日蓮を現代にどう生かすか

 

上原 專禄

日蓮は、文応元年(1260年)、「立正安国論」というものを書いて、前の執権北条時頼に献上しました。そのことと関連して、その翌年の弘長元年(1261年)には、ざんそする者があったりなどして、伊豆の伊東に流されて、そこで3年間暮した。それから文永元年(1264年)には、故郷の安房の国の東条の松原で暗殺されそこねた。そのときから文永5年(1268年)までは、だいたい平穏な生活が鎌倉でなされているように見える。ところで、この文永5年に、はじめて蒙古から日本に対して国交をもとめてくる、という事件がおこったわけであります。そして文永11年(1274年)、最初蒙古の使いがきてから6年たちますと、実際、蒙古は第一回の襲来をやったわけです。

蒙古が日本へ襲来するようになった動機としては、日本の西国あたりの武士がいわゆる倭寇と称して、高麗であるとか、あるいはいまの中国の海辺であるとか、そういう方面に掠奪を行ったという事実がありまして、高麗などは困りぬいておった。そして、それを元に訴えた。元はそれをよい口実にして、日本に強い態度で国交をもとめてきた。こういう形でありますが、ともかくこれが大事件であることは、いうまでもない。幕府も大事件として、はじめから問題を意識したわけですが、当時、仏教関係の人たちはどんな気持でそれをみておったかというと、たしかに大事件であるとは考えましたけれども、どう対処すればいいかわからなかった。たまたま御祈祷でもやるというよりほかに考えるところがなかった。元から使いをよこしてき、非常な強腰で国交をせまり、武力で日本に侵略してくるかもしれないという事態に対し、まっこうから信仰につながる問題として、その事態をうけとめる態度にでたのは、日蓮一人というのは言いすぎかもしれませんけれども、日蓮はそういうものであった、と思うのであります。

いったい、文永5年の閏正月に蒙古から使いがまいりましたときには、日蓮は、その当時の政府がなんとかするだろう、と思ってみておった。つまり自分は「立正安国論」を数年前に書いてだしているのだから、自分の予言が的中したということに政府は驚いて、なにか自分に相談があるだろう、自分に相談があればその対策を政府に対して提言するという気持でおった。しかし、いつまで経っても一向そういう相談もかけられないものですから、日蓮はその年の10月になりまして十一通の訴状を書いて、関係方面へおくった。その当時の執権は北条時宗でありましたが、この時宗に訴状をおくったほか、有力な時宗の信仰をしていた建長寺であるとか、あるいは有名な良観が住していた極楽寺であるとか、いわば政府と政府のブレーンになるような人たちに対して、十一通の書状をおくって、問題について討論をしたい、対決をしたい、と申し入れたのであります。

しかし、そういう対決の申し入れはもとより聞き入れられなかったのみならず、日蓮は政府を非難したと言いたてて、文永8年(1271)年9月になりましてから、日蓮の態度にあきたらない者が、幕府に対して訴えをだした。そういうことにもとづいて日蓮を竜ノロヘひきだして切ってしまえということになった。はたして竜ノロで切る意思が幕府にはじめからあったかなかったかということは、じつは、明治の中期以来問題になっているのですけれども、日蓮の書きのこしたものをいろいろみますと、竜ノロで切られようとしたということはどうも疑いないのであります。ところが、竜ノロで結局は切られなかった。というのは、その当時、時宗の身内にお産があって、そういうときに、ともかく日蓮というような人を切るということはよくないだろう、と、いさめる人もあってみたり、いろいろな事情で竜ノロでは切られませんで、結局、佐渡へ流されることになりました。

日蓮が佐渡へまいりましたのは、文永8年(1271年)10月でありますが、その10月に佐渡へまいりまして、結局、4年間佐渡にいるわけであります。この佐渡へ渡ってからと佐渡へ渡るまえ、つまり、竜ノロの法難といわれる事件があって、佐渡へ流される前とあととで日蓮の生涯を二つにわけ、日蓮宗のひとびとはずっと昔から、佐前・佐後という時期を区別いたしております。それは、どういう区別かというと、佐前では日蓮は法華経の持者であり、すすんでは法華経の行者であったのですが、まだ「閻浮第一の聖人」というものではなかった。そういう自覚はあっても、日蓮上人はそれを口にだして言わなかった。ところが、佐後になりますと、自分は法華経の行者であるだけではなく、元寇を予言したりなんかして、起らないさきのことを見抜く者は聖人であるという意味において、閻浮第一の聖人だということを、自分自身で言いだすことになりました。

