蓮如と三河
司馬遼太郎
仏教の目的は、解脱にある。解脱とは煩悩から解放されることであり、煩悩とは人間の生命と生存に根ざす諸欲をさす。とすれば、生きながらにして人間をやめざるをえない。
親鸞は、そのことに疑問を感じたにちがいない。
小乗にせよ大乗にせよ、仏教は解脱の方法を解く体系である。方法として、戒律もあれば、行もある。持戒し、修行すれば、おのれのしんともいうべき自我が高められて行って、ついには宇宙の原理と一つになりうるという。しかしそれを成就できる人はこの世に何人いるのか。いるとすれば、何千万人に一人の天才(善人)ではないか。
―― 仏教は、そういう善人(天才)たちだけのものか。
と、若いころの親鸞は悩んだかと思える。善人たちだけのものとすれば、人類のほとんどが無能力者(悪人)である以上、かれらはその故をもって地獄に堕ちざるをえない。言い換えれば、仏教は人類のほとんどを地獄におとすための装置ということになってしまう。
―― 釈尊がそうお考えになるはずがない。
と、親鸞がおもった瞬間に、かれは絶対の光明である阿弥陀如来という「不思議光」の世界がむこうからきたかと思える。
親鸞はその光明につつまれることにひたすらな感謝をのべる気息としてお名号をとなえた。師の法然はもともと聖道門の秀才だった。その意味においては法然は「善人」だったかもしれず、そういう資質のよさもあって、「悪人でも往きて浄土に生まれる(往生する)ことができる」といった。いわんや善人をや、という。
が、親鸞はそういう修辞を正しくした。
「善人でも往生ができる。いわんや悪人をや」
そのように理解せねば、右の光明が平等で、しかも宏大無辺であるという本質が出て来ないのである。“変った人間(善人)でも往生できるのだ、まして普通の人間(悪人)ができぬはずはない”ということであろう。インド以来の仏教はここで、天才や変人・奇人のための体系であることから、普通の男女という大海へ出のである。
英国人がよくいうことに、英国そのものを採るかシェイクスピアを採るかとなれば後者をとる、という言い方があるが、これを私は日本と親鸞に置きかえたい衝動をしばしばもつ。とくに『歎異抄』を読んでいるときに、宗教的感動とともに、芸術的感動がおこるのである。
親鸞は弟子一人ももたず候。
ということばなどは、昭和十八年、兵営に入る前、暮夜ひそかに誦唱してこの一行にいたると、弾弦の高さに鼓膜がやぶれそうになる思いがした。
私の家は戦国の石山合戦以来の浄土真宗の家系で、江戸期は播州亀山の本徳寺の門末としてすごした。
おそらく代々の聞法の累積のおかげで、この感動があったのにちがいない。
そのことは、蓮如(1415〜1499)のおかげともいえる。
親鸞は教団を否定したが、その8世におよんで蓮如が出、教団をつくった。蓮如が存在しなければ、親鸞は埋没していたろう。
私事だが、去年の秋、三河の岡崎旧城下の川ぞいの宿に二泊した。三日目の昼、家に帰るべくタクシーをひろって名古屋をめざしたが、途中、戦国期の永禄六年(1563)この野におこった三河一向一揆のあとをたずねたいと思い、短時間ながら、二、三の門徒寺(浄土真宗の寺)をまわった。
「上佐々木の上宮寺」
と、タクシーの運転手さんにいうと、一般的な名所とは言いがたいのに、すっとその門前につけてくれたのには、おどろかされた。
三河一向一揆は徳川家康の満二十のときにおこった反領主一揆で、家康の家臣の半ばが一揆側について ―― 門徒であったために ―― 家康と戦い、家康はときに馬頭をひるがえして逃げたり、またその鎧に銃弾が二個もあたるというほどのさわぎだった。後年、忠誠心のつよさで天下に鳴った三河人にすれば、異様というほかない。
むろん、この現象は江戸期の強固な主従関係やその道徳から遡及して見るべきではなく、小領主の自立性のつよかった室町・戦国という中世の社会をじかに見て考えねばならない。
その社会では、三河だけでなく、西日本のほとんどの村落は“惣”という強固な自治制でかためられていて、当然ながら忽は収税機関である守護や地頭をきらっていた。
