ミニ講演


駆け出し宗教担当者から見た仏教界の常識・非常識


宮 本 茂 頼

 

 


司会 朝日新聞東京本社文化くらし報道部の宮本茂頼記者に、ご講演いただきます。「駆け出し宗教担当記者から見た仏教界の常識・非常識」というタイトルでございます。では、宮本さん、よろしくお願いいたします。

宮本 ご紹介いただきました、朝日新聞東京本社の「文化くらし報道部」という文化関係の部署で、宗教担当の記者をしております、宮本茂頼といいます。つたない話だと思いますが、よろしくお願いいたします。

 まず、お含みいただきたいのは、今回タイトルにも書きましたけども、私はまだ平成24年9月からこの宗教関係の担当をしている状況です。そういうわけで、まだ本当に駆け出しですので、このような場でお話しするほど、経験も知識も全然なく、主任さんにも一度お断りしたんですけども。逆に一般人に近い感覚で話してもらえた方がありかたいということでしたので、それならば素人考えをご披露すればいいかなということで、引き受けさせていただきました。そのため、宗教的に、あるいは教義的に何か変なことを言うかもしれませんが、ご了承いただければと思います。

 そうは言ってもと われるかもしれませんが、本当に特別宗教関係の勉強をしたとかではないので、本当に無知もいいところでありまして。9月に担当になってすぐ、日蓮宗さんも加盟されている全日本仏教会という団体がありま すけれども、そこで震災対応についての取材に行った際に、私の実家の墓の話になって、その仏教会の幹部の方に、 「それで宮本さんは、どこの宗派なんですが」と聞がれて、自分の実家の菩提寺の宗派ですけれども、実はそのとき 答えられながったんです。そのくらい何も知らないというが。それで、その方がらは、「仏教会を取材するならばね、 自分の墓のある寺の宗派ぐらい知っておいた方がいいよ」と諭されたくらいで、今思い出しても恥ずがしい限りなん ですけども。そのくらい、仏教会というが、宗教も含めて無知なんです。

                                                                                     ただ一つ、ちょっと言い訳めいたことを言わせていただければ、うちの父親は千葉県印旛郡の農家で生まれたのですが、父親は三男だったので、当然家を継ぐわけでもなく、東京の方に勤めに出て、私が育ったのも千葉県の八千代市で、新興住宅地に家を構えて育ちました。つまり、典型的な戦後のニュータウン族という感じなので、いわゆる地域に根差した檀家制度に支えられている伝統的な寺院とのつながりというのは、うちの父親もそうですし、私の世代になると、全く希薄というのが、私の育った環境です。そういった意味で、今いろいろ仏教界も変革というが変化の局面に来ていると思いますが、そういう都市住民の宗教観みたいなものはお話しできるのがなとは思っています。

 それで、今日のお話は、資料で配っていただきましたが、やはり新聞記者ですので、新聞記事を参考にするのが一番話しやすいがなと思いまして、朝日新聞に載った、仏教界についての記事を幾つが資料として付けさせていただきました。私が書いたものも幾つがありますし、私が書いていない、全く関わっていないものもありますけれども、宗教界の新聞ではない一般紙ですので、かなり普通の人々の興味・関心に沿ったような記事が多いはずだと思います。ですので、この記事を基にお話しさせていただきます。

 それでは、まず一枚めの「1」というところがら始めさせていただきます。タイトルに、「お坊さんは金に汚い?」という、ちょっと失礼なことを書いています。世間というが、あまりお寺になじみのない一般の人たちが、お寺やお坊さんにどんなイメージを持っているのがなということがら、始めたいと思います。

 新聞なので、よい話よりもよくない話の方が大々的に報じられることは、それは新聞というメディアの特性なので、申し訳ないのですがご了解下さい。

 今回講演をしてくれということで、改めて、私が担当になる前も含めて過去の記事を見ていくと、やはり、お寺の話というと、お葬式、葬儀とそれに付随する、葬儀の形式自体も、結構話題になっていますけども、お金の話というものが大きく扱われています。扱いが大きいということは関心も高いのがなということを改めて感じました。

 この@−1と書いてある記事ですが、これは、私は全然関かっていなくて、名古屋本社版という名古屋周辺で配っている新聞に載ったものです。東京でも、もっとコンパクトなものが載っています。とにかく名古屋版とは言っても、この右の、「僧籍ない見習いが通夜」という方が、いわゆる新聞の顔である一面で、その左の記事は漫画等がある社会面で、「ウケ」とわれわれは言いますけれども、ウケ記事で、がなり大きな展開をしていて、多分、特ダネだったのだと思います。

