川澄語録  

 

昔、小川泰堂というお医者さんがあり、録内御書を整理して高祖遺文録として整理された。それが明治になって活字とされた後、大正頃にかけて稲田海素師によって全面的に真蹟を対照されて出来たのが縮刷遺文録であった。そこで高祖遺文録は廃棄ということになり、専ら縮刷遺文が使われることになった。国柱会の御書は高祖遺文録によったもののようである。大石寺慈豊師の御書は、現に正式には宗門としては認めてはいないが、若しかしたら高祖遺文録の系譜によったものではなかろうか。

 学会御書は高祖遺文録の漢文の部分を堀上人が仮名交りに書き下されたもので、真蹟対照はなされていない。慈豊師のものも同様である。その後立正安国会に片岡随喜居士が私財を抛って稲田海素師が全面的に全国的に写真揖集し、それが写真集として出版された。そして居ながらにして真蹟を拝することが出来るようになった。戦後立正の鈴木師が御書の編揖をされて昭和定本が出版されたが、その後山中喜八氏の協力を得て完璧なものにすることが出来た。

 大石寺版の御書は日達上人の命によって筆者が編揖したもので、色々と誤読もあると思うので古文書を職人芸という人には大いに訂正してもらいたいと思う。呉音でよむべきものが漢音で読まれたための誤りがあるのではないかと思う。まだまだ少しづつ気掛りな処もあるので是非修正してもらいたいと思う。佐藤慈豊師の御書については無条件の出版に付いては再考した方がよいのではなかろうか。学会御書も大きく脱皮する必要があるのではないかと思う。御書をここまで完璧なものにしたことについては立正安国会の山中喜八氏及び稲田海素師の力が大きかったのではなかろうか。そしてそれが完成したのは、あづかって片岡随喜居士の力による処である。聞く処によると戦時中印刷されたものを疎開されて無事であったので、それを山中喜八氏にわたして出版されたようである。

 今後に残された問題は一口に御書と称しても色々なものが混在しているので、これの取捨選択をする必要がある。具眼者があって必らずこれをしなければならない。例えば当体義抄、総勘文抄、唱法花題目抄、三大秘法抄、御義口伝等は代表的なものである。色々と複雑に入り組んでいるものの整理は、必らず行なわなければならないもののようである。アベさんのお好きなウラボン経御書なども警戒しなければならないものの随一である。ウラボン経御書は明治頃に大阪方面から京都の妙覚寺に寄進されたもののようである。御書の中には色々のものが入り交っているので、それらを安心して使えるように整理する篤志家はいないのであろうか。大石寺ではいかがわしい御書が比較的多く使われていたようである。今まで慈豊師の御書が何故使われなかったのか、今となってその意が何となしに理会出来るように思う。慈豊師の御書にはあまり立ち入らないことである。

 

 


三大秘法抄の三秘は像法の三学をそのまま宗祖の三秘に置き替えたまでで、そのための混乱である。宗祖は時に当って妙法五字をもって世の混乱を鎮められたが、今は時節之混乱の五字によって宗祖の法門を混乱せしめている。宗門を正常にかえすためにはまず時を習わなければならない。時を誤っては上行といえども出現することは不可能である。一方で出現を礙(さ)えながら一方では上行出現後の処で話が進んでいるという今の在り方では、他宗門の人は何としても理解しないであろう。古は上行が貌を表わすか表わさないかということであったが、後には形を表わした上行を木像絵像にするかしないかということに移って来ている。その辺に複雑のものを控えてをる。

 不用意に他宗門のものを引用しては混乱を招くのみで、委員会の面々の時節抜きの引用は改めて混乱に拍車をかけている。他宗門のものを引用する前には心の準備が必要であるにも拘らず、一向にそれがなされていない。悪口は時節を踏まえた上でないと一向に反論にならない事を知っておいてもらいたい。語句の反撥は凡そ無意味なもので、罪障は全て自身に降りかかってくるであろう。

 末法に入って戒壇を建立することは虎を市に放つがごとしといわれた真蹟と、時節の混乱の上にある三大秘法抄の戒壇とを同時に扱うことには無理がある。三大秘法抄による戒壇の建立は虎を市に放ったような混乱を起しておることは否みがたい事実である。特に無作三身の語のある御書は大いに警戒しなければならない。

 今の混乱は戒壇の本尊の内容まで替えようとしている。尾林論文に現われた中央戒壇、向って右本尊、向かって左題目などという新本尊など最も好い一例である。そこまで麻痺せしめる力を持っておるのが時節である。世間のように時世(ときよ)と時節と軽くいなすわけにもゆかない処が妙である。

