ミッションはシステム侵入。標的は、イラン、北朝鮮、ロシアの最高機密!

イギリスで天才的なハッキング能力をもつ18才の少年がみつかった。世界最高峰の機密性を誇るアメリカ国家安全保障局に侵入したその少年に、イギリス首相の安全保障問題担当顧問、サー・エイドリアン・ウェストンは、コードネーム「フォックス」を与える。

ミッションは、敵国のシステムにトロイの木馬のように侵入し、痕跡も残さず秘密工作を行なう「オペレーション・トロイ」。狙うのは核合意を結んでいながら密かに核兵器開発を継続するイラン、同じく米朝会談で非核化を約束しながら核ミサイルの開発を継続する北朝鮮、そして密かな企みを遂行するロシア――。

しかし、アメリカ司法省に埋め込んだ工作員からの情報で、いち早く天才ハッカーの存在を察知したロシアの諜報機関は、暗殺者を差し向け――。

サイバースペースで繰り広げられる戦いを、圧倒的なリアリティで描く、国際謀略サスペンス!

 


 

訳者あとがき

国際謀略小説の巨匠フレデリック・フォーサイスの最新作、『ザ・フックス』をお届けする。

 原著刊行は2018年9月。1938年8月生まれの著者はその時点で80歳だが、いっこうに枯れることなく、今まさに緊迫の度を強めつつあるように見える危機的な国際情勢と生々しく切り結び、それを面白さ抜群のストーリーに乗せるという、純正フォーサイス印のエンターテイメント作品に仕上がっているところはみごとと言うほかない。

ある日、アメリカ合衆国の国家安全保障局(NSA)のコンピューターが何者かにハッキングされ、システムに大きな損傷を受ける。NSAと言えは世界最強国家の電子情報収集活動の牙城であり、セキュリティーは鉄壁の守りという言葉でも足りないくらいに厳重きわまりない。それをまんまと破ってしまったのは何者なのか? 頭がよくて人を騙すのが得意な狐を思わせるというので”フォックス”と呼ばれるようになる謎の凄腕ハッカー。その正体は、なんとイギリスに住む18歳の引きこもりの若者、ルーク・ジェニングズだった。

 ルークはイギリス当局に逮捕される。アメリカは重大な犯罪を犯した若者の身柄引き渡しをイギリス政府に要求する。だが、ルークは自閉症の一種であるアスペルガー症候群を患っており、家族と引き離されて外国の刑務所に入れられると、深刻な精神的ダメージを受けるに違いない。

この事態を受けて、イギリス首相の私的顧問を務めるサー・エイドリアンー・ウェストンが一計を案じた。アメリカに身柄引き渡しを免除してもらい、ルークをイギリス政府で雇って極秘のサイバー戦に従事させる。そして得られた成果をアメリカにも提供する。これならアメリカの、名は示されないが明らかにあの”アメリカーファースト”の人物とおぼしき大統領も文句を言わないだろう。

 こうして一大プロジェクト、〈トロイ作戦〉が始動する。ハッキングによるサイバー戦は一種の騙し討ちであるから、西洋世界最古の有名な欺瞞作戦に使われた。トロイの木馬”にあやかった作戦名がつけられたのだ。

 著者インタビューによれば、アスペルガー症候群の若い天才ハツカーという人物設定は、実在の人物をもとにしているという。ラウリ・ラヴというのがその人物だ。

 2013年1月、アメリカの連邦刑事事件の量刑基準を定める機関、合衆国量刑委員会のウェブサイトに突然、ハツキング事犯への刑の過酷さを批判する動画が現われ、それと同時に、米軍やミサイル防衛局やNASAのデータペースから盗み出された機密情報が、暗号化された形でではあるが公開されるという事件が起きた。犯人は国際的ハツカー集団アノ二マスに参加している1グループで、事件の数日前に、ネットの自由を確保することで社会正義を実現しようとした活動家アーロン・スワーツが、重すぎる刑を受ける可能性があることから自殺したことに対しての抗議のハッキングだった。

 この犯行グループの首謀者が、電子工学専攻の学生ラウリ・ラヴ(当時28歳)で、イギリス当局に逮捕されたが、まもなく不起訴となった。しかしアメリカ側は数千件のシステム侵入の罪でラヴを起訴する決定をし、イギリスに身柄の引き渡しを要求した。

