心と形
司馬遼太郎
ヘんな題名ですが、この題名でいう心とは霊(ソウル)のことだと思っていただきます。形とは肉体のことです。
内容は、多分、私自身が、どうもヘンだなとおもっている疑問をきいていただくだけということになるでしょう。私は子供のころから、日本人の世界におけるこの二つの関係がふしぎでした。
私の家の宗旨は浄土真宗ですから、死ねば私はお浄土へゆくことになります。しかし、私を構成している何がゆくのでしょう、髪の毛がゆくのか、日本仏教は、遺骨遺骨といいますから、骨がゆくのか。
しかしそれらは単に物質ではないか。お釈迦さんも、肉体は物質だという意味のことをおっしゃっています。
「死んだら、なにがお浄土へゆくのでしょう」
お坊さんにきいても、おそらくはっきり答えてくださらないはずです。こんなことに答えると、お坊さんのお仕事にさしつかえるかもしれません。
「あなたのぜんぶがゆくのではありますまいか」
とおっしゃった良心的なお坊さんがいらっしゃいました。
しかし私のぜんぶといっても、肉体的には齢とともにちがいます。私はくたびれやすい年齢になっています。こんな衰えた肉体がゆくよりも、若いころの元気な肉体がゆくほうがいいにきまっています。
むろん冗談です。肉体は、細胞からなり立っています。時々刻々変化しています。変化することの総和が生命で、写真で撮るようにその瞬間の生命を固定することはできません。だから「ぜんぶ」といっても、いつの瞬間のぜんぶかというややこしいことになり、そもそもそのような固定的瞬間というのは生命にはありえないのです。
釈迦の仏教は、朗々として明快でした。時間によって変化するということを踏まえきった上で、空(数学でいう0)という世界を構築したのです。
しかしお釈迦さんのように明快すぎては、仏教はながくは民衆のなかで根づきません。げんにインドで衰弱し、日本仏教もまた土俗思想と癒着し、かろうじて存在しています。
世界じゅうの未開時代には、ヒトダマ、ユウレイ、つまり死後も肉体を離れてうろついている、あるいは生きつづける、という人格的な霊魂(アニマ)が存在するものと信じられていました。とくに日本の古代からの土俗信仰では、根づよくそのようでした。たとえば、日本では、怨みをもって死んだ人の霊魂はいきいきとして他の人間に対して作用をするというのです(御霊信仰)。
御霊信仰は、九世紀にははっきりとあらわれています。京都の上御霊神社や下御霊神社がその代表的なもので、政治的にうらみをのんで亡くなった人がこの世にたたりをなすという信仰です。仏教とも習合してきました。そのようなアニミズムにあっては、なお肉体はアニマの仮の宿である、と考えられてきました。つまり肉体のはかなさや有限性が前提になっています。肉体が滅んでも、死霊だけは地上にあってこうこうと輝き、活きて働き、人のくらしや運命に影響をあたえます。地震や火事をおこさせたりもする。まことに、人は死霊になったほうが、賢くて働き者であるかと思えるほどです。菅原道真公の死霊をまつる天神信仰がその代表的なものでしょう。朝敵平将門をまつる神田明神もそうです。道真さんも将門さんもお浄土に行って、蓮の花の上にすわっておられるといったようなのどかなものではないのです。
ここで、お浄土についてのべておきます。
半世紀前、北陸あたりには、
「お他力さん」
とよばれる熱心な門徒(浄土真宗の宗徒)がいました。他力とは、阿弥陀如来の本願ということであります。それが自分を救ってくださる、ありがたい、ありがたい、と念仏をとなえているうちに、いつのまにか、禅のような自力で悟った人よりも宇宙に同化してしまっているようになっている。語がわき道にそれますが、この思想が、柳宗悦の民芸思想の基盤になったり、棟方志功の絵画思想を成立させたりしました。
十三世紀の親鸞は、そういう門徒たちの教祖であります。親鸞によって出発した浄土教的日本仏教は、明快さにおいてまことにみごとなものであります。浄土教は救済(原始仏教には救済の思想はありませんでした)を説きつつも釈迦以来の空の思想の上に成立しています。
しかも、それまでの仏教のなかに混在していた非仏教的な枝葉のいっさいをとりはらった思想でした。
親鷲の浄土思想はまことに簡便で、
「空」
という大思想を、阿弥陀如来という唯一名にしたという大胆なものでした。阿弥陀如来は、つまり空は、悪人も善人もわけへだてなく救ってくださる、…あたりまえのことで、みな死ぬということです。悪人も善人も死の前には平等なんです。“みな死ぬ”とはいわず、ことごとく救済される、という。価値が転換されたのです。驚天動地の転換でした。
空は、万物を死なせ、うまれさせる、それが空の本願である、死ではなくて、往って生きること(往生)なのである、このように転換して考えればまことにありがたく、私どもとしてはひたすらに感謝して、御名を唱えまいらせねばなりません。
くりかえすと、人は死ぬ、善悪とかかわりなく死ぬ、みな死ぬのです、一切空なのです。
しかしながら、親鸞は空は永遠のもので、しかも光だというのです。無量寿にして無量光。空は光だからこそ、いっそそのことを讃えましょう、ということです。すばらしい教義だと思います。
しかし、古代以来の霊魂(アニマ)の問題を、皮一重であいまいにしたままこんにちに至っているのは、残念なことです。むろん、浄土真宗は霊魂など存在しない、という立場です。だから、浄土真宗は御霊信仰を否定します。
さらにいえば、浄土真宗だけでなく、仏教そのものが、人間には霊魂があって、肉体がある、というようなキリスト教的な霊肉二元論はとっていません。
そうなると、親鸞思想(浄土真宗)にあっては何がお浄土にゆくのか、朽ちはててゆく肉体をふくめてぜんぶがゆくのか、という点で、あいまいさが残るのです。
浄土真宗にかぎらず、本来の仏教にとっては霊魂などは存在しません。
先祖が冥々裡に現世に影響をあたえるという意味での祖霊思想も仏教にはありませんし、菅原道真の怨霊がたたりをおこなったという御霊思想も、むろん存在しません。化ケデ出テヤルゾ、というのは日本の土着思想であって、仏教にはありません。