いったい、日蓮の場合は法華経の字面を、頭や心で読んでゆくというだけではなくて、自分の身で実践的に読んでいく、というやり方です。これを「色読」というのですが、法華経を色読していくと、迫害が起ってくる。ところで、迫害が自分の一身にはね返ってくると、自分の信じている法華経が正しいということが実証されることになる。なぜかといいますと、法華経というものを信仰して、これを末法で弘めようとすると、かならず迫害が起ると書かれている。げんに法華経を信じて、それを弘めようとすると、はたしてお経に書かれているとおりの迫害が起ってくる。そこで、自分の信仰している法華経の正しいということが実証されてゆく。こういう径路が日蓮の信仰の形であります。また、日蓮が弟子たちにもそうでなければならんと説いた信仰のあり方において生きる者を、日蓮は法華経の行者と名づけているわけであります。自分も法華経の行者であるし、弟子もそうでなければならない、と日蓮は教えてきたのであります。こうして、佐前には法華経の行者という自覚や言い方はたくさんありますけれども、自分は閻浮第一の聖人であるというような言い方や、法華経にでているところの上行菩薩だというような言い方は、佐後の現象であります。

その佐渡へまいりましてからも、いろいろな事件がありましたが、そこでは例の日蓮宗の方で非常に大事にしている「観心本尊抄」であるとか、あるいは「開目抄」であるとか、そういう教義上の基本的な著述がなされました。また鎌倉の方から日蓮を敵視するいろいろな人間がでてきたり、あるいは土地の念仏者がいろいろな格好で迫害をくわえたりなどしたわけですが、結局日蓮は文永11年(1274年)4月に赦されて、鎌倉へ帰ってまいりました。途中、善光寺をとおるときなども危なかったのですが、警護の武士がおったために難なく通過することができた。そういう事実もあったようでありますが、ともかく無事に鎌倉へ帰ってまいりました。

すると、その当時北条家のなかで有力な平左衛門尉頼綱という人間が日蓮と対面いたしまして「日蓮御坊、もうこうなっては、あなたも法華経にはこりたろう」と言いました。こういうことを平左衛門尉に言われたとき、日蓮はどういう答えをしたかと申しますと、「日蓮は王地に生まれたれば、身は随えられ奉るようなれども心は随い奉るべからず」と言っている。そうしてさらに「日蓮は日本国の大難を払い国を保つべき日本国の柱である。自分を失うならば日本国の柱を倒すということだ、そういうことをあなた方はおやりになった、この日本の国の柱を倒したからには、いろいろ経典に予言されているとおりにかならず日本国には、大悪魔が国土に充満して、日蓮が言ってきたように日本国は破滅するだろうが、そのとき法華経の法門の正義が実現するだろう」と言いました。そう日蓮が言いますと、平左衛門尉は「お前は日本国をのろうつもりか」と、ちょうどそこにありました法華経の第五の巻で日蓮のつらを何回かなぐりつけました。そこで日蓮は「いかにも今はかのうまじき世なり」という感慨をもらした。自分は法華経の持者であるばかりでなく、法華経の行者として行動してきた。自分が一切の経典を読んでいろいろ研究して、これこそ真理にちがいない、と想到するにいたったところの法華経の正しさを、身をもって実証するために、こんどは法華経の行者になった。法華経の行者としてはとうぜんやらなければならない、と考えて、何回も国主にたいしていさめもした。ところがこういう形でもちいられないとしてみると、もうやりようがない。そこで自分としてはどこか山のなかへひきこもって、生きているあいだは法華経を読誦しようということで、非常にさびしい状態に入った。日蓮というと、派手な活動的な面だけが考えられているのですが、法華経の行者、ないしは閻浮第一の聖人という自覚をもって行動したあとは世間とか国というものから孤立し、身延で9年間の孤立的境涯をおわって、池上で死ぬ。こういう経過をとったのであります。