 こうして引き渡しの可否を判断する審問がロンドンの裁判所で開かれたが、そこでケンブリッジ大学の心理学者サイモン・バロン・コーエン教授が証言をし、ラヴはアスペルガー症候群で、引き渡せば自殺のおそれがあるから、人権保護の観点から引き渡しはすべきではないと主張した(このサイモン・バロン・コーエン教授は本書に実名で登場している)。

 結局、アスペルガー症候群という事情と、アメリカにおけるハツキング事犯の刑罰があまりにも重すぎることを理由に、2018年2月、引き渡し不許可の決定がなされた。イギリスでは、2002年にアメリカの政府機関のコンピューターに侵入する事件を起こしたハツカー、キャリー・マッキノンについても、2012年にアスペルガー症候群を理由として身柄引き渡しを拒否している。

 さて本書でこの天才ハツカーという”秘密兵器”を運用するのが、今は表向き引退して悠々自適の老後を送っている元イギリス秘密情報部員、サー・エイドリアン・ウェストンだ。冷戦時代に培ったスパイ・マスターとしての豊富な経験を生かして、いくつかの秘密工作をしかけていく。前作の『キル・リスト』や前々作の『コブラ』は、仮にアメリカ大統領の強力な権限がバックにあったら、自分なら麻薬問題やイスラム過激思想に染まったホームグロウン・デロリズムにこんな手を打つだろう、という具合に、フォーサイスがシミュレーションをする小説の一面があったが、本書もそれにあてはまる。

 ウェストンについて強調されるのは、”欺瞞作戦”に長けているという点――となると、思い出すのは、”最後のスパイ小説”四部作(『騙し屋』『売国奴の持参金』『戦争の犠牲者』『カリブの失楽園』)の主役、サム・マクレディだ。イギリス秘密情報部の叩き上げのスパイであるマクレディは、ソ連が解体した1991年に発表された第一作のタイトルが示すとおり”騙し屋”だが、同じ秘密情報部の後輩にあたるウェストンもまた”騙し屋”なのだ(マクレディの退職問題が持ちあがったのは1991年で、ウェストンが退職したのは2004年という設定だ)。

 欺瞞作戦はイギリスのお家芸、とまで言えるかどうかはわからないが、たとえばNicholas RankinのChurchill'Wizards(『チャーチルの魔術師たち』、2008年刊、未訳)という本を見ると、”イギリスが二度の世界大戦に勝利した真の理由の物語――この国は皇帝を欺き、ヒトラーを騙し、頭脳で腕力を出し抜いた”という惹句のもとに、いろいろな”騙し”の実例が紹介されている。

 『ザ・フォックス』でも言及される、偽の極秘書類を持たせた死体を海に流してナチス・ドイツに偽情報をつかませた”ミンスミート作戦”もその一つだが、ほかにもノルマンディー上陸作戦がらみでは俳優をイギリス軍総司令官モントゴメリー将軍の影武者に仕立てたコッパーヘッド作戦や、西アフリカで奇術師ジャスパー・マスケリンがその特殊技能を生かしてさまざまな奇術的カモフラージュ作戦を指揮した話も載っている。

 大事なのは――実際にどこまでそう言えるかはともかくとして――イギリス人は、自分たちの戦いのやり方は”頭脳で腕力を出し抜く”ものだった、少なくともそうありたいと願ってきたということに誇りを持っている点だるう。フォーサイスも、本書のウェストンを通してそのように語っていると言っていい。あえて単純化すれば、ドイツ帝国やナチスやソ連は兵器の物理的破壊力や殺人や拷問というハードキルで攻めたのに対して、イギリスは諜報戦や欺瞞作戦というソフトキルで対抗したという自負だ。たとえ幻想であるにせよ、そういうものがなければ、少なくとも痛快かつ感動的な冒険小説は成立しないだろう。フォーサイスの小説は冒険小説ではなく国際謀略小説と呼ばれてきたが、それでも仁義なき謀略のさまをリアルに活写してきただけではなく、

やはり冒険とロマンの要素を秘めていると感じられるのは、こうした理想主義的な価値観が底にあるからだろう。とまあ、そんな大層なごたくを並べなくても、殺伐たる殺し合いより、虚々実々の騙し合いのほうが話として面白いのだ。

