現代教学への視座 問題点と方向性


松  井  教  一   

(現代宗教研究所研究員) 

 

 

T、問題の所在

 

1、「教学の現代化」とは

 そもそも「教学の現代化」とは一体、何だろうか。

 「教学の現代化」という作業の最もむずかしいところは、〈何のために〉〈何を〉〈どのように〉するかということが、全てまったく定められていない点にあるように思われる。

 全体像を把握しないままに、恣意的な作業を始めても、まさに「群盲象を撫でる」がごとくで、有益な結果は望めないように思われる。

 「教学の現代化」作業が、まず最初に行なわなければならないことは、〈何のために〉〈何を〉〈どのようにするのか〉という作業の全体像を見極めることである。

 「なんで教学の現代化なんかに取り組んでいるの」

 「教学の現代化なんて必要ないんじゃないの。それよりもっとやるべきことがあるんじゃないの」

 「教学を現代化するなんてとんでもないよ。日蓮聖人の教義を時代に迎合させようなんていうことは、信仰的にも宗教的にも邪道だね。日蓮宗はこのままで充分すばらしい宗教だよ」

 〈教学の現代化プロジェクト〉に参加して以来、ずいぶんといろいろな批判的なご意見を拝聴した。それはそれで十分意義があったと受けとめさせていただいている。

 「教学の現代化」の必要性が、宗門教師の共通なものとして認識されているわけではないことが、このことから知られる。

 そもそも、「教学の現代化」という作業は、どのようなところから要請されたものなのであろうか。それすらもが、明確ではない。

 実体が明確でないゆえに、必要論・不要論が無益に交錯している感がある。

 まず「教学の現代化」と言った場合には、その言葉のイメージや先入観のようなものも、そこに付着してくる。

 「現代化」というと、今までの教学は古いもので時代に合わないから、それらを否定して“新しい”教学を創ることだというふうなことが、すぐにも連想される。するとすぐに、とんでもないという反応が生まれてくる。

 或いは、「教学の現代化」に類似するものとして使われている用語に「現場なき教学、教学なき現場」という言葉がある。この言葉が伝えるところは〈現場〉と〈教学〉との解離であり、そこでは、〈教学〉は教化の現場に関係のない密室の机上で論じられる空理空論であるかのごとくの非難を受け、一方〈現場〉は〈現場〉で、現実的な寺院運営に追われて、〈教学〉不在の儀礼執行的活動を行なっているかのごときにとらえられて同じように非難を受けている。

 更には、実体を把握しないまま勝手な先入観ができあがって、現在の教学は“信仰実践”を伴わない教学であるから、“信仰教学”の復活こそ、「教学の現代化」であるかのごときの主張も耳にするに至っては、ますます混乱の度は深まるばかりである。

 これらの議論や反目が生まれてくるのは、そもそも「教学の現代化」という作業の実体が明確になっていないことに起因している。

 先入観のゆえに生まれてくる、こうした必要論・不要論も含めた無益な反目や交錯を交通整理するためには、やはり最初に「教学の現代化」とは一体何なのかということが定められる必要がある。

 始めの点に戻るが、「教学の現代化」とは一体何なのだろうか。〈何のために〉〈何を〉〈どのようにする〉作業なのであろうか。

 まずはじめに、問題提起も兼ねながら、この章では〈何のために〉という点について論じることにする。論の順序としては、次の章で〈何を〉〈どのように〉ということについて考察しながら、〈現代化〉の内容について明確にし、三章において、宗教機能の回復という視点から、筆者なりの「教学の現代化(現代教学)への視座、問題点と方向性」を提起してみたいと思う。

 

 

2、〈何のために〉

 〈何のために〉ということは、「教学の現代化」作業の動機と目的の部分であり、同時にこの作業への要請や期待の所在を明らかにすることであり、それを確認することによってこの作業に対する、共通の認識を持ってもらうことである。

 筆者の想定するところでは、「教学の現代化」という作業は、大きくとらえると、教団としての〈時代社会・現代社会への対応〉の必要性から生まれてきたものである。

 戦後の新興宗教の台頭と目覚ましい教勢の拡張、あるいは近現代の“新宗教”“新々宗教”の発生は、既成教団に危機意識を与えるものであった。それは特に〈時代社会・現代社会への対応〉という面に関して、既成教団とは格段の能力(いい意味でも悪い意味でも)を持っていた事実を眼前にした時、必然そこに既成教団としての〈時代社会への対応〉の必要性が意識されるにいたった。いわゆる既成教団としての〈現代化〉の必要である。

 もちろん、日蓮教団としては、この問題に対して何も行なわなかったわけではなく、既成教団としてはいち早く、そして積極的に問題意識を以て取り組み、現代宗教研究所が組織され、新興宗教の情報収集と調査が開始された。*1

 そのことによって多くの新興教団の実態や教義が明らかにされ、批判的な視座を以て自他の優劣を明らかにしてきたことは、多いに評価されるべきことであった。現在の「新宗教プロジェクト」はおそらくその作業を継承するものである。

 だが、このことによって教団の時代対応が十全になされたかというと、そうではなかった。というのは、そのことによって自教団が時代に対応して変わるということは結局なかったし、新興教団に対抗するような教勢が回復することはなかったのである。

 その原因は、時代対応に関して、他教団を批判して自らの優位を主張するという〈対他的〉な作業は行なわれたが、自らの教団を顧みて、時代に対応して変わっていくという〈対自的〉な作業が行なわれなかったことにあった。時代社会への対応のうち、対他的な半分は行なわれたが、対自的な半分が残されたままとなったのである。

