老年をたのしむ

 

中野孝次

 

老年とはどうやら悪い年齢とは限らないようだぞ、もしかすると人生の一番いい時かもしれないぞ、とあるころからわたしは考えるようになった。老年にはむろん悪い面は多々ある。何よりもからだにガタがくる。目は衰え、歯は抜け、記憶は悪くなり、歩行その他の身体能力は急速に劣化する。その面から見れば老年はたしかに悪い、歓迎すべからざる年齢と言うしかない。

が、それらすべてを補ってなお余りあるよい面が、老年にはあったのである。それは時間のすべてが自分のもので、何をしようがしまいが自分の自由だということだ。これほど恵まれた状況は人生にかってなかった。十代はいやでも受験勉強に打ち込まねばならなかったし、社会に出てからは勤める組織に時間とエネルギーの大半を捧げねばならなかった。それが今や時間の全部が自分の自由になり、自分のためにだけ生きていいようになったのである。これほどの恵まれた時がまたとあろうか、とわたしはよろこびに酔い痴れた。

もっとも誰しもがわたしと同じように感じているわけでないことに、すぐ気付いたが。人によってはそれをよろこばず、自分を社会で必要とされなくなった無用者と感じて、虚脱感、無力感に陥る人もいたのだ。老年の受け取り方もさまざまだったのである。

だが、わたしはそれを完全なる解放と見傲し、これからは自分の心の充実のためだけに生きよう、と決意した。わたしが自主定年と称して勤めを辞めたのは55歳のとしだったが、わたしは時間の全部が自分の権能下にある状況を天の恵みと感じた。

そして次第に、今までは義理で出ていた冠婚葬祭や、会合や、夜のパーティに出なくした。テレビも、その目で見るとまことにくだらなく見えたから、見なくなった。世間に属している時は情報は必要だったが、今は不要だから求めず、情報源は新聞だけにした。

そして時間のほとんどを読書と執筆と好きな碁に捧げだした。読書もハウツー物などはぜんぜん見ず、現代文学もほとんど読まず、読むのは次第に日本、古代中国、ローマ、西欧の古典ばかりになっていった。それらにのみ限りない昂揚とよろこびを覚え、それを読むとき自分は本当に生きていると感じた。

自分の好きに生きることに徹底した果てに、夜は七時に寝て、朝は四時か五時に起きるのか習慣になった。わたしがそれを言うと大抵の人は呆れるが、それがわたしの自然に叶っているのだから変える必要もない。夕方は晩酌三合半を楽しんで、ことりと寝る。こういう規則正しい生活のせいか、からだに別段故障はなく、1983年以来わたしは西洋医者の世話になっていない。

わたしはそんなふうにして、来る日も来る日も同じような暮しをし、それを老年の恵みの日々と感じているのである。毎日同じで退屈ではないか、と訊ねる人には、いやわたしには心身永閑が一番願わしい状態なのです、と答えることにしている。

実際、冬の今ならその風もなくよく晴れた日に、庭椅子に坐って椿や馬酔木の葉のキラキラ光るのを見、鳥が辛夷の梢で囀るのを聞き、犬たちが陽だまりにながながと寝ている中にいれば、心は閑かに満ち足り、これ以外に何の求めることがあろうぞ、という気になる。そして近頃熱中して読んでいる唐代の禅僧の言葉に「日々是好日」とあったのはこれだな、と思う。

年を取ると一年があっという間に過ぎてしまう、と老人はよく言う。これはわたしの実感でもある。本当に一年の過ぎるのが速い。だがわたしは『鈴木大拙全集』を何度も読み、それに導かれて唐代禅匠の語録『景徳伝灯録』とか『五灯会元』に親しむうち、暦や時計の時間によって人の生きている時を計るのは間違いだ、と思うようになった。

暦の時間だと、時間とは、永遠の過去から無限の未来に向って棒のように延びたものである。人はその棒の中の70年か80年を生きるに過ぎない。はかない、短い、という感じがすぐするが、それはそういう時間観念で時をはかるからだ、と唐の禅僧建言う。

われわれの生きているところをよく観よ、昨日は既に去って無く、未来は未だ来ずして無く、在るのは「今ココニ」という、永遠に直接した絶対的現在だけではないか。いま自分の生きている日がすべてである。その時に徹底して生きよ。それ以外に人の生きる時はない、と彼らは異口同音に言っている。

わたしは老年になっての日々を重ねるうち、そういうふうに時間を観じるように自分を訓練し、今ではそれが完全にわたしの時間観になった。来る日ごとに、その一日をまっさらな新しい日と感じ、それしか自分の生きる時空はないと意識する。そういう時間観になり切っているので、「日々是好日」はわたしの実感なのだ。だからわたしには、本当のところ、去年も来年もない。

つまり、老年ははそういう意味で、わたしにとって人生の最良の時なのである。冬の今は朝起きるとまず、庭で実ったスダチ2個をしぼってハチミツを加えたスダチ汁を飲む。それから陽の昇る7時ごろまで読んだり書いたりして、7時に2匹の犬をつれて散歩に出る。丘に上ったあたりで日の出を迎えると、太陽の光がわたしと犬の胎内にまで透るような気がして、思わず柏手をうつ。いつも同じことながら、これがわが生だと思う。

 

 

 

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