日蓮身延入山考   

上原專禄 

Ⅰ 

文永11(1274)年2月14日付の鎌倉幕府の赦免状は、同年3月8日、佐渡配流中の日蓮の手もとにとどいた。日蓮は、同13日佐渡一谷の配所を立ち、13日を経て3月26日に鎌倉へ入った。この事実は、定本176『種種御振舞御書』(立正大学日蓮教学研究所編『昭和定本、日蓮聖人遺文』第176号として掲出されているいわゆる『種種御振舞御書』の意。以下これにならう)、187『高橋入道殿御返事』、213『光日房御書』、223『報恩抄』などが一様に記しているところである。しかし、すでにここで注意しておいてよいと考えられるのは、右の諸書が「鎌倉へ打入ぬ」あるいは「鎌倉に入〔る〕」と記していて、たとえば「鎌倉へ帰る」、あるいは「鎌倉に帰着す」というようには書いていない点についてである。上記の諸書は、どれも身延入山後、一両年の間に書かれたもので、日蓮自身の真蹟本が現存しあるいは曽存したものであるが、日蓮がそれらの諸書に、鎌倉へ入ると記して、そこへ帰ると書かなかったのは、いったい何を意味するのだろうか。

思うにそれは、おそくも身延入山後における日蓮の、「鎌倉」というものについての心情と意識のあり方を示唆するものであり、そのころの日蓮にとっては、「鎌倉」はどのような角度からしても本拠的地点であることを止めてしまった一つの地域、どのような意味においても身近かな地縁をそこに実感することのできなくなった一つの空間、自分を迎え入れるのではなくて自分を拒絶する一つのアトモスフェールになり終っていたことを意味するのではあるまいか。私がこのように想像せざるをえない理由については後で述べるが、もしも日蓮がそのように実感していなかったとすれば、「鎌倉へ打入ぬ」というような、一つの敢行を意味するだろうような表現は用いられなかっただろう。「鎌倉」についての日蓮のこのような非親近感が身延入山後にはじめて形成されたのか、そうではなくて、おそくも佐渡出立の時点においてすでに存在していたのか、その点についても後で触れるが、日蓮自身の意識に即して日蓮の行動をとらえようとするかぎり、日蓮はあえて鎌倉へ入ったのであって、そこへ安んじて立ち帰ったのではなかったことに思いをいたす必要がある、と思う。 

いずれにしても日蓮は、そのような鎌倉において、同年4月8日、侍所の所司平〔の〕左衛門尉頼綱らと面談し、日蓮自身がかねて予定してきた3度目の「国家諌暁」を、これもあえて実行した。この出来事については、定本175『法蓮鈔』、176『種種御振舞御書』、181『撰時抄』、187『高橋入道殿御返事』、213『光日房御書』、223『報恩抄』、247『下山御消息』などに比較的詳しい記事があり、この出来事についてのイメージを形成しうるだけではなく、その意味についてもある程度まで判断を下しうるようにもみえる。それにもかかわらず、これらの諸書の検討によってもなお不明の点がいくつも残るように、私には思われるのである。 

第一は、4月8日の日蓮と平左衛門尉頼綱らとの会談が、いったい誰れによって発案され、計画され、実行に移されたのか、という問題である。この4月8日会談の発意者の問題に関係があるわけだが、通説とみられる見解によると、日蓮は幕府の機関によって評定所あるいは侍所に召喚されたのだ、という。対談の場所が評定所であるにせよ、侍所であるにせよ、そこで一種の公的対談が行なわれるのである以上、幕府の側で日蓮を「召喚する」かたちをとらざるをえないのかも知れない。しかし日蓮自身は上掲の諸書においては、たんに「平左衛門尉に対面の時」、「平左衛門尉に見参しぬ」、「左衛門尉〔に〕語〔りて〕云〔く〕」、「平〔の〕さえもの尉にあひたりし時」、「平左衛門尉に見参して」、「平〔の〕金吾〔に〕対面して有りし時」と記しているだけであって、どの書においても、たとえば「召し出されて」というような受動的表現をさし加えてはいないのである。しかし、形式の上では右に想像したように、「召喚」のかたちがとられたかも知れない。しかしながら、このような「召喚」は、4月8日会談が幕府側の発意によるものであることを直ちに意味しないのはいうまでなく、発意者が誰れかという問題は、別の方面から考えられねばなるまい。そこで多くの観察者は会談の内容に注意を向け、その内容をモンゴル来襲問題についての論議に焦点づけ、この問題についての日蓮の認識と見解を質す要求が幕府にあったと推定する、という数段の仮説を立て、それに基づいて4月8日会談の発意者を鎌倉幕府またはそれの機関であった、と想定する。しかし、もしも仮説を立てる代わりに日蓮自身の述べたところを証言として援用するなら、会談内容の問題に立ち入ることなしに、発意者の問題にたいして少なくともいちおうの答を提供することができるように思われる。ここに証言たりうると考えられる日蓮の記述というのは、定本187『高橋入道殿御返事』中の次の一節である。

たすけんがために申〔す〕を此程あだまるる事なれば、ゆりて侯〔ひ〕し時、さとの國よりいかなる山中海邊にもまぎれぎれ入〔る〕べかりしかども、此事をいま一度平〔の〕左衛門に申〔し〕きかせて、日本國にせめのこされん衆生をたすけんがためにのぽりて侯〔ひ〕き

あまり注意されてはいないようにみえるこの一節を私は現存する真蹟の写真と照校して、『昭和定本』のこの段の正しいとを確信している者であるが、この一節は、4月8日会談の発意者が他ならぬ日蓮その人であることを十分証拠だてている、と思う。すなわち日蓮は、「山中海邊」への韜晦の自由を自ら抑止して、平左衛門尉説得の積極的意図を擁して鎌倉へ上ってきた。このような姿勢において鎌倉入りを敢行したのであればこそ、「鎌倉へ打入ぬ」(定本176)というような、行為の果敢性を示唆する表現を日蓮は用いたのではなかろうか。いずれにしても、平左衛門尉の説得――同時にこれは日蓮にとっては第三次の「国家諌暁」を意味する――への積極的意図を携えて鎌倉へ到着した日蓮は、その意向を平左衛門尉に伝達し、会談のために自分を招請することを要望したのではなかっただろうか。平左衛門尉が日蓮の要請に応じたのだとすれば、それは左衛門尉側でも日蓮と対談することに関心があったからに他ならないだろう。 

ここまで考えてくると、問題は自ら第二の点に移ってゆく。4月8日会談の主要テーマはいったい何か、という問題がそれである。それと同時に、会談をリードし、それを方向づけていったいわば演出者はいったい誰れか、ということも問題になる。そこで幾分の考証に入るのだが、前掲の日蓮諸遺文はほとんど例外なしに、4月8日会談においては、日蓮がモンゴル来襲の時期をどう予見しているかを、平左衛門尉頼綱が日蓮に質した、と記している。すなわち定本175『法蓮鈔』は「去年の四月八日に平左衛門尉に対面の時、蒙古國は何比かよせ侯べきと問〔ふ〕に」と書き、176『種種御振舞御書』は「平左衛門尉は上の御使の様にて、大蒙古國はいつか渡り候べきと申〔す〕」と記し、181『撰時抄』は「頼綱間〔ふ〕て云〔く〕、〔大蒙古は〕いつごろよせ侯べき」と述べ、247『下山御消息』は「金吾〔=左衛門尉〕が云〔く〕、何の比か大蒙古は寄〔せ〕侯べきと問〔ひ〕しかば」と記している。このように日蓮諸遺文は、4月8日会談における平左衛門尉側の問題関心の少なくとも一つがモンゴル来襲問題に存したことを明示している。しかしこの問題は平左衛門尉側だけの関心事ではなかった。日蓮自身も会談の時点においていよいよ尖鋭化されてきた危機感に立って、まさしくこのモンゴル来襲問題にたいして具体的に対応しようとした。前に指摘したように、日蓮は流罪赦免によって獲得した行動の自由に自ら制止を加えて、わざわざ鎌倉へ上ってきたのであること自体が、そのことを証している。したがって、モンゴル来襲問題についての論議を4月8日会談の主要テーマとして措定しようとする研究者たちの見解もいちおうの理由があるといわねばならない。しかし、同時に注意を要するのは、モンゴル来襲が、この日の会談において問題にされたその文脈と構造についてであり、さらにその意味についてである。定本176『種種御振舞御書』には前引のように「平左衛門尉は上の御使の様にて、大蒙古國はいつか渡り侯べきと申〔す〕、」と記されているが、この一節には実は次のような先行の記述があるのである。

同四月八日平左衛門尉に見参しぬ。さき(前)にはに(似)るべくもなく威儀を和げてただ(正)しくする上、或入道は念佛をとふ、或俗は眞言をとふ、或人は禅をとふ、平左衛門尉は爾前得道の有無をとふ、一いちに経文を引〔き〕て申す。

これらの数行の記事は、4月8日会談の情景と雰囲気を伝えており、対談者がたんに平左衛門尉と日蓮だけであったのではなく、複数の人物がやはり会談に参加していたことを告げていると同時に、会談が諸宗の教義と信仰の邪正をめぐる宗教論議によって導入されたことを明示している。平左衛門尉自身も法華経以前の教法による成仏が可能とみられるかどうか、という純然たる教義問題について経典を引用しつつ日蓮の所信を質しているのであって、かれがモンゴル来襲の時期について質問を発したのは、「上の御使の様にて」と記されているように、必ずしも平左衛門尉自身の発想においてではなかった、とみられる。それどころか、平左衛門尉がモンゴル来襲の時期について日蓮にたずねたのは、むしろ日蓮の諸宗批判と排撃におけるアクチュアルな論法に誘導され触発された結果であるとさえみられるだろう。いや、日蓮の話法は、会談に参加した人びとの目からすれば、日蓮による一種の「挑発」のように受けとられたかも知れない。その間の呼吸を伝えているのは、定本181『撰時抄』の次の叙述である。

第三〔は〕去年四月八日平左衛門尉〔に〕語〔て〕云〔く〕、王地に生〔れ〕たれば身をぱ随〔へ〕られたてまつるやうなりとも、心をば随〔へ〕られたてまっるべからず。念佛の無間獄、弾の天魔の所爲なる事は疑〔ひ〕なし。殊に眞言宗が此国土の大なるわざはひにては候なり。大蒙古を調伏せん事眞言師には仰〔せ〕付〔け〕らるべからず。若大事を眞言師調伏するならば、いよいよいそいで此国ほろぶべしと申せしかば、、頼綱問〔ふて〕云〔く〕、いつごろよせ候べき、…

これに反して、定本187『高橋入道殿御返事』において日蓮は

「同四月の八日平〔の〕さえもの尉にあひたりし時、やうやうの事どもとひし中に、蒙古國はいつよすべきと申せしかば、今年よすべし。それにとて日蓮はなし(離)て日本國にたすくべき者一人もなし。たすからんとをもひしたう(慕)ならば」

と前置きして応急の救済策を提案してゆく中で、諸宗、殊に暮言宗を極力非難しており、モンゴル来襲問題が出されてくる脈絡が『撰時抄』の場合と逆になっている。これは、『高橋入道殿御返事』のこの箇所が、諸宗への非難にたいするけわしい反作用の中での日蓮の進退について解明することを主眼としているために他ならない。定本247『下山脚滑息』になると、またもや上掲の『撰時抄』の場合と構成を等しくして、次のように記されている。

