チベット死者の書

 

目次

はじめに

第1章 失われた「神話の知」

第2章 時代が必要とする知――埋蔵経の発

第3章 臨死における光の導き〜「チベット死者」の書を読む

第4章 取材記録 生きている『チベット死者の書』

第5章 にぎやかな神々〜「チベット死者の書」を読む

第6章 取記録 ツェリン・パルタンの葬儀

第7章 恐怖の神々〜「チベット死者の書」を読む

第8章 取材記録 LSD体験を超えた瞑想

第9章 取材記録 死を見つめ直すアメリカ

第10章 科学と仏教の出命い

第11章 取材記録 ラマ僧の転生物語

第12章 再生への道〜「チベット死者の書」を読む

第13章 ダライ・ラマの叡智

終章 「死の思想」を現代に発掘する

 

 

 

 

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第1章         失われた「神話の知」

 

あなたがた慈悲深い方々よ。この者は、この世を去って、かの世に行こうとしております。 困難な旅をしようとしています。 この者には友もなく、ひどく苦しんでいます。――中略―― この者の寿命はすでに尽き、暗闇のなかに入ってゆかなければなりません。切り立った断崖 から墜落し、厚い密林のなかに入り込んでゆかなけれぱなりません。

                                    『チベット死者の書』

死とは何か=いかに死ぬか

  地球上に新人類とよばれるクロマニオン人が出現して、約3万年もの時間が流れました。その長い人類の歴史のなかで、高度な文明を達成し物質が溢れる現代は、特別な時代です。人間が作ってきた仕組みである国家や政治、経済だけでなく、人間を産みだし育んできた自然までが、目まぐるしいほどに変化しつづけています。あらゆるものが無常に流れ去り、行きつく先はだれにもわかっていないのです。

 そのなかで、3万年間、変わらぬ真実があるとすれば、人は必ず死ぬべき存在だということだけではないでしょうか。しかし、残念なことに万能なはずの現代の知は、この最も根源的な問い「死とは何か=いかに死ぬか」には、答えられないことがわかってきたのです。

 東洋・西洋を問わず、地球上のどの民族も、かってはメメント・モリ(死を思え)を出発点として独自の精神文化を作り出してきました。その時代には確かに月に行く技術や、自動車はなかったかもしれませんが、しかし、ともかく「いかに死ぬか」という思想と方法はあったのです。彼らにとって死は必ずくる現実で、死ぬことを前提にした人生がありました。私たち1人1人にとって最も大切なことは何だったのか、もう一度考え直す時代がきたのではないでしようか。

 

「科学の知」と「神話の知」

 心理学者の河合隼雄さんは、現代人は「科学の知」と「神話の知」という2つの知恵を持つようになったが、それは混同できない別のものだと明言されています。人が生きてゆくためには、その両方の知恵が必要なのです。しかし私たちは科学で証明できないことは、すべて迷信としてしまいました。現代は、本来必要な「神話の知」を駆逐して、「科学の知」がすべてを覆ってしまった歪な時代なのだと話されます。

 「科学の知」は、現象を見ている""を主観的要素として排除したうえで、客観的に観察し、法則を見つけるということで進歩してきました。そこには、""というものが入っていないので、どの民族、どの文明でも通用する普遍的な知識が出てきます。日本で研究したことが、インドでもアメリカでも宇宙全体でも通用します。その知識は、どこでも、だれにでも同じ結果をもたらすわけですから、それが客観的な"真実"だと考えられます。

 この「科学の知」が技術と結びつくことで、現代人は自由に現象をコントロールし、自然を支配することができるようになったわけです。現代とは、このような「科学の知」が、大成功した時代だといえましょう。

 「神話の知」とは、""を現象に関わらせながら得る知です。ここから出てくる知識は、個人的でその人だけにしか通用しないかもしれません。しかし、その人にとってはとても大切な意味を持つ"真実"なのです。ここから奇妙な出来事が起こります。1人の人間が、科学的真実と神話的真実という異なった2つの"真実"を矛盾なく持ちつづけることができるでしょうか。

 「科学の知」が、あまりに普遍的で正しいと思われるために、本来は「神話の知」に属すべき領域にまでも、「科学の知」を応用しようという考え方が現代人を支配しています。自分を現象には含めないことで成功した自然科学的な思考方法を人間にまで応用しはじめたのです。

 人間を分類・分析し、肉体という物質に還元し、数字に置き換えて操作しようという方法は、確かに、近代医学、精神医学、生理学などの分野では目覚ましい成果があがっていました。しかし、ここでも死の問題だけは科学のあつかう問題ではないとされ、ポッカリ空いた空白として取り残されています。

 とすれば、現代人が「死とは何か=いかに死ぬか」の問いに答えることができなくなった理由は、現代人の信仰する「科学の知」の限界からやってくるのではないでしょうか。20世紀の最後になって死を考えることから、もう一度「神話の知」を見直す必要が出てきたように思われます。

 そうはいっても、いったん失われた知恵は簡単に復活しません。「神話の知」の多くは無文字の伝承ですし、大航海時代に始まる植民地主義の数百年が、野蛮人の迷信として葬り去ってしまったものです。1993年は「世界の先住民のための国際年」にあたっています。今までは西部劇で悪役として登場していたインディアン(ネイティブ・アメリカン)の、自然と一体になった生き方などに注目が集まり出したのも、私たちの祖先がもっていた「神話の知」をもう一回見直し、現代文明のゆきづまりを超えるヒントにしようという地球規模の潮流の一つです。

 

封印されていた「神話の知」

 この本で取り上げる『チベット死者の書』は、何度も失われながら再発見されて、奇跡的に現代に手渡されました。そこに書かれていることは、人間の死後の魂がたどる遍歴です。この経典には、少し前の時代の日本人ならよく知っていて、死に臨むときにはよりどころとしていた懐かしい知恵が、ギッシリ詰め込まれているはずです。「科学の知」だけを"真実"とする現代の日本人からは、捨て去られ封印された「神話の知」の"真実"なのです。ちょうどタイム・カプセルを開けるように、このチベットの不思議な経典を紐解いてゆこうと思います。

あなた自身の神話を見つけようと思ったら、どういう社会に属しているかを知ることが肝心 です。あらゆる神話は限界領域内の特定の社会で育ってきました。――中略―― でも、現代は境界線がありません。今日価値を持つ唯一の神話は地球というこの惑星の神話 ですが、私たちはまだそういう神話を持っていない。私の知るかぎり、全地球的神話にいちば ん近いのは仏教でして、これは、万物には仏性があると見ています。重要な唯一の問題はそれ を認識することです。まず行動を、というのでは決してありません。大事なのはただ、在るも のを在るがままに知ること。

   (ジョーゼフ・キャンベル/ビル・モイヤーズ『神話の力』)

 

人はどこから来て、どこへ行くのか

 「神話の知」は、どのような問いに答えてきたのでしょうか。ちょうど今から100年ほど前、南太平洋に楽園を夢見て逃れた、画家ゴーガンが死を覚悟して遺作としてとり組んだ大作の題名。

   「われわれはどこから来たか? われわれとは何か? われわれはどこへ行くか?

                          (1887年カンバス油彩ポストン美術館蔵)

 「神話の知」とは、3万年にわたって、まさにこの問いに答えつづけてきたのではないでしょうか。ゴーガンは科学技術の20世紀を前にタヒチに旅立ちました。南太平洋の島々は、死者は目には見えない雲として生きている者を見守り、さまざまな輪廻転生が生じ、あらゆる自然には精霊が宿っている世界です。しかし、残念なことにこの数100年間で、地球上からはそのような土地も文明も失われてゆきました。

 そして私たちは、神話が語る物語や宗教の語る死後の世界を、そのまま信じることはできなくなってしまいました。その結果、死によって肉体が滅べば、何も残らないという「科学の知」が導く物語だけを信じて生きています。死ぬことを考えることは、底なしの井戸をのぞきこむような恐怖です。死はすべての終わりですから、「どこへ行くか?」という問いそのものも必要ないのです。

 私たちの生きている世紀は、3万年の人類の歴史の物差しでたとえれば、30センチのなかのたった1ミリです。それ以外の時代には、人類は民族や宗教の違いはあっても、なんらかの答えは持っていたのです。今、私たちは、とても異常な時代に生きていることを知らなければなりません。

 

死の意味の変質

 20世紀後半になって、生と死をとりまく環境は激変しました。独特の方法で死の問題にとり組んだフランスの社会歴史学者フィリップ・アリエスは、現代は"倒立した死"の時代だと書いています。

 アリエスは、墓を花で飾ったネアンデルタール人の昔から、現代にいたるまでの死生観を、遺跡、神話や伝説、文学、絵画や彫刻といったさまざまな資料を駆使して説き明かしました。アリエスによれば、かっては人々の身近にあり、馴れ親しんでいた"飼い慣らされた死"が、近代科学の発達とともに人間の当たり前の自然現象としては認められずに、醜く汚らわしいものへと変化してしまったというのです。

     死は一種のミス、商売上の失敗(RS・モリソン)となる。

     それは死の管理を自分の生きがいにしようという医師の信念である。

     (フィリップ・アリエス『死を前にした人間』)

