には、「奥州加賀野卿阿闇梨日行に之を授与す、上奏代日行は日道の弟子一が中の一なり」(富要8ー189)と認められている。日蓮正宗の『富士年表』は、この本尊の授与や17世・日精の『家中抄』の記述をもって「日道 法を日行に付す」とするが、同本尊の端書中に、日道が日行に法を付属したという内容は記されていない。そして、これに関する『家中抄』の見解も、現存する確実な史料によっては裏づけられない。

 そこで問題になるのは、日道自身の門流系譜観である。日道筆とされる『御伝土代』(正本・大石寺蔵)が、今のところ最も参考になる。そこでは、日蓮から日興への相承について何も触れられていない。同文書は、「日興上人は大聖御遷化之後身延山にて弘法をいたし、くけ(公家)関東のそうもんをなして三ケ年か間身延山に御住あり」(歴全1ー267)とするのみである。これは、日興が身延山・久遠寺の住持職を日蓮から託された、とする見方であるように思われる。また日興と日目の関係については、草案ということもあろうが特に言及されていない。

 つまり、『御伝土代』の門流系譜観の中に唯授一人の血脈は標榜されておらず、あえて言えば身延住持の地位の日興への譲与を認める意識がうかがわれる程度なのである。常識的には、上代にも嫡弟への教義相伝や曼荼羅本尊の相続があって当然だが、『御伝土代』の作者は、そうした付法の事実を文面に表していない。『御伝土代』をみると、むしろ〈日興=住持〉の意識の方が前面に出ている。

 続いて、5世・日行から6世・日時への移行をみてみよう。この件についても、日蓮正宗の『富士年表』は、日行から日時へ授与された本尊と『家中抄』の記述により、貞治4(1365)年2月15日に「日行 法を日時に付し、本尊を授与」と推定している。しかし、貞治4年2月15日書写の日行の本尊の端書には「南条卿阿開梨日時に之を授与す」(富要8−190)と記されるのみである。

 これに対し、6世・日時が大石寺住持としての意識を強く持っていた、ということを物語る史料は存在する。日時が明徳3(1392)年7月に書したとされる訴状案がそれである。そこには「駿河国上野郷大石寺別当宮内卿阿闍梨日時謹んで言上」「右当寺は開山日蓮上人以来日時に至るまで数代相続相違無き者也」(歴全1ー303)と記され、日時が「大石寺別当」の意識を持っていたこと、彼に大石寺住持の位の「相続」が「数代」続いできたという自負心があったこと等がうかがい知れる。

 さらに進んで、6世・日時から8世・日影への移行はどうだったのか。応永11(1404)年5月1日、日時から日影に授与された曼荼羅本尊には「大石寺住侶民部阿闍梨日影に之を授与す」(富要8ー193)との端書が認められている。例によって『富士年表』は、この本尊授与の折に日時が「日影に法を内付」したとする。が、やはり右の本尊端書に付法の事実が明記されているわけではない。

 それに引き換え、日影の大石寺住持たる意識に関しては、第一級史料が厳然として存する。応永19(1412)年8月、日影が書写した曼荼羅本尊には「大石寺遺弟日影」(富要8ー194)とある。「大石寺遺弟」という言葉からは、明らかに大石寺の「住持」としての日影の意識が読みとれよう。

 以上、開山の日興から8世・日影へと至る大石寺歴代の貫主の自己認識を探ってみた。彼らのものとされる諸文書の中には「貫首」「管領」「相続」「大石寺別当」「大石寺遺弟」といった言葉が目立ち、6世・日時以降は明らかに大石寺住持としての自覚がみてとれる。門流の上古にあっては、貫主間で何らがの仏法付属がなされていたとしても表には出てきていない。そのかわり、住持としての貫主の自覚ならば諸史料に散見される。血脈付法の貫主の排他的権威を内外に触れ回り、住持としての貫主観が希薄な現今の大石寺門彼との違いはここに明らかであろう。



   5 『日興跡條々事』第2条をめぐる諸問題

 次に、現日蓮正宗が貫主絶対の根拠として挙げる上古の文書史料をいくつか検証してみよう。最初に、『日興跡條々事』第2条をめぐる諸問題を考察したい。日蓮正宗の『歴代法主全書』によれば、同条目の内容は「日興が身に宛て給はる所の弘安2年の大御本尊は日目に之を授与す本門寺に懸け奉るべし」(歴全1ー96)である。現在の日蓮正宗は、これを有力な文証として、大石寺の「法主」には大御本尊の”法体”なるものが血脈相承されていると声高に唱えている。

 そこで今一度、同条の内容を文献学的に考究する必要が生ずるのであるが、堀日亨は『日興跡條々事』について「正本案文共に総本山に現存す」(富要8ー17)と書き残している。つまり、『日興跡條々事』には正本と案文(下書き)の二本があり、ともに大石寺に所蔵されていると言うのである。

 

 大石寺の春の虫払い法要の際、『日興跡條々事』が貫主の手によって参列者に彼露される。興風談所が発行した『日興上人全集』には、この虫払い会の折に撮影されたと思われる『日興跡條々事』の写真が掲載されている。それをみると楷書体で書かれており、日興の自署・花押もみられる。年号が記載されていない点がやや不審であるが、体裁としては正本と考えられる。日蓮正宗前管長の阿部日顕も、同宗の教学部長だった頃に「お虫払いに、貌下がいつも御披露なさいますが……正規の日興、日目上人への譲り状には……『日興が身に宛てて賜る所の弘安2年の大御本噂、日目に之を授与す。本門寺に懸け奉るべし』というあの御文があるんですね」と発言している。

 ならば、この正本の第二条はいかなる内容なのだろうか。写真を底本として解読を行った『日興上人全集』の編纂者は、「日興宛身所給弘安二年大御本尊口口口口日目授與之可奉懸本門寺」と翻刻している。だが正本の実際の記述は、もっと複雑である。大正期に堀慈琳(後の日亨)が編纂に全面協力して完成した『日蓮宗宗学全書』第二巻は、大石寺所蔵の正本を基に『日興跡條々事』の翻刻を行った。そこでは、正本の第二条に関して「口凡そ四字は後人故意に之を欠損して授与の下に他筆を以って相伝之可奉懸本門寺の九字を加うる」と註記されている。これに従えば、現存する正本の第二条は「日興宛身所給弘安二年大御本尊口口口口日目授與之相傅之可奉懸本門寺」であり、「相伝之可奉懸本門寺」の部分が他筆ということになる。松本佐一郎も「(『日興跡條々事』の)下書には授与之の下に『相伝之可奉懸本門寺』の九字が有ると云ふ」と記しているが、松本の場合は正本の記述状況を下書(案文)のそれと勘違いしている。

 こうして、第二条(正本)の記述状況は徐々に判明してくるのであるが、それは『日興上人全‘集』所載の写真の分析により、さらなる訂正を求められる。同全集の写真は、かなり不鮮明である。それでも凝視すると、「授典之」の上に「相傅之」と重ね字されていることがわかる。すなわち、真実の第二条(正本)の記述状況は「日興宛身所給弘安二年大御本尊口口口口日目授典之(授典之の上に相傅之)可奉懸本門寺」となり、「相傅之可奉懸本門寺」が他筆との結論に達する。

 そこから、『日興跡條々事』第二条(正本)の当初の記述内容は「日興宛身所給弘安二年大御本尊口口口口日目授與之」(日興が身に宛て給わる所の弘安二年の大御本尊口口口口日目に之を授与す)であったことが帰結されるのである。

 なお、65世・日淳は、「可奉懸本門寺」の後加が他筆ではなく「日興上人が直々なされたことである」と主張している。たしかに正本の写真をみると、「相傅之可奉懸本門寺」は後加とは思われるものの、初筆と比べて他筆と言い切れるほどの違いがみつからない。ゆえに日淳はこの九字を日興筆と判断し、『日興上人全集』も「可奉懸本門寺」の箇所を正本の内容とみなして翻刻している。

 こうした見解が正しければ、正本の正式な記述内容は「日興宛身所給弘安二年大御本尊口口口口日目相傅之可奉懸本門寺」に変更されねばならないが、筆者としては賛同しかねる。正本を清書した後に本人が重ね書きをする、というのは余りにおかしいからである。重ね書きされた時点で、それはもはや清書された正本ではなく、第二の案文になってしまう。『日興跡條々事』の正本は正式な置状・譲状なのだから、そこに重ね書きがあるのは不自然である。ゆえに、「相傅之可奉懸本門寺」の後加は他筆であろう、とするのが妥当な判断である。

 とすれば、『日興跡條々事』の案文の方にも「相傅之可奉懸本門寺」との記述はないはずである。常識的に考えれば、枝葉的な箇所の異同はあったとしても、案文とそれを清書した正本とで基本的な内容が食い違うことはない。日亨が正本にみられる「相傅之可奉懸本門寺」の後加を他筆扱いにして削除したのは、一つには案文と正本との間で内容的整合性を確保する狙いがあったのだろう。

 原史料を所蔵する大石寺の内部の学僧は、以前から『日興跡條々事』の正本・案文の両方を日興の真筆と鑑定している。高橋粛道によると、古文書解読を専門とする宗内の某僧が『日興跡條々事』の案文と正本を長期にわたって研究調査した結果、ともに日興筆であることを断じたという。筆者の経験的知識から言えば、少なくとも案文の方は日興の筆と考えてよい。そうでなくとも、添削もあるだろう案文をわざわざ偽作する者がいるとは思えない。多分、大石寺がこの案文を公開しない理由は、そこに「可奉懸本門寺」がないからだと思われる。日亨も『日興跡條々事』の案文を日興筆と断定し、正本の中で疑義のある箇所を案文によって補正しようとしたのではなかろうか。

 結論として、筆者は日亨の見解に立脚しつつ、『日興跡條々事』第二条(正本)の正規の内容を「日興宛身所給弘安二年大御本尊口口口口日目授與之」と措定するものである。

 では次に、正本における口口口口の欠損箇所について考察したい。大まかに言って、これには2説がある。一つは、口口口口の欠損を他筆者による意図的削除の跡とし、元々そこには「弘安五年(五月廿九日)御下文」(富要8ー18)との記述があったとする堀日享の説である。今一つは、口口口口の欠損を日興による削除の意とみなす説であり、日蓮正宗の『歴代法主全書』がこの立場をとると思われる。しかし、後者の説を採用するのは非常に困難である。

 先にも同様の見解を述べたが、正式な置状である『日興跡條々事』正本に、作者の日興が削除の跡を残すだろうか。「日興宛身所給弘安二年大御本尊口口口口日目授與之」を日興の意志による正規の記述とするならば、口口口口の元の文字をめぐって様々な憶測が飛び交うのを承知の上で、日興は削除を施した置状を残しかことになる。日興が、わざわざ後世の疑惑を招くような置状を残すとは思えない。口口口口の欠損は、やはり「相傅之可奉懸本門寺」の後加文と齟齬をきたさないように故意に削り取られた跡とみる方が無難である。

 本稿ではそれゆえ、前者の堀日亨「弘安五年(五月廿九日)御下文」の説を土台として議論を違める。日亨は、案文によって正本の問題点を解決しようとしたとみられる。この見地から言えば、日亨が正本の欠損部分を「弘安五年(五月廿九日)御下文」としたのは、案文の記述を参照した結果であろう。ただし、日蓮正宗の『富士年表』は、弘安5(1282)年2月29日に
「園城寺御下文を賜わる(石蔵写)」と記している。大石寺所蔵の写本によるとしているが、同年表は日蓮正宗の威信をかけた正史書である。大石寺に蔵され、宗門内で日興真筆とされる『日興跡條々事』案文を検討しないわけがなく、それを最終的な根拠としたことは想像に難くない。日亨が「五月廿九日」説をとった理由は寡聞にして知らないが、今は『富士年表』の記述を信頼して「弘安五年(二月廿九日)御下文」の方を用いる。

 だが、なお問題は残る。正本の欠損は四字分とみられる。口口口口の欠損箇所に「弘安五年(二月廿九日)御下文」があったとするのは、相当に無理のある説と言わねばならない。欠損箇所を「弘安五年(五月廿九日)御下文」とした日亨も無理を感じ、「五月廿九日」を括弧に入れたのだろう。しかし、それでも「弘安五年御下文」では七字となり、口口口口の四字分の欠損箇所に入れるには字数が多すぎる。そこで最近では、口口口口の元文を「並御下文」と推察する者も現れている。

 筆者自身は、正本の欠損箇所の元文を「弘安五年御下文」にしても特に問題は生じないと思う。欠損箇所の元文を四文字とするのは、『日蓮宗宗学全書』第二巻がそうして以来、確たる検証もなく自明視されてきた。けれども、この見方が怪しいのである。『日興跡條々事』正本の写真をみると、この置状の中で、一行分に二行が書き込まれている箇所がある。第三条に「詣日蓮聖人所(甲州身延山)御在生七年之間」とあるところの(甲州身延山)がそうである。また『日興上人全集』所載の『日興跡條々事』の写真は不鮮明であるが、欠損箇所が二行分を消しているようにもみえる。

 こうしたことから、欠損箇所が(  )であり、そこに例えば「弘安五年御下文」の七字があったと推測できなくもない。『日蓮宗宗学全書』第2巻の編纂に中心的に関わった堀日亨が、同書で口口口口と翻刻表記された欠損箇所に、あえて「弘安五年御下文」の七字を入れたのである。これ自体、日亨が欠損箇所を四字分とは確定していなかったことの証左と言える。日亨は、案文の内容から類推して、この欠損に存在した文字は「弘安五年御下文」以外には考えられない、との結論に達したのだろう。

 かくして、『日興跡條々事』第二条(正本)は「日興宛身所給弘安二年大御本尊(弘安五年御下文)日目授輿之」と翻刻されるべきであり、延べ書にすると「日興が身に宛て給わる所の弘安二年の大御本尊弘安五年(二月廿九日)御下文、日目に之を授与す」になる。これが筆者の意見である。(五月廿九日)を(二月廿九日)に変えたことを除けば、『富士宗学要集』第8巻に所収されている日亨の説(富要8ー18)とほぼ同じである。

 ついでながら、「大石寺門流内の者が『弘安五年御下文』の記述を削除すべき理由などないではないか」という疑問にも答えておこう。「御下文」とは何か。今のところ、決定的な見解は提出されていない。日亨の推考では、弘安4(1281)年に日興が代奏した園城寺申状に対して翌年に天皇がら賜った下し文を指し、それは後に紛失したとされている。かくのごとく「御下文」が貴重な宗宝であるとすれば、「弘安五年御下文」の記述を大石寺門流内の者が削除したというのはなるほど変である。御下文が紛失したために削らざるを得なかった、と推測すれば一応の理屈は通る。しかしながら正本の第二条の部分的削除については、「相傅之可奉懸本門寺」の後加文に合うように何者かによって行われた可能性も考えられよう。この後加文の作者は、「弘安二年の大御本尊」を本門寺に懸け奉られるべき本尊、つまり戒壇本尊としたかったように思われる。なのに、元の文に「弘安二年大御本尊弘安五年御下文日目授典之」と記されていたとしたらどうだろうか。この後に「本門寺に懸け奉るべし」と加筆するためには、どうしても「弘安五年御下文」を削除しなければならない。そのままでは、「大御本尊」のみならず「御下文」までも「本門寺に懸け奉るべし」ということになるからである。後加文の作者は「弘安二年の大御本尊」を本門寺に奉掲すべき本尊としたいのであるから、大石寺宗門の者とみて間違いない。その宗門人にとって「弘安五年御下文」の記述はむしろ余計であり、削除されねばならなかったとも推察できるのである。

 さて、以上の考察に基づき、現日蓮正宗の考え方の問題点を指摘しておきたい。平成6(1994)年発行の『平成新編 日蓮大聖人御書』(阿部日顕監修)に収められた『日興跡条々事』の第二条は、「一、日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし」となっている。

 『日興跡條々事』の第二条を根拠に「日興上人から日目上人へ大御本尊の”法体”が相承された」と主張したい阿部日顕らとしては、「授与」よりも「相伝」という秘密めいた言葉の方がよいのかもしれない。「日目に之を相伝す」とするのは要法寺日辰の『祖師伝』が初出であり、昭和27(1952)年刊の『日蓮正宗聖典』も同じ立場をとる。とはいえ、大石寺門流では26世・日寛(『撰時抄愚記』「文段集225」『妙法曼荼羅供養抄』【文段集718】を参照)、48世・日量(『富士大石寺明細誌』「富要5ー327」を参照)、59世・日亨(富要8ー18を参照)。が、いずれも「日目に之を授与す」としている。これら名だたる宗史・宗学者の共通見解を退け今回、日顕らがそれを「日目に之を相伝す」に変更したのは、いかにも石山主流の伝続から外れ’た感が否めない。何よりも、『日興跡條々事』第二条(正本)の記述は「授輿」である。これを「相伝」とする『平成新編御書』は、「授輿」の上の後加の重ね字「相傅」を採用したことになろう。

 いずれにしろ、正本の第二条は文献学的に「日興が身に宛て給わる所の弘安二年の大御本尊弘安五年(二月廿九日)御下文、日目に之を授与す」とするのが妥当であり、そこから今の日蓮正宗が唱えるような貫主を絶対化する内証相承説を引き出すことはできない。右の文では、「弘安二年の大御本尊」が「弘安五年(五月廿九日)の御下文」とともに日目に授与されている。日興から日目への「大御本尊」の授与は、「御下文」の授与と同様に理解されねばならない。つまりそれは、あくまで宗宝としての「大御本尊」の譲与に他ならず、神秘的な内証の”法体”なるものの「相伝」などではないのである。なお、「弘安二年の大御本尊」が何を指すのかについて、少なくとも17世・日精の頃までは門流内でも見解が定まっていなかった節がみられる。これを大石寺の戒壇本尊とする見方が宗内に定着するのは、多分26世・日寛がそう唱えてからのことであろう。

 最後に、日興が何らかの事情により削除・加筆した『日興跡條々事』を正本として残さざるを得なかった、あるいは現存する正本とは別に真の正本があったが今は残っていない、という可能性についても考えておく。かなり穿った見方であるが、こうした仮説も全く成り立たないわけではない。その意味で、『平成新編御書』の「一、日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし」との記述を、完全に否定し去ることはできないだろう。しかしその場合でも、当文を貫主絶対化の文証として用いるのは行き過ぎである。「本門寺に懸け奉る」ことができるのは、宗宝としての「大御本尊」以外にない。そうである以上、「弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す」との文をもって、貫主間の大御本尊の”法体”の内証相承を云々するのは拡大解釈もいいところなのである。

 

6 『本因妙口決』『五人所破抄見聞』の検討

 大石寺門流の上代に「血脈の貫主は絶対」とする思想がなかったことは、今までの様々な諸考察から史料的に推知される。しかしながら現日蓮正宗の論者たちは、こうした見方を受け入れようとしない。単なるドグマへの固執が大半であるが、中には史料考証の次元で反論を試みる者もいる。その際、よく取りざたされるのが、三位日順撰と伝える『本因妙口決』(日棟写本等)や妙蓮寺日眼の作とされる『五人所破抄見聞』(日諦写本等)に相承主義的な貫主絶対化とおぼしき記述がある、ということである。

 筆者は結論的に、これらの書には文献学的問題が多々あると考えている。理由については今から詳しく述べるが、その前に初期の大石寺門流と中台天台との関係を粗々みておくことにしよう。

 (1)初期の大石寺門流と中古天台の関係

 いわゆる中台天台は、平安後期に生まれた天台本覚思想を特徴とする。それは、現実の事象を永遠なる真理の現れとして絶対肯定する思想であり、「煩悩即菩提」「衆生即仏」といった相即の真理観が説き広められていった。こうした天台本覚思想は、平安後期までは口伝あるいは切紙相承等によって伝えられたが、やがてそれらの文献化が進み、鎌倉中期には四重興廃、三重七箇の法門などの体系化もなされた。そして鎌倉末から南北・室町時代にかけて、本覚思想の集大成とともに、その注釈もさかんになったと言われる。