 他を批判することは比較的容易だが、自らを顧みて変わっていくということの難しさは、人間の常のごとく、組織において、それは一層難しい作業なのである。

 こうした構図の中で考える時、〈教学の現代化〉作業の置かれている位置が見えてくるのではないか。

 つまり〈何のために〉ということに関しては、〈現代化〉という言葉に託されているように、教団として〈時代に対応していくために〉に、自らを変える作業として要請されている作業が「教学の〈現代化〉」なのである。

 それが日蓮宗現代宗教研究所において行なわれることもまた、ゆえのない話ではない。

 かつて、教団としての時代対応の必要から行なわれた新興宗教批判の〈対他的〉作業と対をなす、教団自身へ向けての〈対自的〉作業として、「教学の現代化」作業はあると言えるであろう。
 最初に問題提起した〈何のために〉ということに関しては、以上の考察で明らかになったと思われる。

 

 

 

U、〈何を〉〈どのように〉

 

1、さまざまな教学観、さまざまな期待

 「教学の現代化」作業における、〈何を〉〈どのように〉現代化するのかという点について考えてみたい。

 〈教学の現代化〉であるから、〈教学〉を〈現代化〉すればいいはずであるが、事情はそれほど単純ではない。

 〈教学〉を〈現代化〉するのであるから、まず始めに〈教学〉とは何かが定義されていなければならないという考えがあるが、それは必ずしも適切ではない。なぜなら、これから変えていこうとする〈教学〉を、従来の規範に則って定義してみたところで、それほど重要な意味を持つとは思えないのである。もちろん、従来の定義については、後で確認するつもりだが、*2それよりもこの問題に取りかかるにあたっては、〈どのように〉ということを中心に考えた方が、適切であるように思えるのである。

 というのは、この場合、〈どのように〉というスタンスによって〈何を〉ということの大半が規定されてしまうのである。

 具体的に言えば、〈どのように〉ということは、〈現代化〉という言葉に込められた期待であり、その期待の種類や質によって、教学の〈何を〉変えていく(=時代に対応させるべく変えていく)かが、規定されるのである。そして、それは決して一様ではないのである。

 教学の現代化作業に携わって以来、周囲の教師諸聖の声に耳を傾けていると、その期待が実にさまざまであることに、まず驚く。そして気がついたことは、そのように期待がさまざまに分かれていく原因になっているのは、教師それぞれの〈教学観〉の違いにあるということであった。意外にも〈教学観〉というのは、教師によってさまざまなのである。そして、その違いによって、〈教学の現代化〉という時の〈現代化〉に託する思いもまったく違ってくるのである。

 以下は、筆者が聞き知った範囲での、〈教学観〉である。今後の論の展開にとって、意味のあることだと思われるので、分類してここに挙げておきたい。

 それは大体五つのタイプに分けられる。

 1 〈教学〉を信仰中心にとらえる教学観

  最も正統で伝統的な教学観であり、現在の教団の教師の大半(?)はこの教学観に立脚して、自己の信仰生活を支えている。
〈教義伝達型〉宗教観を支える教学観でもある。

〈教学〉の根幹は変わるべきではなく、また変わるはずもないと考えており(この点については筆者も同感である)、「教学の現代化」作業に対して期待するものは、現場において理解されやすい教学になることによって教義・教学が更に理解されることである。保守的な教学観とも言える立場である。

 2 〈教学〉に寺院仏教機能の理論的説明を求める教学観

 儀礼宗教として寺院が現実に行なっている行事、あるいは教師の宗教行為を理論的に説明する役割を教学に期待する教学観。教学の現代化、現場なき教学・教学なき現場という言葉にも、そのような意味での教学を求めている。

 3 〈教学〉を癒し・快感原則の実現*3のための理論・方法としてとらえる教学観。宗教を、人間に「抜苦与楽」をもたらすものと捉える機能主義的宗教観に立脚するもので、現在既成教団が宗教として機能していない原因をその現実的機能が作用していないことに求め、現代化においてその実際の機能回復を教学の中に求める教学観

 4 〈教学〉に、他宗との違い、優劣を明確にする教団のアイデンティティーとしての役割を求める教学観

 特に、現今の題目系教団に対する危機意識に立ち、自宗の教学の優位性の確信の基に、自己の教団としてのアイデンティティーとして、教学の正統な理解と確立を期待する教学観

 5 「教学の現代化」が立つ立場を、仮にこの立場に設定する。

 〈教学〉の根幹が変わるとも思わないし、変えるべきとも思わない。この点では、1の教学観と同じだが、違う点は、現在のままの教学では、時代に対応することを求められている教団の行動論理として十分ではないと考える。

 そのような認識から「教学は現代化される必要がある」と考える*4

その際の〈現代化〉とは、従来の教学を否定するのではなく、時代対応として必要とされている要請を引き受け、教学の中から機能分化する分野として、再びそれらを「現代教学」という名のもとに再編成する必要があると考える教学観

 1から5は、画然と区別できるものではなく、それぞれは密接に関連し、教師個人の中では、複合的に混在していることもある。

 また、これらが区別される根底には、宗教を、教義的な部分でとらえるか、儀礼的な部分でとらえるか、機能的な部分でとらえるかという違いもうかがえる。

 重要な点は、これらの教学観の違いによって、「教学の現代化」作業に対する反応も、期待もそれぞれに違うということである。

 一応そのことを確認しておくと、1の立場は、教学の現代化を否定するわけではない。教義中心型宗教観に立つこの立場は、教義教学が広く理解される意味での現代化を求める。教学そのものの宗教としての前提的価値を疑うものではない。

 教学の現代化に対しては、教学をわかりやすく、現代用語に置き換える教化教学的な作業を期待し、総論としては賛成の立場に立つが、各論としては反対の立場に立つ可能性を持っている。