 アリエスは、医療技術と衛生観念の進歩によって、"=失敗"とされてしまい、公にできない一種のタブーとされてしまったと考えます。ここでは、死にゆく人はもはや死の主体ではなくなってしまいます。この現象を、"倒立した死"と名づけたのです。

 3万年の人類の歴史のなかでも、死は醜くて目にするのさえ汚らわしいとする考えは、確かに倒立した異常な事態ではないでしょうか。『チベット死者の書』は、死を当たり前のこととする"倒立した死"の正反対の立場で死を見つめています。

高貴なる生まれの者よ。死が訪れました。この世を去るのはあなた一人ではありません。死は誰にでも起こるのです。この世に望みや執着をもってはなりません。

    『チベット死者の書』

 死をタブー化し隠すようになった現象の背景の一つは、この数10年で、死に場所が激変したことです。厚生省のまとめた統計によると、昭和25(1950)年には日本人の88.9パーセントが自宅・その他で死亡しています。

 その比率が逆転したのが、昭和52(1977)年で、病院・診療所で死亡した人は50.6パーセントにのぼりました。そして平成3(1991)年には、75.9パーセントの人が病院・診療所で死亡しています(厚生省大臣官房統計情報部編『人口動態統計』)

 これは世界共通の傾向です。アメリカのニューヨーク州では、日本よりはるかに早く、1967年には死亡の75パーセントが、病院もしくはそれに類する施設で発生しています。

丸山圭三郎の著書によれば、フィリップ・アリエスは講演でこの現代社会の傾向をこう語っています。

「人はもはや、わが家で、家族の者たちにかこまれて死んでいくのではなく、病院で、しか もひとりで死ぬのです。()今では治るためではなく、まさに死ぬために病院に来るように なっている、あるいはこれからそうなっていくでしょう」

(フィリップ・アリエスの講演「タブー視される死」)

   (丸山圭三郎『生の円還運動』)

 自宅で死ぬことがなくなると同時に、自宅で生まれることもなくなってきました。同じ厚生省の統計によると、昭和25(1950)年には日本人の95.4パーセントが自宅・その他で出産していました。

その比率が逆転したのが昭和35(1960)年で、病院もしくはそれに類する施設での出産は、50.1パーセントにのぼりました。そして平成3(1991)年には、その率は99.9パーセントになっています。

私たち20世紀の最後に生きるものとして、ゴーガンの問いに少なくとも、こう答えられるのではないでしょうか。

 "われわれは病院から来て、病院へ行く"これが私たちの生きる時代なのです。

 

死の旅への案内書

実体のない空なる心と生命の光り輝く光明……これが一体となって大きな光の集積を形成しています。ここは不滅で生も死もありません。

『チベット死者の書』

 『チベット死者の書』は、チベット語で書かれた経典を、アメリカの人類学者が英語に翻訳するときにつけた題名に由来しています。しかし、チベット語の原題『バルド・トドゥル』の意味している内容はすこし違い、そのなかに生と死に関する深遠な考え方がこめられていました。

 この経典は、死に臨む人の耳元で死の直前から始めて、死後49日間にわたって、えんえんと語り聞かせる物語なのです。チベット語の"バルド"は中間の状態を表わし、"トドゥル"は耳で聞いて解脱するというような意味を持っています。

 この経典の持つ最も大切な考え方は、"バルド"という言葉に表われています。『バルド・トドゥル』では、人は死ぬと、"バルド"という別の状態に入ってゆくのだと説明しています。"バルド"は中間つまり途中という意味ですから、死は終わりではなく一つのプロセスにすぎないという考え方でしょう。人がそれぞれの身体をもって生きているのも一つの過渡的な状態で、生と死をくりかえす大きな旅の途中なのだと説いているのです。

 

『チベット死者の書』の与えてくれる答え

 日本人には、『方丈記』――ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず――や、『奥の細道』――月日は百代の過客――など、人生が旅のようなものだという自然な感情があったようです。人が生まれて、人生を過ごし死んでゆくことが、一つの連なりのなかでイメージされていたのではないでしょうか。

 『バルド・トドゥル』には、死後の世界が時間を追って具体的に描かれていますが、読み進めているうちにいつのまにか、再生して生まれ変わるための心得になっています。『バルド・トドゥル』は、「人は死後どこへ行くのか」という大きな問いに答えながら、同時に「人はどこから来たのか」という問いにも答えているのです。人間の生命が太陽が沈んでもまだ上るように、連続し循環する運動のようにとらえられているのでしょう。

"バルド"の考え方は、生と死というように、ものごとを明確に分けて分析しようとするものではありません。好きか嫌いか? 白か黒か? 男か女か?・・・何事もはっきり区別しないと気がすまないのが、私たちの社会の特徴ですが、生命の営みはそのような区別ができないものではないでしょうか。たとえば光と闇が混ざり合ってさまざまな色彩が生じるように、生命とは生まれた瞬間から死へ向かって歩きだし、お互いがお互いを包み込み、複雑に混ざり合う営みではないでしょうか。"バルド"という中間的状態は、生と死を二項対立と考えるのではなく、生と死の境界を取りはらい、生命の秘密を示唆する考え方ではないでしょうか。

『チベット死者の書』の答えは、人はバルドからこの世に誕生し、死後再びバルドヘ帰ってゆく永遠の生命の流れのなかにいる、というものなのです。

    現代はあらゆる面において、「境界」ということが大きい問題となりつつあると考えられる。

    ――中略――

    現代人が有力な武器とする、明確にものごとを区別する考え方に対する反逆として、境界例が出現してきた。

  (河合隼雄『生と死の接点』)

 

 

 

第2章  時代が必要とする知――埋蔵経の発見

 

埋蔵経の不思議

この経典はパドマサムバヴァ(蓮華生)がお作りになり、ツォギェルが記憶し、書写して、埋蔵したものであるが、のちにカルマリンパが聖なるガムポリ山より発見してこの世にもたらしたのであります。

『チベット死者の書』

『チベット死者の書』は、いかにもチベットらしい神秘的な伝承に包まれた経典です。チベット密教には埋蔵経(テルマ)とよばれる膨大な文献があり、長い間、山中の洞窟などに隠されているという伝承があります。そして神託や霊感を受けた超能力者の修行者(テルトン)が、時代に応じてその経典を発見するというのです。

 奥書によれば、『バルド・トドゥル(チベット死者の害)』は、紀元8、9世紀に、インドの僧パドマサムバヴァが著わした経典とされています。パドマサムバヴァはチベット仏教の開祖で、現在でも篤い信仰を集めるチベットにおける弘法大師のような存在でした。

 『バルド・トドゥル』は、さる山中に秘められていたのを、パドマサムバヴァの五回目の再生者であるカルマリンパという修行者がガムポリ山から発見したと伝えられています。カルマリンパは、14、5世紀の神通力を備えた持明者(リクジン)でした。

 この埋蔵経の伝承は、現在も生きています。今後も、どこか山中に隠され秘められた聖なる知(経典)が、発見される可能性があるわけです。チベット密教の伝統のなかには、常に新しい創造を生み出す活力が眠っているのです。しかし、それは個人的な創作ではなく、伝統的な流れのなかから、時代が必要とする新しい知をすくいだしつかみ取る行為なのです。

この特異な書物は、有史以前何世紀にもわたるチベットの賢人たちの教えを編集したもので、有史時代の初めまでは口伝によって伝えられていた。紀元8世紀になってようやく書き記されたことははっきりしているが、依然として外部にぼ秘密にきれていた。

   (レイモンド・A・ムーディ・Jr『かいまみた死後の世界』)  

 日本は、大乗仏教国です。ゴータマ・ブッダの死後百年程たって、仏教は上座部と大衆部の系統の教団として発展してゆきました。紀元前3世紀のアショーカ王の時代には、インド全域だけではなく周辺の国々にも広がり、それぞれの土地で仏教を中心とした文化が花ひらきます。この時代にはブッダの言葉を絶対視し、維持することが教団の最大の目的となってゆきます。経典の解釈をめぐって精緻な議論が発展し、法と法との関係や、戒律の条文の言葉を固定するといった仕事が長老を中心に進められ、アビダルマの哲学が完成します。しかし、アビダルマ哲学は、仏教学者の長尾雅人博士の言葉を借りれば、"仏教のスコラ哲学化"といった傾向を持っていました。こうした一種の守旧保守におちいった仏教に、澄刺とした精神をふきこんだのが、大乗仏教(マハーヤーナ)の発展でした。興味深いのは、この大乗仏教の発生そのものに、チベット密教に生きている埋蔵経的な考え方が流れていることです。

 

発揚された大乗仏教の経典

 天台宗や日蓮宗は『法華経』を根拠とし、華厳宗は『華厳経』、涅槃家は『涅槃経』、浄土宗や浄土真宗は『大無量寿経』、宗派をこえて『般若心経』と日本の仏教はすべてが大乗仏教の経典を根本においています。しかしこれらの経典は、いつ、だれによって書かれたのでしょうか?

