Next Society  

002年イースターの日に

カリフォルニア州クレアモントにて

ピーター・F・ドラッカー

 

はじめに

私自身一度だけ、経済が変わり、新しい経済が生まれたと思ったときがあった。1929年に、アメリカの証券会社のヨーロッパ本部で新米社員として働いていたときだった。

直接の上司だった主任エコノミストは、ウォールストリートの好況は永久に続くと信じて疑わなかった。『投資』と題する立派な本を書き、アメリカ企業への株式投資が絶対確実な利殖の道であると断言した。最若年の私は、この主任エコノミストの助手に取り立てられ、その本の校正と索引つくりを任された。

本が発行された翌々日、ニューヨークの株式市場が崩壊し、数日後には書店から本が姿を消した。私の職も失われた。

それから70年近くたった1990年代の半ば、ニューエコノミーの到来が論じられ、株式市場の活況は永久に続くものとされた。どこかで見た景色だった。もちろん、表現は違っていた。あのころ言われていたのは、恒久平和ならぬ恒久繁栄だった。だが、論理、論法、予測は同じだった。

ニューエコノミーが論じられはじめた90年代の半ば、私は、急激に変化しつつあるのは、経済ではなく社会のほうであることに気づいた。

IT革命はその要因の1つにすぎなかった。人口構造の変化、特に出生率の低下とそれにともなう若年人口の減少が大きな要因だった。IT革命は、1世紀を越えて続いてきた流れの1つの頂点にすぎなかったが、若年人口の減少は、それまでの長い流れの逆転であり、前例のないものだった。

逆転は他にもあった。富と雇用の生み手としての製造業の地位の変化だった。製造業は、政治的には力を増大させるかもしれない。だが、もはや唯一の主役ではない。さらにもう1つ前例のないこととして労働力の多様化があった。

これらの変化が本書の主題である。すでに起こったことである。次の社会ネクスト・ソサエティはすでに到来した。もとには戻らない。

 

本書には企業経営に関わる章もあれば、そうでない章もある。しかし、1980年代、90年代のベストセラーに見られた万能薬の類は一切論じていない。それでも、本書は事業と組織のマネジメントのためのものであり、働く人たち1人ひとりのためのものである。なぜなら、ネクスト・ソサエティをもたらす社会の変化が、働く人たちの役割を規定していくからである。それらの変化こそ、あらゆる組織、大企業、中小企業、大小のNPO、政府機関、アメリカ、ヨーロッパ、アジアのあらゆる組織にとって、最大の脅威であり、同時に最大の好機だからである。

本書が言わんとすることは、1つひとつの組織、1人ひとりの成功と失敗にとって、経済よりも社会の変化のほうが重大な意味をもつにいたったということである。

1950年から90年代までは、社会は与件として扱ってよかった。大きく変化していたのは経済と技術のほうだった。社会は安定していた。もちろん、これからも経済と技術は変化していく。事実、本書の冒頭、第1部の「迫り来るネクスト・ソサエティ」では、今後数多くの新技術が生まれ、しかもその多くがITと関係のないものにまで拡がるであろうことを論じている。しかし、それら経済と技術の変化を好機とするためにも、次の社会たるネクスト・ソサエティの様相を理解し、自らの戦略の基盤とすることが不可欠である。

そのような意味において、読者の各位、企業、NPO、政府機関の方々のお役に立つことが本書の目的である。

 

本書掲載の全論文が、2001年9月のテロ攻撃以前の執筆である。第1部各章と第3部第2章を除くすべての章が、すでに世に出ていた。初出年はそれぞれの章末に示したとおりである。したがって、読者各位におかれては、私の見立てと見通しを判定することもできるはずである。

2001年9月のテロ攻撃は本書の意味を倍加させたともいえる。アメリカヘのテロとそれに対するアメリカの対応は、世界の政治を根本から変えた。今日、中東だけでなく世界中のあらゆる国が混乱のさなかにある。

しかし、急激な変化と乱気流の時代にあっては、たんなる対応のうまさでは成功は望みえない。企業、NPO、政府機関のいずれであれ、その大小を間わず、大きな流れを知り、基本に従わなければ

ならない。個々の変化に振り回されてはならない。大きな流れそのものを機会としなければならない。

その大きな流れが、ネクスト・ソサエティの到来である。若年人口の減少であり、労働力人口の多様化であり、製造業の変身であり、企業とそのトップマネジメントの機能、構造、形態の変容である。急激な変化と乱気流の時代にあっては、大きな流れにのった戦略をもってしても成功が保証されるわけではない。しかし、それなくして成功はありえない。

 

 

1 ネクスト・ソサエティの姿

 