 2の立場もまた、総論としては、現代化には賛成をする。しかし、それは現実を肯定する理論を作る意味において賛成しているのであって、現状に対する問いを提起するような形での現代化に対しては、はっきりと反対の立場に立つ。

 3の立場は、現代化という作業に対しては、積極的賛成の立場に立つ。しかし1や2の賛成の立場に対しては、批判的立場に立つと同時に、従来の教学観からすると、理解されづらい立場でもある。

 4の立場は、現代化に対しては、反対の立場に立つ。おそらく強固な愛宗護法精神から見ると、現代化というような作業は、軟弱な時代迎合性と映るからであろう。

 5の立場は、「教学の現代化」を託した立場でもあるので、後に詳しく述べることになるので、ここでは細述は控えることにする。

 大分、価値評価的な分析になってしまった気もするが、実にさまざまな〈教学観〉があり、それに伴って、実にさまざまな〈教学〉に対する期待感、関係の仕方があるということが明らかであろう。

 そこには、それぞれの価値観もあろうし、信条もあろうし、依って立つ立場もあろう。教団の現状に対して、肯定的であるか批判的であるか、保守的であるか改革的であるか。それぞれの立場にはそれなりの理由も存在しているはずである。

 上述の1から5の教学観のうちどれが正しいかなどということは、もちろん筆者に判断できる能力はない。それぞれが教師個人の資質や個人の好みの問題にされてしまえばそれまでなのである。

 それにしても、その教学観の多様性を逆手にとって問題提起できることがあるとすれば、従来教団において定説とされてきた〈教学の定義〉*5はあまりに狭い視点からなされているのではなかろうか、ということである。

 念頭においているのは、『日蓮聖人教学の基礎』の中に述べられている教学定義であるが、上述1から5の教学観の中、定説の定義の中に拾われているのは、1くらいであって、2345については、まったく触れられていない。

 それが間違っているわけではもちろんない。しかし、その間違っていなさというのは、最小公倍数的に間違っていない(=正しい)のであって、筆者がそのことに対して不満を覚えるのは、1その消去法的正しさによって教学理解を非常に狭い世界に囲い込み、教学の展開や発展の可能性を摘み取ってしまっているということ、2信仰的実存的に傾くゆえ、余りに価値前提的で内向きであり、外なる世界の宗教成立に対して余りに無関心であるということ、3宗教社会学的視点が入っていないために、価値相対的な地平から、宗教としての日蓮教学を立ち上げる作業がなされてないこと、の三点である。

 誤解を避けるために言葉を添えると、〈教学の現代化〉というような言葉でこの作業が語られる場合、〈現代教学〉とは、ややもすれば従来の古い教学を否定する新しい教学というような捉えられ方、あるいは従来の教学は、現実離れした机上の信仰なき理論教学であって、〈現代教学〉は信仰実践に基づいた現実的・信仰教学である、というような捉え方がなされがちであったが、それはいわれもない先入観から生まれてくる誤解や幻想以外のなにものでもない。

 従来の教学が信仰的でないなどと言うことはとんでもない。従来の教学の定義は、むしろその逆で、信仰的すぎるほど信仰的実存的なのである。

 そのようなゆえのない先入観には注意を払いながら、かつまた従来の教学定義の信仰的誠実さと深みに敬意を表わしながら、しかし、上述の三点の不満はぬぐいようもなく、筆者の中に残るのである。

 〈現代教学〉というような用語がもし、公認される時代が来るとするならば、それはおそらく従来の教学を否定するようなものとしては現れはしないだろう。

 もし、〈現代教学〉の〈現代化〉という語に意味があるとするならば、それは従来の教学の伝統に基づきつつ、以上に述べたような〈教学〉に対するさまざまな期待や要請を包摂していくということであろう。

 さまざまな期待には、それぞれに現実への対応上、切実な問題意識が含まれている。それを、従来の〈教学〉の範疇ではないと切り捨てるのではなく、むしろ時代への対応の必要上生まれてきたものとして、〈教学〉の中に汲み上げていくことが必要である。

 おそらく、従来の〈教学〉の定義は、自らを厳密に概念的に定義しようとすることに主眼があり、自らを狭義に定義するということは、その意味ではまったく正しいと言えるだろう。しかし、そのゆえに、現在のままの定義をもって教団の教学とするには、それは余りに痩せ細っており、おそらく教団や時代社会の現実は背負いきれないと思われる。

 したがって、単純に考えれば、教学はもっと、太らなければならない。*6

 それは、何を意味するかと言えば、〈教学の機能分化〉である。

 つまり〈教学の現代化〉とは、従来の〈教学〉を否定して“新しい教学”を創ることではなく、従来の〈教学〉の伝統と基礎の上に、時代に対応すべきさまざまな、〈教学分野〉を機能分化することによって、〈教学〉を時代や教団の要請に応えるものとして、その守備範囲と能力を一層拡大充実することである。

 以上の考察によって、〈教学の現代化〉作業における〈何を〉〈どのように〉という問題は明らかになったと思われる。

 

 

2、〈どのように〉教学の機能分化の確認

〈教学〉を〈どのように〉機能分化するべきかということについて、一応筆者なりの構想を示しておきたい。

 それは、前節で分類した、さまざまな教学観と期待の種類・質に照らして考えれば、自ずと必要となる分野である。

 なお蛇足になるかもしれないが、この分野分けを仮想するにあたっては、今回のプロジェクトが、共同作業であったことが、実にいいヒントになった。

 メンバーの5人のそれぞれの個性に耳を澄ましていくと、同じ「現代化」という作業に取り組みながら、その関心とするところ、取り組み方は、それぞれに異なるのである。そのことを参考にしながら、筆者なりにシュミレーションしたことを一言お断りしておく。