 ふつう、仏教の経典は、すべて「仏説」と考えられ信奉されてきました。『法華経』も『般若心経』も例外ではありません。しかし、明らかにプツダ個人は、大乗経典には関わっていません。歴史的に見ても大乗経典の成立は、ブッダの言葉を編集した原始仏典より何世紀も後です。このことから、大乗経典は偽書であるという「大乗非仏説」の議論が、中国でも日本でも何回も起こりました。つまり経典の厳格な解釈と形式を重んじる教派では、大乗経典は「仏説」ではなく偽の経典ということになってしまいます。

 ところが、一種の宗教改革として成立した大乗仏教は、経典はブッダの時代のものだが、新しく発見されたものだという、一種の「埋蔵経」の伝説をつかって説明するのです。形式的で硬直化した既成集団に対して、改革派として登場した大乗仏教側が生み出したロジックです。この背景には、新しい哲学を創造してゆく側の熱気がありました。

この大乗という崇高な教えを、仏陀でなくてだれがいったい説きえようか。

     『大乗荘厳経典』成宗品第二

(「仏教の思想と歴史」長尾雅人編『大乗仏典』)

 ここには、ブッダの説であるからこそ真の教えなのではなく、大乗が真の教えであるからこそ、「仏説」であるという大乗教徒の誇りが感じられます。紀元3世紀からの2〜300年間は、仏教史上の第2の黄金時代ともいわれ、中観学派をひらいたナーガールジュナ(龍樹)や唯識学派をひらいたヴァスバントゥ(世親)らを輩出しています。ナーガールジュナには、彼自身が埋蔵経発掘者(テルトン)であったという伝説があります。

ナーガールジュナ(龍樹)は、南インドのバラモンの家に生まれた。シナに伝 えられた伝説によれば、彼は若くしてあらゆる学問を学び、このうえは、人生の歓喜を求める にしかずとして、友人三人とともに隠身の術を身につけた。かくて人に姿を見られないまま、 自由に王の後宮にはいり、美女たちに近づき、彼女たちを懐妊せしめた。このことが王に知 れて、三人の友人は斬り殺され、彼も危うく命を落としそうになる。「愛欲は苦のもと」であることをはじめて悟って、一転、仏教に帰して比丘となったという。――中略――各国をへめぐったのち、大竜菩薩というものに会う。これは竜であって、彼を海中の竜宮につれて行き、そこで『般若経』などの無数の大乗経典を彼に授与する。つまりナーガールジュナは、大乗経典の発掘者なのである。

                                   (長尾雅人編『大乗仏典』)

 

  西洋世界からのテルトン(発掘者)

 『バルド・トドウル』は、西洋社会からの発掘者ともいえるエバンス・ヴェソツが発見しなければ、チベットの社会からも特殊な死者儀礼の経典として、いつかは忘れられてゆくものでした。しかし、人類学者エバンス・ヴェソツは、偶然『バルド・トドゥル』の古い写本をインドで手に入れ、その価値を認め翻訳しました。1927年、英訳本がオックスフォード大学出版局から出版されて以来、さまざまな言葉に翻訳され、今なお世界中の書店でロングセラーを続けています。

 これはとても不思議なことです。たとえば、日本の中世の当時でさえ一部の人しか手にすることがないような、神道の専門的な死者儀礼のマニュアルが、世界中の書店にならんでいるのと同じような現象だからです。

 しかも、この『チベット死者の書』は、のちに欧米では何回も大ブームにさえなっているのです。ちょうど埋蔵経が発掘者が現われなければ、山中に埋もれたままで世のなかに出ないように、『チベット死者の書』はヴェンツという発掘者(テルトン)がいて初めて、現代世界に発見されたのです。

『死者の書』は、あきらかに西洋世界でもっともよく知られたチベットの宗教文書である。1928年に英訳、刊行されたこの書は、とくに1960年以降、たいへん多くの若者たちにとっての一種の枕頭の書となった。この現象は、現代西洋の霊性史、精神史にとって重要な意味をもっている。『死者の書』は、他のどんな宗教分県にも類例のない、深遠、難解な文書で ある。この書が引き起こした、それも心理学者や歴史家や芸術家ばかりでなくもっぱら若者たちのあいだに喚起した関心は、ある兆候を示している。それは、現代の西洋社会では死がほとんど全面的に脱聖化してしまっていること、そして、人間の実存をまさに疑問に付したままで終結させるこの死という行為を――示教的にであれ哲学的にであれ――再び価値づけようとする激しい欲求のあることを同時に示しているのである。

(ミルチア・エリアーデ『世界宗教史3』)

 エバンス・ヴェンツは、世紀末の時代を生きた人でした。1878年、アメリカのニュージャージー州に生まれ、カリフォルニア州で育ちます。彼はクエーカー教徒だった母親の影響で、聖書を読みふけるような少年時代をすごし、キリスト教に大きく傾倒していたのですが、アメリカ西部の保守的な教会には反発を感じたようでした。彼の精神的な旅は、キリスト教のなかでも東方的なネクトリウス派や、異端とされたさまざまな宗派に向かっていったようです。

 

  ヴェンツの追い求めた再生の秘密

 世紀末から20世紀にかけて、ヨーロッパの人々は世界を変えてゆこうとする総合的な精神運動の流れを作っていました。古い政治体制を変え、音楽や絵画をふくめた文化の新しい形態を探し求めてゆくのです。そのなかで、精神の新しい領域を発見しようという運動の一つに、ロシア移民のマダム・ブラヴァツキーを中心に設立された神智学協会がありました。

 人間の再生の観念にとりつかれていたヴェンツは、再生をテーマにしていた神智学協会の書物を読みあり、次第にその神秘主義的な傾向にひかれてゆきます。

 マダム・ブラヴァツキーはインドに長期間滞在し、ヒマラヤ・チベットの奥地に住むというマハトマとのテレパシーの交信に成功したといいます。この交信は次第に物質のかたちをとるようになり、マハトマ・レターとして、チベット密教の神髄だと考えられてゆきました。このマハトマとの通信を集大成したものが、有名な「霊界通信」というオカルト的な密教教義です。

 このように東洋的な思想、とりわけインドやチベットの神秘的な英知は、当時のヨーロッパの人々の憧れの対象となっていました。若いヴェンツは、そのような時代の空気に強い影響を受けたのです。

 スタンフォード大学を卒業したヴェンツは、父親の稼業の不動産業をつきましたが、平凡な職業にあきたらず、サンディエゴの神智学協会に足を向けました。そこで、オックスフォードで学ぶことをアドバイスされたのです。当時の東洋学の中心はイギリスでした。彼はオックスフォードのジーザス・カレッジに入学し、人類学を専攻し、非ヨーロッパ文明の精神世界の探究に没頭するようになりました。キリスト教世界の周辺で切り捨てられていった生成を信じる古代文明を研究し、1911年に初めての論文をまとめます。

再生は、現代の科学では論じることができない次元のもの。しかし、数世紀前には馬鹿げたことだと思われていたことが、現代科学では照明されているのだから、キリスト教の論理と科学的見地から抹殺されたことも、将来は事実として認められる時代がくるだろう。

                   (エバンス・ヴェンツ 『ケルト文化における妖精信仰』)

 ジーザス・カレッジを卒業したヴェンツは、生と死の探究に独特の文明を持つエジプトに調査に行っています。その目的の一つに、エジプトの、「死者の書」にある再生の神話の探究がありました。このエジプトで第一次世界大戦が勃発し、彼は3年を過ごし、オックスフォード時代の友人であったTE・ローレンス大佐と再会します。のちにトルコからのアラブ解放者として有名になる、アラビアのローレンスその人でした。ヴェンツはローレンスの協力でエジプトからの出国とセイロン(スリランカ)、インドヘの入国査証を手にいれ、1917年にエジプトからセイロンに向けての船旅に出ます。ヴェンツが『チベット死者の書』に出合うまでには、いくつかの運命の糸に導かれているようです。

 

『チベット死者の書』との出合い

 インドでの目的地は2つありました。神智学協会の国際本部があったマドラス郊外のアドラーと、インドで最もチベット人が多く住み、仏教寺院も多いダージリン地方です。彼がセイロンからインド各地を放浪し、ダージリンに到着したのは1919年でした。放浪中にスワミ・サトヤナンダというヒンドゥーのサトウ(行者)に師事し、ヨーガの修行も経験しています。ヴェンツは、ダージリンの下町のバザールヘしばしば出かけました。

 当時のダージリンは、鎖国状態をつづけていたチベットヘの西洋社会からの唯一の通路でした。中国、ロシア、イギリスの列強がチベットをめぐって鎬を削る国際政治の舞台でもあったのです。人の移動も多く、思いがけない秘蔵品がバザールに出回ることがありました。ヴェンツはまだチベット話がわかりませんでしたが、目についたチベットの書物をたくさん買い込んでゆきます。いくつもの重要な経典が汽まれていましたが、古びた『バルド・トドゥル』の写本も、そのなかの一冊でした。

 ヴェンツは英国行政官の伝を通じて、これらの古い書物を一緒に翻訳してくれる相手を探しました。紹介されたのは、シッキムの首都とガントクにある「チベット少年学校」の校長先生カジ・ダフ・サムトップというラマ僧です。サムトップは以前にも翻訳の仕事を経験し、英語=チベット語辞典を手がけていました。ヴェンツが持ちこんだテルマ(埋蔵経)の山は、サムトップにとっても興味深いものでした。

