第5章 人間への尽きせぬ信頼の思想

 

 

法華七譬に見る「人間尊重の文学」

 前二章で見たように、『法華経』は、仏教史上対立的関係にあった小乗と大乗を止揚して、だれでも成仏できるとする際立った人間観を打ち出している。そこには、尽きせぬ慈しみと信頼に満ちた人間観が溢れている。それを、難解な言葉ではなく、だれにでも理解できる平易な讐え話で語りかけていて、中村先生の、「分からないことが学術的なのではなく、分かりやすいことが学術的なのです」という言葉を思い出す。その讐喩の主なものとして、@三車火宅の讐え(譬喩品)、A長者窮子の讐え(信解品)、B薬草の讐え(薬草喩品)、C化城宝処の替え(化城喩品)、E衣裏珠の讐え(五百弟子受記品)、E髻中明珠の替え(安楽行品)、F良医病子の讐え(寿量品)――の七つを挙げることができ、古来、「法華七譬」と称されてきた。それは、『法華経』に文学性の豊かさを添えるものであり、慈愛の眼差しで人間の尊さを見つめた「人間尊重の文学」と言えよう。

 最初の「三車火宅の讐え」は、譬喩品第三(第3章)に登場する。方便品第二(第2章)で説かれた一仏乗の思想を理解し、シャーリプトラが歓喜した。そして、まだ理解していない他の四衆たちのために疑心を取り除くことを釈尊に頼んだ。それに応えて釈尊が言った。

「シャーリブトラよ、まさにこの意味の明示のために、私はあなたにさらに譬喩をなそう。それは、どんな理由によってか? この世において、随一の学識ある人たちは、語られたことの意味を譬喩によって了解するからである」(植木訳『法華経』上巻、193頁)

 このような思いを込めて釈尊が譬喩を説いた。その譬喩を聞いて、今度は弟子たちが、それぞれ理解したことを譬喩で語る。さらに、それに釈尊が譬喩で応えるというように、譬喩が譬喩を呼び、師弟の間で譬喩による対話が展開される。それを順を追って見てみよう。

 

 @三車火宅の譬え(植木訳『法華経』上巻、193〜201頁、213〜223頁)

 資産家の古びた邸宅に火災が発生した。あらゆる方向から大きな火が燃え上がっている。中では子どもたちが遊びに夢中になっている。資産家は、「火事だぞ、早く逃げ出しなさい」と声をかけるが、火事がいかなるものであるかも知らない子どもたちば、耳も傾けない。資産家は、子どもたちが、日ごろから、玩具の車を欲しがっていたことを知ると、「お前たちが欲しがっていた羊・鹿・牛の玩具の車を家の外に置いてあるから出ておいで」と声をかけた。子どもたちは、我先に火事の家から飛び出してきた。そして、父親からもらったのは、玩具の車ではなく、本物の純白の牛に牽かれ、七宝で飾られた風のように速く走る「大白牛車」であった。

 この讐喩の意味するところは、既に第3章と第4章で触れたとおりである。一仏乗の思想と止揚の論理にのっとって、極めて勝れた人間観に裏づけされた『法華経』の平等思想が、一貫していることが分かる。それは、インド仏教史を要約したものだ。声聞・独覚からなる小乗仏教と、菩薩からなる大乗仏教の矛盾・対立を乗り越えるために『法華経』が登場した意義を「三車」と「火宅」の譬えで説いたものだ。「三車」(三乗)と「一仏乗」についてば第3章と第4章で「三乗方便・一乗真実」として詳細に論じた。ここでは、「火宅」について見てみよう。

 筆者が「資産家」と訳したのは、「居士」と漢訳されることの多いグリハ・パティである。これを、鳩摩羅什訳と岩波文庫版が「長者」、中央公論社版が「家長」と訳している。グリハが「家」で、パティが「主」「長」なので、直訳すれば「家長」だが、筆者は、貨幣経済の進展で商業資本家が台頭し、資産家がグリハ・パティと呼ばれていた社会的背景を考慮して、「資産家」と訳した。その資産家が如来を表わし、子どもたちが六道輪廻する衆生を表わしている。邸宅は迷いの現実世界のことであり、火事はその迷いの世界で衆生たちが生・老・病・死・憂・悲・苦・悩・哀によって焼かれ、煮られ、熱せられ、苦痛を与えられていることを意味している。

 その邸宅の描写は、長行と異なり、偈(詩句)には次のようにリアルな恐ろしさが満ちている。

「〔そこには〕数多くの毒蛇や、極めて狩猛な心を持つヤクシャ(夜叉)、クンバーンダ(鳩槃荼)鬼、餓鬼たちが住んでいる。〔また〕狼たちや、犬とジャッカルの群れ、ハゲワシたちが食べ物を捜し求めている。〔中略〕だからこの 〔家〕は、火がなくても最高に極めて恐ろしいところであり、このように全く艱難に満ちているのだ」(同、219頁)

 また、邸宅が火事になっていることは、次のように煩悩に苦しめられていることを意味している。

「その〔如来〕は、〔中略〕無知という暗黒や、迷妄という暗黒のヴェールの覆いの中に留まってい る衆生たちの貪愛、憎悪、迷妄〔、すなわち貪欲・瞋恚・愚癡の三毒〕からの解放のために[中略]生れてくるのである。その〔如来〕は、〔中略〕衆生たちが、生・老・病・死・憂・悲・苦・悩・哀によって焼かれ、煮られ、熱せられ、苦痛を与えられているのを見る」(同、203頁)

 それは、実際の災害のことではなく、われわれが住む現実世界で煩悩の熱によって身を焼かれていることを譬えていて、煩悩の炎で身を焼かれる苦しみから衆生を解放し、阿羅漢、独覚、菩薩を超えて成仏という位に到らせることを説いたものだ。

 

 A長者窮子の讐え(同、287〜301頁、305〜313頁)

 2番日の「長者窮子の讐え」は、既に序章(14頁)で触れた。幼い時に失踪した息子と、その息子を捜し求める資産家の話だ。50年が経過し、流浪の身となった息子が、父親の宮殿とは知らず近づいた。そして「私のようなものが近づけば、捕らえられ強制労働をさせられるだろう」というので、走り去った。父親はその男を見て息子だと知り、侍者に連れてくるように命ずる。息子は捕まり、力ずくで連れてこられた。恐怖のあまり気絶した息子を見て、今、父だと名乗っても理解できないであろうと息子を放免する。今度はみすぼらしい男2人を派遣し「いい仕事がある」と誘わせる。こうして肥溜め掃除の仕事に就いた。

 父は、窓から息子の働きぶりを見守る。時々、汚れた服に着替え、息子に近づいて励ます。真面目に働くので、次第に身の回りの世話、財宝管理を任せられる。「息子」というニックネームをつけられ、「息子よ」と声をかけられても、「自分は本当の息子ではない」と卑下したままだった。資産家ば臨終を前に、国王や大臣、親戚の人たちを呼び、その目の前で実の息子であることを明かし、そこにある財宝がすべて息子のものだと宣言した。息子は驚きと歓喜で「無上宝聚不求自得」(無上の宝聚を求めずして自ずから得たり)と感慨をもらした。

 これは、無知で理解できない子どものために理解できる情況を辛抱強く作り上げ、暖かな眼差しを注き続ける仏の慈愛が満ち溢れた譬喩である。長年の放浪生活で心まで貧しくなり、卑下して、心が萎縮してしまった息子に、息子であることを受け入れることができるまで導いていく手の込んだ演出が際立っており、法華七譬の中でも文学性の豊かさが注日される。

 

 B薬草の譬え(同、343〜347頁、351〜357頁)

 三千大千世界(十億個の世界)にさまざまな種類の草、潅木、薬草、樹木が生えている。その三千大千世界を覆い尽くして、大量の水を含んだ雨雲が湧き起こり、雨を降らせる。それぞれの植物は、それぞれの能力に応じて水を吸い上げる。同一の大地に根ざした植物は、同一の雨に潤されてそれぞれの種類に応じた大きさに成長する。すなわち、千差万別の植物がそれぞれの個性を持って、同一の雨水に潤されながら、同一の大地に生い茂っていることを譬えとして、三乗の区別を超えた一仏乗の思想を説明している。

 

 C化城宝処の譬え(同、483〜485頁、495〜497頁)

 険難悪路の続く五百ヨージャナ(由旬)にも及ぶ荒野に隊商が入り込んだ。人々は、疲れ、疲弊し、恐れおののいて、「この荒野は遥かかなたまで続いている。だから引き返そう」と言い出した。その隊商には、明晰で博識で荒野の難路に精通している一人の道案内人がいた。その道案内人は、「これらの苦悩している人たちが、あの卓越した宝の島に行かないことがないように」と考えて、道半ばに神力によって都城を化作して言った。「恐れてはならない。引き返してはならない。あそこで休息するがよい」と。人々は思った。「われわれは、険難の荒野を抜け出したのだ。ここで快適に過ごそう」と。そこで、人々の心は安らき、冷静になった。道案内人は、人々が十分に休息したのを見ると、都城を消して言った。「この都城は私が化作したものである。卓越した本物の宝の島は近いのだ。一緒に来るがよい」と。こうして最終目的地に到達させることができた。

 宝処を日指す隊商が途中で疲れて引き返すのを防ぐために、都城を化作して休息を取らせ、最終目的地に導くという譬喩で、三乗という化城を現わし、一仏乗の宝処へと導くブッダの方便を明かしている。

 

 D衣裏珠の譬え(同、563〜565頁、567〜569頁)

 ある貧しい男が友人の家に招かれて、酒食をご馳走になり、酔っ払って眠り込んでしまった。友人は所用があり、高価な宝石を男の衣の縁に縫い付けて出かけた。男は、酔いから覚めると、再び放浪して回った。衣食を得ることでさえも苦労し、わずかなものを得ては満足していた。そんな時に、友人と再会した。友人は男の姿を見て、言った。「どうして衣食のことで、苦労しているのだ。あなたの衣に宝石を縫い付けておいたのに」と。男は、衣に宝石が縫い付けてあるのを見つけた。そして、この譬喩は「貧なる人、此の珠を見て、其の心大いに歓喜す」(同、568頁)で結ばれている。

 

 E髻中明珠の譬え(同、下巻、151〜157頁)

 軍隊を統率する転輪王は、戦の活躍に応じて報償を行ない、土地や、衣服、装飾品、金貨や黄金、宝 石類などを与える。最も武勲の誉れあるものには、髻の中に最後まで取っておいた宝物を与える。それは、ただ一つしかないからだ。この『法華経』を説いて一切衆生に一切知者であることを得させることは、髻の中のただ一つの卓越した宝石を最後に与えるようなものである。

 

 F良医病子の讐え(同、233〜237頁、243頁)

 学識がすぐれ、明晰で、あらゆる病を治すことに巧みな医者がいた。その医者には多くの息子たちがいたが、父親が他国に行っている間に誤って毒物を飲んで苦しんでいた。あるものは顛倒した意識状態に陥り、あるものは正常な意識を保っていた。そこへ父であるその医者が帰ってきた。息子たちは歓喜して父に言った。「父よ、私たちを毒物の苦しみから解放してください」と。父は、息子たちが悶乱するさまを見て、色・香・味の卓越した薬物を集め、挽いて粉末にして息子たちに与えた。正常な意識を保持していた息子たちは、その薬を直ちに服用して、苦痛から解放された。けれども、顛倒した意識の息子たちは、父親の帰宅を喜んだものの薬を飲もうともしなかった。