 未知の部分なので、概念規定を正確にというわけにはいかないので、その点については、今後綿密に検討していただきたいと思う。

 筆者が必要と考える分野は、七分野である。以下、各分野の簡単な説明も加えながら、それらの全体の構想を示してみたい。

[名称]日蓮教学(別に現代という語を入れる必要はないと思われる)

[目的と意義]激しく変転する時代社会の中で、大衆はそのよりどころを求めている。この大衆の要請に応え救済へと導くことは、時代の中に置かれた宗教の役目であり責任である。しかし、それを実行するためには、複雑化し多元化した要請を分析し的確に対応するための、人力と組織が用意されなければならない。

 よってここに、日蓮教団は、その要請に応えるべく、一層の〈教学〉の拡充を期し、従来の教学の伝統の上に、新しい分野を設け、現代社会に対応する教学の展開をはかるものである。

[組織構成]

  1 総合企画分野

 各教学分野の代表者によって、各分野間の連携と情報交換が行なわれ、教団と連携しながら、教団の教学としての課題を総合的に企画する。

   2 基礎教学研究分野

 従来の教学分野を継承し、更なる充実と展開を行なう

  3 教化教学研究分野

 基礎教学の伝達と檀信徒未信徒への教化を主体とした、教化教学を専門に研究する

  4 寺院教学研究分野

 寺院が現実社会において行なっている宗教活動を理論的に支える教学を専門として研究する。

  5 理論・批判・思想教学研究分野

 多大な情報や思想が氾濫する現代にあっては、それらの思想を見極め、対応・吸収・批判していく作業が必要となる。哲学、宗教学、社会学、歴史学、思想史、科学思想など、主に、人文科学分野の多面的な情報収集によって、常に時代社会に対して、発言発信できる教学のあり方を研究する

  6 機能教学(名称が適切でないかもしれない)研究分野

 依然として、科学思想がリアリティーを持つ現代においては、宗教を科学的知見によって、説明していく姿勢は不可欠である。

心理学、生理学、医学、物理学など、主に、理数科学系の研究によって、教学を裏付け、新たな可能性を模索することを研究する分野

  7 創造教学研究分野*7

 分析や批判だけでは、大衆の心を満たし、その要求に応えることはできない。1から6の研究成果を基にしながら、かつ総合企画との連携の上に立って、宗教はもちろん、文学、思想、世界観など、総合的な幅広い分野にわたって、日蓮教団の発展となるような創造的創作活動を研究展開する分野

 これらの教学分野は、相互に関連しあわないはずがない。2の基礎教学の部分を逸脱して他の教学分野が存在しうるはずもない。そしてまた2の基礎教学分野も1の総合企画との連携の上にあることは当然である。

 2から7は、教団としての時代対応の必要上、分化的に生まれてくる応用教学とも言うべき分野であり、それらが絶えず2の基礎教学を基本としながら1の総合企画の枠内において活動した時に初めて、教団の教学としての機能が果たせるのである。

 これら1から7を総括するものとして、「現代教学」はあるべきであり、それが教学の発展と展開を促すものとして、今後多いに期待されなければならないはずのものである。

 ところで、これまでの論考において、筆者は「教学の現代化とは何か」を明確にすることに、全力を振り絞ってきた。これまでに明らかにしえたところまでが筆者の能力の限界であり、不足の部分、誤っていると思われる部分については、関心のある諸学聖において、批判訂正して補っていただき、今後この教学分野の研究を大いに稔りあるものとしていただきたい。

 筆者自身もこの問題に関わり、提言をした以上、今後もこの分野の問題については、一定の責任のようなものを感じるので、先輩諸聖の一層のご教導を賜わりたいと願っている。*8

 ただ、ここにいたるまで、論の展開上、筆者の最も関心とするところの問題について、極力論考を控えてきた。論理の展開が混乱するのを避けるという理由もあるが、この問題意識はこれまでの論自体を・斜めから切る・性質のものであることをある程度自覚していたからでもある。

 それは、「宗教とは一体何か」という問題である。筆者の予測では、この問題もまた〈教学の現代化〉ということと、深く関係している。

 なぜなら、〈教団の時代対応〉という部分に関して、何よりも時代から問われていることは、宗教としての機能回復だと考えられるからである。次の章では、その点について述べることにする。

 

 

 

V、宗教の回復

 

1、お寺に宗教はない?

 「お寺に宗教はありませんよね」

 オウム真理教の脱会信者のカウンセリングに携わるN師は、ある若者からこう言われたという。

 またO師は、既成教団の一員としてその将来的不安をある編集者に述べたところ、

 「そんなに心配することはないんじゃないですか。皆さんの既成教団はしっかり役目を果たしています。葬儀という伝統文化の中で、私たちの心を慰めてくれているし、現代の要求にも答えてくれている。それと同時に、それ以上の要求もないことも事実ですが」と言われたという。

 N師の場合もO師の場合も、これらの言葉に対して既成教団の一員としての危機意識を感ずるがゆえに、この事を問題意識としてとりあげることができる。

 筆者も、拙論「現代の宗教動向の背景にあるもの」*9において、このあたりの問題については少しく調べた経緯があるが、N師O師が指摘していることは決して誇張ではなく、すでに一般に認識されている事実である。

 現場の教師の大半も、おそらくこうした傾向には気づいている。

 現場の教師が、教団に対して期待する要求の裏には、この外からの要求に対しもう少し考えてくれということも、当然含まれているだろう。

 しかし、この〈外〉からの要求への対応ということも、よくよく考えてみるとそれほど単純ではないということがわかってくる。

 「お寺には宗教がない」と言う時、一体彼らは何をもって“宗教”と考えているのだろうか。彼らの考えている“宗教”と、教師が考えている“宗教”とは、果たして一致しているのだろうか。