中世の物語に、仏教の坊さんがお経を誦んで怨霊をしずめた、というのが多いのですが、それらは民間説話を仏教の宣伝に用いためであって、釈迦の法にはそういう思想はありません。仏教は陰火の燃えるようなえたいの知れない、じめじめした景色の世界ではなく、はるかに大きく、もっと説明可能の世界です。徹頭徹尾明るい思想なのです。日本にきてちょっと陰気になっただけです。
人間個々の固体のしんはなにか、ということになると、キリスト教では、日本の土俗信仰の霊魂(アニマ)でなく、霊魂(ソウル)であるとします。このことについては、あとでのべます。仏教は、キリスト教とは根底からちがった思想ですから、霊魂に相当する概念がありません。
強いて――まことにむりやりに言いますと――仏教における霊魂は、”我”であります。
“我”とは、人間一個を煮つめて凝固させたようなものであって、キリスト教における霊と肉というような、それぞれ単独で個別的な、あるいは対立するものではありません。
ここで、余談を挿入します。
私が、霊と肉(心と形)などという、古めかしくて退屈な主題についてなぜ喋っているかについてです。
臓器移植に関係しておられる医者に何人かの知人がいて、対社会的な認証やら理解やらをえることの臨床家としての困難さについて打ちあけられたことが何度かあります。
欧米では無私なるドナーが多くいます。日本では、自分の臓器を――死後といえども――他人にやるということをためらう気分がふつうです。
「私の臓器をどうぞ」
と、なかなかひとびとは言ってくれません、とその医者がこぼしていました。私にとってこの課題は深刻でした。なぜなら、私は作家のくせに、人間一般についてよりも、日本における人間についてということを考えてきたからです。われながらそれが矮小だとはわかっているのですが。
「ひょっとしたら、十三世紀以後、怠けつづけた日本の仏教界のほうに問題があるのではないでしょうか。いまになって、日本の古代以来の精神風土と対決――それも医者がせねばならぬというのは悲惨ですね」
と、感想をもらしたことがあります。その後、この感想をひとびとにきいてもらおうと思いたって、このように喋っているのです。この稿は、ことし(1990年)の晩春、東北大学医学部の同窓の会で話した内容に、手を入れたものです。
さて、“我”というのは、私なら私という者のしんらしいのです。
“我”は、古代インドの正統バラモン思想の淵源とされる「奥義書」の世界では、アートマン(梵語)というまことにひびきのいい単独の術語であらわされています。個我のことです。
中国仏教や日本仏教では、ただ単に“我”といいます。近代以前の日本語世界で、「あの人は我がつよい」とか、「我利我利亡者」とか、「我を殺せ」とかというように、大変虐待されてきた概念です。
しかし本来の仏教にあっては、個々の生命は”我。であり、“我”はすばらしいものになる可能性をもったものとされます。なぜなら“大我”というのは、諸仏のことなのです。ただし、仏教はつねに二律背反的な表現をとります。“我”は幻だともいいます。
大変ややこしい問題をごく簡単に申しますと、霊魂(ソウル)がキリスト教の根本思想に根ざしているように、“我”は仏教の根本思想に根をもっています。ところが、キリスト教が、霊魂はどうあるべきか、というのに対し、仏教では、こまったことに、我を説きつつも、「“我”など実在しない」というのです。「いわば幻である。”我”は絶対的に実在しているものではなく、“縁起”として(関係として)存在しているだけのものだ」とにべもありません。
縁起というのは、
「縁起がいい」
のあの縁起のことです。
つまり相対的な関係性のことです。“あれが生じたから、これも生じる”というようなものです。“あれが減したから、これも減する”、あるいはそれが縁になって“生ずる”ということでもあります。“我”というのはそういう相対のあやちのなかに点滅しているだけのものだ、というのです。
キリスト教の霊魂(ソウル)の尊厳に比して、なんとあわれな存在であることでしょう。
まことに仏教は薄情です。もっとも仏教におけるこの薄情さが最高のすばらしさでもあります。同時に仏教のもっともつまらないところでもあります。
なにしろこんな思想では、現実に懸命に生きようとしている人間に対し、あるいは存亡の危機からはいあがろうとする文明に対し、まことに無力にもなってしまいます。「お前さんたちが自分だとか人類だといっているのは仮の現象にすぎず、文明というものも幻なんだよ」というだけでは、たとえば、いま世界じゅうが地球を守ろうとしているとき、へのつっぱりにもならないからです。七世紀の聖徳太子が大好きなことばだった、
「世間虚仮」
というのを思いたします。世間というのは現象世界のことで、こんにちでいう、世界の意味です。世界は虚仮、仮のものである、というのは、七世紀の当時だからこそ――その程度の生産能力しかもたなかった古代だったればこそ――すばらしいことばだったでしょう。「世間虚仮」というのは、対句のようにして、「唯仏是真」とつづきます。“唯仏是真”の場合の仏とは、宇宙・万有の大原理というものです。宇宙の原理だけが真実なんだよ、というのです。そういわれても二十一世紀に近いいまの“世間”では、寝言のようにしかひびきません。
――しかしながら。
と、仏教ふうの二律背反で申しますと、
「世間虚仮、唯仏是真」
というのは、宇宙は生命そのものだ(大我である)、だからこの大我の原理でもって世の中をよくしたい、ともとれるのです。そうなれば、われわれ個々も、いまの文明も元気づきます。聖徳太子がもしこんにちに生きていらっしゃれば、ご自分のことばをそのように解釈して世界に臨まれるでしょう。
“我”にもどります。
仏教ではいっさいの“我”は固体的実体ではない、というのです。人間の迷いは、“我”が固体的実体だと思いこむことから生ずる、“我”もまた仮のものだ、という。
またそのように思え、というのです。さらには“我”を無くすべし、「無我」こそ、宇宙の原理(仏)に一体化してゆくための実践の道である、というのです。
私は、このような仏教思想が大好きで、二十歳前後からの自分の支えでもありました。
この仏教における「無我」の論は、臓器移植的な分野の中で申しますと、
「自分の体のどの部分も、わが所有物ではない」