 その父親は考えた。「これらの息子たちは私を歓迎していながら、楽を飲もうともしない。それは、毒物によって意識が顛倒してしまっているからだ。私は方便によって、彼らに薬を飲ませることにしよう」と。そして、「息子たちよ、私は老衰している。死の時が迫っている。あなたたちは悲しんではならない。私は卓越した薬を与えた。もしも望むならその薬を飲むがよい」と言い残し、再び他国へと旅立った。その旅先から息子たちのもとへ使いのものを派遣して、「父が亡くなった」と告げさせた。息子たちは「私たちは寄る辺なきものとなってしまった」と悲しみ嘆いた。そして、顛倒していた意識が正常になり、父の残していった薬を飲んだ。その結果、息子たちは苦悩から解放された。息子たちが苦悩から解放されたことを聞いた父親は、再び息子たちの前に元気な姿を現わした。

 これは、仏がいつまでも姿を見せていると、仏の教えを求めようとしないので、仏は近くにいても、敢えて衆生に見えないようにする(雖近而不見)のであり、「方便して涅槃を現ず」るということを譬えたものだ。それとともに、真理の教えに耳を傾けようとしない衆生に、いかに仏の教えを求める心を起こさせるかということも意図されている。

 以上の譬喩をまとめると、「三車火宅の譬え」は、仏の教えを聞こうとしない衆生の関心をひくために、仮の教えを説いて導き、その上で究極の教えを説くという説き方を示している。「化城宝処の譬え」も、衆生の理解力に応じて段階的に教えを説くということを譬えている。「良医病子の譬え」も、仏の教えを聞こうとしない衆生をいかに救うかという仏の方便が示されている。「長者窮子の譬え」と「衣裏珠の譬え」は、自らに宝石が具わっていることを知らない衆生のために、自らが宝石を具えていることに目覚めさせようとして、仏は種々の方便を用いるということを意味している。「薬草の譬え」は、それぞれの個性を認めつつも、仏は、一仏乗という同一の教えによって最高の境地に到らせることを譬えている。そして、「髻中明珠の譬え」は、その『法華経』の教えが最後に説かれる究極の教えであることを譬えているのである。

 いずれの譬喩にも、仏が、あらゆる方便を用いて、衆生を苦悩から脱出させ、成仏に到らせようとする慈愛が、巧みなる方便となって表現されていることが読み取れる。すべての譬喩に、どうしたら釈尊の覚りを分かってもらうことができるか、衆生に自らの存在の大切さをいかにして自覚させることができるかという配慮に満ちている。

 「三車火宅の譬え」において、資産家は、自分の力で子どもたちを抱えて救出することもできたが、それをしなかった。それをやることは解決とはならないからだ。あくまでも、子どもたちが自分の意志で出てくることが大切である。良医病子の譬えでも、薬を子どもたちに無理やり飲ませることをしていない。子どもたちが、自発的に飲めるような情況をつくって飲ませている。

 自覚させることが、主眼であり、決して「こんなことも分からないのか」とは言わない。分からないなら、分かる情況を作り出し、そこに到るまで辛抱強く待ち、その上で究極の教えを説いてすべてを救済するという思想に貫かれている。

 

キリスト教との比較

 『法華経』においては、ブッダと衆生は「三車火宅の譬え」「長者窮子の譬え」「良医病子の譬え」にあるように、「父と子」の関係としても象徴されていて、次のような言葉が見られる。

「これら一の衆生たち〕のすべてが実に私の息子たちである」(同、上巻、22頁)

「是の諸の衆生は皆是れ我が子なり」(同、210頁)

「父と子」は、キリスト教でも論じられる。ただし、キリスト教の言う「父と子」は、「父」がゴッド(神)で、「子」は「神の子」、すなわちイエス・キリストのことである。イエスについては、「人間である」とか、「人間として生まれたが、神と一体(つまり神)である」とか、「神性と人間性を兼ね備えている」などと種々の意義づけがなされている。いずれにしても、「父と子」は、ゴッドとイエス・キリストのことに限られ、その他の人間は、ゴッドによって造られた”もの”にすぎなかった。

 それに対して、『法華経』における「父と子」は、「仏」と「仏子」という関係で表現される。「仏子」は一切衆生に適用され、今は子どもでも、成長すれば自ずから親と同様に仏となるということが前提になっている。その関係は、ブッダが衆生に対して抱いていた「如我等無異」(我が如く等しくして異なること無けん)という姿勢からも読み取ることができる。

 「長者窮子の譬え」は、『新約聖書』(ルカによる福音書15・11・32)の「放蕩息子の物語」との類似が指摘されているが、むしろ表面的な類似に比べてキリスト教と仏教の人間観の際立った相違が目立つ。それは次のような物語である。

 父が財産を二人の息子に分け与えた。弟は遠くへ行き、放蕩に身を持ち崩す。財産を使い果たして父のもとに戻ってくる。父は、息子を見て哀れに思って駆け寄り、息子を抱いて接吻する。父は僕たちに命じて、最上の衣服を息子に着させ、指環をはめさせ、履物をはかせ、仔牛を屠ってご馳走し、祝宴を開いた。兄は、それを知り怒って父に言った。「私は何年もあなたに仕えて、一度も背いたことはなかった。けれども、友達と楽しむために子ヤギの一匹も私に下さったことがない。それなのに、遊女と戯れ、あなたの財産を食いつぶした弟が帰ってくると、太った仔牛を屠られました」と。

 父が答えた。「息子よ、お前は常に私と一緒にいるし、私のものはすべてお前のものだ。けれども、お前の弟は死んでいたのに生き返り、いなくなったのに見つかったのだから、喜び祝うのば当然のことだ」

 ここに「背いた」という文字があることに注目しなければならない。キリスト教では、ゴッドに背くか否かが問われるようだ。それがリリージョン(religion)という語に表われている。日本ではその語を翻訳する際に、「人間としての真実の理法と、それを伝える教え」を意味する仏教用語の「宗教」を当てたが、この語を西洋のリリージョンの訳に当てるのは適切ではない。リリージョンは「再び(re)結び付ける(ligion)」という意味で、ゴッドに背いたものを再びゴッドに結び付けるという意味である。「ノアの方舟」の場合と同様、ここにはゴッドに背くか背かないかということが問われている。

 ところが宗教の「宗」はサンスクリット語シッダーンタの訳であり、「人間としての真実の理法」を意味する。仏教は、自らの真実の理法(ダルマ)に目覚める「自覚の宗教」であったのだ。その法(ダルマ)の下では、仏と人間との間には究極的に区別はない。それに対して、キリスト教のゴッドと人間との間には、創造者と被造物の絶対的断絶が存するという違いもある。

 

山折哲雄氏の解釈に覚える違和感

 譬喩というものは、意図した側面とは別の受け取られ方をすることが時々ある。目の不自由な人に「白い色は雪のようなものだ」と言ったら、「そんなに冷たいのか」と言われたという例が『摩詞止観』に出てくる(詳細は第9章参照)。この「三車火宅の讐え」で、これと似た誤解があったのでここで正しておきたい。それは、山折哲雄氏がテレビや、雑誌、新聞、講演等で繰り返し論じておられることだ。

 東日本大震災からちょうど1年目の日本経済新聞(2012年3月11日付)に掲載された山折氏の「問われる文明の業」「西の『方舟』、東の『火宅』」と題する文章を読んで違和感を覚えた。

 それは、@昨年3月11日の大災害と、A『旧約聖書』のノアの方丹、B『法華経』の三車火宅の譬え――の三題噺になっている。@に直面して、AとBを思い起こされたという。

 Aが、「人間の悪行をこらしめるため、神が地上に大洪水をもたらす」もので、「生き残る者と死にゆく者を選別しようとする思想」として、選民思想、適者生存の進化論のように西欧思想の根幹を方向づけたとされているのは、その通りだと思う。

 しかし、Bについての説明を読んで、『法華経』を誤解させるものではないかと気になった。山折氏の文章中に「資産家」とあるので、拙訳『法華経』を読んでくださったのであろうか。

 山折氏が、火宅の譬えを「全員脱出の物語」と規定されたところまではよかった。ところが、邸宅が燃えていることに気づかなければ「全員死亡の物語」になり、「われわれすべては焼かれて死ぬほかはない」「一人の例外もなく全員死んでしまうことになる」――と『法華経』の意図せぬ方向に話が引きずり込まれている。これでは、火宅の譬えが「全員脱出」か「全員死亡」かという二者択一を説いたものであるかのような誤解をもたらす。

 ところが火宅の讐えの火災は、文字通りの災害としての火災を意味しているのではない。釈尊が成道後間もないころ、ガヤーシーサ山(象頭山)で、「修行僧らよ、すべては燃えている〔中略]貪欲の火と憎悪の火と迷いの火によって燃えている」()と語っていたように、煩悩の炎に焼かれているという意味である。「熱悩」といった言葉もそれを示している。

『法華経』では、迷いに囚われた現実世界(三界)を火宅に讐えていて、火宅は大災害に遭っている人の置かれた所ではない。災害の渦ではなくても、煩悩に囚われ、道を求めようとせず、人間としての生き方を探求しようとしない人の日常生活の場が既に火宅なのだ。それにもかかわらず、火宅を実際の災害に当てはめるのは、早計であろう。

 『法華経』は、煩悩に囚われた衆生を、ものごとをわきまえない子どもに譬ええた。父はそこから脱出させようとするが、耳を貸そうともしない。そこで、「みんなが欲しがっていた玩具の羊車、鹿車、牛車をあげるから出ておいで」と呼びかけた。外に出てくると、その三つの車とは桁違いの本物の牛に牽かれた「風のように速い大白牛車」が全員に与えられた。

 すなわち、小乗の教え、大乗の教えと、これまで段階的に説かれてきたが、それは衆生の関心に妥協しつつ仏の意図するところへと誘引し、最終的にすべてをブッダとするためであったことを明かした。小乗と大乗を譬ええた羊・鹿・牛の玩具の車は、誘引のための方便にすきず、『法華経』において、真実の教えたる大白牛車の一仏乗を説くのが最終目的であったというのだ。

 だから、火宅の譬えは大災害とは全く関係がないのだ。それを関連づけるというのなら、山折氏が「全員脱出の物語」と「全員死亡の物語」の二者択一とされる火宅の譬えにおいて、大震災の2万人余の死者・行方不明者を何と説明されるのであろうか――という素朴な疑問が生じてくるのは筆者だけであろうか。ノアの方舟に否定的な立場を取られているから、「人間の悪行をこらしめるため」ではないことは
確かであろうが……。

 西洋のゴッドは人を罰するけれども、ブッダは罰することはなく、人を慈しむのである。『法華経』にはその慈しみが巧みなる譬喩という表現となって綴られている。火宅の譬えはその一つにすぎない。

 山折氏の小論は、大災害からノアの方舟の洪水、火宅の譬えの火災へと連想が広がり、西と東、水と火の対比といった表面的なつながりにひらめきを得て短絡的に論理を展開されたとしか思えない。老婆心ながら、「三車火宅の譬え」についての誤解が拡がることを心配して、気になる点をここに指摘させていただいた。

 三車火宅の譬えは、災害とは全く関係ないものだが、話のついでに、仏典の中で災害に言及したもの
探してみると、ナーガールジュナ(龍樹)が南インドのシヤータヴァーハナ王朝の王に与えた政道論『宝行王正論』(Ratnavali)がある。そこでは、災害に遭った理由についての過去からの因縁話のようなものはまったく語られていない。災書が起こった事実を前にして、被災者たちをひたすら救済することを訴えている。その部分を『龍樹論集』(大乗仏典14、中央公論社)から、引用しよう。

 「災厄、凶作、災害、流行病などで荒廃した国にあっては、世の人びとを救済するのに寛大であってください」(275頁)

このように述べた上で、具体的救済策として次の言葉が続いている。

 「田地を失った人びとに対しては、種子や食物をもって救済し、努めて租税を免じ、または少しでも租税を減じてください」(276頁)