日蓮は、その当時の政治、社会の問題と真正面からとりくもうとした人であります。日蓮がとりくもうとした現実のなかには、その当時の政治や社会の不安な状態というものがありますが、そのほかに、仏教現実というものがありました。その仏教のなかには、古い仏教もあれば、新しい仏教もあったのですが、そういう仏教のあり方というものが、日蓮の批判の対象になったのであります。

その当時の仏教とはどういうものであったかともうしますと、やはり、京都と奈良が中心でありました。一口に南都北嶺と申しますが、北嶺というのは叡山のことであります。また南都というのは奈良のことです。比叡山延暦寺、それから三井寺(園城寺とも申しております)が、一方の中心でした。また南都では興福寺、東大寺、そういうものを中心とした古い仏教がなかなか勢力をもっていたのであります。

鎌倉時代の仏教というと、すぐに親鸞、道元、日蓮、という名前を思いだすわけですが、その時分の仏教界において勢力をもっていたのは、まだそういうものではなかったのでありまして、南都北嶺のそういう古い仏教が勢力をもっていたのです。宗派の方からいうと、天台宗と真言宗が主でありますが、そのほかに、法相、律というようなものも朝廷の帰依をこうむってなかなか勢力をもっていた。これに対して新しい仏教が興ってきた。そのなかで、古い仏教、つまり平安初期からの仏教である天台、真言のあり方に対して批判をむけた最初の人は法然でありまして、禅の方では栄西であります。よく日蓮は親鸞・道元とならべられますけれども、新しい宗派の創設者という立場からしますとむしろ法然と栄西と日蓮とを比較するのがいいのではないか。時代は日蓮よりさかのぼりますけれども、古い仏教に対する批判の立場を自分自身の創意と工夫とによってやったという意味では、どうしても、法然と栄西を挙げねばなりません。道元や親鸞にはすでに先輩があり、お師匠様があるわけですが、日蓮にはお師匠様はない。つまり法然や栄西の方がそういう点では日蓮と比較さるべきものだと思うのであります。

ところで、将軍家と、それから事実上の政権をもっております北条家、それらと新旧仏教との関係ですが、将軍家の方は真言宗への帰依が常道でありましたが、だんだん禅宗に近づいてきました。また、北条家の方でも新しい宗派としての禅宗に帰依するようになりました。そこで先ほど申しました栄西が、鎌倉で政子の請に応じて寿福寺というお寺の開山になりました。それから後に宋から渡ってまいりました道隆という人が、時頼に講ぜられて、建長寺の開山になったわけであります。また、日蓮がなくなった弘安5年(1282年)には、例の無学祖元が円覚寺の開山になり、時宗の師家になりました。そういう寿福寺であるとか、建長寺であるとか円覚寺であるとかは全部臨済宗のお寺でありますが、こういう禅や真言が日蓮にとっては批判の対象になりました。もう一つは律宗の有名な良観という人があります。良観は生き仏といわれた人でありますが、やはり執権の長時に請ぜられまして、極楽寺の開山になり、北条家の帰依をうけたわけであります。以上のほかに、日蓮は古くから、法然の念仏を批判しました。

そういう諸宗諸派に対して日蓮はなぜ批判をしたか、悪口を言ったか。四箇の格言と申しまして、日蓮はその当時の諸宗諸派をなぜ攻撃をしたのだろうか。今日からみると、およそ仏教人ともあろう者が他宗の悪口をいうなどとはけしからんということになるかもしれない。そういうことが、日蓮がいまの日本のインテリに評判のよくない一つの理由でもあるのですが、日蓮としてはただ悪口のために悪口をいったのではない、と考えられるのであります。すでに日蓮が39歳のときに書いて北条時頼に献上した「立正安国論」のなかにも現われておりますし、その後の著述のなかや、あるいは手紙のなかであきらかにしておりますように、日蓮には二重の問題意識というものがあったと考えられます。すなわち、一方では、例の承久の乱をうけたあとの日本の国内の不安、ことに正嘉元年以来の大地震、大暴風、大飢饉、大疫癘にたいして、いっこうそれを救済する力を、その当時の政治はもっていないのだが、その政治の貧困、社会の不安をどううけとめればよいか、という問題であります。他方では、いったい仏教がさかんであれば、国にそういう災難がおこるはずはなく、国土安穏であるべきであるのに、仏教というものが盛んであっても国土が安穏でないのは、どういうわけであろうか、という問題であります。こういう二重の問題意識が、日蓮には、最初からあったわけであります。つまり日本の政治は貧困で、社会は不安だが、やがて外国から侵略をうけそうな状態にもなっている。それにたいして政治の力ではなんともすることができないでいる。そうして理屈の方からいえば、仏教がさかんであればそういう不幸がおこらないであろうのに、なぜそういう災厄がそれからそれへとおこってくるのであろうか。これが日蓮にとっての問題だったわけであります。そして、政治的・社会的な不安がなぜ起るのだろうか、という問題を、政治家として考えるのではなく、仏教人として考えてみると、これは仏教のどこかに大きい間違いがあり、根本的な間違いがあるからだろうということになる。