 鎌倉中期に活躍した日蓮も、中古天台の思想的影響を受け、その口伝形式や教判論等を取り入れている。だが他面、教観相対して観心相承すなわち塔中法身仏からの神秘的な直授相承をとる中台天台と異なり、法華経の教相に現れる上行菩薩への別付属を重視したのが日蓮であった。加えて上行別付の法を南無妙法蓮華経なりと明かし、唱題を門下に勧め、妙法の曼荼羅本尊を顕示している。日蓮は、法華経から離れた中台天台の観心主義を排しつつ、どこまでも血脈相承の法体の公開を目指し、最終的にはそれを曼荼羅本尊として具現化した。日蓮の血脈相承観は、様々な面で可視性を捨てないところに特徴gaある。そこが、秘密主義的な口伝や切紙相承を珍重した中台天台との相違点であろう。少なくとも文献学的に信頼できる日蓮文書において、中台天台のごとき秘密主義の血脈相承観は見出せない。

 この日蓮に倣ったのか、大石寺門流の上代の貫主も秘密の血脈相承を受けたなどと説き回ることはなく、単に大石寺住持の意識もしくは結果としての唯一者の立場しか表明しなかった。だが他方で、大石寺門流の周辺では、真偽未決で傍系思想ながら相承の権威を説く文献が徐々に登場し始め、16世紀末になると大石寺の貫主自らが「嫡々付法」の権威を積極的に強調するに至っている。

 最初に、初期の大石寺門流と中古天台との関係を概観しておこう。日興の弟子で後に重須談所の第二代学頭となる三位日順は、一時期、比叡山で修学している。『日順阿開梨血脈』(日心写本)に「日順幼稚長大の古今には富山に入って興澄両師の明訓を受け盛年修学の中間には叡岳に登って天台四教の幽頂を伺ひ」(富要2ー23)と、また『本門心底抄』(日眼写本)にも「日順幼稚の昔・富山に詣で恭くも両師の明訓に預る、長大の後・叡岳に上りて三講の結衆に列る、已来朝夕法華の学行を勤修し」(富要2ー36)等と記されている。

 次に、大石寺上代の貫主の事跡を調べてみると、5世・日行、6世・日時が、それぞれ関東天台で修学した可能性が考えられる。近年の研究によれば、『肝心要義集・中巻抜書』なる書が大石寺に所蔵されているという。『肝心要義集』は関東天台の学匠である尊海の弟子・宥海の著作であり、宥海と同時代の大石寺5世・日行がこれを抜書・書写した写本が大石寺に伝えられた。そして江戸期の24世・日永に至り、この日行写本からさらに抜書し、日永自身の見解も加えて成立したものが『肝心要義集・中巻抜書』であるとみられる。この書の冒頭には「肝心要義集日時之を相伝す 日行之。廿四代日永 私に云く、日行の御筆今之を拝見し当家の肝心を抜書す。広く全文往見」、奥には「右六十五ヶ条の法門は当山第五代日行上人自筆にて之を写す。但し台家の秘蔵之多き故に後日の仁当流に引き合はせて之を思ふべし」等と記されているという。『肝心要義集』は当時の関東天台の諸談林で学ばれた書と言われ、その内容は中古天台の口伝教学の記述である。このことから、大石寺五世の日行は当時の中古天台の口伝教学を熱心に研鑽していたと推察される。

 また6世・日時に関しては、9世・日有の『有師物語聴聞抄』に「日什発心の根源は武蔵仙波の玄妙法印にて有りしが、富士大宮の学頭に成り給ふて・有りし時渋沢の浄妙と云ふ大石の檀那の処にて・日時上人の御代官日阿上人に対し奉りし御法門候ひてつまり給ひて・乃ち帰伏し給ひて候」(富要1−210)との記述があることが注目される。元天台宗能化の日什(後に顕本法華宗の開祖となる)が日時の代官である七世・日阿との問答を通じて富士門に帰伏したとの記録であるが、ここから日時や日阿が関東天台の仙波談所と交通していた様子がうかがわれる。

 かくのごとく、初期の大石寺門流では、関東天台の談所や比叡山で修学した僧らが貫主等の要職を占めていたものとみられる。

 (2)『本因妙口決』の「唯授一人」説

 しかしながら大石寺の歴代に列せられる日行や日時には、中古天台の相伝重視、血脈重視の思想からの影響が見出せない。とりわけ日時の言動には、大石寺住持としての自覚が際立っている。

 それに対し、叡山遊学を経て重須の学頭職を務めた三位日順に関しては、中古天台の相伝重視の思潮から影響を受けた可能性を検討しておく必要がある。というのも、『本因妙抄』の注釈書であり、日順の作とされる『本因妙口決』の末文に「此の血脈は高祖聖人・弘安五年十月十一日の御記文・唯授一人の一人は日興上人にて御座候」(富要2ー84)との一文があるからである。一説には、大石寺教学史において初めて日蓮ー日興の「唯授一人」を唱えた文献がこれであるという。

 むろん、「唯授一人の一人は日興上人にて御座候」との文のみをもって、『本因妙口決』に貫主絶対化の思想が現れているとまでは言えない。けれども、日興の文書中(現存するもの)に「唯授一人」という用語は皆無である。唯授一人血脈相承を受けたか否かにかかわらず、日興が「唯授一人」を表に掲げて自らを権威づけることはなかった。それを思えば、『本因妙口決』の末文が「唯授一人」の権威を積極的に讃嘆しているのは、相承主義的な貫主絶対説の萌芽であると言えるかもしれない。

 ただし、古来より『本因妙口決』を偽撰とする論者は多い。例えば、文中に「日蓮一宗」(富要2ー80)「日蓮宗」(富要2ー82)といった表現があるのは奇異な感を抱かせる。日順の他の著作である『日順阿開梨血脈』『摧邪立正抄』『念真所破抄』では「法華宗」という言葉が用いられている。『日順阿開梨血脈』に「法華宗と呼ぶの族・数百輩にして・得ること興師に帰す」(富要2ー22)と記されているごとくである。「日蓮宗」という名称は、天文5(1536)年の天文法華の乱で日蓮教団が「法華宗」の名の使用を禁止されてから用いるようになったと言われる。そこから考えれば、「日蓮宗」の用語が頻出する『本因妙口決』を14世紀に生きた日順の作とみるのは難しい。とはいえ、富士門流関係の史料では『日眼御談』や『有師物語聴聞抄佳跡 上』の中に「日蓮宗」の文字がみえる(富要2ー132、1ー194)。ゆえに断定的なことは言えない。

 また永禄元(1558)年11月、13世・日院が、要法寺日辰に送る通用拒否の書状を作成するにあたり、『本因妙口決』の一部をそっくり借用している。同書状に「本因妙日蓮大聖人を久遠元初の自受用身と取り定め申すべきなり、照り光りの仏は迹門能説の教主なれば迹機の熟脱二法計り説き給ふなり、教弥権なれば位弥高き是れなり此の仏の所説を受くる機は終に等覚一転して妙覚に入るなり。去て高祖の化導を受け奉る機は元より理即なり、長遠果地の妙法を理即の凡人に与へ給ふは等覚一転して理即に入るなり。在世並に正像二千年の賢聖国王大臣等よりも聖人御出世の時分に生を受け無作本有の妙法を飽く迄唱へ奉る不浄の身に喜の涙袂を潤し応中胸を焦す者なり」(歴全1ー450)という記述があるが、じつはこれとほぼ同じ内容が『本因妙口決』の中にみられる(富要2ー83)。要法寺日辰に送った日院の書状は、当然ながら大石寺側に残らない。したがって『本因妙口決』の作者が日院の書状の内容をみて参考にした可能性は低く、逆に日院の方が『本因妙口決』の一部を自分の説のごとく用いたものと考えられる。

 こうした点を踏まえ、『本因妙口決』の成立を一応、16世紀中頃と推定することもできよう。『本因妙口決』の写本をみても、近世のものが多い。

 次に、『本因妙口決』の内容について検討する。日蓮正宗の大橋慈譲によれば、堀日亨は『本因妙口決』の内容について「この時代として天台色のあるものがある。ゆえに一般日蓮宗では、口決は後人が順師にたくして、天台色のあるものを書いたとみている。しかし日蓮大聖人のもの、そのものが、中古天台の説を使用している。ゆえに順師がそうだからといって偽作にするのは変である」と述べたという。と同時に、「口決には詮要抄という別題がある。末文がまた、ひどいものである」とも評したとされる。大橋の記録がどこまで正確なのか不安は残るが、これを採用すれば、日亨は『本因妙口決』を日順作としながらも、その「末文」については疑念を呈している。日亨の言う「末文」がどこを指し、どのように「ひどい」のか、大橋の記録からはよくわからない。しかし問題の「唯授一人」云々の文は、まさに同口決の末文、しかも「詮要抄」と書かれた後に登場する。日蓮ー日興の「唯授一人」説が唱えられる同日決の末文の箇所について、日亨が何らかの意味で懐疑的だった可能性は十分に考えられる。

 また同日決の「此の血脈は高祖聖人・弘安五年十月十一日の御記文・唯授一人の一人は日興上人にて御座候」という文における「弘安五年十月十一日の御記文」とは『本因妙抄』を指している。『本因妙抄』の末文には「此の血脈並に本尊の大事は日蓮嫡嫡座主伝法の書塔中相承の禀承唯授一人の血脈なり」(全集877・定本なし)とあるので、ここにみえる「唯授一人の血脈なり」の「一人」が日興のことである、と『本因妙日決』の作者は主張したのかもしれない。日蓮正宗の「法義研鑽委員会」も、この『本因妙抄』の末文をもとに『本因妙口決』の「唯授一人」の文意を判読すぺきだと主張する。しかし堀日享は、『本因妙抄』の末文を後加文と判定しているので、『本因妙口決』は『本因妙抄』の後加文よりもさらに後の時代に書かれたことになる。そうすると、『本因妙口決』の方の「唯授一人」を宗門上古の日順の記述とみるのは相当に苦しい。

 ならば、「此の血脈は高祖聖人・弘安五年十月十一日の御記文・唯授一人の一人は日興上人にて御座候」との文を”『本因妙抄』を日興が唯授一人で相承された”という意味に解することはできないだろうか。右文の次下に「本地甚深の奥義・末法利益の根源なり、粤に信心深き者・愚老に訓義を乞ふ」(富要2ー84)等とあることから、この作者は、日興が唯授一人で相承された『本因妙抄』の奥義を注釈するつもりで『本因妙口決』を著したのかもしれない。けれどもこれは、日蓮正宗にとって都合の悪い解釈に違いない。大石寺の17世・日精や56世・日応は、『百六箇抄』『本因妙抄』の両抄を唯授一人の相承書とは考えなかった。両抄の相承は「法門惣付の相承」(『弁惑観心抄』)とするのが、近代以降の大石寺宗門の談道である。とすると、『本因妙口決』末文にみえる「唯授一人」説は法門相承の次元での唯授一人であり、日蓮正宗の別付の唯授一人血脈相承を根拠づける文証にはならないのである。

 別の角度から、もう一点だけ述べておこう。『本因妙口決』を日順作とすれば、それは重須系の僧の著述である。この点は意外に重要である。『日順阿開梨血脈』では「日興上人は・是れ日蓮聖人の付処・本門所伝の導師なり」(富要2ー22)としつつ「日澄和尚は・即日興上人の弟子・類聚相承の大徳なり」(同前)と述べられ、「一流相伝の血脈」(富要2ー24)として〈釈迦如来上行菩薩−後身日蓮ー日興ー日頂ー日澄ー日順・大妙〉という次第が立てられている。ここから考えるに、『本因妙口決』を日順作とした場合、その「唯授一人の一人は日興上人」との記述は、日興から日澄、日順へと次第していく重須の学頌職の流れを念頭に理解すべきであり、日興ー日目ー日道ー日行と続く大石寺の相承系譜の始原を証する文とすべきではない。

 

(3)『五人所破抄見聞』の貫主信仰的な表現

 『五人所破抄見聞』は、日蓮の入滅から約100年後、康暦2(1380)年に妙蓮寺日眼が著したと伝えられる。同見聞には「日興も寂を示し玉ひ次第に譲り玉ひて当時末代の法主の処に帰り集る処の法華経なれば法頭にて在す也」(富要4ー9)という貫主(法主)信仰的な表現がみられる。ここには、明らかに相承主義的な貫主絶対説が現れている。同文をもって、宗門上代にも貫主信仰があったとみなすべきなのだろうか。

 『五人所破抄見聞』は日眼の真筆を欠き、堀日享の意見では伝写本に通読し難いほどの錯誤や誤りが多くあり(富要4ー26)、内容的にも偽書説が濃厚とされている。小林正博は「法主絶対論の形成とその批判」の中で、宮崎英修の説を踏まえつつ「『五人所破抄見聞』には明らかに文明2(1470)年以降でなければ書けない記述があり、妙蓮寺日眼説に大きな疑問が投げかけられている」と述べている。また池田令道は、左京日教の前名・日叶の『百五十箇条』等と同見聞との内容的な相似などに着目し、その成立順を『百五十箇条』等→『五人所破抄見聞』と考証している。

 かかる文献学的な諸問題が存することを踏まえつつ、『五人所破抄見聞』の「日興も寂を示し玉ひ次第に譲り玉ひて当時末代の法主の処に帰り集る処の法華経なれば法頭にて在す也」等々の文言について改めて検討してみよう。

 第一に、ここで述べられる「法主」「法頭」の語が問題となる。堀日亨によれば、日眼は南条時光の末子であり、大石寺の四世・日道や五世・日行の指導を受けたという。しかし先述のごとく、日道・日行関連の諸史料のうちに相承主義的な貫主絶対説をみてとることはできない。また『五人所破抄見聞』が著されたとされる康暦2(1380)年当時、大石寺宗門を率いていたのは6世・日時であった。先に示しかとおり、この日時にも大石寺住持としての意識しかみられず、自巳を唯授一人の「法主」として権威づけた記録など存在しない。そのような中で、妙蓮寺の日眼だけが日興から代々の「法主」への法華経付属を力説するというのは、いかにも不自然である。しかも、この法華経付属の文に先立って「日蓮聖人之御付嘱弘安五年九月十二日、同十月十三日の御入滅の時の御判形分明也」(富要4ー8)とあり、日興門流では初めて二箇相承の存在を明かしてもいる。

 門流の開祖である日興が「法主」と言うとき、それは常に宗祖の日蓮のことを指していた。ゆえに上代の大石寺住職たちも、自身を「法主」と称したり、呼ばせたりはしなかった。ところが、室町時代の9世日有の晩年に住本寺系の左京日教が大石寺に帰伏し、初めて大石寺の歴代貫主を指して「法主」と称し始めた。日教は、二箇相承の内容を初めて記述し、その意義を強調した学僧としても知られる。こうしたことから考えると、日興滅後の末代の大石寺住職をも「法主」と称し、なおかつ二箇相承を持ち出してくる『五人所破抄見聞』を門流上古の成立とみるのは難しい。左京日教の影響下に成立したものとみなすのが、内容面から言っても一番納得できる。

 それでも、あえて『五人所破抄見聞』の著者が妙蓮寺日眼であったと仮定した場合、日眼は中古天台の思潮から何らかの影響を受けていたと考えるべきだろう。中古天台の日伝法門的な伝承形態は、日蓮の時代を含め、中世の日本仏教界を覆った一大思潮であった。当然、それは初期の日興門流にも及んでいたと言える。妙蓮寺日眼も学僧と言われた以上、中古天台の法門やその伝承形態に関して十分な知識を持っていたはずである。彼が、そこから血脈相承、相伝重視の思想を摂取し、日興門流としての法華経の血脈相承の系譜を想定した可能性も全く考えられなくはない。

 しかし、たとえそうだとしても「日興も寂を示し玉ひ次第に譲り玉ひて当時末代の法主の処に帰り集る処の法華経なれば」云々という『五人所破抄見聞』の文に関しては、あくまで大石寺上代における一種の傍系思想として理解しておく必要がある。繰り返すようだが、同時代の大石寺貫主の文書類に、かかる相承主義はみられない。

 以上を要するに、日眼筆と伝えられる『五人所破抄見聞』は偽書である疑いが強く、その貫主信仰的な表現は傍系思想でもある。もとより日眼は、大石寺歴代の住持ではない。よって同見聞は、初期の大石寺門流に「血脈の貫主は絶対」という信条があったことを裏づける史料にはなり得ないのである。




   7 門流上代の貫主にみる唯授一人的な権威主義の不在

 右の考察により、『本因妙口決』『五人所破抄見聞』の両書を現日蓮正宗の相承主義的な貫主絶対説の根拠づけとして用いるのは、極めて難しいことが明確になったと信ずる。ここで他の角度からも、門流上代の大石寺貫主には唯授一人的な権威主義による自巳絶対化の思想がなかった、という点を確認しておきたい。

 周知のごとく、門流の開祖である日興は、先師の日蓮が六老僧を定めた例にならい、日目・日華・日秀・日禅・日仙・日乗の六人を後継の高弟として定めた。また重須に移ってからは、新たに日代・日澄・日S・日妙・日毫(日郷) ・日助の六名を、いわゆる「新六人」の弟子に指名した。

 日興は自分の死後、教団運営の面では一種の寡頭制を望んでいたと思われる。しかしながら日興は、『日興跡條々事』の中で日目のことを「嫡子」と表現しているので、最初の六名の本弟子の中でも特に日目を中心者に定めていたことが知られる。すでに述べたが、少なくとも『日興跡條々事』の案文は日興筆とみられる。そこに、日目をもって日興の正嫡とする記述が厳然とあるわけだから、日興に一人の嫡弟を定める意図があったことは疑い得ない。日興の嫡弟選出は日蓮の考え方を遵守したものと思われ、日蓮もまた一人の嫡弟を定めたことが想像に難くない。当然、かかる嫡弟選出の先例に従い、門流上代の大石寺貫主も一人の嫡弟を定めて令法久住を期したであろう。

 けれども、このような上代の嫡弟選出のあり方を、後世に成立する貫主絶対化としての「唯授一人血脈相承」思想と同一視してはならない。

 初斯の大石寺門流においても、時の貫主から一人の嫡弟へと重要法義が相伝されたと想像される。けれども、それによって神秘主義的、形式主義的に後継貫主が絶対権威を獲得するような風潮はなかったと言い得る。信頼できる史料に基づくかぎり、日興や日目は唯授一人的な権威を誇示したり、それによって自巳を絶対化したりはしていない。むしろ日興などは、宗祖が示した「依法不依人(法に依って人に依らざれ)」の訓戒に則り、自門流の貫主の権威を意図的に相対化している。彼の『遺誠置文二十六箇條』には「時の貫首たりと雖も仏法に相違して巳義を構えば之を用うべがらざる事」(歴全1−98)「先師の如く予が化儀も聖僧為る可し、但し時の貫首或は習学の仁に於ては設い一旦の媱犯有りと雖も衆彼に差置く可き事」(歴全−99)という条目が存するほどである。

 また日興・日目の滅後、大石寺を継いだ四世・日道も、唯授一人的な権威主義をもって他系の興門派を批判したりはしていない。具体的にみてみよう。日目の殉教から2年が経過した建武2(1335)年、大石寺四世・日道は日尊へ書状を送った。その中で日道は、「日興上人の御跡に人人面面に法門を立て違い候。或は天目の方便品不読誦に同じ、或は鎌倉方の迹門得道の旨に同じて立て申し候。唯日道一人正義を立つる間強敵充満し候」(歴全1ー287)と記し、当時の門流内が教義面、修行面で混乱の渦中にあったことを日尊に伝えている。日道はそこで「唯日道一人正義を立つる」との自覚も披瀝しているが、その自覚は日興と同様の〈結果としての唯一者意識の表明〉であることが文脈上明らかである。もし日道が、日興ー日目ー日道という法脈系譜を最も重視し、相承主義的な貫主絶対の思想を有していたならば、真っ先に自巳の血脈相承の正統性を書面に記さないわけがない。