ということになります。だれの所有物か。宇宙の原理が、仮の姿として自分の体や胃や骨髄や肝臓や皮膚や角膜といった形をとってあらわれているだけのものだということになります。たとえば、田中太郎という日本人五十二歳の所有物ではない、もし――ここが大切なところですが――自分の臓器を自分の所有物だと思った瞬間、かれは仏の世界から離れ、餓鬼道に堕ちるというものです。
まことに、仏教はすっきりとした思想であります。
しかし、上げたり下げたりしますが、かといって、仏教は田中太郎氏に対し、どうせよ、という倫理的課題をいっさい出して来ないのです。
むろん仏教には、その体系としては第一義的ではない心の働きとして、利他とか慈悲とかの働きはありますが、しかし「わが所有ではないから、病める人達のために臓器を役立てたい」という積極的な倫理的強制性は、ただちに仏教からは出てきません。だから、仏教はどことなくだらしないのです。
そのような、つまり人類の助け合いということは、多分にキリスト教の世界であって、仏教の原理に根ざしたものではないのです。
日本には何十万人というお坊さんがいらっしゃいますが、その多くの僧が、「私が死んだら、私の臓器を、不特定のひとびとに役立ててください」という生前遺言をしておられるという話はきいたことがありません。
そんなことをしても解脱(自力門)もしくは往生(他力門)のかんじん要にかかわるということはないのですから。このようにみますと、仏教は思想として改造されないかぎり、手前勝手――つまりミーイズム――な宗教だということになります。
霊と肉のことです。
キリスト教においては、断固として霊魂(ソウル)があります。ただし、人間にかぎってのことです。
ネコやイヌにはありません。むろんキリスト教にあっては霊魂は非物質です。肉体が生きているときは肉体と結合して肉体に生命をあたえている生命的原理であるとします。
私は、いまは読みませんが、子供のころ、徳富蘆花が好きでした。というより家にたまたま『薦花全集』(昭和三年新潮社)があったせいですが。
ともかくもこの明治期におけるクリスチャン(メソジスト教会で受洗)を読むことから、大人の世界に迷いこんだのです。
子供心にも、蘆花の自我の大きさには閉口させられました。自分を罪深いと思う心のはげしさや、人並み以上かと思える性欲の大きさは、少年の読者としては、ついてゆくことが困難でした。しかしともかくも自分自身の中の罪を悪だとおもいつづけた徳富蘆花という文学者の書いたものを通じて最初にキリスト教的気分に接しました。
蘆花にあっては「霊と肉」ということばが多用されています。当方は子供でしたから、はじめ霊という語感が、幽霊とか亡霊とかといったおそろしいものと親類であるかのように思われて、人間を成立させている魂(ソウル)であるとは、容易に思い至りませんでした。また肉は肉欲という、くらくらするほどなまな語感の仲間のように思えて、奇妙な感じてした。
長じて、生きた人間を構成している肉とは、英語でfleshということを知って、わかったような気がしました。またtheがつけば人間性とか、人間における獣性、または肉欲のことになるということを知りました。やっと蘆花を通して最初に感じた語感と隔たりがないことを知ったのです。
作品のなかでの蘆花は、霊と肉の二元的相剋になやみつづける人でした。
霊が、忍耐、貞節、謙譲、信仰といった高潔に向かおうとしても、肉がそのようにさせないのです。それどころか、ともすれば肉が霊を裏切って悪魔のささやきに従い、多淫や憤怒に傾いてしまうのです。蘆花の霊は悔恨し、肉を憎むのです。
どうも蘆花だけでなく、明治のプロテスタントには高貴な幼さというものがあって、ひるがえっておもうと、明治という時代が生んだ偉大さだと思います。
蘆花が、自我についてあれほど苦しみながら、しかし仏教には一顧だにしませんでした。明治の知識人は、仏教は維新とともに清算した、とどこかでおもっているところがありました。
死ねばたれでも極楽にゆけるという、浄土真宗が手近にあるのに、かれらにはそれがどうにも安易に思え、ばからしく思えたのでしょう。霊、つまりキリスト教徒的自我を確立し、鍛えぬくことがすくなくとも蘆花のねがった生であったのです。蘆花にすれば、霊と肉の相剋に苦しみぬいた生がおわると、その自我が天国にゆく。ゆけるかどうかはべつとして、ともかくも生を霊と肉とのたたかいの場として考えるところに薦花が信じた“近代”があったのです。
それはむろん、傍目からみて、欧米の敬度なプロテスタントの模倣だったとも言えるかもしれません。
しかし私はそうは思わず、新島嚢や内村鑑三などを典型とする武士道の変形としての明治の新教徒の同心円の中に、自虐的なほどに内省心のつよかった蘆花がいたと思いたいのです。
これは蘆花論でなく、明治におけるキリスト教的霊の課題の一例としてのべたまでです。
キリスト教が霊肉二元論であることは、すでにのべました。むろん、神学的にはいろんな議論があるようです。
原始キリスト教の時代はこの点、不明快だったようですが、ごく初期のころから、キリスト教神学がギリシア哲学を援用するようになって、霊肉二元論が確立されたようにきいています。とくに、蘆花もそうであったように、プロテスタントの信仰においては、霊と肉が二元的に対立するという観念が、人間理解の基本になったようです。
キリスト教的な人間理解の観念にあっては、死は単に肉体という道具の崩壊にすぎません。人は死体になってしまうと、すでに、彼でも彼女でもなく、物質にすぎず、単にそれで指し示されるべきものになります。まことに明快です。
生前から、肉体はすでに道具であります。その人間の上下が論ぜられるべきは魂であって、肉体は生きるための道具にすぎません。
この二元論的明快さこそ、ヨーロッパにおいて神学や哲学を深めさせたもとの構造であり、日本ではそうではなかったために、あいまいさをのこして近代に入ってしまったのかと思ったりします。
なんといっても、土俗的日本においては、死ねばいきなりホトケです。
さらには、死骸そのものが、ホトケとよばれます。
「ホトケさんは、どこにおられます」
「居間です」
これは、通夜の席で無数にかわされつづけている会話でしょう。
むろんこの場合のホトケは正統の仏教からきたものではなく、土俗と習合して俗語になった意味でのホトケです。「この死骸はGodである」などとは、キリスト教では申しません。語法としてさえ成立しません。死骸がみなGodなら、世界じゅうGodだらけになって、収拾つかなくなってしまいます。