 二人は先駆者としての自覚をもち、憑かれたように翻訳に没頭しました。このなかには、チベット宗教思想を理解するためには欠かせない『ナーローパの六法』『マハームドラー(大印の秘法)』なども含まれていましたが、なんといってもヴェンツを虜にしたのが、死と再生を叙述している『バルド・トドゥル』でした。

 サムトップは英語の達人でしたし、深い知識を持った学者でもありましたが、『バルド・トドゥル』の内容には、高度な哲学と同時にチベット密教の修行を通してしか理解できない体験的知識も含まれています。そのために、単なる字句の翻訳だけでは不充分でした。書物の表面には書いていない深い意味について理解するためには、チベット密教の特徴である口伝による伝承が必要になります。その意味では、ヴェンツの仕事は『バルド・トドゥル』を、完全に欧米社会に伝えたとはいいがたい面もあります。

 しかし、参照できるチベット仏教の文献もない時代に、再生への関心と密教の知恵への情熱で、"先駆者としては最高のことを成し遂げた(ラマ・ゴビンダ)〃といえるのではないでしょうか。むしろ、私はヴェンツの埋蔵経発掘者(テルトン)としての役割に注目したいと思います。

1927年にオックスフォード大学出版局から初版が出版されると、ヨーロッパ思想界にたちまち大きな反響を及ぼしました。特に心理学者のユングが、この書物に出合ったことが、現代思想にとって極めて深い意義をもつことになります。ユングは『チベット死者の書』に、自分が考えてきた人間の魂の在り方の姿と、本質的な共通点を発見して感激してしまうのです。

 

『チベット死者の書』とユングの出合い

この書は、大乗仏教の専門家たちの注意をひいたぱかりでなく、その教えの深い人間味と、たましいの神秘に対する深い洞察によって、人生についての知恵を深めることを求めた一般者にも、つよく訴えたのであった。その出版の年以来、何年も、バルド・ナドルは私の変らぬ同伴者であった。私はこの書から多くの刺激や知識を与えられたばかりでなく、多くの根本的洞察をも教えられた。

 (CG・ユング「チベットの死者の書の心理学」『東洋的瞑想の心理学』)

 20世紀は、宗教とは別の科学的方法で魂の探究が始まった世紀でした。フロイトは意識の根底や背景を、精神分析という手段で明らかにしようとしていました。精神分析学は、性的な欲望や、誕生時の経験などを手がかりにして、意識の下に隠されている本能の領域を探ろうとした最初の試みでした。しかし、無意識の領域は、本能や欲望といった生物的前提だけでとらえられるでしょうか。

 フロイトは人間の無意識をあらためて発見しましたが、基本的には、実験と合理性といった自然科学的なアプローチをとっていました。一方、フロイトとは別の方法で、人間の魂を求めていたのがユングでした。彼は、キリスト教精神や科学的合理主義を背景にするヨーロッパ精神とは別の精神性の新たな泉を探し求めていたのです。

 ユングはグノーシスのキリスト教や、中国の道教的伝統をはじめ、さまざまな文明の生み出した神話や伝説を研究していました。ですから、ヴェンツの『チベット死者の書』に出合ったときには、フロイトの研究を越えるヒントを発見し、興奮と感動を覚えたのです。

「もしも男性として生まれ変わる場合には、愛を交わす父母の父に対しては激しい怒りを、母に対しては嫉妬と欲望を感じるでしょう。もしも女性として生まれ変わる場合には、愛を交わす父母の母に対して激しいねたみと嫉妬を、父に対しては激しい欲望と情熱を感じるでしょう」

               『チベット死者の書』)

 ここに書かれた表現には驚かされます。フロイトが、深層心理にある人間の欲望で普段は抑えられていると説明したエディプス・コンプレックスそのものの記述です。しかし『チベット死者の書』では、この魂の状態は、死者がたどる最後の段階であるシバ・バルド(再生のバルド)なのです。

ユングは「チベットの死者の書の心理学」のなかで、この死の直後から再生までの49日間を、逆に読むことを勧めています。このようにすることて、フロイトによって探究された本能的な魂の領域から浄化され、天上にいたる魂の秘密が、読み取れると直感したのでした。『バルド・トドゥル』の背景には、仏教の無意識への深い思索の蓄積があります。ユングは次のように述べています。

このようにフロイトの精神分析は、基本的にシトドハ・バルドの領域の諸経験をこえていない。 つまり、不安やその他の情動的興奮をひき起す性的ファンタジーや、これと似た、意識に「受けいれがたい」諸傾向を発見する段階にとどまっているのである。――中略――生物学的前提だけで無意識の領域に進人する者は、本能の領域にはまりこんでしまうために、それをのりこえることはできず、ただくりかえし肉体的な生の次元へと引き戻されてしまうだけなのである。したがってフロイト理論は、無意識というものに対してまったく否定的な評価を下すほかはないのである。――中略――魂についてのフロイトの見方は典型的に西洋的なものであり、ただそれを、他の人びとよりもあからさまに、歯に衣着せず、容赦なく、無情に表明しているまでである。――中略―― 西洋の合理的精神は、精神分析学の助けをかりて、神経症的シドパの状態ともいうべき心の領域に入りこんだ。しかしそれは、心理的なものはすべて主観的で個人的なものにすぎない、という無批判な前提に立っているため、その領域で、さけがたい手詰り状態におちいっているのである。――中略――もしわれわれが、西洋の新しい経験科学の助けをかりて、シドパ・バルドの心理学的特性をいくらかでも理解することができたとすれば、われわれの次の課題は、シドバに先立つチェニィド・バルドについて考えてゆくことである。

CG・ユング「チベットの死者の書の心理学」『東洋的瞑想の心理学』

 

 

 

第10章  科学と仏教の出合 

 

 現代物理学の最先端とみなされるホーキング=佐藤の宇宙論にしても、『旧約聖書』の「創世記」の7日間を科学言語で説明したのち、今や『般若心経」の世界へと立ち戻ったように思えないこともない。――中略――現在では、宇宙も素粒子と同様に「有と無のゆらぎ」から証生する。科学が『般若心経」の「照見五蘊皆空、色不異空、空不異色、是諸法空相」の境地にやっと達した。

(丸山圭三郎『生の円環運動』)

 

実体から関係へ、物質から縁起へ

 第1章で「科学の知」と「神話の知」が分裂してしまい、科学万能になった現代社会のアキレス腱は死の問題だと書きました。しかし、21世紀に向けて、この2つの知が統合できるような、「第3の知」への模索も始まっています。

 「科学の知」は、17世紀以降に物理学、とりわけ古典力学をモデルとしてでき上がってきました。その中心になるのがニュートンの数学と力学、デカルトの主客二元論、べーコンによる科学方法論でした。この世界観は独立した物質をすべての存在の基と考え、人間がいようがいまいが関係なく、その物質は実在するというものです。ニュートンの古典力学で表わされた宇宙は、すべての星の位置と運動は数式によって表わされ、過去から未来までを完全に決定し予測できるとしています。宇宙を含めた自然は、どんなに複雑に見えても、それを構成する基本的な部分に還元でき、それらが組み合わさって一種の精密機械のような運動をつづけていると考えたのです。

 このモデルは、すべてに応用が可能でした。経済、心理学、社会学、医学などあらゆる分野の学門が"科学的"と自称するときには、出典力学のモデルを応用しているといっていいでしょう。すべての対象を客観的に観察し、部分に分けて分析・数量化し、そこから仮説を立てて、普遍的な法則(真理)を導く"帰納法"が絶対の方法論になりました。こうして導かれた法則は、実験によって証明されることで完全になります。人間の知性の勝利と考えられました。

 

「第三の知」への模索

 "帰納法"は、頭のなかで考え出した理論から出発するのではなく、事実の客観的な観察から仮説を作り、これを検証しつつ一般的な法則を発見する方法です。では、その基礎にある客観的事実とはなんでしょうか。この客観的事実に対する疑問が、20世紀の物理学の内部から出てきたのです。

 ミクロの物質の性質を研究する量子力学からは、物質は独立したものとして確定的にはとらえきれないもので(ハイゼンベルグの不確定性原理)、物質は客観的に実在するのではなく、それを観察する人間の存在と分けられないことがわかってきたのです(観察問題)

 また、アインシュタインの相対性理論からは、時間と空間は一体で切り離すことができないことが明らかになったのです。こうして、ニュートンの機械的な宇宙モデルは否定されたのです。

 さらに、全体を部分に分けて観察することが、実は自然を正しく把握していないのではないかという疑問が起こってきました。全人的医療では、心と身体を切り離す医療に対する疑問が出され、ガイア仮説では地球の大気と生物界は有機的に結びついていると考えます。「科学の知」の出発点にあった独立して実在する物質という前提が揺らぐとともに、最新の科学では、物質の実体よりは、その結びつきや関係そのもののなかに本質があると考える方向が生まれてきたのです。