 さらに言えば、この日道の書状の後、日興門流に属する何人かの高僧が本尊書写を行っているが、日道がそれらを批判した言説も残っていない。後世の大石寺門流において成立した排他的な相承主義に基づくと、唯授一人の金口相承を受けずに本尊を書写する行為は大なる謗法行為とされる。大謗法は自宗・他宗を問わず厳しく呵責せよーーそれが宗祖・日蓮の厳命であった。にもかかわらず、日道が、自分と同じ興門に属する諸僧の本尊書写を大謗法として咎めたという史料上の事実はない。ここから浮かび上がってくるのは、17世・日精の頃から目立ち始める〈貫主一人の本尊書写〉という思想も門流上代にはなかったのではないか、ということである。

 もう一つ、興味深い文献を挙げてみよう。口興の入寂から9年後の暦応5(1342)年に書された三位日順の『誓文』の中に、次のごとき記述がみられる。


倩ら大聖富山二代の遺跡を撿するに・貴賤互いに偏執を懐き・所立亦だ異義を存す、料り知りぬ一は是にして余は非なることを、恐くば皆着欲僻案の謂ひか、能聴是法者斯人亦復難の経文宛も符契の如し、濁世中比丘・邪智諂曲と仏記豈に他宗に限らんや……当家一味の師檀の中に大事堪え難きこと・出来の時は本尊を勧請し奉りて各判形を加へ、偏頗を破却せしめて宜しく衆議を成すべし、然らずんば後輩弥よ私曲を構へ人法共に断絶に及ばん(富要2−28〜29)

 右を現代語に訳すとこうなる。ーー宗開両祖の滅後、興門では、僧階の貴賎によらず互いに偏執を懐き、異義を立てるようになった。正義は一であり他は誤りであるというのに、恐らく皆、欲や僻案に執着しているのだろう。「能聴是法者斯人亦復難」の経文がまさに符契する状況である。「濁世中比丘邪智諂曲」との経文は他宗に限らない・・・今後、当門流の僧俗の間で重大な出来事があった時には、本尊の前で連判し、偏頗な心を捨てて皆で議論をなすべきである。さもなくば、後輩はますます誤った私見を持つようになり、人も法も共に断絶するに及ぶだろう――。

 こうした三位日順の嘆きをみても、当時の日興門流に唯授一人的な権威主義があったと主張することには無理がある。日順は重須談所の第二代学頭まで務めた高僧である。その日順が、唯授一人の権威にこだわる態度など微塵もみせず、ただ皆で議論し合って興門の正義を立て令法久住を期すべきだと訴えているのはどういうわけか。納得できる答えは一つしかない。それは、当時の日興門流内に唯授一人の血脈を正邪の絶対的基準とする思考はなかった、とする推定である。管見の限り、初斯の大石寺門流において貫主が相承主義的に自己絶対化をはかる動きは絶えてなかった。本稿の前半を締めくくるにあたり、この点は改めて強調しておきたいと思う。



   8 9世・日有にみる”信心の血脈”の強調と貫主代官説

 金沢の妙喜寺文書によると、9世・日有は応永9(1402)年4月16日に生まれた。当時の大石寺は、約70年にも及ぶ日郷門流との係争によって疲弊の極みにあった。そのような中、日有は大石寺8世の日影を師として出家し、修学に励んだ。応永26(1419)年、師の日影が死去したが、その年に若くして大石寺の法燈を継いだものと推定される。

 日有の事跡をみると、柏原談林の慶舜や仙波談所の「備前律師」と交流していた様子がうかがわれ、大石寺上代の諸師の例に漏れず、中古天台の思想に精通した人物だったと考えられる。恐らく日有も、関東天台の談林において口伝法門等を熱心に学んだのだろう。

 しかしながら、日有は中台天台の法門に傾倒していたわけではなく、むしろそれに批判的な立場をとっていた。そのことは、連陽房の聞書に「智慧才覚が仏法ならば天台宗等に若于の智者あり是れ又仏法に非るなり、仍て信心無二にして筋目を違えず仏法修行するを仏道修行広宣流布とは云ふなり」(富要2ー146)とあるごとく、天台的な「智慧才覚」を退けて大石寺門流の信心重視の立場を宣揚するところに明らかである。日有は中古天台の口伝法門を知ることにより、かえって台当の相違を明確に自覚し、大石寺独自の下種仏法の立場を確立しようとしていた。

 通途の日蓮門下が日蓮の本意とする久遠本果の仏と法は在世脱益の為である。像法の天台すら本果の法を観行即の位に引き下げ、巳心の一会二千の観法を修行した。いわんや末法は、像法の智者に及ばぬ三毒強盛の凡夫であり、我等凡夫が本果の妙法の利益を得ることなどできない(下野阿闍梨の聞書、富要2ー152)。そう考えた日有は、末法の愚迷の衆生は名字初心の位で理即本法の種子たる妙法を信受すべし、と力説した(同前、富要2ー153)。

 とすれば、血脈相承に関しても、日有が天台流の「金口相承」の考え方を積極的に採用したとは考えにくい。以下、本節では、日有の真の血脈観や貫主観を論じていくことにする。


(1)人法本尊への「信心」を師弟相対して継承−日有の血脈観

 最初に指摘しておくと、日有談とされる諸聞書の中で大石寺の「唯授一人血脈相承」を論じた箇所は一つもない。日有が盛んに強調したのは師弟相対を通じた「信心」の血脈であり、これは日蓮の血脈観と同義である。

 日有によれば、師弟相対とは凡夫の立場で事の一念三千を成就するために必要とされる修行である。末法においては、皆が三毒強盛の荒凡夫である。凡夫が極果の悟りを得るには、妙法蓮華経の信心によるしかない。そこで、末法の凡夫が信心修行に励むうえでは「師弟相対」というあり方が不可欠となってくる。なぜならば、師弟相対の化儀によって信心を発し妙法を受持していくところに、師(仏界)弟(九界)冥合の事の一念三千、即身成仏の姿が成ずるからである――。これが日有の師弟論の骨子であろう。

 ここで注目すべきは、日有における師弟相対が「師弟共に三毒強盛の凡夫」であることを前提とする点である。連陽房の聞書には、日有が「末法今時は悪心のみにして善心無し・師弟共に三毒強盛の凡夫の師弟相対して・又余念無く妙法蓮華経を受持する処を即身成仏とも名字下種とも云はるるなり」「後五百歳の今時に師弟共に三毒強盛の愚者迷者の上にして位・名字の初心に居して師弟相対して又余念なく南無妙法蓮華経と受持する名字は下種なり、此の下種に依って終に脱するなり」(富要2ー147)などと談じたことが記されている。日有の場合、師弟相対と言っても、師弟の間に本質的な境涯の差異を認めるものではない。師であれ、弟子であれ、ともに「愚者迷者」の名字即の位であるとし、その意味で師弟平等の意識に立つのである。日有は、「大師匠」にして「当家の本尊」と仰ぐ日蓮すら「未断惑の導師」(『化儀抄』、富要1ー65)と意義づけており、その本質論的な師弟平等の意識はまことに徹底している。

 したがって日有が「師弟相対」や「本末師弟の筋目」を強調するのは、何も師となる大石寺の貫主や末寺住職の存在を神聖化するためではない。日有の師弟論の真意は、師弟相対の化儀をもって事行の信心、事の一念三千の信心修行とするところにある。日有は「信心と云えば一人しては取り難し、師弟相対して事行の信心を取る」(富要2ー165)と語っている。「師弟相対する処が下種の体にて事行の妙法蓮華経なる」(『化儀抄』、富要1ー64)「下種と云ふは師弟相対の義なり」(日達の聞書、富要2ー153)との日有の諸発言も、末法の凡夫は師弟相対してこそ真に妙法への信心を発すこと(下種)ができる、とする事行の信心の立場を説いたものだろう。

 ともかく、「師弟共に三毒強盛の凡夫」という認識から出発する日有の師弟論に、権威主義的な師弟の上下関係を見出すのは難しい。『化儀抄』には「仏の行体をなす人には師範たりとも礼儀を致すべし」(富要1ー70)という一文もある。「仏の行体をなす人」とは、自行化他に精進する信心強き人を指すと思われる。日有の考えは、あくまで”信心根本の師弟相対”であった。

 そう考えると、「血脈」に関する『化儀抄』第二十七条の次の指南も信心根本の精神に貫かれていることがよくわかる。

信と云ひ血脈と云ひ法水と云ふ事は同じ事なり、信が動ぜずば其筋目違ふべがらざるなり。違はずんば血脈法水は違ふべからず、夫とは世間には親の心を違へず、出世には師匠の心中を違へざるが血脈法水の直しきなり、高祖巳来の信心を違へざる時は我れ等が色心妙法蓮華経の色心なり、此の信心が違ふ時は我れ等が色心凡夫なり、凡夫なるが故に即身成仏の血脈なるべからず(富要1ー64)

 宗祖・日蓮以来の「信心」が血脈法水の中身である、と日有は断ずる。血脈法水を仰々しく神秘化したり、師を権威化したり、あるいは秘密主義的に隠蔽したりする態度は、日有には全くみられない。

 ところで、日有の言う「信心」とは一体どのような信心なのだろうか。それは、開山の日興以来、大石寺門流が信仰してきた人法本尊ー人本尊たる日蓮、法本尊たる日蓮図顕の曼荼羅本尊――に対する無二の信心のことである。『化儀抄』は「当家の本尊の事、日蓮聖人に限り奉る可し」(富要1−65)「法華宗は何なる名筆なりとも観音妙音等の諸仏諸菩薩を本尊と為す可からず、只十界所図の日蓮聖人の遊ばされたる所の本尊を用ふべきなり、是れ即法華経なり」(富要1ー70)と門流の本尊観を明示している。日有は門流僧俗の信行の対象として、はっきりと人法の本尊を定めている。

 ゆえに「出世には師匠の心中を違へざるが血脈法水の直しきなり、高祖已来の信心を違へざる時は我等が色心妙法蓮華経の色心なり」(富要1ー64)という先の日有の指南は、日蓮以来の人法本尊に対する信心を師弟相対して実践し即身成仏せよ、との意である。また、この人法本尊は上行所伝の法体に他ならない。人法本尊に対する信心は、上行菩薩の血脈法水を信じ受けることである。だからこそ「信心」は「血脈」「法水」と同義なのである。

 ここで、下種の人法本尊に対する信心を門徒に教える貫主は、門流の教義解釈の最高権威者であろう。だが、その場合の教義解釈の最高権威者は絶対権威者ではない。なぜならば、日有は「教義」や「法体」よりも「信心」を表に立てた血脈観を説いているからである。そこには「末法の凡夫が、自らの智慧才覚で教義を完全に理解したり悟ったりすることなどできない。貫主といえども同じであり、ただ信心によってのみ成仏できる」とする、日有の徹底した末法凡夫主義が働いていたように思える。

 仏果の「悟り」とは違い、因行の「信心」には可膠性がある。日有も「信が勣ぜずば」「違はずんば」「信心を違へざる時は」「此の信心が違ふ時は」などと語り、信心の可謬性に注意を促している。かくも可膠的な信心の問題を最大事とする日有の血脈観から、貫主絶対の思想を帰結するのは困難である。「ここで言う信心は貫主の信心ではない」と考えるむきもあろうが、日有は「戒の持破をも云はず、又有智無智も云はず、信心無二なる時は即身成仏なり・・・但し破戒無智にして上位となすべからず」(富要1ー146)として、貫主(持戒・有智の上位)も含めた信心の姿勢(信心無二)を問題にしている。

 ついでに、日顕らが〃日有師も唯授一人血脈相承の絶対性を説いていた”と主張する際に、よく持ち出してくる『化儀抄』の第四条も検討しておこう。

手続の師匠の所は三世の諸仏高祖巳来代々上人のもぬけられたる故に師匠の所を能く能く取り定めて信を取るべし、又我が弟子も此くの如く我れに信を取るべし、此の時は何れも妙法蓮華経の色心にして全く一仏なり・是れを即身成仏と云ふなり(富要1ー61)

「手続の師匠」とは、自らの手によって仏法を弟子に授ける師匠をいう。ここでは、弟子を持つ大石寺の貫主や末寺住職を指して「手続の師匠」と呼ぶ。問題となるのは「三世の諸仏高祖巳来代々上人のもぬけられたる」という所である。ここに「もぬけられたる」とあるが、一体何がくもぬける〉のか。66世・日達は、「もぬけるとは、蛇、蝉、蚕等の成長のとき、外皮を脱ぐこと、抜きんずることである」と説明している。これに従えば、「三世の諸仏高祖巳来代々上人のもぬけられたる」という表現は、一つの何かが、三世の諸仏・高祖(日蓮) ・代々上人(歴代貫主)と姿形を変えて脱皮するように主体的に連続していく様を言うことになる。

 では、三世の諸仏から日蓮へ、日蓮から歴代貫主へ、と次々に脱皮していく主体とは何か。日達はこれについて「三世諸仏や大聖人いらい、歴代の法主上人のお心がぬけられて、師匠の所に来ている」と述べ、仏の「お心」が姿形を変えて脱皮するがごとく連続していくのだとする。この日達の表現は非常に曖昧であり、様々な解釈ができる。例えば、阿部日顕らは、〈もぬける〉
主体が「大聖人の御命」であると主張し、右に引用した『化儀抄』第4条について「御歴代上人には大聖人の御命がもぬけられ、現在大聖人の御命は自分に宿っているのであるから、自分に信をとるようにと御指南されている」と解釈している。彼らは、「大聖人の御命」=本仏の生命が歴代貫主に乗り移っていき現在の「法主」に宿っていると説く。まさに唯授一人による貫主絶対化の思想である。

 しかし、この日顕らの〈日蓮の命が宿った法主〉という考え方は、日有の他の言説と矛盾している。日拾の聞書によれば、日有は「上行菩薩の御後身日蓮大士は九界の頂上たる本果の仏界と顕れ、無辺行菩薩の再誕日興は本因妙の九界と顕れ畢ぬ。然れば本果妙日蓮は経巻を持ち玉へば本因妙の日興は手を合せ拝し玉ふ事師弟相対して受持斯経の化儀信心の処を表し玉ふ也」云々(歴全1ー409)と談じたという。日有はここで、日蓮を「九界の頂上たる本果の仏界」、日興を「本因妙の九界」に配している。化儀上の指南であると同時に、種家の本因本果論でもあるのだろう。つまり、日有は、十界の因果という面から日蓮ー日興の師弟相対の化儀を論じつつ、師の日蓮を下種仏法における本果妙、弟子の日興をこれに対する本因妙と立て分けたのである。

 その日有が、本果の仏界たる「大聖人の御命」の歴代貫主への転移を説くわけもない。また、師弟相対の信心が成就した暁には師から弟子へと本仏の生命が転移するのだ、と言うのならば、同様な信心を貫く大衆や信彼にも本仏の生命が移り宿らないと理屈に合わない。日有の師弟論から歴代貫主の内証相承を導き出すのは、土台無理な話である。次項で説明するが、日有における貫主即日蓮の義も、貫主を日蓮の代官とする立場からの、師弟相対の化儀の一局面に限定されている。

 『化儀抄』第四条で説かれたくもぬける〉主体は、本仏日蓮の生命などではない。われわれは今一度、日有の師弟論を貫く信心根本の精神を想起する必要がある。日有が説いた師弟相対は、師から弟子へと権威主義的に聖なるものを下げ渡すような関係ではない。すでに述べたとおり、日有は本質論的に「師弟共に三毒強盛の凡夫」という認識を強く持っていた。そこから導かれる師弟相対の化儀とは、たとえ仏界の側に立つ師といえども凡夫として妙法を信じ、この師の信を弟子がそのまま受け継ぎ未来へ伝えていく、というものであろう。それこそが、種家の本因本果にふさわしい師弟のあり方と言ってよい。ゆえに日有は、前出の『化儀抄』第27条で「高祖巳来の信心を違へざる時は我等が色心妙法蓮華経の色心なり、此の信心が違ふ時は我れ等が色心凡夫なり、凡夫なるが故に即身成仏の血脈なるべからず」(富要1164)と談じ、「高祖巳来の信心」を「我等」が継承すべきことを高唱しているのである。

 要するに、「手続の師匠の所は三世の諸仏高祖巳来代々上人のもぬけられたる故に師匠の所を能く能く取り定めて信を取るべし」(富要1−61)との『化儀抄』第4条の文言は、”「三世の諸仏高祖巳来代々上人」の「信心」が外見の姿形を変えつつ「手続の師匠の所」に来ているはずだから、日蓮以来の正しい信心を持った師匠をよく見定めて選び、その正師の信心に学んでいきなさい”という指南なのである。『御義口伝』に「三世の諸仏の成道も信の一字より起るなり」(全集725定本・2627)とあるごとく、日興門流では三世の諸仏も「信心」に徹して成道したとみなす。日有も「高祖巳来の信心」を最も重視しており、日蓮以来の下種の人法本尊への「信心」が歴代貫主の師弟相対によって継承されている様を「三世の諸仏高祖巳来代々上人のもぬけられたる」等と表現したのである。

 結局、9世・日有は、宗祖の日蓮と同じく”信心の血脈”の重要性を訴えた貫主として評価されるべきである。日有の言う「信心」は、下種の人法本尊に対する「信心」である。しかも日有は、信心重視の立場から、教義の相伝や本尊法体の証得といった貫主の権威にかかわる側面を後景に退けている。彼はただ、貫主も門彼も信心を最大事とせよ、と力説したのである。

 大石寺門流における貫主絶対説の成立史的解明、という本稿の目的に戻りつつ考えてみると、9世・日有を貫主絶対主義者とみなすのは不適切である。日有は、歴代貫主による下種の人法本尊への信心の伝承を称えたが、信心は可謬的であるから、それが〈現在進行形の貫主〉の絶対化に結びつくことはない。可謬的な信心を師弟相対の血脈の核心とすること自体、貫主にも無謬の悟りを認めないという日有の考え方の現われであろう。日有に関する聞書類の中には、日有自身が信仰上の誤りを犯した体験を語る場面も出てくる。内証相承論的な貫主絶対主義は日有の考え方ではない。

 日有にあっては、歴代貫主は結果的に正しい信心を貫いたからこそ血脈の師と仰がれ、現在の貫主は正しい信心を持つかぎり崇敬の対象となる。彼の師弟相対説は、上行の血脈法水を信受する貫主への崇敬を説くものであり、いわば貫主崇敬主義の立場に立つ。この点、当代貫主が師として信心を教えるというのは、あくまで門彼に信心の模範を示すということでなければならない。そこにおいて、相承の貫主は決して法義を「誤るべきではない」が、同時に「誤り得る」存在とも言えるのである


(2)貫主代官説

 次に、近世以降の宗門で目立ってくる貫主即日蓮の信仰が、日有の化儀論にみられるか否かを考えてみたい。

 〈本果妙の日蓮ー本因妙の日興〉の姿に師弟相対の化儀の究極をみる日有において、貫主即日蓮の化儀は最終的には否定されるしかない。ただし、日有の師弟相対観には三種がある。第一に日蓮(師)と貫主以下のすべての門徒(弟子)との師弟相対、第二に本寺住持=貫主(師)とそれに従う門徒(弟子)との師弟相対、第三に末寺住持(師)とそれに従う門徒(弟子)との師弟相対である。このうち、第二番目の師弟相対の化儀においては貫主即日蓮の化儀が採用される。

 具体例を少々挙げてみよう。

弟子檀那の供養をば先づ其の所の住持の御目にかけて住持の義に依って仏へ申し上げ鐘を参らすべきなり、先師先師は過去して残る所は当住持計りなる故なり、住持の見たまふ処が諸仏聖者の見たまふ所なり(富要1ー63)

 『化儀抄』第24条の文である。堀日亨の註解に基づくと、本条は本山(大石寺)の役僧が弟子檀那の供養を取り次いだ場合、まず本寺の住持(貫主)の指揮を仰ぐべきことを教えている。そして、その理由は、大石寺の現貫主(当住持)が「高開三(日蓮・日興・日目のこと=筆者注)の代表にして・現住の(施物を)見る所は仏聖人の見給ふ処なる」(富要1=146)からだという。