 この興正寺、真言宗のお寺で、名古屋ではかなり大きな寺院のようですけれども。まあ、読んでいただければ分かりますが、真言宗としては僧籍がまだ認められていない見習いの僧侶の方が通夜を一人で執り行って、そのことは遺族の方に告げずに行った。それで、お布施と寄付金ということで200万円を支払ったということで、遺族が怒ったという旨の記事です。これを見ると、お寺の方は修行の一環ということで、問題はないと言っています。

 このお話、別の機会にいろんな宗派の人と話したこともあったのですが、これは仏教界的に問題なのか、そうでないのかというと、様々な意見がありました。それについての判断は、素人である私にはつきかれますけれども、一般の感覚からすると、ちょっとどうかなというのが正直なところです。この寺の住職は、「未熟ではない」「対外的には正僧侶」ということを言っているみたいですが、こういうことが起きると、まあそれは遺族が怒るのも無理がないのかなという気がします。

 こういう問題が起きると、やはり連想してしまうのは、戒名料とか葬儀にまつわるお布施の問題です。結局、明朗会計というわけじゃないですか、金額設定かよく分からない。

 それで、その裏の資料(@−2)ですけども、イオンがお布施の金額について、明朗会計というものをうたったときの記事で、かなり話題になりました。ここで当時の全日本仏教会の事務総長さんが、この記事で言うと上から三段目ですか、「お布施という信仰の核心部分まで商品化された。葬儀が仏教儀式として成り立たなくなる」という反論をされています。

 これも私みたいな素人からみますと、お布施というものが信仰の核心部分と言かれるのは、何かちょっと今ひとつピンと来ない。先程述べたように、お金かすぺて汚いとは思いませんが、こういう言い方をされるのは、一般の人からするとどうなのかなということです。

 結局、このお布施が信仰の核心部分かというのは置いておくとしても、お坊さんの世間のイメージが、何というべきか、清貧だとはちょっと思えない。これは一般のお坊さんのイメージで、もちろん一部なのでしょうけれども、外車を乗り回してうんぬんみたいな、そういうことを持たれているお坊さんも多分いらっしゃると思うんで、こういう印象というのか、@としての、世間のイメージとしてあるのかなという感じかします。

 それで、この流れで、二番目の、「宗教だから許される?」に参ります。先程の、「お布施が信仰の核心」という言い方が、すごく世間の常識とずれているというか、ある種の宗教界の特殊性というものを象徴しているのかなと。つまり、われわれ一般人と宗教者の、特に仏教界の人たちの持つ価値観とのずれ。そういう、宗教がある種特殊な世界であり、それが世間にどう映っているのかということについて、お金ではない面で話そうというのか、この二番です。

 資料のAですけども、この「座禅でバシッ・・・体罰にあらず」という記事なんですけども。これは五月だから、今月ですね。今月、私が書いたんですけども。通常、われわれ文化部の記事は文化面に載ることが多いのですが、この記事が、社会面というところに載ったこともあって、すごく反響があった記事です。内容は見て、読んでもらえば分かると思いますけども。警策、臨済宗では「けいさく」、曹洞宗では「きょうさく」というみたいです。座禅中の棒が体罰と思かれたら困るので、ちゃんとした見解を示してくれという、宗門校がら要請があってこういう文章を作ったという記事です。皆さんが、この記事を読んでからどうお感じになるかなと思って資料にしました。

 普通に考えると、その座禅の警策という物を体罰と一緒に考えるのは、何がもう、ある種のいちゃもんというか、「もうまじめに考える必要なんてあるの?」という、そんな、「そんな訳の分がらない意見に耳を傾ける必要があるのか」と思う人も多いのかなと思いますし、実際この記事への反応は、「こういうことまで説明しなければならない最近の風潮はどうなの?」みたいな反応が多かったです。

 私もこの記事を書いたきっかけは、ここに出ている臨済宗の妙心寺派さんというところがこういう文章を作っているという話を耳にして、「これは面白そうだな」と思って「記事になるな」と思って取材を始めました。私も先程言ったように、そんなことにいちいち反応しているというが、そんなことを説明しなければいけないということが面白いと思い、そういう面白さを記事にしようと思って取材を始めました。

