大石寺漫荼羅本尊の真偽について


    ――所謂「本門戒壇の大御本尊」の図形から見た鑑別――



                      (宗教研究家)犀 角 独 歩



 本稿は、平成16年10月25日の、日蓮宗現代宗教研究所「現代社会プロジェクト会議」でのミニ講演を元に、講師自身が構文したものです。

■自己紹介

 皆さん、初めまして。犀角独歩でございます。

 わたしは昭和30年の生まれでございまして、生まれながらの創価学会、35歳の時に日蓮正宗と創価学会の、所謂、第2次紛争の段階で創価学会を脱会いたしました。その後、大石寺の末寺である大田区宝浄寺に所属しておりました。その間、大石寺宗務院内事部『大日蓮』編集室、ならびに教学部の仕事をしておりました。

 40歳の時に、阪神淡路大震災、オウム真理教地下鉄サリン事件を見、日蓮正宗からも、自主的に役を降りました。

 その後、日本脱カルト研究会(JDCC)に入りました。ここで『日本脱カルト研究会報』の編集に従事しておりました。同団体は平成16年四月に名称を変更し、現在は日本脱カルト協会(JSCPR)といいます。

 また、ここ5年間ぐらいは日蓮宗社会福祉法人・立正福祉会青少年こころの相談室本部相談員を務めてまいりました。ここで日蓮本仏論、もしくは彫刻本尊信仰圈の、主に家族問題を扱ってまいりました。

 本日は、過去数年、インターネットの『富士門流信徒の掲示板』での活発な議論で辿り着いた自分なりの結論を申し上げるものです。

 

 

■言葉の定義 

                                              
 はじめに、言葉の用法について申し上げます。

 「大石寺漫荼羅の真偽について――所謂『本門戒壇の大御本尊』の図形から見た鑑別」という表題のそれぞれの語彙について、定義といえば大袈裟ですが、当発表における言葉の使い方の決まりです。

 

 [大石寺漫荼羅] 写真(図001)は熊田葦城著『日蓮上人』(報知社)に載ったものです。

 中央題目・日蓮花押・不動愛染・四大天玉〈てんのう〉のおよそ相貌〈そうみょう〉は確認することができます。

 該当の彫刻を、一般には「板マンダラ」、あるいは「板本尊」などと呼称しますが、大石寺66代細井日達〈にったつ氏は

「戒壇の御本尊様は楠の厚木です。表から見ると・・・板です。ところが此れは大変な板です。ただの板ではないのです。・・・後ろから見ると丸木です。丸木を表だけ削てあるわけです。・・・上はただ三寸そこそこの板ですけれども、まわりは丸木です。真ん丸い木です。その丸い木を前を削って板にしたにすぎません」(『日達上人全集二輯五巻』(446頁)

と言い、その形状を丸木の表面を削り、板面に彫刻を施したものと明言しました。となれば、これを単に「板」と言えば、その形状を正確に表したことになりません。

 「大石寺漫荼羅」とは、より正確を期せば、「大石寺所蔵の丸木板彫刻漫荼羅本尊」とでもすべきかも知れませんが、冗長になります。大石寺彫刻本尊と、仮に呼称することにいたします。

 

 [大漫荼羅] 「マンダラ」は通常、「曼陀羅」等の漢字を用いることが一般的ですが、該当のマンダラの『讃文〈さんもん〉』は「大漫荼羅」となっていますので、それに準じました。なお、日蓮聖人の御筆大漫荼羅のみを「大漫荼羅」と呼称し、真偽未決分は、単に「漫荼羅」、それを基にした書写、もしくは彫刻その他は「本尊」と呼び、これを区別しました。

 

 [本門戒壇の大御本尊] この呼称は大石寺26代日寛〈にちかん〉が、その著『六巻抄』のなかで用いたものです。ここでは、そのような特定信念体系のみの用語を使わずに、大石寺彫刻本尊といたしました。