 本条にみられる「住持の見たまふ処が諸仏聖者の見たまふ所」との日有の指南は、貫主即日蓮の義に通ずるところがある。だが、それは化儀の一局面における指南にすぎず、貫主信仰的な意味がそこに含まれているのではない。現貫主が取り次ぎの役僧から届けられた弟子檀那の施物をさらに「仏へ申し上げ鐘を参らす」ように指示する、とされているのは、現貫主も仏と弟子檀那の間に立つ取次ぎ役に他ならないことを示している。したがって日亨の解説のごとく、本条における現貫主は「高開三の代表」「本取次」(富要1ー146)として意義づけられ、そのうえに貫主即仏の義が立てられるのである。換言すれば、現貫主は日蓮に代わって化儀面で日蓮の振舞をなすわけであり、そこに日有の真意があったとみるべきである。

信者門徒より来る一切の酒をば当住持始めらるべし、只し月見二度花見等計り児の始めらるるなり、其の故は三世の諸仏高祖開山も当住持の所にもぬけられる所なるが故に、事に仏法の志を高祖開山日目上人の受け給ふ姿なり(富要1ー162)

 今度は『化儀抄』第14条である。この条目については「只し月見二度花見等計り児の始めらるるなり」をどう理解すべきかが難しく、日亨もいくつか解釈の可能性を示している。しかし、「三世の諸仏高祖開山も当住持の所にもぬけられる所なるが故に、事に仏法の志を高祖開山日目上人の受け給ふ姿なり」との日有の指南に対する日亨の意見は確定しており、「本山の住持の当職(末寺も此に准ず)は三世諸仏高祖開山三祖の唯一の代表者なれば・仏祖も殊に現住を敬重し給ふが故に供養の一切の酒を当住持が始らるるは勿論の事にて・即宗開三祖が自ら受け給ふ姿なり」(富要1ー145)というものである。

 先に考察したように、日有の『化儀抄』においてくもぬける〉主体となるのは下種仏法への「信心」である。その前提に立てば、三世諸仏・日蓮・日興・日目の下種仏法への「信心」がくもぬける〉ところの現大石寺貫主は「三世諸仏高祖開山三祖の唯一の代表者」として信者門徒からの仏法の志を受け取るべきだ、というのが本条の趣旨であろう。ここにも、日蓮の代わりに現貫主が化儀の上で日蓮の振舞をなす、という日有の思想が看取される。

 このように、日有の『化儀抄』では、現貫主が三世諸仏・日蓮・日興・日目に代わって種々の化儀を執り行うべきことが所々で説き示されている。日有は、貫主代官説に基づきつつ、師弟相対の化儀の一局面において貫主即日蓮の義を散説したのである。

 そもそも『化儀抄』には、現貫主を〈仏の代官〉とみなすべきことを明確に定めた条目が存する。『化儀抄』第61条がそれであり、「居住の僧も遠国の僧も何れも信力志は同じがるべき故に、無縁の慈悲たる仏の御代官を申しながら遠近偏頗有るべからず」(富要1ー69)とある。ここにいう「仏の御代官」のことを、日亨は「仏の御代官とは別して本寺の上人・惣しては役僧方を云ふ、通して末派一門の僧侶も仏の代官の義なりといへども・今文の詮にあらず」(富要1−118)と説明している。たしかに、「居住の僧」と「遠国の僧」を偏頗なく慈悲をもって見るべき立場とは、詮ずるところ「本寺の上人」=大石寺の貫主に他ならない。大石寺の現貫主を「仏の御代官」、すなわち本仏・日蓮の代理人とする思想が日有にあったことは明らかにみてとれる。

 かかる貫主代官説を踏まえたうえで、日有における貫主即日蓮の化儀を捉え直すとき、それが内証相承論的な〈貫主=日蓮〉を意味しないことは一層明瞭になろう。われわれは、日有の『化儀抄』に貫主即日蓮の義が説かれているからといって、それを内証の次元で論じてはならないのである。

 

 

9 大石寺の血脈神話の原型――左京阿闍梨・日教の登場

 初期の日興門流において、中古天台の思想との接触がみられることはすでに述べた。しかしながら、この時期の大石寺貫主は誰一人として中台天台流の相承主義を顕説していない。9世・日有などは、天台家の日伝法門の血脈相承に対して”信心の血脈”という日蓮本来の血脈観を立て、宗祖・日蓮の「信心」を継承すぺき現貫主を日蓮になぞらえて教団を統率する化儀を確立している。

 ところが、日有の晩年頃に一人の他門の学僧が大石寺に帰伏し、いつのまにか中古天台流の相承主義を大石寺教学の中に持ち込んだ。その学僧の名は左京阿闍梨・日教という。元々日教は、日興門下の中でも天台教学の影響を強く受けたとされる玉野大夫阿闍梨・日尊の門流に属していた。京都の住本寺系で本山格とされた出雲の馬木大坊(安養寺)の住持を務め、本是院日叶と名乗る有力僧だったという。

 この日叶の名で著された書に『百五十箇条』がある。同書は日教が大石寺に帰伏する以前の作と言われ、内容は習学者のために当時の日尊門流の法門をまとめたものとみられる。その中で日叶は、百五十箇条のうちの大半を三重七箇法門についての台当の相違のために費やしている。ここから、日叶がいかに中古天台の口伝法門を重大なテーマとしていたか、をうかがい知ることができよう。

 もっとも、『百五十箇条』の主眼の一つは天台家と日蓮門下との仏法的な相違を示すことなので、中古天台の口伝法門に対しても日叶の態度は批判的である。例えば、『百五十箇条』の第9条には「惣じて天台一流の口伝相伝をかがやかし本門弘通の蓮師の御書を破らん事口惜し」(富要2ー179)「天台一流の口伝を信じて御書を会通せん事は冥罰有るべき事なり」(富要2ー180)等とある。日叶はここで、天台家の本迹一致の口伝法門をもって日蓮の「御書」を解釈する者がいることを嘆き、それを強く非難している。日叶は、天台家の口伝法門の内容に関して批判的な立場をとる。

 だが半面、そうした日叶も、中台天台がとった相承主義というあり方自体については肯定的な態度を示している。『百五十箇条』の第10条において、日叶は「当門流に大聖人以来は日興を以て・法主とせり……惣別の中に別して法主計り受授の導師となると申し伝えたり、唯我与我の事口伝にあり」等と述べ、日蓮が定めた六老僧の中でも「唯我与我」の「法主」は日興一人であることを高唱している(富要2ー182)。また次の第11条では、いわゆる「二箇相承」の全文を引用している(同前)。すなわち天台家の口伝相承のごとく、当門流でも日蓮から日興一人への血脈相承があったとし、それゆえに日興は「法主」と尊称されるべきだと訴えている。

 加えて日叶は、『百五十箇条』の第148条で、

台家には金師の祖承・金口の相承とて二筋の法門有ること常の如し、当宗の金師金口共に伝たるなり、釈迦の金口を動かず塔中にて別付属せし上行菩薩なり、取りも直さず唱るは金口なり、金師は釈迦も三十二相地涌の菩薩も身皆金色にて請取玉ふなり金師なり、此金口の明説を上行に授け上行再誕の日蓮日興に授く、されば日興を以て解悟の知識と申すなり(富要2ー245)

 とも述べている。

 天台宗では、『摩訶止観』の序の記述を基に「金口相承」と「今師相承」の二説を立てる。金口相承とは、『付法蔵因縁伝』に基づき、釈迦から迦葉、阿難へと次第して師子比丘に至るまでの23祖の師資相承の系譜を明らかにしたものである。また今師相承とは、今師である天台智から遡って智の師たる南岳慧思、慧思の師たる北斉慧文を挙げ、さらに慧文が滅後相承として金口相承の十三祖・龍樹につながることを示すものである。つまり、金口・今師の両相承が相侯って、天台家が釈迦の仏法の正統を継ぐ宗であることが証されるわけである。この両相承は『等海口伝抄』や『八帖抄見聞』の中で論じられるなど、中古天台においても重視された。ただし、『等海口伝抄』では、常在霊山の教主より天台智顎への直授によって今師の知識相承が立てられる。

 先の日叶の『百五十箇条』の文に戻ると、日叶は「今師」ではなく「金師」の祖承を論じている。それはともかくとして、注目されるのは日叶の金口相承説である。日叶は、日蓮の法華宗に

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明を加えていこう。

(1)「二箇相承」による日興正嫡の主張

 二箇相承に関しては、石山帰伏以前の日教の作と言われる『百五十箇条』において、すでにその全文が引用されている(富要2ー182)。当然、帰伏後の日教も二箇相承の権威を宣揚していった。日教は、『穆作抄』の中で「日蓮聖人五十年の法門をば日興御付嘱の段はやがて十月十二日壬午年の御譲状顕著なり私宗師興隆の事未だ血脈を知らざるなり」(富要2ー273)と述べている。また『類聚翰集私』(富要2ー314)と『六人立義破立抄私記』(富要4ー44)では二箇相承の全文を引用・紹介し、「加様なる御禅り余所に有らば詮無き事也、然るに余所にはなき也」(富要4ー44)等と記しながら、日興が日蓮の正嫡たるゆえんを二箇相承の存在に求めている。

 大石寺門流史において二箇相承の存在に最初に触れた文献は、康暦2(1380)年、妙蓮寺日眼の作とされる『五人所破抄見聞』である。しかし、すでに述べたように『五人所破抄見聞』を日眼撰と確定することは文献学的にできない。しかも同見聞は、二箇相承について「日蓮聖人之御付嘱弘安五年九月十二日、同十月十三日の御入滅の時の御判形分明也」(富要4ー8)と示唆的に記すにとどまっている。

 したがって、日蓮から日興への二箇相承を大々的に取り上げ、その全文を引用しながら権威づけた文献は、大石侍門流では長享2(1488

)年の左京日教『類聚翰集私』(富要2-314)をもって嚆矢とする。二箇相承の権威を前面に立てて日興正嫡を主張する動きは、日教が帰伏する前の石門流にはなかった。二箇相承の内容を参考にすると、日興が身延山久遠寺の別当だった期間は6年余の計算になる。しかし最古の三師伝とされる『御伝土代』は、「日興上人は大聖御遷化の後身延山にて弘法をいたし、くけ関東のそうもんをなして三ヵ年か間身延山に御住あり」(歴全1ー267)としている。ここにいう「三ヵ年」を、日興が公武に申状を送った弘安8(1285)年から3年間の身延在住と解する説もあるが、文脈に忠実な解釈とは言えない。そもそも『御伝土代』の作者は二箇相承に何一つ言及していないのだから、その存在を知らなかった可能性の方が高いのである。さらに時代が下って9世・日有の言説をみても、二箇相承の権威を殊更に唱えた形跡はみられない。

 二箇相承による日興正嫡の顕説は、大石寺門流にあっては紛れもなく左京日教に始まっている。日教以降の大石寺の歴代貫主は、日教の諸文書を書写したり相伝したりして、その思想から多大な影響を受けた。このゆえか、「二箇相承があるから日蓮の正しい後継者は日興一人である」という文献至上主義的な思考が、次第に大石寺宗門の新たな伝統として定着していくのである。

 

(2)仏法付属を中核に置く血脈観

 次に、日教は、日蓮の仏法が大石寺の歴代住持によって連綿と付属されていることを殊更に強調し、大石寺門流内に広めた。9世・日有は、日蓮以来の「信心」が大石寺の歴代住持に継承されていると説いたが、歴代の仏法付属については裏面に隠した感があった。日有以前の大石寺の歴代貫主も、信用できる史料の中では、自門の仏法付属を宣揚するがごとき言説を残していない。中には『御伝土代』のように釈尊から上行日蓮への本門付属を述べた文書もあるが(歴全1ー271)、大石寺の貫主間の仏法付属には言及していない。末法の衆生はすべて凡夫である、貫主とて例外ではない――こうした考え方に立てば、石山の歴代貫主による金甌無欠の仏法付属を標榜することは難しくなろう。

 ところが左京日教の諸文書では、大石寺歴代による仏法付属の系譜を誇示する言説が至る所に見出される。『穆作抄』には、「釈尊より以来の唯我一人の御付嘱を糸乱れず修行有る聖人を信受し奉る所の信心成就せば師檀共に事の行成立すべし、さてこそ当家なれ」(富要2ー262)「此の門家には日蓮聖人より以来の附法血脈一宗の法頭疑ひなきなり」(富要2ー274)「此の御本尊は忝くも高祖聖人より以来付法の貫主のあそばしたまふ授与の御本尊より外に仰も雅意に任せて書く可きや」(富要2ー283)といった記述がみられる。いずれも、大石寺だけが釈尊ー日蓮以来の仏法を付属してきた正統血脈の門家である旨を宣しか文である。

 また『類聚翰集私』でも「日蓮聖人御入滅有るとき補処を定む、其の次ぎ其の次ぎに仏法相属して当代の法主の所に本尊の体有るべきなり」(富要2ー309)と述べられ、日蓮の滅後は「其の次ぎ其の次ぎに仏法相属」して大石寺の「当代の法主」の所に本尊の体がある、との見解が示されている。

 日有の言う血脈は信心継承を核とするが、日教にとっての血脈は第一に仏法付属を指す言葉であった。「高祖聖人より以来付法の貫主」(『穆作抄』、富要2ー283)「血脈乱れざる付弟代々上人」(『六人立義破立抄私記』、富要4ー29)「付法血脈直らざるは仏法にては有るべがらざる也」(『四信五品抄見聞』、富要4−52)といった日教の言説の数々をみても、彼が仏法付属(付法)をもって血脈と称していたことが明らかである。

 元々日教の出自である日尊門流では、その原始の時代より血脈付法を尊重したようである。日尊は、康永3(1344)年、日印に本尊・御影の譲状(正本・要法寺蔵)を与えているが、そこに「右付弟として授与する所件の如し」(富要8ー101)との一文を添えている。また日大の記録によれば、日尊は「付弟一人」の本尊書写を門弟に指示したとも言われる。これらは、尊門成立の当初から貫主の付法が重視されていたことを示唆する史料といえ、尊門出身の日教が付法系譜を問題視しか理由も解けてくる。

 日蓮は、口伝法門の授受を誇示する当時の中古天台の血脈相承に対し、「信心の血脈」の重要性を弟子たちに説き教えた。日興も、また門流上代の大石寺住持たちも、宗祖の「信心」の忠実な継承に最も意を注いでいる。9世・日有の代には「信と云ひ血脈と云ひ法水と云ふ事は同じ事なり」「高祖已来の信心を違へざる時は我れ等が色心妙法蓮華経の色心なり」(富要1ー64)という”信心の血脈”観が、改めて説示されるに至った。それは、自らが付属の当事者になるのではなく、むしろ上行付属の妙法五字をただ信受する、という立場の表明でもあったと言えよう。だが左京日教は、この大石寺門流内に、貫主が主体的に仏法を悟り付属していくという血脈観を広めようとし、先述のような様々な説を書き残した。それによって大石寺本来の”信心の血脈”観は変質し、やがて日教流の血脈付法観に取って代わられるのである。

 まず、日教から指導を受けたとされる12世・日鎮は、大永6(1528)年に置文を認め、その中で「大石寺惣衆檀那」に対し、「良王殿」(後の13世・日院)が成人した暁には「当寺の世間仏法共に御渡し」するように、と書き残した(『付弟状』[正本・大石寺蔵]、歴全1ー443)。この史料は、晩年の日鎮が日教流の血脈付法観を持っていたことを知るに充分である。また日鎮から相承を受けた13世・日院も、要法寺日辰に対し、「師口両相承」によって「三箇の秘法」が大石寺にある旨を述べているので(『要法寺日辰御報』、歴全1ー451)、やはり仏法付属を中核に置く血脈観を有していたと考えられる。

 次に、大石寺が要法寺と通用を始める時代に入ると、14世・日主が血脈相承による仏法付属を前面に打ち出し始める。日主は要法寺から来た日昌に『御相承受授証』(正本・大石寺蔵)を渡したが、その中で「日興日目日道嫡々付法の遺跡の事、日院よりの金口相承の一字も残さず付嘱し仕り候」(歴全1ー463)等と書き残すなど、意識的に金口嫡々血脈相承の立場を強調している。要法寺僧に対する初めての相承ゆえに種々の背景事情が考えられるが、この時点で大石寺門流は公式に「血脈付法」の看板を掲げるようになったと言ってよい。

 そして江戸時代の初期には17世・日精が出現し、ついに血脈付法史観に基づく大石寺の歴代貫主伝(『富士門家中見聞』)を編むまでになる。日精が著述した『家中抄』3巻は、2箇相承を引いて日興正嫡を示すことから始まり、「就中日目は高祖の侍者、興師の嫡子なれば本尊の大事、並に七箇口決等相伝し給ふ」(富要5ー173)「上洛の刻には法を日道に付す」(富要5ー216)「興目両師に従って血脈を禀承する等を日行に伝授す」(富要5ー250)「血脈を日時に相伝するなり」(富要5ー251)等々と、大石寺の仏法相承の次第を虚実織り交ぜながら列記している。この『家中抄』以外、大石寺門流は系統だった宗史の記録を持たない。よって日精の『家中抄』は大石寺の歴代貫主伝の基礎史料となり、その血脈付法史観も後々まで引き継がれていった。

 こうした経緯により、左京日教が説いた〈仏法付属を中核に置く血脈観〉は日有以前の大石寺門流にあった〈信心継承を核心とする血脈観〉を完全に凌駕してしまった。現代の日蓮正宗が誇りとする700年の「血脈付法」の伝統は、じつは左京日教の言説を源とするのである。

 

(3)「唯我一人」「唯授一人」の用語の普及

 大石寺の血脈相承は「唯我一人」「唯授一人」でなくてはならない――日教は諸著作の中で、この一点を繰り返し説いた。背景には、天台宗の相承論への対抗心や、日教自身が興門の相伝書を相承したことなどがあったと思われる。日教が活躍した15世紀、中台天台恵心流の口伝法門は隆盛期を迎えていた。当時の恵心流と大石寺門流との思想的交渉について、例えば『等海口伝抄』の「嫡流一人の外に更に口外なき当流深秘の口伝なり」といった類の文言が大石寺では「唯授一人」説になった、などと推断する者もいる。この点はもっと詳細に研究される必要があるが、仮にそうした動きがあったとすれば、日教は重要な役割を担ったと考えられよう。ちなみに、日教は『穆作抄』や『四信五品抄見聞』の中で恵心流の義に触れている。

 では、日教が立てた「唯我一人」「唯授一人」の説とはいかなるものか。第一に、彼は『法華経』譬喩品に「唯我一人 能為救護」とあることに注目する。『類聚翰集私』では、この譬喩品の文を冒頭に記載し(富要2ー304、第16「唯我一人の事」の中で釈尊が唯我一人の救済者であることを説示しつつ「大聖人こそ末法の唯我一人なり」(富要2ー342)と結論している。こうして「在世滅後共に導師は唯我一人なり」(『穆作抄』、富要2ー250)「唯我一人の導師にて在世滅後正像末の弘経なるを聖人の御代に限って六人共に以つて法主にては有るべがらざるなり」(同前、富要2ー273)といった「唯我一人」の相承観を唱えたのである。

 第二に、『法華経』の虚空会の儀式における釈尊から上行への別付属が「唯我一人」である、という点にも日教は着目した。『穆作抄』に「釈尊の唯我一人の御導師として又別付嘱は唯我一人なり、三世不退に唯我一人唯我一人と次第連続して唱へ奉る題目を以て・法界一鉢の種子無上の下種の法花と申すなり」(富要2ー257)という記述がある。釈尊より上行への別付属が「唯我一人」なのだから、上行の再誕たる日蓮の教団も「唯我一人唯我一人と次第連続して」仏法を相承していくべきだ、と日教は考えたようである。そのことは、同抄に「釈尊より以来の唯我一人の御付嘱を糸乱れず修行有る聖人を信受し奉る所の信心成就せば師檀共に事の行成立すべし、さてこそ当家なれ」(富要2ー262)「導師は尽未来際に御出現有る可き唯我一人なるべし」(富要2ー271)と述べられていることからも首肯されよう。