 取材をしていくと、何だか、もやもやしてきてしまったんですよ。それは何かというと、お坊さんたちが、その警策、警策と体罰は違うと説明するし、そういう旨の文章なのですが、それが何か、すとんと納得できなかった。何がこう、うまく説明がついていないような気がしてしまった。記事では、何で警策と体罰が違うのがという説明文について、ちょっと一部しか書いてないんですけども、ここに書いてあるのは、「警め」であり「策まし」ということであり、「罰ではなくて座禅に集中するためだ」と。他にも、例えば、「文殊菩薩に代かって叩くんだ」とか、「私情は交えません」、だから、「文殊菩薩様に代かって打つんです」とかって書いてありますし、実際そういうものなのでしょうけども。それを見て納得したかというと、ちょっと微妙だと思いまして。

 実際、何人か禅宗のお坊さんにもお話を伺って記事にしたのですが、結局、禅宗のお坊さんも正直に、体罰なのか、いわゆる教育的指導なのかというのは、ある種の心の問題に行き着いてしまうというか、たたかれる方がどう思っているかということに行き着いてしまう。体罰ととられてもしょうがないというようなことを正直におっしゃる方もいる。つまり、それって、例えば大阪の市立高校で話題になったときに、自殺という、とんでもないことでしたけども、その先生がすごい慕われてたということがあったようで。結局、体罰なのか、体罰って「罰」という言葉に引っかかりますけども、体罰なのか教育的指導なのかというのは、すごく、曖昧だと。だから、この警策についても、体罰じゃないって本当にじゃあ言えるのかと。「それ、体罰なんじゃない?」と思う反面もある。

 何が言いたいかというと、つまり世間の常識を当てはめると、意外と宗教で言っていることは、脆いというか。結局、宗教と世間とは違う次元にあるから成り立っている。宗教だから許されることがある、世間の常識に当てはめないでくれということを押し通さないと、宗教的な正しさ、正当性みたいのが担保できないのではないかという疑問が生じたのが、この記事です。そこまでこの記事で書けていないですけども、それは取材していて、すごく感じたことです。

 それで、その流れで行くと、このさらに下の記事、先週書かせていただきました日蓮宗さんについての記事。これも、荒行というかなり特殊な、世間的に見ると宗教的な厳しさとか、そういうものです。宗教の特殊性の最たるものだと思います。

 これも、取材を始めるに当たって思ったことは、一方でやはり僧侶の皆様が、そういう過酷さを引き受けて、死も覚悟した修行であるならば、「不惜身命」であるとは教わりましたけども、犠牲が出てもしょうがないのかなと思う一方で、やはり一般人の感覚としては、ここまで現代の近代化した社会において、死者が出るという事態についてはどうなのかなと思います。取材を始めるに当たって、そういう両方の思いがあり、なるべくどちらにも偏らないような形で問題提起できればと思って、取材を始めました。

 ここでも何人かの、日蓮宗の方にお話を聞いたのですが、やはり、大部分の方は、もちろんこの荒行という修行は、伝続があって大切なものではありますけども、やはり現代において亡くなる方が出るということは、世間にどう見られているかということについて、当然意識するべきだと考える人は、私の聞いた範囲では多かったので、やはり皆さんも、そうお感じになっているのかなという気がしました。

 ただ、その一方で、内部の細かいことまでは私もよく分かりませんけども、2月に荒行が終かって、3月に宗会というものがあったそうですが、そこでこの事故を受けて、次回の開催を見送ることも視野に入れて対策を話し合うという意見があったけれども、法華経寺さんや、いろいろ内部で検討する委員会も調整があって、宗会だけの意見ではすぐやめることはできないという意見もあったそうです。その後、ちょっと分かりませんけども、今年度も行うことを前提に対策を立てるというようなお話を聞いて。それはもちろん日蓮宗の皆さんが決めることではありますけども、一般の企業とか団体とかで、こういう内部の公式な、ある種の教育機関乃至研修機関で死者がもし出たとするならば、その開催ありきの対策を考えるというのは、先程から「一般」と言っていますけども、一般だと、ちょっと考えられないなという違和感は残りました。というのが、この取材に関して言うと正直なところです。この件については、記事の感想も含めて、皆さんのご意見を後程うかがえればと思います。

 そういった世間の常識とのずれは、最初に挙げた「葬儀」という、お寺さんにおいて、非常に重要な核心となる儀式においては、最初に言ったお布施という金銭的な問題以上に世間とずれ始めているのかなと考えたのが、Bのところですけども。内面の問題、遺族とか亡くなった方とかも含めて、仏教的な弔いそのものが世間とずれてきているとすれば、それはもっと致命的なことになりかねないのかないうことを考えたのが、この資料Bです。