日蓮がだんだん考えてまいりますと、仏教がさかんであるというのは、ただ表面の現象だけのことをであり、ほんとうの仏教というものは行われていないということがわかってきた。つまり、釈迦がこれこそいちばん大切な教えであるといった法華経を、その当時の諸宗諸派では軽蔑したり無視したりしている。そういう仏教信仰の間違ったあり方が、極度の不安定をひきおこし、国土安穏をさまたげているという結果をつくりだしているのだ、日蓮はこういう判断に到達したのであります。したがって、日蓮は他宗他派にたいして悪口をいうために悪口をいっているのではなくて、どうすれば国土を安穏にすることができるだろうか、どうすれば国土安穏の基礎としての、正しい教えとしての法華経を、日本の全体に普及することができるだろうか、こういうことを考えたものですから、正しい教えに対して反対の立場をとっている者を、日蓮はあしざまにいう結果になってきた。そういうわけで、日蓮が他宗他派を批判したのは、単に他宗他派を非難することを目的として非難したのではなくて、仏教のあり方を正すためであったのです。仏教のなかで、もっとも正しいといわざるを得ない法華経が軽視され、無視されている、という仏教現実が、国土の不安定という政治的・社会的現実を招いてくるのだ、こういう二重の問題意識で日蓮はやっていたのですから、他宗を批判することになったのは、とうぜんのことであります。

ところで、そういうはげしい批判の態度は、いまのインテリにはインテリにかぎらないかもしれませんが、仏教というものを、なにか寛容なものでなければならんと考えている人にとってはどうも理解できないことになってくる。たしかに今日では、法然よりはむしろ親鸞、栄西よりはむしろ道元が日本のインテリの好みにあっているのでしょう。しかし、道元は例の「正法眼蔵」で、正しい仏法が行われるならば国土は安穏であるはずだ、とはっきりいっていますし、そういう考え方がひろくおこなわれていました。日蓮だけではなくて、道元にもあった考え方なのであります。

しからば、なにを正しい仏教と考えるかという問題でありますが、そういう問題について答えをだしていく日蓮のやり方は、いわば一種の理知主義だった、と思うのです。つまり一切の経典というものを天台の判釈をたよりにして読み抜いていった結果、法華経というものが、最後にでてきた。その法華経が理知的に考えて、最勝最妙のものであるという認識に、日蓮は到達したが、それがほんとうに正しいという確信に到達するためには、実際に法華経の宣布をやってみて、そこからおこってくる反応の体験を経なければならない、と考えた。つまり、末法に法華経をひろめようとする者にはかならず道害が起ってくるということが、法華経宣布の実践をやってみて自分の身におこってきた迫害をとおしていままで理知的に正しいという認識に到達した法華経への確信がさらに体験的に得られてくる、とういう構造なのであります。いったい、正しい仏教があれば必ず国土が安穏になるという一般思想のなかで、なにを正しい仏教というかという問題を、日蓮としては最初は理知的に、後には実践的に解決してまいりました。そうして、そのような結論にたっての他宗の批判であった。単なる非難のための非難ではなかったわけであります。