 「貪欲の病患からよく守り、税を免じ、または税を減じ、それらについてまつわる煩悩から離れるようにしてください」(同)

 「また、自国や他国の盗賊たちを鎮圧してください。資産を平等に、価格を適正にするようにしてください」(同)

 「長官が奏上することは、それぞれ何であっても自らよく知り、また世の人びとに役立つことは、何事であろうとすべてつねに行なってください」(同)

 このように、種子の配給による農産業の復興、食料の分配、税金の減免、被災地に出没する盗賊の取り締まり、資産の平等な取り扱い、価格の適正化による便乗値上げの防止など具体的な対策を訴えている。

 わが国では、災害を目の当たりにした仏教者たちの所感も残されている。湯浅治久著『戦国仏教』(中公新書)には、正嘉元年(1257年)の大地震、その翌年から数年にわたって続いた飢饉に対する親鸞(1173〜1262)と日蓮の態度の違いの比較を通して、浄土教の思想と、『法華経』の思想の違いを浮き彫りにしていて興味深い。

 それによると、親鸞は、正嘉の飢饉について、東国の門徒から災害の知らせを受けて、次のような言葉を残している。

 「老少男女、おほくのひとびとのしにあひて候らんことこそ、あはれにさふらへ、ただし生死無常のことはり、くはしく如来のときをかせおはしましてさふらふうへは、おどろきおぼしめすべからずさふらふ……」(『末燈紗』)

 いわば、正嘉の飢饉でたくさんの犠牲者が出たことについて、阿弥陀如来が既に説いておかれたことだから、そんなに驚くことではないというのだ。

 これに対して、日蓮は相次ぐ災書を目の当たりにして、『立正安国論』をしたためた。それは、次のように書き出されている。

「旅客来つて嘆いて臼く、『近年より近日に至るまで、天変・地夭・飢饉・疫癘、遍く天下に満ち、広く地上に蔓る。牛馬巷に斃れ、骸骨路に充てり。死を招く輩、既に大半を超え、之を悲しまざる族、敢て一人も無し……」(『日蓮文集』174頁)

 これに対して、

「主人臼く、『独り比の事を愁へて胸臆に憤俳す。客来つて共に嘆く、屡談話を致さん……』」(同、175頁)

と、主人が切り出し、客人と主人の対話が展開される。ここには、災害の現実をともに嘆き、災書に見舞われた国土をいかに安穏ならしめるかという姿勢に満ちている。

 また、「『此土』を『穢土』として否定し、『彼岸』の西方極楽浄士に往生することを願う」(『戦国仏教』25頁)浄土教に対して、「現実の社会=娑婆世界をどのように肯定するか、という問題」(同、25頁)を意識して、「法華経を護持することが即、現実変革の主体になるという日蓮の信念があらわれている」(同、27頁)と湯浅博士は述べている。

 

 (1) ヨージャナ(yojana)は、牛の首につける軛(英語のyoke)のこと。それが転じて、牛に軛をつけて荷物を運ばせて休憩させるまで歩いた距離のことを意味する。筆者は、次の原始仏典の記述をもとに、1ヨージャナを次のように試算した。

「五人の修行僧の仲間は〔中略〕〈偉大な人間〉を見捨て、各自の鉢と衣をもって、18ヨージャナの道を進んで、イシバタナ(=鹿野苑)に入った(『ジャータカ』中村元訳)
18ヨージャナだとされるブッダ・ガヤーからベナレス近郊の鹿野苑までは、直線距離で200数10キロメートル、道路の距離では300キメートル近くある。その距離を270キロメートルだとすると1ヨージャナは15キロメートル、250キロメートルだとすると約14キロメールになる。

 

 

 


 

 

第8章

 

寛容の思想とセクト主義の超越

 

 

 

 

サダーパリブータの名前に込められた四つの意味

 『法華経』の理想とする菩種と言えば、何と言っても常不軽品第二十(第19章)の主人公サダーパリブータ(sadaparibhta)菩種であろう。その菩種の名前は、竺法護訳の『正法華経』では「常被軽慢」(常に軽んじられる)、鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』では「常不軽」(常に軽んじない)と漢訳されている。

両者は〈受動に対する能動〉、〈肯定に対する否定〉といった相反する訳となっている。チベット語訳は、『正法華経』と同様で、古来、この名前の解釈は意見が分かれている。ここに、その解釈が分かれた理由と、その名前の意味について考察してみたい。

 sadaparibhtaは、サンスクリット語の連声の規則によると次の二通りに分解できる。

@sadaとparibhtaの複合語

Asadaとaparibhtaの複合語

 パリブータ(paribhta)は、「軽んじる」という意味の動詞パリ・ブー(paribhtauの過去受動分詞で、「軽んじられた」という意味である。その頭に否定を意味する接頭辞宍(a-)付はけたアパリブータ(aparibhta)は、「軽んじられなかった」という意味になる。サダー(sada)ば「常に」を意味する副詞であり、それぞれ次のように解釈される。

@で解釈すると「常に軽んじられた」=竺法護訳とチベット語訳

Aで解釈すると「常に軽んじられなかった」

 @は、菩薩が増上慢の四衆たちから悪口・罵詈されていたことに注目すれば一致する。ところが、不軽品を綿密に読めば、不軽菩薩が常に誰人をも軽んじなかったということが述べられていて、@の解釈は、中心テーマを表わすものではなく、主題からずれている。Aは、菩薩の行状としては全く異なっている。竺法護訳とチベット語訳は@の立場であり、鳩摩羅什訳はのでもAでもない。このため、鳩摩羅什訳は誤っているとして、岩波文庫の『法華経』下巻では「常に軽蔑された男」(129頁)、中央公論社版の『法華経U』も[常に軽んぜられたという菩種](162頁)と、@の立場で現代語訳している。

 果たして、『正法華経』とチベット語訳、および岩波文庫と中央公論社版の『法華経』のように「常に軽んじられる」と受動の肯定形で訳すべきか、『妙法蓮華経』のように「常に軽んじない」と能動の否定形で訳すべきか、その理由をめぐって種々の意義づけや、解釈がなされてきた。そのいくつかをここで概観しておこう。

 荻原雲来博士は、その編著『梵文法華経』(いわゆる荻原・土田本)の脚注(319、320頁)において、この難点に会通を加えておられる。sadaparibhtaという現形のままに解すれぱ「常彼軽」、あるいは「常不彼軽」となるが、不軽品の内容からすれば、「常彼軽」か、あるいば鳩摩羅什訳のように「常不軽」でなければならず、その中でも「常彼軽」よりも「常不軽」のほうが一層適切であるのば言うまでもないとしている。

 また、現形のsadaparibhtaから「常不軽」という訳がストレートに出てこないことについては、もともとは「常に軽んじない」という言葉だったのが、語尾に転訛が起こって、現在の形になったのでは ないかと推測がなされている。これは、内容的に検討して「常不軽」とすべきだと論じているのはいいとしても、その根拠は苦し紛れであることは否めない。

 一方、渡辺照宏博士ば『法華経物語』において、「法華経の用例から見れば受動形を能動の意味で使うことがしばしばあるから、aparibhtaのままで『軽蔑しない者』という意味が認められ:…」(220頁)と論じておられる。ところが、中央公論社版の『法華経U』の訳注(276頁)では、「古典サンスクリットに限れば能動にとることは不可能である」と断りつつも、チベット語訳、竺法護訳、鳩摩羅什訳のいずれも、それなりに意味を持つとしていて、歯切れの悪さば否めない。岩本裕博士の訳された岩波文庫『法華経』下巻の400〜401頁にも同様のことが論じられている。果たして、能動に取ることは不可能なのであろうか? サンスクリット語では-na語尾の過去受動分詞と違い、-ta語尾の過去受動分詞は、他動詞・能動の意味を持つことがあると明記した次のような文法書もある。

二宮陸雄著『サンスクリット語の構文と語法』平河出版社、1989年、94頁

J.S.Speijer,SanskritSyntax,reprinted by Bodhi Leaves Corp.in Delhi,1975.360

 過去受動分詞を「能動にとることは不可能」と論じた当の中央公論社版『法華経I』をサンスクリット原典と比較しながら読み直してみると、過去受動分詞を能動で訳したところが何カ所もある。例えば、序品(植木訳『法華経』上巻、12頁)に次の一節がある。

ayam Manjusrih kumara-bhutaly...bahu-budha-parayupsaitah

 ここに、バフ・ブッダ(bahu-budha、多くの仏陀)と複合語をなす過去受動分詞パリ・ウパーシタハ(paryupasitah)が用いられている。これをどのように訳すべきであろうか。「名詞Aの具格(または属格)十過去受動分詞Bの主格」であれは、「AによってBされた」、すなわち「AがBした」と訳すべきだが、[名詞Aの主格十過去受動分詞Bの主格]という文章は、過去受動分詞を「能動にとることは不可能」という中央公論社版『法華経』の見解からすると、「AはBされた」と訳さなければならないことになる。ということは、この箇所の「マンジュシリーヒ」(Manjusirih)に包広号、文殊師利)も、クマーラ・ブータハ(Kumara‐bhutah、法王子)も、具格でなく主格であるので、主格のbahu-budha-parayupsaitahは「多くの仏陀によって仕えられた」と訳さなければならないことになる。ところが、中央公論社版では、この箇所が次のように訳されている。

 「このマンジュシリー(文殊師利)法王子は、〔中略〕多くの仏陀に仕えたのである」(『法華経I』13頁)

 過去受動分詞parayupsaitahの訳である「仕えた」は能動である。これは自語相違ではないか。bahu-budha-parayupsaitahは、能動で訳さなければ、マンジュシリーが「多くの仏陀によって仕えられた」となってしまい、マンジュシリーとブッダの立場とが逆転してしまう。従って、「能動と取ることは不可能」という見解は引っ込めるべきでばなかろうか。

 山崎守一博士は、「常不軽菩薩ーー名前の由来をめぐって」(金岡秀友博士還暦記念論文集『大乗菩薩の世界』187〜195頁)という論文で、A・A・マクドーネル、辻直四郎、H・ヘンドリクセン、F・エジヤートン博士らが、過去受動分詞が能動の意味で使用されることを認めておられることや、アショーカ王碑文や、力ローシュティー碑文にも、サンスクリットに俗語が混じった仏教混淆梵語や、中期インド・アリアン語においても過去受動分詞が能動として用いられている例が見られるとして、「常不軽」と訳すべきだと論じておられる。

 過去受動分詞に能動の意味が認められるとなると、文法的には「常被軽〔慢ご」「常不被軽〔慢〕との意味に加えて「常軽」「常不軽」という訳も可能になってくる。

 ところが、常不軽品の内容から考えると、荻原、渡辺、山崎博士らが言われるように「常不軽」という訳が最も適切である。それを常不軽品の本文に沿って見ておこう。

 常不軽品第二十(第19章)では、まずサダーパリブータ菩薩が登場した時代背景が語られる。それは、「恐ろしく響く音声の王」(威音王)という名前の如来が”享楽を離れた゛(離衰)という時代に、〃偉大なる創成々(大成)という世界に出現された時のことで、遥かな過去にまでさかのぼる。その如来が教えを説き、完全なる滅度に入られて、さらに二百万・コーティ・ナユタもの同じ名前の如来が順次に出現した。サダーパリブータ菩薩が活動したのは、その最後の威音王如来が滅度して、「正しい教え」(saddharma 正法)が「正し教えに似た〔教え〕ご(saddharma pratirapaka 像法)となった時代のことだとされる。