而〔る〕に文永十一年二月に佐土〔の〕国より召〔し〕返されて、同〔じき〕四月の八日に平〔の〕金吾〔に〕対面して有〔り〕し時、理不尽の御勘氣の由委細に申〔し〕含〔め〕ぬ。叉恨らくは此園すでに他国に破れん事のあさましさと歎〔き〕申せしかば、金吾が、云〔く〕、何の比か大蒙古は寄〔せ〕侯べきと問〔ひ〕しかば、…、

以上のように4月8日会談においてモンゴル来襲問題が論議されたのは、当初からそのことを平左衛門尉側が計画していたからであるというよりは、むしろ、教法と信仰の邪正の問題を現証としての外交、軍事の問題情況の次元にまで現実化させてゆき、それによって危機への対策を献言しようとする日蓮の姿勢と方法に平左衛門尉らが誘導された結果である、と考えられないだろうか。こうみることができるとすれば、日蓮は会談の発意者であっただけではなく、それを効果と意味のあるように仕立てあげてゆく演出者ででもあったといえるだろう。 

第三は、4月8日会談において日蓮はどのような危機認識に立って、どのような対策を提案したか、また、日蓮のその危機認識と献策は平左衛門尉らによってどのように受けとめられ、会談はどのような成果を挙げえたか、という問題である。そこではじめに、この会談における必死の献策の前提になっているところの、日蓮の危機認識のあり方から検討してゆくと、それは一見、第一次の国家諌暁――すなわち、文応元(1260)年7月16日、日蓮が『立正安國論』を最妙寺入道時頼に上書したときの、宿屋入道光則への献言――、および第二次の国家諌暁――すなわち文永8(1271)年9月12日、日蓮の逮捕を指揮した平左衛門尉頼綱への宣告――、以上二つの場合における危機認識と同一性格のものであるという一面を備えながら、危機認識の視座にデリケートな、しかし本質的な変化が生じていることに気がつく。すなわち、第一次と第二次の国家諌暁においては、「自界反逆」・「他国侵逼」の両難の実現が、予言者的に蓋然性において語られているのにたいして、第三次の国家諌暁では、「他国侵逼」の具体的現実形態としてのモンゴル来襲――このことは日蓮にとっては日本の滅亡を含意する――が不可避の既定事実として措定されているのである。この三つの場合を日蓮自身が対比的に取扱っているのは、定本181『撰時抄』の「余に三度のかうみやう(高名)あり」の一段であるが、モンゴル来襲=日本の亡国がもはや時間の問題に過ぎない、とする第三次国家諌暁における危機認識は、他の諸遺文にも現われている。たとえば定本176『種種御振舞御書』には、

「平左衛門尉は上の御使の様にて、大蒙古國はいつか渡り侯べきと申〔す〕、日蓮答〔て〕云〔く〕、今年に一定也。それにとっては日蓮已然より勘へ申〔す〕をば御用ひなし」と記されているが、定本187『高橋入道殿御返事』は、いっそうはっきりと「同四月の八日平さえもの尉にあひたりし時、やうやうの事どもとひし中に、蒙古國はいつよすべきと申せしかば、今年よすべし。それにとて日蓮はなし(離)て日本國にたすくべき者一人もなし。たすからんとをもひしたうならば、日本國の念佛者と禅と律僧等が頸を切〔り〕てゆい(由比)のはまにかくべし。それも今はすぎぬ」と慨歎し、定本247『下山御消息』は「叉恨らくは此國すでに他国に破れん事のあさましさよと歎〔き〕申せしかば、」

と苦渋の思いをぶちまけている。ところで、このようにモンゴル来襲=日本滅亡を既定の事実として措定する冷徹な危機意識に到達していた日蓮、また危機克服のための有効な方策がもはやありえないことをも洞察していたはずの日蓮は、いったい何のために第三次の国家諌暁を行ったのか、またその内容としての献策はどのようなものであったのか。第三次国家諌暁の理由と意味の問題は、第三節に入って考える日蓮の「鎌倉退出」の動機と理由の問題に重なり合っているので、その点の考察は後にゆずるとして、第三次国家諌暁における献策だけについて一瞥を投じておくと、献策は、必至とみられる亡国のさだめの実現をぎりぎりの刻限まで遅延させるために、特に真言師による調伏を絶対に禁止せよ、という一事に尽きる。すなわち定本181『撰時抄』は

「大蒙古を調伏せん事眞言師には仰〔せ〕付〔け〕らるべからず。若大事を眞言師調伏するならば、いよくいそいで此國ほろぶべしと申せしかば」

と記し、定本187『高橋入道殿御返事』は

「眞言宗と申〔す〕宗がうるわしき日本國の大なる呪咀の悪法なり。弘法大師と慈覚大師、此事にまどひて此國を亡さんとするなり。設〔ひ〕二年三年にやぶるべき国なりとも、眞言師にいのらする程ならば、一年半年に此國にせめらるべしと申〔し〕きかせ侯〔ひ〕き」

と書き、定本247『下山御消息』も真言師調伏の禁止をうたっている。しかし、いわば哀願ともみられるまでに姿勢を低くしたこの一事の献策も、前二回の諌暁の場合と同様に平左衛門尉側で完全に無視され、日蓮が発意し、かつ演出した4月8日会談は何の成果も挙げえなかったようにみえる。この点について定本176『種種御振舞御書』は「何なる不思議にやあるらん他事にはこと〔異〕にして日蓮が申〔す〕事は御用〔ひ〕なし」と記し、247『下山御消息』は「上下共に先の如く用〔ひ〕さりげに有(る)上」と述べているが、三回にわたる国家諌暁がことごとく無視された悲痛の思いは、定本176『種種御振舞御書』、213『光日雇御書』、223『報恩抄』、247『下山御消息』に、『禮記』曲礼、『考経』諌争章の語句を比較的自由に引用して、

「三度國をいさめんにもちゐずば國をさるべし」、「三度いさめんに御用〔ひ〕なくば、山林にまじわるべきよし」、「又賢人の習〔ひ〕、三度國をいさむるに用〔ひ〕ずば、山林にまじわれということは、定〔ま〕るれい(例)なり」

などと記しているところに、言い現わされている、と考えられる。 

  

Ⅱ 

平左衛門尉頼綱らとの会談が行なわれた文永11(1274)年4月8日から30余日をかぞえる5月12日、日蓮は数人の弟子に伴なわれて鎌倉を立ち、途中、相模国酒匂、駿河国竹の下、車返、大宮、甲斐国南部を経て、同17日、檀越波木井六郎実長の所領、甲斐国波木井の郷に着いた。日蓮は着くとすぐさま檀越富木常忍にあてて一書を認め、供をしてきた弟子たちを一人残らず送りかえし、その書状を常忍へとどけさせた。必ずしも日蓮の身延入山の動機や理由を示しているものではないけれども、鎌倉退出の愴然たる心情を伝えているその書状を定本144『富木殿御書』にしたがって左に掲げる。 

けかち(飢渇)申〔す〕ばかりなし。米一合もうらず。がし(餓死)しぬべし、此御房たちもみなかへして但一人侯べし。このよしを御房たちにもかたりさせ給〔へ〕。 

十二日さかわ、十三日たけのした、十四日くるまがへし、十五日ををみや、十六日なんぶ、十七日このところ。いまださだまらずといえども、たいし(大旨)はこの山中心中に叶て侯へば、しばらくは候はんずらむ。結句は一人になて日本國に流浪すべきみ(身)にて候。又、たちとどまるみ(身)ならばけさん(見参)に入侯べし。恐々謹言 

十七日丂日蓮花押 

ときどの 

その全一紙の真蹟が小松鏡忍寺に所蔵されているこの書状は右のような簡潔な内容のもので、いわゆる「成立」についても、なんらの疑問もないもののようにみえる。その上最近には、日蓮の鎌倉退出の心情的動機に注意を払う視点に立ったファインな考察もなされており、この書状の意味もいっそう明らかなってきた。それにもかかわらずこの書状は、私にとっては、依然として難解の書なのであり、全体としての意味を問う前に、すでに多くの不明の語句を含んでいるのが、焦燥を覚えさせる。たとえば「十七日このところ」とうのは、具体的にはどの地点の、どの場所を指すのか。後世の私たちには自明ではないのに、「このところ」と書きさえすればそれで要領をえるはずだ、と日蓮が考えているらしいのはなぜか。「この山中心中に叶で侯へば」と書かれているのだから、日蓮はすでに身延山中に在ったように思えるが、実は「さんちゅう、しんちゅう」と重韻しただけではなかったのか。それにしても「心中に叶」うとは、どういうことなのか。「結句は一人になて」と書かれているが「結句」とはどのような経緯や事情の払拭を予想しての表現なのか。また、「一人にな」るとは、どうなることなのか。「日本國に流浪すべきみ」というとき、日蓮はどういう自己像を描いていたのか。同様に「たちどまるみ」というとき、日蓮はどういう境涯を想像していたのか。添書に記された「がししぬべし」の主体として誰れが考えられていたのか。「此御房もみなかへして但一人侯べし」というとき、何が含意されているのか。「このよしを御房たちにもかたらせ給〔へ〕」というときの「御房たち」とはどの御房のことか。「このよし」というのは、どの事柄を指すのか。そもそも富木常忍がこの書状の名宛人になっているのは、どういうわけで、どういう意味か。要するに、この書状におけるほとんどすべての語句が私には疑問であるのだが、それらの語句の一つひとつを、また、それらを全体として理解するためには、当然のことながら、語句解釈の平面よりも一重立ち入った事態認識の次元に降り立たざるをえないだろう。ところで、事態認識の次元に降りてゆき、そこでこの書状に即して考察の行なわれるべき問題軸を求めてゆくと、いったいこの書状は日蓮の「鎌倉退出」にかかわるものか、それとも「身延入山」に関するものかが、最初に究明せられるべき問題であることに気づくだろう。つまり、この書状の時点における日蓮の進退を、一義的に「身延入山」あるいは「身延隠棲」と想定したり、また「身延入山」と「身延隠棲」とを無批判に等置したりするのではなく、進退の原理を問い質す姿勢において、日蓮が行なったのは「鎌倉退出」であるのか、それとも「身延入山」であるのかを追究する必要がある、と思う。なぜなら、このような問題設定と認識方法によってでなければ、日蓮の行動を主体性、自律性、責任性と客観的必然性との両面にわたって統一的にとらえることば不可能なように考えられるからである。 

しかし、このような問題設定と認識方法とを、研究の作業方法の問題として考えてゆくと、第一には、日本史的・世界史的全体動向のインパクトが日蓮にどう作用し、日蓮がそれにどう対応し、どう消化しようとしてき、そしてまさしくこの書状の時点で作用・反作用がどのようなバランスまたはアンバランスに達したか、またそのことを日蓮がどう自覚したか、を問う世界史的・伝記的考察が必要とされるだろう。第二には、この問題を信仰実践の内面性の側から逆にとらえて、どのような姿勢と構造における、またどのような内容と目標追求における、日蓮のどのような信仰実践が、とくにその当時の日本の政治的、宗教的問題情況へどのようなインパクトを与え、問題情況としての日本社会の側からどのような反作用が日蓮に向って及んでき、この書状の時点でこの作用・反作用がどういうバランスまたはアンバランスに達したか、またそのバランスあるいはアンバランスの形成と意味を日蓮自身がどのように意識したか、を問う宗教史的・社会史的考察が必要とされるだろう。第三には以上二面の作用、反作用の中核に位置する日蓮とその弟子・檀那たちとの間に形成され、かっ動的に展開されていった信行者集団についての宗教社会学的研究が必要とされるだろう。いうまでもなく、この第一から第三にいたる研究作業は、すくなくとも建長5(1253)年4月28日、日蓮によって法華経至上の法門が説かれはじめた時から、文永11(1274)年4月8日、第三次国家諌暁がなされた時に及ぶ満21年の歳月を視野のうちに収めて行なわれるべきであり、この書状をその20年余にわたる信仰実践の論理的帰結の一つの産物として評価しえたとき、この書状の意味がはじめて理解されうるのではあるまいか。この小篇はもとよりそのようなスケールを持ちえない文字通りの小篇であり、したがってここでの考察は断片的なものに終らざるをえない。しかし、私がこの小篇で提起している問題の意味と研究方法について、読者の理解をえるために、先きに出した語句解釈の問題に少しく立ち入ることとする。 