 この「千の風になって」という、2007年の記事です。実はたまたまこの頃、私は文化部にいまして、ポピュラー音楽の担当をしていまして、そのときに書いた記事です。実はこのときも日蓮宗さんの現代宗教研究所に取材をしておりまして、それを思い出して、ちょっと載せてみました。

 ここで当時の主任の方が、この「死者との交わり、個人的に?」という方のパーツの中で、つまり、「『千の風になって』というものが注目されているのは、仏教の教えが理解されてない、支持されていない」のかなということをどこかで書かれていたのを読んで、お話を伺った記憶があります。ここでこの方が仰っているように、仏教の教えや葬儀が効力を失っているのではないかという問いは、残念なことに、地域に根差した檀家制度と関係ない、私のような都市型住民にとっては、仏教的な儀礼というのは効力を失っているのが、率直な感想でした。当時、まだ独身だったこともあったのですが、自分が亡くなったときに、お葬式でお坊さんにお経をあげてもらうとか、何回忌だから供養してもらうとか、自分一人のためなら全くそんな必要ないなと、その時は思っていた記憶があります。

 だから、当時束京大学にいらっしゃった島薗先生が仰っていましたけども、家制度というものの中で、仏教の教えや葬儀が悲しみを癒してきたとか喪失感を癒してきたというのは、やはり私みたいな、都市型住民にとっては、全くピンと来ない。こういう流れで千の風が受けるのは、当たり前というか、時代の趨勢なのかなと感じたことを、今思い出しています。

 こうした傾向が念頭にあって、次の下の記事(「存在感の薄さに危機感」は、平成25年の2月に書いた記事です。エンディングノートと仏教界との関わりの記事ですけども。エンディングノートをご存じの方ももちろん多いと思うんですけども、生前に、亡くなってからのこと、例えば葬儀をどうするか、とか。例えば葬儀に誰を呼ぶかとかですね、そういう情報を書いておくものです。文房具メーカーのコクヨが出して、すごくヒットしているので、皆さんご存じだと思います。

 ここでも二つのお寺に取材しました。2番目に出てくる、この京都の大立寺さんというのは日蓮宗のお寺さんです。長野県のお寺は、これは確か臨済宗のお寺さんだったと思うのですが、この方に聞いたときに印象的だったのは、こういうエンディングノートブームみたいなものがあると。こういうのは葬儀屋さんがすごく積極的にされているのだけども、お寺が全く乗り遅れているということを仰っていて、そこはすごく面白く感じました。

 この記事は、ぱっと見、お寺さんがエンディングノート的なものに乗り出したという記事ですけれど、まあ、むしろこの小さい見出しに「存在感の薄さに危機感」とあります。裏のテーマはそういう、本来は最も死に関わってるはずのお寺さんが、こういうエンディングノートプームに取り残されてるということが、面白いと言うとちょっと失礼ですが、この記事書くときに思ったことです。

 エンディングノートを書くというのは、死と向き合うということだと思うんですけれども。元々宗教色の薄い人がやっているのか、あるいは少なくとも日本においては、葬送儀礼の中心にいた仏教の存在感がなくなっているから、こういうエンディングノート的なものが生まれてきたのかというような、鶏が先か卵が先かみたいな話にはなってしまうとは思うんですけども、仏教の存在感がなくなってきた一面というか、だらしないとはいえませんけども、仏教的なものの存在感の希薄さだと思います。

 取材時にそのご住職も言っていましたけれども、終活がプームなのですが、エンディングノートなんかを見ていると、もう宗教色がほとんど薄められていると。それは多分、万人、みんなに買ってもらうために宗教色を薄めている側面はあるんでしょうけども、やはり、むしろ真剣に自分の死に向き合おうとする人にとって、そういう宗教的なもの、少なくとも仏教的なものというのは、もう必要とされていないのじゃないのかというような危機感が、ここで取材したお坊さんにはあって、それは興味深く感じましたし、今の時代の流れを、時代の空気を、象徴していることなのかなと思いました。