 このような考え方は、私たちが見てきた『チベット死者の書』、ひいてはその基礎にあるナーガルジュナが完成した中観派の「無の哲学」の底にあったものではないでしょうか。『チベット死者の書』では、意識主体を離れた客観的な実在はないとくりかえしています。さらに色即空(物質的実在は、実体がない空なる存在)というように、実体性なんかないのだと説くだけではなく、普通に実体と考えられるものは、実は「縁起」で、それは関係性なのだと考えてきました。仏教の縁起論によれば、一人の人間が今ここにいるのは、さまざまな業(カルマ)の結果ですし、現在の行為が新しいカルマを作って未来につながってゆきます。宇宙に存在するあらゆる物質は、独立してバラバラに機械の部品のように存在するのではなく、すべてがお互いに関係しあった事象の織りなす調和なのだと考えたのです。

 この流れは、哲学の図式でいえば、デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」(『方法序説』)という言葉に示される西洋の有の哲学から、東洋の無の哲学へともいえるのではないでしょうか。

《これらの存在はすべて幻影のようなものです。どんなに見えても存在しないものなのです。――中略―-実在しないものがあるように見えているのです。これらはすべて、私自身の投影されたもので、心それ自体に実体がないようにもともと存在しないものなのです》 ――中略――このように心底から、確かな信念を持つのなら、胎の入口は閉ざされるでしょう。

                                   『チベット死者の書』

 「科学の知」は目に見える物質や現象から出発し、物質によって成り立つ現実を、客観的な事実として認めることから発展してきました。しかし「神話の知」の多くは、目に見える現象はそれを成り立たせる根本的な原理の現われにすぎないと考えてきました。むしろ、その「事実」を生み出す、生成する原理に重点を置いてきたのです。

 この二つの知の橋渡しができるのは、「死」の問題ではないでしょうか。一方では、物質としての肉体の機能が停止するという、極めでわかりやすい事実があります。しかし、その事実は「死」の問題のすべてではありません。「死」、すなわち人間の「生」という現実を成り立たせている原理とは何でしょうか。

 21世紀の新しい思想の可能性を探すためには、かつてのルネサンスにおいてギリシア思想が再発見され読み直されたように、過去の人間文化を形成したもう一つの大きな潮流である東洋思想の読み直しが必要になるのではないでしょうか。私たちは、いつまでも、肉体と精神を分裂させたままにしておくことはできないのではないでしょうか。

 

空の哲学

 80年代になって、人類は大きな転換期を迎えました。地球規模の環境問題、政治経済のパラダイム・シフト、コンピューターや通信技術などによる情報革命、倫理や思想の枯渇など、旧来のモデルではこの危機は解決できないことがわかってきたからです。科学者のなかからも、自然科学を基礎づけてきた客観性や物質の実在性を疑うことからスタートする人たちが出てきました。

 アメリカの量子物理学者ルドルフ・パイエルフは、観測する人間を離れて独立の客観的実在はない。人間の知識が、物理にとって重要な役割をもっていると述べています。

 ノーベル物理学賞を受賞したイギリスのブライアン・ジョセフソンは、物質より前に精神が存在しているほうが、より明確な理論モデルを作りうると考えています。

 共通しているのは、人間には心や意識があって、それが物質世界と無関係に存在しているのではなく、お互いに影響しあっていることを認めていることです。ヨーロッパ原子核共同研究所のJS・ベル教授もこう語っています。

 「私にとって最も重要なものは、私自身の意識の中身であり、それだけが私が本当に確信できるものです。いつかは科学がそれをとらえる日もくるでしょう。しかし、私は現代科学がそこまで到達したとは思えません」

 アメリカのチベット密教の中心となった、コロラド州ボルダーのチョギャム・トゥルンパ・リンポチェのもとで、瞑想を十年以上実践した気鋭の科学者がいます。新しい認知科学のパラダイムを打ち立てたフランシスコ・J・ヴァレラです。ヴァレラは人間の知覚がいかにあやふやなものかをさまざまに実証してゆきます。そのことで、客観的かつ普遍的な世界など、どこにも存在していないのだと語ります。

 ヴァレラは、古典力学的な客観主義でもなく、幻想的な主観主義(すべては心の投影だというような・・・)でもない、第三の道を目指しています。これは科学の分野では、新しい考えですが、インドやチベットでは昔から知られた大乗仏教の「空の哲学(マティヤミカ)」で、その理解には瞑想の経験が必要だったと語っています。

この認知科学の現行パラダイムは、端的にいえば、「情報処理」に基づくものといえるだろう。その基本となる考えは、一つの世界、一つのリアルな世界が存在し、そこにはそれぞれの 特性をそなえた対象がある。そして、このような特性はもともとそこに存在しており、だれか がその情報を拾い上げて神経系に入力してくれるのを待っている、といったものだ。それゆえ、 知覚とは処理であり、それによって対象と対象のもつ特性が「再表現」されて、われわれはそれなりの行動を起こすのだとされる。このような基本的パラダイムの根底には、一つの考えが潜んでいる。つまり、再表現という考え認識とは、どんなに洗練されていようと、本質的に鏡像にすぎないという考えである。

  ――中略――

私から見れば、従末の理論はデカルト的不安におびえてつくられたものだ。ここで私は、不安という言葉を幾分、フロイト的な意味で用いている。デカルト的不安とは次のようなものだ。 堅固で不変な客観的認識基礎を捜し出すか、混沌と無秩序の支配する闇の世界に溺れるか、ニ者択一の罠にはまって感じる不安だ。

――中略――

ここで私が提示したい考えは「中道」と呼ぶのがもっともふさわしいものだからである。 私はこういいたい。この根源的な不安を、本質として認めようではないか。しかし、今世紀にわれわれがやってきたように、基礎となる地平が見つけられるかのように患い込むのはよそう。 内にであろうと外にであろうと、確固たる認識基礎を見つける望みは捨てることだ。しかしだ からといって、不鮮明な相対主義に陥るわけではない。多分よく見れば、二者択一を超える中道のアプローチが見つかるはずだ。比喩的にいうなら、私はわれわれの認識モデルから、デカルト的不安という悪霊を追い払いたいのである。 認知科学の将来は、どうあるべきだろうか? 少なくとも、今までやってきたように、われわれはいかにして世界の再表現を打っているのか、という問題設定は捨てなければならない。 同時に、われわれの知覚する世界を、精神が勝手につくりだした創作と見る理解もおかしい。 私の考えをいおう。認識というものはカップリング(交接)の歴史であり、それが世界を生み 出すのである。もちろんこのように述べても、まだうまく理解できないだろうが、その意味は 徐々にわかっていただけると思う。ここでは、このことを心にとどめておくだけで十分である。 別の言い方をすれば、知るものと知られるものは相互規定的、もしくは相互依存的発生の円 環で結ばれているということだ。ABゆえに発生し、BAゆえに発生する……相互依存的発生。言い換えれば、参照先などどこにもないということである。

   (フランシスコ・J・ヴァレラ「知覚と人工知能」河合隼雄、吉福伸逸編『宇宙意識への接近』)

 ヴァレラは個人的な動機で瞑想修行を始めて数年たってから、トゥルンパ師に勧められ仏教の伝統を学びはじめました。そしてヴァレラの考え方に、非常に示唆を与える哲学があることを直感したといいます。

 彼はアメリカで医学哲学の研究をつづけていた長谷川敏彦氏のインタビューに、このように答えています。

仏教の中には今日の極端な客観主義と相対的主観主義の間の劇的な哲学的対立を解決する鍵が存在するからです。()の思想、(中観派)の伝統の中には新しい科ル学や研究を必要とするこの現在の歴史的な時点において、このような状況を乗り越えるための実験の経験があるのです。

                           (長谷川敏彦『理想』1985年12月号

現代科学の常識を越えたヨーガ

 それでは、仏教側からは近代科学をどのように見ているのでしょうか。科学者の側からすれば、チベット密教の神秘的な瞑想や超能力に、懐疑心も含めて関心があったようです。ダライ・ラマが1979年に訪米した際、ハーバード大学医学部ハーバト・ベンソン博士は、チベットの僧侶の瞑想状態に科学のメスを入れたいと申し出ました。この研究に、現代科学を評価しているダライ・ラマ自身が応じたのです。

 ダライ・ラマの決断で、特別な「タントラ・ヨーガ」の一つである「ツンモ・ヨーガ」の実験がインドのダラムサラやラダックの僧院で行なわれました。このヨーガは、「ナー口ーパの六法」の一つ(ポワもそのなかの一つ)に入っている秘儀です。

 ハーバート・ベンソンは、現代医学の問題点を最も的確に指摘している医学者の一人です。彼は日頃から、現代西洋医学の最大の弱点は、精神と身体を切り離すことができるという仮説にあるのだと主張してきたのです。そのベンソンの主張の裏づけとして、チベットの修行者の意識と肉体の科学的研究は、意識がどのように肉体をコントロールしているかを証明できる興味深い例でした。

 実験は、数々の成果をとげて『ネイチャー』などの科学雑誌にも大きく取り上げられました。まだ現代の生理学の常識では説明できない現象が起こったのです。ダライ・ラマは、次のように記しています。