まず、「十七日このところ」の条。前に記したように、文永11年5月17日に日蓮が着いたのは、波木井の郷のどの地点であったか、必ずしも明瞭ではない。波木井の郷の西北隅に位置していて、そこに最初は庵室が作られ、後に弘安4(1281)年11月にいたって、十間四面の大坊などが建造されるようになった「身延の澤」がそれとして比定されうるようでもあるが、確証はない。逆に、その地点が「身延の澤」ではなかったことの、少なくとも傍証はある。建治3(1277)年冬に比定されている定本268『庵室修復書』には、

「去文永十一年六月十七日に、この山のなかに、き(木)をうちきりて、かりそめにあじち(庵室)をつくりて候ひしが、やうやく四年がほど、はしら(柱)くち、かきかべをち候へども、なお(直)す事なくて、よる(夜)ひ(火)をとぼさねども、月のひかりにて聖教をよみまいらせ、われと御経をまき(巻)まいらせ侯はねども、風をのづからふきかへ(吹返)しまいらせ候しが、今年は十二のはしら(柱)四方にかふべ(頭)をなへ投)げ、四方のかべは一そ(所)にたう(倒)れぬ。…」

と記されている。文初の「六月十七日」は「五月十七日」の誤記ではないか、という疑問もいちおうはありうるが、定本305『妙法比丘尼御返事』も

「去文永十一年五月十二日相州鎌倉を出〔で〕て、六月十七日より、此深山に居住して門一町を出〔で〕ず」

と記し、定本四一八『上野殿母尼御前御返事』も

「さては去〔ぬる〕文永十一年この山に入〔り〕候て今年〔=弘安四年〕十二月八日にいたるまで、此山出〔づる〕事一歩も侯ばず」

と記しているところからすれば、『庵室修復書』の「六月十七日」もたんなる誤記ではない、と考えざるをえない。まさにその『庵室修復書』の告げるところによれば、建治3年冬にいたって崩壊(?)した庵室は12本の柱を備え、四方に(?)壁があった。それは粗末な庵室であったには違いないが、ともかくも3年半ばかりの間風雪に耐えたの日数を要したはずだ。それの建築期間中、日蓮は波木井の郷の某所――想像するに波木井実長あるいはその一族の邸宅――で待機しており、庵室の竣工をまって日蓮はそこに移ったのではあるまいか。その移住の時を「6月17日」と想定すると、某所ではちょうど一箇月滞在したことになる。そのような波木井の郷での滞在中、日蓮は何をしたか、それはどういう意味のものであったか。この問題についての考察はこの節の末段にゆずる。いずれにしても、日蓮の波木井到着と身延入山とを同一視することは、日蓮の心情と意識のひだを見定めようとする観察にとっては危険である。 

次は、

「いまださだまらずといえども、たいし(大旨)はこの山中心中に叶で侯へば、しばらくは候はんずらむ」

の条。語句解釈の場合に、最初に究明を要するのは「この山中心中に叶で侯へば」の一句だろう。この一句には、前にも疑ったように、「さんちゅう、しんちゅう」といつ重韻が用いられているのではないかと考えられ、この重韻の面白さのために言葉の意味があいまいにされているきらいがある。その点を考慮に入れたうえで、「この山中」の意味を推測してみると、日蓮自身としてはまだわけ入ってはおらないが、望見はされる身延の山の山裾を中心とした新しい生活の自然環境をふっくり押さえて、「この山中」と言いあらわしたのではあるまいか。いっそう難解であるのは、「心中に叶」う、という一句の意味である。形式的にいうなら、波木井の郷へ到来してそこで日蓮が始めて触知した新しい生活環境と、日蓮を促してこの地にまで日蓮を運んできた心情と意識との、好ましい適合の直感をこの一句は意味しているだろう。しかし、内容の重さにふさわしい理解を求める場合には、遠く「開教」の時点から近く「第三次国家諌暁」の時にいたる、信仰実践の全経験とそれの内的ならびに外的総帰結とについての、日蓮の自己評価のあり方が論定されねばならぬはずである。つまり、語句解釈の問題がすぐさま事態認識の問題へと私たちを導くのであるが、あくまで語句解釈の次元に固執していうなら、「この山中心中に叶で侯へば」という理由づけにもとづいて、「いまださだまらずといえども、しばらくは侯はんずらむ」という意志決定がなされたことが報告されている、その文構成が注目に値いする。「いまださだまらず」とは、これも語句解釈的にいうのだが、日蓮は、次下にいう「一人になて日本國に流浪すべきみ」と「たちとどまるみ」とを二者択一的な原理的命題として設定し、それの択一的決定がまだなされていない不安定な状態を報告したものであろう。そして、そのような不安定な状態であるにもかかわらず、「この山中心中に叶で候へば」という理由にもとづいて、当座の措置として「しばらくは候はんずらむ」という臨時の意志決定がなされたことを告げたのが、この条の要旨であろう。ところで、このような語句解釈は、実はそのままで、きわめて重要な事態認識へと私たちを誘導してゆく。それは、日蓮の「身延入山」というものが、当初から計画された予定の行動ではなかった、という事実である。心情と意識の上だけではなく、行動のプランとしても日蓮が意志決定を行いかつ実行したのは「鎌倉退出」であり、「身延入山」のほうは、予定プランの実施としてではなく、いわば好ましい偶然の所産という意味のものであり、日蓮自身もそのことをはっきり自覚していたことを示すものが、またこの条の全体ででもある。そこで、事態認識の問題としてあらためて問われなければならないのは、「身延入山」の理由や意味ではなく、まさに「鎌倉退出」を日蓮が決意したのはなぜか、またそれは何を意味するのか、という問題であらねばならない。しかし、この点の論考は次節にゆずることとする。

次は

「結句は一人になて日本國に流浪すべきみ(身)にて侯」

の条。「結句は」は、文構成の上からみれば、前条の「しばらくは候はんずらむ」を受けて、それを否定あるいは修正したかたちになっている。しかし「み(身)にて侯」の句と重ね合わせて考えると、己れの生涯のいやはてをいかにも非意志的な成りゆきの話として言い現わそうとしたのが、「結句は」の措辞に他ならないようにみえる。だが、これも浅い解釈に過ぎないのであって、日蓮の意識の深層に立ち入って考えると、「結句は」は、本来は意志――少なくとも志向――の目標であるものを、運命的なものであるかのように印象づけることによって相手を説得しようとする、そういうレトリックを意味するように思われる。いかにも人がわるいようにもみえるが、実は相手をいたわる心づかいがそこに息づいているように思われるのである。そう私が考えるのは、「鎌倉退出」にかかわって日蓮が志向しているものと、富木常忍によって代表される弟子、檀越たちが願っているものとの間には、大きい食いちがいがあっただろうと推察されるからである。この想像の適否は、文中の「一人になて」をどう理解するか、またその次下の「日本國に流浪すべきみ(身)」というものをどう解するか、という問題とかかわっている。「一人になて」とは、日蓮の意識に即して考えると、何よりも「弟子、檀越たちとのかかわりさえも断った個的実存へと自己を隔絶させて」というほどの情況を意味するだろう。その孤存の存在情況は、添書の「此御房たちもみなかへして世一人侯べし」の「世一人侯べし」の状態と等同のものであり、この短かい書簡の中で二度も「一人」がうたわれていることからしても、鎌倉退出の問題情況下において日蓮が孤存ということにいかに大きい関心をもっていたかが推測されえよう。ところで、「一人になて」とか「世一人侯べし」という状態を何かみじめであわれな孤独というように想像してみたり、その状態についての日蓮の自意識を何か悲槍をもののように推察したりする必要は少しもない。そのように想像するのは、その当時の弟子、檀那たちの立場が、日蓮を宗祖と仰ぐ教団人の立場かの反映なのであって、当然の進退として鎌倉を退出する日蓮自身は「孤存」のうちに安息と解放の境涯を想見して、その「孤存」をむしろ享受しようとした、と考えるべきであろう。またもやここで想像をたくましうするわけだが、日蓮は、第三次国家諌暁を終えたある日、鎌倉を退出して一人になるのだ、と言い出した、としよう。弟子・檀越たちはこぞって反対しただろう。その反対の筆頭が富木常忍であったかも知れないのである。流罪赦免になった日蓮を鎌倉に迎えた弟子・檀越たちは、そこでの止住を日蓮に要請したはずだ。しかし、次節でまとめて考えるように、鎌倉というものは、日蓮にとっては、もはや用を果たしえないことが実証された地域であり、逆に日蓮という僧侶は、鎌倉にとっては、やはり敬遠せられるべきことが実感された存在である。鎌倉には、日蓮のいるべき理由もなければ、またいるべき場もないのである。そのことを痛いほど自覚し、自覚させられた日蓮には、鎌倉退出の意向を翻すことはむしろ不可能になっていたのである(定本384『四條金吾殿御返事』に

「然るに今山林に世を遁れ、道を進〔ま〕んと思〔ひ〕しに、人々の語様々なりしかども労存ずる旨ありしに依〔り〕て、當國富山に入〔り〕て己に七年の春秋を送る」

という傍証として掲げておく)。このような段階で、波木井実長が所領身延への来住をおそらくは提案した。富木常忍たちは心に染まなかったけれども、門弟たちの同伴とかの地での給仕を条件のようなものとして、日蓮の鎌倉退出に同意した。「一人になる」ことを願っていた日蓮は困った、と思ったが、黙認のかたちで、門弟たちを波木井の郷まで同行させた。しかし、波木井に着いたとなると、「一人になる」ことを富木常忍たちに納得させねばならない。それが、「結句は…」の一条に他ならないのではないのか。「一人になる」ためのレトリックについては、添書のところでもう一度考えることにする。 

ところで次下の「日本國に流浪すべきみ(身)」の一句は、どう考えられるだろうか。いったい日蓮がこう書き記したとき、どのような自己像を日蓮は描き出していただろうか。その点についての明確な自己像を日蓮は作り出しえなかっただろう、と私は考える。もともと日蓮という人は「捨て聖」としての一遍でもなければ、いわば「漂泊の歌人」としての西行でもありえないような存在だ。日蓮は余りにも学問僧なのである。内典、外典を通じて多量の典籍を座右に備え、それらに参看しつつ深秘の法門を探究してきたのが日蓮の常態なのであり、「読む」ことを抜きにして日蓮の日常は成り立ちえなかったし、鎌倉退出後といえども成り立ちえないだろう。そのことを日蓮は自覚していたにちがいない。そのことは、「流浪」や「漂泊」を事実上不可能にさせる。だから日蓮が、漂泊の聖などというようなものとして自己を表象することは本来ありえないことであるし、実際にそのような自己像をもってはいなかっただろう。それにもかかわらず、「日本國に流浪すべきみにて侯」と書いたのは、「一人にな」らざるをえないことを相手に説得するためのレトリックに過ぎなかった、と考えざるをえない。この書状が書かれてから4年半を経過した弘安元(1278)年11月29日、日蓮は檀越池上兵衛志宗長に書を認め、そのころ身延での身辺滞留者が過多になってきた煩わしさに耐えかねて、その書(定本318『兵衛志殿御返事』)にこう記している