 覚前の実仏は像法にあってこそ実仏であって、末法に入って実仏ぶりを発揮したのでは前後不覚の混乱を起すことは当然といわなければならない。覚後の実仏とは上行菩薩であり自受用報身如来である。覚前の実仏の時は本仏出現以前であることに留意しなければならない。

 所謂中古天台には止観勝法華劣ということが考えられているが、これは像法の時のことである。止観は天台一人に限り、法華は略挙経題玄収一部の妙法五字であるが、大石寺は止観・法華を摂入した上で己心の一念三千が取り上げられ、ここで初めて名字の凡夫と理即の凡夫とが登場することになっている。末法であってみれば当然ここでは上行も出てくる筈であるが、同じことをいいながら天台では本尊薬師如来との関係で上行の出現は困るので、像法転時をとってをるために、凡夫の成道も宗祖とは異った処へおさまることになり、そのために己心の一念三千法門もまた止観一部の中に鎮め込まれるようになった。三大秘法抄には、この二種の己心の一念三千が同居しているように見えるが、これは見るものの僻目ということであろうか。

 一は本果であり一は本因であるところに今の混乱の根源があるのではなかろうか。もしこれが本因の一に整理されるなら、時局法義研鑽委員会から時局の二字が消滅する日である。法門が二頭になっているために時局の二字が必要になっているのではなかろうか。阡陌とか守株とか、そのような語句の解釈をする前に時を一本に絞らなければ全ては蛇足に終る公算が強いことを御存知であろうか。

 今のような貌で三大秘法抄が真蹟として取り上げられた場合、即時に三大秘法抄の三秘は弘安五年に遡って解釈されなければならない。その時三秘総在の本尊として七百年来信仰され続けてきた弘安二年の本尊はどのように会通されるのであろうか。厳密にいえば満三ケ年間でその任務は完全に終り、あとは三大秘法抄の三秘が受け継ぐこととなるが、ただ便宜のために三秘総在を称えて来たということでは収まり憎いと思うが、降って涌いたような三秘各別の本尊等の三秘、法門の立て方からしてそこに本仏の生命があるとも思えない。

 三秘各別は本仏出現以前のこと。弘安五年以後の本仏の生命をどのようにして証明するか。寧ろ本仏の生命は既に弘安五年をもって断絶したことの証明になりはにないか。時局法義研鑽委員会はこの会通をどのようにするか。ここに全智全能を傾け、若し出来なければ潔く三大秘法抄を排棄すべきである。

 

 


三学に依って出た三秘が、三学をすてて迹門流に解釈されて出来たのが三大秘法抄なのかもしれない。三秘から出たものには迹門の匂いの濃いものが多い。その三大秘法抄を中心に盛り上がった日蓮法華宗は遂に天文法乱を起した。そして天台宗のために焼き払われ京洛を追われることになったが、天台宗は教義を変えることを要求して京洛の元の地に帰ることを拒んだ。そのためにやむなく教義を変える中にあって、最も活躍したのが要法寺の辰師であった。そして遂に元の地に帰ることを認めたのである。恐らく百八十度の転換がなされたことは容易に想像出来る。

 その教学は辰師の寂後二十年許りで大石寺に入ってきたのである。そこで主師まで続いた三学は新来の三秘と交替することになり、教学について新しい局面を迎えることになった。そして三秘を主体とした教義教学は今に続いているのであるが、三学を伝えている事行の法門はあるかなしかになって、これを狂学と称する処までに至ったにである。内容からいえば三学であり、そこには二乗作仏や己心の法門も含まれている。

 開目抄や本尊抄、そして取要抄その他の重要な御書全て未究竟であり、三大秘法抄のみが究竟というのが阿部さんの御託宣である。これは当方に対する反撥がこのような暴走を巻き起したのではないかと思う。同時にここには戒旦の建立が秘められているので、正本堂の裏付けのためであろう。今は山田、水島両学匠もここを目指して、無い理屈を捏ね廻してはいるが、何となし浮き足たった処が文面に満ち溢れている。