ブラティルーパカ(pratirapaka)は、「似ている」という意味であるが、「似て非なるもの」という意味も含んでいる。「やぶ医者」「山師」という意味もある。サッダルマ(正法)との複合語は、「像法」と漢訳されたが、「正法と似て非なるもの」「形骸化した教え」ということを意味している。すなわち、サダーパリブータ菩薩が活動したのは、次のような時代であった。

「その世尊(威音王如来)が、完全なる滅度(涅槃)に入られた後に、正しい教え(正法)が隠没し、また正しい教えに似た〔教え〕(像法)も隠没しつつあり、その教えが増上慢の男性出家者(比丘)たちによって攻撃されている時に、サダーパリブータという名前の男性出家者の菩薩がいた」(植木訳『法華経』下巻、367頁)

 鳩摩羅什は、これを次のように漢訳した。

「最初の威音王如来、既已に滅度したまいて、正法滅して後、像法の中に於いて、増上慢の比丘、大勢力有り。かの時に一りの菩薩の比丘有り。常不軽と名づく」同、366頁

 このように断った上で、″大いなる勢力をかち得たもの々(得大勢)に対して、いかなる理由でサダーパリブータと呼ばれたのか、その菩薩についての故事が語られる。それは、その菩薩がいかなる人も軽んじないということに中心があった。この菩薩は、出家の男子(比丘)であれ、出家の女性(比丘尼)であれ、在家の男性(優婆塞)であれ、在家の女性(優婆夷)であれ、出会った人はだれにでも近づいて語りかけた。その決まり文句は次の通りである。

「尊者がたよ(ayusmanto)、私は、あなたがたを軽んじません(na..paribhavami)。あなたがたは、軽んじられることはありません(aparibhuta)。それは、どんな理由によってか? あなたがたは、すべて菩薩としての修行(菩薩道)を行ないなさい。あなたがたば、正しく完全に覚った尊敬されるべき如来になるでありましよう」(同、367頁)

 これを鳩摩羅什は、次のように漢訳した。

「我、深く汝等を敬う。敢えて軽慢せず。所以は何ん。汝等は皆、菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」(同、366頁)

さらに冒頭の「尊者がたよ」を「ご婦人がたよ」に変えて、同じことを菩薩は繰り返す。

[ご婦人がたよ(bhaginyo)、私は、あなたがたを軽んじません(na..paribhavami)。あなたがたは、軽んじられることはありません(aparibhuta)。それは、どんな理由によってか? あなたがたは、すべて菩薩としての修行(菩薩道)を行ないなさい。あなたがたは、正しく完全に覚った尊敬されるべき如来になるでありましょう」(同、367、369頁)

 鳩摩羅什は、これを次のように漢訳している。

「我、敢えて汝等を軽しめず。汝菩薩は、皆当に作仏すべし」(同、366、368頁)

 菩薩からこのように声をかはられて、出家の男女、そして在家の男女からなる四衆の中でも特に男性出家者たちは、その菩薩に対して嫌悪感を抱いて罵り、非難しただけでなく、怒って危害をも加えるに至った。

「聞かれてもいない〔のに〕この男性出家者は、軽んじない心(aparibhava-cittam)を持っていると、どうしてわれわれに説き示すのであろうか?」(同、369頁)

「是の無智の比丘は、何れの所より来って自ら我、汝を軽しめず、と言って、我等が与に当に作仏することを得べしと授記する」(同、368頁)

 この言葉から判断すると、四衆たちは菩薩の行為について「軽んじない心」を説き聞かせるものだと認識していることが分かる。これば、aparibhava-cittamという複合語をaparibhava十cittam」と考えた場合の訳で、「a十paribhava-cittam」と考えると「軽んじる心がない」とも訳すことができる。

 そして、四衆たちは次のように考える。

「この上ない正しく完全な覚りに〔到るであろうという〕、望まれてもいない虚偽のことを、私たちに予言(授記)するということは、私たち自身を軽んじられたことになす(paribhutam atmanan karoti-cittami)ものである」(同、369頁)

 この中の最後の「私たち自身を軽んじられたことになすものである」の部分は、サンスクリット語で掛詞になっている。atmananは、サンスクリット語の再帰代名詞アートマン(atmanan、〜自身)の男性・
単数・対格である。atmananは、すべての人称に対して、両数であれ、複数であれ常に男性・単数の形で用いられる。従ってここは、「私たち自身」(一人称・複数)のほかに、「彼自身」(三人称・単数)の意味もあり、「〔その菩薩は〕自分自身を軽んじられることになすのだ」と翻訳することもできる。言い換えれば、「虚偽の予言なんかしていると、お前自身が軽んじられるぞ」ということだ(植木訳『法華経』下巻、369、381頁参照)。ただし、鳩摩羅什訳ではこの掛詞の部分は、次のように全く訳されていない。

「我等、是くの如き虚妄の授記を用いず」(同、368頁)

 ここに paraibhutamとあるのは、「四衆が菩薩から軽んじられたこと」と「菩薩が四衆たちから軽んじられること」になるという四衆の所感を述べたものだ。

 こうして、四衆は長年にわたり菩薩を悪口・罵詈し、土塊や棒切れを投げつけた。それでも菩薩は決して怒ったり(krkradh)、憎悪(vyapada、瞋恚)の心を生ずることはなかった。菩薩は何をされても、危害の及はないところへ走り去り、そこから大きな声で訴え続けた。

「私は、あなたがたを軽んじません(na..paribhavami)(同、369頁)

「我、敢えて汝等を軽しめず。汝等は皆、当に作仏すべし」(同、368頁)

 常不軽品では、菩薩が悪口・罵詈されたことを述べる時は、必ずその直後に、[それでも菩薩は人々を軽んじなかった]ということが記されている。これは、菩薩が「軽んじられた」ことよりも、菩薩が「軽んじなかった」ことのほうに重心があることを意味する。

 もしも、菩薩の名前が「常に軽んじられた」という意味であるならば、菩種が悪口・罵詈され、危害が加えられる場面にこそ「軽んずる」(para bhu)という語の派生語が用いられるべきだ。ところが、この場面にば「悪口する」(para bhas)、「罵冒する」(krus)、「土塊」(osta)や「棒切れ」(danda)を「投げつける」(ksip)――という語しか出てこない。パリ・ブー(pari bhu)の派生語は用いられていないのだ。この事実は、菩種の名前としては「常に軽んじられる」が本意でないことを意味していよう。

 常不軽品では、以上のような経過が説明された上で、この菩種の名前の由来が次のように結論されている。

「常に〔その菩種からこのように語って〕聞かせられていたそれらの増上慢の男性出家者・女性出家者・男性在家信者・女性在家信者〔の四衆〕たちが、その〔菩種〕にサダーパリブーク(sadaparibhuta)という名前をつけたのである」(同、369頁)

「其れ、常に是の言を作すを以ての故に、増上慢の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷、之を号して常不軽と為づく」(同、368頁)

 この論調からすれば、菩薩が四衆に対して常に「私は軽んじない」と語って聞かせていたことが命名の理由になっているといえよう。

 また、命終間際になって、この菩薩は、虚空から聞こえてきた『法華経』の法門を信受し、六根清浄を得て寿命を延ばすが、その次の場面では、四衆のことを次のように説明している。関係節ごとに区切って並べてみよう。

@ye ca te bhimanimakah sattva bhiksu-bhiksny-upasakopasika  

Aye purvam naham yusmakam paribhavamiti samsravita   

Byair asyedam Sadaparibhuta iyi nama kitam abhut /同 370頁)

これを鳩摩羅什は、次のように漢訳した。

「時に増上慢の四衆の、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の、是の人を軽賤して、為に不軽の名を作せし者……」 (同、370頁)

 この漢訳からは、この菩薩が、増上慢の四衆たちから軽蔑されて「不軽」というあだ名を付けられたということしか読み取れない。その名にどのような意味を込めたのかまでは分からない。ところが、サンスクリット原文に立ち返ると、それが明記されている。

 サンスクリットの@、A、Bは、それぞれ次のように訳すことができる。

@「そして、それらの増上慢の衆生たちであるところの男性出家者・女性出家者・男性在家信者・女性在家信者たち、」

A「〔また〕以前に〔この菩薩から〕『私はあなたがたを軽んじません』と〔語って〕聞かせられたところの〔男性出家者・女性出家者・男性在家信者・女性在家信者たち〕

B「〔また〕この〔菩薩〕にこのサダーパリブータという名前をつけたところの〔男性出家者・女性出家者・男性在家信者・女性在家信者たち〕」

 これらの@、A、Bは、関係代名詞ye、yairに導かれた三つの関係節である。いずれも先行詞「男性出家者・女性出家者。男性在家信者。女性在家信者たち」(bhiksu-bhikuny-upasakopasika)にかかっている。そのうちのA、Bの関係節は、菩薩から四衆が常に「私はあなたがたを軽んじません」と語って聞かせられていたということと、菩薩を軽蔑してサダーパリブータとあだ名を付けたこととがパラレルであることを示している。このことを考慮しても、菩種の名前の意味するところは「軽んじない」(不軽)ということに重心があると言えよう。

 以上のことを確認した上で、不軽品からpari bhuの派生語を拾い出してみると、

@paribhavami=動詞 pari bhu(軽んじる)の現在・一人称・単数。

Aparibhavuta(△aparibhavutah)=動詞paribhuの過去受動分詞paribhuta(軽んじられた)の男性または女性・複数・主格に否定の接頭辞a‐を付したもの。

Baparibhava=動詞pari bhuから造られた形容詞paribhave(軽んじている)に否定の接頭辞a-を付したもの。

Cparibhntan=過去受動分詞paribhuta(軽んじられた)の男性・単数・対格。

の四種を挙げることができる。これらは、

@菩薩は、四衆に「私はあなたがたを軽んじません」()と声をかけた(植本訳『法華経』下巻、366、367頁)。

Aまた、「あなたがたは、軽んじられることはありません」(aparibhuta yuyam)とも告げた(同)。

Bそれを四衆は、菩薩が「軽んじない心」(aparibhave-cittam)を説いているつもりだと認識はしている(同、368、369頁)。

Cけれども四衆は、望んでもいない虚偽の予言をされたと受け取って、菩薩の行為について「私たち自身を軽んじられたことになすものである」(paribhuta atmanam karoti)、すなわち「私は軽んじられた」「菩薩が私を軽んじた」と受け取る。それは、掛詞で「〔菩薩は〕自分自身を軽んじられることになす」をも意味する(同)。

という文脈の中に出てくる。これは、菩薩が「軽んじない」と言っているのに、四衆が「軽んじられた」と受け取るというパラドックスをなしている。その結果、菩薩は悪口・罵詈・刀杖瓦石の難を受ける(この点を見れば、「菩薩は軽んじられた」と言えないこともない)。pari bhuの派生語は、以上の文脈において用いられている。

 ところが、臨終間際に天から聞こえてきた『法華経』を素直に受け容れて、六根清浄を得た。これまでと一転し、その菩薩が、経典としての『法華経』を説き始めると、四衆に変化が起こる。

「男性出家者・女性出家者・男性在家信者・女性在家信者たち、〔それらの〕すべてが、その〔菩薩〕のすぐれた神通力の威力や、〔人に〕理解させる雄弁の力の威力、智慧の力の威力を見て、教えを聞くために〔その菩薩に〕随従する者たちとなった」(同、371頁)

「其の、大神通力、楽説弁力、大善寂力を得たるを見て、其の所説を聞いて、皆、信伏随従す」(同、370頁)

 四衆が菩薩に「随従する者」となったのだ。すなわち菩薩は最終的に「軽んじられない」者となったといえよう(ただし、この部分では、pari bhuの派生語ば用いられていない)。

 このような経過説明がなされて、過去の釈尊自身であるこの菩薩が、四衆たちからどのように認識されていたのかを釈尊自身が次のように述べる(ただし、鳩摩羅什訳にはない)。

yas...catasimam parsadam sadaparibhuta-sammato bhud/(同、372頁)