しかし、日本で土俗化した仏教にあっては、死骸をホトケとしたものですから、哲学的思考はいっさい吹きとび、否も応もなしに、死体そのものが宗教になってしまったのです。宗教は、証明不要の世界です。日本の仏教が十三世紀から停滞しているといわれるのも、死体崇拝にあるのでしょう。
こんな話、深夜に一人で井戸を掘っているみたいで、聴いておられてもお疲れになるでしょう。
一休みするつもりで、一つの演劇的な情景を申しあげます。
織田信長が、英気溌剌としていた時期のことです。
信長は、二十六歳(満年齢)で尾張を統一しました。次いで進入してきた今川義元を討ちとり、三十三歳で美濃をあわせ、勢いを駆って流浪の将軍足利義昭を奉じて入洛したのは、その翌年でした。
かれはこの時代のだれよりも、日本が大航海時代の潮流のなかにさらされていることを知っていましたし、そのことを踏まえてのあたらしい日本統一の構想をもっていました。
かれにくらべると、甲斐の武田信玄や越後の上杉謙信は、歴史を前進させる政治家としては、思想的にははなはだ光彩を欠きます。
信長三十四歳の永禄十一年(1568)は、じつに多忙でした。上洛すると、義昭のために“二条御所”とよばれる将軍の第館の造営にとりかかり、現場の指揮もしました。
この間、さきに京都を支配していた松永久秀によるキリシタン追放令を解きました。といってかれがクリスチャンになったわけではありませんが。
かれはこの翌年春、上洛してきたイエズス会士ルイス・フロイスと、二条の造営現場の橋上で対面するのです。劇的光景です。
フロイスは、信長より二歳上で、ポルトガル人でした。六年前に日本にきて各地に布教し、京都や京都付近の諸大名と親交があった人です。もうひとついうと、最初の伝道者であるザヴィエルに次ぐ教養人でもありました。
すぐれた文才のもちぬしでした。その著作には、イエズス会の命令によって書かれた『日本史』があり、いまは柳谷武夫氏の訳で、平凡社の「東洋文庫」におさめられています。
そのなかに、信長も登場します。また信長の側近である朝山日乗(?〜1577)も出てくるのです。
日乗は僧でした。日という字がつきますが、日蓮宗の僧ではなく、当時、日本第一の学問所とされた天台宗(叡山)で出家した僧です。
いまの島根県出雲市に朝山郷というのがあって、そこに拠る朝山氏が、鎌倉期あたりに武士化して勢力があり、やがて戦国の世になって有為転変しました。日乗はその一族から出て僧になった人です。
当時、朝廷は衰微しきっており、日乗はそれをなげいて接近するのです。御所に出入りするうち、窮乏のなかにあった後奈良天皇の寵をえたといわれています。
また公家屋敷にも出入りして、加持祈祷などもし、要するに公家社会の廊下トンビというか、ロビイストのような存在でした。
上洛した信長は、日乗のような公家通を必要としていたので、かれを側近の一人に加えました。
日乗は、キリシタンぎらいでした。かれは信長の寛容さを不愉快とし、信長の方針を転換させるべくさまざまに術策を弄したために、ついには信長から疎まれました。信長は策士がきらいでした。その末路については、ここではのべません。
この程度の男が、ばかばかしいことに仏教界の思想的代表者であるがごとき立場になったのは、まあ乱世というものであったからでしょう。
かれは信長のまえでフロイスたちと宗論をするのです。負けてしまいます。
信長は宗論が好きでした。
宗論を、日乗、フロイスのどちらが希んだのかはよくわかりません。
場所は、前記の二条の橋上ではなく、後日、フロイスが信長の宿館に伺候したときに、偶然かどうか、おこなわれてしまったのです。
日乗の敗北は、京都じゅうのうわさになり、大いに男をさげました。
一方、キリスト教側は、フロイスが議論ができるほどの日本語に通じておりませんので、直接日乗とわたりあったのは、日本人のいるまん(法兄弟。神父の下にあって、雑用をする階級)のロレンソでした。
ロレンソは肥前うまれと推定されています。視力に不自由があり、琵琶法師として旅をしていた人で、このとき(1569年)から十八年前、山口にきたザヴィエルに会い、受洗しました。
その後、この日本人の修道士は日本布教にあたって異能ともいうべき働きをします。かれは教義にもポルトガル語にも通じ、さらには仏教についても一通りの教養をもつ人物でした。
ロレンソたちの準備は周到でした。
かれらはあらかじめ叡山に登り、日乗の師の僧であるシンカイ(何者だったのか、諸説がある)に会うことからはじめるのです。シンカイから仏教の本質についてきいているのです。
たとえば、「心身とはなにか」とシンカイにたずねます。シンカイは仏教の立場から以下のように答えます。
「我等(人間)が生きているあいだに持っている要素は、死によって我等から離れてゆくものである」
このあたりを説明しますと、生体を成立させている諸要素とは、仏教語でいう五薀のことでしょう。
人間は、五つの要素で成っているというのです。一つは身体という物質的要素。身体はあくまでも物質であって、この点、キリスト教とすこしも変わりません。蘆花のいう“肉”です。二番目の要素は、感覚とか、感情です。三番目は、心にうかぶ像。むずかしくいうと、表象というべきものでしょう。
四番目は、意志。単純に申して、心のことです。
五番目は、識。対象を見わける認識作用のことです。
以上べつに順序はありませんが、ここで仮に何番というように言いました。一番目の身体以外は、すべて精神的部分です。
要するに五薀とは、この話の題のとおり、「心と形」ということであります。
仏教では、それらはすべて空だといいます。「般若心経」にも「五薀皆空」とあります。
五薀皆空とは、人間を構成している身心(心身)は、五薀より成っている、しかも、定まった本体がないのだ、要するに無我である、ということです。仏教というのは、きびしいですね。
しかし、科学という立場からいっても、五薀は皆空で無我だということになるのではないでしょうか。
ここで、「無我」の解釈をもう一度くりかえします。
みなさん、退屈でしょう。むろん私の責任でもありますが、歴世の日本仏教のにない手たちが、仏教の教説を大昔の中国語の翻訳のままでこんにちまで継承してきたせいでもあります。