 

 [鑑別] 鑑定ではなく、あえて鑑別の言葉を用いました。

 鑑別とは、辞書によれば「物事を鑑定して判別すること」となっています。たとえば宝石を鑑みる場合、その品質からランクを見極めることを鑑定といい、その真贋を見極めることを鑑別と言います。

 

 当発表は大石寺彫刻本尊の価値を評価することを目的とするのではなく、真贋を問うことを意図しますので、鑑定ではなく「鑑別」の語を用いました。

 

 

■発表の目的

 彫刻本尊の真偽については、わたしがここに繰り返すまでもなく、『久遠述記』『大石寺誑惑顕本〈おうわくけんぽん〉書』、また、『興尊雪冤〈こうそんせつえん』録』をはじめとして、多くの書籍で、種々語られてきました。その詳細については、個人的には考証を存する箇所も少なからずあります。しかし、本日は、これら文献証拠に基づく真偽論は、さておきます。大石寺彫刻本尊の文字、すなわち、その相貌から、この彫刻が如何なるものであるのか考えることを目的にするからです。

 「大石寺漫荼羅の真偽」、つまり大石寺が所蔵する彫刻本尊の真偽ということですが、誤解を避けるために、もう少し正確に定義します。そもそも、日蓮聖人の御筆大漫荼羅、これはもちろん、紙幅です。けれども、その御筆を原本にして、彫刻すれば、それは文字通り彫刻です。彫刻である以上、真筆かどうかを問うことは意味がありません。

 わたしが、ここで「真偽」というのは、この彫刻本尊が大石寺が主張する如くのものであるか、否かです。言うとおりであれば「真」、違っていれば「偽」であるという意味です。

 

 

■鑑別(比較・検討)の方法

 大石寺彫刻本尊は未公開ですので、実地見聞し、また、一々の文字サイズの実寸を計測することはできません。その他の大漫荼羅・本尊についてもその上うな調査をすることはできませんでした。また、入手した図は、サイズがまちまちでした。このために、中央題目の「南」から「経」の字までの長さを基準として、縮尺を調整し、同一サイズとして、比較・検討に供しました。これによって、相似形比較の条件は満たされます。

 各漫荼羅・本尊の文字の輪郭を取り、大石寺彫刻本尊に重ねて比較検討する方法を採りました。

 

 

■板に直接図示という主張

 さて、大石寺では、この彫刻本尊につき、どのような主張してきたのでしょうか。

 大石寺第59代堀日亨〈にちこう〉氏は『富士日興上人詳伝』で

「未来勅建国立戒壇建立のために、とくに硬質の楠樹をえらんで、大きく四尺七寸に大聖が書き残されたのがいまの本門戒壇大御本尊」(277頁)

であると言います。また、『創価学会の偽造本尊義を破す』という反論書で、

「大石寺の御宝蔵はもちろんのこと、この世のいずこを探しても彼等(創価学会)が言う『紙幅の戒壇の大御本尊』なるものは存在しません」(89頁)

と明言しております。

 要するに、彫刻本尊には紙幅の原本となった御筆大漫荼羅は存在しないと言うのが大石寺の主張です。つまり、このとおりであれば、原本に当たる漫荼羅がなければ「真」、あれば「偽」ということになります。

 

 

■第93妙海寺大漫荼羅との比較

 彫刻本尊は板面に直接図示したという大石寺の主張に対して、模刻であるという反駁がなされてきました。

 この点について、まず筆頭に挙げられるのは安永弁哲著『板本尊偽作論』でありましょう。このなかで安永氏は、特に「板本尊は妙海寺のマゾダラの模作か偽造?」という一項を設けて、

「御本尊集に収録された122幅のうち、板本尊によく似ているものは、弘安3年太戈(たいさい)庚辰5月8日(93号)の天下泰平国家長久八日堂祈願之大曼荼羅(沼津市妙海寺奉蔵)である」(鹿砦社147頁)

