続「御書」研究の最先端へ  

 

大学の卒業論文を書くころから、日興上人の写本を研究してきた菅原関道師(興風談所)は、御書の写本のほとんどを閲覧している。そうした下地があって、御書のシステム版製作の際には写本担当の責任者として活躍し、その研究成果のいったんが、『図録日蓮聖人の世界』の第三部「御書を心肝に染め」に発表されている。こうした学問の成果は専門的な研究誌に論文として詳しく発表されてはいるが、一般に目にすることがない。編集部では菅原師を訪ねて、御書写本に関するお話をうかがった。

師は大学の卒論で、ある研究者が大聖人の御書(南条殿御返事)を発見したという論文を発表したことに対して、それが日興上人の代筆であり、大聖人は花押だけを加えられていると指摘し論証した。卒論執筆の際にアドバイスを受けていた担当教授からは、書誌学・文献学的な方法を駆使して古文書を研究しなければならないと教わった。書誌学とは、古文書の保存形態や筆跡、筆者以外の書き込み、筆者による誤字などの訂正の仕方、文章追加の場合の書き込み方など、文献を総合的・立体的に見ていく学問である。筆者が分からなければ、その筆を他の古文書と比較照合して筆者を特定する。文献に密着した学問だから、絶えず原本(正本)に当たってそれを解読していくことが必要になる。

菅原師によると、どうもこれまでの御書写本の筆者が、大石寺では間違って伝えられているらしいのである。照合すればすぐ分かるのに、現在はその分野の研究があまりなされておらず、とくに大石寺蔵の写本は公開されていないから閲覧のしようがなく、思うように研究できないのが現状なのだという。

しかし、たとえば大石寺蔵写本「四信五品抄」は日興上人の正筆として伝えられ、日興上人・日目上人の六五〇遠忌記念として出版された阿部日顕師監修の『日興上人・日目上人正伝』でも書写本の一紙を写真掲載しているが、これは間違いなく日目上人の筆。同じく大石寺蔵の写本「立正安国論」も、同書では写真掲載のキャプションで日興上人の正筆としているが、これは日澄師の筆であることが分かっているという。

また宮城妙教寺蔵の写本「法華経題目抄」は、日目上人の筆と伝えられてきている。それは同抄の表紙に「日目」と記されているためで、実際に筆跡を照合してみると日道上人の筆だということが分かった。

何でそんな大切な研究が遅れているのだろう。学問世界の常道として、世間では書誌学的な方法が確立されているし、他宗他門にも筆跡照合の伝統はある。ところが今の大石寺では、一度決められてしまったいわゆる定説に対して、少しでも学問的な疑問を呈すると大変なことになるらしく、それができない非学問的な雰囲気があるというのだ。だから大石寺に古文書を解読できる人がいても、満足な研究も発表もできない。

これに対して菅原師は「書写本がどなたの筆になるか、そういう問題にきちんと答えられなければ、上代先師の徳を称えることにはならない」という。

写本研究にはこんな面もある。たとえば、日興上人写本の御書(頼基陳状)の再治本のなかには「上行菩薩の垂迹日蓮聖人」とあり、他門からこの点について「日興上人がそんな表現をされるはずがない」として、日興上人の書写本であること自体に教義的な側面から疑義を呈してくることもある。そういう場合は書写本(正本)が明らかに日興上人の筆になること、そして日興上人が御書を正確に写されていることを、現存する御書と日興上人の写本に当たって証明していく。つまり書誌学が正宗教義を援護することになる。いずれにせよこの学問は、地道でありながら、きわめて大切なものである。

御書のシステム版製作過程で、御書に関する多くの研究成果が得られている。今回も写本担当の菅原関道師(興風談所)のお話をもとに、上代先師方の御真蹟書写の周辺事情を追ってみたい。

日興上人の「富士一跡門徒存知事」を読んでみると、御書の収集に関しては、大聖人のお弟子のなかでも、日興上人が最初に御書を収集しなければいけないというお気持ちを起こされたことがうかがえる。そのことは、他の老僧が、仮名で書かれた御書を大聖人の恥辱としてすき返したり燃やしたりしたことへの日興上人の憤慨からもうかがえるし、また存在する写本の筆者を一覧すれば裏づけられる。

「門徒存知事」には日興上人が『わが門葉においてはこの旨を守って一向に興行しなさい』との遺誠があり、富士門流の原点を知るうえで非常に重要なポジションを占めている書である。富士門流においては「唱法華題目抄」「立正安国論」「開目抄」「観心本尊抄」「撰時抄」』「報恩抄」「法華取要抄」『四信五品抄』「下山御消息」「本尊問答抄」は御書のなかでも十大部と称され、大聖人の根本法義を記された肝要中の肝要御書と位置づけられる。

この十大部の御書については、日興上人、日澄師、日目上人、日道上人の写本のいずれかが存在し、日興上人はご存生のうちに御真蹟もしくは写本でこの十大部御書をすべてそろえられていた。

御書の写本は、大聖人のご在世当時からすでに始まっていた。御書を格護する日興上人のお気持ちは、当然お弟子方にも伝わり、情熱的に写本につとめられたことは想像にかたくない。

大聖人ご入滅後、その教えを表し伝えていくためには、御書の存在は必要不可欠なものだ。ただし多くの場合、御真蹟はそれが宛てられたところに保存され、むやみに動かせるものではない。たとえば富木常忍がいた中山には、重大御書が宛てられたため、それがいくつも保存されているし、大聖人がお手紙を宛てるに際しては、事前に草案等をしたためられたものが「別本」として発信地の身延に残っていたりもする。だから身延と中山には、かなりの御真蹟がそろっているわけだ。