幸い、戦国期になると室町体制の守護・地頭はあらかた亡びるが、有名無実にまで衰えていて、そのぶんだけ惣の自衛はつよくなっており、さらにいうと惣における農民のほどんどは弓矢や長柄をもち、他からの乱入者は容易にはよせつけなかった。室町中期ごろから戦国にかけての日本は、惣の時代だったともいえる。
たいていの惣には、大いなる農民がいた。農民にとって頼りになる(当時の言葉でいえば“頼うだる”)存在で、かれらを地侍といった(のち戦国型の領国大名が発達するにつれて、かれらは丸抱えの家臣武士を城下にあつめ、それが近世武士の先祖ともいうべき存在になるが、かれらの供給源の多くは、この地侍層だった)
地侍のさらに大いなる存在のことを国人といった。まだ松平姓だった家康の家も地侍から出発して国人に成長し、この時期、三河の国人層の盟主(主人とは言いにくい)とみなされていた。松平家は国人・地侍をその影響下に置いていたものの、近世型の主従とはいいにくい段階にあったから、三河一向一揆の場合、地侍や惣の農民たちが忠誠心の対象として家康よりも阿弥陀如来をえらんだところで、なんのふしぎもなかった。
さて、蓮如の時代は三河一向一揆よりも前の世紀である。
ただし、すでに惣とか地侍・国人が大きく力をたくわえてきていた。ここに、おもしろい記録がある。
蓮如と同時代の人だった奈良興福寺大乗院の尋尊(1430〜1508)が諸国の情勢や情報をあつめた記録として『大乗院寺社雑事記』というものを書きのこしているのである。
その文明九年(1477)十二月十日の項に、公方(将軍のことだが、守護をふくめた政府機関といっていい)に年貢を上進しない国を列挙している。
北陸では、能登と加賀(いずれも石川県)、さらには越前(福井県)
近畿では大和(奈良)、河内(大阪府)、それに近江(滋賀県)
また、飛騨と美濃(いずれも岐阜県)
さらに東海では、尾張と三河(いずれも愛撫県)、それに遠江(静岡県)
この記事は、私どもにさまざまな想像をさせる。たとえば右のいずれの国も惣の力がつよく、従って地侍と国人の勢力がさかんだったということである。この税金をおさめない地帯から、戦国末期、織田氏や徳川氏という強大な勢力ができあがって行ったというのも、おもしろい。
蓮如が濃密に歩き、教線を扶植したのもまたこの国々だったのである。蓮如は、忽に働きかけた。
仏教渡来以来、寺というものは、最初は国家がつくった。平安期には豪族が私寺をたてたり、官寺に荘園を寄進したりしたが、要するに寺というのはきわめて貴族的な存在で、庶民から超然としていた。
蓮如が地侍をふくめた諸国の忽に働きかけたとき、日本史上、最初のそれもおびただしい数で、民間寺がうまれた。
さらには、この寺表の惣のきずなの結び目になり、その建物は自衛のための砦になった。
また同信のよしみで一国の門徒が、横にむすびあうようにもなった。
有名な加賀の一向一揆(1488年に勃発)は、蓮如の本意ではなかったとはいえ、惣という村落自治が加賀一円にひろがって、守護の富樫氏を追いだすにいたったという奇現象である。
しかも約百年にわたって、国主なしの自治体をつくりあげた。親鸞における平等主義と、惣か自分の寺を持ったという蓮如的構想があってのことであったろう。
加賀一揆のとき、三河の門徒も地侍団を中核にしてはるかに応援に出むいた。その後、加賀共和制の影響のもとに三河一向一揆がおこったわけで、これらのことは、室町後期に大いに勝った日本の農業生産の高さとも考えあわさねばならない。
中世のめざましさの一つは、庶民が真宗を得て、日本ふうの"個"をはじめて自覚したことであった。ついで、蓮如の構想による「講」をもったことで、タテ社会だったこの世に、ひとびとをヨコにつなぐ場ができた。
さらに大きいことは、日本の庶民がはじめて仏教という文明を得たということであろう。もう一ついえば、庶民が、日常の規律である「風儀」をもったことも大きい。そのことは、宗教的感動とともに、人が美しい高度な文化をもったともいえるのである。「風儀」の扶植ひとつをみても蓮如は偉大だったとおもわざるをえない。