と、模写・彫刻説を主張しています。

 これに対して細井精道〈せいどう〉(のもの大石寺第66代日達)氏は反駁書『悪書板本尊偽作論を粉砕す』(日蓮正宗布教会)のなかで「妙海寺本尊の模作という僻見を破し妙海寺本尊こそ富士所伝本尊の臨写なるを教ゆ」と言って、妙海寺大漫荼羅(図002)を富士所伝本尊の模写であると断言しました。

 

 

 

 

 

 

 

 これは本題と関係ありませんが、先頃、妙海寺大漫荼羅から、日蓮聖人の指紋・手跡が発見されたことはまだ、記憶に新しいところです。その御筆大曼荼羅を、かつて模写であると断言した大石寺は、いまのところ、前言を翻しておりません。
 余談はともかく、安永氏は、妙海寺大曼荼羅による模作を主張したわけであります。

 ここで、安永氏の主張の実否を検討するために、実際に第93妙海寺大曼荼羅と、大石寺彫刻本尊を比較してみます。

 上図のグレーの線は彫刻本尊の輪郭です。重ねてみればわかるとおり、第93妙海寺大漫荼羅と大石寺彫刻本尊は、よく似てはいるものの、同一の相貌ではないと考えられます。(図003

 

 


■第82大漫荼羅との比較

 木下日順氏は『板本尊偽作の研究』(本門社)のなかで

「板本尊の十界座配と、弘安2年11月の、俗日増授与の曼荼羅と、サイズがぴたりと合ったら拍手喝采・・・紫宸殿本尊の日蓮花押を何故、模写したのか、何故、2つの御真筆を模写して、板本尊にはり合はせて、製作したのか、編者が製作したのではないがら勿論わかりません」(41頁)

と、大石寺に所蔵される二幅の曼荼羅をパッチワークし、彫刻本尊の原本としたと類推しました。

 

 この2幅の曼荼羅のうち、「伝・俗日増授与の漫荼羅」は大石寺の所蔵で、写真その他は公間されておりません。そのために残念ながら、比較することはできません。

 もう一幅の紫宸殿本尊でありますが、この名称はもちろん、大石寺の伝承であり、「讃文」その他とは一切関係ないことはことわるまでもないことです。ただ、「紫宸殿本尊」と呼称し、大石寺門では重要視されてきたことは事実です。この曼荼羅もまた、表向きは公開されておりません。

 しかし、大石寺教師・山口範道著『日蓮正宗史の基礎的研究』(山熹房仏書林)に、

「大聖人御本尊現存宝量(大石寺 宝量八 要八・安八二)」(151頁)という記述があります。

 また、大石寺59代堀日亨編『富士宗学要集』(創価学会版)に

 「(柴宸殿御本尊と伝称す)弘安三年太才庚辰三月日」

との記載が見られます。

 これら記述に基づき『御本尊集』で追うと、まさに第82漫荼羅と一致します。

 

 この漫荼羅を模刻したと見られる板本尊が大石寺末信行寺に所蔵されています。(図004右)

 それに対して、(図004左)が第82漫荼羅です。

 第82漫荼羅は、立正安国会『御本尊集目録』の備考によると「現在宝蔵 不明」となっておりました。

 一見してわかる通り、第82漫荼羅こそ、大石寺が言うところの「紫宸殿本尊」であることが知られます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この花押部分が、大石寺彫刻本尊の花押の原本であるというのが、木下氏の類推です。上が第82漫荼羅の花押、下が彫刻本尊の花押です。並べてみますと、一致しません。(図005)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■『河邊メモ』

 さて、近年、大石寺教師であった河邊慈篤氏が、昭和53年に記した1枚のメモがスクープされました。このメモのなかで、大石寺彫刻本尊は日禅授与漫荼羅の模写であると書かれていました。これも1つの大石寺彫刻本尊模刻説に数えることにします。