しかし身延を離山された日興上人が御書をそろえるためには、宛先に保存されている御書を、お弟子方を通して写す以外にない。

大聖人ご入滅のあと、日澄師はまだ身延の日向師のもとにいたといわれているが、日澄師がのちに日興上人の住されている重須に参詣されたということは、非常に大きな意味をもつ。なぜなら日澄師は、かなり早い段階から御書を書写されているからだ。たとえば「曾谷入道殿許御書」は日澄師17歳のとき、建治39月に写され、同じころ「始聞仏乗義」も写さればている。おそらく日澄師は、若いころ往来していた中山で書写した御書を所持し、その書写本を重須に持参された。そしてそれを日興上人がご覧になったのだろう。そんな推測が成り立つ。であれば日澄師が重須に参られたことで、日興上人の御書収集にかける情熱はさらに高まったのではないかと考えられるのだ。

前回では、日興上人筆といわれてきた大石寺所蔵の「立正安国論」が、文字照合の結果、日澄師の筆であると分かったと述べたが、最近になって日澄師の筆と確かめられている写本がいくつかある。御書の書写に関しては口澄師の存在はまことに大きく、改めて見直されている。また日澄師が書写したものをさらに転写した御書写本が、現在のところ11通存在することが分かっている。

発見や研究成果はたった一行で書けることもある。しかしそこに到達するまでには大変な時間と労力を要する。導き出した結論への反論を想定した検証作業も必要だ。御書研究の最先端で地道に研究している僧侶方の熱意と努力に、深い敬意を表したい。


 

「続き」                                         3/15継命より

日蓮大聖人の御書は主に真蹟・写本・刊本というかたちで現在に伝わっている。そのうち、大聖人の直筆を意味する真蹟は、次の四つの状態でのこされている。

@完全に現存するもの。これは493篇を数える大聖人の御書の中、113篇におよぶ。

Aほぼ完全に現存するもの。たとえば、「撰時抄」はその中間部分が少々欠けている。

B一部が欠損するもの。たとえば、「諌暁八幡抄」は始めの三分の一が欠けている。

C断片・断簡が現存するもの。断片とは、現在その書名が知られている御書の一部を指し、一方の断簡とは、書名不明で、写本が伝わらない御書の一部をいう。

現在、真蹟断簡は360篇余りが確認されており、それらはみな今まで知られていない御書の一部と考えられるので、それを加えると大聖人の御書は今よりもかなりの数を増す結果となる。

そんな真蹟の特徴としては、その情報量の多さがあげられる。たとえば、活字で御書を読む場合は、ただ文字を追ってその意味を取っていくだけで、それ以外の情報はほとんどもたらされない。

それに対して真蹟には、意味を取ることはもちろんのこと、それ以外に文字を書くスピードの遅速や全体的な勢い、文章の書き直しや後からの文字の書き入れ、または墨の濃淡からどこで墨をつけあらためたか、さらには誤字や脱字・衍字(余分な字)や、漢字および変体がなの使い方などがある。

そして、私達はそこから大聖人の文章の作り方や書きぐせ、その御書が書かれた時の状況から、果てばその際の大聖人の体調に至るまで、多くの事を知るキッカケを得ることができるのである。

また、真蹟を拝見していて驚くのは、そこに見られる他筆、つまり大聖人以外の誰かが書き加えた文字の多さである。もちろん、その大部分は大聖人が書かれた漢字に付した振り仮名であり、誤字を訂正したり脱字を書き入れたりしたものであるが、なかには大聖人の文章そのものを書き改めたものも見られる。

だから、御書を活字だけで読んでいると、私達は大聖人がただその活字と同じ文字をスラスラと、そのまま書きつらねられたと単純に思いがちであるが、そうではない。

実際は、このような真蹟に加えられた他箏をそのまま用いて改めたり、または活字の御書全集として編さんする際に、編者が新たに字を加えたりして、大聖人の御書はかなり形を変えられているのである。

そんな中で、今は改悪とすら判断されるものを一つ取り上げてみよう。

左上段に見えるのは、建治二年(1276)に大聖人が池上兄弟に与えられた「兄弟抄」の真蹟の一部であるが、その二行目を現在の活字御書の表記で示すと、「定て女人は心よはくをはすれは」となる。見て分かるように、この一行の中にもいくつかの書き改めがあり、なかには他筆によるものもあるが、それを順を追って説明すると次のようになる。

まず、最初に大聖人は「定で女人は心ゆわきものなれは」と書き、その後に自分で「き」を「にて」、「ものなれ」を「をはすれ」とそれぞれ書き直して、全体を「定て女人は心ゆわにてをはすれは」と作文されている。

しかし、その後に他筆が「ゆわにて」を「よはく」と書き改めたために、現代の御書ではそれがそのまま採用されて、上のように「定て女人は心よはくをはすれ」という文章で活字化されている。

この場合、別に意昧が変えられているわけではないので、間違いいではない。しかし、大聖人の真蹟では「弱い」という語をひらがなで書く場合、「よはい」.とは書かれず、ほとんどの場合「ゆわい」と書かれる。

だから、一般の文章としてはともかく、日蓮大聖人の文章としては「心よはく」よりも「心ゆわにて」の方が、大聖人らしさがよく出ていると言えるのである。

よって、そんな大聖人の個性がよく表れている文章を、今流に読みやすく改めた活字の下に、むりやり押し込めてしまったということでは、やはり改悪と言われても致し方ないであろう。

 

 

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