日経03/01/05

よく生きるための哲学

(市民生活の武器に)

鷲田精一

哲学はいま、市民の<希望><失望>のあいだで揺らめいている。

迫りくる環境危機、国家財政の破綻、高齢化社会における医療や介護の仕組み、家族や学校、地域社会や企業のあり方など、いまわたしたちの日常生活が直面している問題の多くが、重度の「制度疲労」に陥っていて、社会生活の基本的な考え方(フィロソフィー)じたいを根本から洗いなおさないかぎり、問題は何一つ解決しないと多くのひとが感じている。

 

学問か素人談義

社会生活の新しいフィロソフィーがこのように具体的なかたちで求められているのに、しかしいざ、それに見合うような、カンフル剤と言ってもいい刺激に満ちた「哲学」的思考を参照しようと関連書物を手に取っても、難解な術語だらけで現実の問題からあまりにも隔たって感じられるか、反対に、記述は平易だがそのぶん問題も水割りにされていて、時代を深くえぐる未知の思考の荒野が広がっているとはとても感じられないといった、もどかしい想いにとらわれるひともまた、多いのではないだろうか。

もともと公民の教養の基礎として位置づけられていた「哲学」は、大学での研究の一環として位置づけられるようになってから、諸科学の基礎理論としての専門的性格をより濃くしていった。そして「あのひとの生き方には哲学がある」といった言い回しが、学問外のものとして遠ざけられていった。「哲学」は、学問の基礎という面と、世界観についての素人談義といったふうに、二極分解していったのである。明治という時代に西欧から「哲学」を輸入したこの国では、とりわけこの傾傾向は強い。

この二極分解を埋めるというのはたやすいことではないが、そのニケ月ほどのあいだに、それに取り組む真摯な試みが次々と現れたのは心強いかぎりだ。

 

様々な知を媒介

小林傅司編『公共のための科学技術』(玉川大学出版部、2002)は、先端医療や環境汚染など市民生活に大きな影響を及ぼす現代の科学技術のあり方をめぐって、専門家と市民を媒介するコミュニケーションのさまざまな方式を模索する。ここでは、位相を異にするさまざまな知のあいだに立ってそれらを相互批判的に媒介するという、哲学の社会的責任が問われている。

情報科学と生命科学が切りひらく問題次元を検討しながら、「『人間』の「パラダイム以降の倫理」と「概念の創造」を哲学の課題とする檜垣立哉の『ドゥルーズ』(NHK出版、同)、色というごくありふれた現象の徴密な分析をとおして、現代の科学研究が前提としている概念的な枠組みそのものを問いただす村田純一『色彩の哲学』(岩波書店、同)。この二著は、この時代のさまざまな知がひそかに共有している隠された前提をあぶりだして、わたしたちの思考が次に立つべき位置を遠望している。

 

問題提起の論理

哲学にいま求められているりのは、その市民化ということなのだとおもう。たとえば行政職につくということが市民が一人でも多く「幸福」になれるよう社会の運営に携わることだとすれば、(あたりまえのことだが)ひとにとって「幸福」とは何かという基本的なフィロソフィーがなければ仕事はできない。そのために、たとえばフランスでは、「哲学」の学習を上級公務員志願者に義務づけている。それに先だって一般の中等教育でも、哲学の授業にかなりの時間を割いている。

自分(たち)が直面している困難や不安をその根っこに立ち返って問い、次にそれをひとつの社会的な問題提起にまで組み上げる、そのために日常使っている言葉を論理的に研ぎ澄ませるということが、いま市民ひとりに求められているだとおもう。その意味で、「哲学」はまだ始まっていない。「哲学」がこの国で市民生活の武器になりうるかどうか、それがいま験されている。

 

 戻る