 (図006)がそのがそのメモです。

 

 「昭和3・2・7・A 面談 帝国H〈ホテル〉

一、戒旦〈かいだん〉の御本尊の件

戒旦のは偽物である。

種々の方法の筆跡鑑定の結果解った(字画判定)多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊のお題目と花押を模写し、その他は時師か有師の頃の筆だ日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている・・・」

「日禅授与の本尊は、初めは北山にあったが北山の誰かが賣〈うり〉に出し、それを応師が何処かで発見して購入したもの(弘安3年の御本尊)」

 

 

 

 

 やや、補足します。

 [日禅授与曼荼羅]は、『富士宗学要集』には以下のように載ります。

 「弘安三年太歳庚辰五月九日、比丘日禅に之を授与す、(日興上人御加筆右の下部に)少輔公日禅は日興第一の弟子なり仍て与へ申す所件の如し、(又同御加筆御華押と蓮字と交叉する所に殊更に文字を抹消したる所を判読すれば)本門寺に懸け奉り万年の重宝たるべきものなり。東京 法道院」(9-178)

 これは弘安3年5月9日、すなわち、先の第93妙海寺大漫荼羅図示翌日の日付が書された漫荼羅であることが知られます。

 [日禅]については、北山本門寺に真筆を遺すという日興上人『白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事〈びやくれんでしぶんにあたへもうすおふでごほんぞんもくろくのこと〉』の「駿河国富士方ノ河合少輔公日禅者〈ハ〉、日興第一ノ弟子也。仍所申与如件」という記述と、同大漫荼羅の日興上人の加筆は一致します。

 [法道院]とは大石寺末東京池袋にある寺院。

 [応師]は大石寺第56代で、明治22年(1889)から大正11年(1922)まで、その任にありました。

関係あるかどうか別として、大石寺彫刻本尊を初めて写真で掲載した熊田葦城著『日蓮上人』の発刊もこの在任期間中のことでした。

 [時師]とは日蓮聖人滅88年後に当たる正平24年(1369)から聖滅214年後の応永十四年(1407)まで任にあった大石寺第6代日時のこと。

[有〈う〉師]とは聖滅138年後の応永26年(1419)から聖滅201年後の文明14年(1482)まで任にあった同9代日有のことです。

 この『河邊メモ』は、当時教学部長職にあった阿部信雄〈しんおう〉(現大石寺67代日顕〈にっけん〉)氏が語ったところを、河邊氏がメモしたものであるということで、創価学会は大キャンペーンを張り、それにまた大石寺側も応戦し、広く知れ亘るところとなりました。

 メモに記されるところに拠れば、大石寺彫刻本尊は日禅授与漫荼羅の中央題目と花押を模写、その他の部分は、第6代日時、もしくは第9代日有の頃のものを部分模写し、原本として彫刻されたものと言います。

 しかし、阿部氏は、現在は、

「本門戒壇の大御本尊様と日禅授与の御本尊とは全く相違しているという事である。よく拝すれば中尊の七字の寸法と全体からの御位置においても、明らかに異なりが存し、また御署名御花押の御文字及びその大きさや御位置、各十界尊形の位置等にも歴然たる相異が存する。そして勿論模写の形跡などは存在しない」(『大白法』99・10・1)と、『河邊メモ』の内容を一蹴しております。

 しかし、実際はどうでしょうか。比較を試みたいと思います。

 このメモに関連する大石寺と創価学会の争いは、ここでは問題にしません。問題にするのは、大石寺彫刻本尊の原本が日禅授与漫荼羅であるかどうか、この一点です。

 また、このことを考えるのに、文献に基づく考証は必要ありません。相貌・文字を比較してみれば事足りるからです。

 