 第三に、日教は教団の統率という観点から、血脈相承が「唯授一人」であるべきことを強く訴えた。『穆作抄』では「聖人御門流には付法の法主は二人有るべがらざるなり」(富要2ー286)と断じ、『四信五品抄見聞』には「夫れ相承とは唯授一人と云ふ也二人に教へては仏法の諍論して細人粗人二つ倶に犯過の故に其の仏法たゆる也」(富要4ー49)と説き、『六人立義破立抄私記』になると「世出家に二人の補処有れば其家必す亡じて世に二仏無く国に二主無し」(富要4ー44)と教え諭している。要するに、教団内に二人の付法の法主がいれば評論が起きて仏法がほろぶ、だから相承は必ず唯授一人でなくてはならない、というのが日教の主張であった。日教は尊門の出身である。「富士門跡は付弟一人書写し奉るべきの由、日興上人の御遺誠也云々、其故は法燈を賞し以て根源を立つるが為也」という日尊の教えが、彼の「唯授一人」思想に影響を与えた可能性もあろう。

 第四に、日教が石山帰伏前に師の日耀から相承した『本因妙抄』『百六箇抄』『産湯相承事』等の相伝書の所々に「唯授一人」の付弟たるべしとの主張がみえる。恐らくはこのあたりが、日教の「唯授一人」説の最大の論拠ではなかろうか。日教の『類聚翰集私』には『産湯相承事』の全文が引用されているが(富要2ー815〜316)、その末文は「此の相承は日蓮嫡々一人口決・唯授一人秘伝なり神妙神妙と云ひ終って留め畢りぬ」(富要2−316)である。また日教の諸著作中に引用されていないものの、『本因妙抄』の後加文には「此の血脈並に本尊の大事は日蓮嫡嫡座主伝法の書塔中相承の禀承唯授一人の血脈なり、相構へ相構へ秘す可し秘す可し伝ふ可し。法華本門宗血脈相承畢りぬ」(富要118)と、さらに『百六箇抄』の後加文にも「直授結要付属は一人なり、白蓮阿開梨日興を以つて惣貫首と為て日蓮が正義悉く以つて毛頭程も之れを残さ悉く付属せしめ畢んぬ、上首已下並に末弟等異論無く尽未来際に至るまで予が存口の如く日興嫡嫡付法の上人を以つて惣貫首と仰ぐ可き者なり」(富要1−20)「右件の結要本迹勝劣は唯授一人の口決なり」(富要1ー24)とある。こうした後加文が京都の日尊ー日大系統の門流において作られたものだとすれば、そこを出自とし、なおかつ『本因妙抄』『百六箇抄』を相伝された日教が「唯授一人」という用語を重視するのも当然である。

 かくして日教は、大石寺門流内で「唯我一人」「唯授一人」という用語を普及させていった。先に触れたが、初期の大石寺門流でも一人の嫡弟の選出は行われたとみられる。しかしながら、その嫡弟選出を「唯我一人」「唯授一人」という用語で神秘化し、貫主絶対の思想につなげていくような動向はなかった。これに対し、日教は「池上に於いて奥州新田卿公日目に余人を去つて唯授一人の御相承金師金口の祖承是れなり」(『類聚翰集私』、富要2ー313)「三箇の秘法も唯授一人也」(『四信五品抄見聞』、富要4ー52)などと述べながら、「唯授一人」という用語を大石寺一門の間で定着させ、結果的に貫主絶対主義の形成を促していったのである。


(4)「法主」の語の大石寺住持への適用

 「法主」の語は『倶舎論』にみられ、真理の主、仏のことを意味する。また『上宮維摩疏』では法(道理)に達した人や法を説く人、『大宝積経』では一つの仏国土を支配する人のことを「法主」と言う。つまるところ、法を自在に説く「仏」を「法主」と称する。

 日興の門流では、「法主」という言葉を宗祖・日蓮の尊称として用いることがあった。弘安2(1279)年の『滝泉寺申状』は、日興門下の日秀・日弁等の名で幕府に提出された訴状であるが、その中で日蓮のことを「法主聖人」と称するところが一箇所ある(全集850・定本1678)。この箇所は、じつは日蓮自身の筆になる。恐らくは日蓮在世の頃、日興の周辺に日蓮を「法主」と尊称する門下もいたのだろう。日蓮滅後になると、日興自身、ある消息の中で日蓮を「法主聖人」と呼んでいる(『御節供御返事』[正本・西山本門寺蔵]、歴全1−197)。また日興の直弟子の二位日順も、『本門心底抄』や『摧邪立正抄』で日蓮のことを「法主聖人」と称している。

 とはいえ、当時の日興門流において日蓮を「法主」と呼ぶ例は非常に稀であった。日興の消息類から察するに、日蓮に対しては「聖人」「仏」「法華聖人」「ほとけしやうにん(仏聖人)」といった尊称を用いることの方が多かったようである。

 要するに、日興門流において法主の語はなじみが薄く、時折、宗祖の日蓮をそう呼ぶこともあったという程度である。当然、今日の日蓮正宗のごとく、門流の貫主に法主の尊称を奉って敬意を表する慣例はなかった。『遺誡置文二十六箇條』によると日興は門流の長を「貫首」(歴全1−98、99)と呼び、『日興跡條々事』では本門寺建立の時の日目の立場を「座主」(歴全1−96)と定めている。

 日興以後の上代の石山貫主をみても、貫主を法主と称した例は見当たらない。それどころか、日目以降の貫主になると、宗祖・日蓮を法主と呼んだ例も皆無である。彼らは、もっぱら日蓮に「聖人」の尊称をつけ、貫主との差別化をはかった。日目は『日興上人御遺跡事』(正本・大石寺蔵、歴全1−213)の中で、日蓮を「聖人」、日興を「上人」と呼び分けている。四世・日道の作とされる『御伝土代』も同じ呼び分けを行い、日目をも「上人」とする。五世・日行も同様であり、『申状』(日舜写本、歴全1ー297)では、日蓮を「聖人」、日興・日目・日道を「上人」と呼んで区別する。ただ、六世・日時の訴状案には「日蓮上人」との表現がみられる。が、同時に日時自身を「大石寺別当」(歴全1ー303)と自称している点も目を引く。9世・日有については、日蓮のみを「高祖」「聖人」と特称し、日興には「開山」、大石寺歴代に対しては「上人」「代々上人」「本寺の上人」「本寺住持」といった呼び方をしている。

 このように、3祖・日目から9世・日有までの大石寺歴代は法主の語を用いず、しかも日蓮と日興以降の貫主とを区別する意識を強く持っていたようである。

 だが、そこへ「法主」の語を重視し、あまつさえ大石寺の歴代にそれを拡張適用しようとする人物が現れた。左京日教である。日尊門流が相伝書として珍重した『本因妙抄』の中に「某は下種の法主なり」(富要1ー5)との文言があるが、日教は住本寺系の高僧だった頃から「法主」の語を好んで用いていた。『百五十箇条』をみると、日蓮のことを「法主聖人」(富要2ー45)と尊称する一方で、「当門流に大聖人以来は日興を以て・法主とせり」「何の間彼も貫主法主と云ふ事あり」「惣別の中に別して法主計り受授の導師となると申し伝えたり」「今日蓮聖人、万年救護の為に六人の上首を定む、何ぞ法主無がらんや不審之多し、何れにか法主の譲りを得玉へる御判有るぞや尋ぬべし」と唱え、日興一人が日蓮から「法主」の位を譲られたことを力説している(富要2ー182)。

 日蓮から日興へ「法主」の位が譲与されたとする、この日叶(日教)の説は、彼が大石寺に帰伏するに至り、さらなる展開を遂げる。すなわち日教は、「法主」の地位が日興から大石寺の歴代住職へ連綿と受け継がれている、とも主張するようになった。大石寺歴代をも「法主」とみなす、日教の言説の数々を紹介しておこう。

 『穆作抄』
 @ 所詮は当代の教主法王より外は本門の本尊は無しと此の信成就する時、釈迦如来の因行果徳の万行万善・諸波羅蜜の功徳法門が法主の御内証に収まる時・信心成就すると信ず可きなり(富要2ー253)
 A 末代は如何と云はば法花の信者は法主に値ひ奉る是れなり(富要2ー261)

 『類聚翰集私』
 B 日蓮聖人御入滅有るとき補処を定む、其の次ぎ其の次ぎに仏法相属して当代の法主の所に本尊の体有るべきなり、此の法主に値ひ奉るは聖人の生れ代りて出世したまふ(富要2ー309)
 C 持経者は又当代の法主に値ひ奉る時・本仏に値ふなり(富要2ー329)

 最初の『穆作抄』の@は、前後の文脈からは日蓮を指して「教主」「法王」「法主」とするようにも読めるが、後のABCとの整合性を考えると、やはり歴代貫主を含意した法主論である可能性が高い。日教は、日蓮のみならず大石寺の歴代貫主をも「法主」と尊称した。こうした日教の〈法主=日蓮及び大石寺歴代〉観は、後述する彼の貫主信仰と密接な関わり合いを持つ。本来は仏の尊称である「法主」の語が大石寺歴代に適用されることにより、大石寺の歴代貫主は正嫡の師たるにとどまらず、「本尊の体」の所持者として門徒の信仰の対象ともなるのである。

 大石寺の貫主を「法主」と称して信仰対象にする、こうした日教の説は、さすがに大石寺宗門でも受け入れ難かっかとみえ、近世まで日教の法主論に従う宗門人はいなかった。これには、日教の教学を摂取しつつもそこから貫主信仰を排除した、26世・日寛の教学的影響力が大きかったと考えられる。

 しかし明治以降の宗門では、日教以外からの影響によって貫主を「法主」と称する動きが生じた。明治21 (1888)年12月号の『興門唱導会雑誌』に、小泉久遠寺の妙高日海が「大法主の名義」と題する一文を寄せている。その中で日海は、日蓮宗一致派で管長の名称を廃止して「大法主」と称する旨が論議されたことを紹介しつつ、「他宗他門にて大法主となり大聖人となり仏世尊となりとも勝手次第たるべしと雖も……本因妙抄に仏は脱益の教主某は下種の法主と見え 塔婆抄には法主は宗祖一人に限る由見えたり 他門の中に於てすら此遠慮あり 況んや本派に於てをや 法主と云さえ尚恐れあるべし、況んや大の字を加へしに於てをや」と述べている。ここから知られるのは、明治20年代の初頭の段階では大石寺の貫主はおろか興門派の管長にも「法主」の名を冠することがながった、という歴史的事実である。

 ところが、明治23(1900)年9月、興門派からの大石寺の分離独立が認可され、同寺が「日蓮宗富土派」と公称する時斯になると、この状況に変化が訪れる。日蓮宗富士派として独立後に定められた「宗制寺法」(明治33年9月18日認可)をみると、その第6条に「歴代嫡々相承して現代56嗣法主に至る」との文言が織り込まれている。この時点で、宗門人は正式に大石寺貫主のことを「法主」と呼び始めている。

 以後、この呼称法は急速に宗内に定着した。例えば、法道会が明治36(1903)年7月に発行した雑誌『法の道』の巻末に、「六巻抄」の印刷発売にともなう「予約広告」が掲載されている。そこには「総本山26嗣法主日寛上人著述 総本山56嗣法主日応上人冠註」との記載がみられる。また同年10月発行の『法の道』には「本宗記事」の欄があり、「御虫払会の概況」が記されているが、そこでも「法主上人」という表現が何度も使われている。明治中期の大石寺門流は、日蓮宗の動向等に影響され、いつの間にか自門の貫主を「法主上人」と称するようになった。

 こうして、近代以降の宗門では大石寺の貫主を「法主」と呼ぶことが慣例化した。その過程自体は、左京日教の〈法主=日蓮及び大石寺歴代〉観とは無関係に進行したのかもしれない。けれども近年、67世を自称する阿部日顕が創価学会を「破門」するという事件が惹起するや、現日蓮正宗は日教の法主論を用いながら”大石寺歴代を日蓮と同格の「法主」とみることは宗門の伝統である”などと唱え始めた。日顕らは、自分たちに都合のよい貫主信仰を歴史的に正当化するため、唐突に日教の法主論を持ち出してきた。

 ここにおいて、日教の法主論を〈宗門古来の伝統〉とする主張が大石寺内で発生したわけである。今、大石寺門流における「法主」の意味が改めて問い直されるべき時を迎えている。既述のごとく、日教の〈貫主=法主〉説は大石寺本来の伝統などではない。それは、一種の外来思想にすぎず、中近世の宗門では排除された。とは言うものの、いつでも宗門古来の伝統に化けられる思想として、日教の〈貫主―法主〉説は今なお隠然たる力を持ち続けているのである。


(5)三大秘法の宣揚

 日蓮は『法華取要抄』の中で本門の本尊・戒壇・題目を挙げ、『報恩抄』にその具体的な内容
を明かしている。また、『義浄房御書』や『三大秘法禀承事』(『三大秘法抄』)では「三大秘法」
という用語をみることができる。

 しかるに、大石寺の歴代貫主の諸文書を調べていくと、9世・日有の頃までは誰一人として三大秘法を意味する用語を使っていないことに気づかされる。前述のごとく、日興は、後の大石寺教学で言うところの三大秘法義を日蓮の「正義」とみていた節があるが、三大秘法を概念化して門流の根本教義と定めたわけではなかった。日興以降の大石寺貫主も同様である。他方、大石寺歴代以外の論師に目を向けると、三位日順の『本因妙日決』(富要2ー72)や妙蓮寺日眼の『日眼御談』(富要2ー135)に『三大秘法抄』からの引用がみられる。が、『本因妙日決』は後代の書とする方が内容的に理解できるし、『日眼御談』も成立年代が不明である。仮に両書を日順や日眼の真撰とするにしても、門流上代の大石寺貫主の主張にはない傍系思想の述作であり、何よりも両書が引用している『三大秘法抄』の文「題目とは二の意有り」(全集1022・定本1864)は、三大秘法の意義を直接的に顕揚するものではない。

 こうしたことがら、大石寺門流では日有の代まで、三大秘法を掲げてそれを宗旨の根本に位置づける動きはなかったと推察される。では、三大秘法を大石寺の根本教義として自覚的に規定した最初の人物は誰なのか。文献上は、これまた左京日教である。

 日教は石山帰伏の後、「本門三箇の秘法を土代として諸御書当家の信の法門を成立すべきなり」(『穆作抄』、富要2ー250)「此の三箇の秘法は当宗の独歩なり」(同前、富要2ー257)「此の三箇の秘法余流に存知無き」(『類聚翰集私』、富要2ー313)「本門三箇の秘法は寿量品の文底に秘し沈め給へり」(同前)等と述べ、他門が知らない寿量品文底の「三箇の秘法」を「当宗」の法門の「土代」とすべきことを盛んに鼓吹した。

 日教が「本門二箇の秘法」を日蓮仏教の根幹と考えた理由としては、まず『三大秘法抄』を読んでいたことが大きいと思われる。彼は『類聚翰集私』(富要2ー312、349、350)で三度、『四信五品抄見聞』(富要4137、53、65)でも三度にわたり『三大秘法抄』から引文している。そこでは、三大秘法が日蓮の教義の枢要であり、その本門の戒壇を未来に建立すべきことが強く訴えられている。

 また、かつて住本寺系の僧だった日教に、中古天台の「略伝三箇の大事」を日蓮の三大秘法と結びつける発想があったという点も見逃せない。略伝三箇の大事とは、中古天台における「広伝四箇の大事」(一心三観・心境義’止観大旨・法華深義)の中の第四の「法華深義」より開いた「円教三身」「常寂光土義」「蓮華因果」の二つの大事のことである。日教は『類聚翰集私』の中で、中古天台の三箇の大事と当家の三大秘法との差異について論じ、「右台家には円教三身・常寂光土・蓮華因果を三箇大事とし、当家には本門教主釈尊・本門戒壇・南無妙法蓮華経の広宣流布あるべき事の三箇の秘法と申すなり」(富要2ー320)と述べている。このような、中古天台の教義と対照する形での三大秘法の宣揚の仕方は、八品派の日隆等にもみられるが、左京日教も石山帰伏の前に様々な所で修学を重ねるうちに身に付けたのであろう。

 かくのごとく、日教は大石寺に改衣する前から三大秘法を日蓮教学の根幹とみる立場を固め、帰伏後はそれを富士門流内でも主張していったのである。

 ならば、日教が三大秘法を「当宗の独歩」=大石寺独自の秘法としたゆえんはどこにあったのか。この問題に関しては、日蓮から日目へ三大秘法が「唯授一人」で相承された、とする伝説を日教が堅く信じていたことを知る必要があろう。「耳引法門」と呼ばれる話がある。――日蓮は池上での入滅に際し、日目を呼んで三大秘法を唯授一人相承し、さらにこの秘法を日興の臨終時にその耳元でささやくように命じた。それを聞いて羨んだ日朗は、日目の耳を強く引っ張った――。これが日教の説く耳引法門伝説の大筋であり、彼はその話を『穆作抄』(富要2ー257)『類聚翰集私』(富要2ー813)『四信五品抄見聞』(富要4ー52)の中で紹介している。日寛が書き留めた耳引法門の内容とは多少の違いがあるが、こうした話については、近代宗門の堀日享が「日目上人系の諸山が日目上人を尊重するあまりの伝説である」と語ったという。「日目上人系の諸山」とは保田妙本寺等を指すが、日教がどこから耳引法門の説を聞いたのかは不明とするしかない。ともかく史料上から言えば、大石寺門流内で耳引法門の伝説を詳しく述べた最初の人物が左京日教である。推するに、金口相承と三大秘法を重んじた日教なればこそ耳引法門の説には心惹かれ、「二箇の秘法も唯授一人也是を日朗の耳引法門とて日目上人の耳を引き玉ふなり」(『四信五品抄見聞』、富要4ー52)といった主張をいち早く唱えたのだろう。

 日教が三大秘法を大石寺独自の秘義とみなした理由を、別の角度からも考えてみよう。住本寺系の僧だった頃、数々の興門の相伝書を相承した日教は、それらに富士戒壇の義が説かれていることを知り、大石寺日有に帰依した後、富士門徒にこそ三大秘法が純然と伝えられている、との確信に至ったのではなかろうか。『百六箇抄』には「下種弘通戒壇実勝の本迹 三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり」(全集867・定本なし)と、また二箇相承のうちの『身延相承書』に「国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(全集1600・定本2184)と、さらに『産湯相承事』にも「日蓮は富士山自然の名号なり、富士は郡名なり実名をば大日蓮華山と云うなり」(全集879・定本なし)とあり、それぞれ三大秘法中の「本門の戒壇」の建立地として富士山が指示ないし示唆されている。とくに『百六箇抄』の「下種弘通戒壇実勝の本迹 三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり」との文に関しては、石山帰伏後の日教が『類聚翰集私』(富要2ー323)や『六人立義破立抄私記』(富要4ー43)に再三引用しており、日教が当文から相当な影響を受けたことがうかがい知れる。それゆえか、日教は『類聚翰集私』の中で「霊山浄土に似たらん最勝の地は南閻浮提第一の山・駿州富士郡の大日蓮華山・先師自然の名号有る山の麓・天生原に六万坊建立有るべし」(富要2ー350)と述べるなど、大石寺の門に入ってからは熱心な富士戒壇の唱道者となったのである。

 さて、以上のような日教による三大秘法の宣揚は、後の大石寺貫主の教学思想に無視できない影響を与えたと言い得る。13世・日院は、通用を持ちかけてきた要法寺の日辰に対し「師口両相承、三箇の秘法胸に當て四聖涌現の刻を相待つ者なり」『要法寺日辰御報』、歴全−1451)と答え、他門不知の三大秘法を掲げる立場を表明している。また14世・日主は日教文書を多く書写し、それらを理鏡坊日典から相伝されている。

 江戸期に入ると、17世・日精等の要法寺出身の貫主が持ち込んだ造仏読誦等の異流義の弊風が問題となり、上代教学の復興を目指す大石寺出身の貫主らが左京日教の諸文書を書写していく。例えば、26世・日寛は『穆作抄』や『類聚翰集私』から抜書している。そのような中で「此三大秘法は何者ぞや、本門の本尊とは当寺戒壇の板本尊に非ずや、其の戒壇の本尊の座す地は広布の至らざる迄は此の地戒壇に非ずや」(22世・日俊『初度説法』、歴全3ー103)「大上人は三大秘を本尊と為す」(25世・口宥『日蓮の二字沙汰』、歴全3ー404)といった主張が次第になされるようになり、17世紀末には三大秘法を大石寺教学の根幹とする立場が定説化するのである。