仏教的教義では意識にはいくつもの次元がある。低い次元の意識は、触覚、視覚、嗅覚その他の普通の知覚に属し、より微妙なそれは、死の瞬間においてとらえられるものである。"ントラ密教"の目的の一つは、行者をして死を"経験"させることであり、そこから最も深い 精神的認識が生じてくるのだ。 意識の低い次元が抑制されるとき、新しい生理学的現象が観察される。ベンソン博士の実験では、華氏18度(摂氏10度)の体温上昇(直腸の体内温度と皮膚体温)も観察された。こ の上昇によって行者僧のシーツが乾き、氷点下のなかで冷水に浸したその布を体に巻きつけて もなんともなかった。ベンソン博士はまた、裸で雪中に坐している僧たちの体温を同じように測定したところ同じ結果を得、一晩中その状態にあっても体温はまったく下がらなかったことを確認している。この間、行者の酸素吸入量は減り、一分間約七回の呼吸しかしなかった。 われわれの人体上の知識ではそれがどうして起こるのかまだ十分な解明ができていない。ベ ンソン博士は、精神的働きで、行者はこれまで冬眠動物にだけ限られると思われていた現象、すなわら、体内の"皮下脂肪"を燃焼させていたのではないかと信じている。どのような仕掛けか働いていたにしろ、わたしがいちばん面白いと思うのは、現代科学がティベット文化から 学ぶものがまだあるということである。

            (ダライ・ラマ『ダライ・ラマ自伝』)

ダライ・ラマは、新しい第3の道のために、現代科学とチベット文化の対話が必要だと考えています。やはり2500年以上も、人間の幸福を追求してきた仏教の英知は、新しい見直しの時期にきているのではないでしょうか。

 

 

 

第13章ダライ・ラマの叡智

 

チベット亡命政府ダラムサラ

 インド北部のヒマチャル・プラディッシュ州の高地に、チベット亡命政府が置かれている町ダラムサラがあります。雪を被った高山を目の前におよそ七千人のチベット人が、ダライ・ラマとともに住んでいます。町といってもほとんど平地はなく、山全体をまるで砦のように開拓して、細い道を張り巡らした不思議な雰囲気の場所でした。チベット人にとっては、ダライ・ラマの住む聖地であり、独立の日までの仮の宿であり、チベット最高の学校と寺院がある精神的な中心地でもあります。町の中心、マクロード・ガンジーを一歩入った裏道には、難民のための大きな無料宿泊所がありました。現在でもチベットからバスを乗り継いだり、徒歩で山を越えたりして大量の難民がダラムサラを目指してやってきます。ダライ・ラマに会見して祝福を与えられる喜びが、彼らの苦難の支えになっているのです。

 インド政府が、ダライ・ラマとチベット難民に、この標高1800メートルの土地を提供したのは1960年春でした。時のインド首相ネールは、中国との友好関係を維持するために、チベット亡命政府を政治的には承認しませんでした。しかし、人道的な意味の援助は惜しまず、チベット難民に北インドの道路建設の仕事を与えたり、数か所の土地も提供しています。

 とりわけネール首相は、子供たちの教育には愛情を示しました。「ダライ・ラマ自伝」によれば、ネールは、ダライ・ラマにこのように語っています。

「自分が関与するかぎり、あなた方は当分の間お客であり、その子供たちはあなた方のいち ばん大切な宝だと思う。だから子供たちには十分な教育を施し、ティペット文化を保持してゆ くために、難民の子供のための学校を作り、インド教育省内で独立したティペット教育協会を 設けよう。そして学校設立の全費用はインド政府が負担しよう」

 ダラムサラは、イギリス統治時代には地方行政府が置かれ、避暑地的な性格の町でした。北には壮大な山々が見わたせ、南にはインドの大地が広がっています。ここを拠点にダライ・ラマは世界中を行脚して、仏教の思想を伝えつづけています。とくに"世界の平和は心の平和を達成することによってのみ真に訪れる"というメッセージは、冷戦後の世界の思想のなかで大きな流れになりつつあるのではないでしょうか。

 ダライ.ラマとの会見は、時間が限定されました。一か月間の瞑想があけたところで、その間は公務からはなれていたために極めて多忙で、しかも数日後に、ヤンマーのアウン・サン・スー・チー女史を支援する会合のためにタイ国へ出かける予定でした。

 しかし、私たちはダライ・ラマの独特の笑顔で出迎えられ、そして、一人一人に視線を止めて真っすぐ見つめられました。心のなかを覗き込まれるような強いまなざしと、出会った人間すべてを、記憶のなかに留めておこうというような意思も感じました。温かい握手を交わすと、私たちも緊張が解け、ついダライ・ラマの明るさに心がのびやかになってきます。ダライ・ラマは私たちの取材意図に賛成と関心を示し、会見の予定時間を大きく上回ることになりました。

 

心の平穏と安らぎ――ダライ・ラマヘのインタビュー

―― 猊下はちょうど一か月に及ぶリトリート(一定の期間瞑想修行のために籠ること)を終えられたばかりですが、何か内部で変化は生じましたか?

ダライ・ラマ――心を本当に開発し、変化をもたらすためには一か月は短すぎます。ほとんど何も変わっていません。多少リラックスしていられるようになった、ただそれだけです。私自身、実際にこのあたりの山中でリトリートを行なっているスピリチャル・フレンド(仏法の友)に、短期問で進歩を期待するのは間違いだとたびたび助言を行なっています。たかだか1年や2年で成果を得ようというのはとても無理。年月の単位でだけではなく、劫(カルパ=古代インドの時間単位で最も長いもの、永遠の時間)の単位で考えるのが仏教の観点というものなのです。

 いずれにせよ大切なのは、日々の努力を絶やさぬことです。日々努力を積み上げてゆくことによって、徐々に変化が生じるのです。仏陀の境地という目的をはっきり思い描いて、日々努力するのが正道です。実際の修行は、日々の修行体験に基づかなければなりません。仏教に初めてふれた友人たちのなかには、過剰な期待を抱くものもいますが、期待を抱きすぎると、かえっていくらもたたないうちにやる気も決心も失う危険があります。

―― 仏教哲学は、人間の心に深い洞察を投げかけてくれます。心はいくつものレベルに分類できるといいますが、瞑想は心のこうしたレベルに、なんらかの影響を及ぼすのでしょうか。瞑想は心の各レベルに働きかけ、啓発するのでしょうか。

ダライ・ラマ――仏教は顕密の教えとその修行法があります。密教は顕教に基づいています。顕密のシステムやその修行法にはいくつかの相違があります。顕教によると深い瞑想体験に基づいて、さまざまなレベルの心を判別することができます。

 たとえば空性や慈しみ、哀れみを瞑想するとしましょう。初めのうちは空性への理解や哀れみや慈しみの感情も貧弱なままですが、修行体験は次第に深まってゆき、ついにあらゆる二元論が消滅するまでになります。これを基盤に、私たちは心をさまざまなレベルに分類できるのです。瞑想の努力をよどみなくつづけると、時が過ぎゆくうちに、あなたの瞑想体験は次第に深まります。その深さによって心の各レベルを分類するのです。これが一つの方法です。

 密教、特に「無上ヨーガ・タントラ」では、一般に心を三つのレベルに分けています。たとえば、

 ()いまこうして話している間、私たちはより粗いレベルの心を体験しています。この状態では、五感の感覚器官すべてが機能しています。

 ()夢の状態にあるとき、これとは別のもっと深い微細なレベルの心がたちのぼります。ここでは感覚器官は機能していません。さらに夢も見ない深い眠りに陥ると、もっと深いレベルの心が現われます。何かの理由で気絶したり、一時呼吸が止まったりしても、このレベルの心を体験しています。

 ()そして私たちは死ぬと、最も微細なレベルの心を体験するのです。密教では、このような基準で異なるレベルの心を分類しているのです。

 このような心のレベルは修行ではなく、身体の状態によって現われます。私たちはこうした心のレベルを自ずと有しており、より深いレベルの心を活用することもできると密教では説いています。そして、もし実際に活用できたなら、私たちの心に極めて強力な効果を及ぼし得るのです。「無上ヨガ・タントラ」にはより粗いレベルの心を意図して停止させ、微細なレベルの心を活性化させる方法、修行法があります。そこまでゆくと、私たちは微細なレベルの心そのものを利用できるわけです。

―― バルドの考え方は、西洋の自然科学的思考法には見られないものです。しかし、そこには未来の思考のヒントがあると考えています。バルドの教えの神髄はどこにあるのでしょうか。

ダライ・ラマ――仏教徒は心の連続性を、生の連続性を信じていますから、仏教の観点からするとバルドもまた、私たちの生の一部です。前世と今世、今世と来世の間には、バルドと呼ばれる状態があります。バルドのバルとは「間」を表わします。つまり二つの生の「間」がバルドなのです。人間の場合、肉体を持った前の生があり、再び肉体を持った次の生があります。この二つの生の間にも心は連続して存在しています。その際の心は、より微細なものです。生と生の「間」に存在するこの状態を、私たちはバルドと呼んでいます。

さまざまなレベルの心が存在するのは、私たちの本性の一部であると見なすのと同様に、バルドもまた私たちの本性の一部であると考えられます。バルドは宗教的な修行の結果、生じたものではないのです。仏教の観点からすると、人が信じようと信じまいと、受け入れようと受け入れまいと、バルドの状態は存在するのです。