ニューエコノミーよりもネクスト・ソサエティ

はたしてニューエコノミーなるものが、実現しうるかどうかは不明である。だが、ネクスト・ソサエディ**がやってくることはまちがいない。しかも万一ニューエコノミーが実現するとしても、ネクスト・ソサエティのほうがはるかに大きな意味をもつ。それは、20世紀の社会はもちろん、21世紀の社会として一般に予想されているものとも異質の社会となる。そのかなりの部分がすでに実現しつつある。

*IT化とグローバル化によって好況が持続するとされる経済

**異質の次の社会

 

雇用形態の変化

なかでも特に重要な変化が、ようやく正面から捉えられるようになった間題、すなわち高年人口の急増と若年人口の急減である。

政治家は年金制度の改革を約束する。同時に、いまから25年後には、誰もが70代半ばまで働かなければならなくなることも承知している。しかし彼ら政治家も、高年者のきわめて多くがフルタイムではなく契約ベース、非常勤、臨時、パートタイムで働くようになることまでは承知していない。企業においても、人事部や流行の人材開発部は、働く者がすべてフルタイムの正社員であることを前提としている。雇用関係の法令もそう想定している。

ところが、いまから20年後あるいは25年後には、組織のために働く者の半数は、フルタイムどころかいかなる雇用関係にもない人たちとなる。特に高年者がそうなる。したがって、雇用関係にない人たちをいかにマネジメントするかが、企業だけでなくあらゆる種類の組織にとって中心的な課題の1つとなる。

 

市場の変化

若年人口の急減のほうは、ローマ帝国崩壊時以来のことであるというだけでも重大な意味をもつ。すでに先進国のすべてと中国及びブラジルが、人口維持に必要な出生率2.2を下回った。

このことは、政治的には、外国人労働者や移民の受け入れが、国論を2分する間題になることを意味する。経営的には、国内市場が激変することを意味する。

これまで先進国では、国内市場は家族形成の増大によって成長してきた。ところが、これからは大量の若年移民を受け入れないかぎり、家族形成が確実に減少していく。第2次大戦後に出現した大量消費市場は、若年中心の市場だった。これが中高年中心の市場となる。若年中心の市場は、残るとしても、中高年中心の市場よりもずっと小さくなる。

同時に、若年人口の減少により、高年者、特に高学歴高年者のリクルートと確保が重要となってくる。

 

高度の競争社会

ネクスト・ソサエティは知識社会である。知識が中核の資源となり、知識労働者が中核の働き手となる。

知識社会としてのネクスト・ソサエティには、3つの特質がある。第1に、知識は資金よりも容易に移動するがゆえに、いかなる境界もない社会となる。第2に、万人に教育の機会が与えられるがゆえに、上方への移動が自由な社会となる。第3に、万人が生産手段としての知識を手に入れ、しかも万人が勝てるわけではないがゆえに、成功と失敗の並存する社会となる。

これら3つの特質のゆえに、ネクスト・ソサエティは、組織にとっても1人ひとりの人間にとっても、高度に競争的な社会となる。

すでに、ネクスト・ソサエティのもう1つの重要な側面である情報技術(IT)が重大な影響をもたらしつつある。知識は瞬時に伝えられ、万人の手に渡る。その伝達の容易さとスピードが、企業、学校、病院、政府機関に対し、たとえ市場と活動はローカルであっても、競争力はグローバル・レベルにあるべきことを要求する。インターネットは世界中のユーザーに対し、何をどこで、いくらで手に入れられるかを教える。

 

主役の交替

ネクスト.ソサエティは、知識を基盤とする経済であるがゆえに、主役の座を知識労働者に与える。知識労働者という言葉は、今日のところ、医師、弁護士、教師、会計士、化学エンジニアなど高度の教育と知識をもつ一部の人たちを指すにとどまっている。

だがこれからは、コンピュータ技術者、ソフト設計者、臨床検査技師、製造技能技術者など膨大な数のテクノロシスト(技能技術者)が必要となる。彼らは、知識労働者であるとともに肉体労働者でもある。むしろ頭よりも手を使う時間のほうが長い。だがその手作業は、徒弟制ではなく、学校教育でしか手に入れられない知識を基盤とする。とびぬけて収入が多いわけではないかもしれない。しかし彼らは、プロフェッショナル、すなわち専門職業人である。

20世紀には、製造業の肉体労働者が社会と政治の中核を占めていた。これからは彼らテクノロシストが、社会の、そしておそらくは政治の中核を占めるようになる。

 

保護主義の復活

経済構造においても、ネクスト・ソサエティは今日の社会とは異質のものとなる。20世紀には、1万年の間、社会を支配してきた農業が力を失った。

 

農業生産は第一次大戦以前の4倍から5倍に達した。しかし、世界貿易に占める農産品貿易の割合は、第1次大戦前夜の1922年に70%だったものが、今日では17%にすぎない。GNPに占める割合も、先進国ではごくわずかとなっている。

