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D.S.ランデス著 強国論より

 

―――― ヴェーバー理論が証明する美徳資本主義の連関

 たしかに、今日ではほとんどの歴史家がヴェーバーの論理は信じがたくて受け入れられないとしている。ヴェーバーは一世を風摩したが、もう古い、と。

 私はこのヴェーバー批判に賛成できない。まず経験主義的な見地から見ていこう。記録によれば、プロテスタントの商人と製造業者が貿易や銀行業や製造業の分野での牽引力となった。フランスや西ドイツで手工業の中心となった町を見ると、プロテスタントが雇い主でカトリックが雇われ人というのが典型だった。スイスでは、プロテスタント区が輸出工業産業(時計、機械、織物)の中心で、カトリック区での主たる産業は農業だった。イギリスでは、十六世紀の終わりごろには圧倒的にプロテスタントが多かったが、ディセンター(国教反対者。カルヴァン派の記述を参考のこと)は産業革命黎明期の工場労働者のなかで不釣り合いなほど活動的で強い影響力を持っていた。

 理論的に見てもそうだ。事の核心は、新しいタイプの人、つまり合理的で、規則正しく、勤勉で、生産的な人が出てきたことにある。合理性や勤勉さといった美徳は決して新しい概念ではないが、それまではとても一般的とはいえなかった。これらの美徳を一般信者のあいだに普及させたのがプロテスタンティズムなのである。信者たちは、これらの美徳がどれだけお互いに浸透しているか判断し合った。ヴェーバー自身は驚くべきことにほとんどこの点に触れていないのだが、これは実に本質を突いている話だと思う。つまり、ある行為が普及していくには、集団の圧力と互いの監視が大切な役目を果たしていた。みながお互いを見て、いらぬ世話を焼いているのだ。

 次にあげるプロテスタントの二つの特徴を見れば、宗教と資本主義のつながりがはっきりと確認できる。1つ目は、少年のみならず少女たちにも教育と読み書き能力の必要性が強調された点である。これは聖書講読の副産物であった。プロテスタントの信者は自分で聖書を読むことを求められた(一方、カトリックでは口頭で試問を受けることはあっても、自分で読むことは求められなかったし、聖書を読むことは認められていなかったくらいである)。結果、読み書きの能力はぐっと高まり、高等教育に進めるだけの能力を持った者が増えた。また、世代から世代へと読み書きの能力が確実に受け継がれていった(母親が読み書きできるというのは非常に重要だ)

 2つ目は、時間の観念の重要性である。あまり社会学者の目には留まらなかった証拠がある。それは、時計の製造と購入である。フランスやバイエルン地方といったカトリック地域でも時計職人のほとんどはプロテスタントだったし、時計の使用と田舎への普及は、カトリック諸国よりもイギリスやオランダといった国のほうがはるかに進んでいた。時間の観念ほど田舎町の「都会化」を証明するものはない。そうして、それは価値観や嗜好が急速に田舎へも拡散したことを意味する。

 しかし、これは、ヴェーバーの「理想」とする資本主義者がカルヴァン派やその分派にのみ見られると主張しているのではないのだ。何宗を信じていても無宗教であっても、合理的で、勤勉で、規律正しく、生産的で、清潔で、しゃれっ気のない人になれる。あるいは、そういった美徳を身につけた人でもみながみな商売人になることもない。どんな分野でも十分に活躍できる。ヴェーバーの論理というのは、その時代にその場所で(1518世紀の北ヨーロッパで)、それまではあまり見受けられなかった性質を持った人たちが、宗教の刺激によって多く出現するようになった、そして、この新しいタイプの人たちによって、われわれが(産業)資本主義と呼んでいる新たな経済(新しい生産の形態)がつくり出された、というものである。

 加えて、産業分野での固定資本(設備や工場施設)の必要性もあった。知識と経験の継続的な維持、改良、蓄積のために、継続性が非常に重要な問題となってきた。こういった工場経営は、いままでの重商主義的なものとはかなり違っている。重商主義では、資本と労働力は特別の流通形態を取っていた。つまり、何か航海や冒険を控えたときには集まらせて、のちには解散させるというものだった(イギリス東インド会社も初期のうちはこの形態を取っていたが、まもなく継続性のある流通が不可欠であると認識された)。

 新しい経済のこのような必要性にも、ヴェーバーの「理想の」企業主ならば気質の面からも労働の習慣の面からもきちんと適合できた。自尊心と経済の継続性に関連があると強調した先ほどのトー二の説が、この場合しっくりとくる。