いままで、日蓮における仏教信仰のあり方を中心としてお話しましたが、最後に、日蓮を現代にどう生かすか、という問題について考えてみたいと思います。

日蓮は、日本の仏教史のうえで独特の信仰のもち方、信仰的生き方をした人であって、おなじ仏教人ともうしましても、親鸞や道元とはちがいますし、また、その人たちの先輩である法然や栄西ともちがっています。日蓮という人は、元来浄土宗の念仏から仏教にはいっていった人でありますが、こどもの時分から、念仏で成仏できるのだろうか、という疑問をもって、研究にすすんだようであります。18歳のときから15年ないしは16年というながいあいだ、日蓮は、鎌倉とか叡山とか奈良とか、あるいは高野山とか、そういうところの諸山諸寺を歴訪して、いろいろと研究をしたのであります。その研究で、釈迦1代48年の説法のなかで、どれが釈迦のほんとうの教えであるか、そのことをつきとめようと日蓮は努力しました。その努力も、まえにいいましたように、理知主義的経典主義によるものだったのですが、その結果、天台の考え方にみちびかれつつ、法華経というものが、釈迦1代48年の説法のなかで、最勝最妙の経典であるという認識に到達したわけであります。

ところで、これもまえに述べたとおり、その認識だけで日蓮は満足できない。もし、法華経を最勝最妙のものとして末法に宣伝し、ひろめようとする者には、かならず迫害がおこってくる、という予言が法華経にあるが、そういう予言が、はたして実現するかどうか、体験をとおして実証しなければ、法華経が最勝最妙の経典であるという確信には到達できない、と日蓮は考えた。そこで、日蓮としては、そういう迫害がおこることを覚悟のうえで、法華経を弘めるという仕事にのりだしたのであります。その結果、予言されたとおりの迫害が、それからそれへとおこってくる。そこで、こんどは、法華経に書かれていることは正しい、という確信が生じる。

 そういうことになると、もし、日蓮というものがなかったら、法華経が正しいかどうかということがわからないわけですから、法華経は正しいという確信に日蓮が到達すると同時に、日蓮によって、逆に法華経の正しさが実証されたことになる。こうして、日蓮は、法華経をささえるという立場に、立ってしまった、ということができます。このように、知的に問題をさぐっていって、これはという正しい認識に到達したうえで、その認識の正しさを、こんどは実践によって実証してゆくという態度は、現在のインテリには、おおいに不足しているのではなかろうか。

日蓮を現代にどう生かすか、という問題は、日蓮におぶさることではない。だから、日蓮を道具につかったりなにかすることではない。また、日蓮を簡単にモデルとして、日蓮が言ったりしたりしたとおりに、機械的に日蓮を模倣することではない、とも思うのであります。つまり、日蓮というものをつごうよく自分で勝手につかったり、また、おぶさったり、ぶらさがったりしてはいけないのであって、日蓮の行き方を、鎌倉時代の問題情況のなかで、もういっぺん考えてみることによって、私たち自身の生活態度のひ弱さ、あるいは欠陥を反省してみるということ、それが、第1に、日蓮を現代に生かすゆえんだと思う。そうすると、いまのように、インテリが中途半端なところで、これこれしかじかの認識に到達した、そこで満足してしまう、ということではいけないのであって、認識の正しさを、行動をとおして実証していく態度の必要なことがわかってくる。こういうことは、日蓮についていくらかでも認識をもちますと、私たち自身の実践不足として、あるいは弱点として、反省されてくるわけであります。

第2の点は、日蓮は自分自身の成仏というところから問題を出発させたわけですけれども、後になると、日蓮にとっては個人の成仏とか、個人が涅槃の境涯に到達するというようなことは、じつは第二義的、第三義的な話であって、問題はそういうものではない、ということになった。すなわち、日本の一切衆生は、どうすれば成仏できるだろうか、という問題が、第一義的な問題になったのです。こういう発想方法が、やはり、いまのインテリには足りないのであって、インテリというものはまず自分のことを考える、自分はどう生きてゆけばよいかという問題を考えるのですが、日蓮は逆で、日本の一切衆生は、どうすれば成仏できるだろうかという問題は、日蓮にとっては、単に観念的なものではないのであって、それはその当時の生きた政治現実とか、あるいは社会現実のなかで、日本人はどうすれば救われるか、という問題だったのであります。