『チベット死者の書(バルド・トドゥル)』は、チベット仏教のニンマ派の伝統に属する書物です。そもそもこの書物は、修行者が生きている間に忿怒尊と寂静尊のマンダラを含むいくつかの修行を行ない、あらかじめ充分それに馴染んでおけるように意図されています。ある種のビジョンや諸尊やマンダラの出現や、さまざまな感情を体験します。さまざまなものが現われたり、音が聞こえたりするこの時点で、混乱して伝える代わりに、心を澄明に保つことができればきわめて助けになります。修行者はこうしたさまざまな現われの正体を知り、認識し、それに応じた修行をすることができます。これが密教に属する一つの修行法です。

―― 今日では、多くの日本人が病院で、死を恐れながら死んでゆきます。とても希望のない惨めな状態です。仏教には死を平和に受け入れる思想があると思いますが、平易にご説明いただけませんか。

ダライニラマ――根本的にいかなる問題であっても大切なのは、問題に対するあなたの心構えです。たとえば、あなたが大きな問題に直面しているとしましょう。あなたが正しい心構えをもって問題に向かえば、問題そのものは変わらなくても、心構えゆえに問題の大きさが減じて見えるのです。

悲劇的な出来事が起きたとしましょう。その際、ただ一つの角度からしか見なかったり、その問題にしか目がゆかなくなると、かえって自分の手に負えない問題のように思え出し、堪えがたい苦しみを味わうはめになります。逆に同じ問題を別の角度から眺め、もっと大きな問題と比べてみれば、問題の大きさが大幅に減じたように思えてくるものです。同じ悲劇に直面していても、あなたの心構えが広くなったのです。

死についても同じことが言えます。死への心構えを人生の一部に組み込まなければいけません。生老病死すべてが、私たちの人生の一部なのです。また来世をどう考えるかにも多くよっています。

もし生の連続性を受け入れたならば、死は一つの出来事にすぎず、服を着替えるのと変わりありません。あなたは自分が着ていた服が亡び、すりきれると、それを捨てて新たな服をまとうでしょう。それと同じようにこの古い肉体がもはや正しく機能しなくなったら、新たな肉体に着替えるのです。

 こうした心構えを抱けば、死は単に人生の一部というだけでなく、より深い経験を試みるまたとない機会になります。こうした観点から死を見ていると、ときおり私は、死に対してワクワクするような感情を味わうことさえあります。私は日々の修行に、「死・バルド・再生」の過程を取り扱う修行を取り入れています。そこで死のことを考えると、実際の死が訪れたときに、これらの修行の成果が出るだろうかと思い、なにがしかの興奮を覚えるのです。死を嫌ったり、恐怖する代わりに、ときにこうした態度をとってみせるのです。こうしたことが、いかに私たちの心構えにかかっているかわかるでしょう。

 また、こんなこともあります。私はしばしば友人たちに死について考えを巡らすのは、理に適っていると助言しています。結局のところ、死は必ず訪れてくるのです。死を避けるのは不可能です。ならば、今のうちに死について考えを巡らし、それを受け入れておいたほうがいいのではありませんか。そうすれば、死が実際にあなたを訪れたときに、ずっとそれに対処しやすくなっているでしょう。いかに死を回避し、死の存在を忘れようとしても、遅かれ早かれ死はやってくるし、そうすれば、あなたはただ衝撃をうけ、怯えるしかないのです。

―― 『チベット死者の書』に述べられている、死後の光明の体験とは何でしょうか?

ダライ・ラマ――無上ヨーガ・タントラには、「光明」について異なる説明があります。「秘密集会タンラ」「カーラチャクラ・タントラ」などにもいくつかの少し異なった説明がされています。とはいえ、そのどれもが同じ概念を有しています。一般に「光明」とは、最も奥深いところにある微細な心です。なぜならこの微細な心が結果として仏陀の心に、覚りの心になるからです。光明の心とは、仏陀の心の究極的な真の源なのです。

 このように「光明」とは、最も奥深いところにある微細な心なのですが、比較的心から独立したレベルとも呼ぶことができるでしょう。心の粗いレベルはどれも頭脳の所産にすぎないからです。頭脳が機能している間は活動できても、頭脳が停止してしまえば同じく止まってしまう心のレベルにすぎないのです。頭脳の機能が完全に停止すると、これとは別の種類の心が動きはじめます。それが、すなわち「光明」、もっとも奥深いところにある微細な心なのです。「光明」の心はこの肉体を離れることができ、事実上、身体から比較的独立しています。「光明」もしくは最も奥深いところにある微細な心は、他のあらゆるレベルの心の種子なのです。

―― チベットでは生き仏(活仏)と呼ばれる、位の高い僧侶がいます。私たちの常識では、いったん死んだ人間が、次の生に生まれ変わるという考え方には疑問があるのです。

ダライ・ラマ――最初に申し上げますが、輪廻転生の理論は、釈尊が説かれた有名な考え「四諦」(四つの聖なる真実)に発しているのです。釈尊は無明から始まって老死へといたる十二縁起を通して、四諦の最初の二つ、「苦諦」「集諦」をさらに詳しく説かれました。そこには、異なる生の存在が明確に述べられています。ある人生において無明が生じ、それが原因で次なる人生に生まれ変わり、出生から死にいたるまでの期間が新たな生を形づくります。このように釈尊自身の教えが、仏教では生の連続性を受け入れていることを明確に示しているのです。

 チベットでは、生まれ変わりといわれる転生ラマを「トゥルク(化身)」と呼びます。トゥルクとは、次の人生の運命を実際に支配できる力をもった、つまりどこに生まれ変わるかを前もって決められる人のことを意味します。私たちは、そういった人々のことをトゥルクと呼んでいます。あなた方は「活仏」と呼び慣わしていますが、チベット語やサンスクリット語にはそのような意味は含まれていません。これは中国語なのです。チベット語の「ラマ」とは、サンスクリット語の「グル(guru)」、すなわち深い精神的な体験をした人のことです。そのような徳性を備えているがゆえに、より高い存在と見なされるのです。

もちろん、私たちの究極のラマは仏陀です。しかし、すべてのラマが仏陀であるとは限りません。まだ低い段階にあるものであっても、ラマでありうるのです。なぜならば、ラマとは単に「師」を意味するからです。仏教の観点からすると、釈尊を創造主ではなく、師と見なすべきなのです。師の責任は、教え説くことです。私たちの未来の責任は、すべて私たちの肩にかかっており、釈尊の肩にかかっているわけではありません。これが仏教のアプローチなのです。

転生ラマとは、内なる精神的な力を備え、はっきりした目的を持って、自らの意思で新たな肉体をまとった存在です。そして過去の記憶を述べたり、ある特定の行為を行なうことによって、自ら転生ラマである事実を示すのです。これが正しいプロセスです。しかし、不幸なことにチベット社会ではラマの地位が社会的身分になることもよくあるのです。私はこれは堕落だと思います。ラマの身分が社会的身分として扱われるならば、精神的分野とは別の分野で利益を得る人もあるでしょう。これは間違いです。

―― 最後に、現代の日本人への睨下よりのメッセージをいただけますか。

ダライ・ラマ――人生の目的は幸福と快さにあるというのが、私の基本的信念です。だからこそすべての人間は人生をよりよく、幸せなものにすべく努めるのです。ならば、幸福とはいかにして得られるものなのでしょうか。もちろん、さまざまなレベルの幸福と心の安らぎがあります。

 私たち人類は肉体を、そして心をもっています。そのどちらにも固有の苦しみと喜びをもっています。主に肉体によっている体験と、心によっている体験の二つを比べてみると、心によっている体験のほうが優れています。たとえば、心が平静で安らぎの状態にあれば、肉体的な苦痛も比較的楽に堪え忍ぶことができます。逆に心が不安定な状態にあり、ひどく苛立ったり、乱れていたりすると、物理的に申し分のない状態にあろうとも、幸福になるどころか、寿命が縮む可能性すらあります。肉体の病気もまた心の安らぎと深く関わっています。今日では、医師たちも病人の治癒力は当人の心の安らぎや、希望、意思と深い関わりがあることを認めています。

 物価的な環境が整っていれば、肉体的には安楽です。しかし、金も機械も心の安らぎを与えてくれることはありません。心の安らぎは個々人自らが見いだし、培ってゆくしかないのです。他人に頼ることはできません。外的な事象は、内的な安らぎを与えることはできません。そして内的な安らぎなくしては、人は幸福になれないのです。外的な環境が整っただけでは、充分ではありません。

 ならば、いかにして私たちの心や内的体験を培ってゆくのでしょう。精神的と呼ぶかどうかはともかく、ある種の心の訓練法、心そのものを扱う特別な技法を取り入れることが肝心です。こうした心の訓練法を「精神的なもの」と呼ぶことはできますが、必ずしも「宗教的」である必要はありません。宗教を受け入れるか否かは、個々人の権利です。宗教なしでも、あなたは幸福な人間になりうるのです。仏教の見地からすると、今世のことのみ考え、正しい修行を行なわない人間は、来世への準備ができていないことになります。今世のことしか考えなければ、来世は惨澹たるものになるかもしれません。それはそれでいいのです。気にすることはありません。ただし来世がどうなるかはまた別問題です。