 大石寺独特の三大秘法観は、教義信条としては日興や日目の頃からあった。しかしながら三大秘法の法門をもって日蓮教学の核心とする説は、戦国時代が始まる頃、尊門から石山に来た左京日教が唱え始めたものだった。それから約200年を経て、この日教の説は大石寺門流内で完全に主流化し、以後、今日まで続いている。

 

(6)金口相承による三大秘法の伝承

 左京日教はまた、富士門徒に三大秘法の重要性を認識させただけでなく、それが金師・金口の相承によって大石寺の「法主」に伝えられているとも唱えた。

 先にも述べたが、日教(日叶)は『百五十箇条』の中で天台の相承論に触れながら、日興門流にも「金師」「金口」の相承あり、と主張していた。大石寺帰伏の後、この日教の考えは”日蓮から日目へ金師・金口の相承があり、それによって三大秘法が秘密裏に伝えられた”との見解を生み出すに至っている。『類聚翰集私』に「此の二箇の秘法余流に存知無きも道理なり、池上に於いて奥州新田卿公日目に余人を去って唯授一人の御相承金師金口の祖承是れなり」(富要2ー313)とあるのがそうである。例の耳引法門の伝説を用いながら、日蓮が臨終の折に日目だけを呼んで三大秘法を相承したことが「唯授一人の御相承金師金口の祖承」にあたる、と日教は主張している。ちなみに、『百五十箇条』では日蓮ー日興という相承系譜も語られている。

 日教には、天台家の金口・今師の両相承を自門に取り入れようとする姿勢が強くみられる。彼は『四信五品抄見聞』の中で、台家の「金口祖承」「今師祖承」「教学観学の血脈相承」等について長々と解説し(富要4ー49〜52)、その後に「当家には事の成仏を以て正意とする也」「当家の付属、明玄付属、枢柄を撮りて授与する別付属也、廿三人の付法の事も入るべがらざる也本門付属なれば也、四菩薩の上首は上行菩薩御一人、唯独自明了は相似十信の時、大師中終を修行有りて始心信心の所は末法聖人三大秘法の明鏡御付属也」(富要4ー52)等と述べて、日蓮門下の付属相承が有する独自の意義を宣説している。

 要するに、日教は、多宝塔中の釈迦ー上行→日蓮ー日興・日目とつながる三大秘法の金師・金口の相承という見方をとっていたように思われる。こうした思想は、文献的には『三大秘法抄』を最も有力な根拠としたのではなかろうか。というのも、同抄には「此の三大秘法は二千余年の当初・地涌千界の上首として日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり、今日蓮が所行は霊鷲山の禀承に芥爾計りの相違なき色も替らぬ寿量品の事の三大事なり」(全集1023よ定本1865)という箇所があり、ここからは日教のごとき説を立てることが可能だからである。事実、日教は『類聚翰集私』の中で右の文のほぼ全部を引用している(富要2ー349)。日教がこの『三大秘法抄』の文を知り、なおかつ重視していたことは間違いない。

 そして、〈金師・金口の相承による三大秘法の伝承〉という左京日教の血脈相承観は、大石寺の歴代貫主によって後世に引き継がれていく。日教が帰依する前の大石寺宗門では、かかる相承観を唱える貫主や学僧など1人もいなかった。しかるに、日教以後になると、13世の日院が「師口両相承、三箇の秘法胸に當たりて四聖涌現の刻を相待つ者なり」(『要法寺日辰御報』、歴全1ー451)と述べ、大石寺門流独自の「師口両相承」による「三箇の秘法」の伝承を誇示し始める。

 また大石寺が要法寺と交流していた時期には、いつしか金師相承の観念が表に出なくなり、金口相承の意義だけが強調されていった。相承主義に基づく宗門史観を確立した17世・日精による『家中抄』の「日道伝」を読むと、「御上洛の刻には法を日道に付属す所謂形名種脱の相承、判摂名字の相承等なり、惣じて之を謂はば内用外用金口の智識なり、別して之を論ぜば十二箇条の法門あり甚深の血脈なり其の器に非ずんば伝へず」云々(富要5ー216)との記述が目に入る。口精はここで、「金口の智識」が日目から日道に相承されたと述べているが、金師相承の問題には触れていない。これをみるかぎり、日精は金師・金口の相承ではなく、金口相承のみをもって大石寺の血脈相承と考えていたように思える。

 さらに要法寺出身の貫主の時代が終わり、大石寺出身の24世・日永が貫主に就く17世紀の末以降になると、明確に金口相承のみを大石寺の血脈相承とする言説が現れる。日永が大石寺貫主だった元禄12(1699)年、覚真日如(後の26世・日寛)は「目師より代々今に於て、廿四代金口の相承と申して一器の水を一器に写すが如く三大秘法を付嘱なされて大石寺にのみ止まれり」(『寿量品談義』、富要10ー131)と説法している。

 ちなみに、日寛は、大石寺の26世として登座する数年前に著した『撰時抄愚記』の中でも「塔中及び蓮・興・目等云云。これ知る所に非ざるなり」(文段集271)と述べている。これは、左京日教に由来する石山の金口相承説に言及したものであろう。

 当時、日寛のような金口相承説はすでに宗内で定説化していたに違いない。25世・口宥も、『観心本尊抄記』に「其の金口相承も五大部三大秘の本尊の妙意に過ぎず」(歴全3ー369)と記している。

 18世紀以降の大石寺門流において、〈金師・金口の相承による三大秘法の伝承〉という日教の大石寺相承観は、金師相承の観念が抜け落ちたことを除けば、ほぼそのまま受け継がれた。そして近現代の大石寺宗門では、もはやそれが自明の常識となるのである。

 


(7)相伝教学の源流

 相承主義者の。日教は、大石寺門流において相伝教学の学風を作り上げた人物でもある。日教文書の中では、書名は記されないものの、二箇相承をはじめ『本因妙抄』『百六箇抄』『産湯相承事』『御義口伝』等の興門の相伝書か所々で引用されている。かような相伝書は、9世・日有の談を記録した聞書類や日有以前の大石寺関係の諸文献に引用されていない。もっとも『本因妙抄』に関しては、従来、最古の写本として6世・日時のものがあるとされてきた。しかし、この写本は日時の署名.花押や書写年記を欠き、加えてその筆跡が本当に日時のものかどうか一考の余地がある。堀日亨が「石山に於ても古い時代の先師方々は此の両抄を余り大切になさらなかったらしい」と語っているように、近世以降、大石寺教学の基盤となった『本因妙抄』『百六箇抄』の両巻血脈抄も、上代ではさほど重視されなかったとみられる。

 日教が引用した相伝書の大半は、住本寺系の学僧だった頃、師の日耀から相承されたものである。大石寺門流に行ってからも、日教はそれらの相伝書の記述を何かにつけて引用し、宣揚に努めた。その結果、26世・日寛の代に至るや、大石寺では相伝教学の花が咲く。日寛教学については様々な角度からの意義づけが可能であるが、二箇相承、両巻血脈、産湯相承、御義口伝等々の興門の相伝書が示す秘説を日蓮遺文や天台教学を用いながら体系化した、という点では相伝教学と呼ぶのが最もふさわしい。日寛が大石寺の相伝教学を形成するうえで、左京日教の教学は無視できない影響を与えたと言い得る。日寛は日教の存在を知らなかったが、その諸著作を自ら学んでいる。このことが、日寛に相伝書重視の立場をとらせる一つの契機になったものと推察される。

 「左京日教と日寛教学」をテーマに、詳細な検討を行うことは本稿の任務ではない。が、ここでは、日寛教学にあって左京日教の著述を参考にしたと思われる箇所を具体的にいくつか指摘してみることにしよう。

 第一に、日寛は『三重秘伝抄』の中で「種脱相対の一念二千」を明かすにあたり、「当流深秘の相伝」として『本因妙抄』から「寿量品・文底の大事と云う秘法如何、答えて云く唯密の正法なり秘す可し秘す可し一代応仏のいきをひかえたる方は理の上の法相なれば一部共に理の一念三千迹の上の本門寿量ぞと得意せしむる事を脱益の文の上と申すなり、文の底とは久遠実成の名字の妙法を余行にわたさず直達の正観・事行の一念三千の南無妙法蓮華経是なり」(全集877・定本なし)との文を引いている(富要3ー50)。同抄においては、「事理の一念三千」を示す段でも「一代応仏のいきをひかえたる方は理の上の法相なれば一部共に理の一念三千」という箇所が重ねて引用される(富要3ー53)。日寛が引用した、この『本因妙抄』の文は、じつは左京日教が『六人立義破立抄私記』等でつとに強調したものであった。すなわち日教は、同私記で「是は信にきわまる也」と述べつつ、当文を「寿量品の文底の大事と云ふ秘法如何、答て云く唯密の正法なり秘すべし秘すべし一代応仏の○」(富要4ー36)と略示している。また『類聚翰集私』では、「本門三箇の秘法は寿量品の文底に秘し沈め給へり」と主張した後、先の『本因妙抄』の文の一部「文底とは久遠実成の名字の妙法を余行に亘たさず直達の正観事行の一念二千の南無妙法蓮華経是なり」を引いている(富要2−313)。

 第二に、『文底秘沈抄』の人本尊を論ずる所で、日寛は、自受用身と日蓮との「行位全同」を明かすために『百六箇抄』の文を三つ引いている。そのうちの「今日蓮が修行は久遠名字の振舞に芥爾計も違わざるなり」(全集863・定本なし)という文は、左京日教が『類聚翰集私』の中で引用している(富要2ー314)。また日寛は同じ箇所で、「本因妙の教主」が日蓮であることを証するために『百六箇抄』の「我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり、其の教主は某なり」(全集863・定本なし)との文を挙げるが(富要3ー80)、この文も日教が『類聚翰集私』で取り上げている(富要2ー314)。

 第三に、『文底秘沈抄』の富士戒壇論において、日寛は宗祖関係の相伝書として『三大秘法抄』『日蓮一期弘法書』『百六箇抄』を示している。これらはいずれも、左京日教の手によって大石寺門流内で重要性が知られるようになった諸文献である。とりわけ、そこで日寛が引用している『百六箇抄』の「日興嫡嫡相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為す可きなり」(全集869・定本なし)との後加文については(富要3ー96)、日教が『六人立義破立抄私記』(富要4ー43)の中で日興への仏法付属を主張する際に挙げていることを指摘しておきたい。

 第四に、『文底秘沈抄』の「本門の題目編」は、『本因妙抄』の「文の底とは久遠実成の名字の妙法を余行にわたさず直達の正観・事行の一念三千の南無妙法蓮華経是なり」(全集877・定本なし)との文で締めくくられている。日寛は『当流行事抄』の「唱題篇」でも当文の意を最初に示し、「是吾家の最深秘蓮祖化導の一大事なり」(富要3ー212)と説いている。先に述べたように、この『本因妙抄』の文は、左京日教の『類聚翰集私』(富要2ー313)の中で取り上げられている。『類聚翰集私』の内容を作者不明の「御法則抄」とした日寛は、その閲覧や書写を通じ、当文を殊のほか重視するに至ったのではないだろうか。

 第五に、日寛は『当流行事抄』の方便品読誦論において、左京日教の『類聚翰集私』の説を「御法則抄に云く」として取り上げ、自説の正当性を証する文としている。


問ふ御法則抄に云く在々処々に迹門を捨てよと書て候事は予が読む所の迹に非ずとは此の寿量品は聖人の迹門なり文在迹門義在本門等云云。若し此文に拠り正に寿量品を以て予が読む所の迹門と名け何ぞ方便品と云うや、答ふ、此の文の由来は教信坊等観心本尊抄の未得道教等の文章に就て迹門を誦まず等云云、故に宗祖の意は直に寿量品を指して予が誦む所の迹と名るに非るなり、故に知ぬ御法則抄の意既に寿量品が家の迹門なるを以て方便品を直に寿量品と云ふなり、例せば産湯記の中に譬喩品を直に寿量品と云ふが如し、彼文に云く、寿量品に云く今此三界云云、況や次下の文に云く文在迹門義在本門云云即此意なり(富要3ー185)

 ここにある「在々処々に迹門を捨てよと書て候事は予が読む所の迹に非ずとは此の寿量品は聖人の迹門なり文在迹門義在本門等云云」との「御法則抄」の文は、『類聚翰集私』の「私に云く、在々所々に迹門無得道と書いて候は予が読む所の迹には非ず天台過時の迹を破して候なり云云、此の寿量品は聖人の迹門なり・文在迹門義在本門・迹門無益本門有益云云」(富要2ー353)という日教の説を日寛が略示したものに他ならない。日寛は、日教の作である『類聚翰集私』から「此の寿量品は聖人の迹門なり・文在迹門義在本門」という箇所を抜き出し、そこにおける「此の寿量品」を”寿量品が家の方便品”と解釈することで、方便品を助行として読誦する立場の正当性を傍証しようとしたのである。「文在迹門義在本門」は、『百六箇抄』の後加文と考えられる箇所にみえる(全集861・定本なし)。

 かくのごとく、26世・日寛は、法体論の要である三大秘法義の各論の一々や興門の修行論の一大争点となる方便品読誦論において、両巻血脈抄等が引かれた左京日教の著述を相当に参考にしつつ論を立てている。ここに、”日寛教学は興門独自の相伝書を根本資料として組織されている”と評されるゆえんもある。

 むろん、「人法体一」の法門等、日教が説かなかった日寛独自の重要法門も数多くある。しかし、それを差し引いても、日寛が体系化した相伝教学の源流の一つが興門の相伝書を多用した左京日教の論書であることは争えない。



(8)貫主一人の本尊書写

 左京日教は、大石寺門流における本尊書写を付法の貫主のみの特権と考えた。『化儀抄』に「末寺に於て弟子檀那を持つ人は守をば書くべし、但し判形は有るべがらず本寺住持の所作に限るべし」「曼茶羅は末寺に於て弟子檀那を持つ人は之を書くべし判形をば為すべからず云云、但し本寺の住持は即身成仏の信心一定の道俗には判形を成さるる事もあり、希なる義なり」(富要−171)とあるごとく、9世・日有は、平僧の判形書き入れを禁止するという条件を付けたうえで、末寺住職の自由な本尊書写を認めた。

 ところが、日有の晩年にその門下となった日教は、〈条件付きの自由な本尊書写〉を容認した日有とは対照的に、”本尊書写は大石寺の貫主一人に限る”と強く主張したのである。日教は大石寺に帰伏する前、長らく京都・住本寺系の僧だった。この住本寺を開基した日大は『尊師実録』の中で「富士門跡は付弟一人之を書写し奉るべき由、日興上人御遺誠也」と記している。元々、京都の尊門には「付弟一人書写」の思想があった。その思想を日教が受け継いだものと考えられる。

 日教は、『穆作抄』において「此の御本尊は忝くも高祖聖人より以来付法の貫主のあそばしたまふ授与の御本尊より外に仰も雅意に任せて書く可きや」(富要2ー283)「本尊書写の事 御本尊書写の事は・聖人御門流には付法の法主は二人有るべがらざるなり……本尊書写付法の導師は一人に御座すべきなり」(富要2−286)等と述べ、本尊書写は付法の大石寺貫主だけに許されている、と力を込めて訴えた。日教の相承主義的な〈貫主一人の本尊書写〉という主張は、〈条件付きの自由な本尊書写〉を許可した日有の『化儀抄』の条目と真っ向から対立する。

 日教は他門からの横入僧である。本来から言えば、大石寺門流は日有『化儀抄』が説く〈条件付きの自由な本尊書写〉観を継承すべきったと言えよう。だが、12世・日鎮以後の大石寺貫主は、日教の相承主義から多大な影響を受けた。そのため、近世の石門では〈貫主一人の本尊書写〉という日教の思想の方が主流化する。

 実例を示してみたい。17世・日精は、『当家甚深之相承之事』(写本・大石寺蔵)で「本尊相伝唯授一人の相承故代々一人の外書写之無し」(歴全2ー314)と記している。つまり、”当家は「唯授一人の相承」を受けた貫主一人しか本尊を書写できない決まりになっている”と訴えたのである。この日精の言説から、17世紀の大石寺宗門では〈貫主一人の本尊書写〉という日教
由来の思想が伝統化していたことを把握できる。

 また近現代の大石寺宗門になると、いよいよ日教流の本尊書写観が古来一貫の伝統であるかのごとくみなされていく。56世・日応の「金口嫡々相承を受けざれば決して本尊の書写をなすこと能はず」という主張、堀慈乖(後の59世・日亨)の「曼荼羅書写の大権は唯授一人金口相承の法主に在り」(富要1ー112)との言をみてもわかるとおり、明治から大正にかけての大石寺宗門では〈貫主一人の本尊書写〉という日教由来の思想が完全に定着した。これにともない、日有『化儀抄』が定めた〈条件付きの自由な本尊書写〉の許可は、むしろ特殊な時代状況における例外的措置として理解され、実質的には死文化してしまう。

 断っておくが、筆者は〈条件付きの自由な本尊書写〉を認める日有の規則主義的な見解と〈貫主一人の本尊書写〉を力説する日教の相承主義的な主張との両方を俎上に載せ、一方が間違いで一方が正しい、などと論断するつもりはない。ただ、私か指摘したいのは、大石寺門流における本尊書写の化儀規則が可変的であり、近世以降は日教由来の〈貫主一人の本尊書写〉の思想が主流になって今日を迎えている、ということなのである。

 なお、もし先の『尊師実録』の記述が正しいとすると、最初に〈貫主一人の本尊書写〉を強調したのは左京日教ではなく、大石寺開山の日興ということになる。しかし日興の滅後、日有の代までの大石寺門彼が「付弟一人書写」の遺誠にこだわったという記録は、どこを探しても見当たらない。大石寺門流において貫主一人の本尊書写という考え方が目立ち始めるのは、実際には左京日教が来てからである。また『尊師実録』のように伝聞を記載するのではなく、貫主一人の本尊書写を門流の掟として直に唱えた大石寺関係の史料は、日教の『穆作抄』をもって初見とする。そう考えると、現代の宗門にまで引き継がれている〈貫主一人の本尊書写〉という思想は、やはり左京日教に由来すると考えておくべきだろう。



(9)貫主信仰

 左京日教が大石寺門流の教学に与えた最大の影響は、何と言っても「貫主(法主)信仰」を唱えたことであろう。日教の貫主信仰は、彼独特の本尊観に基づいている。『穆作抄』の中に「此の御本尊は何事を表するや末法の導師の作用を本尊と顕すなり」(富要2ー284)という文言がある。ここからわかるように、日教は「末法の導師」たる日蓮に本尊の実体を求め、曼荼羅本尊はその「作用」であるとした。

 この日教の本尊観はさらに、日蓮以来の仏法付属の系譜に連なる大石寺の歴代貫主をも本尊の実体と仰ぐ考え方を生み出していく。日教は、こう書き記している。

所詮は当代の教主法王より外は本門の本尊は無しと此の信成就する時、釈迦如来の因行果徳の万行万善・諸波羅蜜の功徳法門が法主の御内証に収まる時・信心成就すると信ず可きなり、釈尊も八十入滅の命に替へて末代の衆生を利益あるべし、寿量品の御定めなれば・高祖聖人も我不愛身命とこそ御修行あれ、信心成就の趣きをば後生善処なれば現世安穏なり、閻浮第一の御本尊も真実は用なり(『穆作抄』、富要2ー253)

日蓮聖人御入滅有るとき補処を定む、其の次ぎ其の次ぎに仏法相属して当代の法主の所に本尊の体有るべきなり、此の法主に値ひ奉るは聖人の生れ代りて出世したまふ故に、生身の聖人に値遇結縁して師弟相対の題目を同声に唱へ奉り信心異他なく尋便来帰成使見之す、何ぞ末代の我等卅二相八十種好の仏に値ひ奉るべき、当代の聖人の信心無二の所こそ生身の御本尊なれ(『類聚翰集私』、富要2ー309)