 まず現場の教師は〈宗教〉をどのようにとらえているのであろうか。ここでは現場教師を寺院の〈住職〉という立場に限定し、住職の宗教観のようなものについて考えてみたい。

 〈住職〉は寺院の中にいて、〈檀家〉と向かい合っている。

 その〈檀家〉というのは、日蓮宗という教団に所属していることになっているが、その大半は日蓮宗の信者というよりも“先祖供養宗”とも言うべき宗教の信者である。それは、お施餓鬼、彼岸といった先祖供養の行事と日蓮聖人の聖日行事、たとえばお会式との参詣者の数の違いからも明らかである。

 このような現実の中で、〈住職〉が素朴に望むことは、先祖供養の行事だけでなく、お会式にも出て欲しいということであり、日蓮聖人の教えを理解し、それを日常生活に生かしてほしいということである。

 おそらくこれが、現場の〈住職〉の考えるごく一般的な“宗教観”である。

 この立場からすれば“お寺に宗教がある”ということは、お寺が外の世界(檀信徒も含めて)に向かって、常に日蓮聖人の教えを説いているということになる。

 だが、それで本当に“お寺に宗教がある”ということになるのであろうか。

 「お寺には宗教はありませんよね」という言葉が言わんとするところがどこにあるのか、そのことの真意は計りかねるにせよ、それがお寺が布教教化活動をしていませんよねというレベルの話ではなく、特定の宗派の教義を伝達することが果たして“宗教”なのですかという問いであったとしたら、そのことこそが最も深刻な問題であろうと、筆者には思えるのである。

 現場の教師(住職)の想定している〈宗教〉というのは、大半が〈教義伝達型宗教〉である。日蓮聖人の教えが伝わり、理解されることが、〈住職〉の考える宗教である。

 だが、外の世界が考えている“宗教”というのは、神秘体験をさせてくれることかもしれないし、超能力を与えてくれることかもしれないし、心の不安を取り除き、癒しを与え、自己実現させてくれることかもしれない。*10

 現在教団が抱えている本当の問題というのは、ここに現われている〈宗教意識のズレ〉なのではないだろうか。

 教師が考えている“宗教”と、〈外〉なる大衆が考えている“宗教”とが、もし接点がないとしたならば、一体これはどういうことになるのだろうか。

 その問題の深刻さこそが、実は「教学の現代化」が担わなければならない最も重たい問題なのであると、筆者は予想しているのである。

 新興教団を批判することは、ある意味ではたやすい。しかし、現実として新興教団の方が大衆にとって魅力があったのだという事実と向かい合う時、そこで問われていたのは、“宗教”そのものの在り方だったのではないだろうか。

 更に言えば、既成教団化するがゆえに陥らざるを得ない〈教義伝達型宗教観〉そのものが、時代から問われているのではないだろうか。*11

 この問題に振り向くことなく、外なる現実社会の要求に答える〈教学〉を用意しようとしても、それは単なる小手先だけの教学操作に終わってしまうのではないだろうか。

 〈現代化〉ということを、単に外装の問題でなく、自己の〈内〉へ向けての問題として、本質的に考えようとするならば、そこで問われなければならないのは、既成教団なるがゆえに前提として出発しているところの〈宗教が成立する地点〉の問題なのではなかろうか。

 筆者は、〈教義伝達型宗教〉観が間違っているということを言いたいのではない。教義の伝達は、一教団の中においては当然なされなければならない事である。

 しかし、それが価値前提的であり、すでに〈宗教として成立している〉と考えられている価値の共有を求めるものであることは、意識されていなければならない。それは、いまだその価値を共有していない〈外〉なる人間にとっては、了解事項として成立していないのであり、それを押しつけられることは“勝手に一方的に決めつけるなよ”ということにもなるのである。

 〈宗教〉とは、特定の意味や価値、あるいは生のパターンに自己の生を依拠することによって成立するものであろうが、ただしそれは一回性の自己の実存との関わりを通して成立するのだということが忘れられてはならないだろう。*12

 既成教団が、教義の伝達・共有の課題に執するあまり、〈宗教〉が〈宗教〉として成立している地点を見失ったままならば、これからも「お寺には宗教はありませんよね」と言われ続けることになるであろう。

 では逆に、「宗教がある」とはどういうことか。

 次の節では、最も身近な葬儀という場の実際を通して、そのことを考えてみたい。

 

 

2、葬儀という場での〈宗教〉

 「宗教があるとはどういうことか」

 葬儀という場は、そういう観点から見ると非常に微妙な場である。

 微妙というのは、宗教のある場所にもなるし、宗教のない場所にもなる、葬儀はそういう両義的な場所だからである。

 たとえば葬儀の後の法話で「生老病死」の話をすることに決めたとしよう。

 葬儀の場においては、非常にむずかしい話題であると筆者は思う。

 なぜなら、眼前に〈個別〉の死を悲しんでいる現実のリアリティーがあり、その前に「生老病死」の話題を出すということは、その話題が現実のリアリティーよりも重いものとならない限りは、単なる抽象論やお説教に終わってしまう可能性があるからである。抽象論やお説教の中には、宗教は成立はしないだろう。

 なぜなら宗教とは、個人の実存のレベルまで下っていくことによって、初めて成立するからである。

 「生老病死」は、仏教にとっては、いわば〈公理〉のごときものである。

 そしてそれが、人間存在にとっても〈公理〉であるところに、仏教の普遍性が生まれる。

 だが、問題はその〈公理〉が自分のこととして受け取れるか否かにかかっている。

 太田燭山人の川柳に「かねてから 人が死ぬとは聞きしかど 俺が死ぬたあ そいつぁかなわん」という一句がある。

 まさに死に対する人の関係の仕方を言いえて妙である。

 「生老病死」は人間にとって公理である。しかし、人はその公理を、自分をも含めたものとは認めようとしない。なぜなら、そこに人間の自己保全の能力があるからであり、日々の生活の日常性は、今日のようにまた明日があるという安心の上に成立しているからである。日常性の自己保全の中では、死は他人の問題として自己の外に投げ出されている。今日死ぬ、明日死ぬと思っていたら、人は不安にかられて安心して暮らしてゆけなくなってしまうだろう。