 

今日、製造業が農業に似た道をたどりつつある。第2次大戦後から今日までの間に、先進国の工業生産は3倍以上になった。しかし製品個々の実質価格は着実に低下した。その間、医療や教育などのいわば知識製品とも呼ぶべきものの実質価格が3倍になった。いまやこれら知識製品に対する製造業製品の購買力は、50年前の5分の1から6分の1になっている。

1950年代のアメリカでは、製造業の雇用が全就業人口の35%を占めていた。ところが今日では、いかなる社会不安も引き起こすことなく半減している。しかし、製造業の雇用が今日でも25〜30%の高い水準にある日本やドイツにおいて、その急激な減少はいかなる社会不安をもたらすことになるか。

国富と生計の担い手としての農業の地位の低下は、第2次大戦以前において、今日では想像すらできない保護主義をもたらした。これからも自由貿易のお題目は唱えられ続ける。だが製造業の地位の変化が、新たな保護主義をもたらすことはまちがいない。

それは関税による保護主義ではない。補助金、輸入割り当て、諸々の規制による保護王義である。あるいは、域内においては自由貿易、域外に対しては保護貿易という地域共同体の発展を通じての保護主義である。すでに欧州のEU、北米のNAFTA、南米のメルコスールがその方向に向かいつつある。

 

グローバル企業の未来像

今日のグローバル企業が世界経済に占める位置は、量的には、1922年当時σ多国籍企業とさして変わらない。だが、質的にはまったくの別種である。かつての多国籍企業は国別に独立した子会社をもつ国内企業だった。これに対し今日のグローバル企業は、事業の論理に従ってグローバルに事業を展開する。ただし今日のところ、グローバル企業の多くは1922年当時の多国籍企業と同じように、まだ株式の保有によって一体性を保っている。

いまから25年後のグローバル企業は、戦略によって一体性を保つことになる。所有による支配関係も残るが、少数株式参加、合弁、提携、ノウハウ契約が大きな位置を占めるようになる。もちろん、そのような事業構造のもとではトップマネジメントのあり方も大きく変わる。

依然として、トップマネジメントは、大企業においてさえ現場のマネジメントの延長線上にあるとされている。しかし、明日のトップマネジメントは、現場のマネジメントとは異質の独立した機関となる。それは事業全体のための機関となるはずである。

そのとき、グローバル企業のトップマネジメントにとってもっとも重要な仕事となるのが、短期と長期のバランスである。同時に顧客、株主(時に年金基金その他の機関投資家)、知識労働者、地域社会など利害当事者間の利害のバランスをとることである。

それでは、これらいくつかのすでに起こりつつあることをふまえて、いまマネジメントたるものは何をなすべきか。われわれがまだ気づいていない変化としては、さらにどのようなものがあるだろう

か。

2002

 

7章 ネクスト・ソサエティに備えて

 

未来組織のあり方

ネクスト.ソサエティはまだ到来していない。しかし、ネクスト・ソサエティに備えてとるべき行動については検討できる段階にきている。

企業その他ほとんどあらゆる組織が、自らの組織構造について実験し、提携やパートナーシップ、あるいは合弁のあり方について試行し、トップマネジメントの構造と役割について見直しを行なうべきときがきている。グローバル企業においては、世界展開と製品多角化について新しいモデルを検討することが必要となっている。集中と多角化のバランスについて新しいモデルが必要となっている。

人事管理が変わる

これまであらゆる組織が、働き手はすべて解雇、辞職、退職、死亡のないかぎり、フルタイムで働き続ける正社員であるとの前提で人事管理を行なってきた。

今日の人事部はいまだに、コストのもっとも安い、もっとも望ましい労働力は若年社員であるとしている。特にアメリカでは、高年の管理職や専門家が、コストが安く最新の技能をもつとされている若年社員に場所を譲るべく早期退職に追いこまれている。

結果は芳しくない。2年後には、新たにリクルートした若年社員のコストが、出ていった高年社員のコストと同じになっている。生産額や販売額の伸びと社員数の伸びは、ほぼ一定である。若年社員が高年社員よりも生産性が高いとはかぎらない。しかも今日の人口構造の変化が、やがてそのような雇用政策を自壊的かつ高コストなものにしていく。

ここにおいて第1に行なうべきことは、雇用関係の有無にかかわらず、事業のために働く者すべてを対象とする人事を確立することである。つまるところ、彼ら全員の仕事ぶりが重要だからである。だが今日のところ、この間題への満足すべき答えはない。