「サダーパリブータ(sadaparibhuta)というものであると、〔このように〕四衆たちに是認されていたところの人」(同、373頁)

 チャタスリナーム パルシヤダーム(catasrinam parssadam、四衆たちによって)が属格であるのは、-ta語尾の過去受動分詞の行為者(主語)を示すためだが、その四衆という行為者に対応する述語としての過去受動分詞は、複合語サダーパリブータ・サンマトー(sadaparibhuta-sammato)の前半部となっているsadaparibhutaではなく、後半部のsammato(sammata、認識されていた)のほうである。sadaparibhutaは、菩薩の名前だけでなく、菩薩に対する四衆たちの認識内容を示す語である。

 従って、sadaparibhutaは、菩種をめぐるこれまでの「私は常に軽んじない」「あなたがたは常に軽んじられない」「菩種は常に軽んじない心を説いている」「菩種が私を常に軽んじた」「菩種が常に軽んじられた」といったことすべてを要約してsadaparibhutaという菩種の名前に結びつける掛詞と理解すべきである。すなわち、釈尊自らが語るこの菩種についての四衆の認識内容は、

@「菩薩は常に『あなたがたを軽んじない』『あなたがたは軽んじられない』と語り、『軽んじない心』を説いている」と四衆に是認されていた。

A「菩種の行為によって自分たちは常に『軽んじられた』、すなわち『菩薩ば私たちを軽んじた』」と四衆に是認されていた。

B「菩薩は悪口・罵詈され、常に『軽んじられた』」と四衆に是認されていた。

といった掛詞となっているのである。もちろん@の「常に軽んじない」が中心テーマであることは言うまでもない。さらに、四衆が菩薩に随従するようになったことを考慮すれば、

C「四衆の随従で『菩薩は常に軽んじられないものとなった』」と四衆に是認されていた。も加えられよう。

 これまで、この菩種のサダーパリブータという名前は、〈paribhutaかaparibhutaか?〉、すなわち〈肯定か否定か?〉、また〈受動か能動か?〉といった観点で議論がなされ、そのいずれか一つに意味を限定しようとしてきたように見受けられる。ところが、サンスクリット文学においては、掛詞のような技巧的表現が頻繁に用いられる。sadaparibhutaを掛詞と考えれば、次の四つの意味がすべて菩種の名前に込められていることになる。

@菩薩は、誰人も「常に軽んじなかった」=常不軽)、すなわち菩薩から誰人も「常に軽んじられなかった」(=常不被軽)。

Aそれに対して、四衆は自分たちが菩種に「常に軽んじられた」=常被軽)、すなわち菩薩が自分たちを「常に軽んじた」=常軽)と思った。

Bそのため菩薩は、四衆から悪口・罵冒され「常に軽んじられた」=常被軽)。

Cけれども最終的に四衆は皆、菩種に信伏随従することになり、それ以後の菩種は、四衆から「常に軽んじられなかった」=常不被軽)。

 これは、常不軽品のストーリーそのままである。その中であえて中心的な意味を一つ挙げるとすれば、@の中の「常に軽んじなかった」(=常不軽)であるのは言うまでもないことだ。

 掛詞に込められたすべての意味を外国語に翻訳するのは困難なことである。適切な訳語はなかなか見つからない。どれか一つ中心的な意味を選び取って訳すしかない。その際、鳩摩羅什ば本文の意味内容をくみ取って「常不軽」(常に軽んじない)と漢訳し、竺法護は教科書的な文法に忠実に枝葉の意味である

 「常被軽慢」(常に軽んじられる)を採用していたといえよう。鳩摩羅什の訳が勝れているのは言うまでもないことだ。それよりも、四つの意味すべてを反映して訳した方がいいに決まっている。従って、筆者は、拙訳『梵漢和対照・現代語訳法華経』第19章のタイトルを次のように現代語訳した。

「常に軽んじない〔と主張して、常に軽んじていると思われ、その結果、常に軽んじられることになるが、最終的には常に軽んじられないものとなる」菩薩」(同、363頁)

 

 

 

人間尊重の振る舞い自体が既に『法華経』

 大乗仏教という「釈尊の原点に還る」運動は、増上慢の比丘たちから批判されながらの運動であったことが推測される。その批判は、常不躾品を通して次のようなことが見えてくる。

@怒りと憎悪(瞋恚)を生じた心不浄なる四衆が悪口・罵詈する。

A「あなたがたは如来になるでしょう」という菩種の言葉に対して、四衆が「虚妄の授記」(でたらめな授記)と悪口を言い、罵る。

B衆人が、木でなぐったり、土塊を投げつけたりする。

 ここに「虚妄の授記」とあるのは、当時の小乗仏教が、釈尊を神格化していたことからすると、当然の非難であった。小乗仏教は、釈尊の成道には「歴劫修行」といって天文学的な時間を要したことを強調し、釈尊を種々に人間離れした存在に祀り上げていた。その上で、出家者でさえ仏になることはできず、阿羅漢止まりであるとし、在家は阿羅漢にもなれないなどとしていた。それは、原始仏典に記された釈尊の言葉とは全く異なるものであった。序章(22頁)に挙げておいた『スッタニパータ』の

   「目のあたり、即時に果報をもたらす」(『ブッダのことば』126頁)

   「まのあたり体得されるこの安らき」(同、224頁)

   「即時に効果の見られる、時を要しない法」(同、239頁)

   「まのあたり即時に実現され、時を要しない法」(同、240頁)

といった言葉から「歴劫修行」とりう考えは出てこない。

 また、釈尊が成道後、故郷に帰った時のことが『ジャータカ序』に詳細に記されている(『ジヤータカー』85頁)。そこには、父であるスッドーダナ王(浄飯王)が釈尊の説法を聞き、最高の境地に達したとある。中村先生は、それについて次のように述べておられる。

「ここには世俗の生活のままで究極の境地に達し得るという思想が表明されている。おそらく伝統的な教義学者たちには、こういう思想を表明したくなかったであろう。しかし、こういう思想の存在したことを隠すことはできなかったのである」(『ゴータマ・ブッダー』666頁)

 だから、歴史的人物としての釈尊に立ち還ると、成仏はだれにでも許されていたものであった。サダーパリブータ菩種の常套句は、仏教の原点に立ち還って発言したものであったのだ。大乗仏教、なかんずく『法華経』は、「釈尊の原点に還る」運動であった。その一つがだれでも成仏できるとしたことである。それば、小乗仏教にとっては許しがたいことであった。それに対する批判が「彼らは、自分で経典を作って……」であり、「虚妄の授記」という言葉であった。また、「こいつらは、仏になるんだってよ」という皮肉交じりの言葉であったのだ。

 勧持品第十三(第12章)では、さらに詳細に同趣旨のことが描写されている。

「〔如来が滅度に入られた〕恐るべき後の時代において、〔男性出家者たちは、〕悪智慧を持ち、心が歪んでいて、悪意があり、愚かで、慢心を抱いていて、いまだ到達していないのに、到達したと思い込んでいるでありましょう。しかも、愚かな〔男性出家〕者たちは、荒野(阿練若)で生活していて、襤褸をつなき合わせた衣を着ていることで、『われわれは、〔少欲〕知足を実行しているのだ』と、このように言うでありましょう。〔美味なる〕味覚の対象を貪欲に求め、また執着して〔いる故に〕、在家の人(白衣)たちに法(真理の教え)を説いて、あたかも六種の神通力(六通)を具えている〔阿羅漢である〕かのように、そのようにして恭敬されようとするでありましょう。また、悪辣な心を持ち、邪悪で、家や財産のことしか頭になく、〔そこに住むことで男性出家者であるかのように思わせる〕荒野(阿練若)という保身のための場所に住んで、私たちを誹謗している」(植木訳『法華経』下巻、117頁)

 これを鳩摩羅什は、次のように漢訳した。

「悪世の中の比丘は、邪智にして心諮曲に、未だ得ざるを為れ得たりと謂い、我慢の心充満せん。或は阿練若に納衣にして空閑に在って、自ら真の道を行ずと謂いて、人間を軽賤する者有らん。利養に貪著するが故に白衣の与に法を説いて、世の恭敬する所と為ること、六通の羅漢の如くならん。是の人、悪心を懐き、常に世俗の事を念い、名を阿練若に仮って、好んで我等が過を出さん」(同、116頁)

 この勧持品の第2偈から第21偈までの20個の偈(同、116〜121頁)、いわゆる「勧持品の二十行の偈」に描かれた情況は、釈尊滅後のこととして記されているが、『法華経』が編纂された当時(1世紀から3世紀にかけて)の時代情況が反映されているということは大いに考えられることである。ここに書いてあることは、当時の情況そのままでもあったのであろう。だから、描写が大変にリアルであり、現実味に満ち満ちている。『法華経』などの大乗仏典が編纂されたのは、釈尊滅後のことである。従って、『法華経』などが編纂されたころの話は、釈尊在世のころから見れば、未来のことになり、未来のこととして表現されていると言っていいであろう。

 勧持品の二十行の偈から、当時の『法華経』信奉者たちに対する批判を見てみると、おおよそ次のように要約することができる。

@無智の人たちが、侮辱したり罵ったり、危害を加えたりすることもあった。

A男性出家者たちは、悪智慧を持ち、心が歪んでいて、悪意があり、愚かで慢心を抱いていて、『法華経』信奉者たちについて、「彼らは、にせの経典を作って外道の説を述べ、『だれでも成仏できる』という甘い言葉で世間の人をだまし、自分たちの利益を得ようとしている」と非難する。

B国王、大臣、上流階級の人たち、あるいは他の出家者に対して、『法華経』信奉者の悪口を告げ、「彼らのやっていることは仏教ではなく、外道である」「自分たちで勝手に経典を作って称讃されようとしている」と謗る。

C自分たちの教団内の『法華経』信奉者を非難したり、眉をしかめたり、集会で席を与えなかったり、精舎から追放したりする。

 こうした当時の情況は、『涅槃経』にも生々しく描写されている。現代語訳して引用しよう。

「釈尊の入滅した後、正法が滅してしまって、さらには法そのものも見失われ、仏法が形骸化してしまう像法時代のちょうどその時になると、次のような出家修行者が登場するであろう。いかにも戒律を持つ者であるかのように外面的な姿だけを似せて、ほんの少し経を読誦するだけで、うまい飲み物や、食べ物を貪り嗜んでは自分の身をこやしている。袈裟を身に着けて、いかにも出家修行者の格好をしているとはいっても、その心や振る舞いは、ちょうど猟師が目を細めてそっと獲物に近付いていくのと同じであり、また猫が鼠に襲いかかろうとして、その好機をうかがっているのと同じである。そうでありながら、常に『私は、三界の一切の煩悩を断じ尽くした阿羅漢の位を得ている』ということを口にするであろう。外見だはは賢く立派そうに見せかけているが、その心の内には貪欲と嫉妬心が渦巻いているのである」(『大正新脩大蔵経』巻12、386頁中)

 サダーパリブータ菩薩の登場した時代も同様の時代状況が想定されていたのであろう。経典を読誦してはいるものの、人間を軽賤する増上慢の比丘たちが勢力をふるっていた時代が想定されている。そのような中でも不軽菩薩は、たとえ経典を読誦することはなかったとはいえ、女性はもちろんのこと、人々を決して軽んずることなく、だれであっても成仏できるとして、だれ人をも常に軽んじないという人間尊重の振る舞いに徹していた。自らは軽んじられ罵詈されようが、杖木瓦石を彼ろうが、その振る舞いは変わるところがなかった。感情的になることもなかった。この菩薩がなしたことは、だれ人に対しても「私はあなたを軽んじません。あなたも如来になるでありましょう」ということを訴え続けたことだけであった。この言葉を訴える前後には、次の言葉が記されている。