「人はなき時は四十人、ある時は六十人、いかにせき候へども、これにある人のあにとて出來し、舎弟とてさしいで、しきゐ侯なれば、かかはやさに、いかにとも申〔し〕へず。心にはしずかにあじちむすびて、小法師と我身許り御経よみまいらせんとこそ存〔じ〕て侯に、かかるわづらわしき事侯ばず。又とし(年)あけ侯わば、いづくへもにげんと存〔じ〕侯ぞ。かかるわづらわしき事侯ばず」。

この書でも「一人になる」ことへの願いが述べられているのであり、「にげる」という言葉も漂泊とか、流浪とかを意味するのではなく、群居生活からの「脱出」そのままを意味するのである。身延入山の翌年にあたる建治元(1275)年7月12日、檀越高橋六郎兵衛入道へ送った書簡(定本187『高橋入道殿御返事』)の中で日蓮は、「去年かまくらより比ところへにげ入侯〔ひ〕し時、…」と記しているが、ここでの「にげ入」も池上書での「にげる」と同様に、集団からの「脱出」をも含意しているにちがいない。この両書における「にげる」に注意を払ったうえで、富木書の「結句は」の一条を味読すると、「一人になる」とは信行者集団からの「脱出」を意味していたことが理解されよう。日蓮はたんに鎌倉からの脱出だけではなく、弟子、檀那たちからの脱出をも意図したわけであって、その情景はやはり愴然と形容せられるべきものではあっただろう。

次は、「又たちとどまるみ(身)ならばけさん(見参)に入侯べし」の条。前条で、日蓮がこの身延の山中さえ永住の地であるのではなく、窮極には全国流浪の運命を負う身と名乗ったのにたいして、この条で「たちとどまるみ」と称するのであるから、止住の地としては当然身延の山中が予想されているわけだ。その場所が身延であるか、それとも鎌倉であるか、なお、不明であった、とみる一説も存するが、鎌倉退出の不可避性に想到すると、日蓮がまたもや鎌倉へ立ち戻ってそこに止住するなどと想像することは不可能に近い。思うに日蓮は前条で「結句は一人になて日本國に流浪すべきみにて侯」と決然と言い放った。孤存への志向を相手に納得させるためには、こう宣言せざるをえなかっただろう。しかしこのような宣言がそれを聞かされる相手に与えるであろう衝撃の大いさを、日蓮はすぐさま思いやった。その思いを吐露して相手をいたわろうとしたのが本条なのであって、「そうはいうものの、ここに止住するのがさだめなら、お目にかかりましょう」と日蓮は慰撫したわけである。強気のなかに弱気を含むというだけではなく、強気と弱気との相互媒介的展開のうちに心情も思想も深化されてゆく日蓮独自の精神力学の動態がここにも現われているのであって、それを日蓮の心情における自己矛盾とみるのは誤りであろう。 

最後に添書、

「けかち(飢渇)申〔す〕ばかりなし。米一合もうらず。がし(餓死)しぬべし、此御房たちもみなかへして世一人侯べし。このよしを御房たちにもかたりさせ給〔へ〕」

の条。「がししぬべし」までの前半は深刻な飢饉についての、いわば客観的報告であって、「がししぬべし」の主体は、日蓮も同の門弟たちも含めた「みな」または「だれも」と解されよう。そうだとすると、本書状についての最近の注釈がこの前段を「自らのけかちと餓死の不安を訴え」たものと解したうえで、「あるいは人びとの冷淡さによる反援でもあろうか」と注記しているのは、必ずしも当らないことになる。この段は飢鐘の深刻さについての報告であるのだが、日蓮がこのことを報告したのは、その次下の「此御房たちもみなかへして世一人侯べし」の枕としてである、という一面のあることを看過しえない。つまり、「たいへんな飢饅でみな餓死してしまうような窮状だから、ついてきた門弟たちも残らず返さざるをえないわけだ」と説明することによって、「世一人侯べし」という日蓮孤存の境涯を相手に納得させようとしたのだ、と解せられ、この境涯の実現を願望する日蓮によって時の飢饉というものが利用されたかたちになっている。またもや想像にすぎないが、波木井についた日蓮は門弟たちにこう告げたかも知れない、のである。「飢饉がひどくてみな死ぬぞ。私一人ぐらいなら波木井殿もなんとかできようが、こう大勢いたのでは波木井殿も困るだろう。ともかくもみな帰ってもらいたい。」事情が事情だから、ついてきた門弟たちもしぶしぶ引き返したが、他の門弟たちが身延までやってきて日蓮の孤存を撹乱するおそれは十分ある。それを見越して、他の門弟たちも来させぬ用意をしておく必要がある、と日蓮は警戒した。それが文末に「このよしを御房たちにもかたりさせ給〔へ〕」と日蓮が書いたねらいであっただろう。「このよし」とは、飢饉がひどくて弟子たちをみな返したその経緯の全体を指したものに他ならない。 

以上で定本144『富木殿御書』の語句解釈をいちおう終っておくが、事態と経緯の構造的認識へはとうてい迫りえないこのような語句解釈によってさえも、日蓮のいわゆる「身延入山」の内包する問題性のあれこれが抽出されてきたように私には思われる。中でも、問われるべき問題は「身延入山」の動機や理由ではなく、まさしく「鎌倉退出」のそれであるはずだ、ということが私にはわかってきた。ところで「鎌倉退出」の動機と理由の問題は、すでに第一節で指摘したように、少なくとも第三次国家諌暁の理由と意味の問題に重なり合っている。次節ではその点に留意しつつ、この小考のスケールで可能な範囲で、日蓮の「鎌倉退出」の動機と理由について考えることとする。しかし、その次節に入る前に、文永11年5月17日、波木井の郷の某所に到着してから、6月17日、身延の沢の庵室に入るまでの一箇月間における日蓮の行実について注意を払っておく必要がある。この間の日蓮の動静を示す資料はきわめて乏しいが、「三大秘法」の名称「本門の本尊、戒壇、題目」が初出している日蓮の重要論著として知られている定本145『法華取要抄』がこの間に完成、あるいは浄書された、と考えられることを、私は重視したい。いったいこの書は、古来の伝承をうけて中山本行院日奥が、その編集した『御書新日録』において「身延、文永11年5月24日」として掲出し、伝『境妙庵目録』もやはりこの日付を付して収録しているもので、『昭和定本』もおそらくはそれらにならって、「文永11年5月24日、於身延山」と注記している論篇である。しかし、稲田海素師の考証によると、この書は佐渡でその草案が作製され、身延で浄書されたうえ、門下へも開示されたものとされ、浅井要麟師もこの稲田説を是認しているようにみえる。この書に草案があったことは、中山法華経寺に現存する全二四紙の真蹟完本に対応する、と想像される十九紙の草案が身延に曽存した事実からも推定されうるが、草案そのものは佐渡で完成していて、浄書の作業だけが残されていたに過ぎなかったかどうか、は不明である。稲田説はその点に疑問があるうえ、浄書の場所を「身延」と比定する点にも疑いがある。古目録にいう「文永11年5月24日」の日付が正しいとすれば、この日を含む一箇月間には、まだ日蓮は「身延の澤」に入居していず、波木井の郷の某所に滞留していたはずだからである。いずれにしても日蓮は、波木井の郷に着き、弟子を返してしまって一人になると、さっそく佐渡から携えてきた『法華取要抄』の草案――それに添削を加えたかどうか、またその程度も不詳であるが――を浄書して、『観心本尊抄』と同様、おそらくは富木常忍のもとへ送達した。送達先を富木常忍と推定するのは、全二四紙の真筆完本が前記のように中山法華経寺に現存している、という伝承の事実があるうえ、同寺所蔵聖教類の最古の目録『常師目録』に、「観心本尊抄一帖」とならべて「法華取要抄一巻」がすでに掲出されているからである。しかし本抄が富木木常忍に宛てられたであろうと推定されるいっそう深い理由は、本抄が先き(すなわち文永10年4月26日)に同人のもとへ発送された『観心本尊抄』を補完する内容を備えており、両書は相互に参看せられるべき性質の書である、と考えられるからである。中山法華経寺の古目録に両書がきわだてて併記されているのは、この理由によるものではあるまいか。

伝承の形態の問題から、日蓮の行実の問題へと考察を引きもどすと、日蓮は佐渡で自己の思索と信仰体験の一切を観心の一点へと最高度に凝結させてゆき、そこを基座として、末法衆生の救済を必然のものとして保証する深秘の原理を見定めようとして、定本118『観心本尊抄』の著述を行った(文永10年4月25日)。日蓮はそれにつづいて、『観心本尊抄』で始めて明かにした高次の信仰内容としての「本門の本尊」とかねて体得していた「本門の題目」とを、いっそう肉体化させてゆくと同時に、それらを構造化させてゆく、そういう思索をつみ重ねていった。そのような思索を通じて新しく味得せられたところの、末法衆生救済の深秘諸原理の体系が、やがて「三大秘法」と命名されることになる三つの範疇の秘法理念、すなわち「本門の本尊」、「本門の戒壇」、「本門の題目」に他ならないだろう。そしてそのような思索のあととあしどりとを示すものが、定本125『顯佛未來記』(文永10年閏5月11日)、126『富木殿御返事』(文永10年7月)、140『法華行者値難事』(文永11年正月14日)であり、さらに問題の『法華取要抄』(文永11年5月24日)に他なるまい。つまり、これらの諸書は、衆生救済の必然を約束する深秘の議原理がまさしく「三大秘法」として確認されてゆき、日蓮の意識に定着してゆく懸命の思弁の経過を実証する諸作品とみられよう。このような思弁は、それの性質上、日蓮がその時どきにおかれている歴史的時処の外的事情によって左右されるものではなく、したがって日蓮が佐渡にいようと、鎌倉にいようと、身延にいようと、それらのちがいを越えてつづけられるはずの省察であると同時に、『観心本尊抄』という一つの著述への補完作業という意味では、流動的な歴史的時空のなんらかの段落において、いちおう完結させるべき意味合いのものであっただろう。鎌倉退出の後、しかし身延入山の前、波木井の郷滞在の時点において、『法華取要抄』が浄書作業をも含めて完成したのは、このような意味のものであったかも知れない。次節において、鎌倉退出のモチーフの一つとして国家諌暁の三度遂行を挙げ、そこで第三次の国家諌暁の行動を、やはり佐渡で著述された『開目抄』の論理的帰結としてとらえる視点を提示することになると思うが、波木井の郷での、教相に焦点づけた『法華取要抄』の完成は、観心に即した『観心本尊抄』をむしろ起点とするところの、衆生救済の命題追求の一つの到達点とみうるでもあろう。もしもこのような観察が妥当であるとすれば、日蓮は、日蓮自身をこそまさしくそれの当体とする、そういう末法衆生の救済を久遠の過去から永劫の未来にかけて保証する「三大秘法」の不滅の体系を完全に体得したうえで、朗々と身延へ入山することができたことになる。 

  