第2に行なうべきことは、定年に達した人たち、契約ベースで仕事を行なう人たち、つまり非正社員を惹きつけ、留め、活躍してもらうことである。経験と能力のある高学歴の高年者を引退させることなく、内部化したアウトサイダーとして継続した関係をもち続けてもらうことである。彼らの能力と知識を維持するとともに、彼らに対しては柔軟性と自由を提供することである。

すでによい見本がある。産業界ではなく学界にある。講座を手放して引退し、定額収入のなくなった教授に与えられる名誉教授のポストである。望むならば教えることを続けられる。報酬は授業のコマ数に応じたものとなる。完全引退する名誉教授もいるが、半数はパートタイムで教え続けている。

企業においても、高度の専門家についてはこれと同じ仕組みが必要である。アメリカのある大企業では、法務、税務、研究開発などのスタッフ的な仕事について、一流の人材を確保するためにこの仕組みを試行中である。ただし製造や販売など現業の人たちについては、別の方法が必要かもしれない。

 

外部の情報

驚かれるかもしれないが、今日マネジメントは、IT革命によってかえって必要な情報をもてなくなった。手にするデータは増えたが、ほとんどが組織の内部についてのものである。

すでに述べたことから明らかなように、組織にとってもっとも重要な変化とは、今日の情報システムでは把握できない外部の変化である。外部の世界についての情報は、ほとんどの場合コンピュータを利用できる性格のものではない。分類もされなければ、定量化もされない。

実はこれこそが、IT関係者やそのユーザーたる経営幹部が、外の世界についての情報を例示にすぎないとして軽視する原因とさえなっている。しかも、これまで経験した世界が永遠に続くものと錯覚している経営幹部があまりに多い。

ところが、この外部の世界の情報が、ついにインターネットで手に入るようになった。依然としてばらばらではある。しかしようやくマネジメントは、外部の世界についての情報システムをつくるための一歩を踏み出すことができるようになった。すなわち、いかなる外部の情報が必要かを考えることができるようになった。

 

チェンジ・エージェントたれ

組織が生き残りかつ成功するためには、自らがチェンジ・エージェント、すなわち変革機関とならなければならない。変化をマネジメントする最善の方法は、自ら変化をつくりだすことである。

経験の教えるところによれば、既存の組織にイノベーションを移植することはできない。組織自らが、全体としてチェンジ・エージェントヘと変身しなければならない。

そのためには、第1に、成功していないものはすべて組織的に廃棄しなければならない。第2に、あらゆる製品、サービス、プロセスを組織的かつ継続的に改善していかなければならない。すなわち日本でいうカイゼンを行なわなければならない。第3に、あらゆる成功、特に予期せぬ成功、計画外の成功を追求していかなければならない。第4に、体系的にイノベーションを行なっていかなければならない。

チェンジ・エージェントたるための要点は、組織全体の思考態度を変えることである。全員が、変化を脅威でなくチャンスとして捉えるようになることである。

 

未来は予測しがたい方向に変化する

これらのことが、すでに形をとりつつあるネクスト・ソサエティのために備えるべきことである。

それでは、われわれが気づいてさえいない未来の事象や流れとして、いかなるものがありうるか。ここで自信をもって予測できることは、未来は予測しがたい方向に変化するということだけである。

そもそもIT革命の行方がそうである。IT革命については誰もが2つのことを当然としている。1つは、まったく前例のないスピードで進展しつつあるということ、もう1つは、まったく前例のない根源的な影響をもたらしつつあるということである。だが、これらはまちがいである。いずれもまちがいである。

そのスピードと影響の大きさにおいて、今日のIT革命には、この200年間に酷似した2つの前例があった。1つは18世紀から19世紀初めにかけての第1次産業革命であり、もう1つは19世紀後半の第2次産業革命である。

1770年代の半ばに、蒸気機関の実用化によってジェームズ・ワットが引き金をひいた第1次産業革命は、想像力を刺激したものの、社会や経済そのものにはそれほど大きな影響を与えなかった。真に革命的な変化をもたらしたのは、1829年の鉄道の発明であり、その10年後の料金前納制の郵便制度の発明であり、電報の発明だった。

1940年代半ばに出現したコンピュータは、この第1次産業革命における蒸気機関に相当するにすぎない。人々の想像力は刺激したが、IT革命として経済と社会に真の革命をもたらしたのは、その40年後、1990年代に全世界に拡がったインターネットのほうだった。

今日われわれは、所得と富の不平等の拡大と、マイクロソフトのビル・ゲイツをはじめとするスーパー・リッチの出現に驚かされ、重大な懸念をもつにいたっている。しかし、同じように不可解ともいうべき不平等の拡大とスーパー・リッチの出現は、2つの産業革命時にも見られた。しかも平均との乖離で見るならば、当時のスーパー・リッチのほうが、今日のビル・ゲイツよりもはるかに多くの所得と富を手にしていた。