「このようにして、男性出家者であり〔ながら〕、偉大な人であるその菩薩は、〔他者に対して教理の〕解説もなさず、自分自身のための〔聖典の〕学習もなすことがない。その一方で、遠くにいる人でさえも、だれであれ、まさに出会うところの人、そのすべての人に近づいてから、先のように〔語って〕聞かせるのだ。男性出家者であれ、女性出家者であれ、男性在家信者であれ、女性在家信者であれ、だれにでも近づいてこのように告げるのだ」(植本訳『法華経』下巻、367頁)

 この箇所の鳩摩羅什訳は、次の通りである。

「而も是の比丘、経典を読誦するを専らにせずして、但礼拝を行ず。乃至遠く四衆を見ても、亦復故に往いて礼拝讃歎して、是の言を作さく」(同、366頁)

 鳩摩羅什訳の「礼拝」に当たる語はケルン・南条本にはないが、前後の意味を分かりやすくするために鳩摩羅什が補ったのであろう。それは別にしても、この一節は大変に興味深い記述である。このサダーパリブータ菩薩の出現した時代状況が、「その教えが増上慢の男性出家者(比丘)たちによって攻撃されている時」(同、367頁)とあることからすると、この表現にば出家者中心の権威主義に陥った小乗仏教への批判も込められていると思われる。

〈受持・読・誦・解説・書写〉は、法師品に説かれるもので、「五種の修行」と称され、それを修行する人を「五種法師」という。「読」は経文を見て読むこと、「誦」は暗誦すること、「解説」は経を他者に解釈し説明することで、『法華経』ばどその実践を強調した経典はない。それにもかかわらず、常不軽品が、読誦や解説を否定しているかのような表現を敢えてとったということば、小乗仏教徒が経典を読み肩詰注釈することに自己満足して、「人間のため」という視点を見失っていたことに対する批判であり、皮肉といえよう。経典ばかり読んでいるが人間を軽視している出家者たちに対して、経典を読むことはないが人間を尊重する振る舞いに徹している菩薩とのコントラストを際立たせる表現が取られているのである。

 釈尊滅後、教団は部派分裂を経て、特に上座部系は権威主義的傾向を強めていった。それは出家中心主義、隠遁的な僧院仏教という特徴として表面化してくる。出家して比丘となり、戒律を守り、厳しい修行をする。在家と出家の違いを厳しくして、出家を前提とした教理体系や修行形態を築き上げ、僧院の奥深くにこもって、禁欲生活に専念し、煩瓊な教理の研究と、修行に明け暮れた。その修行も、他人の救済(利他)よりも自己の修行の完成(自利)を目指したもので、ややもすると利己的・独善的な態度に陥る傾向があった。

 こうした傾向を助長した要因の一つとして、教団自体の富裕化が挙げられよう。教団は、王侯たちから広大な土地を寄進された。それは寺院の荘園となり、王の官吏たちも立ち入ることができなかった。また、多大な金銭の寄進を受け、教団はそれを商人の組合に貸し付けて利子を取った。こうして西暦紀元前後には、教団自体が大地主・大資本家と化していた。出家者たちが大寺院の中に住んで瞑想に明け暮れ、煩瓊な教理の研究に没頭して、悩める民衆のことを考えなくなってしまった背景にはこうした事情もあったのである。紀元前後に登場する大乗仏教から、「小乗」と貶称されるに至る理由はこうした点にあった。

 さらには、仏道修行の形式だけをまねて、その精神を見失ってしまった実態、それを不軽品では「正しい教えに似た〔教え〕」(像法)、すなわち「正法と似て非なるもの」と表現していたが、それへの痛烈な批判ともなっている。

 そのような情況に対して、文字として表わされた経典を目にし、口にすることが大切なのか、それともその経典の言おうとしたことを文字や言葉としては知らなくても、実行することが大事なのか――という根本的な問題提起がここでなされている。『法華経』は、「皆成仏道」(皆、仏道を成ず)として、一切衆生の成仏を説くものであり、「如我等無異」(我が如く等しくして異なること無からしめん=植本訳『法華経』上巻、110頁)として、一切衆生の平等を説く経典である。そのことが説かれた経典を読み、諳んじること自体が大事なのか、それとも、たとえその経典を読誦することはなくとも、すべての人の平等を訴え、だれでもブッダとなることができることを訴え、人間を尊重する振る舞い・行為のほうが大事なのか――そういう意味で、「不専読誦経典。但行礼拝」という言葉には大変な重みがある。

 サダーパリブータ菩薩の実践はひるむことなく続いたが、それはあくまでも「不専読誦経典」であり、『法華経』という文字としての経典を人に解説することも、自分で学ぶこともなかった。経典としての『法華経』を受持するに至るのは臨終間際になってのことだった。

「ところで”大いなる勢力をかち得たもの”(得大勢)よ、死が近づき、命終の時が迫った時、その偉大な人であるサダーパリブータ菩薩は、この”白蓮華のように最も勝れた正しい教え”(妙法蓮華)という法門を聞いた」(同、下巻、369頁)

 その『法華経』はかつて″恐ろしく響く音声の王”(威音王)という如来が説いたものであった。しかも、それが空中から聞こえてきたという。その場面は、次の通りである。

「〔その菩薩は〕だれも語っていない(na kema-cid bhasitam)空中からの声を聞き、この法門を受持し、〔法師功徳品で述べた〕このような眼の清らかさ、耳の清らかさ、鼻の清らかさ、舌の清らかさ、身の清らかさ、意の清らかさ〔、すなわち六根清浄〕を獲得した」(同、371頁)

 この中の「だれも語っていない」(na kena-cid bhasitam)は、ケルン・南条本(379頁)では「だれかが語ったところの」(kena kena-cid bhasitam)となっている。岩波文庫『法華経』はケルン・南条本に従って、「誰かが語った」(下巻、137頁)としている。しかし、ケルン・南条本の底本である英国・アイルランド王立アジア協会本だけでなく、カシュガル本ではna kena-cid bhasitamとなっているし、チベット語訳も「だれも語っていない」となっているので、筆者は、ケルン・南条本の関係代名詞yenaを否定辞のnaに戻した。ケルン・南条本は、「だれも語っていない声を聞く」では矛盾すると気を回しすぎて、書き改めたのであろう。しかし、分別功徳品に「打たれてもいない太鼓に甘美なる〔音を〕鳴り響かせつつ」(同、261頁)とあることを考慮すると、こうした表現は何も特異なことではない。

 鳩摩羅什の訳では、「だれかが語った」とも「だれも語っていない」とも言及せず、「虚空の中に於いて」(同、370頁)とあるのみだ。漢訳からは分からないが、命終間際になってだれも説かないのに空中から『法華経』が聞こえてきたということは何を意味するのだろうか。それは、サダーパリブータ菩薩がおのずから『法華経』を自得したということであろう。

 サダーパリブータ菩薩ば、経典としての『法華経』を全く読誦することはなかったが、その人間尊重の振る舞い自体、だれでもブッダになれると主張し続け、悪口・罵詈されても感情的になることがなかったということ自体、それこそが、まさに『法華経』の説かんとすることであり、『法華経』の精神にかなっていたということを意味しているのではないだろうか。

 それは、『法華経』法師品に説かれた「衣座室の三軌」にかなったものでもあった。すなわち、出会う人にはだれにでも「私はあなたを軽んじません」と告げたのは、「一切衆生に対する慈悲という精舎」(如来の室)に入っていたからであり、悪口・罵詈されても「決して怒ることはなく、憎悪(瞋恚)の心を生じることもなかった」のは、「偉大なる忍耐に対する喜び」という如来の衣を着ていたことを意味する。

 それは、あらゆることに執着しない境地に立っていたからこそできることであり、「あらゆるものごと(一切法)が空であるということ(空性)に悟入すること」、すなわち如来の法座に坐していたことによるのである。

 サダーパリブータ菩薩の振る舞いは、「宗教のための宗教」に陥ったり、出家中心主義になって対社会的に没交渉的になったりすることが、本来の仏教の精神から遠いものであることを警告しているのではないだろうか。「人間のため」「社会のため」の『法華経』であり、仏教であり、かつまた宗教であるという原点を忘れてはならないということを訴えているのだ。権威主義は、『法華経』とは全く逆行する。

 経典の読誦は、仏道修行の主要な形式であろう。その形式には、そのほかにもたくさんあるだろうが、それらをいくら実践していると言っても、人間を軽んじたり、睥睨しているならば、それはもはや仏教とは言えない。そのような根本的な問題提起がなされているのだ。

 この考えを発展させれば、仏法、あるいば『法華経』の教えを知らなくても、既にその人が普遍的平等観に立って人間を軽んじることなく、人間を大事にし、尊重する行ないを貫いているならば、その人は既に『法華経』を行じていると言ってもいいことになる。一宗一派や、イデオロギーや、セクト主義などの壁を乗り越える視点が、ここに提示されている。

 仏法を知識として知っているか、知っていないかということよりも、その人の人間のための行動、人間尊重の態度や振る舞い、悪口・罵詈されても感情的になることのない寛容の精神――それこそが重要だというのだ。いや、むしろ、そのほうが仏法を真に理解していることになると言っても過言ではない。その考えを敷衍すれば、仏教徒か否かということは、二の次になるということだ。いかなるセクトに所属しているかということよりも、セクトを超えて、何をするかということが重要だということだ。

 今、異なる文明、異なる宗教の間の対立が際立っている。今や、その対立をいかに乗り越えるかが問われている。それは、人間の尊厳を訴え、生命を尊いものとして尊重するという視点を最大の価値とすることによって、乗り越えることしかないのではないだろうか。そのヒントをこのサダーパリブータ菩薩の振る舞いに学ぶことができるのではないか。

 釈尊は、自らを教祖ではないと言っていた。『法華経』も釈尊の占有の教えではなく、多くのブッダたちが説いた究極の教えとされている。人間の平等と生命の尊厳という普遍的立場に立っているからだ。

 

 

 

仏性思想からの人間の尊厳

 サダーパリブータ菩薩の振る舞いの「常不軽」とは、人を軽蔑したりしないということであり、「礼拝」すること、あるいは「私はあなたを軽んじません」と訴えることには、人を尊重するという心がこもっている。常不軽品に説かれたこうした『法華経』の人間観について、四世紀ごろのヴァスバンドウ(世親、または天親)は、『法華論』において次のように述べている。

「『我れ汝を軽んぜず。汝等は皆当に作仏することを得べし』とは、衆生に皆、仏性有ることを示現するが故なり」(『大正新脩大蔵経』巻26、9頁上)

 ヴァスバンドウは、サダーパリブータ菩薩が人々を敬ったのは、あらゆる衆生に「仏性」が具わっているからだと説明している。「仏性」は、サンスクリットのブッダ・ヴァンシヤ(buddha-vamsa)、ゴートラ(gatra)、ブッダ・ダートウ(buddha-dhatu)などの訳語で、衆生が本来、具えている「仏となる可能性」「仏としての本性」ということである。しかし、1世紀から3世紀にかけて成立したとされる『法華経』には「仏性」という言葉は用いられていない。それは、4世紀ごろ成立した『涅槃経』などに出てくるもので、次の一節がよく知られている。

「一切衆生悉有仏性」(一切衆生に悉く仏性有り=『大正新脩大蔵経』巻12、487頁上)