■日禅授与漫荼羅で特筆すべきこと

 さらに、ここから話を進めるに当たり、この日禅授与漫荼羅につき、極めて重要な問題点を申し上げなければなりません。

 日禅授与漫荼羅は、『河邊メモ』にあった「初めは北山にあったが北山の誰かが賣に出し、それを応師が何処かで発見して購入」という点は、間違いないようで、いま大石寺に現存していることが『富士宗学要集』その他書籍の記述から知られます。

 ところが、富士門流寺院の大漫荼羅を調査し、その結果を残した第59代堀日亨氏は、先の日禅授与漫荼羅の記述とは別に『北山本門寺本末の分』として、

「弘安三年太歳庚辰五月九日、比丘日禅に之を授与す、(御判の内に他筆にて)本門寺に懸け万年の重宝たるべし、(伯者〈ほうき〉漫荼羅と称す)」(富要8ー215頁)

と書き残しております。現に、北山本門寺は、この大漫荼羅を「万年救護〈くご〉本尊」と呼称し、寺宝として所蔵しています。

 つまり、弘安3年5月9日図示の、それも同じ授与者宛の漫荼羅が二幅存在しているということです。しかし、日蓮聖人が、同一日・同一授与者に、二幅の大漫荼羅を図示授与されたとは、まことに考えづらいと言うほかありません。

 そこで、可能性として考えられるのは、表層を剥離して御筆を二枚に分けたか、いまひとつは片方が模写であるかです。実否は、その両幅を並べ調査しない限り解明はできません。のちの研究を期待するところです。



■日禅授与漫荼羅との比較

 先の大石寺所蔵・伝・俗日増授与漫荼羅と同じく、この二幅の日禅授与漫荼羅も公開されていません。まともや、非公開の壁に阻まれるところですが、幸いにも、北山本門寺蔵の日禅授与漫荼羅の写真を入手することができました。果たして、大石寺と北山本門寺の両漫荼羅が同一相貌であるか否かは、いまの時点では断定できませんが、ここでは同一相貌であると仮定し、北山の日禅授与漫荼羅で比較に供することといたします。

 

 

 

 

 (図007右)が北山所蔵の日禅授与漫荼羅です。大石寺彫刻本尊同様、あまり鮮明ではありませんが、『河邊メモ』に記される題目と花押の比較であれば、充分に事足ります。

 (図008)は彫刻本尊に日禅授与漫荼羅の輪郭を重ねたものです。第92妙海寺漫荼羅(図003)に彫刻本尊の輪郭を重ねたものと比較してみてください。その差は歴然です。中央題目は驚くほど、一致しています。四大天玉の位置はややずれ、不動愛染と日蓮花押はその位置が異なっています。

 

 一字ずつ重ねてみます。

 

 

 

 

 

 「」字は各字画の長さ割合はよく一致しており、ご覧のとおり、「」の部分から全体の字画の割合は一致しています。禅師授与漫荼羅では長く光明〈こうみょう〉点が伸びますが、彫刻本尊では必ずしも鮮明ではありません。しかし筆法として、「口」画から光明点が伸びないことは考えづらく、また、そう記されていなければ、それこそ、この一字は他筆と断定せざるを得ないことになるでしょう。わずかに確認できる線の位置は、ほぼ一致しています。

 「」字も重ねると、以上のように光明点に至るまでほぼ相似しています。傾きに、やや相違がありますが、参考にした写真自体、彫刻本尊は正面右に立って、仰角で撮影、一方、禅師授与漫荼羅は左右端がカールしていることが確認され、これらのひずみを考慮すれば、大きな相違とは認められません。

 「」字全体は光明点に至るまでよく相似しています。

 「」字は妙旁三画の「ノ」とさんずい1、2画が交叉する点からさんずい3画の跳ね上がりまでよく一致しています。旁は不鮮明でわかりづらいのですが、「」字の草冠が「ム」に入るところなどは一致しています。