Ⅲ 

事実の上では「身延入山」へと連続しているものの、進退の姿勢をたずねる視点からすれば、まさに問題とせられねばならぬ「鎌倉退出」については、日蓮自身もそのことを問題的なものとして終始意識しつづけていた。そして日蓮は実にしばしば、己れの鎌倉退出の動機を説き、あるいはその理由を告げようとしたのであるが、その理由づけは時に釈明の語調を帯びることさえあった。そのような理由づけは、仔細に検討すると、例の平左衛門尉らとの会談の後、日蓮がまだ鎌倉に滞留していた時点においてすでに始められ、身延山中でのいわゆる隠棲のほとんど全期間を通じてそれはつづけられた。鎌倉退出の動機あるいは理由として日蓮によって挙げられたものは、書状の名宛人によってちがい、また、身延隠棲の時期によってもちがうが、それらを二、三の異ったモチーフに区分することができる。日蓮は場合に応じてそれらのモチーフのあれこれを、あるいは単独で、あるいは重ね合わせて用いた。いうまでもなく、鎌倉退出についての日蓮自身の説明あるいは理由づけは、日蓮の問題意識に上ったかぎりでのアクチュアリティを意味するけれども、鎌倉退出の不可避性を客観的必然として論定するためには、第二節で示唆したような作業方法にしたがった実証的研究が実際に行なわれていかねばならない。そのことの不可能なこの小考においては、やはり日蓮自身の問題意識に密着するかぎりで認識を成り立たせる試みをする他はないが、その場合には、本来は無際限、無窮であるべきはずの法華折伏の信仰実践に、ともかくもいちおうの区切りをつけ、限度を画することを許容する論理を日蓮はいったいどう体得し、それをどう駆使しえたか、ということを観察目標の焦点に据える必要があるだろう。 

  

1〕モチーフA=山林隠遁の自然的権利。 

〔1〕「鎌倉」というものが日蓮のそこでの存在を許容する代わりに日蓮を拒絶する歴史的・社会的空間として機動するにいたるとき、山林への隠遁をいわば自然的権利として行使しうる立場に立つ、と日蓮が判断する場合がある。定本157『法蓮鈔』の次の一節をそのよう場合の一つとして指摘することができよう。

今適御勘氣ゆりたれども、鎌倉中にも且〔らく〕も身をやどし、迹をとどむべき處なければ、かかる山中の石のはさま、松の下に身を隠し心を静むれども…・ 

『法蓮鈔』は、身延入山後一年に近い建治元〔1275〕年4月に系けられている日蓮の書簡で入道して法蓮日礼と号した檀越曽谷教信に送られたものである。真蹟が身延曽存、断片一紙が京都本圀寺に所蔵されていて、その信憑性について疑う余地がない。その書簡の右の箇所に「鎌倉中にも且〔らく〕も身をやどし、迹をとどむべき處なければ」と記されていることが注意をひく。前年文永11年4月8日の平左衛門尉らとの会談はなんらの成果をも挙げえなかったようにみえるし、また、その直後の4月10日には、日蓮があれほど禁止させようとした真言宗が依然重用されつづけていることの一つの証左ともみられる真言秘法による祈雨が、幕府筋の下命にしたがい阿弥陀堂加賀法印定清によって実修せられ、あたかも日蓮を潮笑しているかのような情景が現われてもきた。しかし、この時点においては、日蓮の鎌倉止住を阻止しようとする現実の動向などはおそらくは何も存在しなかったかも知れない。それどころか、門弟や檀越たちは、日蓮の永住を願って住房を準備し、給仕の用意をも怠らなかったことだろうと推察される。それにもかかわらず日蓮は、「鎌倉中にも且〔らく〕も身をやどし迹をとどむべき處なし」と断言するのである。ここで日蓮が記しているのは、暮しの浅い事情についてではなく、意味の深い実態についてであっただろう。多年日蓮が警告してきたモンゴルの来襲が眼前の事実になろうとしているその時点においてさえも、なお且つ日蓮が無視されるその事態は、意味と名分を問う視点からするならば、存在の「場」が剥奪されていることを直ちに意味するはずだ。その意味と名分における実態を、当時おそらくは鎌倉には居住していないで、下総の曽谷に住していただろう法蓮日礼に告げると同時に、歴史的・社会的空間としての「鎌倉」の、日蓮にたいするかたくなな開鎖性そのものに立脚して、身延山中への隠遁を説明したのが、所引の一節であるだろう。 

〔2〕右の場合と同様に、やはりモチーフAにかかわるものに、定本187『高橋入道殿御返事』の一説がある。ここでは、救済を志向しての提言であったにもかわらず、異常の呪咀と迫害にさらされつづける以上、山中海辺への韜晦をいわば自然的権利として行使すべきである、と考えるそのよう見解が明示されている。先きに別の関連で引用したことがあるが、重ねて次に掲げる。 

たすけんがために申〔す〕を此程あだまるる事なれば、ゆりて侯〔ひ〕し時、さとの國よりいかなる山中海邊にもまぎれぎれ入〔る〕べかりしかども、此事をいま一度平〔の〕左衛門に申〔し〕きかせて、日本國にせめのこされん衆生をたすけんがためにのぽりて侯〔ひ〕き 

駿河国加島の檀越高橋六郎兵衛入道にあてたこの返書も、その真蹟の大部分が現存しているもので、前出の『法蓮鈔』と同じ建治元〔1275〕年の7月12日の日付をもっている。この一節の前半は、日蓮の佐渡出立・鎌倉への参入の経緯を記し、後半で、鎌倉退出の事由と情況を告げているが、山中海辺への韜晦の自然的権利を説いた箇所は、佐渡出立だけにかかわった、その時点においての所懐であったのではなく、鎌倉退出にもかかわった、その時の思惟ででもあっただろう。つまり、山中韜晦の自然権のイデーを胸中に秘めながら、モンゴル軍による壊滅的打撃から辛うじて免れるであろう衆生を救出したい一念で、わざわざ鎌倉へ「のぼっできた」というのが前半の意味であろう。このところで「鎌倉」というものが、重苦しい課題をそこで果たすべき歴史的・社会的空間として言い現わされているのは、4月8日会談後の日蓮の鎌倉観がそこに投影されたものであるかも知れないが、佐渡出立の時点においてそのような鎌倉観がすでに形成されていたとも考えられる。いずれにしても、後半では、山中韜晦の自然的権利の意識をふまえて、「足にまかせて」の鎌倉退出がむしろ当為的なものとして言い現わされている、と思うのである。 

ここで念のため注意しておきたいのは、この節で私が試みているのは鎌倉退出の動機あるいは理由についての日蓮の意識を遺文のうちにさぐるということなのであるが、さぐりえた「意識」というものも、実は日蓮の意識の実際の構造と動態を論定する作業のための認識手段としての概念複合体に過ぎない、ということである。だから、鎌倉退出の理由として『法蓮鈔』、『高橋入道殿御返事』のうちに山林隠遁の自然的権利という日蓮の「意識」が検出されうる、と私が主張しても、それは両書における日蓮の鎌倉退出観がこのモチーフのみによって実際に成り立っている、と考えられていることを意味しないのである現に右に掲げられた『高橋入道殿御返事』の一節後半にも、「叉申〔し〕きかせて侯〔ひ〕し後は」という、モチーフBに属するはずの「意識」も見出される。次のモチーフB,Cについての観察の場合も同様である。 

  

2〕モチーフB=国家諌暁の三度遂行。 

『法蓮鈔』、『高橋入蔓襲事』においては、鎌倉退出の理由として、山林隠遁の「自然的」権利が説かれているが、そのような場合においてさえ、日蓮の意識の底には山林隠遁のいわば「道徳的」権利の自覚が潜在していた、と考えられる。その山林隠遁のいわば「遺徳的」権利の意識を日蓮の具体的な意識現実から抽出し、それを定型化してモチーフBおよびモチーフCとして措定しようとするのであるが、そのような抽出と定型化の前に素材として横たわっているなまの意識の内実において、そのような権利意識が、おそらくは日蓮自身によってはそれとして気づかれないようなかたちで発芽し、成長し、やがて成熟していった過程は、ここではとらえがたい。しかし、そのような「道徳的」権利の意識の形成が日蓮自身の行実にとっていったい何を意味するのか、その一端を挙げよとすると、最初に、おそくも建長5〔1253〕年の「開教」以来――特には文応元(1260)年の『立正安國論』の上書以来――、日蓮が己れ自身に課して、それを厳守してきた信仰実践の行動原理が、日本の政治的・宗教的全現実の中でどのように貫ぬかれ、どのように処理せられることを適当とする、と日蓮が判断したか、という問題があることに、気がつく。この問題は、日蓮にとっては、すこぶる面倒な問題であったにちがいない。建長5年の開教以来、日蓮が己れに課した行動原理とは、一般的にいうなら、非妥協的で無条件的な、無際限の法華折伏法門の高姿勢的実践である。そのような法華折伏法門の高姿勢的実践の帰結として、佐渡流罪というものがのしかかってくると、日蓮はその帰結そのものを理由の一つとして、「法華経の行者」という自覚をいっそうかためてゆく。そして、その論証方法に日蓮自身が疑惑を感じ、不審が重ねられると、論証への方法志向を一蹴して、今度は、「現誕」にではなく、直ちに「誓願」に立脚して「法華経の行者」としての自覚を、いっそう高められた次元において定着させてゆく。これが、佐渡流罪中の二大筆業の一つ『開目鈔』の中心命題に他ならないだろう。ところでこのように、

「我〔れ〕日本の柱とならむ、我〔れ〕日本の眼目とならむ、我〔れ〕日本の大船とならむ、等とちかいし願、やぶるべからず」

とちかわれた、いわゆる「三大誓願」に基づいて「法華経の行者」としての自意識が高揚されてゆくということは、法華経弘通の願業をまさしく「誓願行」として自己に課するにいたったことを意味するだろう。ところでそのような「誓願行」は、たんに意識の内面においてだけではなく、政治的・宗教的外界につきあたってゆく行実の形態にかかわっても、限りなく能動的で、限りなく戦闘的な、永遠の闘争というすがたを行者にとらせるものであるだろう。それでは、そのような『開目鈔』において宣言されたいわば闘争的な「誓願行」にあるいは終止符を打ち、あるいは休止符を付することを日蓮に許容する論理と倫理を日蓮はどう体得したか、また、そのような論理と倫理というものは、いったいどのようなものであるのか。それが、あらためて問題になってくる。

この点にかかわって注意せられるのは、日蓮の法華経弘通の願業がおそくも『立正安國論』の上書以来、「国家諌暁」というものに集約せられてゆき、あるいは少なくともそれに焦点づけられていった、という事実である。いったい日蓮が法華経弘通の信仰実践についてどのような方法論をもち、それをどう展開させていったかという問題は、別に考えられなければならない。しかし、俗権力を一つの権威としてとらえる視点に立ち、その権威を効率的に機動させることによって法華経弘通の目標をいわば一挙に達成しうる、とみる権力認識と方法論的展望のもとに、日蓮は『立正安國論』の上書とともに宿屋入道光則への献言1=第一次「国家諌暁」を敢行したのだ、と想定しよう。このような仮説が成り立つとすれば、日蓮がこのような法華経弘通方法を採択したその瞬間において、能動的・戦闘的な弘通活動に終止符なり休止符なりが打たれることをさしゆるす論理と倫理が同時に与えられたことになる、といえるだろう。なぜなら、右の瞬間において、法華経弘通の至上的命題性が、方法論上の効率性と適合性の問題に席をゆずったように、みられるからである。もとより、日蓮から至上的命題性の意識が失なわれていったのではない。そのことをふまえての方法論であるのだが、法華経弘通を実践的命題としてとらえようとすればするほど、方法の問題を重視せざるをえない羽目に日蓮は立たされることになる。その宿命的な境位におけるある時点にあたって、日蓮は『禮記』曲礼の一節「三たび諌て聴かれずんば即ちこれを逃れ」、ならびに『孝経』諌争章の一節「君に事ふるの禮は、その非あるに値ひては、嚴顔を犯し、道を以て諌争す。三たび諌めて納れられずんば身を奉じて以て退く」に想到した、とみられよう。これらの章句への想到、あるいはそれへの注視がどの時期になされたがは論定しがたい問題であるが、おそらくは諌暁行動への踏み出しに即してこの章句も注目され、佐渡流罪の赦免状に接して「三たび」の一旬があらためて意識されるにいたったのではないだろうか。これらの章句では、諌暁の対象として、「臣」にたいする「君」が措定されているだけであるが、日蓮は「国主」をそれに代置させた。また日蓮がいう「本文」というものには君側退出後の止住の地点やその仕方については触れられていないが、日蓮はむしろ道教的に受けとめて、山林への隠遁、そこでの隠棲を想定した。「三たび」は諌暁の行なわれるべき最少限の頻度を示すと同時に、諌暁のいわば免責条件を形作る、と日蓮は解した。であるから、第三次諌暁は行なわれなければならないし、それ以上行なわれる必要はないいことになる。日蓮が平左衛門尉との会談の発案者であり、プロデューサーででもあっただろう、と第一節で推定したのは、まさにこの理由による。もとより日蓮は三度諌暁を要請する「本文」の章句を機械的に受けとっていたわけではなく、諌暁の効率をはかる一つの目安にしていたに過ぎない。そして効率論的観点のいっそう底には、『開目鈔』で宣言された「誓願行」の空転を警戒する実践行動人としての見識が秘められている。 