 次の4枚目です。何かネガティブなことばかり言っていましたけども、「じゃあ、宗教者は要らないの?」つて、やはり、そういうふうに思われているかしれません。でも、短い期間ですけれども、宗教者としてのお坊さんの存在感を感じるということはもちろんあって。ある種、月並みではあるのですが、東日本大震災のときに、お寺に限らず、被災地に取材に行くと、やはりそこでのお坊さんの徳の高さ、宗教者たちの存在感、何よりも地域の人々に求められている姿を目にしたところです。

 この資料Cですけども、「お寺を避難所に活用」というものですけども。どちらかというと、これは、震災を教訓にお寺を避難所に活用する動きですが、こうした動きのきっかけになったのは、やはり、震災があったときに、避難所になったお寺さんだと思います。

 この記事の後半に出てくる、気仙沼の浄念寺さん、浄土宗のお寺です。ここは3ヵ月ぐらいにわたって本堂を開放して、檀家さんだけではなくて、地域住民にずっと開放して避難所として機能した所です。気仙沼は、海沿いの地域は壊滅的というか、津波にさらわれていました。このお寺、確か海から1キロぐらいはあって、少し高台にありますが、それでも津波は川をさかのぼって、かなり近くまで来たようです。隣に保育園があって、そこが公の指定避難所だったことや、お寺なので畳もあって、お寺の本堂も新築したばかりで、皆さんを収容したそうです。

 ここのご住職は、3月11日のときは、浄土宗の会議でいらっしゃらなくて。ここでも答えていただいている女性の副住職さんが、地震発生のときにお寺にいたそうです。「こんなに多くの人を受け入れることに、躊躇とかはなかったのですか」と聞くと、やはり、「当然の成り行きだ」と「成り行きでしたよ」と、さらっとお答えになっていて。聞くと、夏休みなんかに子どもの宿泊行事等もやっていたので、いろいろとそういう座布団なんかもいっぱいあったそうで、特に気負った感じがありませんでした。

 このもう一つの下の記事ですけども。これはまさに、今年の3月の、震災から2年たったところで書いた記事です。

 上の方は岩手県の大槌町という、もう町の中心部が壊滅的な被害を受けた所で、本当、このお寺と他何軒かぐらいしか被害を免れなかったようなところです。お寺におじゃましたら、本堂のそばに、これも書いてますけども、番号が振られたお骨の箱が置いてあって、それをずっと預かっていると。確か40ぐらいがまだ残っていました。被災地によっては、そういう行方不明者のお骨は自治体が保管しているところが多いのですが、この大槌町や隣の釜石市なんかは、もう早い段階からお寺にお願いしていたそうです。お寺さんも、じゃあ足並みをそろえて、みんなで預かろうと。話を聞くと、行方不明者がいる住民たちがそこに来て手を合わせていったと。やはり、体育館等に預かってもらうよりも、住民もお寺にあると安心なのかなということもあります。

 このご住職に2011年のときの手帳、スケジュール帳なんかも見せてもらいましたけども、4月ぐらいからお盆のあたりまでずっと、1日何件も葬儀をされている予定がびっしりと書いてありました。行方不明でもお盆までに葬儀をあげたい人や、反対に、ご葬儀をあげたいけども、何か肉親の死を認めることに気持ちの整理がつかない人もいて、そういう人たちには、まあ焦らないでいいんだよと、そういう個人個人の感情に合かせて向き合っておられて、やはりに地元に密着している人だから、できるんだろうなと感じました。

 この方に、遺骨をお守りしてることについて、「どういう思いですか」と聞いたのですが、こういうとき、記者というのは下心があって、新聞記事になるような、かっこいい大げさなコメントを期待して、そういう質問を投げかけたんですけども、「まあ、特別なことをしてるわけじゃない」と、「いつも町で会ってたかもしれない人だから、何も特別なことをしているわけじゃないんだよ」というような、淡々としたお答えが返ってきて、すごくはっとさせられました。本当に日常の中での勤めを果たして、そうした積み重ねの中で、震災のような非常事態が起きたときに、もちろん大変なこともたくさんあるでしょうけども、心を落ち着かせてやるべきことをやっていく、その姿は、我々一般人にはなかなか難しいことで、それは、宗教者だからできることなのかなと思います。

 もう一人の方は、原発から3、4キロぐらいの所の、大熊町のご住職です。大熊町が役所機能を、福島のもっと西の会津若松に移したので、この方も移ってきたそうです。普段、無人の兼務寺の方に間借りして、そういうお墓に納められないお骨と一緒に供養をしている方だったのですが、この方がおっしゃっていたのは、「当然檀家さんも避難、会津若松の方に避難して来ていて、仮の役場なんかで会うと、『和尚さんがいてくれてよかったね。』つて言われて、自分の役割を改めてかみしめた」とおっしゃっていたので、それはすごく印象的でした。