仏教語とよばれる漢文・漢語は、現在の日本語のなかでは、魅力的な生命をうしなっています。たとえば、
「無我」
このせっかくの意味ぶかい言葉も、ひびきとして私どもの現役の言語から遠いものになっています。
無我についての意味をくりかえすについては、中村元博士の『仏教語大辞典』(東京書籍刊)の「無我」の項をひきます。この数行のなかに、仏教の本質がすべて入っているといわざるをえません。
我ならざること。我を有しないこと。われというとらわれを離れること。我でないものを我(アートマン)とみなしてはならないという主張。われという観念、わがものという観念を排除する考え方。アートマンは存在しないこと。霊魂は存在しないこと。
バラモン教は、キリスト教とおなじく、自我(アートマン)という観念を大切にあつかいますが、仏教はアートマンは存在せず、ということを「無我」という概念に含めているのです。さらには、「霊魂は存在しない」
と、無我の概念はいうのです。このあたりは、仏教の凛として大切なあたりです。
この場合での霊魂には、多分にアニマ、私どもの土俗でいうヒトダマとかユ―レイといったこともふくみます。仏教の立場は、この点において哲学上の無神論であり、また霊魂否定論でもあります。
キリスト教が、霊魂を重んじる上に成立していることは、すでにのべました。信長の前にいるロレンソはなかなか物事の上手な人です。
かれは双方の核心を、大げさにいえば、比較宗教学に展開しようとします。
キリスト教の霊魂に似た仏教の概念は、「仏性」ということです。
「仏性」
またしても仏教用語が出てしまいました、仏性についての説明をくどくどすると話が枝葉にわたってしまいますから、なたで割木を割ったように申しますと、「本然の心」ということです。「心と形」という題における心と考えてもらってもよろしゅうございます。「本然の心」とは、すべての人にそなわっていて、宇宙の普遍的な原理(空)に結びついてゆける(悟りをひらくことができる)能力のことです。また真の人間性ということでもあります。人間がそなえている仏性は、だれもが本来けがれのないものだ、という考え方が基調になっています。
仏教は、それほど尊い仏性を人間はみなうまれながらにして備えているというのです。となると、仏性とはキリスト教の霊魂(ソウル)に似たものではありませんか。
さて、叡山においてロレンソもそう感じます。
「霊魂に似たものですね」
と、ロレンソは右の学僧シンカイにたしかめたのです。
「似ている」
とは、シンカイは言いませんでした。ロレンソにすれば、もし叡山の学僧が、似ている、といってくれれば、“両教はよく似ているのだ”という論を日乗の前で立てることができます。つまり、“キリスト教では霊魂(ソウル)が天国へゆくように、仏教では仏性が天国にゆく”といったように。
しかし、叡山の学僧は、とんでもない、とロレンソにいいました。以下は、仏教にとって大切なところです。
「仏性はいかがと申せば、これは死の最後の一歩の後に去りもせず、還りもせず、まして留まりもせぬ。しかして、これは実体も、形も、色もそなえておらず、また、黒自の別も無さものなれば、要するに、苦をも楽をも意に介せざるものである」(柳谷武夫氏訳)
つまりは、仏性も、五薀の中に入っていて、個体の死とともにすべて消えるのです。
仏教というのは、まことにおそろしい宗教ですね。一陣の風でいっさいが無に帰するのです。
すさまじいことをいう教説です。
信長が、正面にいて、そば近くに日乗がいます。フロイスとロレンソが、客としてすわっています。信長の家来たちが、座敷にも縁側にもびっしり詰めていて、三百人はいたとフロイスはいっております。
フロイスの文章では、日乗が悪役になるのはやむをえません。
日乗は信長にむかって“猫をかぶった穏やかさで”(フロイス)、「この伴天連の説く法について拙僧いささか聴いてみとう存じまするによって…それについて拙僧に語るよう上様より伴天連に命じてたまわらば嬉しゅう存じまする」と言います。そして信長はそのように命じました。
ロレンソの論述は、日乗への質問の形をとりました。
「朝山さん、あなたは、仏教のどこの宗旨を奉じておられるか」
日乗は、ずるく自分を演出します。自分については、終始、韜晦するのです。
「私はどの宗派にも属せぬ」とか、「仏教については私は何も知らぬ」とかいったように、日乗は答えます。自分をケムリのようにはっきりさせないのです。
ロレンソが、「日乗どのは叡山の名僧シンカイ上人の教えを受けられたとか」ときくと、「そんなこともあったが、今となっては何を学んだかわすれた」と日乗はいいます。動物的なほどの韜晦術です。私どもの先祖にこういう人物をもったことをはずかしくおもいます。
ロレンソは、シンカイが語った仏性の定義について述べ、
「日乗さん、仏性のことです、あなたもそのことはご存じのはずですね」という。
日乗は、またしても、自分は何事も知らぬ、と答える。いやなやつですね。やりとりが進んで、こんどは日乗のほうが、
「神(デウス)は色もしくは形を有するか」
とはげしく質問します。
ロレンソは、
「色とか形といった人間の肉眼で見るものは、無限なるものではありません」
といい、次いで、神についてのべます。
ロレンソの説明が進むにつれ、信長はあきらかに賛意を示したといいます。日乗はこのために狂うのです。
「上様、かれらは詐欺師です。流罪にして下さい」
と叫びました。信長は、笑ってなだめ、さらにロレンソに語らしめよ、といいます。
――人間の本質は霊魂(ソウル)です。
という意味のことをロレンソは言うのです。
霊魂のことをロレンソは一つの単語でいわず、「生命や精神」といいます。「生命や精神」が、キリスト教における霊魂の内容でありましょう。
「人間において最もかんじんなものは、肉体ではありません。人間の肉体は、生命に仕える道具以上の何物でもないことを御承知ください」
そのようにロレンソが霊魂についてのべたのに対し、日乗は大声をあげて笑い、
「……人間が死んだときに、何物かが残るというのか。その残ったものが、神から賞なり罰なりを受けるのか」
と、たたみこんでゆきます。日乗は、この一点が、キリスト教の弱点とみたのです。すくなくとも異教徒にはわかりにくい点だと私もおもいます。私は日乗が大ざっぱながらキリスト教の本質を見ぬいていると思って、感心します。たしかに、キリスト教は、この一点について歴世、負を正にするような神学的営みをつづけてきたのです。