以上を総括的、予備的考察として、次に、鎌倉退出のモチーフB=国家諌暁の三度遂行が日蓮諸遺文に現われるその実際の現われ方を点検し、それによって逆に、鎌倉退出の認識手段としてのモチーフBの意味内容を明らかにしていこう。 

〔1〕定本143『未驚天聽御書』にこう記されている。 

之を申すと難も、未だ天聽を驚かさず。事三ケ度に及ぶ。今諌廃を止むべし。後悔を至す勿れ。 

難申之未驚天聽歟。事及三ケ度。今可止諌暁。勿至後悔。 

右二十二字は京都本圀寺に二行の断簡として収蔵されている日蓮真蹟の全文であり、「文永11年4月頃」に系けて『昭和定本、日蓮聖人遺文』にいたって新加された書状である。日付、署名と同じく、宛名も欠落しているが、可能な範囲で推定しておく必要がある。いったい京都本圀寺には二四紙に及ぶ著名な広本『立正安國論』(定本279)をはじめ、『兵衛志殿御返事』(定本248)、七紙にわたる『一代五時鶏圖』(定本図25)などの日蓮真筆完本が所蔵されている他、相当数の真筆断簡が収蔵されている。その中に『宿屋入道再御状』(定本51)と称せられている一紙がある。これにも宛名部分が欠けているが、「去八月之比」に始まるこの書状と定本50『宿屋入道許御状』とを比読すると、定本51の名宛人が宿屋入道光則であるに相違なく、その断簡に『宿屋入道再御状』の題名がつけられているのも至当である、と考えられる。ところで『未驚天聽御書』のほうであるが、この書状の宛名もまた宿屋入道光則ではなかっただろうか。もとより仮説ながら、そう推定する理由の一は、漢文で認められた本書状の文体、語勢が右の定本50、51の両書状に酷似していることであり、二は、文永11年4月8日の平左衛門尉との談=第三次国家諌暁の後を受けて宿屋入道光則に宛てられるにふさわしい内容を備えていることであり(第三次諌暁の意図のもとに鎌倉入りを行い、会談の志望を平左衛門尉に伝達するに方って、宿屋入道光則が取次人になった可能性が考えられる)、持に三は、断簡『宿屋入道再御状』ならびに『未驚天聽御書』を収蔵している京都本因寺は宿屋入道との関係が深い寺であって、そこにこの人物に宛てられた日蓮書簡が伝承されているのは、いわば自然の成りゆきである、と考えられることである。この第三の点につき説明を加えると、宿屋入道光則は、竜口法難から佐渡流罪にかけての日蓮への迫害と処刑に座した門弟日朗を自邸内の土牢に幽閉する任務を負わされたが、後日朗に教化されて受戒し、邸を改めて寺とし、行時山光則寺と名づけた、という事歴がある。その日朗は鎌倉名越松葉ヶ谷における日蓮の草庵法華堂の後身本国土妙寺の二祖(初祖は日蓮)に擬せられたが、三祖日印、四祖日静と続いた。この四祖日静の時、鎌倉本国土妙寺は京都に移って本圀寺と称せられるにいたったのであるが、三祖日印のとき以来本国土妙寺は、日印の法勲を嘉賞して日朗が贈ったと伝えられるいわゆる「三箇の霊宝」を珍蔵するにいたった。その「三箇の霊宝」の中に、広本『立正安國論』が含まれているが、更に寺宝の中には、宿屋入道から日朗へと伝えられたであろう『宿屋入道再御状』も含まれている。このような経緯を考え合わせると、『宿屋入道再御状』とともに本因寺に伝えられている『未驚天聽御書』も日蓮から宿屋入道へ遣わされた書状の断片ではないか、と推測せられるのである。いずれにしてもこの断簡中の「未驚天聽歟」の五字は、前に日像によって創建された妙顕寺とともに、京都弘通の二拠点をなした日静の本因寺にとっては、これにまさる督励の字句はあるまいと考えられるほどの切実緊要の金言を意味したことだろう。 

『未驚天聽御書』は以上のように宿屋入道光則にあてられた日蓮書簡の断片と推測されるが、日付の点では推定の名宛人と断簡の内容とに考え合わせて、文永11(1274)年4月8日の第三次諌暁の直後と判断されえないだろうか。ところで内容そのものについて考察すると、僅かに二十二字の断簡ながら、その意味内容はきわめて重いことに気がつく。後世の門弟たちに「未驚天聽歟」の五字がどう受けとめられたか、という問題の底には、日蓮がこの五字にどのような思いを托したか、という問題がある。いったい日本の政治史のうえで日蓮の時代は、権威の全体が鎌倉に集中してしまった時代ではなく、いわゆる「京・鎌倉」の二極間における緊張関係のうちにその時代の一面の特質が存する、と考えねばなるまい。そのことを想起すると、法華経弘通の実際的方法として日蓮が政治権威の起用を念頭におくにいたったとき、日蓮が鎌倉と同時に京都を、また将軍・執権とともに天皇・上皇を働きかけの対象としてともに重視したのは、むしろ当時の政治常識そのままの見方であっただろう。日蓮は断簡の時点において、まさしく三度の諌暁をなし終えたのであるけれども、それは将軍・執権を対象とするものに過ぎなかったのだ、という意識が日蓮にはあり、何びとかによって天皇・上皇を対象とする諌暁が敢行されなければならぬという思念もまた、日蓮には存在したはずだ。その意識と思念が凝結して、「未驚天聽歟」の五字になったと考えられるが、実はその思いをふっきったのが、「事及三ケ度、今可止諌暁」の十字であるだろう。こでの「事及三ケ度」は宿願完了の、たとえば満足の念を言い表しているのではもとよりなく、朝廷諌暁断念への釈明のこころを内包しつつ、総じて諌暁活動というものを日蓮が停止する理由の説明を行ったのであるだろう。それと同時に、ここでの「事及三ケ度」は鎌倉退出そのもののモチーフとして言い現されたものでなく、諌暁活動停止のモチーフとして挙げられたものであるには違いないが、やがてはまさしく鎌倉退出のモチーフとして国家諌暁三度遂行が掲げ出されてくる意識情況が、そこに先取されたかたちで立ち現われていることにも、注意が払われなければならない。しかし、一つの新しい見解によると、日蓮を鎌倉を鎌倉から退出させたものは『富木殿御書』の示す「漂泊の思い」というものであったが、身延入山後、年月の経過とともに日蓮は、三度諌暁の隠棲を「賢人の習」として意識するにいたったのだ、という。これは面白い見解ではあるのだが、多分、事実には反する。三度諌暁後の隠遁の思想そのものは、前に示唆したように、佐渡在島のときから存在し、見方によっては、国家諌開始のときに遡って箏在する、といえる。それらは別の話だとしても、文永11年4月8日会談の直後で、5月12日鎌倉退出が実行に移されるまでの期間に、その思想の少なくとも先駆形態が『未驚天聽御書』に見出されることに注意を払うべきである、と私は考える。

〔2〕定本153『上野殿御返事』の一節にこう記されている、

抑〔も〕日蓮は日本國をたすけんとふかくおもへども、日本國の上下萬人一同に、國のほろぶべきゆへにや、用〔ひ〕られざる上、度々あだをなさるれば、力をよばず山林にまじはり侯ぬ。大蒙古國よりよせて侯と申せば申せし事を御用〔ひ〕あらばいかになんどあはれなり。皆人の嘗時のゆき(壼岐)つしま(對馬)のやうにならせ給はん事、おもひやり侯へばなみだもとまらず。

身延入山後、約五箇月を経た文永11(1274)年11月11日、年若い檀越南条時光に与えられたこの日蓮書簡は、日興の写本で伝えられているもので、信憑度は高い。その後半には、同年10月6日対馬、同じく14日壱岐へのモンゴル・高麗軍来襲の惨憺たる情況を伝えたニュースを受けとった直後の、苦渋にみちた日蓮の情感が溢れているが、その後半部を導入するものが、ここに引いた一節であり、そこには鎌倉退出の不可避性が切々たる思いで記されている。文章の表には三度諌暁の文字は書き現わされてはいないが、鎌倉退出の理由として、三度諌暁後の隠遁のモチーフが用いられていることはいうまでもない。しかし注意しなければならないのは、このモチーフがここに点出されているその仕方である。日蓮は三度の諌暁が予定通りに遂行されたそのことをもって、鎌倉退出を型通りに理由づけているのではもとよりない。諌暁が「日本國の上下萬人一同に用〔ひ〕られ」ないだけではなく、それが「度々あだをなさる」れるという対応で迎えられる、そういう歴史的・社会的情況をつぶさに体験させられたので、能力の限界の自覚に立って山林に隠遁したのだ、と日蓮はここに告白しているのである。

〔3〕定本176『種種御振舞御書』の一節にいう、

本よりご(期)せし事なれば、三度國をいさめんにもちゐずば國をさるべしと。されば同月十二日にかまくらをいでて此山に入〔る〕。

〔4〕また、定本213『光日房御書』の一節にいう、

本よりご(期)せし事なれば、日本國のほろびんを助〔けん〕がために、三度いさめんに御用〔ひ〕なくば、山林にまじわるべきよし存ぜしゆへに、同五月十二日に鎌倉をいでぬ。 

右の二書における鎌倉退出に関する記事を比較すると、多くの点で相互に酷似していることに直ちに気がつく。すなわち第一に、この二書のいずれもが、

「本よりごせし事なれば」

という同一の導入句ではじまっていること、第二に鎌倉退出の理由として三度国家諌暁の不採択が挙げられていること、第三に前出の〔1〕、〔2〕および後出の〔5〕、〔6〕の場合とはちがって、鎌倉退出がたんなる出来事として、いわば非心情的、散文的に報告せられているに過ぎないこと、第四に、かくて全文の構成がパターン化していることが注意される。ところでこれらの現象は何によって生じ、また何を意味するのだろうか。この問題は、実は、幕末期において小川泰堂によって編成された現在の流布本『種種御振舞御書』および『光日房御書』について行われるべき史料批判的・文献学的研究の結果をふまえてでなければ答えることの不可能な問題なのである。そのような考証に立ちいることのできない今の私としては、この両書にかかわる文献学的問題のわずかに一、二の側面を左に指摘し、〔3〕、〔4〕において引用した記事が簡略であることを理由として、鎌倉退出にかかわる日蓮の問題意識の当体までパターン化したかのような錯覚におちいることを自戒するに止めたい。 