今日の状況と2つの産業革命とのあまりの類似性は、IT革命のネクスト・ソサエティに与える真に革命的な影響は、いよいよこれからであることを示している。

2つの産業革命の後の19世紀という世紀は、16世紀以降、制度と思想のイノベーションにおいてもっとも実り豊かな時代となった。

第1次産業革命によって、工場が中心的な生産の場となり、主たる富の創出者となった。製造業労働者が、1000年前の甲冑の騎士以来の新種の社会階層として登場した。1810年には、ロスチャイルド家が世界で最初の投資銀行として、15世紀のハンザ同盟とメディチ家以来のグローバル組織となった。第1次産業革命の後、知的所有権、株式公開、有限責任、労働組合、協同組合、工科大学、新聞が生まれた。

これに続く第2次産業革命によって、近代公務員制度、近代企業、商業銀行、ビジネススクール、そして奉公人以外の諸々の女性職業が生まれた。

2つの産業革命によって、新たな理念と制度が生まれた。第1次産業革命への反作用として『共産党宣言』が生まれた。ビスマルクの福祉国家、イギリスのキリスト教社会主義、フェビアン主義、アメリカの企業規制など、20世紀の民主主義を構成することになった諸々の理念と制度が生まれた。1881年には、やがて全世界に爆発的な生産性の向上をもたらすことになった、フレデリック・ウィンスローニアイラーによる科学的管理法(サイユンティフィック・マネジメント)が生まれた。

 

新たな制度と理念の誕生

こうしてわれわれは、IT革命の後においても新たな理念と制度の誕生を目にすることになる。すでにEU,NAFTA、南米のメルコスールなどの地域共同体は、従来の意味における自由貿易主義でも保護貿易主義でもない。それらのものが目指しているのは、国民国家の経済主権と超国民国家の意思決定権とのバランスである。

これら地域共同体と同じように前例のない新しい存在として、世界の金融の新たな主役となったシティグループ、ゴールドマン・サックス、INGベアリングなどの金融サービス機関がある。それらの企業はかつての多国籍企業ではない。グローバル企業である。しかも彼らが扱うグローバル・マネーは、いかなる政府、いかなる中央銀行の管理下にもない。

そして、経済の唯一の安定的状態としての動的均衡、経済の動因としてのイノベーターによる創造的破壊、経済の変化要因としての技術に関するジョセフ・シュンペーターの理論への関心、すなわち均衡を経済の健全な状態とし、財政政策と通貨政策を経済の動因とし、技術を外生変数としてしか扱えないこれまでの経済理論へのアンチテーゼに対する関心の高まりがある。

これらのことすべてが、われわれの前に最大級の挑戦が横たわっていることを教える。われわれは2030年の社会が、今日の社会とは大きく違い、しかも今日のベストセラー作家たる未来学者が予測するいかなるものとも、似ても似つかないものになることを予感している。

ネクスト・ソサエティとは、ITだけが主役の社会ではない。もちろん、ITだけによって形づくられる社会でもない。ITは重要である。しかし、それはいくつかの重要な要因の一つにすぎない。

ネクスト・ソサエティをネクスト・ソサエティたらしめるものは、これまでの歴史が常にそうであったように、新たな制度、新たな理念、新たなイデオロギー、そして新たな間題である。

2002

第8章 NPOが都市コミュニティをもたらす

 

都市社会のゆくえ

これからは都市社会の文明化が、あらゆる国、特にアメリカ、イギリス、日本などの先進国にとって最重要課題となる。しかし政府や企業では、都市社会が必要とするコミュニティを生みだすことはできない。それは、政府でも企業でもない存在、すなわち非営利の組織NPOの役割となる。

第1次大戦直前の私の生まれたころ、都市には人口の5%、20人に1人しか住んでいなかった。都市は田舎社会に点在する島だった。イギリスやベルギーのようにすでに工業化し都市化した国でさえ、都市人口は半分もいなかった。

第2次大戦が終わったころ、アメリカでは4分の1が田舎に住み、日本では5分の3が田舎で農業にたずさわっていた。今日ではあらゆる先進国において、田舎の人口は5%を下回る。しかも、さらに減少を続けている。途上国でも、人口が増えているのは都市である。基本的に農業国である中国やインドでさえ、都市の人口が増加している。途上国では、仕事や住まいのあてがなくとも都市に出ようと躍起である。

この人口構造の変化は、人類が定着し牧畜と農業にたずさわるようになった1万年前以来のことである。しかも当時は、変化に数千年を要した。これに対しいま起こりつつある変化は、たかだか1世紀の間に起こっている。

今日のような都市への人口流入は、史上例がないだけではない。いずれの国でもうまくいっていない。この新しい人間環境としての都市社会の行方は、そこにおけるコミュニティの発展いかんにかかっている。