 確かに「仏性」という言葉は『法華経』にば出てこないが、その概念は既に含まれているといえよう。

例えぱ、方便品の次の一節にも「仏性」に相当する考え方が読み取れる。

「〔すべてのブッダ・世尊たちが説かれたのは〕まさに如来の知見によって衆生を教化することであって、〔衆生に〕まさに如来の知見を開示し、まさに如来の知見に入らせ、まさに如来の知見を覚らせ、まさに如来の知見の道に入らせる法を衆生に説かれたのである」(植本訳『法華経』上巻、99頁)

 衆生に開示され、覚らせ、入らせられるべき「仏知見」(tathagata-jnana-darsana)は、言葉は違っていても「仏性」と置き換えてもいいものであろう。あるいは、「我が如く等しくして異なること無からしめん」といった言葉も、衆生を「我」=仏)と等しいものたらしめようというのだから、衆生に「仏となる可能性」を認めているのであり、「仏性」という言葉こそ用いてはいないが、人間観としては軌を一にしている。

 

 それは何も『法華経』に限ったことではなく、原始仏教の段階からそうであったのだ。中村先生は、西洋における絶対者を仏教の場合と比較して次のように論じておられる。

「西洋においては絶対者としての神は人間から断絶しているが、仏教においては絶対者(=仏)は人間の内に存し、いな、人間そのものなのである」(『原始仏教の社会思想』261頁)

 この考えを敷衍すれば、原始仏教自体にも言葉こそ見られないが、「仏性」の考え方は当初から一貫していたと言っても構わないであろう。そういう意味でも、大乗仏教は、「釈尊の原点に還る」運動であったのである。あらゆる人間そのものが絶対者なのであり、人間を手段としてしか見ないことになれば、それはもはや仏教とは言えないことにもなる。

 天台大師智顎は、不軽菩種の振る舞いについて『法華文句』で次のように論じている。

「内に不軽の解を懐き、外に不軽の境を敬う。身に不軽の行を立て、口に不軽の教を宣べ、人に不軽の目を作す」(『大正新脩大蔵経』巻34、140頁下)

 まず、心(=意)の中で「不軽の解」を抱くことから、身口意によって顕在化する一切の不軽(軽んじない)という行為は発しているというのである。その「不軽の解」を智顎は、ヴァスバンドウの「仏性」の考えから説明している。

 不軽の解とは、法華論に云く、『此の菩薩は衆生に仏性有るを知り、敢えて之を軽んぜず』と」(同)このことを加味すると、先の智頭の言葉は次のように現代語訳できる。

「自分の心の中で『一切衆生に仏性がある』ということを信ずるゆえに、自分の外側にある『軽んじてはならない』対象を敬うことができる。すなわち、身体〔の振る舞い〕において『軽んじない』という実践を貫き、口(言葉)において『軽んじない』という教えを説き、あらゆる人に対して『軽んじられるべきではない』という見方をすることができるのである」

 まず、〈意〉すなわち心に、「衆生に皆、仏性有る」ことを信じるがゆえに、〈身〉に、あらゆる人への礼拝をなし、〈口〉に、「我深く汝等を敬う」と語り続けるのであり、身口意の三業で、すなわち全身全霊で不軽の礼拝を行じることができるというのだ。

 「三業」の「業」(karman)とは、振る舞い、行為のことである。〈身〉と〈口〉が行為であるというのは分かるが、仏教において〈意〉までも行為ととらえていることが注目される。それは、あらゆる行為の根本に心の思いがあるからだ。心に思ってもいないのに、口先だけや、格好だけでは、いつかメッキがはげてしまう。不軽菩薩が、悪口・罵詈されても決して怒りや憎悪を生ずることなく、軽んじないという振る舞いを貫けたのは、〈意〉に「不軽の解」が不動のものとしてあったからであろう。それだからこそ、〈身〉と〈口〉と〈意〉の三拍子そろって人を敬うことができたのである。「不軽の解」とは、言い換えれば、だれ人も仏性を具えており、尊厳なものであるという人間観を体得していることと言ってもよいであろう。

 「不軽の解」を智顎は「衆生に仏性有るを知る」ことと説明している。衆生に仏性を見るためには、まず「自已に仏性有るを知る」ことが第一であろう。それは、自己において思想的対決や格闘の結果得られるものだ。「内に不躾の解を懐き」には、その意味が大前提としてあるといえよう。それによって、自己から他者への「不躾の解」の拡大がある。
 原始仏典には、次のような言葉がある。

「あらゆる方向を心が探し求めてみたものの、どこにも自分よりももっと愛しいものを見出すことは決してなかった。このように、他の人にとっても、自己はそれぞれ愛しいものである。だから、自己を愛するものは他の人を害してはならないのである」(『サンユッタ・ニカーヤー』75頁)

 ここにも自己から他者へと拡大する同じ論理構造が見られる。自己を愛しいもの(不軽)と思うが故に、他人のことを愛しいもの(不軽)と見ることができるわけである。ここでは素朴な表現がなされているが、ヴァスバンドウや、智顎ば、同様のことを「仏性」という概念を用いて表現した。

 日蓮の『一生成仏抄』の次の一節からも同様の意味を読み取ることができる。

「一心を妙と知りぬれば、亦転じて余心をも妙法と知る処を妙経とは云うなり」(『昭和定本日蓮聖人遺文』44頁、『日蓮大聖人御書全集』384頁)

 「一心」とは、自己の心のことである。自己の心が、妙法(最高の真理)に則ったものであることを知った時、それはまた翻って「余心」、すなわち他者の心も妙法にかなったものであると知る(信ずる)ことができる。そして、他者にもその事実を知らせようとして言葉によって語りかける。そのようにして語られた言葉を「妙経」と言っている。

 『法華経』の理想とする菩薩の一人は常不軽菩薩だが、その常不軽菩薩に最も注目していたのは、日蓮であった。それは、中国の敦煌研究者の方廣錯氏(世界宗教研究所副教授)や、中国大陸の仏教遺跡をつぶさに調査された東大名誉教授の鎌田茂雄博士(1927〜2001)も認めておられたことである(中公新書『仏教、本当の教え』217頁参照)。その日蓮は、この常不軽菩種を通して人の振る舞いの大切さを読み取っていた。

「一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(『昭和定本日蓮聖人遺文』1397頁、『日蓮大聖人御書全集』1174頁)

 その観点から、常不軽菩薩が礼拝の行を貫いた理由を、日蓮は次のように意義づけている。

「過去の不軽菩薩は、一切衆生に仏性あり、法華経を持たば必ず成仏すべし。彼れを軽んじては仏を軽んずるになるべしとて、礼拝の行をば立てさせ給いしなり。法華経を持たざる者をさへ若し持ちやせんずらん。仏性ありとて、かくの如く礼拝し給う」(『昭和定本日蓮聖人遺文』2166頁、『日蓮大聖人御書全集』1382頁)

 何をもって人間を尊しとするのか。ここでは「すべての人に仏性がある。その人を軽んじることは仏を軽んじることになる」という意味で、人間を最大限に尊重するというのだ。

 その「礼拝行」についての日蓮の言葉とされる「自他不二の礼拝」は、次の通りである。

「不軽菩薩の四衆を礼拝すれば、上慢の四衆所具の仏性又不軽菩薩を礼拝するなり。鏡に向って礼拝を成す時、浮かべる影、又我を礼拝するなり」(『昭和定本日蓮聖人遺文』2684頁、『日蓮大聖人御書全集』769頁)

 他者の仏性を社拝することは、翻って相手から自らの仏性が敬われ、礼拝されることになるというのである。逆に他者を軽んじることは、他者の仏性を軽んじることであり、翻ってそれは自己の仏性をも軽んじていることを意味している。ここには、いわゆる、「自他不二」「自他平等」(paratma-samata)という考えが貫かれている。

 自他の融合ということは、大乗仏教で特に強調された実践倫理であった。それを徹底して説いた人として、7世紀ごろのシヤーンティデーヴァ(寂天)を挙げることができる。彼は、「他者を自己のうちに転回させること」(parayma-parivartana)を目指せと言った。そして、次のように徹底した利他主義を強調していた。

「わたしは身体で読もう。ことぱを読むことになんの意義があろうか。治療法を読むだけならぱ、病人にとってなんの役に立とうか」(『ボーディチャリヤーヴァタ上フ』第109偈=中村元訳)

 釈尊自身も、人を尊重する姿勢に徹していた。それは、病気になった弟子たちに対する釈尊の態度からもうかがうことができる。釈尊の生涯で最も長く滞在したサーヴァッティー(舎衛城)の祇園精舎で、病気になって誰からも見捨てられ、大小便に埋もれて臥していた弟子を、釈尊自らが看護したという話も伝えられている。玄奘三蔵は、それを『大唐西域記』巻6に次のように伝えている。

「給孤独園の東北に卒塔婆がある。如来が病気のぴくしゅ〔の体〕を洗われた処である。昔、如来が在世された時、病気のぴくしゅが苦しみながら唯一人住んでいた。世尊が目にされて、『汝はどうして苦しんでいるのか。汝はどうして一人で居るのか』と問われると、『私は生まれっき怠けもので、〔他人を〕看病するに耐えられませんでした。それで今、病気にかかっても看病してくれる人がありません』と答えた。如来はこの時、哀れに思われて、『善男子よ。私が今、汝を看よう』と告げられ、手で摩ると病苦はすっかり癒えた。戸外に手助けして連れ出し、敷布団を取り替え、如来が親ら体を洗ってやり、新しい衣に着替えさせた。仏はぴくしゅに、『自ら勤め励みなさい』と話された。この教えを聞き恩に感じ、心も身も喜びにあふれた」(水谷真成訳『大唐西域記2』251〜252頁)

 この話の原形は、原始仏典のパーリ文律蔵にも見られる。ある弟子が胃腸の病を患い、仲間から見捨てられたまま大小便の中に埋もれて臥していた。釈尊は水を持ってこさせて、この人を入浴させ身体を洗ってやった。そして、次のように語ったという。

「男性出家者たちよ、私に仕えようと思う者は、病いの人を看護せよ」(『マハーヴァッガー』302頁)

サーヴァツティーでは、「身体が腐臭にまみれたティッサ長老」を釈尊が看病し、身の回りの世話をしてやったが、間もなく息を引き取ったともある(『ダンマ・パダ・アッタカターT』319頁)。

『増一阿含経』巻40には、次のような言葉も見られる。

「設い我れおよび過去の諸仏に供養することあらんとも、我れに施すことの福徳と、病〔人〕を瞻る(看護する)とは、異なることなし」(『大正新脩大蔵経』巻2、767頁中)

 これらの言葉に一貫しているのは、「病人を看護することは、ブッダに奉仕することと同じ」ということだ。さらには、「一切衆生悉有仏性」に通ずる釈尊の眼差しも読み取れる。

 

 

 

不軽菩薩に見る寛容の思想

 誠意というものは、相手に押し付けるものではない。なかなか理解されないことも多い。その誠意が理解されるかどうかは相手の問題である。人間関係においてば、誤解され、すれ違ったりすることは、日常茶飯のことである。そこにおいて大切なことは、誠意をどこまでも貫くということであろう。それが理解されるまでには、時間がかかるかもしれない。しかし、いつかは通じる。仏法の実践も同じであ
る。そこにおいて我々が持ち合わせなければならないのが、サダーパリブータ菩種の立脚していた「忍辱地」(いかなる悪口・罵詈や辱めにも耐える境地)であり、それを支えるのが「慈悲」であり、さらに毀誉褒貶にも囚われず、執着しない「空」であろう。それが、法師品に説かれた「衣座室の三軌」であった。

 サダーパリブータ菩種の実践は、まさにその「衣座室の三軌」に根ざしていた。その振る舞いの根底には、「一切衆生に仏性あり」という人間観(不軽の解)があったのだ。

 サダーパリブータ菩薩の実践はついには勝利し、サダーパリブータ菩種を初めのうちは悪口・罵詈していた増上慢の四衆たちも、後には信伏随従してサダーパリブータ菩薩を仰き尊ぶようになった。それは忍辱地に立った菩種の振る舞いの勝利の姿を示している。