 「生老病死」という公理が、自己の外に投げ出されているうちは、宗教は成立しない。

 だから、仏教はまず「臨終今にあれと思え」と言うのである。死が今の自分に常に危機的に意識されている。そこには宗教が成立するからである。

 葬儀の場においてはどうか。

 遺族は肉親を失って悲しみと向かい合っている。その悲しみが表に出ている場合もあるし、奥深く沈潜している場合もある。ともかくも葬儀を執行しなければならないという責任感から、悲しみが押し殺されている場合もあるし、あまりの突然の出来事に動転していて、悲しみすら自覚されない場合もある。稀には、本当に悲しまれていない(?)場合もある。

 ともかくもそこで、人は死別の悲しみの処理を強いられている。

 葬儀自体の中にも、悲しみの処理(グリーフワーク)という機能が含まれており、それは非常に重要な役割である。人は余りの悲しみに耐えられないゆえになんらかの形で自己を守り保たなければならない、そういうためにできあがったシステムが葬儀という文化である。*14

 いろいろな悲しみの処理の仕方があるだろうが、そこにおける最も一般的なケースは、「人間はいつかは死ななければならないのだから、悲しんでみても仕方がない」と考えることである。悲しみを何かに転化する方法もあろう。

 まさにその時、その場で、「生老病死」の話を聞いたとしたら、人は何を感じるであろうか。

 もし、人は死ななければならない(「生老病死」の公理)のだから、悲しんでみても(悲しむということは、自己がその問題を引き受けているからである)仕方がないと受けとめられたとしたら、それはせっかくの〈宗教が成立〉する契機を育むどころかむしろ摘み取ってしまうものとして機能してしまうのである。

 こういう話はどうだろうか。

 「人間の命は〈生老病死〉です。もし命が自分のものであったら、いつ死んでいくかがわかるはずです。しかし、わからないということは、命というのは自分の命ではない、生かされて生きている命なんです。」

 ここでなされているのは生の意味づけである。そしてここで注意されなければならないのは、死の問題は生へと転化されてしまっているということである。

 この生の意味づけが本当に意味を持つか否かは、その前に〈宗教が成立している〉ことにかかっている。
 死という問題に関して、そこに〈宗教が成立する〉か否かは、その人がどれだけ自己の問題として死と向かい合っているかにかかっている。

 「俺がしぬたあ そいつぁかなわん」と自己をそこから除外してしまったら、死と向かい合うことを避けてしまったら、そこには宗教は成立しないのである。

 仏教の「生老病死」説は、その認識を通して、人が自己の生存の実存的危機に目覚めることを目的としている。そしてまた、自己の実存的危機に目覚めた時、はじめて「生老病死」の教えは〈宗教として成立〉するのである。自己の実存的危機の目醒めのないところでは、「生老病死」は単なる他人事の〈公理〉にすぎないままである。

 葬儀の場において、「生老病死」の話をすることのむずかしさは、この辺のところにある。

 葬儀の場において、人は無意識にも悲しみの処理を求めている。葬儀のしくみの中にも悲しみを処理する機能は含まれているが、それがただ単に自己との関わりを除いた部分で作用する時、葬儀は宗教のない慣習儀礼の場と化す。

 「常に悲しみを懐いて心遂に醒悟す」のごとく、実は人はその死別の悲しみを媒介として、自己存在の実存的危機に目覚める契機を与えられている。その実存レベルの目醒めへと人が赴くためには、悲しみは安易に処理されてはならないしその処理の方向性が、見守られなければならない。*15

 自己の問題として内へ向けられるか、他人ごとの公理として外へ向けられるかによって、宗教が成立するかしないかが分かれるのである。

 葬儀の場において「生老病死」という教説を説くことのむずかしさは、教説自体もまた、そのような微妙な両義的な場所に置かれるからである。そのことが、十分に意識されていないと、「生老病死」という教説が、かえって宗教が成立することを妨げるものとして機能してしまうこともあるのである。

 さて、葬儀の場に的を絞って、〈宗教の成立〉について考えてきたのであるがこの個別のケースの省察は、他の場面にも敷衍することができるのではないだろうか。

 「生老病死」という教説は、実存的危機の存在認識にいたるための、尊い教えであるが、その教説の価値は、そのように機能したときにはじめて生じるのであって、機能していない教説そのものに価値があるわけではない。教説とは、宗教を成立させるための言葉なのである。

 ところが、教説そのものに価値があるかのごとく、価値前提的に教説の受容が求められる時、葬儀の場においてそうであったように、宗教は成立しないのである。そして、既成教団内においては、おうおうにして自覚されないままに、このようなケースが起こりやすくなる。なぜなら、教師は教義教説を宗教的価値として受容しているために、〈教義伝達型宗教観〉を持っており、教義教説を受容すること、あるいは伝達することが〈宗教が成立する〉ことだという錯覚に陥り易いのである。

 教義・教説は尊くないわけはないが、教義・教説そのものが、宗教それ自体ではない。教義・教説の価値とは、実存的な関わりを通してそこに宗教が成立した時に初めて生じる価値なのである。特に、既成教団においては、このことが明確に理解されていなければならない。