 

田舎社会の現実

田舎社会では、1人ひとりの人間にとってコミュニティは与件である。家族、宗教、階層、カーストのいずれにせよ、コミュニティは厳としてそこに存在する。しかも移動性はない。あったとしても下方に向けてだけである。

これまで田舎社会はいたずらに美化されてきた。欧米では牧歌的に描かれてきた。だが、田舎社会のコミュニティは強制的かつ束縛的だった。

 

この私の経験はそれほど昔のことではない。私は1940年の終わり、つまり50年少々前までバーモント州の田舎町に住んでいた。当時アメリカでもっとも身近とされていた職業が、ベル電話会社の広告に出てくる田舎町の電話交換手だった。ベルは毎日のように、当社の交換手がコミュニティを結びつけ、お役に立ち、いつでもお手伝いしますと宣伝していた。

現実はちょっと違っていた。交換機はまだ手動だった。電話器を取りあげると交換手が出てきた。しかし1947年か48年ころ、とうとう自動交換機が使われるようになったとき、町中が喜んだ。

たしかに、交換手はいつも待機していた。だが、子供が熱を出したのでウィルソン先生につないでくださいと言っても、「先生はいません。デート中です」「先生をわずらわせなくても大丈夫。それほど悪くはないんでしょう。朝までお待ちになっては」と言われることがまれでなかった。

 

かつてのコミュニティは、束縛的だっただけでなく侵害的だった。

 

都市社会への夢想

これが昔から田舎の人が都市へ出たかった本当の理由だった。すでに11、2世紀のドイツには、「都市は解放する」との言葉があった。都市に入ることを許された農民は、農奴から市民に変わることができた。こうして人々は、田舎社会を牧歌的に描きつつ、都市社会を牧歌的に夢想した。

しかし、都市社会の魅力は都市社会の無法につながっていた。都市社会は匿名の社会だった。コミユニティが欠落していた。

都市社会は文化の中心だった。芸術家や学者が活躍するところだった。コミュニティが欠落していたからこそ上方への移動が可能だった。しかし、知的職業、芸術家、学者、さらには豊かな商人、ギルドの熟練職人からなる薄い層の下には退廃があった。無法、強盗、売春があった。

都市社会は病気の巣でもあった。都市が人口を維持できるようになったのは、わずか100年前である。人口は田舎社会からの流入によって維持されていた。都市の平均寿命が田舎のそれに近づきはじめたのも、19世紀に上下水道と公衆衛生が普及した後だった。

 

これらのことは、シーザーのローマ、ビザンチン帝国のコンスタンチノープル、メディチ家のフィレンツェ、デュマのベストセラー『3銃士』が描いたルイ13世のパリ、ディケンズが描いたロンドンについていえた。

 

都市社会には光り輝く高度の文化があった。しかし、それは臭気を覆う薄膜にすぎなかった。1880年ころには、まともな女性は昼でさえ1人歩きができなかった。男性でさえ夜歩いては帰れなかった。

 

都市社会のコミュニティ

都市社会は田舎社会の強制と束縛から人を解放した。そこに魅力があった。しかしそれは、それ自体のコミュニティをもちえなかったために破滅的だった。

人はコミュニティを必要とする。建設的な目的をもつコミュニティが存在しないとき、破滅的で残酷なコミュニティが生まれる。ヴィクトリア朝のイングランドの都市がそうだった。今日のアメリカ、そして世界中の大都市がそうである。そこでは無法が幅をきかす。

人がコミュニティを必要とすることを最初に指摘したのが、フェルディナンド.テニエスの最高の古典『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト(コミュニティと社会)(1887年)だった。しかし、テニエスのいう有機的な存在としてのコミュニティは、いまはどこにもない。回復してもいない。

したがって、今日われわれに課された課題は、都市社会にかつて1度も存在したことのないコミュティを創造することである。それはかってのコミュニティとは異なり、自由で任意のものでなければならない。それでいながら、都市社会に住む1人ひとりの人間に対し、自己実現し、貢献し、意味ある存在となりうる機会を与えるものでなければならない。

第1次大戦以降、あるいは少なくとも第2次大戦の終結以降、民主国家、独裁国家いずれにおいても、都市社会の問題は政府が解決すべきであり、政府が解決できるものと信じられた。今日では、これがまったくの幻想だったことが明らかになっている。この50年間に実施された社会的プログラムのほとんどが失敗した。それらのプログラムは、かってのコミュニティの消失によって生じた空白を埋めることはできなかった。

都市社会のニーズは厳存するままである。解決のための資金はある。大量に資金のある国もある。しかし今日のところ、成果はいずこにおいても、あまりに貧弱である。

 