これに対し、フロイスは、日本の宗教(仏教)が、無の原理にもとづいていることをよく知っていました。
ですから、キリシタンの神父が日本で目に見えない不減の霊魂のことを語ると、日本人たちが新奇におもうこともよく知っていました。一切空であると考えているかれらにとって、不滅の霊魂というが不審なのは、「何ら不思議ではない」と、行文のなかでいっています。
ロレンソは、神学的な言い方で、霊魂のことを、
「霊的実体と生命の原理」
というふうに説明しました。それは肉眼では見えない、とも言いました。
日乗は、全否定しました。
「夢の中でさえかような妄想はありえぬ」
妄想以上のものだ、とあざわらったのです。
さらに、ロレンソは、霊魂は目に見えない、とくりかえしました。
ついに日乗は大声をあげて、
「この場に持ち出して拙僧に見せよ」
といったのです。
これに対し、フロイスは、
「あなたはすこしも理解していない」
といいました。このあたりで日乗は狂乱し、フロイスに飛びかかり、胸倉をつかみ、さらに刀が置かれている部屋からそれを持ち出してきて、鞘からぬき放ったのです。
「この刀で、貴殿の弟子のロレンソを殺してやろう」
殺して、霊魂があるものなら取り出そうじゃないか、さあ霊魂を出してみる、とさわいだのです。まずいですね。
このとき、日乗の背後からひとびとが抱きとめ、刀をとりあげました。
以上はまことに見ぐるしい事件ですが、ただこの“事件”は、キリスト教よりもむしろ仏教の本質をあらわした、いわば見本として重要だと思います。
私は、どうも日乗のような世渡り屋さんが好きになれませんが、しかし十六世紀は乱世とはいえ、この程度の男でも、仏教の本質を知っていたことにおどろきを覚えます。仏教の本質をすこしも踏みはずさなかったことに感動するのです。
いまの町住まいのお坊さんで、日乗ほどのことが言えるでしょうか。その点で、まことに日乗はよくやったと思い、かれに可憐ささえ感じます。
まことに仏教は、無我という、無神論、霊魂否定に尽きるのです。ということは仏教は宗教なりや、ということにもなります。ひょっとすると、哲学ではないでしょうか。
さらにいえば、一種の科学、もしくは生命をふくめた宇宙への客観的態度ということではないか、とも、言えそうです。
「宇宙への、クールすぎるほどの客観的態度」
というのでは、宗教にはならないのです。
もっともそれをあえて宗教にしたところに仏教の凄味があります。
自他を客観化しきってしまったところに、悟りがうまれます。仏教が宗教であるというのは、悟りがあるからであり、仏教にとって悟りが唯一の宗教的要素でもあります。
もうすこし申しますと、客観的にも無我である、同時に主観的にも無我にならねばならぬ、そのようになることは――私ども凡人にとって――とてもむずかしいことですが、もうそうなればすなわち仏になったといえます。
あるいはせめてもの段階として、覚者になったということなのです。宇宙の原理と一つになった、ということです。そして時々刻々宇宙と一つになりつづけている。そういう状態を覚者といいます。大変ですね。
まことに大変なことです。空気と一つになっている、それどころか、太陽からふりそそがれている光そのものに自分がなっている。そんな大変なことが、私ども凡人に可能でしょうか。
第一、朝山日乗がそんな人でしょうか。
日乗が、光そのものになっていれば、クリスチャンにも十分にそのかがやきがわかりますし、ロレンソやフロイスも、かれを敬して議論などすることをやめたでしょう。
仏教を擁護する立場の日乗でさえ、こんな程度の男なのです。仏教のむずかしさは、そこにあります。
キリスト教の場合、信仰がもとであります。
信仰さえあればたとえ聖書の文字を読む力がなくともりっぱなクリスチャンなのですが、仏教はちがいます。
本来、みずから解脱するという道なのです。
仏が人間を救済してくれるという要素は、大乗教典以前にはほとんどありませんでした。
十三世紀の法然と親鸞にいたって、はじめて信仰ということが大きく成立します。
信仰こそ仏教の第一義であるという態度が――釈迦がきいたらびっくりするでしょうが――できあがったのです。
なにしろみずから修行して無我になる、解脱するというのはおそらく何十万人に一人の天才の道であって普通の私どもには、至難の道です。
いわば仏教というのは天才だけに許された門で、とてものこと、朝山日乗程度では解脱の階段はのぼれません。このため、仏からみれば救済、という機能がうまれ、衆生からみれば信仰という道がひらかれたのです。それが、大乗仏教です。
秦の始皇帝の地下宮殿や、日本の古墳でもわかるように、極東の古アジアでは、人聞は死ねば地下で生活するのだと信じられてきました。
仏教には、死後、地下で生活するというような思想はありません。従って死骸をうずめる墓もなかったのです。釈迦にも釈迦の十大弟子にも、墓があるという話はきいたことがありません。みな空に帰するのです。
解脱の仏教から離れてしまった浄土教(法然や親鷲)でも、空(阿弥陀如来)という光明に包まれるのだ、ということを、さまざまな古代的な譬えで説いていて、墓を重んじたりはしません。げんに江戸初期ぐらいまでは、庶民の葬送はまことに本来の仏教にふさわしいものでした。多くは石を置くだけで、そこに名も刻みませんでした。まして葬儀にあたって死体をホトケとして礼拝するということもありませんでした。
さきに古代的な霊魂崇拝について申しました。
日本の土壌においてもう一つ重要なことは、人間や動物の霊魂が、巫者(シャーマン)にとり懸き、それによって巫者の人格が一変するという宗教があることです。これによってその巫者は一定の霊魂やさまざまな霊魂と交通したり、また霊魂の力で病気なおしなどもします。
むろん、日本だけにあるものでなく、北方からいえば、モンゴルや古満洲、韓国、南アジアに色濃くのこっています。また古代中国にあっては、鬼とか鬼道どかいいます。シャーマニズムのことです。どうも私どもモンゴロイド一般の古信仰のことのようですね。
「あなたには先祖の霊がついています」
などという、おそろしい言い方は、いまの日本にもあります。決して嗤べきことではなく、私どもの精神史の最古層に属する場所から出ています。