 余談めくが、フォーサイス自身もなかなかの”騙し屋”だということが、自伝『アウトサイダー 陰謀の中の人生』を読むとわかる。全寮制の学校にいたこる、学校が許可してくれない飛行機の操縦訓練をひそかに受けるべく、クロスカントリー走の練習をすると偽って外に出、とある場所に隠した飛行服に着替え、スクーターに乗って飛行クラブに通ったというのだ。またイギリス秘密情報部から依頼を受けて共産圏で秘密ミッションをこなした話などもそうで、同書は小説のように面自い。もっと言えは、小説家もまた”騙し屋”稼業の一つかもしれない。ということで、”騙し屋”というのはフォーサイスにとって非常に重要な要素で、ウェストンは彼の分身的な存在と言えるだろう。

 しかし一方、ルークのほうもまた作者の価値観を体現しているのではないだろうか。フォーサイスはあるインタビューで、あなたはなぜ書くのかと訊かれて、自分は世界に向けてメッセージを発したいとか、名声を得たいとか思っているのではなく、とにかく机に向かって何かを書かないと一日を過ごした気がしないというoddityを持っているのだと答えている。oddityというのは、"奇癖”や"特異な性格・のことで、違う文脈では。奇人・や。変人”という意味にもなる。コンピューターおたくというのも奇人変人の一種、と言うと語弊があるかもしれないので、"特異な性格”の持主と言ったほうがいいかもしれないが、ともかくフォーサイスはルークに共感を持っているように、わたしには感じられるのだ。

 いちおう付け加えておくと、フォーサイスはパソコンを持たないアナログ人間を自認していて、この小説もサイバー戦の詳細を描くものにはなっていない。だから表面上、引きこもりの天才ハッカーとの共通点はないように見えるが、執筆マニアという点ではフォーサイスもまた”おたく”なのだ。あるいは自伝のタイトルを借りて、ルークとフォーサイスを”アウトサイダー”と呼んでもいい。

 イギリス人は特殊な興味を徹底的に追求する”変人”を愛するという側面を持っている。これまたほかの国民と比べてどの程度そう言えるかは問題であるにせよ、そういう面を誇りにしているところがある。

 前述の『チャーチルの魔術師たち』は、チャーチルが数々の欺瞞作戦の推進者になったとしているが、そういう点も含めて、彼は平均的な軍人・政治家の像からはみ出た”変人”だと思われていた。また同書には敵の意表をつくゲリラ戦で知られたT・E・ロレンス(アラビアのロレンス)の話も出てくるが、彼も周囲から見れははみ出し者の”変人”だった。チャーチルはロレンスに深く敬意を覚えていた。そしてチャーチルとロレンスは、ともにフォーサイスが尊敬してやまない人物であり、本書にもさりげなく名前が出てくる(フォーサイスには。アラビアのロレンス・コンブレックス”というような心情があったのではないかということは、自伝『アウトサイダー』の訳者あとがきに書いた)。

 イギリスは”変人”を大事にする。”個人”を大事にする。ウェストンたちは温かい思いやりをもってルークと接する。戦力として”利用”するのには違いないが、それが同時にルークの幸福につながるよう配慮する。同じく優れた技能を持っていても、ロシアの狙撃手ミーシャなどはただの使い捨てで気の毒である……ということを、フォーサイスは描きたいのだ。

 何やらイギリス贔屓めいたことを書いたが、これはあくまで著者フォーサイスの考えを推測しただけ卜などと断わりを入れる必要もないだろう。そういう側面も本当にあるからだ。たとえばイギリス帝国主義は悪辣なアヘン戦争で清から香港をもぎとったが、その香港が今、自由民主主義を守る戦いの砦の一つになっている。

 さて、ネットを見ると、”ジャッカル”で始まった文業が”フォックス”で完結した、とうまいことを書いている人がいるが、完結を言うのは気が早すぎるかもしれない。例のoddityがなおも彼を衝き動かして、新作を準備中なのではないか。世界情勢は依然としてきな臭く、フォーサイスに取り上げられるのを待っているように思えるのだが、どうだろう。

 

 

2020年2月

 黒原敏行

 

 

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