職場コミュニティの限界

しかし、企業という名の民間セクターが、それらのニーズに応えられないことも明らかである。私自身は、かつて1度だけ、それが実現されうるし、実現されるであろうと考えたことがあった。

50年以上も前になるが、私は『産業人の未来』(1942年)において、職場コミュニティと名づけたもの、すなわち当時出現したばかりの大企業という社会環境に期待した。それはある1つの国でだけ機能した。それが日本だった。

しかしその日本でさえ、今日では企業が答えとはならないことが明らかになっている。第1に、いかなる企業といえども、1人ひとりの人間に真の安定を与えることはできないからである。日本の終身雇用制さえ危険な幻想として終わろうとしている。しかも終身雇用制にせよ、そこにもたらされる自治的な職場コミュニティにせよ、知識社会の現実にはとうてい通用しない。

知識社会においては、企業は生計の資を得る場所ではあっても、生活と人生を築く場所ではありえないからである。それは、人に対して物質的な成功と仕事上の自己実現を与えるし、またそうでなければならない。しかし、そこだけでは、テニエスが110年前に言ったコミュニティを手にすることはできない。それは、あくまでも機能を基盤とする1つの社会であるにすぎない。

 

NPOが答え

ここにおいて、社会セクター、すなわち非政府であり非営利でもあるNPOだけが、今日必要とされている市民にとってのコミュニティ、特に先進社会の中核となりつつある高度の教育を受けた知識労働者にとってのコミュニティを創造することができる。

なぜならば、誰もが自由に選べるコミュニティが必要となるなかで、NPOだけが、教会から専門分野別の集団、ホームレス支援から健康クラブにいたる多様なコミュニティを提供できるからである。しかもNPOだけが、もう1つの都市社会のニーズ、すなわち市民性の回復を実現しうる唯1の機関だからである。NPOだけが1人ひとりの人間に対し、ボランティアとして自らを律し、かつ世の中を変えていく場を与えるからである。

20世紀において、われわれは政府と企業の爆発的な成長を経験した。だが21世紀において、われわれは、新たな人間環境としての都市社会にコミュニティをもたらすべきNPOの、同じように爆発的な成長を必要としている。

 

  (1988)


政府とNPO  

社会主義は富を創出することも、社会的なサービスを提供することもできなかった。他方、資本主義は経済以外のことはすべて無視してきた。しかも市場さえ、何かをできるのは短期においてのみだといわれる。それでは長期の観点から、社会はどのようにマネジメントしていったらよいか?

これからは、2つのセクターではなく3つのセクターが必要である。政府と企業に加えて市民セクター、あるいは第3セクターと呼ばれるもの、すなわちNP0(NG0)が必要である。

資本主義と社会主義を越えるものとしては、年金基金や投資信託を通じての所有権と、コミュニティのニーズに応えるものとしてのNPOの活動を包含する何ものかということになろう。友人の共和党員の何人かが言うような「政府なしでもやっていける」という考えは馬鹿げている。政府は何でもできるという第2次大戦後の信仰への反動にすぎない。

われわれはすでに、政府もまた他のあらゆる道具と同じように、あることには向いているが、あることには不向きだということを知っている。政府は国防において重要な役割を果たす。また、インフラ整備のための財源を確保するうえで重要な役割を果たす。

しかし、金槌で足の爪を切れないように、政府の力ではコミュニティの問題は解決できない。政府は何ごとも全国1律でないとできない。コミュニティの事情に合わせることも実験を行なうこともできない。政府は問題を1律に扱わなければならない。しかし実際には、セントルイスでうまくいったことが、カンザスシティではうまくいかない。ニューヨークやロサンゼルスではもっとうまくいかない。

他方、利益に関心をもつだけの市場には、社会の面倒を見ることに関心も能力もない。私は企業のマネジメント・コンサルタントだと思われているようだが、実際にはこの50年間、NPOのコンサルタントとしてかなりの時間を使ってきた。15年前すでにアメリカには、免税対象となるNPOが全米心臓協会や全米肺臓協会など30万団体あった。今日では100万団体を越えている。

私は、全米ガールスカウト連盟の前の理事長が運営するNPO強化のための財団に関わってきた。その財団の考えはきわめて簡単である。「NPOではそれほどマネジメントがまちがっているわけではない。しかし市場の審判がない以上、それに代わるものとして使命の絞り込みと成果志向が不可欠である」というものである。

この財団には、日本、ブラジル、アルゼンチン、ポーランドなど世界各地から間い合わせがある。それらの国でも社会セクターの機関が必要とされている。看護士協会の設立、虐げられた女性の保護、パタゴニアでの農業教育などである。

既存のコミュニティが大きな存在になっている日本で、なぜNPOが急成長しているのか?