 両文とも、日蓮以来の仏法を付属された当代の大石寺貫主の信の所に「本門の本尊」「本尊の体」がある旨を説いている。そして、『穆作抄』の文に「閻浮第一の御本尊も真実は用なり」とあるごとく、日蓮が図顕した、あるいは歴代貫主が書写しか、曼荼羅本尊は「用」と位置づけられる。要するに、日教の本尊観は〈日蓮・歴代貫主の信の所=本尊の体、曼荼羅本尊=本尊の用〉である。

 日教が貫主の信心を強調したのは、多分に師・日有の影響を受けてのことであろう。『類聚翰集私』に「近来当寺へ参り信の道を聴聞して信心に身の毛立ちて」(富要2ー305)とあるが、日教は大石寺に来て信心根本の日有教学と出会い、以前の自らの考え方を猛省したようである。大石寺貫主の内面に因分の信心と果分の悟りの両方をみるという、ある意味で矛盾した日教の教説は、彼元々の相承主義に日有の信心主義が加わったためではなかろうかと推察される。

 ところで、信の相続から内証相承へ、という観点に立てば、歴代貫主の弟子檀那の信の所も同様に「本尊の体」という理屈になろう。しかし日教の教学では、現実世界における「本尊の体」の根源的所在を曼荼羅本尊にではなく当代貫主の内証に求める。それゆえ、弟子檀那が「本尊の体」を証得するには「当代の法主」に対する絶対帰依の信仰(貫主信仰)が不可欠ということになるのである。

 日教がこうした貫主中心の内証相承論を立てたのは、一説には年少の貫主の12世・日鎮を守るためだったとも言われる。事の真偽はさておくとしても、貫主中心の内証相承論は日教が師事した日有の説にはみられない。『聞書拾遺』に、

一、上人仰に云く、此の経受持之人信心無二にして余事余念なく南無妙法蓮華経と唱え奉り候へば其の当位に即身成仏上行菩薩也と申す証文之有り、神力品に云く、爾時上行等と云云、只是れ等の専是也(歴全1ー422)


一、又云く、高祖日蓮聖人の御抄には、日蓮は日本国の一切衆生の親なりと遊して候も今は人の上にて候。但今の師匠在家にてもあれ、出家にてもあれ、尼・入道にてもあれ信心無二にして此妙法蓮花を能く進むる人乃ち主師親也、能く能く心得へし(歴全1ー426)

 とあるごとく、「信心無二」の人は在家・出家の別なく誰でも「上行菩薩」であり「主師親」三徳具備の仏である、というのが日有の考えであった。日有は、信心の上で師弟の筋目を重視したが、貫主中心の内証相承論などは立てていない。

 もとより日教のような本尊体用説は、後に大石寺教学を確立した26世・日寛が示す人法体一義に反した思想である。それは大石寺の正統教学には取り入れられていない。しかしながら他方では、近世宗門において日教流の内証相承論に立脚する貫主信仰を大石寺の伝統教義とみなす傾向が出てきたことも否定し得ない事実である。

 日教の後、大石寺門流内で最初に貫主信仰を唱えたのは、要法寺出身の法詔寺日感であった。17世記中頃の話になるが、19世・日舜が複雑な事情を経て大石寺に入山した折、当時の山内僧俗が日舜貫主を軽視する、という問題が生じた。そこで、門流の有力僧だった日感は大石寺の檀頭にあてて書状を認め、何とか日舜を擁護しようとした。48世・日量の『続家中抄』によれば、日感はその書状に「別して、大石寺事は金口の相承と申す事候て、是ノ相承を受ク人は学不学によらず生身の釈迦日蓮と信する信の一途を以て末代の衆生に仏種を植えしむる事にて御座候」「其器量の善悪を簡ばす但相承を以て貫主と定められ候、故を以て一山皆貫主の座上を踏まざる事悉く信の一字の修行にて候」「釈迦日蓮代々上人と相承の法水相流れ候へば上代末代其ノ身の器は替れとも法水の替る事少しも之なく候、此くの如く信する時は末代迄も仏法松柏の如くにて常に寺檀仏種を植え三宝の御威光鎮に於間浮提広令流布は疑ひなき事に候、此旨を相知り候上は如何様の僧貫主となるとも相承伝授候上は生身釈迦日蓮たるべきこと開山の御本意一門の肝要にて御座候」と記しかとされる(富要5ー271)。

 大石寺の金口相承を受けた貫主は、学問の有無や器量の善し悪しにかかわらず「生身の釈迦日蓮」である。これを信ずべし、というのが開山たる日興の本意であり、大石寺門流の信仰の肝要なのである――。日感はそう説いて、当時の大石寺僧俗の不満を押さえ込もうとした。日感の貫主信仰は、貫主の信心の所に「本尊の体」を認める左京日教のそれに比べると、とかく有無を言わせぬ権威主義が鼻につく。けれども仏法相続としての「相承」を根拠に貫主即日蓮の義を唱える点では、両者の貫主信仰は全同であると言わねばならない。

 次に、18世紀中頃の大石寺宗門では、31世・日因が三宝論に即した貫主信仰を展開している。日因は、宝暦7(1757)年の『有師物語聴聞抄佳跡』で「当宗出家の当体即仏法僧三宝なる」「僧宝を供養すれば自ら仏界の供養となる義なるべし」(富要1−192)と説いている。日因が言う「僧宝」とは大石寺の歴代貫主であり、しかも貫主=僧宝の内証を仏とするところに彼の本意があったと考えられる。と言うのも、宝暦4(1754)年10月、日因は金沢の信彼に対し「日興上人巳下の代々も亦だ爾なり 内証に順る則仏宝也 外用に依れば則僧宝なり 故に末法下種の大導師日蓮聖人の尊仏に対(す)れば、則外用を存し(て)僧宝と為るのみ」等と指南しているからである。 〈大石寺貫主=僧宝→その内証は仏宝〉という日因の思想は、日蓮の内証の悟りが血脈相承によって歴代貫主に伝えられる、という考え方を前提にしていた可能性がある。本来、仏教の悟りは個人の日々の修行を通じてのみ得られる。なのに、宗祖の悟りが歴代貫主の間で神秘的に伝達されていくとするのは、因果論的に矛盾した考え方であり、下手をすれば修行不要論になりかねない。一体いつ頃から、かくも神秘主義的な〈悟りの譲与〉の思想が大石寺門流内に芽生えたのか。史料上から言えば、やはりその起源は、仏法付属によって当代貫主が「本尊の体」を所持している、とした左京日教の教説に求める以外になかろう。

 ともあれ、大石寺歴代の一人である日因が、右のごとき貫主内証仏の思想を公然と唱えたのである。約300年前に左京日教が種を蒔いた貫主信仰は、この頃、ついに大石寺宗門の中枢に入り込んだと言ってよい。事実、18世紀から19世紀にかけての大石寺門流では、日教流の貫主信仰を説く貫主が続々と登場する。

 明和2(1765)年、33世・日元は日因の立会いの下、三十五世・日穏への血脈相承を行った。その時の記録が今日に伝わっている。これによると、日元は「日蓮が胸中の肉団に秘隠し持玉ふ所の唯以一大事の秘法を唯今御本尊並元祖大聖人開山上人御前にして35世日穏上人に一字一間も不残悉く令付嘱謹て諦聴あるべし」と述べて「一大事の秘法」を日穏に付属し、続いて日蓮をはじめとする歴代先師の「御箇條の條々」を残らず渡した後、「此の秘法胸中に納め玉ふ上は日蓮日興日目乃至日因上人其の許全体一体にて候 就中日穏には当今末法の現住主師親三徳兼備にして大石寺一門流の題目は皆貴公の内証秘法の南無妙法蓮華経と御意得候へ」と語ったという。ここに明らかなごとく、日元は、「一大事の秘法」を胸中に納めたすべての歴代貫主を日蓮や日興と一体の存在とみなし、なおかつ金口相承を受けて当代となった日穏を「主師親三徳兼備」の大導師の仏として意義づけている。日蓮の内証の悟りとしての「一大事の秘法」が相承された結果、新貫主の日穏は「主師親三徳兼備」の仏になった――日元は、こう宣言したわけである。

 一方、かかる神秘主義的な血脈相承の儀式を通じ、門流全体を化導すべき仏の位に祭り上げられた日穏の側も、日教流の内証相承論に基づく貫主信仰の唱導者になったようである。日穏は、日元から相承を受けた翌年、金沢の大石寺信彼に対する教示の中で、日目を「応用施化の随一」、日穏自身を「応福利生の主」と位置づけている。

 さらに日穏以後の貫主では、42世・日相が貫主信仰を唱えたとみられる。日相が37世・日琫ら血脈相承を受けたのは、寛政11 (1799)年11月であった。恐らくそれ以前のことと思われる日琫も参加して説法を行った、ある彼岸会において、日相は日琫琫を「末法当時の日蓮大聖人の御全体」などと称揚し、みるからに貫主信仰的な発言を繰り返している。

当家信敬の上で申す時日琫上人師の御一身は御内証は一幅の御本尊也。兎角ぞ直に日蓮大聖人の御全体也

今日日琫琫上人師も、大聖人より開山日興上人師等代々一大事秘法を相伝し、肉団の胸中に急度御所持遊ばす故日琫琫上人師の胸の間は大聖人御入定の処、舌の上は大聖人御説法の処、喉は大聖人御誕生の処、日中は大聖人御正覚の御なるべし。かかる不思日琫上人師の御説法の道場なれば、其の霊山事の寂光土にして、天竺霊鷲山にも劣るべからず、法妙なる故に人貴く人貴き故に所尊くして、取ななさず三大秘法の御本尊の御在様也

 ここにみられる「大聖人より開山日興上人師等代々一大事秘法を相伝し、肉団の胸中に急度御所持遊ばす故に、日琫琫上人師の胸の間は大聖人御入定の処」云々という日相の発言は、先に紹介した33世・日元の貫主信仰の言説と全く同じである。しかも日相から持ち上げられた日琫琫自身、この折の彼岸会に参加している。つまり日相は、日琫琫の耳に入ることを重々承知の上で右のごとき言をなしたわけである。それからしばらくの後、日相は日琫琫から血脈相承を受けたと考えられる。18世紀後半の大石寺宗門では、このような類の貫主信仰が支配的な力を持っていたのだろう。

 なお、日相は、日蓮誕生会の説法(年月日不詳)において「各旁とも知らず量らず南無妙法蓮華経と唱え奉る父母所生の肉身なれども、此の御本尊の如く、法即師の人法体一の御本尊と成て、快く十法界を利益せん事、返す返すも疑い無き」等と談じている。これは、本尊証得が信を媒介として門流の僧俗にも開かれていることを示すものである。この日相の考え方は、門徒にも内証相承を認める左京日教の思想と似ている。あるいは、日寛が説いた万人日蓮的な本尊証得の思想から影響を受けたのかもしれない。

 最後にもう一つ、近世宗門における貫主信仰の例を挙げておこう。幕末期には、学頭職を務めた久遠院日騰が貫主信仰的な言説を残している。弘化元(1844)年、日騰は堅樹日好の流れを汲む僧を教導すべく『異流義砕破抄』を著した。そこには、

三秘の正統たる一山の貫頂を恣に悪口する大罪をや 本尊七箇の相伝に云く日蓮在御判と代々書くべき事如何 師の云く代々の聖人悉く日蓮と申す心也云々若し示らば日奸が悪舌は当に大聖人を悪罵し奉るに当れる者なり況や舌を酢で自殺すべし云々 毀人誹法の重罪是れより大なるは有るべからず恐るべし恐るべし(研教23ー563)。

 との主張がみられる。日騰はここで「三秘の正統」たる石山貫主の権威に訴え、大石寺を批判する日好を激しく責めている。と同時に、『御本尊七箇相承』の追加条目を引用して神秘主義的な貫主即日蓮の義を振りかぎしてもいる。

 以上、種々の事例をみてきたが、左京日教の貫主信仰は江戸時代の大石寺宗門に重大な影響を及ぼしたと言ってよい。とくに18世紀中葉からは、大石寺の歴代貫主が自ら貫主信仰を唱えるようになった。大石寺門流における貫主内証本尊・貫主内証仏の思想的起源は、貫主間の「本尊の体」の授受を説いた日教の諸文書以外には考えられない。近せの大石寺宗門に台頭してくる貫主信仰は、日教の教学展開を端緒とするように思われる。

 ただし、恐らくは日有の影響から貫主の信心無二を讃嘆した日教と比べると、近世以降の貫主信仰者は時として信を離れた権威主義に陥ることがあった。現在の大石寺宗門に至っては、極度に権威主義的な貫主信仰に支配されている。われわれとしても、その点には特別な注意を払わねばならない。


10 近代宗門の血脈相承観の確立者―五十六世・日応


 ここまで、大石寺門流における「唯授一人血脈相承」の思想の形成過程を論じてきた。「唯授一人血脈相承」の思想を持ち込み、なおかつ「血脈の貫主は絶対」という神話的思考を大石寺一門に浸透させたのは、京都に中心を置く日尊門流から来た左京日教である。

 「唯授一人血脈相承」は、大石寺宗門にとって一種の外来思想に他ならない。ところが、大石寺の歴代貫主を宗教的に意味づける、この外来思想は、次第に大石寺教学の基盤となっていき、幕末の頃には完全に宗門古来の伝統教義とみなされるに至った。

 さて、近代を迎えると、明治政府の宗教政策により、大石寺門流は「日蓮宗興門派」(後に「本門宗」と改称)への編入を余儀なくされる。当時の大石寺は、各本山の異なる教義信条が雑居する興門派から、一刻も早く分離独立を果たそうと努力していた。そこにおいて大石寺の教義の正統性を強調するために、一層「唯授一人血脈相承」の思想が高唱されていく。その動きの中心にいたのは、56世の大石日応であった。

 明治25(1892)年5月、大石寺と同じ興門派に属する要法寺の前住職・驥尾日守は『末法観心論』を著し、大石寺日寛の教学を激しく批判した。これに対し、時の大石寺貫主の大石日応は興門派管長の坂本日珠(当時の要法寺住職)に再三抗議したが問題は解決せず、翌明治26(1893)年、興門派管長が小泉久遠寺の妙高日海になってから、ようやく『末法観心論』の発行頒布を禁止する措置がとられた。こうした中で、日応は日守の『末法観心論』に対する反論書を書き進め、明治27(1894)年6月に『弁惑観心抄』を発刊した。

 この『弁惑観心抄』は、日守の論への反駁を主目的としながらも、大石寺の「唯授一人血脈相承」を事あるごとに宣揚する内容になっている。当時の日応は、単に日寛教学の正義を訴えるだけでなく、大石寺のみが興門派における唯一の正統門家たることを証する必要にも迫られていた。

 『弁惑観心抄』にみられる日応の相承論の特徴は、次の二点に集約されよう。

 (1)石要混合の思想を基層に持つ法体相承論

 〈金口相承による三大秘法の伝承〉という大石寺門流の血脈相承観は、15世紀後半に左京日教がその原型を提供し、26世・日寛が活躍する18世紀前後に固まったと考えられる。近代の日応も、この血脈相承観を継承し、「此の三大秘法は宗祖より吾開山興尊へ直授相伝在す大法なり」等と述べている。

 しかしながら日応にあっては、大石寺秘蔵の「本門戒壇の大御本尊」の唯授一人血脈相承を強調するところが特徴的である。日応は、『弁惑観心抄』の第6章「当家相承を論ず」で「法体別付を受け玉ひたる師を真の唯授一人正嫡血脈付法の大導師と云ふべし」と述べ、その法体については「別付の法体とは吾山に秘蔵する本門戒壇の大御本尊是なり」と説明している。法体たる大石寺の戒壇本尊の相承をもって「真の唯授一人正嫡血脈付法」とすべきだ、というのが日応の主張であり、彼はこの意味における血脈相承を「法体相承」と称している。

 法体相承という言葉は日応の創作であるが、その見解は近世宗門の〈金口相承による三大秘法の伝承〉観と深い関連性を持っている。戒壇本尊は、その名称から言っても三大秘法の中の「本門の本尊」にあたる。そして、26世・日寛が『文底秘沈抄』で「三大秘法の随一、本門本尊」(富要3ー93)と述べているように、大石寺教学では三大秘法の体を「本門の本尊」とする。したがって〈金口相承による三大秘法の伝承〉を法体の次元から言えば、「本門の本尊」たる戒壇本尊の相承となるわけである。

 もっとも、大石寺門流における三大秘法の金口相承は、あくまで教義面の相承を意味している。それは、左京日教が「耳引法門」の故事を通して三大秘法の「金師金口の祖承」を説いたこと、17世・日精の『家中抄』が「形名種脱の相承、判摂名字の相承等」を「金口の智識」としたこと、25世・日宥が『観心本尊抄記』で「其の金口相承も五大部三大秘の本尊の妙意に過ぎず」(歴全3ー369)と明言したこと等々から察知される。

 そこで日応は、『弁惑観心抄』で「此法体相承を受くるに付き尚唯授一人金口嫡々相承なるものあり」と述べるなどして、”大石寺には教義面の金口相承とともに法体面の相承もある”と主張したのである。じつを言うと、法体面の唯授一人相承を説く思想は近代以前の大石寺宗門にもあった。14世・日主の作に『日興跡條々事示書』がある。

富士四ケ寺の中に三ケ寺は遺状を以て相承成され候。是は惣付属の分なり。大石寺は御本尊を以て遺状と成され候、是則別付嘱唯授一人の意なり。大聖より本門戒壇御本尊、興師従り正応の御本尊法体御付嘱、例せば上行薩埵埵を結要付嘱の大導師と定む此の如く意得るを以て御本尊の処肝要なり。久遠従り今日霊山の神力結要上行所伝の御付嘱、末法日蓮・日興・日目血脈付嘱、全体色も替らず其儘なり。八通四通は惣付嘱か、当寺一紙三ケ條の付嘱遺状は文証寿量品の儀なり、御本尊は久遠以来未だ手を懸けざる所の付嘱也(歴全1ー459)

 「当寺一紙三ケ条の付嘱遺状」とは『日興跡條々事』である。日主によれば、『日興跡條々事』は上行菩薩の結要付嘱の法体を示した文であり、法体の文証となる寿量品のごときものである。しかして大石寺では、上行付属の法体そのもの――「本門戒壇御本尊」(戒壇本尊)と「正応の御本尊」(譲座本尊)――をもって真の遺状とするのだという。それゆえ、この示書では大石寺貫主間の曼荼羅本尊の譲渡を法体付属と称している。

 日主は、左京日教の文書を相伝されるなど、日教の教学思想から大きな影響を受けたとみられる。曼荼羅本尊の相続をもって大石寺の唯授一人血脈相承の枢要となす、右のごとき日主の言説も、大石寺開創以来の曼荼羅本尊信仰に日教由来の相承主義が加わった結果と考えられよう。日教の相承主義は、貫主の付法を尊重する要山(日尊門流)の宗風から生まれている。その意味では、日主の法体付属論は石山と要山の思想的混合に他ならない。

 そして、この石要混合の日主の法体付属論を大石寺の「唯授一人血脈相承」の根幹に位置づけるべく、改めて「法体相承」の意義を顕揚したのが近代の日応だったということになる。日主の法体付属論は戒壇本尊と譲座本尊の二体を法体とするが、日応の法体相承論の方は戒壇本尊のみを法体とする。そうした違いはあるものの、曼荼羅本尊の相続をもって大石寺固有の別付唯授一人相承とする点では両者は一致している。

 このように、日応の法体相承論は、石要混合の教学思想(日主の法体付属論)を基層に持つと言えるのである。


(2)金口相承の教義と日寛教学の同一視

 日応は『弁惑観心抄』において大石寺の血脈相承に「法体相承」「金口相承」「法門相承」の三種があると説くが、それぞれに明確な定義を与えていない。とくに、法体相承と金口相承の違いは不明瞭であり、ただ「此法体相承を受くるに付き尚唯授一人金口嫡々相承なるものあり」と説くのみである。