もとより、日蓮が、政治の問題や、社会の問題について関心をもったというのは、たびたびもうしましたように、仏教人としてであって、社会革命家として問題を感じていたのではない。つまり、国家とか、あるいは、国民の生活に、不安があり、欠陥があるということは、正しい教えが弘まっていない、あるいは、正しい教えが阻害されている結果としておこってくるのだ、したがって、正しい教えを確立することが国土安穏の前提だというのが、日蓮の考え方であった。日蓮は、たしかにそういう考え方に立っているのだが、当時の内政の問題、外交の問題、社会不安の問題を、ことごとく自分自身の問題としてひきとっている。こういうことも、いまのインテリには欠けているのではないでしょうか。まず、学者のやるべきこと、インテリのすべきことは、単に事態を観察することだ、みることだ、と考えられている。そのこと自体は間違っていないのですが、事態を観察するのは、なんのために観察するのかといえば、それは日本の社会とか、あるいは人類全体の生活をよくしていく、あるいはまた、日本人や人類のになっている苦しい、困難な問題を解決していく、そういうためであろう。しかしそういう点についての考慮が、いまのインテリには欠けていると思う。

日蓮は、自分自身の成仏ではなくして、日本国土の成仏、日本の一切衆生の成仏という問題を考え、それで具体的な歴史の現実のつくりだしている諸問題を、なんとかしてこなしていこうと考えたのです。そういう点から見ると、日蓮は普通の仏教者とはちがいまして、具体的な歴史の現実のなかで生みだされてくる諸問題を、どう仏教の立場でこなしていくかという問題を考えたのであります。そういう日蓮の問題意識を考えてみると、私たちインテリの本の読み方とか、ものの見方というものは、自己中心になっていて、生きた日本人の苦しみ、あるいは、生きている人類全体の苦しみをどうしようかという問題とかかわりなしに、ただ研究したり、観察したり、読書したり、考えたりしている。そういう弱点が私たちにあるのではないか。そういうことを、日蓮によって教えられる。

もとより、さきほどもうしましたように、日蓮を現代にどう生かすかということは、日蓮におぶさったり、あるいは日蓮をつかいものにしたりするということではないのであって、いやしくも、そういうことがあれば、日蓮を現代に生かすことにはならない。戦争前に、日蓮は軍国主義とか超国家主義によって利用されたようであるが、日蓮からは、軍国主義の考え方は絶対にでてこない。また、日蓮は、個人の成仏の問題について考えなかったわけではないけれども、それを前面におしだすようなことは、絶対にやらなかった。日蓮は、個人の成仏について、どう見ていたかというと、これは、まえにもいいましたように、法華経の行者としての苦しい実践をやって、自分も法華経の行者になったのだというそのよろこびのなかに、個人の安心があるというだけであります。いわんや、個人の物質生活であるとか、そのほかの欲望などについて、それをどうしようなどということは、日蓮にとっては問題ではなかった。したがって日蓮をそういう方面で使うということもいけない、と思うのであります。

考えてみますと日蓮はあまりに一切衆生の問題を考えた、あまりに国全体の問題を考えた、日蓮はあまりに理知的であると同時に、その理知の限界をみぬき、自分の苦しい実践によって認識の弱さを確信にまでたかめようと努力した。そういう、あまりに純粋な信仰のあり方をとってきたために、最後に日蓮は孤立してしまい、ひじょうに孤独な生活にはいりました。身延9ヵ年の生活は、たくさんの手紙でわかっておりますけれども、清純ではあるがずいぶんつらいもののようでありました。日蓮の孤独性は、その純粋な生沽原理や信仰原理の帰結のように考えられます。それはそれでけっこう美しいことだとは思うのですが、日蓮を孤独なものにおわらせないような方法はないものか、ということも十分問題になると考えるのです。つまり、ほんとうに日本人の全体、日本の国民生活の全体のなかに、日蓮の行き方や考え方を生かすことができないものか、という問題もある、と思うのです。そして、日蓮はあまりにりっぱな日本人であったために孤独になったと考えられるが、そういう状態をどう考えればいいか、という問題もあるわけであります。どれも、たいへんむずかしい問題で、一息に考えることは、私にはとうていできません。それで、今回は、これで話をおわりたいとぞんじます。

 

 

1956・10・23

上は、「日蓮」と題してNHKから、去る8月27日がら9月1日まで、6回にわけて私が放送したもののうち、後の3回分にわずかの修筆を加えたものです。放送は原稿なしに行われましたので、修筆用の底本には、録音テープからの筆録がもちいられました。十分、修正し切れませんでしたので、過誤のままである点も多い、と思います。読者の御諒恕を仰ぎたく存じます。

 

 

 

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