新しい価値観に対応を

(生活の楽しみ追求・・・世界に新しいモデル示せ)  

  ジョン・ケネス・ガルブレイス

 

デフレ克服や不良債権の最終処理は日本経済にとって急務だが、この低迷を乗り越えるにあたっては、日本経済の長期ビジョンを設計し直す作業も欠かせない。新しい日本資本主義のかたちを構想しつつ、針路をどう定めるべきか。米国を代表する経済学者で日本通でもあるハーバード大名誉教授、ジョン・ケネス・ガルブレイス氏は、経済の成熟化に対応した軌道修正を提言する。

 

成功の意味を問い直すとき

私が日本の経済を直接視察することができた日々から、長い時間が過ぎた。1945年。私は米国による爆撃が日本経済に与えた影響を調査する目的で、終戦からわずか数週間後の日本を訪れた。ドイツと日本に派遣された「米国戦略爆撃調査団」の一員としてである。

数年にわたってその任にあった私はやがて、日本の政府、産業、そして国民が敗戦から立ち直っていく雄々しい姿に、深く称賛の念を抱いたものである。インフラの再建は急ピッチで進み、生活水準も一部の例外を除いては回復した。

雇用も活発だった。日本はほんの数年で、優秀な国内・国際経済システムの再生に成功した。この事実は世界の多くの人に認められ、当時、「日本経済の奇跡」と呼ばれたことはよく知られている。そして、その復興の努力を主導したのは、当時の最も優秀で、しかも実行力のあった日本の経済学者たちだ。特に私の印象に残るのは、親しい友人でもある都留重人氏(その業績に対して後にハーバード大学から名誉学位を受けた。元一橋大学学長)である。

だが、奇跡をたたえるばかりでは、革新的な発想や政策は生まれてこない。日本でも、米国をはじめ世界の他の各国でも、過去の政策に学ぶことはたしかに発想や行動の変革を促してきた。だがいまは、さらに一歩進んだ発想や行動が求められているのである。

過去に成功したことがある行動は、現在のニーズや必要な政策にはうまく対応できない。日本では日本経済はもはや称賛の対象ではなくなった。失業率は上昇し、低迷する絡済は慢性的なリセッション(不況)の様相を呈しつつある。

公共事業のための支出や中央銀行の政策、低金利は、かつて発揮した効果を失っており、日本の「奇跡」は内外の論壇において、まったく言及されないどころか、かっては世界の手本であった経済に深刻な問題があるとみなされている。

それは、経済や社会の成功の意味を問い直すときが来た、と理解すべきである。日本だけではない。同じことは、日本ほど差し迫ってはいないにせよ、米国をはじめほかの国にも当てはまるはずである。

 

経済の成熟で軌道修正必要

経済情勢が変われば、経済の実績に対する旧来の評価基準は時代遅れになるのだ。日本は戦後の高度成長.期同様、現在もなお、経済の手本と言える存在ではあると私は考えている。いま日木に望まれるのは、社会の近代化が進んだ経済人国として、それにふさわしい行動である。

近代の産業経済に適用されてきた成功の尺度、言い換えれば進歩や実績の基準は、もはや陳腐化している。この基本的な事実が認識されていないのではないだろうか。相変わらず、国内総生産(GDP)、すなわち財とサービスの総量を大きく増やすことのみが重視されている。また、経済と社会の成果を評価する場合には、GDPに加えて、雇用と所得が基準とされている。

そのうえ、生活の楽しみにまで評価基準が定められており、「クオリティー・オブニワイフ」はモノやサービスの使用と生産とで測定される。これが生活の質というわけである。

この基準に従うなら、生活水準の向上とは生産の増加、完全雇用、所得と消費の増大にほかならないことになる。豊かな生活を実現するのはモノの生産であり、それによってほぼ必然的に必要となる雇用であって、何が生産されるのかは、ほとんど問題にされない。

過去に何世紀にもわたって重要だと考えられてきたのは、芸術、文学、建築、そして科学をはじめとする知的研究の業績であった。だが、現在の関心事はといえば、雇用の確保と、GDPの伸びである。

かつては、のんびりとくつろぐこと、特に肉体労働や単調な作業から解放され、有閑階級の仲間人りをすることは、人問の基本的な欲求と考えられていた。また、実際にもそうだった。

だが、いまや、どれほど忙しいかが評価の対象となり、仕平熱心な人ほどほめそやされる。余暇を楽しむ幸運な人は称賛の的にはなるまい。

以上の視点から、改めて日本の問題に目を向けてみよう。すでに多くの経済問題を解決してきた日本人にとって、いまや世界に先駆けて他の価値観を受け入れるための機が熟していると言える。職がないとすれば、猛烈に働くことなどできはしないだろう。所得が減っても、暇になった時間を楽しく使う方がいいではないか。

退屈な仕事の繰り返しから解放されることは、人問の基本的な自由の一つであるはずである。もっと、ほかのことをしたり、人によってはただ、のんびりしたりするのもいい。もし、いま私が日本に住んでおり、そしてもっと若かったとしたなら、失業保険をもらいながら好きな勉強をする喜びを捨ててまで、新しい郵便局の建設作業に従事しようなどとは考えないだろう。

現在の私はもう、GDPのような単純な数字によって「クオリティー。オブニワイフ」を評価しようとは思わない。GDPが高くなった結果、個人、そしてコミュニティー(共同体)に何がもたらされたのか。さらに、生産された財・やサービスに、個人や共同体がどう反応するのかということが大事なのだ。

私はこれまで、いくたびも日本を訪れたが、そのたびに知識人や芸術家など多くの人と交流することに、よろこびがあったことを思い出す。新しい鉄道が建設されたり、自動車の台数が増えたりすることは、もはや繁栄の重要な指標ではないのである。

日本はいま、リセッシヨンという深刻な経済問題を抱えているとみなされている。それは政府や企業の緊縮予算にも表れているし、人々が仕事や借金返済について、前よりも深刻に考えていないことにも表れている。だが、そこにはもっと深い意味があると思う。それは世界で最も進んだ産業経済を誇る日本が、いま、自らが成し遂げてきたこと(経済の成熟がもたらす社会の質的な変化)に適応し、軌道を修正しなければならないということである。

 

真の「幸福」を成功の尺度に

繰り返すが、経済が進化した国においては、経済の実績の指標となるのは、もはや生産量や財の所有でもなければ、雇用率の高さでもないのだ。そうした国においては、国民はより安らかな生活を好み、工業生産よりも、芸術や読書の喜びや、レクリエーションやスポーツに惹()かれるのである。

少ない所得、中には失業保険でのんびり暮らすのを選ぶ人すらいる。一つ、私がたしかに言えるとこがあるとするなら、限りある貴重な日々を自動車の組み立てラインやパソコンにささげることが、必ずしも人生の目的ではない、ということであろう。

第二次世界大戦後の歴史は、日本が経済と平和の両面で、他国に先駆けて近代社会の現実に取り組む能力があったことを示している。戦後の日本は経済で世を主導してきた。それよりもはるかに困難な仕事なのかもしれないが、今度は生活をより深く、より多彩に、より豊かに楽しむ点でも、日本にリーダーシップをとってほしい。それが私の願いである。

経済のみが道しるべではないし、成功の尺度でもない。これからその役割を担うのは、生活におけるさまざまな楽しみであり、それがもたらす真の幸福であるはずだ。

   

 

 

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