 人間である限り、心の安らぎなしに幸福な人間として生きるのはむずかしいのです。実際、心の安らぎは人生のなかで最も重要な体験なのです。

 問題は、いかにして心の安らぎを達成するかです。お金で買うことはできません。億万長者でも心の安らぎを買うことはできないのです。機械もコンピュータも、心の安らぎを生み出すことはできません。これとは別の手段で、心の安らぎを見いださなければならないのです。心の安らぎを得られる唯一にして正しい方法は、心の訓練を行なうことです。

 私個人の経験によると、心の安らぎを得られる主なる源は、善き心です。それはなぜでしょうか。心の安らぎを破壊する最も強力なカは、憎しみ、極端な執着、慢心、疑い、恐怖です。いったんあなたが善き心、温かい慈悲の心、利他心をもつことができたならば、憎しみ、恐怖、嫉妬といった心の働きを弱めてゆくことになります。

 そこで私は常々、幸せな人間となり、よい人生を送りたいと望むなら、善き心を培う必要があると人々に説いています。宗教を信じていようといまいと、まったく関係ありません。人類家族の一員であるかぎり、温かい心をもった善き人間であるべきなのです。そうすれば、あなたはもっと幸せに、心のやすらぎをもてるようになるでしょう。自然に友好的で調和的な雰囲気が醸し出され、その結果、あなたの家族だけでなく、近所の人間、犬や猫、鳥といったペットまで、あなたの温かい心の影響をうけ、恩恵をこうむるでしょう。

 私たちの未来は物質的な発展やテクノロジーや科学に全面的に依存するのではなく、心の安らぎにかかっていると私は信じています。テクノロジーや科学と心の安らぎが手を携えたならば、次の世紀はもっと幸せで輝かしく、友愛と安らぎに満ちたものになるでしょう。物質的進歩と内なる精神的な進歩は、手を携えてゆかなければならないと私は考えています。これが将来への希望です。

 あなた方日本の友人たちは、この面で貢献できる潜在力を備えていると思います。あなた方は、すでに。テクノロジーに科学知識、経済力と、物理面で必要なものはすべてもっています。こうした素晴しいものの上に、さらに善き心と自己鍛錬も備えれば、スキャンダルも汚職ももっと減るはずです。

(ダライ・ラマ取材インタビュー/ダラムサラにて翻訳・三浦順子)

 

 

 

終章「死の思想」を現代に発掘する

 

 私は先に、現代は人類の長い歴史のなかで、「死の思想」を持たない特別な時代だと書きました。

そのことは大きな時代の変わり目であることをも意味しています。哲学者のカール・ヤスパースは、現代を思想の第2の重要な要になる枢軸時代ととらえていました。『偉大なる哲学者』という著作によれば、第1の枢軸時代は紀元前500年ごろを中心にした数百年間と語っています。その時代にソクラテス、釈迦、孔子が生まれているのです。その後の人類は、この第一の枢軸時代に生まれた偉人なる思想に支えられ今日にいたりました。そして、これらの偉大な思想は死を考えることから生まれているのです。

この歴史的な符合を、ヤスパースは生産革命においています。紀元前500年前後に、人類は一種の農業革命を成し遂げ、都市文明を可能にし、古代国家の時代を迎えました。そして現代はかつての農業革命に比すべき、科学技術を背景にした産業革命を迎えているのです。しかし私たちの時代には、ソクラテスや釈迦にたとえられるような偉大な巨人はいないのではないでしょうか。またそのような人物が生まれる保証もないのです。

ドイツの作家ミヒャエル・エンデは、現代は「別のキリストではなく、目覚めた一人一人の個人による意識革命の時代」だといっています。またアメリカの歴史心理学者のロバート・J・リフトンは、高度な情報と知識の集積によって、「人類は、共生すべき種としての意識にようやく目覚めはじめた」といっています。かつての民族や文化や歴史の壁がようやく取り払われ、「種(species)]としての人間という意識段階に進化しつつあるということでしょうか。さらにヤスパースは『偉大なる哲学者』のなかで、第2の枢軸時代の未来の思想家は、ヨーロッバ思想だけではなく東洋思想に学ばねばならないと書いています。そして釈迦やナーガールジュナ(龍樹)を取り上げているのです。

 この人類の迎えた第二の思想の枢軸時代は、どうやら一人の天才や超人からではなく、普通の個人のなかから生まれるのではないでしょうか。いいかえれば未来の思想家は、あらゆる人の心に眠っているのかもしれません。その、最初の一歩はどこにあるのでしょう。

 私は、ダライ・ラマの「人生の目的は幸福と快さにある」という言葉の平易さに強くひかれます。心の安らぎは、お金や物だけでは得られません。幸福と快さを心が感じるためには、欲望や怒りや無知から自由になることが必要です。ダライ・ラマは、生命の本質は心であってその心を訓練することで、快さと安らぎを得られる源(善き心)が生まれると語っていました。善き心は、温かい慈悲の心、利他の心を育てるのです。ダライ・ラマは、一人一人が自分のなかにある心の本質を磨き、見つけることから始めなさいと説いているのです。

 宗教学者のジョーゼフ・キャンベルも、自分の至福の感覚を追求することが、真理へ導く通路だと『神話の力』のなかに書いています。

私はこの至福の観念をサンスクリットから得たのです。サンスクリットは偉大な精神的言語 ですが、そこには超越の大海へと跳び込む崖っぷちを示す二つの言葉があります。「サット」 「チッド」「アーナンダ」がそれです。「サット」は存在を意味する。「チッド」は意識を、「ア ーナンダ」は至福ないし歓喜を意味する。私は考えました。「私の意識が正しい意識であるか どうか、自分ではわからない。自分の存在だと思っているものが、ほんとうに私の存在であるのかどうか、それもわからない。しかし、私の喜びがどこにあるかなら、よくわかっている。 だったら、喜びに取りついていよう。そうしたらそれが私の意識と存在をも運んできてくれるだろう。

(ジョーゼフ・キャンベル ビル・モィヤーズ「神話のカ」)

 

 現代はすべての現象が複雑に絡まり合い、相互に依存しています。それと同時に経済や地球環境の危機、精神的な荒廃も進んできました。このような時代には、人類に共通の平明な原理がより必要になっています。ダライ・ラマの説く、平和と慈悲の仏教思想は、汎文明的な広がりを持ちはじめているのです。

1993年6月20日、カナダのモントリオールで「死と苦しみをこえる癒し(healing)」というシンポジウムが開かれました。この会合を企画し実現に努力したのは、救急病院のリュック・ベセツトという一人の外科医でした。ベセツトは病院で毎日出合う死の姿が悲惨で救いがないことに疑問を感じていました。たまたまモントリオールのケベック大学には世界でもユニークな死をテーマにした学部があり、医師と大学が協力してシンポジウムを実現したのです。このシンポジウムの意図に賛同し、多忙にもかかわらずダライ・ラマは出席しました。ベセット医師は、仏教と瞑想のなかに死を癒し、死にゆく人を救済できる英知があることを確信していたのです。

 ここでのダライ・ラマのスピーチはこの本の読者には、あえて繰り返す必要はないでしょう。ダライ・ラマは、「癒しは新しい薬や治療のなかだけではなく、患者の心のなかにあるし、「死から目をそむけないで、死を受け入れて生きる」を強調していました。

 その夜ダライ・ラマを囲んで、モントリオール市最大のサン・ジョセフ教会で、宗教をこえた平和への祈りの会も開かれました。カナダもアメリカと同じような人種のるつぼの国で、多様な人種と宗教が並存しています。ネイティブ・アメリカンから始まり、黒人、東洋人、西洋人が一堂に会して、グローバルな連帯を表わしたのです。ダライ・ラマは由緒ある古い教会でこのように語りました。

今日われわれが直面している諸問題、武力衝突、自然破壊、貧困、飢えなどは、ほとんどが人間が作りだした問題ではないでしょうか。それらは解決できる問題です。それは相互理解と兄弟姉妹感を育てることによってのみ可能なことです。これを成し遂げるためには、善意と自覚によって、人間同士が互いに、そしてわれわれが共有する地球への責任感を深めることによってできるのです。

愛と慈悲の心を育ててゆくうえに、私にとっては仏教が役だっていますが、愛と慈悲といった心は宗教とは関わりなくだれでもが深めてゆけるものだと確信しています。すべての宗教は同じ目標、善なるものを培い、すべての人問に幸福をもたらす、という共通の目標を追求していると信じています。

 最後に『チベット死者の書』は、埋蔵経であったことを思いだして下さい。時代に必要な英知は、決して古くなることはなく、それが必要になったときには世のなかに再発見されるものです。経典の智とは、その読み手から独立して外の世界に存在するものではなく、それを読む人がそれぞれの経験と知識と必要に応じて創造してゆく行為なのかもしれません。仏教の死生観をやさしく記述してある『チベット死者の書」は、死が困難になった現代にこそ発掘し、その読み手が自らその意義を再発見すべき仏典なのではないでしょうか。

 

 

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