唐突ですが、まだ南ヴェトナムに政権が存在した末期のころにサイゴンに旅行したことがあります。そのとき、サイゴン郊外を夜行軍していた南ヴェトナム軍の前方で幽霊が出た(むろん幻影でしょう)というので、一個部隊が潰走したという話をききました。うらやましい(?)ほど現役のアニミズムやシャーマニズムの世界があることを知りました。私どもの国の土壌は、それと同じ円内にあります。
朝山日乗が持っていた仏教が本来の仏教であったことは、すでにふれました。
「無我」
これはどうも、民衆にとっては、むずかしいというより酷薄すぎるようです。民衆は、“だからどうなるんです”ということを望みます。
私が極楽往生ができるのか、できないのか、病がなおるのか、なおらないのか。
日乗の師匠のシンカイは、叡山の僧だったものですから、超然と学間の純粋さを保つことができました。なぜなら、民衆に媚びなくても、寺領のコメを食べることができ、学問を守ることができましたから。
その点、民衆のなかにいる僧は、大変だったでしょう。民衆といってもさまざまですが、その一部はいつの世でも文化の古層をひきついでいて、さきに、幽霊が出た、で潰走した南ヴェトナム兵を、ひょっとすると笑えないかもしれません。
仏教がそういうアジア的古層と癒着しはじめたのは、室町時代ぐらいからかと思います。仏教がもつ痛烈なほどの空観(一切皆空という理を体得するための観のこと。観とは、物事を見きわめて本質をさとること)を僧みずからくずしはじめたのです。仏教を守って窮するよりも、食べてゆけることを考えはじめたのです。
寺領をもたない寺が、葬式をはじめたのも、室町時代からだと思います。そんな室町時代でも、さすがに僧位僧階を持った正規の僧は葬式をつとめたりはしませんでしたが、私度僧、聖よばれる人々が、死者をとむらっていくばくかの金を得るようになりました。
葬式をやれば、死体そのものが仏である、という態度をとらざるをえず、民間のほうも、死者が“浮かばれるように”ということで、霊魂をなぐさめるためにお経をよんでいただく、というようになります。
さらには、仏教として信じがたいことに、寺がその境内に墓地をもつようになったのです。寺が、死霊(仏教にはこの概念はありません)たちの管理をするようになったのです。驚天動地の変化でありました。
むろん、すべての寺がそうであったわけではありません。奈良の東大寺にも、斑鳩の法隆寺にも、墓などはありません。薬師寺にもなく、京都の清水寺にもなく、みな朗々として初期仏教のきよらかさをうしなっていないのです。
本来のものをうしなっていないのは、いずれも寺が葬式をしなかった奈良朝や平安初期の創建であることが共通しています。また民間の古層と癒着しなくても、明治までは寺領などの収入で食べてゆけた等々で、いまも観光収入や信徒(檀家ではなく)の存在によって食べてゆける等々でもあります。いずれにしても僧や寺が食べるために教義を変えた、というのはよろしくありません。
そろそろ話を終わらねばなりません。
以上、申しあげてきたことの要点は、生死とは、あるいは心と肉体とは何かということについて、私どもはわりあいいい加減だ、ということであります。私どもは、歴史からひきついできたものを乱雑に、無整理にしすぎてきているということです。
いまのままでは、せっかくの日本仏教も、未開時代以来の民間信仰が衣をきてお経を読んでいるだけにすぎない、ともいえます。私が、自分が脳死した場合、不特定の他者に臓器を提供したいと思っても、それはあくまでも自分の信念の範囲内での判断であって、千数百年も持ってきた日本仏教の倫理的慣習に従ってそうするわけではありません。日本仏教は、おどろくべきことに、こんにちなお、臓器形檀について何の意見も言ってくれてはいないのです。
といって、仏教界を叱咤しているのではありません。
脳死と臓器移植というような、もっともこんにち的な問題が、私どもを、いきなり古代や中世にひきもどしてくれたのです。
人間はだれでも生死のことばかりは片時もわすれないのですが、といって多くの人々は深くは考えません。当然なことで、そんなことを考えるのは“風土”の役割なのです。私どもはその“風土”にその課題をゆだねているのです。
死ねばお坊さんがきてお経をあげてくれる。きっとすばらしいお浄土へゆけるでしょう、ハイ、行けます、証明不要です、そう言わんばかりにしてお坊さんがあわただしくお経をあげてゆく。証明不要ということが風土であります。
しかし、その“風土”が、脳死・臓器移植の問題の前で、そ知らぬ顔をしています。
よく考えてみれば、私どもは“風土”をなが年耕さずに草をはやしてきました。
私の話は、終わりにむかっています。
「心と形」という題でしたから、仏教以前の、日本人の生命思想における「心」とは何か、ということも申しあげるべきでしたが、それはこの切迫した(と私が考える)主題においては、知的な遊びになってしまいます。
遊びとしていそぎ申しあげておきますと、まず“心”ということです。
私どもの、仏教以前の先祖たちは、“心”というのを、理性よりも情念の機関としそ考えてきました。その場所は、身体的な機関である心臓にある、としていたようです。古代中国でも、そうでした。漢字の心が、心臓の形をあらわしていることは、ご存じのとおりです。
古代ヨーロッパでも、似たようなもので、心臓と心はおなじことばだったようです。ただ古代ギリシアの医学の大成者であるヒポクラテスは、すでに、人間は脳で考えたり、善悪を区別したり、美醜を判断する、といっていたそうですが。
魂のこともいそぎのべます。古代からごく近代まで中国人をくるんできた中国文明はおよそ現世的な文明でした(仏教を一時は容れながら仏教的形而性を好まず、仏教に入ることは、しばしば物狂いのようにみられてきました)。
中国では霊魂は魂(こん)と魄(はく)とにわけられる、としました。
この歴史的中国の魂魄観では、死によって魂は天上にゆきますが、魄は死体とともに地下でくらす、というのです。中国人の墓参は、この意味の中において大変論理的です。生者――子孫です――が、墓という魄の場所に行き、天にいる死者の魂をよびもどします。地下の魄と魂魄一つになったところを、すかさずかれらは拝礼するのです。相当の運動神経が要ります。