現在の流布本『種種御振舞御書』および『光日房御書』は、右に述べたように、小川泰堂が、その大著『高祖遺文録』を編集してゆく過程で編成したものであるが、流布本『種種御振舞御書』のほうは、幕末までそれぞれ独立の書と認められていた『種種御振舞御書』、『佐渡御勘氣抄』、『阿彌陀堂法印所雨抄』(それの前の部分)、『光日房御書』(それの末文)の四書を連続させて一書としたものであり、流布本『光日房御書』のほうは、旧書『光日房御書』からその末文を削ってその部分を流布本『種種御振舞御書』の最末に移し、その部分の代わりに旧書『阿彌陀堂法印祈雨抄』の後の部分をそこに移して一書に編成したものである。そこで右に引いた両節の旧所在を検討してみると、定本176の右の一節は実は旧書『阿彌陀堂法印祈雨抄』中に含まれており、定本213からの一節は旧書『光日房御書』の中に見出たされる。そこで旧書『阿彌陀堂法印祈雨抄』の名宛人につき考えてみると、本文中に

「他人はさてをきぬ。安房國東西の人々は此事を信ずべき事なり」

に始まる文段によって、この『阿彌陀堂法印祈雨抄』がおそらくは安房国に在住する何某に与えられた書簡であることが推定せられる。その「何某」が世にいわれているように、定本213の名宛人と同一の安房の光日房その人に他ならないかどうかは確認されがたいが、何某に与えて特に真言ならびに念仏破折を行なうのが『阿彌陀堂法印祈雨抄』の結構であることには、まちがいあるまい。したがって、文永11年4月10日、「東寺第一の智人」と称せられている阿彌陀堂加賀法印定清が修した祈雨の秘法が稀代の大風害を招きよせた事件や、安房国の道義房、円管房のごとき念仏の徒が堕地獄の現証としてあさましい臨終を迎えた事態は詳記に値いするだろう。しかし、日蓮自身の鎌倉退出の事情や理由を詳述する必要や意味は、ここには何も存在しないはずである。これが、現行の流布本『種種御振舞御書』で鎌倉退出についてはきわめて簡略に記されているに過ぎない理由であろう。同様のことが旧書『光日房御書』における鎌倉退出記事についてもいえる。日蓮と同郷の安房国の天津に住む光日房からその子息弥四郎の死去が報ぜられたのにたいして弔慰の真情を披露したものがこの書状であるが、そこで日蓮は故郷にある日蓮自身の父母の墓を訪れかねている身上を悲痛な筆致で書き現わしている。その条にかけて記されているのが、前引の一節なのである。つまりここでは、この書状の時点において日蓮が山中の草庵にいることが記されているだけで十分なのであって、鎌倉退出の事情や理由を詳述する必要は何もないのである。ところで定本では、流布本『種種御振舞御書』の全篇を建治元(1275)年あるいは翌建治2(1276)年の成立と考えているが、成立年次の比定は、まず組成各部分ごとに行われるべきであろう。そのうち旧『阿彌陀堂法印祈雨抄』は、建治2年3月の書状と想定されている『光日房御書』と相前後して書かれたのではあるまいか。そのことを、鎌倉退出についての二書の記述が、発想においても、文体においても酷似しているという事実が示唆しているように思われるのである。

〔5〕定本223『報恩抄』に次の一節成ある。

同〔じき〕五月の十二日にかまくらをいでて、此山に入れり。これはひとへに父母の恩,師匠の恩・三賓の恩・國恩をほう(報)ぜんがために、身をやぶり、命をすつれども、破れざればさてこそ侯へ。叉賢人の習〔ひ〕、三度國をいさむるに用〔ひ〕ずば、山林にまじわれということは、定〔ま〕るれい(例)なり。

『報恩抄』は、建治2(1276)年7月21日の日付をもつ日蓮の長論篇で、真蹟完本は身延に曽存、現在は二紙が池上本門寺に所蔵されている他、二、三の断簡が残存している。述作の前月、安房国清澄山での旧師道善房の訃報に接した日蓮が、それに触発されて撰述したのが本書であって、同山の浄顕房・義城房の両人に送達された。そこで日蓮は、報恩行としての法華折伏の法門について広説し、そのなかで日蓮自身の不惜身命の行実を意義づけており、法華経弘通の功徳をもって故道善房の霊に回向しようとする博大な願文ともいえる。そのような全文脈のなかで鎌倉退出の理由を述べたのが右の一節であるから、国家諌暁三度遂行のモチ―フも全篇の志向と発想にふさわしい現われ方をしている。まず鎌倉退出・身延入山の理由としてすぐさま慣用のモチーフを挙げる代わりに、日蓮は不惜身命の報恩行をもってして、なおかつ残存している一身の余儀ない進退として、鎌倉退出・身延入山を理由づけている。これが四恩を

「ほうぜんがために、身をやぶり、命をすつれども、破れざれぱさてこそ侯へ」

の意味であるだろう。しかし仏道実修の地平でとらえなおした報恩倫理の至上性と絶対性を仰ぎみで、それの無限追求の課題を己れに課してきた日蓮は、「破れざればさてこそ候へ」というようないわば消極的釈明が、鎌倉退出の理由づけとしては不十分だ、という実感を免れえなかったであろう。そこで日蓮は、国譲三度遂行のモチーフを、報恩倫理の高さに見合い、それとの間にバランスを保ちうる高次の倫理として提示することになる。これが、この箇所で山林への隠遁が「賢人の習」として特に規定せられている所以であり、その隠遁行動が、「定〔ま〕る例」として規範化されている理由ででもあろう。いったい、「賢人の習」として山林への隠遁がわざわざ規定されているのは、実は、この『報恩抄』においてだけであり、前引の一節につづく

「此功徳は定〔め〕て上三賓、下梵天・帝釈・日月までもしろしめしぬらん。父母も故道善房の聖霊も扶〔か〕り給〔ふ〕らん」

にはじまる一節のなかにも、もう一度この語句が現われている。すなわち

「彼人(=道善房)の御死去ときくには、火にも入〔り〕、水にも沈み、はしりたちてもゆひて、御はかをもたたいて経をも一巻読誦せんとこそをもへども、賢人のならひ、心には遁世とはをもはねども、人は遁世とこそをもうらんに、ゆへもなくはしり出〔づ〕るならば、末へもとをらずと人をもうべし。さればいかにをもうとも、まいるべきにあらず」

と記されているのがそれである。このように特に『報恩抄』で「賢人の習」という語句が点出されているのは、この書に独自の理由があるからであり、論者がいうように、建治元.二年ころに立ちいたって「賢人の習」の意識への一般的転換が行なわれたように、考えられるべきではないだろう。「賢人の習」という語句のもう一つ底にある「賢人」の理念につき、広く日蓮の遺文の全体にわたって語釈を試みる作業はここでは行ないえない。 

〔6〕定本247『下山御消息』の一節に次のように記されている、 

…さて婦〔り〕てありしに、上下共に先の如く用〔ひ〕さりげに有〔る〕上、本より存知せり、國恩を報ぜんがために三度までは諌暁すべし。用〔ひ〕ずば山林に身を隠さんとおもひし也。父上古の本文にも、三度のいさめ用〔ひ〕ずば去〔れ〕といふ。本文にまかせて且〔ら〕く山中に罷〔り〕入〔り〕ぬ。其上は国主の用〔ひ〕給はざらんに其己下に法門申〔し〕て何かせん。申〔し〕たりとも国もたすかるまじ。人も叉佛になるべしともおぼへず。 

古来『下山御消息』と呼ばれ、今『下山抄』と名づけられている、建治3(1277)年6月に系けられた一書は、小湊誕生寺等に散在している多くの真蹟断片のすべてをもってしても、この書のわずかな部分に相当するだけであり、全篇は岡宮光長寺所蔵の日法書写の二本、重須本門寺所蔵の日隆書写の一本によって伝えられている。著者は日蓮その人に相違ないが、身延入山後の新しい門弟日永というもののために代作して、下山兵庫五郎という人物へ提出させた長篇の書簡である。名宛人は甲斐国下山の領主あるいは地頭と称せられている下山光基のことであるが、日永との関係は、この書状に記されているかぎりでは、不詳である。しかし日永が光基のために阿弥陀経の例時読誦の任務を負わされていた「小法師」であったことは明かであり、おそらくはその任務が等閑に付されていることを知った光基があらためて阿弥陀経読誦を日永に要請してきた。これにたいして日永は一書(すなわち日蓮の代作・代筆した)を光基に呈し、その要請に応じえないことを、草庵のうしろにかくれてひそかに聴聞したという日蓮の説法にもとづいて陳弁すると同時に、光基自身も法華経信仰へとふみきるべきであることを諌暁した。日蓮によって代作されたこの『下山御消息』は古来一つの「陳状」と考えられてきたが、この書簡の特徴はまさに「諌暁の書」である点に存する。いったい、日蓮の代作たるこの書は二つのちがった部分に区分されうる。その一つはいわば地の部分であり、光基への日永の進言を内容としている。もう一つは、草庵のうしろにかくれて日永がひそかに聴聞したことになっている日蓮の説法の部分である。ここでは日蓮は、日永が聴聞したことになっている自分自身の説法を日永に代わって記述する、という面白い立場に立っている。『下山御消息』を「諌暁の書」とみるのは、特に第一の部分についてであるが、実は、地の部分が「諌暁の書」としての効果を挙げうるための配慮が、聞き書のかたちをとっている第二の部分においてすでに払われている、と私は考える。以上のことを念頭において右に掲げた一節を読むと、いささか理解を深めることができそうである。 

丂右の一節は聞き書の部分に含まれているのであるが、鎌倉退出の理由として、国家諌暁の三度遂行とそれの不採用のモテーフが挙げられている前半には、新しい問題はない。問題は、そのモチーフに結びつけられ、そのモチーフを主体の立場で消化しようとしているようにみえる後半の意味についてである。まず後半を導入している「其上は」は、「そうしたからには」の意にも解せられ、身延入山後の日蓮の考え方とあり方とを示そうとした句ともみられよう。しかし、「其上は」に相当する真跡は欠けており、「は」の字は、筆写本における術字であるかも知れぬ。ところで、そのような判断が成りたつとすると、「其上」以下に記されたところは、諌暁の三度遂行とその不採用のモチーフをまさしく主体的に消化する補足説明句とみられるようになる。しかし、そうみた場合に、その一節は内容上何を意味する、と考えられるだろうか。 

それを達意的にいうなら、ここに記されているのは、法華経弘通の方法論上における「国主」というものの重視――というよりも、むしろそれの偏重――の思想であり、教化論の立場からするなら、総体主義的権威主義の思惟方法がそこには示唆されている、といえよう。それでは、このような「国主」観は、私がモチーフBについての総説のところで記した「国家諌暁」の効率論的評価と同一線上に位置するものなのだろうか。一見そのようでありながら、実は必ずしもそうではない。日蓮が「国家諌暁」を重視してきたことはたしかであるが、そのことはそれ以外の弘通方法を日蓮が切り捨てたり、否定したりしたことを決して意味しないのである。また、教化帰信について、方法論上、総体主義的権威主義の考え方が日蓮にあることはたしかであるが、しかも日蓮が個別主義的自発的方法を否認したことはかってなかった。それにもかかわらず、ここの箇所に右のような「国主」観が記されているのは、いったいなぜだろうか。それには、二面の理由か考えられる。その一つは、問題の一節に施行する「抑〔も〕日本國の主となりて」にはじまる一段では、特に裁判法上における「国主」の行動方式が論議せられており、「国主」の御成敗式目違反の責任が追及せられている。問題の一節で特に「国主」が重視せられているのは、先行の一段で「国主」の責任を追及してきたことの余韻ではなかろうか。その第二は、「諌暁の書」であることを露呈している地の部分の最後の段落のところで、「日永」が獲信の個別主義的自発的立場を強調することによって、下山光基を法華経信仰へ頓入させるための伏線として、日蓮は故意に国主偏重の考え方をあらかじめ提示しておいたのではなかろうか。地の部分の最後の段落の一節にこう記されている。 