 それで、こうした方々に取材を通して接してみると、最初にも書きましたけども、やはり宗教者の方が、一般の人とは違った特別な存在なんだなと納得できました。特に私は全然分かりませんけど、やはりお寺さんは、地方のコミュニティーにおいては、すごく不可欠な存在なんだなと、なくてはならない存在なんだと、実感させられました。

 では、最初の問題に戻りますが、こういう取材をしてきて、いわゆる都市住民のような私にとって、じゃあお寺やお坊さんが、あるいは宗教が必要なのかなと自分に問いかけたら、正直に言って、半年以上経ちますが、「うーん」、「ちょっと答えは出せない」つて、答えは留保するというか、「必要なの?」と言われると、「必要なのかな、どうかな」というのが、正直なところではあります。

 私、宗教担当なので、仏教だけではなく、神社関係等も取材してるんですけども。ある宗教学者さんと話していたら、神社界の話の文脈で、氏子さんに支えられている地域密着型、地域に根差した神社と、観光客が集まるような有名な神社とでは、その格差は、やはり前者の、その地域の氏子に支えられた神社が過疎化しているようなこともあって、どんどん開いていると。今、もちろん同じことがお寺にもいえて、それは皆さんが日々実感されていると思います。とはいえ、一方で、先程の二極化でいう、観光客が集まるような有名な神社、こういうものは、今やはり大変観光客や参拝者が多いようです。

 しかも、私、今37歳なのですが、私が10代の頃とか学生時代というのは、そんなお寺とか神社に行くなんて、何か、「じじくさい」と言うと失礼ですけども、まあそんな興味も別になく、みんなそうだと思っていると思うんですけれども。ところが今、私の周りの30代、40代ぐらいだと、寺社仏閣巡りが好きな人がすごく多いんですよね。何か、そういう人が増えているなと思っていて。

 ただ、こういう人たちが宗教的な関心が高いのかというと、多分そうではなくて、どちらかというと、歴史が好きだったり、あるいは今多いのですが、歌舞伎みたいな古典的なものが好きだったりとか、そういう関心なのかなと思う一方で、ただしある種のパワー、パワースポットとかいいますが、パワーとかスピリチュアリティーみたいなもののありがたみを感じたり、そういうものに価値を見出すというような人たちは、例えば我々より上の、戦後のある種の合理主義というか、そういう団塊の世代よりも、我々とか我々以下の30代以下の世代の方が、宗教的あるいは霊的なものについての関心というのは非常に、ある人はすごくあるのかなというのが、取材を通しての実感です。

 今までのお寺さんは、やはり檀家制度に支えられてきたと思うのですが、それが今後どうなるかは、私分かりませんが、私のように、そういう檀家制度とかそういうのに無縁な人たちで、先程言ったような、霊的なものに関心がある人たちというものに、皆さんがどうアピールしていくのか。あるいは取り込んでいこうとするのか。それを取り込んでいくのが可能なのか。

 今日の会議は、皆さん、教化活動の前線に身を置いておられる方ということなので、そういう層に今後どういうアプローチをしていくのかというのは、宗教担当をやっている新聞記者としては、すごく目を凝らしていきたいです。すごく興味がありますし、実際、そういうことをやっている宗派も多分あって、さっき出てきた座禅の話でも、都内で出勤前のサラリーーマンとかOLに座禅体験みたいなこともやっているみたいです。そういうものも含めて、皆さんが今後、今までの旧来の制度と違った形で、どういうふうに仏教的なものの存在感を示していく、働きかけていくかというのは、興味があるので、ここでお話をしたのも縁ですので、何か面白い取り組みがありましたら、ぜひ教えていただければありがたいです。

 とりとめのない話を50分もしてしまいましたけども、私の話は以上です。拙い話を聞いていただいて、どうもありがとうございました。



司会 宮本さん、ありがとうございました。

 どなたでも何でも結構でございます。ことに荒行の記事についての感想等でも、よろしゅうございます。


質問1 失礼いたします。鳥取教化センターの都と申します。先生の多分思っていらっしゃることの、遠慮もされて半分もお話しになっていないのではと拝察するわけですけれども、非常にいいお話を聞かせていただきました。