 人生にあって誹謗中傷はつきものだが、原始仏典の『ウダーナ・ヴァルガ』には、

「愚かな人は、粗暴な言葉を語りながら、〔自分が〕うち勝っていることを考える。〔けれども〕勝利というものは常に、誇りを堪え忍ぶところのその人のものなのだ」(『ウダーナ・ヴァルガ』273頁)

と、「忍」を強調している。仏典においては、「忍辱」(ksanti)という熟語でよく登場する。さまざまな侮辱、迫害等を堪え忍び、怨みを報じないことである。

 不軽菩種の実践には、だれ人も軽んじない人間尊重の精神と、罵られ、危害を加えられても決して感情的になることのない寛容の精神に貫かれている。この寛容の思想は、原始仏典『ダンマ・パダ』の次の一節とも共通している。

「実に、この世において諸の怨みは、怨みによって決して静まることはない。けれども、〔諸の怨みは〕怨みのないことによって静まるのである。これは永遠の真理である」(『ダンマ/パダ』2頁)

 大乗仏教になると、「忍辱」は菩薩の実践徳目である六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六つの完成)の一つに数えられた。忍難を強調した勧持品第十三(第12章)の第13、14偈には次のような言葉がある。

「恐ろしい激動の劫(濁劫)において、激しく大きな恐怖の中で、ヤクシャ(夜叉)の姿をした多くの男性出家者たちが私たちを罵る〔としても〕、世間の王〔であるブッダ〕に対する尊敬の念によって、私たちは極めてなしがたいごとに耐え、忍耐という腹帯(忍辱鎧)を身に着けて、この世でこの経を説き示しましょう」(植本訳『法華経』下巻、119頁)

「濁劫悪世の中には、多く諸の恐怖有らん。悪鬼、其の身に入りて、我を罵詈毀辱せん。我等、仏を敬信して、当に忍辱の鎧を著るべし。是の経を説かんが為の故に此の諸の難事を忍ばん」(同、118頁)

 法師品には「偉大なる忍耐に対する喜び」(柔和忍辱心)といった言葉も見られた。「忍辱」とは、消極的になって泣き寝入りすることではなく、サダーパリブータ菩種の振る舞いのように積極的・主体的な「忍」であることを忘れてはならない。このような「忍」の思想を実践したのが、インド独立の父、マハトマ・ガンディー(1869〜1948)の非暴力主義であったし、その影響を受けたのが、アメリカの黒人解放指導者、マルチン・ルーサー・キング・ジュニア(1929〜1968)であった。また、反アパルトヘイト運動により反逆罪として逮捕され27年間にわたって刑務所に収容されながらも、釈放後、 南アフリカをアパルトヘイト撤廃へと導いたネルソン・マンデラ氏(1918〜)もしかりである。わが 国では、日蓮が自らを不軽菩種になぞらえて「法華経の行者」だと称していたし、宮沢賢治(1896〜1933)の「雨ニモマケズ」の詩は、この不軽菩薩をイメージして作られたと言われる(中公新書『仏教、本当の教え』218頁参照)。

 積極的・主体的な「忍」の具体的な姿を『法華経』に見てみよう。勧持品の第21偶(植木訳『法華経』下巻、118頁)は、その点で面白い内容を秘めている。その原文と現代語訳は次のとおりである。

 

ye casman kutsayigyanti tasmin kalasmi durmati /

 ime buddha bhavisyanti ksamisyamatha sarvasah //12//

 

「また、その愚かな〔男性出家〕者たちは、その〔恐るべき後の〕時代において、『こいつらは、ブッダになるんだってよ』(ime buddha bhavisyanti)と〔皮肉を言って〕私たちを誹謗するでありましよう。〔けれども〕私たちは、あらゆる点で堪え忍びましよう」

これを、鳩摩羅什訳は、次のように漢訳した。

「斯れの軽んじて、『汝等は、皆、是れ仏なり』と言う所と為らん。此くの如き軽慢の言を、皆、当に忍んで之を受くべし」(同、118頁)

 この訳は、誹謗に対して堪え忍ぶ決意を語っているだけである。ところが、この偈は掛詞になっていて、もう一つの意味が秘められている。この偈の一行目を開係代名詞yeに導かれた関係節、その相関詞を2行日の目のime(これらは)と考えると、次の訳も可能である。

「また,その〔恐るべき後の〕時代において、〔皮肉を言って〕私たちを誹謗するであろうところのその愚かな〔男性出家〕者たち、これら〔の愚かな男性出家者たち〕もまたブッダになるのだ(ime buddha bhavisyanti)。〔だから〕私たちは、あらゆる点で堪え忍びましう」

 第12偈は、上記の二つの意味の”掛詞”になっている。従って、筆者は両方の意味を生かして次のように現代語訳しておいた。

「また、その愚かな〔男性出家〕者たちは、その〔恐るべき後の〕時代において、『こいつらは、ブッダになるんだってよ』(ime buddha bhavisyanti)と〔皮肉を言って〕私たちを誹謗するでありましよう。〔けれども、これらの愚かな男性出家者たちもまたブッダになる(ime buddha bhavisyanti)のであり、〕私たちは、あらゆる点で堪え忍びましよう」(同、119頁)

 これは、誹謗を堪え忍ぶという決意表明にとどまらず、その誹謗を堪え忍ぶ理由として、誹謗する出家者たちもブッダになる可能性をえていることを掛詞として表明したものだ。このこと自体が、ヴァスバンドウの主張した「仏性」に相当しているし、「これら〔の愚かな男性出家者たち〕もまたブッダになる」ということは、智顎の言う「不軽の解」に対応していて、それが堪え忍ぶ原動力になっていることが分かる。『法華経』信奉者たちに対する「こいつらは、仏になるんだってよ」という皮肉を込めた言葉を言われても卑屈になることなく、それを掛詞として読み替え、皮肉を言う「これら〔の愚かな出家者たち〕もまたブッダになるのだ」と相手を容認する寛容さを示している。

 常不軽品にも類似のことが見られる。四衆たちは、「この菩薩は、馬鹿の一つ覚えのように、だれに会っても『あなたがたを軽んじません』と常に告げるしか能のないやつだ」と言わんばかりに、皮肉と軽蔑を込めてサダーパリブータというあだ名をつけた。しかし、『法華経』編纂者ば、それを「常に軽んじないと主張してヽ常に軽んじていると思われ,その結果、常に軽んじられることになるが、最終的には常に軽んじられないものとなる菩薩」という掛詞として名誉ある名前に意味を転じた。皮肉と軽蔑が込められた言葉を、その菩種の行状をすべて表現した掛詞として意味を読み替えてしまった。ただ単に誹謗され、皮肉を言われるだけで終わらないたくましさが読み取れる。この菩薩は、皮肉と軽蔑を込めてサダーパリブータと呼ぱれることを誇りを持って受け止めたに違いない。何ものにも囚われない「空」という座に坐していたが故に、些細な皮肉や嫌がらせにも囚われなかったのであろう。

 冷ややかな皮肉や、軽蔑の態度に対するこうした寛大な態度は、釈尊自身にも見られることであった。特に釈尊の最初の説法(初転法輪)の相手となった5人の比丘たちは、全く聞く耳を持たない人たちであった。彼らは、かつて釈尊と一緒に修行していたが、釈尊が苦行を放棄して前正覚山を下り、ネーランジヤラー川(尼連禅河)で身を清め、乳粥を食べたのを見て、釈尊を「堕落したもの」と批判した。そして、釈尊を見限って、遠くベナレス郊外の鹿野苑へと立ち去っていた。成道後、釈尊がブッダガヤーからベナレスの鹿野苑まで、5人を訪ねてはるばる200キロメートル余を歩いてやってきたのに、彼らは「ゴータマがやって来るぞ。だれも口をきくな」と示し合わせ、釈尊を冷ややかに迎えたのである。ところが、釈尊の高貴な姿に心を打たれ、釈尊の教えを聞いた。そして、釈尊に続き、最初に覚ったのが、その5人の比丘たちであった。仏教の基本思想として、忍辱と寛容の精神も忘れてはならない。

 

 

 

法華経の思想内容までは読み取れなかった富永仲基

 これまで、第3章で平等思想、第4章で止楊の論理、第5章で譬喩の文学性と、人間信頼と尽きせぬ慈愛、第6章で在家と出家、男性と女性の差別の解消、第7章で女性の地位回復、本章で寛容の思想と、セクト主義を超越する思想を見てきた。これらは、第2章で検討した白蓮華によって譬えられる『法華経』の最も勝れている点のあらましだといえよう。

 ところが、18世紀に「大乗非仏説論」を唱えた富永仲基(1715〜1746)は、『出定後語』雑第25で、「法華経一部、終始、仏を讃するの言にして、全く経説の実無く、固より経と名づく可き者無し」「法華経一部、只讃言のみ」と言った。『法華経』は、最初から最後まで仏をほめてばかりで、教理の内実が説かれておらず、経典と呼べるものが何もないといった意味であろう。平田篤胤(1776〜1843)富永仲基に便乗し、この『出定後語』をもじって『出定笑語』を著わし、「実に法華経一部8巻28品、みな能書ばかりでかんじんの丸薬がありやせんもの、もし腹の立つ人があらば、其丸薬を出して見せろと云つもりでござる」と嘲り笑った。

 拙著『仏教、本当の教え』(164〜166頁)で述べたように、富永仲基は仏典を読み比べて、大乗非仏説を唱え、最初の経典は素朴なものであったが、後世に書き加えられ、増広されていったとする独創的な文献学的研究をなした。その富永仲基も、『法華経』の思想的内容にまでは理解が及ばなかったようだ。

 現代においても、中央公論社版『法華経1』が、『法華経』を「信仰の文学」と規定し、「哲学的なのでもなく……」(298頁)と評しているのは、改めるべきであろう。

 

 

 

(1) ケルン・南条本(p381、l11)では、sadaparibhutahsamantatoとなっているが、荻原・土田本(p322,l23)に従ってsadaparibhuta-samatoを採用した。ただし、荻原・土田本ではこのsadaparibhutaの語頭が大文字になっていて固有名詞扱いされている。これは、掛詞として菩薩の名前の意味も含んでいるが、むしろ述語としての過去受動分詞の意味の方が強いので筆者は小文字に改めた。サンスクリット語を表記するデーヴァナーガリー文字には、大文字、小文字の区別はないが、ローマナイスする際には固有名詞であることを強調するために単語の冒頭を大文字で書くことがよく行なわれている。

 

(2)

 

(3) この一節と類似した言葉を、アウシュビッツ収容所に収容された体験を持つ精神科医ヴィクトール・E・フランクル(1905〜1997)が、残している。

それは、次の言葉である。

「いま必要なのは、悪の連鎖を断ち切ることでしょう。あることにそれと同じもので報いること、悪に報いるに悪をもってすることではなく、いまある一回限りの機会を生かして悪を克服することです。悪の克服はまさに、悪を続けないこと、悪を繰り返さないことによって、つまり『目には目を、歯には歯を』という態度に執着しないことによってなされるのです」(山田邦男訳『意味への意志』春秋社、2002年)

筆者は、この一節を見て、釈尊の思想と煮ていることに驚き、翻訳者の山田邦男大阪府立大学教授(当時)に、フランクルが仏典を読んだことがあるのか確認した。

山田教授は、その類似に感動されながらも、「ありません」と答えられた。

深い人類愛に目覚めた人は、洋の東西を問わず、同じ結論に達するものだとの思いを新たにした。

 

 

 

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