2つあると思う。1つは既存のコミュニティが崩壊しつつあること。もう1つは若い母親に時間ができたことである。

日本にどのような問題があるか。55歳ともなると、まだ30年は働けるのに定年退職させられる。スポーツや生花のクラブに入る。

あるグループは外出のできない高年者のための食事の宅配サービスを行なっている。子供が親の面倒を見なくなったこともある。しかし、そのような問題の存在を認めたくない政府機関は、このグループの活動に好意的でなかったという。そのような対応は恥である。それが日本の現実である。できない子を学校に来させ勉強を見てやるという仕事がある。2割の子供は優秀だが、放っておかれている子がたくさんいる。ここでもNPOが活動している。あるいは英会話を習いたい女性がいる。こうしたグルーブが全国各地に18万5000団体あるという。アルコール依存症の会もある。どのくらいの大きさの会がは知らないが、日本のサラリーマンなら誰でもその会に入っておかしくないのではないか。

 

NP0のベスト・プラクティス

アメリカにも、NPOでは手に負えないほど問題があるが?

全部は見切れないかもしれない。だが、NPOの活動は多様である。そしてアメリカ人の半分以上が、1週間に4時間はコミュニティや教会のNPOで働いている。

NPOの問題解決策は創造的である。私は長い経験から重要なことを知った。見本を示すことである。他のNPOが見習ってくれる。ドラッカーNPO財団では、優れたNPOの仕事ぶりを参考にしてもらうために毎年表彰している。

ある年には、生活保護を受けているシングルマザーと重度の身体障害児を同時に支援しているNPOを表彰した。それらの女性に障害児の面倒を見てもらうプログラムだった。このプログラムのおかげで、障害児は面倒を見てもらえ、生活保護を受けていた女性たちはやがてきちんとした職について、かなりの収入を得るまでに立ち直ったという。

もう1つ、セントルイスのルーテル教会のNPOがあった。彼らはホームレス家族の4割は、わずかの支援で社会復帰できそうだと判断した。そこで必要としているものを探ることから始めた。答えは自立だった。そこで、そのNPOは壊れた家を買い取った。手を入れて中流並みの家に仕上げて住まわせた。それだけで生き方が変わったという。仕事も見つけてやった。ホームレス家族の8割が自立した。

ガールスカウトのように、ボランティアを急増させたNPOもたくさんある。50万人から数年で90万人になった。ガールスカウトでは、かつては時間的な余裕のある中流家庭の主婦がボランティアの中心だった。最近のボランティアの多くは、男社会で1週間働いた後の週末には女の子たちと時間を過ごしたいという専門職の女性だという。

加えて、アメリカでは地域の教会の成長が1つの社会現象になっている。私は25年ほど手伝ってきた。それらの教会は、コミュニティ活動を重視し信仰を行動に表わすよう説いている。昔ながらの教会が影を薄くする1方で大いに活躍している。

カトリックでは、教皇のヨハネ・パウロニ世がアメリカでの動きの速さを心配して、司教には保守的な人たちをもってきているくらいである。司祭の妻帯や女性の叙任の問題が騒がれているが、信仰箇条が変わったわけではない。活動の活発化は新任の司教たちのせいではない。一般信者の力による。

中西部のある司教区では、司祭が700人から250人に減った。修道尼はほとんどいない。ところが女性信者が2500人も活動に参加している。司祭区を管理しているのも女性の一般信者で

ある。司祭はミサその他の秘蹟を行なうだけである。他のことはボランティアの女性が行なっている。女の子が侍者をしていただけのころに比べると、ずいぶん変わったものである。

 

公僕がNPOを破壊する

なぜアメヅカではNPOが活発なのか?

アメリカでNPOがさかんなのは、他の国では国民国家なるものの公僕がコミュニティのNPOを破壊してしまったからである。

フランスでは、今日でもコミュニティ活動は胡散くさい目で見られている。ヴィクトリア朝のイギリスでは、コミュニティが貧困、犯罪、売春、住居の問題に取り組んでいた。ところが、20世紀の福祉国家がそれらのコミュニティをすべて壊した。

ヨーロッパでは国民国家を教会の支配から守ることが問題だった。今日でもヨーロッパ大陸には反教会の伝統がある。アメリカでは状況が逆だった。1740年ごろジョナサン・エドワードが政教分離の原則を打ちだしたのは、教会を政治から守るためだった。アメリカには反教会の伝統がない。

この政治からの分離によって、アメリカでは宗教の多元化と国家からの自由という2つの伝統が生まれた。その結果、宗教間に競争が生まれた。この競争から他の国にはないコミュニティ活動への取り組みが発展した。ジェファーソンによるバージニア大学の設立を例外として、1833年のオバーリン大学の設立まで、アメリカの大学はすべてミッション系だった。

 

資本主義を越えて-1998より

 

 

 

 

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