――― 宗教改革で進む"権威の否定""魔女狩り。

 この新しいタイプの職業人があちこちに増えていったというのは重要な点だが、これは南部から北部に経済力と富が移ったということの一面でしかない。移動したのは金だけではない。知識、特に経済の可能性を広げる科学的な知識の中心も北部に移った。宗教改革以前は、南部ヨーロッパが学問と研究の中心であった。スペインとポルトガルは、キリスト教とイスラム教の文明の境界に位置し、ユダヤ人の仲介という利点があったし、イタリアは自らイスラム文明と接触があったからだ。スペインとポルトガルが早々と負けてしまったのは、宗教的な情熱と聖戦を通して、アウトサイダ(ユダヤ人、のちには改宗した人)を追い出し、少しでも変わったものは異教の可能性ありとして受け入れなくなったからである。しかし、イタリアはその後もヨーロッパが誇りとする数学者や科学者を輩出した。イタリアに最初の学士院(口ーマのリンチェイアカデミー、1603)が設立されたのは決して偶然ではない。

 一方、宗教改革がすべてを変えた。文盲は減り、国教反対と異教の芽が出た。また、これが科学振興の核心なのだが、懐疑主義が起こり、権威の否定が促された。カトリック諸国はその挑戦を受けて立とうとはせずに、堅く門を閉ざして非難することに終始した。オランダなどを含む低地帯も支配下に収めていたオーストリアのハプスブルグ家は、ルターの意見書に激しく反発した。国内にマラーノ難民がいたために、ハプスブルグ家のヒステリーは一層ひどくなった。マラーノは正教会の敵として恐れられ、嫌われており、新たな教義を広めて世を乱したとして糾弾されていた。

 禁止令が雨のように下されるようになった(1521年を皮切りに)。異教の本は出版はいうに及ばず、読むことも禁止された。スペインの聖俗の支配者は、ルター派(当時、新教徒はみなルター派と思われていた)は、国教に反対しているキリスト教徒ではなく、もはやユダヤ人やイスラム教徒といった敵と同じ、非キリスト教徒だと考えていた。宗教裁判を止めようという考えは棚上げされ、聖俗の支配者はともに思想や知識、信念をも管理することに懸命になった。1558年には、無許可で外国から本を輸入したり、無免許で印刷したりした罪には死刑が導入された。大学は、教化の中心へと変えられた。非正統や危険だと見なされた書籍は『禁書目録』(ローマでは1557年、スペインでは1559)に掲載され、安全と見なされた書籍のみが公式な印刷許可を得て世に出ることができた。スペインの目録には、著者がプロテスタントだからという理由で禁じられた科学的著作もある。生命の危険を冒しての密輸もあったが、新しい考えが社会に普及するスピードはぐっと抑えられてしまった(『ドン・キホーテ』が出版された当初の書評と粛正を思い出してほしい。問題は、それが気まぐれだけが原因で起きたのではなく、そこにはばかげた理由、つまり、幻想が幅を利かせ知識に飢えた社会に危険をもたらすつまらない事柄がある、ということである)

 破壊的な思想に染まってはいけないという理由で、スペイン人は留学も禁止された。同じ年(1559)、スペイン王はローマ、ボローニャ、ナポリという安全な場所以外の大学に留学することを禁じた。その影響は強烈だった。それまで医学を学ぶ者はモンペリエ大学(フランス)に行っていたが、それでいけなくなった。1510年〜59年には248人の学生がそこに行っていたが、1560年〜99年にはわずか12人であった(この12人がどうやって行けたか、実に不思議だが)。破壊的な科学者たちは、

 沈黙を強いられ、自己批判を迫られた。思想コントロールを行ない、正統のみを強化する体制は、禁止と懲罰で満足することはなかった。罪深い者たちは罪を告白し悔い改めなければならない。自分と他人の魂の救済のために。

 こうして、迫害は果てしない「魔女狩り」へと続いていく。密告者が雇われ、近所の人に詮索され、人種主義者の血統狂がつきものの魔女狩りへと。密告者から寄せ集めた証拠、たとえば、豚肉を食べなかったとか、金曜日に新しいシーツをおろしたとか、祈りが聞こえたとか、教会に規則的に出席しないとか、言葉の使い方を間違えたとか、そういう些細な証拠をもとに、ユダヤ教徒と化した改宗者が捕らえられた。

 特に、清潔さが疑いのもとになり、入浴は背教者の証しと考えられた。マラーノ人やムーア人と同じだったからだ。『被疑者は入浴をしているので……』というフレーズが、宗教裁判の記録にしばしば見受けられる」。異教徒はそもそも汚れているのだ。汚れなき人は洗う必要がない。このようにしてスペインとポルトガルは自らを貶め、衰退していった。異説を認められない狭量さは、犠牲者よりも迫害者のほうを傷つけるのだ。

 それゆえイベリア半島は、いや地中海地域のヨーロッパは、科学革命の汽車に乗り遅れてしまった。1680年代、バレンシア地方の医師ファン・ドゥ・カブリアーダは、旧式のガレノス派医術を信奉しているマドリッドの医者連中に、ハーヴィーの血液循環の説を受け入れるよう説得したが、徒労であった。スペインはいったいどうしたのか、と彼は問う。「これではインディアンと同じだ、新しい知識を身につけるのがいつも最後になってしまうのだ」、と。