 我々お寺のあり方が問われておりまして、お寺というのは、本来情報の発信地であり情報の集まる場所であったはずなんですね。ですからお寺こそ今、IT、インフォメーションーテクノロジーの中心でなければいけなかった。そういう役割を担っていたはずのお寺が、我々がそういったことを果たさなくなって、葬式仏教に甘んじて、今や葬式仏教と揶揄されてきた中ですね、葬式すらお坊さんがいない、直葬とかいわれているみたいですけれども、そういう状況が出てきていると。葬式仏教といわれていて、お葬式にすら出番がなくなってしまったら、我々の出番がなくなっちゃうわけですね。

 そういった、結局我々、こういった現状に気づいてないんですね。おっしゃったとおり、本当にお坊さんは金に汚いんです。宗教だから許されると思っているんです。本当に時代感覚でずれているんです。宗教者って特別な存在だと思っているんですね。本当に大きな考え違いなんです。これを、私もそうですけども、「僕は違うよ」「私は違うよ」と思っているんですね。それで、本当に篤信なおじいちゃん、おばあちゃんの信者さんばかり見てますから、「うちは大丈夫ですよ」と言ってしまうんですけども。じゃあその篤信のおじいちゃん、おばあちゃんの息子さん、娘さん、お孫さんがお寺に来ますかと。来ないですよ。そんな現実がある中ですね、平然として、なまじっか食べられるからよくないんですね。

 本当に、お葬儀にしましても、お坊さんつて、ほとんどそこに関わってないんですね。亡くなられて、遺族の方が大変な思いをされて、葬式業者の方と段取りされて、すべて整った状況で、やっとお坊さんが登場しまして。何を言ってるのか訳の分からんお経を読んで、高額のお布施を請求して去っていくという。ですから、お葬式に、「僕たちが引導を渡しているんだ」と言いますけども、一般の方はそう見ていないと思うんですよ、全く。それで自覚症状がない。ですから、今、「説明責任」という言葉がいわれているんですけども、一番説明責任を果たしてこなかったのは、我々お坊さんではないかと反省をしております。

 先般、法事の後席で、京都の嵐山に住んでいらっしゃる方が来ておられまして。嵐山には禅宗さんの大本山があるんですけども。そこに私も去年の秋、行ったんです。そしたら、素晴らしい庭園があって、本当に心が癒やされて落ち着いたんです。「いいお寺ですね」つていうお話になりまして。

 そしたら、ところがそのあと、「お坊さんの姿が見えないんですね」という話になりました。考えてみたら、京都や奈良とかいろんなお寺があるんですけども、お寺がすごくブームで若い方がいっぱい行っておられるんですが、お坊さんの姿がない。お寺に行かれて、庭やお堂を見られて素晴らしいなと思われるんですが。お坊さんの姿を見ないで、お寺が素晴らしいと思われている。これはちょっと我々にとって非常に残念なことだと感じました。お坊さんの姿があって、お坊さんが何がしかの情報を提供した上で、「やはりお寺って素晴らしいな」と思っていただけたらいいなというようなことを、すごく感じました。お寺の観光地にお坊さんが姿がむしろない方がいいと、多分思われているんですよね。そういったことをどう思っていらっしゃるかなと思いまして、ちょっとお聞きいたします。


宮本 いや、やっぱり、お寺はお坊さんがいた方がいいんじゃないですか。

 直接のお答えになってないかもしれませんが、先程お葬式の話があって、Bの記事にあるエンディングノートの話で、日蓮宗の大立寺の今井さんという、30歳の若いご住職とお話をしたときに、先程の、ご葬儀でお坊さんは何でもお膳立てしてっていうようなお話でしたけども、今回はこのエンディングノートのお話でしたけども、やはりそのエンディングノートを書くに当たって、檀家さんと、書くことについてマンツーマンで、一対一で話し合いながら書くということもされ始めてて、そういうのもしたいとおっしゃっていました。

 そのときに言っていたのは、そういうエンディングノートつて、自分の歴史みたいなものを書くみたいなんですけれども、そういうのを一緒にやることによって、例えばもしその方が亡くなったときのご葬儀でのお坊さんのお話というものが、全然違ってくると。その人を知っていて、その人の歴史、その人がどういう人だったかってことを知っていて話すのとでは全然違うと。