 「お寺には宗教がありませんよね」という一青年の言葉を、既成教団に対する問いかけとして受けとめるならば、少なくともここまで立ち入らなければならないと筆者は考える。

 つまり、既成教団が今、時代から求められているのは、〈宗教の回復〉ということなのである。

 「教学の現代化」という作業が、教団の時代対応の必要から生まれている作業の一環であるとするならば、そこに求められていることは、形式や解釈や教義の現代的翻訳や伝達という前に、前提として出発している〈宗教の成立〉への問い直しの姿勢ではないかと思えるのである。

 葬儀の場における〈宗教の成立〉に関する省察を通して、その点を認識してもらうことが、この節の目的であった。

 

 

3、宗教成立への問い直し

 前説で考察したような理由から「教学の現代化」という作業は、それ自体の中に〈宗教の成立〉への問い直しを含む作業であることが求められているということが明らかになったと思われる。

 U章で明らかになったように、「教学の現代化」が、従来の教学の機能分化を求めるものであるということも、実は時代への対応を名目としながらも、その根底に〈宗教の成立〉に対する問い直しを含むものであろうと考えられる。

 U章1節で触れたさまざまな教学観に中の、3の、宗教を抜苦与楽という機能面からとらえ、身体生理学的な科学的知見からアプローチしようとする教学観も、宗教そのものへの問い直しを動機として生まれてくるものである。

 また、教学が機能分化する際に、必要と思われるそれぞれのジャンルも、大きな意味では、宗教そのものを問い直すものとしての役割を、それぞれに期待されているはずである。

 身体生理学という科学的な面からの問い直しだけではなく、仏教思想史・日本思想史的な面からの問い直し、宗教学・宗教社会学的な面からの問い直し、歴史学的な面からの問い直し、哲学的・実存的存在論からの問い直しなど、多角的な面から〈宗教の成立〉について問い直していくことを、今、既成教団は求められているのである。

 現在進行中のさまざまな宗教ブーム、新々宗教や“精神世界”といった運動や宗教的な社会動向は、大きくとらえると、既存の宗教そのものへの問い直しを求める意味も含まれていると言われる。*16

 既成教団の将来は、この時代社会から投げ掛けられた問いに、どのように応えることができるかということにかかっていると言っていいだろう。

 「教学の現代化」という作業の成否もおそらく、どれだけ宗教そのものへの問いを内包しつつ、宗教の回復の方向を示しうるかということに、かかっているはずなのである。

 そして、それは既成教団であるがゆえに陥りがちな、価値前提化という陥穽を注意深く見究めながら、自己自身の宗教を問い返しつつ回復していく、困難な作業なのである。

 

 

 

W、終わりに

 「教学の現代化」作業は、まだ本格的に始まったわけではない。

 いやそれどころか、いまだ始まろうともしていないし、もしかしたら始められないままに終わってしまうかもしれない。

 教学の現代化作業がなぜそれほど立ち上がりづらいかというと、

 第一に、この作業が、教団自らの〈内〉なる自己へ向けての問い直しという役割りを担わざるを得ないことによって、あまり歓迎されるべきものではないと受けとめられ易いこと、

 第二に、作業の全体像が明らかになっていないために、さまざまな先入観や偏見に取り囲まれていること、

 第三に、作業が進むべき地図も羅針盤もないために、どこから、どのように取りかかったらよいかが、見えてこないこと、

 この三つの理由が挙げられる。

 この小論の目的は、これらの困難を取りのぞき、教学の現代化作業を緒につけるための、道づくりをすることであったが、果たして細い道の一本でもできただろうか。刈り残した草、払いきれなかった枝、拾い忘れた石があることと思う。

 決して歩きやすい道ではないが、いつの日にか往来が盛んになり、公道となってくれることを願っている。

 教学の現代化作業は、とても小さなプロジェクトだけで担いきれる仕事ではない。いつか教団レベルの作業として着手される日が来るその時、この小論が小さな踏み石の一つにでもなっていてくれたらと願う。

 激しく変転する時代の中で、既成仏教教団が存続する道は決して平坦ではない。

 しかし、日蓮教団は、仏陀正統の法華伝統教団である限り、なんとしても生き残らなければならない。
 「教団はつぶれても、寺は残るよ」と言った教師もいる。

 そういう教師とも共生していかなければならないのが、おそらく教団というものの哀しい現実であろう。

 しかし、本当に生き残らなければならないのは、〈宗教としての〉日蓮聖人の教えであろう。その教えを保持するために教団があり、その宗教を、より多くの人々と共有するために、寺院がある。

 そしてここにこそ、教団の根幹としての〈教学〉の位置と意味がある。

 今、その〈教学〉のあり方が〈現代化〉という名前のもとに、問われている。

 それが〈宗教の成立〉そのものへの問い直しを含むところの、自己への問いであることはすでに述べた通りである。

 その要請に応えるためには、教学研究の分野は、個々の要請に応えるべく、機能分化され拡大充実されてゆかなければならないということが、筆者の考える「教学の現代化」であり、方向性である。

 それぞれの分野において、今後研究解決してゆかなければならない問題は山積みされている。

 そしてまた、そこにおける営みこそが、教団を内側から支え、存続させていく力となるはずであるというのが、暗中模索の末に筆者が辿り着いた仮の結論のごときものである。

 もとよりこの作業を担う器ではない筆者が、なんとか二年半という共同研究についてこれたのも、共同研究の場を通じて出会えた法友の導きと支えのおかげである。ここに、心から感謝するとともに、今後共々の研鑽を誓いたい。

 思い起こしてみると、「教学の現代化」プロジェクトが発足された当時、メンバーに招集されたものの、〈何のために〉〈何を〉〈どのように〉するのか、何がなんだか全くわからなかった。