 ただし、彫刻本尊では法旁「土」の二本目の横棒は下に跳ね、禅師授与漫荼羅では止筆となっている相違があります。

 「」の字旁は日蓮聖人の筆法とはやや異なりがあるように見えます。しかし、日禅授与漫荼羅の輪郭を重ねるとその位置はよく一致しております。

 日禅授与漫荼羅の「経」字については特記するぺきことがあります。旁が、実は1画不足する極めて特異な書き方がなされていることです。「」旁2画、すなわち、 「ツ」の形を持つ最初の点がなく「ソ」となっています。そして、そこに「華」の縦棹が伸び書かれていま
す。

」字は光明点に至るまで、実によく相似しております。

」字もほぼ相似形にあると言ってもよいと思います。

これが彫刻本尊では正規の「ツ」となっている点で、異なっています。

 しかし、注目すべきことに、日禅授与漫荼羅の「」字縦棒と彫刻本尊「ツ」様のはじめの点の位置がほぼ一致しているのです。あたかも、日禅授与漫荼羅の欠けた一点を補う如くに一致しています。

 厳密に言えば、日禅授与漫荼羅と彫刻本尊の「」字はその相貌を異にしています。しかし、図で見られる通り、その一々の画の長さと比率、太さ、筆運は実によく一致しています。

 よく指摘されることですが、彫刻本尊の写真は白い文字が必ずしも明瞭でないために、線をなぞっていると言います。たしかに、はっきりと見える白線の裏にずれて薄い線が確認できるものが何箇所もあります。「では元の線は」ということになりますが、この確認のためには鮮明な彫刻本尊の写真が必要です。大石寺の公開を待たなければなりません。

 仮に日禅授与漫荼羅の「」字が違っているとすれば、彫刻本尊の原図は模写であるというより、臨写であることを意味すると考えられます。

 

 

 

 

 四大天玉は、中央題目との間隔に、日禅授与漫荼羅と彫刻本尊ではズレがあります。しかし、各文字の位置・線・太さに至るまで相似しています。

大持国天玉」横不動の二点もよく位置が一致しているのがわかります。

 「大廣目天玉」も、ほぼ一致しますが、「天玉」はややずれています。

 「大毘沙門天玉」も、ほぼ一致しています。また、「毘」字横の愛染の二点も不動同様一致します。

 「大増長天玉」は、特に見づらいのですが、ほぼ一致しているようで

 「不動」「愛染」は、彫刻本尊のそれは日蓮聖人の筆法と著しく異なっております。しかし、それでも、縦に伸びる線はそれぞれ筆運を同じくしています。

 「日蓮花押」に関しては、「日」字は相似形にあり、全体の形は似通っていますが、全体的には日禅授与漫荼羅とは一致せず、模写と考えられました。

 あるいは参考にした写真の下部が歪んでいるために、正しく重ね合わすことができなかったせいかもしれません。確定は避けることといたします。


 ■日禅授与曼荼羅模写原本をパッチワーク

  日禅授与曼荼羅と彫刻本尊は、全体の各相貌の位置を見ると、中央題目では、ほぼ重なるものの、四大天玉、殊に不動・愛染と日蓮花押の位置はズレています。ところが、いまのように、一字一字を重ね合わせてみると、よく一致しています。いったい、これをどのように考えればよいのでしょうか。

 試みに禅師授与曼荼羅の各文字を、それぞれ彫刻本尊に重ねてみます。(図023)をご覧ください。「百聞は一見にしかず」という思いを懐かれることでしょう。

 

 一つの技法から類推します。紙幅を原稿にして彫刻をいたすとき、いまであれぼ、写真にとって版を作るでしょうが、昔は籠抜(かごぬき)という技法が用いられていました。透けるほどの薄紙を曼荼羅に宛い、文字の輪郭をこれまた細い筆をもって写し取っていく方法です。

 この場合、大きな薄紙が用意できれば、一挙に全体を写し取ることができますでしょう。しかし、大曼荼羅全体を覆う大きな薄紙を用いなくても、適当な大きさの薄紙で、部分部分を写し取っていくことは可能です。また、そのような場合、元の通りに厳格に配置されないことも起きえるでしょう。