 先程おっしゃったように、今、特に都会の葬送会館とかでやるようなお葬式というのは、はっきりいってお坊さんつて、お経を読んでいるだけで、まあテープでもいいんじゃないって思いますけれども、そうじゃないやり方っていうのが、多分あるはずだし、そういうのを模索し始めている人もいることは、すごく心強いというか。さっきおっしゃってたように、やはりそこで、単にお寺がきれいだとか文化的にどうかという、もっと内面のとこにお坊さんがきちんと関わるようになっていただかないと困るし、なれないんだったら、やはり要らなくなるということではないかなと思います。

 すいません。あまりお答えになっておりませんけれども、そんな感じです。



司会 はい。他にいかがでございましょうか。


質問2 富山の教化センターの間宮と申します。

 先ほど、宮本さんがおっしゃられた、「私自身は、お寺は必要と、とりあえずしていない」と。都会の住民であるということであるならば、私はそれはそれでかまわないと思います。無理してお寺に関わる必要は全くなかろうと思います。それに後ろめたさを感じる必要もないし、そのことに特権意識を持つ必要もなかろうと思います。

 それから、お布施の相場ということについてですが、私、細かい金額は忘れましたが、イオンのものを見たときに、私自身はすごく高いと思ったんです。私の地元、もっと安いもので。相場は提示しております。ただ、お葬式というのは、これは宮本さんには釈迦に説法かもしれませんが、100万出す人もいるんです。逆に言うと、知らんお坊さんがやってきて、一時間お経読んだって、5000円だって払いたくない人だっているでしょう。そういった意味で相場がないということだと思っているんですね。

 ただ、檀家さんとお寺の関係ということで言いますと、今それこそ信仰を媒介としない、ほとんど媒介としない関係になってますよね。すごい熱心な方もいるし、亡くなったときに初めて顔を合わせましたという方もいる。だから、逆に私は相場の提示が必要だと思っています。お葬式は、確かにお寺、実際的に言いますと、これはやはりそれを機会に比較的に大きな金額を頂いてお寺の維持に役立てているという側面がございます。でも、もしそれが払えないんだったら、払えないでいいんですよ。払わない方、いらっしゃいますよ。もっと払う方もいらっしゃいます。だから、私は全国一律の相場提示なんていうのはおかしいと思います。ただ、お坊さんは基本、その喪主さんに対しては、これぐらいをお願いしますというものは、提示した方が親切じゃないかなと思っております。

 それから、特に日蓮宗の場合ですと、これは日蓮宗だけじゃないと思いますけれども、さまざまな、生きていくうえでの相談にあずかってるお坊さんというのは、実はいっぱいいるんですね。これは、あまり表に出てきません。というのは、生きていくうえでの相当個人的でどろどろした悩み事も引き受けるからなんです。われわれ宗教者だって、守秘義務がありますので。

 それに対して、実は先祖の因縁とか障りを持ち出す場合だってあるんですよ。それを外から見て、おかしなことをやっているとは、一概に言えないと思うんです。例えば、子どもさんがなかなかちゃんとしない。それを、私一方でも教員もやってますんで、「教員の目から見てこうだ」と言っても、親御さんは納得しない。「先祖の誰々の供養をしたい」という回答なんです。もう実は最初から回答があったんです。そういったところで相談活動をやっているお坊さんは、いっぱいいるんです。

 やはり、どうしても新聞社ですと、目立った、組織立った活動を、まず取り上げますよね。それはもちろんおおいに結構なのですけれども。もし、宗教界の実態を本当に知りたいと思ったら、個々のお坊さんがやっている、特に信者さんを相手にしているお坊さんというものを、徹底的に密着して取材してみられたらいかがかと思うんですね。理不尽なこともいっぱい出てくると思いますけれども、真実の姿というのが見えてくると思います。

 これ、私の意見でございます。すいません、生意気申しました。


宮本 はい。ぜひ密着させてください。おっしゃるように、多分そういう側面があるからこそ、厳しいこと、ネガティブなことばかり言いましたけども。だからこそ、ずっと続いているというか、やはりお寺さんがこれだけあって支持されているっていうような、そういう側面がすごくあると思います。ぜひ、いろいろしゃべれない、プライベートなことも多いと思うんですけども、機会があれば、ぜひおじゃまさせていただいて取材させてください。どうもありがとうございます。


司会 はい。まだおありになるかと思いますが、予定されている時間になりました。宮本先生、どうも大変ありがとうございました。どうぞ、拍手をお送りいただければと思います。どうもありがとうございました。

 

 

 

 

 


以下講演資料

 

 

 


 

 

 


 

 

 


 

 

 

 


 

 

 

 


 

 

 

 

 


 

 

 

 

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