 イギリスの歴史家ヒユー・トレヴァー・ローバーによると、これ以後300年間の南部ヨーロッパ諸国の運命に封印をしたのは、プロテスタンティズム自体というよりはむしろ、この反動的、反プロテスタント的な後退である。このような後退は予定されていたわけでも教義にもとづいているわけでもない。しかしひとたびこの道を歩み始めた教会は、真実の宝庫であり監督者でもあるはずなのに、間違いを認めて道を選び直すことはむずかしかった。どのくらいむずかしかったのか。ほぼ400年後の現代になって、とうとう、ローマがガリレオの名誉を九分どおり回復させた、と聞く。それほどむずかしいことだったのだ。

 

――― イタリア科学界の破局を象徴した天才の告白

 ガリレオ・ガリレイは聖者ではない。しかし彼は天才であり、フィレンツェの、イタリアの、ヨーロッパの、いや世界の宝だった。彼は実験科学の分野での先駆けであり、鋭い観察眼と切れる頭脳を持ち、同一時に強力な論客でもあった。しかし1633年にローマ教会から命令不服従と異教を理由に糾弾された。

 「太陽が世界の中心で不動であるという見解は、ばかげており、間違っています。そして聖書に書かれていることに明らかに反しているので、公式的に異教であります」

 こういう目にあったのはガリレオが最初ではないし、最後でもない。彼の事件ほど有名ではないにしても同じぐらい重大な事件だったのは、16002月、ローマで元ドミニコ修道士のジョルダーノ・ブルーノが火刑にされたというものである。彼は哲学者で、その宇宙観はコペルニクスやガリレオの描いたものよりもはるかに、現代信じられているものに近かった。つまり、無限に広がる宇宙空間、燃えて輝く何十億もの星、太陽の回りを自転しながら回る地球、原子で成り立つ物質、そうしたものを彼は思い描いていた。そして、それらすべてが神秘と魔術に関連する、異教のものと見なされた。ブルーノの火刑は、科学と人々の想像力に制限を加え、ローマに縛りつけておきたいという教会の考えを示しだ事件といえる。しかし、ガリレオが研究して自説を述べることができていたあいだは、まだそれだけの自由は残っていたということだ。

 それはほんの一部にすぎない。ガリレオによる過ちの告白はこの14倍ほどの長さがあった。目的は、教義を明言することではなく、異教を告発することであり、罪を認めてローマ教会の権威を承認させ、心から改俊の念を抱いているということを詳細にわたって公に示させることであった。これは教皇の権威が絶対的な制度の下での思想統制のあり方である。つまり罪を証明することが目的ではなく、罪があるとその罪人自身と社会の構成員たちに思い込ませることが目的なのであった。

 教会がなぜ天動説を争点にしてそれに固執したのかには謎が残る。聖書には天動説に固執すべき根拠は見当たらない。聖書には空を横断したり止まったりする太陽を象徴として扱っているところがたしかにある。時には比喩としたこともあっただろうが、それを、地球にいる人の目に映った単なる現象として解釈することだって簡単にできたはずだ。口ーマ教皇庁は、信念や従順さの薄紙をはがしたりしないで無視することだってできたはずだ。しかしこの激動の時代において教会は、教義に権威づけを行なおうと躍起になった。なぜなら当時、教義が統治のしるしであり、道具であったからだ。やがて、ガリレオは知的な高潔さと議論好きの性格のために論争を楽しむようになった。恐るべき論客であるガリレオは、敵対者を容赦なく論破した。そして、聖職者のなかにはそういう輩が実にたくさんいたのだ。しかし、絶大な権威、陰謀、野心、中傷、裏切りなどが渦巻く口ーマの社会にあって、これは危険なゲームだった。ローマ帝国と争っている者がもっとも喜ぶのは教皇の死である。なぜなら教皇が変われば権力とその所在地の組み替えが必ず起こるからだ。今日はこちら、明日はあちら。今日の友は明日の敵。このような状況下で、ガリレオは誰も頼りにできなかった。さらに悪いことに、穏やかな警告を受けたガリレオが選んだのは、「一般に公開する」という道であった。彼はラテン語ではなくイタリア語で論文を出版した。そうすれば内輪の論争を超えて、もっと多くの人に訴えることができると考えたからだ。その結果、彼は異教を大衆化(俗悪化)したことになり、教会側はもう我慢ならないということになってしまった。

 そうしてガリレオは「罪」を告白した。彼はそれでも最後に不屈の精神で「それでも地球は動く」と申し述べたと伝えられているが、以後は自宅に軟禁され、有能で革新的な科学者としての生涯を終えた。この偉大な男が成功を収めていたあいだは、しだいに強くなる反宗教革命の「束縛」にも耐えていたイタリアの科学界であったが、ガリレオを失ったとき、破局を迎えたといえる。

 

   

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