 取り敢えずは、「宗教と科学」という視点を切り口として、ニューサイエンスを叩き台に〈教学の現代化〉を考えてみようという共通の了解事項には、それなりの尊い先見性があったのかもしれないと、今は思うことができる。

 おそらくそれは、学的な厳密さは別にして、とにかく現代という時代に受け入れられるようなものを、大胆な試みとして創ってみようということであったのだ。

 教学機能の分化した分野に、「創造教学研究分野」を仮想できたことは、そのことに対する筆者なりの自省の意味も含まれている。

 しかし、自分自身も含めて、現在の教団の知力というのは、到底そんなレベルには達していないということを、作業の過程で痛感せざるをえなかった。

 結局この小論は、当初の約束事を守らないことになってしまい、発足当初の、曖昧模糊とした自身の思いを、晴らすことに向けられてしまった。

 二年半の歳月を費やして、出発点に戻っただけかと思うと、我ながら情けない思いもなくはないが、敢えてそこに意味を求めるならば、筆者のごとき愚考を通して、ようやくスタート地点が明らかになったとでも了解して、自分で自分を慰めるしかない。

 最後に、この無益とも見える営みを、終始寛大な心で温かく見守って下さった現代宗教研究所の関係諸聖のご高察に、心から感謝申し上げ、加えて「教学の現代化」の意味が、一人でも多くの教師に理解され、教団の将来を担うべきこの作業が、一日もはやく教団レベルの認識のもとに、スタートすることに期待を託して、拙い小論の結びとしたい。

 

 

 

 

 註

*1 現代宗教研究所が設置されたのは、昭和39年のことである。

*2 『日蓮聖人教学の基礎』(庵谷行亨著、山喜房佛書林)3P〜14P

*3 民主主義社会の原則は自己実現と生存本能としての〈快感原則〉である。これにマッチする経済体制が資本主義である。

 新興教団は、神秘体験や修業、自己開発という形で、こうした社会のニーズに巧みに答えている。

 鷲田小彌太著『現代思想』(潮出版社)などを参照

*4 『現代日本人の宗教意識』(NHKブックス)、『現代人の宗教』(大村英昭、西山茂編有斐閣)などを参照

*5 約束通り、ここで『日蓮教学の基礎』の教学定義を確認しておく。

  ・位置づけ

 日蓮教学は、宗派仏教の一つであり、宗学の領域に含まれる。

 宗学の中でも、教理・教学を内容とする宗学の項に該当する。

  ・日蓮教学の概念

 日蓮聖人の教学、日蓮聖人と門下の教学、日系教団の教学、日蓮宗の教学

  ・本質

 日蓮教学を支えるものは信仰である。信仰こそが日蓮教学の生命である。日蓮教学は、信仰を通して本来の自分を知り、正しい人生を歩むことである。日蓮教学が人格そのものとなってはじめて、日蓮教学を学んだことになる。

  ・宗学

 宗学とは、宗祖の教えに自己の実現をみることである。

 日蓮聖人に入り(自己否定)、日蓮聖人に生きる(自己肯定)ことが日蓮宗学の意味である。(以上要約)

*6 定義からも「日蓮教学(宗学)」が、仏教学を前提にし、仏教学が宗教を前提にしていることが推察される。

 しかし、現代世界は、科学的世界観の台頭により、宗教が前提としていた〈世界の意味〉や〈存在の意味〉までもが相対化されてしまった時代である。

 「日蓮教学」が自立して宗教であるためには世界の意味や存在の意味を提示していく責任があるはずである。

 『宗教哲学』(藤田富雄 大明堂)参照

*7 現代世界において問われている〈世界の意味〉や〈存在の意味〉の問題と向かい合い、創造的に提示していく。宮沢賢治の創造的世界が現代に歓迎されるのは、この時代がそれだけ、〈世界や存在の意味〉に餓えているからにほかならない。宗教はコスモロジーの再提示を求められている。

*8 「坊主殺せ、寺壊せ」という事は簡単だが、内から教団を支えるということは、なんと大変なことだろう。

*9 『現代宗教研究』第三十号(日蓮宗現代宗教研究所所報)163P〜179P「ニューサイエンスとパラダイムシフト―現代の宗教動向の背景にあるもの―」

*10 このような現代人の欲求を最初から、世俗的な非宗教的なものとして否定してしまうところからは、宗教は成立しない。社会的な抑圧や疎外から生まれるこうした欲求を受けとめあるべき自己実現の方法を示し、導いていくことが、宗教の果たす役割であろう。

*11 『見えない宗教』(トーマス・ルックマン著ヨルダン社)110P〜114P参照

*12 『宗教哲学』(前掲)参照

*13 『悲しみからの仏教入門、死に学ぶ生の尊さ』(田代俊孝著 法蔵館)参照

*14 『「お葬式」の学び方』(碑文谷創著 講談社)82P〜113P碑文谷氏は、葬儀の意味を、死を看取る死を受け入れる死者を送る社会的な死の確認喪の仕事(グリーフワーク)という六つの機能に分けて分析している。

 特に、グリーフワーク(悲しみの消化・昇華作業)や、アルフォンス・デーケン氏によって提唱されている「デス・エデュケイション(死の準備教育)」への認識は、葬儀における〈宗教の成立〉を考える上では、重要な示唆を与えてくれると思われる。

*15 日常性の破綻を通して人は危機的な実存としての自己に目醒める。現代社会の自己アイデンティティーの不全に対して、「生老病死」説や「縁起」説は、解説の仕方によっては、非常に有効なはずである。

*16 沼田健哉著『宗教と科学のネオパラダイム』30P

 「湯浅泰雄は、日本やアメリカなどに見られる「宗教回帰」といわれる現象は、実は宗教に対する問い直し、さらには近代的人間観や知のあり方についての問い直しの模索とみなし

 

 

 

 

戻る