 しかし、先ほど論じた、大石寺門流における法体相承及び金口相承の概念形成史を参照するならば、一応、法体相承は法体付属としての本尊相続、金口相承は三大秘法義の相伝というように区別できる。ただし、『弁惑観心抄』には「法体相承の口決」という表現もあるので、法体相承は金口相承をも包括した概念かと思われる。すなわち法体相承(法体付属)とは、三大秘法義の相伝をともなう戒壇本尊の相続という意味に解される。

 現日蓮正宗のごとく、日応の法体相承論に立脚して貫主の内証相承を唱えるのは、こうした歴史的検証や『弁惑観心抄』の記述を無視した態度に他ならない。彼らは「隠顕の両義」なる考えを持ち出し、日応の法体相承論が貫主の内証相承を裏面に隠しているなどと強弁するが、所詮は理性的な議論からの逃避である。日応は『弁惑観心抄』の中で法体相承を説明するにあたり、近世以降の宗門で貫主信仰を正当化するために用いられた諸文献を何一つ挙げず、ただ『日興跡條々事』第二条のみを引用している。 それは「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は日目に之を授与す 本門寺に懸け奉るべし」(歴全1-96)であり、日応は「本門寺に懸け奉るべし」の箇所を略して引用しつつ、大石寺歴代の法体相承の文証としている。じつは日応が略した「本門寺に懸け奉るべし」の部分こそ、彼の法体相承の観念を理解する鍵となる。日興は「本門寺に懸け奉るべし」と命じて「弘安二年の大御本尊」を日目に授与した――これが日応の理解であった。言うまでもなく、内証の悟りを本門寺に「懸け奉る」ことなどできない。「懸け奉る」ことができるのは、現実に宗宝として存在する「弘安二年の大御本尊」だけである。

 結局、日応の言う法体相承の核心は宗宝としての戒壇本尊の相続であり、そこに教義相伝としての金口相承が付随するのである。とすれば、金口相承に関しても現宗門のように神秘主義的な解釈を行うことは許されなくなる。法体相承の本質を内証相承とみる場合、金口相承による教義相伝は、本仏の悟りの授受を目的とした神秘的な口伝にされてしまう。けれども、日応の言う法体相承が戒壇本尊の相続を核心とすることを知れば、付随的な教義相伝としての金口相承の神秘性も必然的に払拭される。

 ならば、日応における金口相承の教義とは一体何か。それは、今日の門徒が身近に目にし、日常的に研鑽している26世・日寛の教学の域を出ない。第二論文で詳述するが、日寛は左京日教の登場以来、大石寺において唯授一人の金口相承とみなされてきた三大秘法義を理論的に開示した貫主である。日寛教学では日蓮本仏論や人法体一義を大石寺の三大秘法義の枢要とみなすが、これらは日応が大石寺の金口相承として示唆した教義でもあった。

 例えば、『弁惑観心抄』の中に次のような記述がある。

此の金口の血脈こそ宗祖の法魂を写し本尊の極意を伝るものなり之を真の唯授一人と云ふ、汝等が伝法書に於けるが如く自巳勝手の解釈を下し私義区々の会通を加へ造像を主張し宗祖を凡夫視し久遠本仏を上行の垂迹とす豈に斯の如き相承あらんや、豈に斯の如き口決あらんや故に予は断言す汝等が山は不相伝なり無血脈なりと宜しく猛省すべし

 この記述は、いかにも「金口の血脈」を神秘的に感じさせる表現で始まっている。しかし、それに続いて日応は、要法寺にみられる造仏義、宗祖の凡夫視、久遠本仏を上行の垂迹とする見解を列挙していき、しかる後に「壹に斯の如き相承あらんや、豈に斯の如き口決あらんや故に予は断言す汝等が山は不相伝なリ無血脈なり」と断じている。「斯の如き相承」とは「金日の血脈」を指すが、このあたりは熟慮に値する。

 要山の徒は金口相承がないから造仏義を唱え、久遠の本仏たる宗祖を凡夫や上行の垂迹とみなすのだ――。これが日応の主張である。その主張を裏返せば、”金口相承を受けた者は、色相荘厳の造仏を行わず、日蓮を久遠の本仏とみなす”という考えになろうか。つまり、日応の考える金口相承の教義は日蓮本仏論に深くかかわり、日寛教学の三大秘法義と内容的に重なり合うものと推定できるのである。

 このことの傍証として、さらに『弁惑観心抄』から引文しておこう。

邪党日守等は我宗祖の本仏たることを知らざるが故に寿量品の仏を知らざるべし、却て汝が不相伝非仏弟子なる現証と云ふべきなり実に宗祖は久遠元初の自受用報身にて在せしことは開目抄及撰時抄等の文意の如く毫も疑ふべきにあらざるなり、故に吾が門に於ては今其御内証の辺を尊び久遠元初の自受用報身末法有縁主師親の三徳本因妙の教主南無宗祖大聖人と尊崇し奉ることなり、是れ吾門独歩の極意にして不相伝の汝等曾て知るべき法門にあらず汝邪党々類は応仏昇進の自受用身を以て久遠元初の自受用身と名くるが故に其底意色相荘厳の造仏を尊重す嗚呼不相伝の現証是に明瞭なり

 いずれの文からも、日応が日蓮本仏論をもって大石寺の相伝教義の極意、すなわち金口相承の秘義と考えていたことが読み取れよう。

 また日応は、人法体一義も大石寺の金口相承の奥義とみなしている。日応によれば、「人即法法即人の義」は「吾門に於て虚構作為せるの法門」ではなく、日蓮が入滅前に「付法の弟子日興上人に遺付し給ふ金口の凰詔」なのだという。日応は、日寛が本格的に宣示した人法体一義を「内証の中の内証にして相承の上にあらざれば容易に解すること能はざる」法門として位置づける。

 このように、日応の『弁惑観心抄』では、日寛が六巻抄や御書文段等で論じた三大秘法義の枢要――日蓮本仏論と人法体一義――がまさに大石寺の独一、唯授一人の金口相承の奥義として示されているのである。われわれは、「金口血脈相承唯授一人の秘曲は衆庶に伝播するが如きものにあらず、是は之れ唯仏与仏の秘法にして独り時の貫首の掌握せる所なり」「仮令広布の時といへども別付血脈相承なるものは他に彼見せしむるものに非ず」といった同抄の文言に目を奪われ、 ”大石寺の金口相承の教義は未公開の秘義である”と安直に考えてはならない。「金口の血脈こそ宗祖の法魂を写し本尊の極意を伝るものなり」という同抄の記述についても、”日蓮本仏論や人法体一義等の「本尊の極意」を踏まえてこそ「宗祖の法魂」を写す正しい本尊書写が可能になる”との意に解すべきなのである。

 第二論文で論ずるが、日応が「金口血脈相承唯授一人の秘曲」とする日蓮本仏論や人法体一義は日寛によって理論的に開示され、現在では大石寺門流の全僧俗が知り得るところとなっている。なるほど日応は、唯授一人の法門を記した数箇の条目があることを仄めかしている。しかし、仮にそうした数箇の条目が唯授一人で非公開のままだとしても、その教義上の核心は日寛によって理論的に開示されている。日応自身、『弁惑観心抄』の中で、金口相承の教義の核心が日寛教学に他ならないことを問わず語りに語っている。明治20年代に日応が主張した金口相承の教義の非公開説は、少なくとも今日の時代状況にはあてはまらない。

 以上のごとく、日応が言う金口相承の教義と日寛教学とは深い関連があるのだが、今一つ触れておきたいことがある。それは、日応が『本因妙抄』『百六箇抄』の相伝を「法門惣付の相承」とし、唯授一人相承とみなさないことである。『本因妙抄』『百六箇抄』の両巻血脈抄は、特に日尊門流で尊重されてきた書である。そのためか、尊門の要法寺に対する大石寺の優越性を主張したい日応は、両巻血脈抄が唯授一人の相伝書でないことを繰り返し指摘した。だが、唯授一人でないとはいえ、大石寺の血脈相承において両巻血脈抄の内容は極めて重要である。両巻血脈抄は左京日教の宣揚によって大石寺門流でも重視されるようになり、後の日寛教学の構築に重要な役割を果たした。唯授一人の金口嫡々相承と言っても所詮は日寛教学の枠におさまるわけだから、日寛教学を支えている『本因妙抄』『百六箇抄』は大石寺の金口相承の文献的根拠でもある。

 大石寺の唯授一人血脈相承の儀式の際に用いられる「相承箱」の中には『本因妙抄』『百六箇抄』が入っている、との言い伝えがある。その真否はともかく、大石寺の金口相承の教義と言っても、『本因妙抄』『百六箇抄』の内容とかけ離れた前代未聞の秘説などではない。むしろそれは、両巻血脈抄の内容を石山の教義信条に――戒壇本尊中心主義、日蓮本仏論、人法体一義――によって再構成したものにすぎないのである。この意味からも、大石寺の「唯授一人血脈相承」は石要混合の産物とみるべきであろう。

 近代の大石寺貫主である56世・日応の相承論に関して、その特徴を2点、摘示してみた。大石寺宗門が日蓮宗興門派の中に組み入れられた時代に石山一門を率い、要山の論客とも対決した日応は、日興門流内において大石寺宗門の教義的な独自色を出すことに腐心していた。その中で、大石寺の唯授一人血脈相承を「法体相承」「金口相承」「法門相承」に分類する試みがなされ、日応は近代宗門の血脈相承観の確立者となったのであった。現代の日蓮正宗の血脈相承観は、基本的にこの日応の相承論を踏襲している。

 筆者の考察に基づけば、『弁惑観心抄』の議論は、石要混合の相承主義(日応側)によって要山の相承主義(日守側)を攻撃する、という紛らわしい構図をとっている。日応はもとより、後の大石寺門徒たちも、このいびつな構図には無自覚的である。現代の大石寺宗門は、日応が確立した石要混合の相承主義を、あたかも開山以来の一貫した伝統であるかのごとく錯覚しているのである。



結 論


 日興の直系を自負する大石寺一門は、南無妙法蓮華経の題目信仰、人(宗祖の日蓮) ・法(文字曼荼羅)の本尊への信仰、富士に本門の戒壇を建立せんとする信条を有していた。要するに、石山固有の三大秘法への信仰である。また大石寺の上代貫主が本尊書写に際して「南無妙法蓮華経 日蓮」という首題の書き方を墨守している様をみれば、人本尊(日蓮)と法本尊(文字曼荼羅)を同一視する人法体一観も、恐らく教団成立の当初からあったのだろう。しかし、そうした石山の教義信条も、興門諸山の激しい正嫡争いを制するまでの力を持ち得なかった。9世・日有の代までの大石寺門流では、教義信条の伝承はあっても、相伝教学と呼びうるだけの教義体系が顕示されていなかった。

 そこに京都の日尊門流から一人の学僧が来て大石寺日有に入門し、左京阿闍梨・日教と名乗って次々と法義書を著し始めた。当時の日尊門流は、関東の興門よりも教学面での整備が遅れていたと言われる。この頃、すでに大石寺や妙本寺では、日有や日要によって本因妙思想が宣説されていた。しかしながら尊門には、『本因妙抄』『百六箇抄』『産湯相承事』『御義口伝』等の興門の相伝書を重視する伝統があった。ここに、尊門の出の日教が大石寺流の本因妙思想と出会い、尊門で重んじられた相伝書と大石寺の教義信条との結合を試みる契機が生じたと考えられる。

 日教は、京都の日蓮教団で高揚された〈釈尊ー上行ー日蓮〉の霊山相承説を基盤に、日興門流としての金口相承の系譜を提示し、さらにそれを大石寺特有の三秘信仰と結びつけた。その結果”霊山付属以来、日蓮、日興、大石寺の歴代貫主によって三大秘法が唯授一人で血脈相承されてきた”という新たな教義信条が唱えられ、これを証する文献として尊門由来の相伝書類が縦横無尽に用いられた。

 興門の正嫡を自負する半面、自門の法脈の正義を闡明するような教学体系を共有していなかった当時の大石寺門流が、このような日教の教学展開に引き込まれていったのは無理がらぬことであった。尊門の血脈書や口伝類を盛んに引用する左京日教の相伝教学によって大石寺教学が形成されたことは、つとに指摘されている。だが、それによって大石寺門流には貫主絶対の思想が根づき始め、石山古来の信仰からの逸脱をもたらしかねない貫主信仰も芽生えた。なお、当時の大石寺門流が日教の相承主義を抵抗なく受け入れた背景として、上代の貫主や学僧らが中古天台の口伝法門に慣れ親しんでいたこと、日有が「信心」の立場に徹しつつも歴代貫主の血脈を強調し始めていたことなども考慮すべきである。

 結論的に、「血脈の貫主は絶対」という日蓮正宗の神話は、相承主義者の左京日教を〈作者〉とし、大石寺門流の教義信条と日尊門流(後の要法寺門流)の付法重視・相伝書重視の伝統とを背景に形成されたものと考える。近世以降の大石寺門流の血脈思想が石要混合の産物であることは、56世・日応の血脈相承観に最もよく現れていよう。要法寺の学僧と対決した書『弁惑観心抄』の中で、日応は大石寺の血脈相承を「法体相承」「金口相承」「法門相承」に細分化した。日応自身は気づいていないが、細分化の理由は、大石寺の血脈思想がじつは石要混合だからである。日応が石山の血脈相承の優位性を主張するには、石山の教義信条に要山が重視する相伝書や要山出身の日教の相承主義が結びついたもの(法体相承・金口相承)と、要山が重視する相伝書そのものの相承(法門相承)とを差別化しなければならなかったのである。

 ちなみに、日教が広めた「本尊の体」相承説に基づく貫主信仰は、近世以降の大石寺宗門史に断続的に姿を現している。だが、大石寺固有の三秘信仰を理論化しつつ開示した26世・日寛は、その三大秘法義から貫主信仰を完全に除外した。そのため、大石寺の正統教義に日教由来の貫主信仰が浸透することは防がれた。けれども異端的とはいえ、貫主信仰は大石寺宗門の伝統思想としての地位を築いている。その点を奇貨として、貫主信仰的な教えを説いた貫主や高僧はこれまでに何人もいた。最近では、67世を自称する阿部日顕がそうであった。大石寺の貫主信仰から〈伝統〉の仮面を剥ぎ取る作業は、まだ始まったばかりである。大石寺の貫主信仰の起源を客観的に解明することは、今後の富士門流研究者に課せられた重要な仕事であるに違いない。


   ☆    ☆
 第一論文の考察を終える前に、大石寺門流史にみられる貫主観を整理しておこう。大づかみに言うと、大石寺門流においては@貫主中心主義A貫主崇敬主義B貫主絶対主義とでもいうべき三様の貫主観が存するのではないだろうか。もちろん、これは類型的に述べたものであり、実態としては、これらが混在しているケースも少なくないと思われる。

 最初の「貫主中心主義」は、教団組織を指導する中心者としての貫主観を強調する立場である。貫主は教団の長であるが、絶対的な権限は持っていない。教団としての方針や教義解釈は、貫主が最終的に決定するものの、一山大衆の納得を伴うべきであると考えられている。つまり、貫主の権威は仏法の絶対的権威に従属しており、貫主の意見が明らかに宗義に背く場合は大衆から拒否される。こうした貫主観は、開山日興の『遺誠置文二十六箇條』の中に明瞭にうかがうことができる。「時の貫首たりと雖も仏法に相違して巳義を構えば之を用うべがらざる事」(歴全1ー98)「衆義たりと雖も仏法に相違有らば貫主之を擢くべき事」(歴全1−99)。まさしく仏法絶対の下での貫主中心主義である。「依法不依人(法に依って人に依らざれ)」が貫主中心主義の黄金律となる。

 二番目の「貫主崇敬主義」では、貫主の「信心の血脈」相承が強調され、「貫主即日蓮」の化儀が成立する。この立場では、貫主の尊厳性の源は「信心」にほかならないので、総じては門下の僧俗も信心次第で「即日蓮」とされる。また、あってはならないはずだが貫主の信心が明らかに狂ったとみなされれば、崇敬の対象ではなくなる余地も残されている。その場合は、先にあげた『遺誡置文』の「時の貫首たりと雖も仏法に相違して巳義を構えば之を用うべがらざる事」が機能していると言える。この貫主崇敬主義の例は、9世・日有の師弟相対説や貫主代官説である。

 最後の「貫主絶対主義」については、もはや説明の要もない。貫主は、唯授一人相承を受けることにより、化儀面のみならず内証面でも「即日蓮」とされる。内証面で本仏と一体化するわけだから、貫主の宗教的権威は絶大であり、門流の全僧俗は貫主の内証に対して絶対服従を要求される。ここでは、『遺誡置文』の「時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用うべがらざる事」という条目も貫主絶対主義的に解釈され、「仏法に相違しているかどうかを決定するのは貫主自身である」などと主張される。しかし、そういう解釈を許せば、本条目は実質的に機能しなくなることが明らかであり、この日興の遺誠自体も無意味となろう。

 本稿でみてきたように、石山の貫主絶対主義の起源は左京日教の教学思想である。ただ、日教については、貫主の「信心無二」の所を本尊とし、門徒も貫主を師として信心に励むことで本尊証得が叶う、と説くあたりが先の貫主崇敬王義に通じている。このように貫主崇敬主義的な面を残した、貫主の信心無二を前提とする「条件付きの貫主絶対主義」は、敷行的にあてはめると31世・日因、33世・日元、3世・日穏、43世・日相等にもみられるように思う。

 他方、真に「無条件の貫主絶対主義」をとる論者としては、近世の法詔寺日感や現代の阿部日顕の名を挙げておくべきだろう。彼らは貫主の信心行体を重視することなく、ひたすら権威主義的に「貫主即日蓮」「貫主即本尊」の義を唱える。「依法不依人」とは正反対の「依人不依法」であり、ここまで来れば完全に宗開両祖の教えに違背していると言うしかない。

 大石寺貫主の特権的地位に関しては、かくのごとく様々な考え方があった。歴史的には、石門上代の貫主中心主義から貫主崇敬主義が生まれ、さらに貫主崇敬主義を背景として「条件付き」もしくは「無条件」の貫主絶対主義が現れたようにみえる。ただし、これは右の順番通りに歴代貫主の立場が変遷してきたという意味ではない。

 重要なのは、大石寺の貫主観をめぐる論議において、これらの立場がしばしば混同されているという事実である。例えば、現日蓮正宗の「無条件の貫主絶対主義」を批判する言に対し、正宗側が「貫主中心主義」「貫主崇敬主義」「条件付きの貫主絶サ王義」を説く諸史料を用いて反駁する、といったことがよくある。

 なお、私見になるが、大石寺貫主の歴史的立場をめぐる種々の混乱を防ぐには、貫主崇敬主義の視点が有効であるように思われる。例えば、内証面の三宝一体を論ずる際、そこに歴代貫主を含めるべきか否かがよく問題となる。貫主絶対主義者は「すべての貫主の内証が仏宝・法宝と一体である」と言い張るけれども、不法の貫主もいたという歴史的事実には反する。これに対し、「信行如法の貫主には内証面の三宝一体を認める」という貫主崇敬主義の視点をとれば、歴史的事実としての大石寺貫主の意義をよく説明できるだろう。貫主に限らず、正しい信心を貫き成仏した人の内証が、本仏・本法と一体なのは当たり前のことである。反対に、不法の者は貫主といえども僧宝とは呼べない。そうした評価上の区別が可能になるのは、原則として貫主の死後である。いまだ信仰実践の途上にいる現在の貫主に関して、内証面の三宝一体を言うのは早計の謗りを免れない。ましてや、誰の日にも明らかな誇法行為を犯している現在の貫主の内証を三宝一体とみなすのは、貫主崇敬主義の放棄以外の何物でもなかろう。じつのところ、無条件の貫主絶対主義は貫主を崇敬しない。われわれは、この貫主信仰のパラドックスに気づく必要がある。

 筆者がここで示した貫主観の三類型(細かく言えば四類型)は一応の仮説である。将来、さらに厳正適格な分類がなされるとともに、大石寺の貫主観の歴史的変遷が解明されることを願いつつ、拙文を擱筆したい。

 

 

 

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