叉恐〔れ〕にて候へども、兼〔ね〕てつみしらせまいらせ侯。此御房(=日蓮)は唯一人おはします。若〔し〕やの御事の侯はん時は御後悔や侯はんずらん。世間の人々の用〔ひ〕ねば、とは一旦のをろかの事也。上の御用〔ひ〕あらん時は誰人か用〔ひ〕ざるべきや。其時は叉用〔ひ〕たりとも何かせん。人を信〔じ〕て法を不信。

平たく読めば、鎌倉退出のモチーフBにかかわって話された国主重視の思惟方法と、ここに述べられている国主による諌暁の採否を超出した地平での、主体的で個別的な正信帰入への勧説とは、矛盾している、とみられる。しかし、それら二つのものを動的・発展的にとらえる方法意識に立つなら、国主偏重の思惟方法を否定的媒介物として、信仰のいわば自由で創造的な獲得への「諌暁」がこの後の箇所で企てられているように考えられるのである。 

  

3〕モチーフC=仏法中怨からの免責 

法華折伏法門の実践形態としての死身弘法(身を死して法を弘む)の典鈍として日蓮がしばしば引用するのは、涅槃経第三の一節であり、その中でいう「佛法中怨(佛法の中の怨)」の誡責から免れ出ようとする張りつめた思念が日蓮を不惜身命の実践へと駈り立てるのだ、と日蓮は告白する。すなわち、まず、壮年期の作品定本22『災難對治鈔』には、 

涅槃経に云はく、若し善比丘あって、法を壊る者を見て、置いて呵責し駈遣し撃慮せざれば、當に知るべし是の人は佛法の中の怨なり。若し能く駄遣し呵責し撃鹿せば、是れ我弟子・真の聲聞也。予此の文を見るが故に、佛法中怨の責を免れんがために、見聞を憚からずして、法然上人ならびに所化の衆等の阿鼻大城に堕つべき由を構す、 

と記されている。正元2(1260)年2月に系けられている本鈔以前に、実は、成立上本鈔に関係の深い正元元(1259)年作の定本15『守護国家論』、正元2年2月上旬の作定本21『災難興起由來』があり、この両書にも涅槃経第三の右の箇所を引用しての立論がある。しかし、まさしく仏法中怨からの免責への強烈な志向に立脚した、死身弘法実践者の主体における行動規範が明示されているのは、右の『災難對治紗』が初見であろう。それにつづいて、文永2(1265)年に比定されている定本43『聖愚間答鈔』にも、章安の駅を併引しつつ、同様の理由づけによる寧喪身命、死身弘法の主張を日蓮は行っている。そして、不惜身命の弘通活動が招きよせた大小の迫害を堂々と切り抜けた後で、身延に入った日蓮は、その死身弘法の行実を回顧的に点検しうる姿勢をとるようになってゆき、その苛烈な行動を仏法中怨からの免責へのはげしい意欲に動機づける。定本187の、建治元(1275)年7月12日付『高橋入道殿御返事』、同年9月3日に比定せられている定本194『阿佛房尼御前御返事』、弘安2(1279)年8月17日付、定本339『會谷殿御返事』等には、そのような動機づけの実際例が存在する。ここにあらためて注意を要するのは、身延入山後の以上の諸書で日蓮が仏法中怨らの書というモチーフを挙げるのは、このモチーフへの自らの死身弘法の行動の理由をなしているからに他ならない、とうことである。しかるに、身延隠棲のある時点にさしかかると、日蓮は同じモチーフの成就を理由として自らの鎌倉退出を説明するようになり、このモチーフCが国家諌暁の三度遂行というモチーフBに取ってかわるようになる。その実際例を次に掲げる。 

〔1〕弘安元〔1278〕年9月6日に比定せれている定本305「妙法比丘尼御返事」の一節にいう、 

縦ひ命を期として申〔し〕たりとも、国主用〔ひ〕ずば国やぶれん事疑〔ひ)いなし。つみしらせて後用〔ひ〕ずば我失にはあらずと思〔ひ〕て、去〔ぬる〕文永十一年五月十二日相州 鎌倉を出〔で〕て、六月十七日より此深山に居住して文一町を出〔で〕ず。既に五箇年をへたり。 

〔2〕弘安3〔1280〕年正月月二十日と推定されている定本360「秋元御喜」の一節に 

南岳大師云〔く〕、法華経の仇を見て呵責せざる者は謗法の者也。無間地獄の上に堕ちんと。見て申さぬ大智者は無間の底に堕ちて彼〔の〕地獄の有〔ら〕ん限〔り〕は出〔づ〕べからず。日蓮此〔の〕禁を恐るる故に、國中を責〔め〕て侯程に、一度ならず流罪死罪に及びぬ。今は罪も消え、過も脱〔れ〕なんと思〔ひ〕て、鎌倉を去〔り〕て此〔の〕山に入〔っ〕て七年也。 

〔3〕弘安3(1280)年10月8日に比定せられている定本384『四條金吾殿御返事』にいう、 

傍事の情を案ずるに、今は我身に過あらじ。或は命に及ばんとし、弘長には伊豆〔の〕國、文永には佐渡の島、諌暁再三に及へば留難重畳せり。佛法中怨の誠責をも身にははや免れぬらん。黙るに今山林に世を遁れ、道を進〔ま〕んと思〔ひ〕しに、人々の語様々なりしかども、旁存ずる旨ありしに依〔り〕て、當國當山に入〔り〕て巳に七年の春秋を送る。 

丂弘安に入って書かれたとされている右の三書簡は、ニュアンスのちがいを示していながら、一様に、鎌倉退出を仏法中怨からの免責の成就によって正当づけている。それでは、鎌倉退出のモチーフBの代わりに、弘安年代に入ってモチーフCが現われるようになったのは、いったいなぜだろうか。この問題は答えにくい。第一に、右の三書にはいずれも真蹟が欠落しており、そのうえ最古層の写本とはいいがたい後代の写本朝師本((1)、(2)の場合)、本満寺本((3)の場合)で右の三書が伝えられているに過ぎず、したがって日蓮親撰の確証がない、という不安がある。第二火、三書ともモチーフCの点出に、身延滞在年数の注記がつづいているなど、モチーフCの使用が定型化されていて、日蓮の親撰書簡を椿徴づけている行文の新鮮さと澄刺さに欠けているようにみえる、とい不安がある。三書にはこのよな不安があるうえ一般論として、今日に伝えられている日蓮書簡の数量は夥しいといえぱ夥しいが、総じて日蓮の書いた書簡の全点数からすれば一部分に過ぎないとみられるので、大量観察が行いかねる、という事情もある。したがって厳密にいうなら、ある時点においてーーたとえば弘安年代に入ってーー、モチーフBにモチーフCが入れ替った理由は何か、という問題自体が実はノンセンスであるかも知れないのである。そこで、もしもこの問題に意味があるとするなら、という不安定な但し書のもとにおいての話にならざるをえないのであるが、モチーフBとCとの交替の問題にとって特に重視せられるべき日蓮書簡は、弘安元(1278)年3月21日付・定本280『諸人ご返事』の一書である、と考えられる。左に全文を掲げる。 

三月十九日の和風位びに飛鳥同じく二十一日戌の時到來す。日蓮一生の間の所謂祈請拉びに所願忽ちに成就せしむるか。将又五五百歳の佛記宛も符契の如し。所詮、眞言・禅宗等の謗法の諸人等を召し合せ是非を決せしめば、日本國一同に日蓮が弟子檀那とならん。我が弟子等の出家は主上上皇の師となり、在家は左右の臣下に列ならん。将又一閻浮提皆此の法門を仰がん。幸甚幸甚。 

弘安元年三月二十一日戌時丂丂丂丂丂丂丂丂丂丂丂丂丂丂丂丂丂丂丂丂丂丂丂日蓮花押 

諸人御返事 

丂今日、平賀本土寺にその真筆が秘蔵されている右の日蓮書簡の文初に記された、3月19日付の書状というものが、どの地の誰れによって発せられたかは不明であり、その内容の詳細も知りがたい。しかしその書状が、国家諌暁不毛のにがい経験に裏づけられて、法華経国家ともいうべきものの創出を断念し、身延の山中に隠棲をつづけてきた日蓮のこころに、新しい希望をかきたてるに十分な内容と重量を備えたものであっただろうことは、想像に難くない。日蓮は、弘安元年の春という時点において、すでに死を覚悟せざるをえないような病気をえていたのであるが、異常に高揚された意識とはなやいだ気分でその書状を受けとめたようにみられる。たんなる常例の法論以上の規模と重要度をもつものと信ぜられた、「謗法の諸人」との全面的対決そのものにおいて日蓮自身がどのような役割を演ずべきものと自らも思惟し、弟子檀那たちも予想していたかは不明である。それどころか、日蓮白身の参加は誰れによっても予想されていなかったでもあろう。しかし日蓮はその全面的対決における勝利を確信しただけではなく、勝利の成果としての法華経国家の実現についても、世界的規模における法華経の流通についても期待することができた。もとより、雄溝な筆の運びで書かれたこの書簡を、あまりにも高い芸術性のゆえに、かえって、アクチュアルな展望の書としてではなく、むしろ法論の場に臨もうとする門弟たちへの鼓舞の書に他ならないむのとして評価すべきであるかも知れない。ところで、全面的対決としてのその法論が、どのような経過をとり、どのような結末をもたらしたか、明かでない。ただ、この『諸人御返事』から二句後の、弘安元年4月11日付とみられている書簡、定本283『檀越某御返事』――この書を、山川智応博士は先の『諸人御返事』および定本281『教行證御書』と関係づけている――に、身延入山以前における日蓮の、文字通り肉体的生命をかけた限りなく動的で闘争的な法華経の行者としてのあの雄姿が如実に再現しているのを、私たちは見出しうる。その前半だけを次に掲げる。 

御文うけ給〔はり〕侯了〔んぬ〕。日蓮流罪して先々にわざわいども重て侯に、叉なにと申〔す〕事か侯べきとはをもへども、人のそん(損)ぜんとし候には不可思議の事の侯べば、さが(兆)侯はんずらむ。もしその義侯わば、用〔ひ〕て侯はんには百千萬億倍のさいわいなり。今度ぞ三度になり侯。法華経もよも日蓮をばゆるき行者とわをぽせじ。釈迦・多賓・十方の諸佛と涌千界の御利生、今度みはて〔見果〕候はん。あわれあわれさる事の侯へかし。雪山童子の跡ををひ、不軽菩薩の身になり侯はん。いたづらにやくびやう(疫病)にやをかされ侯はんずらむ。をいじに〔老死〕にや死〔に〕候はんずらむ。あらあさましくあさましく。願〔く〕は法華経のゆへに國主にあだまれて今度生死をはなれ侯ばや。天照大神・正八幡・日月・帝釈・梵天等の佛前の御ちかい、今度心み侯ばや。 

丂これはもう、どのような意味においても「遁世者」などというものの言辞ではない。これは、いわば自然死としての老死を避けて、「国主にあだまれて」の殉教死を選ぼうとする者の、主権者を向うにまわしての捨て身の闘争宣言に他ならない。身延入山後4年にして、このような絶対闘争の意識に立ち返らざるをえなくされた日蓮にとっては、鎌倉退出の理由として、国諌三度遂行のモチーフを挙げることが、むしろ怠惰に過ぎると思考されるにいたったのかも知れないのである。 

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