 正本堂と護法局、折伏と広宣流布、次第に全てをこの一点に集中してきているように思われる。そして最後は究竟中の究竟としての戒旦の本尊に集中させようとしているが、古伝の大石寺法門、即ち三学による法門からいえば、殆ど自殺行為に等しいものと思われる。道師にも有師にも主師にも、また六巻抄にもそれを裏付けるものは何一つない。若しあるとすれば文底秘沈抄一巻のみであるが、前々から言うように、これは三学に反対のために取り上げられたと見るのが、最も妥当な見方ではないかと思う。その故に今は依義判文抄以下は全く見向きもせられず、最近の動きは、文段抄によって三秘即ち戒旦・本尊・題目を裏付けようとしている。今のような状態であれば、寛師も前後十ケ年の年月を費して、六巻抄を著わす必要はなかった。それだけに今の考え方が異様な感じを与えるのである。

 最近は阿部さん以下水島も山田も、共々に三学を捨てることのみに集中しているようであるが、阿部さんの御教示の如くであれば、御書は三大秘法抄のみで事足りることになり、開目抄や本尊抄などは、未究竟の中で至極簡単に切り捨てられるのである。今その教学の最後の仕上げを急いでいるものとお見受けした。狂学に二字を加えて暴走狂学の語を献上したい程である。

 阿部さんがいくら本尊抄を未究竟と下しても、三大秘法抄には究竟の本尊を顕現する力は見当らない。これは三秘による故である。その三秘を顕現するのは専ら三学に依るところ、その故に主師までは三学により、寛師も依義判文抄から当家三衣抄までは、三学の復活を計られたのであるが、今阿部さんによって宗祖以来の三学に断が下されようとしているのである。誠に歴史的な壮挙であるといわなければならない。つまりは宗祖への挑戦であり、左右両脇に控えているのが水島、山田の両人である。

 この三人相依ってみても、とても文殊の智恵に及ぶべくもない知恵者の集団である。この三人の知恵をもって、開目抄や本尊抄の二乗作仏や三学、そして己心の法門を邪義と破すことが出来るかどうか、これが第一の難関である。とっぷりと拝見させて頂くことにしよう。若し成功すれば狂学と極めつけることも出来るし、また阿部教学の確立でもある。これは川澄狂学と称して独り悦にふけるようにはいかないであろう。宗祖に悪口雑言を浴びせるわけにもゆかないであろう。どのような方法をとるのであろうか、これは天下の見物である。若し成功するようなことでもあれば、こちらは速かに退散しなければならない。大いに力を竭して腕のある処を見せてもらいたいと思う。若し成功すれば、それこそ天下第一の智者であり、勇士である。門下の諸宗も即刻阿部さんの傘下に馳せ参じて来ること請け合いである。今その戦いが始まらんとしているのである。

 昌師から三代目精師の代には江戸の末寺には一尊四士が登場する処まできた。そして家中抄も辰師流の三秘の中で古伝の三学に関しても大幅に手心を加えられたであろう。新しく三秘を宣伝するためには、当然あってよい筈のものである。その意味では大分割引して見なければならないものもあるかもしれない。とも角精師によって三秘の基礎が固められたことは否みがたい処であろうと思われる。そのような中で三鳥派も出ているのである。そして九代百年の間は辰師流の三秘一色になっていたであろう。外からは幕府の圧力もあって六巻抄を作らざるを得なかったであろうことは容易に想像出来る処である。

 

 


文段抄には時がきびしくないために、自分の意見をもって読みやすいように出来ているためであろうが、六巻抄では時が厳しいために取りつきにくい面があったものと思われる。そのために今でも六巻抄は全く読まれていないのであろう。最近は全て文段抄のみが引用されている。三秘によれば文段抄、三学によれば六巻抄ということになる。今ではそのために真向から対立の余儀なきに至っているのである。攻める宗門方は文段抄、受ける方は六巻抄ということで、結局は三秘と三学の争いということになっているのである。少し眼を遷せば開目抄、本尊抄その他の御書と三大秘法抄の対決ということも出来る。阿部さんは本尊抄を未究竟、三大秘法抄を究竟中の究竟と最高位においているのである。この問題もいよいよ絞られてきたということである。

 三学を取れば主師から有師に遡れるし、三秘を取れば要法寺の辰師を中興とせざるを得ない。これはなかなか厳しい問題であるが、つまりは尊門の系列ということになるのである。化儀の折伏法体の折伏もまた辰師を祖とするものである。要法寺とは、昌師以来切っても切れない深い縁が出来たようである。さて中興の祖をどう選ぶべきか。教義的には辰師につながっている事は現実が証明している通りであるが、有師・道師へのつながりは、誠に稀薄であるといわざるを得ない。このような時を迎えて更めて文底秘沈抄の意義を考え直してもらいたいと思う。

 

 

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