『古事記』『日本書紀』には、神霊となった霊魂には、荒御魂という半面と和御魂という半面があるというふうな使いわけが出てきます。荒御魂・和御魂にはその後の哲学的・宗教的発展がさほどにありませんので、私にはよくわかりません。
終着駅が、間近になっています。
私はキリスト教の神が文明にあたえた影響を、畏敬とともに讃えるものです。むろんその神は絶対であり、超越的存在です。であるがために、科学的には――相対的には神は――ウソだといえます。なぜなら科学は、相対的世界だからです。
仏教の基本思想である空もまた相対的世界から出たもので、ですから、“すべては空だ。すべては空から生まれ、空に帰ってゆく”と、もし科学者がきかされても、たれもそれはまちがいだ、とはいわないでしょう。仏教は科学と基本的には抵触しません。しかし科学に近いといったところで、仏教が宗教としてねうちがあがったということにはならないのです。こまったことに宗教とは絶対的なものだからです。
歴史的変遷としてのキリスト教がすぐれているのは、絶対という大ウソを、神に対してしか捧げなかったことでしょう。この大ウソ以外は、ひたすらに認識的で論理的で、ひたすらに正直で、虚偽を忌んできました。
「唯一神は、あります」
という証明を、キリスト教は、ローマに移って以来、千数百年、証明につぐ証明をしてきました。その証明のための道具として、骨から肉や皮まで使われたのは、ギリシア哲学であります。霊肉二元論でさえ、ギリシア哲学の影響だそうですね。
それらの教義上の鍛練の果てに、フロイスがロレンソを連れて信長の宿館にやってくるのです。朝山日乗が負けるはずです。日乗が、形而上的論争にやぶれ、「では、その肉体を殺してやるから、霊魂をとり出してみろ」という、まことに相対的な、というよりも精神界のことどもを地上の泥にまみれさせるような形而下的行動に出たのは、敗北を上塗りしたものでした。
その日乗でさえ、生と死を考える上での固陋な風土のなかに怠惰のまま身をゆだねているいまの私どもよりは、はるかにいきいきとした仏教者だったということは、さきにのべました。
日乗がりっぱだというのは、かれは狂乱するほどに物を考えていたということにおいてです。なにも考えないこんにちの私どもよりはるかにましなようです。日乗を、まさか菩薩とまではゆきませんが、せめて羅漢の位置にまでひきあげてみたい衝動が感じられるのです。むろん、冗談ですが。
キリスト教も、大変です。
この宗教がたった一つの大ウソ(絶対者にして創造者)をかかえたためにその証明に四苦八苦しました。むろん、絶対という観念をヨーロッパにひろめた功績は偉大です。のんびりとしたアジアとちがい、その四苦八苦がヨーロッパ文明をつくりあげたともいえますが、いまだに信仰をもつ人々以外の私どもに神は存在するという証明をすることができずにいます。この点では、つまり歴史的な単純結果としては日乗の勝ちです。
しかし、日乗のように、ヨーロッパは即物的に結果を見ようとはしていません。
戦後に亡くなった人で、イギリスの数学者にして哲学者であったアルフレッド・N・ホワイトヘッド(1861〜1947)という人がいます。英国国教会の聖職者の子としてうまれた人です。神の存在を究極の非合理性(だから信仰がうまれるのですが)として積極的にとらえ(“絶対”を進んで肯定したのです)、人間の有限な言語をもってしては、神がなぜ世界をつくり、人間をつくったかについてはとらえようもない、としました。だから、そういう存在を信仰するというのは、「魂(スピリット)の冒険」(『観念の冒険』)だというのです。
それこそ信仰というものである、というのです。むろん肯定的意味であり、この冒険によってのみ世界の有機的調和が保たれてきたし、これからもそうだ、というのです。
こういう考え方が二十世紀になっても出るということが、キリスト教の歴史の偉大さというものでしょう。むろん、私個人は“魂の冒険”をしようとはおもいませんが。でありつつも、私は、死にあたって仏教の僧侶に立ち会ってもらおうとは思いません。死後、お経をよんでもらおうとも思いませんが、それでもなお、仏教が好きです。
そうでありながら、たいへん論理から外れたようにうけとられるかもしれませんが、古神道も大好きです。諸霊主義(アニミズム)から出発して、日本における神道ほど美しい境域をつくりあげたもの(宗教というより多分に慣習です)は、他に見られないのではないでしょうか。日本思想史の成功は、日本仏教より、奈良・平安朝あたりの神道こそそうではないかと思いたくなる瞬間があるほどです。むろん、これはすこし言い過ぎではあります。
しかし、伊勢神宮や宇佐八幡宮、あるいは都郡の小さな氏神の境内に入って、一種の宗教的閑寂を感じない人は、すくないのではないでしょうか。
さきに、家の宗旨についてのべましたが、私自身が属している宗教はありません。しかし、「無宗教です」というつもりはありません。宗教についてのこういう微妙な気分は、日本の多くの人々と私はおなじです。
しかし、あたらしい文明のなかに私どもはすでに入っていて、しかも臓器移植と他者への臓器の提供という生命の課題が、日常の“事務”としておこりつつある時代に私どもはいます。
生命は、科学が全能として扱うべきではないということも私どもは知っています。
さらには、科学・技術という強力な文明が地球を覆いはじめたために、私どもは、否応なしに、地球人にされています。地球人の基本倫理が、隣人への愛であることも、私どもは知っています。
この状況は、日本の古くからの宗教的風土についてゆけなくなっています。その風土に根ざした哲学的な合意が、“無宗教”的な私どもの間に、なんとかうまれて来ないものなのか、というのが、この話の結論です。
風土的日本仏教の基本を整理しきってしまいますと、宇宙は空であるとともに光であり、生命というただ一種類の体系であるということです。生命ということにおいて、植物や微生物にいたるまで、自分や人間一般とすこしのかわりもなく、平等に生命を、そのかけらを、共有しているものであります。
そこまでは、わかっています。しかもこれだけで十分だと思います。これ以上言えば、宗教や宗派になります。これだけの合意があれば、倫理については個々にまかせればいいのではないでしょうか。