 大石寺彫刻本尊の全体が籠抜によって制作されたとは考えづらい面があります。しかし、日禅授与曼荼羅と全体のレイアウトは一致しないけれど、その一文字一文字はよく一致します。ならば、臨模に当たり一字一字を写し取ったあと、板面で再構成したと考えることはできます。もしくは、比較に比した北山蔵と大石寺蔵では少なくともレイアウトではズレがあり、彫刻本尊では大石寺蔵のレイアウトが反映されていると考えることもできるかも知れません。大石寺所蔵日禅授与漫荼羅の公開を待たない限り、その詳細は知ることはできません。大石寺の公開を望みたいと思います。しかしながら、それを待つまでもなく、現段階でも言えることは、日禅授与曼荼羅と、彫刻本尊の題目その他の文字は相似〈あいに〉ているということです。

 

 

 

 

■日禅授与曼荼羅と諸尊も一致するか

以下は、彫刻本尊の写真が不鮮明なために断定できることではありません。

 いわば一つの参考に申し上げるところです。

 柳潭宏道著『石山本尊の研究』(はちす文庫)に大石寺彫刻本尊の「正確に座配図を読みとるために、マイクロ写真にて『AO版』(畳一枚ほどの大きさ)まで拡大して検証した」(37頁)という諸尊座配図が載ります。不鮮明な大石寺彫刻本尊の写真を畳一枚程の大きさに拡大すると、その座配が読みとれるどうか、やや疑問が残りますが、柳潭氏はともかく、このように座配を示しています。(図024)

 

 

 

 

 

 

 果たして、正確なものであるかどうか。しかし、ここで特筆すべき点はあります。

 以下、それを述べます。(図025)は大石寺64代水谷日昇氏が昭和26年(1951)5月19日に書写した「創価学会重宝大法弘通慈折広宣流布大願成就」の銘がある本尊です。この座配図も柳潭氏は載せています。

「若悩乱者頭破七分・有供養者福過十号」という文は、水谷本尊にしかありません。また、水谷書写本尊では「二千二百三十余年」が曼荼羅二幅では「二千二百二十余年」。彫刻本尊では「釈提桓因〈しやくだいかいいん〉大玉」が、「帝釈天玉」の違いはありますが、その他はまったく同じです。

 当然のことですが、日禅授与曼荼羅、水谷書写本尊には「本門戒壇」を云々する腰書はありません。


日禅授与曼荼羅は、写真が不鮮明で読みとることはなかなか困難なのですが、わかる限りでその座配を記すと、(図026)のようになります。

 これを大石寺彫刻本尊の座配と比較すると、この三つは、上述の相違点を除けば、その諸尊勧請座配を同じくしていることになります。

 これはもちろん、柳潭氏がAO版畳一枚程に引き延ぼして、目を凝らして読みとった大石寺彫刻本尊の座配が正しければ、という前提ですが、一つの資料にはなろうかと存じます。

 なお、彫刻本尊の諸尊は、意識的に題目・日蓮花押・四大天玉・愛染不動に、掛からないように配置されているように見えます。

 その図示の有様は、中央題目・日蓮花押・四大天王を原本とする部分に、その他諸尊を、日禅授与大漫荼羅の座配図を参考にして原図が作られたことを意味するのかも知れません。

 以上を総合し、大石寺第26代日寛が「本門戒壇の大御本尊」と命名した彫刻本尊、すなわち「大石寺所蔵の丸木板彫刻漫荼羅本尊」は、題目・四大天玉を日禅授与漫荼羅から籠抜、若しくは臨模して用いたものであると、考えます。また、柳潭氏の座配図を採る限り、他の諸尊は日禅授与曼荼羅を基に配したと考えることができます。また、愛愛染は見る限り、まったくの他筆であると断定するものです。

 

 

 

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